No.211186

彩先輩 後編

今月は某小説大賞募集の締め切りが迫っており新規に書いている余裕がないので
未発表作品やpixivからの転載作品、また過去の小説大賞で清清しく落選した作品などを
あげていきたいと思います。

今回は、オリジナルサスペンスホラーもどきの後編です。

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2011-04-11 12:56:59 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:1294   閲覧ユーザー数:1114

彩先輩 後編

 

前編 あらすじ

 

 大学生佐藤翔太は憧れの先輩である佐々木彩に送られた奇妙な招待状により写真同好会の合宿に参加していた。翔太は緊張が高ぶると一時的に目が見えなくなる症状があり、父で医者である佐藤勝一をやっと説得しての参加だった。

 翔太は招待状の指示通りに駅に着いたが、迎えに来た部長鈴木健太、彩目当ての高橋拓也、拓也目当ての牧原美穂からは一日遅刻の参加と言われてしまい首を傾げる。

 一行は車に乗って外部との連絡手段がない山中にあるペンションへと向かう。翔太は道中に部長から彩の両親がこの付近で事故により死亡したことを聞かされる。そして部長は父親の会社がこの道を作ったので自分が恨まれているかもしれないと語る。その彩は合宿にまだ姿を見せていなかった。

 ペンションに着いて楽しく騒いでいた一行だったが、宴会の後に翔太が目を覚ますと部長の姿がなくなっていた。拓也が駅まで戻って部長と連絡を試み、美穂と翔太が留守番をすることに。陸の孤島と化したペンションでテレビを見ながら待っていた二人は、ニュースで拓也が自動車事故に遭ったことを知り愕然とするのだった。

 

 

*九*

 

「私の、私のせいで拓也先輩が事故に~ッ!」

 美穂ちゃんは事故の原因が自分にあると泣き叫ぶ。

「拓也の事故は美穂ちゃんのせいなんかじゃないよ。それに、もし拓也に駅まで向かわせたことに責任を感じているのなら、免許がなくて拓也に運転させた俺も同罪だ」

 美穂ちゃんだけが罪の意識を感じる必要はない。ところが美穂ちゃんは首を激しく横に振って俺の言葉を否定した。

「そうじゃなくてッ、私が車の中に置いてあるペットボトルの水の中にお酒を少量混ぜておいたんです。だからきっと拓也先輩はそれを飲んで事故を起こしたに違いないんですよ」

「水にお酒を混ぜた? 何でそんなことを?」

 美穂ちゃんの行動は俺には突拍子のないものに思えた。でも、彼女は彼女なりの計画を持って水にアルコールを混ぜていた。

「その、私は翔太先輩が駅まで運転していくと思ったから……」

 美穂ちゃんの説明によると、彼女は部長がいなくなったことで誰かが駅まで連絡を取りに行くことを予測していたらしい。そして俺が駅に行くものと思っていた。そうなれば美穂ちゃんは拓也と二人きりになる。そして俺の帰りが遅くなれば二人きりでいられる時間は長くなる。だから水に酒を混ぜて俺がそれを飲んで気分が悪くなれば帰りが遅くなるという算段だった。しかし俺が免許を持っていないことを知らなかった為に全てが水泡に帰したという訳だった。

 美穂ちゃんのしたことは飲酒運転の誘発なので冗談で済ますにはちょっと笑えない。しかし取り乱す美穂ちゃんを見ているとこれ以上責めるのは酷に思える。

「拓也はその酒入りの水を飲んでないかもしれないよ。ほらっ、あいつって、美穂ちゃんの策はよく回避するじゃん」

 風呂の時も拓也は美穂ちゃんの計略を見破ったのだし、水だって見破ったかもしれない。

「だけど、仮に飲んでいなかったとしても拓也先輩が事故に遭ったことには変わらないじゃないですか!」

 美穂ちゃんは自分を責めているが、彼女の不安の根源は拓也の事故そのものにある。そして拓也は……。

「ほらっ、ニュースではああ言っていたけどもう目を覚ましているかもしれないし」

「もう死んじゃっているかもしれないじゃないですかッ!」

 元気付けようとして失敗した。根拠のない言葉じゃ今の美穂ちゃんの気を持ち直させることはできそうにない。

 だったら、俺にできることは……

「俺が連絡を取りに行って拓也と部長がどうなっているのか確かめて来るよ」

 外に連絡を取りに行くしかなかった。

「だけど、駅まで車で二時間掛かるんですよ。どうやって連絡を取るんですか?」

 確かに美穂ちゃんの言う通りだった。

 元々部長がいない、拓也が事故に遭ったという現状では俺達は単に外部と連絡が取れないだけでなく駅に戻る足すらない。山道とはいえ車で二時間掛かる道のりを歩いて戻ればどれだけの時間が掛かるか分からない。

 だけど俺にはちょっとしたアイディアがあった。

「昨日部長が言っていただろ、ここから五キロほど奥に行った所の別荘はまだ使われているって。もしかしたらそこに電話があるかもしれない」

 五キロというのも結構な距離だが、車で二時間の道のりを思えば何でもない。電話も何も置いていない可能性は否定できないが悪くない賭けではないかと思う。

「部長と拓也のことは俺に任せて美穂ちゃんはここで待っていてね」

 最大限の見栄を張ってみた。

「……今夜は局所的な豪雨が予測されます。天気の移り変わりには十分ご注意下さい」

 暢気に天気予報を眺めている暇はない。日が暮れる前に動かなくては。

 

 美穂ちゃんには寝室へと移ってもらった。移動の表向きの理由は部長が何かの事件に巻き込まれた可能性を考慮して暴漢対策用に鍵の付いた部屋に移ってもらった。そして裏の理由は美穂ちゃんがリビングでニュースを見て拓也に関する悪い知らせに触れてしまうのを避ける為だった。もし、万が一、拓也が死んだなんてニュースを聞いたら美穂ちゃんはどうなってしまうか分からない。拓也や部長も心配だが美穂ちゃんも心配だった。

気落ちした美穂ちゃんは俺の言うことに素直に従って自分の寝室へと移動し、布団を頭から被ってくれた。

 落ち込んでいるのは気になるけれどこれなら自暴自棄になってという行動は取らないだろう。俺は少しだけ安心してペンションを出た。

昨日来た道とは逆に向かって走り出す。眼前には綺麗な自然が広がっていたが俺にそれを楽しむ余裕はなかった。ただひたすらに部長の話に出て来た別荘を目指して走った。

……すぐにバテて走るのはやめたが、早歩きで俺は目的地を探し続けた。

 

 

*十*

 

