No.210380

彩先輩 前編

今月は某小説大賞募集の締め切りが迫っており新規に書いている余裕がないので
未発表作品やpixivからの転載作品、また過去の小説大賞で清清しく落選した作品などを
あげていきたいと思います。

今回は、オリジナルサスペンスホラーもどきです。

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2011-04-07 02:04:39 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:1617   閲覧ユーザー数:1432

 

彩先輩 前編

 

 

「まずは死ねッ! 話はそれからだ」

 停電によって真っ暗になった廊下を標的目掛けて一直線に突っ走る。

 俺の視界は全く利かなくなっていたが、それは奴も同じこと。加えてこのペンションの狭い廊下となれば退避する場所などどこにもない。つまり、俺は奴がいると思われる場所に到着し次第、この手に持っている角材を振り下ろせば良いのだ。

 長期戦は俺にとって有利にはならない。それどころか俺が奴の居場所を見失えば俺が今この瞬間持っているアドバンテージは全て消失する。だから俺はこの最初の一撃に全てを篭めて振り下ろす。

「こん畜生がぁあああぁッ!」

 楽しかった同好会合宿を理不尽と血にまみれさせた元凶に俺は怒りの鉄槌を振り下ろした。

 

 

 

 

*一*

 

 七月二十九日晴れ。

 期末試験やレポートの提出もようやく全てが終わり、俺は大学に入学して二度目の夏休みを迎えていた。

 そして俺は赤い封筒に入れられた珍妙な招待状を片手に列車に乗って山間部を揺られていた。

『佐藤翔太様 貴方を写真同好会企画合宿に招待致します From A.S』

 この珍妙な文面の招待状が今回の旅行を企画した張本人ならぬ張本物だった。俺はこの招待状の指示に従って電車に乗り込み、うちの大学の写真同好会の合宿に参加しているのだった。

 列車は軽快な速度で野を越え山を越えていく。電車の旅も悪くない。しかし田舎での合宿では足があった方が便利だ。だから車で参加できれば良かったのだが、俺は免許を持っていなかった。免許が欲しくないのではない。親父が運転は危険だと許してくれないからだった。

 親しい友人にしか話したことがないが、実は俺はごくたまに目が見えなくなる時がある。緊張が高ぶる、ストレスが溜まるなど、平常な精神状態でいられなくなると五分、十分単位で視界が利かなくなってしまうのだ。十年位前からそんな現象が起きるようになったのだが、そうなった原因を俺はよく知らない。

 医者である親父、佐藤勝一の説明によれば、何だか難しい病名があるようなのだが、要は上で説明したような状態を医学の専門用語で説明しただけ。俺としてはこうなった原因や治療法が知りたいのだが、それについて親父は憮然としながら分からないの一言。現代医学は俺にとって役に立つものとは言えなかった。原因について語る時の親父の態度があまりにも素っ気無いので、もしかすると俺は大いなる陰謀に巻き込まれて記憶喪失、人体実験なんてことも考えた。まあ、その発想は中学生っぽいのでもう思ってはいないのだが。

 目が見えなくなるのは数ヶ月に一度位のものなのだが、急に目が見えなくなった時に助けてくれる人がいなくては危険だと一人暮らしも許可してもらえない。だから本当は東京の大学に進学したかったのだがそれも認められなかった。今回の合宿参加も親父は当初渋い顔を見せた。俺の目について知っている拓也も参加すると言ったことでようやく許可が出たくらいの過保護というか監視ぶりだった。

 そんな訳で大学二年になった今でも俺は実家に閉じ込められている。一人暮らしの友人達は俺がご飯や炊事洗濯、生活費に困らないのだから羨ましいと言う。しかし、俺から見れば自由に生活できる方が羨ましかった。両親と仲が悪い訳ではないがどうにも閉塞感が漂っていた。

 