 一時間ほどが経過して俺はようやく視界の中に別荘らしき建物を捉えた。俺は気合を入れてラストスパートを掛ける。

 するとペンションの前に若い女性の後ろ姿を確認した。

「ラッキーッ!」

 俺はその偶然に今まで祈ったこともない神様に感謝した。

 人がいるのなら少なくとも移動手段はある筈。俺はすぐにその白いブラウスの女性に声を掛けようと思った。助けを請おうと思った。

 しかしその瞬間部長の言葉を思い出した。

 

 そこはどこぞの金持ちな医者か弁護士だかが年の若い愛人を連れ込むのに使っているらしい

 

 俺の脚は女性を目前にして止まった。しかも声を掛けるつもりだったのに反射的に木の後ろに隠れてしまった。

 隠れなければならない理由は何もないのに、女性に対して変な先入観が生じてしまい声を掛け辛くなってしまった。

 部長の話通りなら、女性は医者か弁護士だかの年の若い愛人ということになる。いや、愛人だから何がどうということではないのだけれども、どうにも躊躇いが生じてしまった。

 俺は余計な情報は一切排除してただ女性に助けを求めれば良い。それだけの筈なのになかなかそれが出来ない。

 どうしようかなと思っていると、女性は俺が隠れている方に向かってゆっくりと振り向いた。

「えっ?」

 俺はその人物の顔を見て目が飛び出るのではないかと思う位驚いた。

 だって、その女性はこの合宿の最中俺がずっと気にし続けていた佐々木彩先輩その人だったのだから。彩先輩を昨日見たという拓也の話は間違いではなかったのかもしれない。

「だけどちょっと待て。それじゃあ、彩先輩が年の若い愛人ってことかよ?」

 そして先ほどの話と彩先輩が重なる。もしもこの別荘が部長の言う通りに使われているのなら彩先輩が年の若い愛人ということになる。彩先輩が愛人なんて、そんな、馬鹿な……。

 頭の中がぐちゃぐちゃして来た。

 彩先輩は俺にとって憧れの人で誰とも付き合っているという話は聞いたことがなかったけど、まさか世間に許されぬ愛に落ちているなんて信じたくなかった。

 俺や拓也の勝手な想像の押し付けかもしれないけど、俺達は彩先輩に高貴で清純なイメージを投影していた。だからこの別荘に彩先輩がいるなんてことはあってはならないことだった。

 彩先輩と認識したのは俺のポンコツな目の錯覚じゃないかと思って、女性を更に詳しく観察することにした。しかし、見れば見るほど女性は彩先輩にしか見えなかった。髪形、顔、体格。どれをとっても俺の知っている彩先輩と一致した。

 そして俺は彩先輩を観察した結果として更なる異常に気付かざるを得なかった。

「何で彩先輩のブラウスが血だらけ何だよ?」

 彩先輩の長袖のブラウスは肩から下、両腕の部分にべっとりと血の跡が着いていた。その血の量は半端ではなくて、ちょっとした擦り傷程度ではなかった。人の生き死にを左右する位の大量の血に思えた。

 部長のタンクトップが思い浮かんだ。腹の部分が赤黒く染まったタンクトップが。そして昨日の 車中での部長の言葉が不意に思い浮かんだ。

 

 彩は俺や親父を恨んでいるのかもしれない

 

 急激に、怖い想像が膨れ上がった。

 まさか、彩先輩が部長を?

 俺はその根拠無根の妄想を慌てて振り払う。

 俺は何て罰当たりなことを考えているのだろうか?

 相手は憧れの先輩なんだぞ。

 だが、妄想を振り払った所でやけに煩くなった心臓の鼓動は少しもボリュームを下げてくれない。忌々しいほどに盛大な音楽祭を開いてくれる。

 だが、俺が更なる驚愕を味わうのはこれからだった。

「彩くん」

 そのあまりにも聞き慣れた声に俺は最初それが聞こえる意味を理解できなかった。

 だって毎日聞いている声が今日も聞こえる事にどんな価値を見出すって言うんだ?

 でもそれは今この場にあっては、あり得ない筈の事なのだと理解するのに俺は随分と時間を要した。

「勝一おじさま」

 彩先輩は声を発した人物を勝一と呼んだ。

 勝一とは俺の親父の名前で、俺が先ほど聞いた声はいつも聞かされている親父の声そのものだった。だから彩先輩に声を掛けた人物は俺の親父である可能性が高い。

 だけど親父がここにいるのはおかしい。親父は家にいる筈だ。

 それに俺は親父と彩先輩が知り合いだなんて話は聞いたことがない。

 そしてここは弁護士だか医者が年の若い愛人との逢引に使っている別荘の筈だ。確かに親父は医者で、彩先輩とは親子ほど年齢が離れている。条件はこれ以上ない位に一致している。だけど、親父と彩先輩の関係は……。そんな事がある筈ないと思いたかった。

 だが、そんな俺の幻想を打ち砕くようにしてそいつは現れた。

「親父……嘘だろ?」

 彩先輩の前に現れたのは俺が二十年間ずっと見て来た佐藤勝一その人だった。青いサマーセーターをべっとりと血で塗らした親父はゆっくりと彩先輩に近づいて行く。

 二人の仲を否定するには親父と彩先輩は部長の話とあまりにも条件が一致し過ぎていた。でも、それでもまだ心のどこかで信じたくないと思っていた。信じるには目の前の光景はあまりにも残酷過ぎた。

 そして現実は俺を嘲笑うかのように更なる過酷を突き付けて来た。

「勝一おじさま、私……」

 彩先輩は自分から親父の胸へと飛び込んだ。そして親父は彩先輩をしっかりと両腕で抱き締めた。

もうこれ以上見ていられなかった。俺は二人から目をそむけた。目も瞑った。それでも二人の会話は俺の耳に否応なしに入って来る。

「我々は考えられる最善手を打ったんだ」

「ですが……」

 二人の会話には目的語が抜け落ちており、何について話しているのかよくは分からない。けど、二人とも服を血に染めて一体何が最善だと言うんだ?

「我々に出来る事はあれしかなかった」

「だけどもっと私達にできることが……」

 だから、親父達は一体何をしたと言うんだ?

 俺はもっと二人の話の詳細を掴まえなければならない。

 けど、これ以上二人の会話を聞き続けるには俺の精神が持たなかった。

 俺は二人に気付かれないようにして別荘から離れた。

 

 

*十一*

 

 結局俺は二人を見ていられなくて、こっそりと、だが逃げるようにして元来た道を引き返していった。二人に話し掛ける事はできなかった。ただ二人に気付かれないようにして遠ざかってしまいたかった。

 午後七時、陽も西の空に没しかけた頃になって俺はペンションへと帰りついた。

 美穂ちゃんが気になった俺はすぐに中へと入った。リビングには誰もいなかった。テレビも点いていなかった。

 続いて美穂ちゃんの寝室に向かう。美穂ちゃんの部屋には鍵が掛かっていなかった。ノックしても返事がないので勝手に入らせてもらう。

 部屋の中には体育座りをして布団を頭から被っている美穂ちゃんの姿があった。美穂ちゃんは塞ぎ込んだままだった。

 美穂ちゃんは俺の存在に気付いている筈なのに何も話して来ない。だから俺から話し掛けて元気付けてあげなくてはと思った。だけど美穂ちゃんに話し掛けようとして思い出した。俺が出掛ける前に美穂ちゃんに言ったことを何一つ果たしていなかったことを。拓也の容態についても知らず、部長とも連絡が取れていない。おまけに彩先輩と親父の姿を見て話し掛けることさえせずに逃げ帰ってしまった。塞ぎ込んだ彼女に何と言ってあげれば良いのか分からない。

 拓也は元気だと言えば美穂ちゃんは元気になるかもしれない。しかしテレビのニュースはそれと反対の結果を流す可能性はある。そうなったら一度希望を持たせた分だけ美穂ちゃんはより大きな絶望を受けることになるだろう。安易な嘘は吐かない方が良い。となると……。

「連絡は取れなかったんだけど、彩先輩らしき人がいるのは見掛けたんだな……」

 我ながら支離滅裂な日本語だった。

 彩先輩がいるのなら何故連れて来ないのかとか当然の疑問が返って来そうな内容だった。ところが美穂ちゃんは俺の予測とは違う反応を寄越した。

「嘘ですよ。だって、この辺りに彩先輩が居る筈がないんですッ! 私、彩先輩に招待状を出してないんです。彩先輩に気付かれないように注意して今回の合宿企画を進めたんですよ?」

 美穂ちゃんは再び激しく取り乱し始めた。頭を抱えて激しく首を左右に振り続ける。

 でも、今の言葉は俺にとっても無視できるものじゃなかった。

「それじゃあ、今回の合宿の招待状を寄越したのは彩先輩じゃなくて美穂ちゃんなの?」

 美穂ちゃんは悪いことがバレた子供のように目を大きく見開いて、震えながら俺に向かってゆっくりと首を縦に振ってみせた。

 俺はイニシャルにA.Sとあるから招待状は彩先輩が出したものと思っていた。拓也も部長もそうだ。だけどそれ自体が誤解だった訳だ。

「何で、そんな事をしたの?」

 何となく予測はつくけど聞いてみる。

「拓也先輩ともっと親密になりたかったからです。でも、それには彩先輩が邪魔になるので呼びませんでした。でも彩先輩がいないと拓也先輩が来ないと思ったから彩先輩に見えるイニシャルで招待状を送りました」

 理由自体は予測通りのものだった。

 そして続いた説明によれば、美穂ちゃんは拓也と二人きりの時間を出来る限り増やすように色々と細工を施したとのことだった。その内の一つが俺の参加が一日遅れになるように昨日の日付の指定券を送ったことだった。部長が今日朝早くに帰ることも飲み会の最中に聞いて知っていたという。そして部長探索に俺が出向くように訴えかけ、ペットボトルの水の中に酒を混ぜたのは既に聞いたとおりだった。

 恋する乙女の力は凄いというか美穂ちゃんの個人的なパワーが桁違いというか。怒るのも呆れるのも通り越してしまった。

 それに合宿企画に細工を施したのは美穂ちゃんかもしれないけれど、昨日から今日に掛けて起きた一連のおかしな出来事の黒幕は彼女じゃない。

 美穂ちゃんは部長が帰るのは知っていたがシャツの事は知らないという。部長の失踪の謎はまだ残っている。

 そして美穂ちゃんは彩先輩に招待状を送っていない。それにも関わらず先輩は別荘にいた。しかも血の着いた服を着て俺の親父と抱き合っていた。これが一体何を意味するのか?

 情報を整理していこうとすると、どうしても今回の合宿には不自然な登場人物が一名浮かび上がる。それは俺の親父だった。だが逆に言えば親父の行動の謎を解いていけばこの一連の不可解が解けるんじゃないか。そんな気がする。

 親父は写真同好会の部外者であるが、写真同好会の人間関係から言えば部外者ではない。親父は俺の父親なのだし、それに多分彩先輩とは……。つまり親父を媒介にして様々な情報が彩先輩に届いている可能性が高い。俺は親父に合宿の許可を得た。だから親父は合宿の日程と大まかな行き先、それに拓也や部長が参加する事は知っている。それらの情報が親父から彩先輩に伝わった可能性は十分に考えられる。

 しかし何故二人が今日という日にここに現れたのか分からない。

秘密の逢引ならば俺達がいない時に来るのがセオリーだろう。では俺達がいる時を狙ってここを訪れたというのか?

 一体何の為に? 

 何故俺達の前に姿を現さない?

 何故二人の服は血で染まっていた?

 二人の行動には明白な意図がある筈なのにそれが何なのか俺には分からない。

「やっぱり、昨夜言ったみたいに彩先輩はこの世に絶望して私達を皆殺しする気なんじゃ!」

 美穂ちゃんは恐怖のあまり錯乱しかかっている。

 血の付いたシャツを残して部長が消え、拓也は事故に遭って安否が分からず、いる筈のない彩先輩がいると話されては気をしっかり保てという方が無茶というものだろう。俺だって美穂ちゃんが怖がっているから逆に落ち着いてしまっているが、多分一人だったら美穂ちゃんと似たような状況に陥っているに違いない。

 美穂ちゃんの皆殺しは荒唐無稽な想像に過ぎないとは思う。

 俺は何らかの事情で親父に狙われているということがあったとしても美穂ちゃんは多分無関係だ。だから皆殺しはない筈だ。これがとても消極的な否定に過ぎないのは分かっているが。

 いや、待てよ。昨夜の宴会の最中に俺が話した彩先輩の言動を考えると、独りだけ生き残るのは可哀想という理由で美穂ちゃんも狙われる可能性はある。すると美穂ちゃんの言っている皆殺しというのもあながち間違いではないかもしれない。

 しかしそもそも二人に俺を殺そうとする理由があるのか?

 それ以前に部長の失踪と拓也の事故に二人は関わっているのか?