 これから楽しい合宿であるのにつまらないことを考えて気分が盛り下がってしまった。俺は自分を発奮する為に再び招待状に目を通した。

 A.Sというイニシャルが付いているので、この手紙は同好会の佐々木彩先輩が送って来たものと俺は考えている。

 彩先輩は俺の大学の一年先輩で、教育学部の三年生だ。俺は入学式の後、サークルの勧誘を行っていた彩先輩の綺麗さに惹かれて写真同好会に入った口だった。初めて見た彩先輩は、服装は地味だったし、髪型も長髪の先端を束ねただけの飾りっ気のないものだった。だけど、俺にそっとチラシを差し出した時に見せたあの控えめな笑顔を俺は今でも忘れることができない。まさに一目惚れだった。

 言い訳だけさせてもらうと、彩先輩に惹かれて同好会に入ったのは確かだが、どんなサークルでもオーケーだった訳ではない。俺は元々高校時代に写真部に属しており、カメラを弄っていたことはあった。デジタルカメラが流行するこの時代に白黒フィルムを一眼レフに入れてよく撮影に行っていた。だから写真同好会を選んだのだ。

 写真は撮影も楽しいのだが、それ以上に現像が楽しいのだ。デジタルカメラはパソコンにピッと繋いで簡単に印刷できるが、白黒フィルムはそうはいかない。専門的な知識と経験と哲学が物をいう世界だ。真っ暗な暗室の中、印画紙を液に付ける時間や、引伸機で光を照射する時間を少し変えるだけで全く別の印象を与える写真が現像できる。そこには失敗・成功という要素もあるが、それ以上に濃淡やボカシに対する各自の哲学が投影される。俺は暗室での作業が大好きだった。真っ暗な空間の中で引伸機から発せられる唯一の光を見ていると、まるで自分が別世界に吸い込まれたような不思議な感覚を味わえる。そんな非日常が俺は好きだった。まあ、そんな世界に浸っていたから俺の高校生活は全く女っ気がなかったのだが……。

 彩先輩と写真に惹かれて入った写真同好会だったが、ここは写真をほとんど撮らないなあなあサークルだった。部長からして写真についてほとんど知らないのだから、その実力は推して知れよう。代わりにこのサークルの特徴と言えるのが特異な合宿企画だった。

 うちの同好会の合宿では一人が企画を立てて他の参加者はほとんど何も知らされないまま企画者の指示通りに動くのだ。そして本当に珍しいのはこれから。参加者達は合宿中に驚いてはいけない。驚いた参加者がその顔を写真に撮られるとその時点で負け。旅行代金を支払わないといけない。企画者以外の全参加者が驚ければ企画者の勝ちで一円も払わなくて良い。逆に一人も驚かなければ企画者は全額支払わないといけない。企画者以外の人間で一人だけ驚かなかった場合は、その人はタダ旅行となる。幾ら支払うことになるのかは、合宿中の行動で決まるのだ。

 何でこんな奇妙な合宿が始まったのかというと、話は十年くらい前に遡る。その当時、写真同好会は潰れる寸前で、起死回生の策として学園祭で驚きの顔展を開いた。その企画が意外に好評で写真同好会では驚いた顔を撮ることに特化していった。そして時が経つにつれ、写真そのものの価値は忘れ去られ、驚いた顔を撮るという企画だけが残ったという訳だ。

 それにしても招待状に電車のチケット、それも指定席券まで入った案内状が届いたのは今回が初めてだった。

 招待状にしてこれなのだから、現地に行ったら更なる驚きが待っているに違いない。もしかするとミステリー小説や漫画のような展開に出合えるかもしれない。俺はこれからの二泊三日の合宿に無邪気に胸を躍らせていた。

 

 

 

*二*

 