 俺には全く真実が見えて来ない。だけど彩先輩と親父の行動の意図が読めない以上は注意を怠る訳にはいかない。

 そしてベッドの上で身を屈めて震えている美穂ちゃんだけは守らないといけないと思った。それが男として絶対にしなければならない仕事だと俺は自分に言い聞かせた。

「俺がいるから大丈夫だよ、美穂ちゃん」

 何の根拠もない言葉だけど、それは俺が美穂ちゃんに言わなければならない台詞だった。そして、自分に誓いを立てる言葉だった。

 

 

*十二*

 

 何が起きているのか全体像は見えないが、不気味で恐ろしい事態だけが起きていることだけは間違いなかった。

「歩いて麓の駅まで行きましょうよッ!」

 俺の袖を掴んで放さなくなった美穂ちゃんは山を降りることを提案した。しかしそれに対する俺の回答は首を横に振るものだった。

「車で二時間も掛かる山道を日も暮れた今になって行くのは危険だよ。それに天気も急激に悪くなって来ている」

 幾ら舗装されているとはいえ、電灯も存在しないような暗い山道を長時間移動するのは無理がある。それに空を見ると雲は先ほどから急激に厚くなり、今にも雨が降り出しそうだった。避難場所もない山道の途中で雨に降られれば二人とも肺炎、最悪……ということも考えられる。

「今夜はここに泊まって、天候を見ながら早朝にここを出よう」

 俺達に取れる選択肢は他にはない。

「ですけど……」

 美穂ちゃんの顔からは不安の色が少しも取れていない。

 それはそうだろう。俺だって翌朝の出発を提案しているがそれに不安を感じていない訳ではない。

 もし彩先輩と親父が何らかの理由で俺達を狙っているとするなら、俺達が明日早朝にここを発つ事は予測済みだろう。となれば、明日の朝を迎える前にアクションを起して来ると考えるのが妥当だ。美穂ちゃんもそれが分かっているから今出ることを提案したのだろう。しかし今出発すれば俺達は自滅するだけ。だったら俺達が今すべきことは一つ。

「だから、篭城戦の準備だけはしておこう」

 迎撃体勢を整えておくことだった。

 

 俺は美穂ちゃんを袖に引き連れながら、美穂ちゃんの寝室に食料や物資を集め始めた。とはいえ、生活臭のないこのペンションにそう便利なものは置いていなかった。俺達が持ち込んだ僅かな食料と水、そしてマッチとランプがある位だった。食料と水を鞄の中に詰め、朝になったらいつでも出発できる準備を整える。

 後は親父達が襲撃した時用の武器の確保だったが、こちらはもっと碌な物がなかった。ペンションの壁に立て掛けてあった角材が精々の武器だった。

「美穂ちゃん、念の為にこの角材を部屋に運んでおいてくれないかな? 俺は使えそうなものがないかもうちょっと探してみるよ」

「はい、分かりました。ですが、早く戻って来て下さいね」

 美穂ちゃんは角材二本を両手に抱えて部屋へと戻る。美穂ちゃんは随分と素直に言うことを聞いてくれるようになった。少しは俺も信用されるようになったということか。それとも単に反抗する気力もないだけかもしれないが。

 俺は武器になりそうなもう少し良いものがないか、ペンションの周辺を探し回った。結局武器になりそうなものは何も見つからなかったが、代わりにとんでもないものを視界に収めてしまった。

「彩……先輩……」

 美穂ちゃんの部屋に点く明かりしかない薄暗い視界の中、こちらに向かって歩いて来るのは彩先輩だった。今は緑色のワンピースに着替えていたが見間違いようがなかった。

 俺はまさか今この瞬間に彩先輩に出くわすとは全く考えていなかった。仮に襲撃があるならもっと夜中だと思っていた。

 俺は彩先輩に対してどう対処すれば良いのか分からないまま呆然と突っ立っていた。

 彩先輩は右によろけ左によろけながら一歩ずつ俺に近付いて来る。

 昨日から探し続けていた人が遂に俺の目の前に立った。

 俺の心臓は破裂するんじゃないかと思う位に高鳴った。

 そして俺の視界は一瞬にして真っ黒に染まった。

 見えていたものが突然見えなくなる体験、俺は今まで嫌というほど何度も味わって来た。俺の東京進学も一人暮らしも運転免許も駄目にして来た例の症状が起きたのだ。

 だが、幸いにしてと言うべきなのかは分からないが、俺の網膜は一瞬の後に像を取り戻した。俺の眼前には再び彩先輩の綺麗な顔が映り始めていた。

 彩先輩は顎を少しだけ上げて俺の顔を覗き込んで来る。その綺麗な瞳は俺が入学時から知っている彩先輩のものと少しも変わりがない。

「翔太くん達、やっぱりここに泊まっていたんだね」

 彩先輩の声は明るさを演出しようとしてそれができない、疲れと苦味に満ちたものに聞こえた。

「こんな所でぐ、偶然ですね。彩先輩……」

 我ながら間抜け過ぎる挨拶だった。こんな山奥で偶然も何もあったものじゃない。

 俺の間抜けを聞いて彩先輩は小さく笑って見せた。だが、その笑みには、その顔には少しの生気も感じられない。実際に先輩の顔色は悪かった。薄暗いのにも関わらず俺が認識してしまえるほどに血の気が引いていた。

 そして彩先輩は俺に向かって

「今夜、ここは危ないわよ……」

 その言葉だけを残して、その場に崩れ落ちた。

「彩、先輩?」

 俺の呼び掛けにも彩先輩は全く反応しない。

 呼吸音が聞こえるので死んだ訳ではなさそうだが完全に気を失っていた。

「何がどうなってんだよ?」

 俺の呟きに答える者はいない。

 彩先輩がここに現れた理由。そして倒れた理由。何が何だか一つも分からない。

 そして俺の頬を打つとても小さな弾丸。

「このタイミングで、雨かよ……」

 天の神様とやらは俺の逆境を嘲笑うかのようにしてこの混迷の瞬間に雨を降らせ始めた。雨足は強く降り始めて一分も経たない内に激しい雨が俺の顔を殴りつけて来た。

「訳、分からねえよッ!」

 訳は分からなかったが、気絶した彩先輩をこのままにしておく訳にもいかないので抱えてペンションに戻ることにした。

 

 

*十三*

 

 俺は当初彩先輩を美穂ちゃんの部屋に運ぼうとした。しかし恐怖に駆られた美穂ちゃんが彩先輩を怖がるので俺や拓也が使っている部屋に寝かせることにした。雨で濡れた髪と顔を拭いてからベッドに寝かせる。

 美穂ちゃんが怖がるので、彩先輩には悪いと思ったが室内から扉が開かないようにドアノブに細工をさせてもらった。これで彩先輩は目が覚めても俺達が開けない限りは部屋を出ることができない。

 彩先輩が出られないことを何度も念押しして美穂ちゃんはやっと少し安心してくれた。だけど俺は逆に今の事態の方が却って安心できないような気がした。

「彩先輩が今夜ここは危ないって言っていたんだけど、どういう意味だと思う?」

「そ、そんな事は私が分かる訳がありませんよ。驚かさないで下さいよッ!」

 美穂ちゃんが俺にしがみ付きながら抗議しているようだ。ようだ、というのは俺の視界が塞がれてしまっているので感触からそう判断している。

 彩先輩が現れて以降、俺の目は見えたり見えなかったりを繰り返している。しかも段々と見えない間隔が長くなって来ている。

 美穂ちゃんをこれ以上怖がらせても仕方がないので俺は目の話をしていない。そして隠していることがもう一つ。それは彩先輩が気絶前に言った危険の正体が親父かもしれないということだった。

 俺は美穂ちゃんに親父の事は何も言っていない。彩先輩と親父が一緒だったことも、二人の服が血にまみれていたことも。確実に言えることが何もないからだ。

 全てが杞憂であるならばそれは一向に構わない。だが、もし二人が連続するこの事件に関わっていたとするならば話は非常に厄介になる。

 仮に親父と彩先輩が何かの犯人だとすると、二人の事件上での関係が非常に気になる。俺は部長の話もあって親父と彩先輩が愛人関係なのではないかと考えている。そして二人は揃って血まみれの服を着ていたことから共犯なのではないかと考えている。だが、この共犯という構図が間違っていたとしたら?

 そう考えるようになったのは先ほどの彩先輩の行動がきっかけだった。彩先輩が俺達を襲おうとするのなら、単独で、しかも武器も持たずにやって来るのはおかしい。そして気絶する前に最後に言った言葉は俺達の身を案じてのものだった。

 勿論彩先輩のそれらの行動が全て演技である可能性はある。策略の為に俺達に接近して来た可能性は捨てられない。しかし彩先輩は平たく言えば俺達に囚われている状態であり、何を企んでいたのだとしてもそれは失敗だろう。そもそも彩先輩を単独で行動させるのは下策としかならないだろう。となるとやはり、彩先輩は自分の意思で俺達に危険を知らせに来たのではないかと考えるのが一番妥当ではないかと思われる。

 では何故、彩先輩はわざわざ一人で危険を知らせに来たのかという次の疑問が生まれる。推測の推測に過ぎないのだが、仲間割れが起きたのではないかと俺は予測している。理由は不明だが二人は反目しあい、彩先輩は親父の元を去って俺達に危機を知らせに来てくれたのではないかと思う。勿論、彩先輩を随分と好意的に解釈した欲目の結果という自覚はあるが。

 そして次に湧き出る疑問としては、何故彩先輩は俺達に危機を伝えなければならなかったのかという問題だ。彩先輩が親父と仲違いしたのなら俺達など無視して一人で去れば良い。それをしなかったのは何故か。つまり、彩先輩は俺達に危機が迫っていることを知っていたからではないか。彩先輩は親父が俺達に危機をもたらそうとしていることを知っていたからわざわざ俺達にそれを知らせに来たのではないか。

 親父が一連の出来事の黒幕ではないかと考えると、二人の行動はだいぶ説明がつき易くなる。しかし、親父の行動の動機が分からない。親父が俺をこんなペンションで狙うことにどんな得があるというのか。それが分からない以上、親父が黒幕だと断定はできない。だが、最も黒幕に近い人物である事は間違いない。

 だから俺は親父が襲撃を掛けて来る可能性を捨てられなかった。

 

 

*十四*

 

 時刻は午後九時を三十分回った。雨はますます激しくなり、風も激しく吹いて来て嵐の様相を呈して来た。

 美穂ちゃんはベッドの上で俺の袖を掴んだまま動かない。隣の部屋に寝かせている彩先輩は全く音を立てていないので起きている様子がない。先輩に話を聞くのは無理そうだった。

 そして俺の状態はというと、極度の緊張感から目が見えている時間と見えていない時間が半々ほどになっていた。一分一秒が長く息苦しく感じる。

 そんな中、天の神様は更なる逆境を俺達に与えてくれやがった。神様とやらはよほどサディスティックな奴らしい。

 雷がペンションの近くに落ちたと思ったら、いきなり停電の憂き目に遭った。

「きゃあ~ッ?」

 突如真っ暗になった室内に美穂ちゃんの悲鳴が木霊する。

「大丈夫だよ、心配することは何もないよ」

 言いながら動揺が声に出ていないか心配だった。

 停電は俺にとっても予想外の事態だった。

ペンションの電力供給システムがどうなっているのか調べておくのを失念していた。ブレーカーの位置も知らない。だが今からブレーカーを求めてあちこち動くのは襲撃の可能性を考えればとてもできない。

「ほらっ、ランプの火が点いたよ」

 だから俺は室内に準備していたランプに火を灯すことで対応した。

 真っ暗な室内に宿る一つの炎。それは高校時代の写真部の暗室での光景に似ていた。そして、それ以上に心の奥をざわめかせる何かの光景に似ていた。

 この合宿に来てから俺の心はざわめきを覚えることが多かった。それは恐怖とは違う、心の奥に封じ込めた何かを開封するような作業。

 ここへ来る途中の山道と森を見て俺の心はざわめいた。

 彩先輩のご両親の死を知って俺の心はざわめいた。

 拓也の自動車事故を知り、大破した車両の映像を見て俺の心はざわめいた。

 彩先輩と親父がここにいる事を知って俺の心はざわめいた。

 そして真っ暗な空間に燃える一つの炎を見て俺の心はざわめいた。

 この五つの事象は何の関連性もない筈なのに、俺の心の何かをこじ開けようとしていた。

 後一つ鍵が揃えば全てを思い出せるようなそんなもどかしくて気持ち悪い感覚が俺を締め付けていた。

 そして最後の鍵をもたらしたのは意外にも美穂ちゃんだった。

 美穂ちゃんはランプの中の炎を覗き込みながら誰にともなく呟いた。

「彩先輩のご両親が事故に遭われた時もこんな感じに見えたのかもしれませんね。一面真っ暗な中で車だけが真っ赤に燃え上がる風景……」

 真っ暗な中で車だけが真っ赤に燃え上がる風景。

 その言葉は俺にとって心の奥底に閉じ込めておいた記憶を開くキーワードとなった。

 十年前の記憶が、あの忌まわしい光景が一気に蘇って来た。

 真っ暗な山林の中で煌々と燃え上がる車。人の悲鳴と肉の焼ける音、そして血の臭い。俺は確かにその光景を目撃していた。そして幼い俺の隣には親父が立っていた。

 