 指定された山間部の田舎駅で電車を降りる。駅舎の後方には山々が連なって見えた。俺の住んでいる所も都会とは言い難いが、ここは本当に田舎という感じがした。

 深呼吸して肺に新鮮な空気を送り込みながら、ゆっくりと改札に向かう。切符の墨にボールペンで書かれていた案内にはこの駅に来いという指示で終わっていた。

 切符を改札に出して、駅舎の外に出る。すると、三人の男女が俺を見ながら立っていた。

「翔太先輩、一日遅刻なんて遅すぎますよ」

 可愛らしく頬を膨らませながら抗議して来るショートカットの女の子。

「ごめんごめん。待たせちゃったのかな?」

 俺は両手を前に出してまあまあと彼女を宥める。俺に声を掛けて来た女の子は写真同好会唯一の一年生部員である牧原美穂ちゃん。同好会のマスコット的な存在だ。動作の一つ一つが可愛らしく如何にも女の子って感じがして俺も結構好みだったりする。しかし美穂ちゃんが同好会に入ったのは写真に興味がある訳でないのが丸分かりだった。美穂ちゃんの目当ては隣に立つ男でまず間違いなかった。

「メールで遅れて来ることを連絡して来たから別に良いけどな」

 美穂ちゃんの隣に立つ、如何にも女の子からチヤホヤされそうな色男は名を高橋拓也という。俺の高校の時からの友人で、当時は暗室によくお茶を飲みに来ていた。拓也は入学当初どこのサークルにも所属していなかったが、部室まで俺に会いに来た時に彩先輩を見かけて速攻で入部を申し入れた。昔から女には不自由していない男だが、女漁りは高校で飽きたとか言って、現在は彩先輩純愛一筋を公言している。だから美穂ちゃんのことは相手にしていないという、ある意味羨ましい男だ。しかし肝心の彩先輩には後輩位にか思われていないので報われない男でもある。

「ところでさ、美穂ちゃんも拓也も何か言っていることがおかしくない?」

 俺は招待状の指示通りにここに来た。指定席券だったので日付も時間も間違っていない筈だ。それにも関わらず美穂ちゃんは俺が一日遅れの到着だという。そして拓也は俺が送った憶えもない遅刻を知らせるメールを受け取っているという。これは一体?

「何言ってんだ、翔太? 俺達がここに合宿に来ているのは昨日からだぞ?」

「はっ?」

 思わず間抜けな声が出た。けど、何で指定通りに来たらいきなり一日遅刻になっているんだ?

 俺には状況が全く飲み込めない。

「私、翔太先輩から到着が明日になるというメールを受け取りましたよ」

 言いながら美穂ちゃんは俺に携帯メールを見せた。

『都合により一日遅れて参加します。明日の午後二時に××駅に到着します。 翔太より』

 そのメールには確かに俺の名が記されていた。

 しかし、こんなメールを俺は送った憶えはない。

「いやさ、俺、こんなメールを送った憶えがないのだけれども……」

 美穂ちゃんから携帯を受け取ってジッと眺めてみる。しかし、何度眺めてもメールに心当たりはなかった。

「誰がこんなメール送ったんだ?」

 気になった俺は送信者のメールアドレスを調べてみた。するとそこには、某有名検索エンジンのフリーメールのアドレスが記されていた。

「これじゃあ誰がこのメールを送ったのだか分からないな」

 拓也が携帯を覗き込みながら目を細めた。

フリーメールは登録さえすれば誰でも取れる。厳格な身分証明がある訳でもない。つまり、拓也の言う通り、誰が送ったのかこのフリーメールアドレスを元に探るのは不可能という訳だ。

「本気でミステリーサスペンスの始まりかよ……」

 ゲッと思った。電車の中ではサスペンスな展開に心躍らせたものだが、いざ自分がその当事者になってみると何とも不気味だった。

「驚きの顔はゲットさせてもらったぞ」

 カメラのシャッター音が聞こえて振り返ると、タンクトップでカメラを構えた筋肉質の大男の姿が。

「部長、来て早々は酷いですよ」

 来て早々、俺は企画から脱落してしまった。これで俺のタダ旅行はなくなった。

 俺を敗北へと誘った大男は写真同好会部長の鈴木健太先輩。部長は地元では有力な建設会社の息子で来年からその会社に入社が決定している。

「勝負の世界に酷いも何もないさ」

 部長は豪快に笑う。部長は建設会社の次期社長というよりも現場監督がよく似合う。そんな感じの人だ。

「まあ、こんな手の込んだ仕掛けをするのは企画者で招待状の送り主である彩以外にはあり得ないだろう。あいつが何を考えているのかは知らないが」

 彩先輩をあいつ呼ばわりする部長。実は部長と彩先輩は従兄妹同士だったりする。一時期は一緒に暮らしていたこともあるというから実に羨ましい。俺も彩先輩と一つ屋根の下で暮らせていたらどんな幸せなことか。