 俺が思い出した光景はそれだけだ。

 前後の脈絡もないただ車が燃えるだけの光景。

 だけど、これまでの話を総合すれば俺が思い出した光景の意味を考える事は難しくなかった。

 俺が見た惨劇の光景は恐らく彩先輩のご両親の事故現場で間違いないだろう。俺は事故を目の当たりにして受けた衝撃が大き過ぎてその事故に関する記憶を一切封印してしまった。そしその後から緊張が高ぶったりストレスが溜まったりすると目が見えなく症状が出るようになった。医学的な説明は俺にはつかないが、多分事故の記憶と目の症状はきっと連関関係があるに違いない。

 そしてここでまた気になって来るのが親父の存在だ。俺の記憶に拠れば親父は事故現場で隣に立っていた。こんな山奥の夜中に当時十歳くらいのガキでしかない俺が一人でいる訳がないのだから親父と一緒なのはむしろ自然なことだろう。

 問題は親父が事故について一切言及したことがないということだ。これは何を意味するのか。最も考えられる理由としては俺が封じてしまった記憶を掘り起こしたくなかったということが挙げられるだろう。掘り起こしたくない理由は医学的なものかもしれないし、そうでないかもしれない。そして俺はここ二日ほどの親父の行動を見てそうでない方を強く推したいと思っている。即ち、親父は彩先輩のご両親の死に何らか絡んでいるのではないかと。いや、もっと言えば親父は彩先輩のご両親の死の原因なのではないかと。親父の何らかの過失によって、いや、もしかすると計画によって死に至ったのではないか。それを隠蔽する為には俺の記憶が封じ込められたままの方が都合が良かったのではないか?

 根拠のない憶測の積み重ねに過ぎないことは俺にだって分かっている。だけどこう考えるとこの二日間に起きた事に一貫性を持った説明がし易くなる。

 親父は今回の合宿先と参加メンバーから俺が事故について思い出すのではないかと考えた。それで親父は十年前の事故の隠蔽がばれるのを恐れ、部長を恨んでいる彩先輩を犯行に引き込んで再度隠蔽を図ることにした。

 部長がいつの段階で襲われたのかは分からないが、二人の服に付いた血の量から見てどこかで殺されてしまったのではないかと思う。

 彩先輩は部長に復讐を果たした所で気が済んだ、または怖くなったのかもしれないが、親父にとってそれは第一の事件に過ぎなかった。

 おそらく彩先輩のご両親を嵌めたのと同じ方法で拓也を事故に遭わせた。これは拓也がどうというよりも、俺がこのペンションから逃げられないようにする為の措置ではないかと思う。

 二人の人間が親父の餌食に掛かった所で彩先輩は親父に付いて行けなくなり、袂を分かった。だが親父にとって彩先輩はただの共犯者ではなく、自分の代わりに全ての事件の犯人になってもらう生贄だった。

 親父だって彩先輩がいなくなっているのは既に気付いているだろう。そしてあの別荘から向かって来られる場所といえばここしかないことに。そしてすぐに彩先輩を追って来ない理由を考えれば、親父は準備を整えてからここを襲撃するつもりに違いない。俺達三人を皆殺しにして彩先輩が無理心中を図ったように見せ掛ける為に。

 

 親父の謀略の意図が読み取れた瞬間、俺の視界は完全に黒に染まった。だが、そんなことは俺にとってもはやどうでも良かった。俺の心の中は親父に対する怒りで満ち満ちていた。

「美穂ちゃん、あいつは必ず襲って来るだろうから警戒は怠らないでね」

「あいつって誰なんですか?」

 美穂ちゃんの声には激しい動揺が見て取れた。彩先輩が怪しいと睨んでいる美穂ちゃんにとって更なる襲撃予告は驚きと恐怖の対象でしかないだろう。

「この一連の事件の黒幕」

 覚悟さえ決めれば長々と説明する必要はない。俺は親父に負けない。

「黒幕って……」

 美穂ちゃんの声には不安の色が満ち満ちている。顔の表情は見て取れないけれど、きっと泣きそうになっているに違いない。

「大丈夫、美穂ちゃん。君は俺が守ってみせるから」

 手元に置いてあった角材を握り締めることで美穂ちゃんと自分への誓いとする。

 親父にだけは絶対に負けられなかった。

 

 

*十五*

 

 視界がないので時刻を確かめることができないが、恐らくは俺の目が見えなくなってから三十分ほどが経過した。

 外の嵐は一向に止む気配を見せない。風は唸りをあげ続け、雨粒は激しくガラス窓を叩いている。五感から何とも情報を得難い状況。しかし俺は視界が利かなくなっているおかげで聴覚が鋭く反応を示すようになっていた。

 そして俺の耳は捉えた。一台の車がこのペンションに向かって入って来る音を。親父に、間違いない。

「来たか……」

 俺は角材を持ったままゆっくりと立ち上がる。

「翔太先輩……」

 美穂ちゃんが心配げな声で俺を呼ぶ。

「大丈夫だよ。俺が君を守るから。部屋に鍵を掛けてしばらく待っていてね」

 記憶を頼りにドアに向かってゆっくりと歩き出す。

「……無事に、帰って来て下さいよ」

 俺を心配する声が後ろから聞こえた。振り返ると方向感覚が鈍るので、空いている左手の親指を美穂ちゃんに向かって突き出してみせる。

「主人公ってのは、補正が付くから負けないんだよ」

 これが親父主役の完全犯罪を描いたストーリーでなければ俺は負けない。俺が主役だ。そう自分に言い聞かせて扉のドアノブに手を掛ける。

「じゃあ今度、二人で一緒に映画に行きましょうね。約束ですよ」

「勿論オーケー。主人公はヒロインとの約束を胸に戦場から生き残るものさ」

 出撃前の異性との約束は一般に死亡フラグと言われている。だけどそれは脇役の場合の話であって、主人公とはヒロインとの約束を糧として生き残るものなのだ。

 

 俺は廊下に出て、一階へと下る階段がある方に向かって体の向きを変える。後は奴が昇って来た瞬間を狙って攻撃を仕掛けるのみ。

 俺は奴が現れるのを待った。そして三十回ほど呼吸を繰り返した後、奴はゆっくりと階段を昇って来た。音と気配を消しながら密やかに来ているつもりらしいが、聴覚のみに集中して頼って物を見極めている今の俺にとってはそんな事は無駄な作業だった。

 そして奴は階段の最後の段を昇りきった。その瞬間を狙って俺は猛然と奴に向かって切り込んだ。

「まずは死ねッ! 話はそれからだ」

 停電によって真っ暗になった廊下を標的目掛けて一直線に突っ走る。

俺の視界は全く利かなくなっていたが、それは奴も同じこと。加えてこのペンションの狭い廊下となれば退避する場所などどこにもない。つまり、俺は奴がいると思われる場所に到着し次第、この手に持っている角材を振り下ろせば良いのだ。

 長期戦は俺にとって有利にはならない。それどころか俺が奴の居場所を見失えば俺が今この瞬間持っているアドバンテージは全て消失する。だから俺はこの最初の一撃に全てを篭めて振り下ろす。

「こん畜生がぁあああぁッ!」

 楽しかった同好会合宿を理不尽と血にまみれさせた元凶に俺は怒りの鉄槌を振り下ろした。

 

 だが俺の角材が奴の体を捕らえる事はなかった。

「盾?」

 それが具体的に何であるのか俺には分からないが、俺が叩いたものは確かに木の感触がした。奴も俺達の襲撃の為に丸太の一つも準備しているのかもしれない。

 とにかく俺としては攻撃を続けるしかなかった。距離を取られる訳には絶対にいかなかった。俺の目が見えていないことを気付かれる前に倒してしまわなくてはならなかった。

 俺は無心に角材を振り回し続けた。だが奴はその盾で俺の攻撃を防ぎ続ける。

 俺は今まで親父がこんなに運動神経や反射神経が良いなんて知らなかった。運動とは無縁そうな人生を送っているようにみせて、素人とはいえ俺の角材攻撃を何度もしのぐとは思っても見なかった。

 親父からの反撃がないのが唯一の救いではあるが、俺の体力の限界は近かった。

残された体力は少なく、乱打するよりも重いのを一撃食らわせてやるしかないと思った。

 それで俺はリスクを承知で親父との間合いを取った。全身全霊を賭けた上段からの打ち込みをするしかない。それが俺の出した結論だった。

 奴も俺の意図に気付いたのかじっとその場で構えている。下手に背中を見せるよりもこの一撃をかわして決着と考えているのだろう。

 息苦しい対峙が続く。

 そしてその対峙の中で俺にとっては思ってもみない事態が発生した。ペンションにもう一台車が止まる音がしたのだ。そして車の扉が開く音がして、その人物はペンションの中へと侵入して来た。

 親父にはまだ共犯者がいる……。

 それは俺にとってあまりにも状況の不利を表す物だった。

「こん畜生がぁッ!」

 既に敗北の二文字が頭の中によぎりながらも俺は最後の攻撃を開始した。

「何を血迷ったことをしている、翔太ッ!」

 だが、俺の最後の力を篭めた攻撃は奴に届く前に階下から聞こえた親父の声によって阻止された。

 アレッ?

 俺は親父と戦っている筈なのに何で親父の声が階下から聞こえるんだ?

 俺は自分の中に沸いた疑問を解消できないまま体だけ対峙している‘奴’へと突っ込んでいった。

 俺の体は、やけに逞しい胸板にぶつかって弾き返された。

 この如何にも体育会系、肉体労働系の体つきってまさか……。

「翔太、お前は鈴木くんに向かって角材なんか振り回して一体何をやっているのだッ!」

 再び親父の声がして俺は確認する。俺がぶつかった目の前の人物はやっぱり部長なのだと。俺が対峙していた奴が襲撃犯じゃなかったと分かると急に緊張が緩んだ。

 そして緊張が切れるのと同時に俺の視界が少し戻って来た。階段を上がって来た親父が照らす懐中電灯の光には部長の顔が浮かび上がっていた。

 

 

 

*十六*

 

「その、変な推理を立てて部長を親父と間違って攻撃してしまいすみませんでした」

 事の顛末は、俺が部長に謝罪を入れることから始まった。

 美穂ちゃんにも部屋から出て来てもらい、目を覚ました彩先輩にも同伴してもらって全員で一階へと降りた。それからブレーカーを探して電気を付け直し、この二日間に起きたことをみんなで話し合うことになった。ミステリードラマで言えば謎解き部分とでも言おうか。犯人を突き止めるのではなく、全員の誤解を解いていく作業であるという点で大きな違いがあるが。

 俺はまず部長に謝罪した後に、何故俺が部長を襲うに至ったのかその経緯をみんなに話した。美穂ちゃんは俺の話に賛同の意を示してくれたが、他の三人は渋い表情を見せていた。それはそうだろう。勝手に殺人事件の被害者と加害者に仕立て上げられたのだから。

「だけど、部長。どうして俺と戦っている時に自分の正体を明かしてくれなかったんですか? 部長だって分かっていれば攻撃をすぐに止めたのに」

 俺の不平に対して部長は

『風邪を引いて声が出せなくなっていたのだ。仕方ないだろう』

 と紙に文字を書いて返答して寄越した。そう言えば部長は昨夜、喉の調子が悪くてビールで消毒とか言っていた気がする。本気で風邪を引いていたのか。

「それじゃあ何で気配を消しながらペンションの中に入って来たんですか?」

 普通に入って来てくれれば誤解はもっと早く解けたかもしれない。

『ペンションの電気が消えていたから、何か事件が起きたのかもしれないと思って忍んで入った。護身用に鍋式を持ってな。翔太に襲われたから役に立ったがな。ハッハッハ』

 別に笑い声まで紙に書くことないだろうに。

「それじゃあ、部長のシャツに血みたいなのが沢山付いていたのは何だったんですか?」

 美穂ちゃんが俺の代わりに質問する。部長の血の付いたシャツが事件の発端だったのだ。

『それは美穂くんが酒に酔って俺に擦り寄ってきたから鼻血が出てシャツにだな。そこにワインやら醤油まで零れて。まったく、結婚前の娘がむやみに男に近付くのはだね。ぶつぶつ』

 ぶつぶつなんて紙に書く必要が全くないだろうにこの人は。

 そう言えば部長は、やたらと男らしいガタイの割にはとてもシャイな人なのだった。酔った美穂ちゃんに抱きつかれでもしたら、鼻血は出すしパニックにもなるだろうな。

「そうでしたっけ? 全然記憶にないんですけど」

『シャツは血で汚れるし、風邪引いて寒いしで今日の朝はワイシャツを着て帰ったんだよ』

 言われてみれば今の部長はワイシャツを着ている。冬でもタンクトップのイメージしかないから少し新鮮だった。

「それで部長は何故にこのペンションに戻って来たのですか?」

 風邪を引いているのなら家で大人しくしているのが普通だろうに。

『夕方のニュースで拓也が事故に遭ったと聞いて心配になったのと、お前達の足がなくなって難儀しているだろうから迎えに来たのだ』

 部長は俺達のことを思って病身の身を押して来てくれたのか。ちょっと感動した。

「それで、拓也先輩の容態は一体どうなっているんですか!」

 美穂ちゃんの声が跳ね上がった。拓也の容態は俺も気になる所だった。

「それは私から説明しよう」

 口を挟んで来たのは親父だった。

「拓也くんが事故を起した時な、私と彩くんは付近に居合わせたので、すぐに駆けつけて救助作業に入った。私達の服が赤く染まるほど彼は血を流していたが、応急手当が早く済んだので命は助かったよ。ここに来る前に病院に行って確かめて来た」

 親父は一息吐いた。

「じゃあ、夕方頃に二人の服が血で染まっていたのは……」

「拓也くんの救命作業を行った結果だよ」

 部長の血じゃなかった訳だ。とんだ勘違いだった訳だ。赤っ恥も良い所だ。

「それじゃあ、どうして翔太先輩のお父さんは彩先輩と一緒に事故現場の近くに居合わせたのですか?」

 美穂ちゃんの質問はもっともだった。

「それはね、今日が私の両親の命日だから。勝一おじさまに事故現場に連れて来てもらっていたの。そうしたら自動車が何かにぶつかる大きな音が聞こえて、駆けつけてみたら拓也くんの車だったから驚いたわ」

 彩先輩のご両親が拓也を救ったのかもしれない。そんな事を考えた。

「それで、彩先輩と翔太先輩のお父さんのご関係って?」

 美穂ちゃんの質問は俺にとっても最も気になる事項の一つだった。

「私と勝一おじさまの関係は健太さんや翔太くんが言うような金持ちな医者と年の若い愛人の関係じゃありません」

 彩先輩はむくれていた。

「私は彩くんの愛人ではなく、後見人みたいなものだよ。彩くんのお父さんとは昔から懇意の仲でね」

 親父の話自体は俺が予測したものと似ていた。ただ大きく違っていたのは、親父が俺に事故のことを語らなかったのは、俺に中途半端に事故のことを覚醒させることでどんな悪影響を与えるか分からないという医学上の配慮からのことだった。

「私は彩くんと毎年ご両親の命日に当たる今日、この地を訪れることにしているのだよ」

 そして愛人疑惑も完全に否定された。

「結局みんな、俺の一人相撲だった訳かよ」

 それが結局この二日間の一連の出来事に対する決着だった。

 

 

 エピローグ

 

 合宿が終わってから二週間が過ぎた。

 あれから俺達は各自平穏な生活へと復帰しつつある。

 親父には帰宅後こっぴどく叱られた。まあ仕方がないけれど。その後は普通に接している。

 拓也は無事に目を覚まし、今は病院のベッドに縛りつけられている生活が退屈だと毎日愚痴を零すほどに回復した。

 そして彩先輩が自分の服を血で汚してまで救命作業を行ったことを聞いて感動してますます彩先輩一筋を心に誓うようになっている。

 部長はまあ、特に変化がない。風邪もすぐに治ってピンピンしている。最近は現場の空気を覚えると言って道路工事などに積極的に参加している。将来のことを結構本気で考えているようだ。

 美穂ちゃんについてだが……彼女の場合は俺にとってちょっと嬉しい変化があった。俺のことも誘ってくれるようになったのだ。この間は約束通り二人で映画にも行った。拓也先輩の次ですからねと言いながら結構俺に良くしてくれる。これはもしかするともしかするんじゃないか。そんな予感さえしている。俺にもようやく人生に春が来るのかもしれない。

 そして彩先輩だが……こちらは当初むくれてしまって大変だった。まあ、自分の父親と勝手に愛人関係にされ、挙句さえ部長殺しの殺人者に仕立ててしまったのだから仕方ないと言えば仕方ない。何度も何度も謝ってようやく最近許してもらえるようになった。

 そして今日、俺と彩先輩は拓也の見舞いに行った帰りに町の高台へと寄っていた。彩先輩は病院の空気がどうも息苦しいので良い空気を吸いたいという願いを聞いたものだった。

「やっぱり、高い所の空気は美味しいよね。愛人の息子くん」

「その言い方は勘弁して下さいよ。俺が悪かったですってば」

 俺はもう完全に彩先輩に頭が上がらなくなってしまった。

 とはいえ、冗談口調で言ってくれるのだから彩先輩も許してくれているということなのだろうけど。

「だーめ。許しません。私の心は深く傷ついたのだから」

「勘弁して下さいよ。本当に」

 彩先輩と俺の口から笑いが漏れ出る。

「ところで翔太くんは知っている?」

 彩先輩は明るい微笑を浮かべながら尋ねた。

「何を、ですか?」

 その笑顔を見ていると、やっぱりこの人は美人だよなと改めて思う。いや、今の俺には美穂ちゃんが。いやいや、美穂ちゃんとはまだお付き合いしていないのだから別に悪い事は……。

「私の両親が事故を起した時、事故車の後部座席に乗っていたのは私じゃないってこと」

「へっ?」

 彩先輩の話は唐突だった。

「それで、事故の原因調査だと、運転手であるお父さんは後部座席に気を取られてハンドルを切り誤ったのではないかという推測なの」

 彩先輩は明るい表情のまま、十年前の事故の原因を話し続ける。俺はその先輩に、その内容に底知れない恐怖を感じていた。

「それでね、後部座席に乗っていた子というのはね、事故の起きた日に一緒のペンションに滞在していた男の子でね」

 ドクン、ドクンと心臓が高鳴った。視界が、目の焦点が急速にぼやけていく。

「翔太くんのことなんだ♪」

 目の前が急速に真っ黒に変わった。

「勝一おじさまはね、後見人って言っているけど、本当は私に対してずっと罪滅ぼしをしているの」

 視界だけでなく、自分の全てが闇に包まれた。そんな感じがした。

「我がままを聞いて翔太くんをお父さんの車に乗せて、私をおじさまの車に乗せたことへの」

 真っ暗な闇の中、炎だけが渦となって俺を襲って来る。

 そうだ、確かにあの日、俺は炎に飲み込まれて死に掛けたのだった。そこを寸での所で車から降りて来た親父に救出されたのだ。だから俺が見たあの光景には彩先輩が入っていなかったのだ。彩先輩は親父の車の後部座席であの光景を見ていたからだ。

「まあ、おじさまのおかげで私は死なずに済んだ訳だから、私はおじさまに感謝しているの。でもね……」

 彩先輩の気配が一瞬なくなった。どこに行ったのかと考えていると、先輩の手が俺の背中に触れていた。

「私やっぱり、お父さんとお母さんを殺した翔太くんを許せないの」

「えっ?」

 彩先輩が俺の背中を力強く押した。

 俺はその力に逆らうことができず前にのめっていく。

 俺の体は背の低い柵に当たり、それを乗り越え体の上下が反転する。

「彩先輩……?」

 俺は自分の体が自由落下していくのを感じながら、姿が見えない彩先輩をいつまでも目で追っていた。

 

 

 

 


 
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