「そうだ、翔太」

「何だ、拓也?」

 翔太が急に話し掛けて来た。何事かと思うと拓也はゆっくりと自分の携帯を取り出して俺に見せた。

「今の内にメールをチェックしておくなり、連絡をしておくなりしておけ。これから向かうペンションでは携帯は通じないし、電話も引かれていないから連絡手段がないぞ」

「ゲッ、そんな山奥に行くの?」

 拓也は答える代わりに、聳え立つ山々に向かって指を差した。

 

 

*三*

 

 部長が運転する4WDは蛇行する一車線の林の中を抜けていく。半分開けた窓から入り込む山の涼しい空気と森の息吹が心地よい。

 部長から車で二時間ほど行った所が目的地だと聞かされた時にはウワッとしたものだが、こうして走り出してみると意外と気分が良かった。

 森の中を真っ二つに割るようなコンクリートの道路は緑と灰色のコントラストをなし、見ている俺を幻想郷へと導いていくようなそんな非現実的な印象を与えて来る。

 ここは本当に日本なのか。そんなことをふと考えていると急に車が減速して俺は上下に大きく揺れた。

「きゃあ!」

 後部座席から悲鳴が上がる。

 バックミラーを見れば美穂ちゃんが拓也にしがみ付いていた。しかしその拓也は迷惑そうな顔をしながら美穂ちゃんを無言で見ている。何て羨ましい奴なんだ、拓也。今すぐ俺と代われ!

「いやあ、スマンスマン」

 スピードを落とした主、運転手の部長は頭を掻きながら俺達に謝った。

「考え事をしていたら思わず急ブレーキを掛けてしまったよ」

 部長は再びスピードを上げ始める。

「部長さんの考え事って一体何ですか?」

 拓也にしがみ付いたまま美穂ちゃんが尋ねる。この子も相当な根性の持ち主だ。

 部長はしばらく問いに答えなかった。そして十秒くらい口を噤んでからゆっくりと、普段は出さない低い声でそれを言った。

「まさか彩がこの場所を合宿地に選ぶとは思わなかった」

 俺は部長の言葉に重い雰囲気を感じ取った。バックミラー越しに見ると拓也も美穂ちゃんも顔を引き締めていた。

「その、部長、何で彩先輩はここを合宿地には選ばないと思ったんですか?」

 彩先輩のこととなると人一倍熱い男、拓也が部長に切り込んだ。

 部長はしばらく顔を左右に振りながら視線を彷徨わせた。運転中なので非常に危険な動作なのだが、それだけに部長の悩みが見て取れた。

「部長、俺も聞かせて欲しいです」

「私も聞きたいです」

 俺と美穂ちゃんの声が重なった。

 それを聞いて部長は降参と言わんばかりに軽く息を吐き出してから語った。

「この辺りは、彩の両親が事故死した場所なんだ」

 その内容は俺の予想を通り越した重さを含んだものだった。

「……そんな場所だなんて聞いていませんよ」

 美穂ちゃんも驚きが隠せないようだった。声が泣きそうになっていた。

「言ってしまえば気落ちするだろう。そうしたら合宿も盛り下がるかもしれないからな」

 先輩は再び軽く溜息を吐いた。

 先輩の話によると、彩先輩は今から十年ほど前にこの道の先にあるペンションにご両親としばらく滞在していたらしい。そしてその帰り道、彩先輩と両親を乗せた車は夜中に道路を外れて大木に激突。車は炎上して両親は死亡し、彩先輩だけが助かったらしい。そんな凄惨な過去がこの綿々と続く森の中の道で起きたということだった。

「部長、彩先輩の両親に黙祷を捧げよう」

 拓也は話を聞き終わって真っ先にそう述べた。俺達にも異存はなかった。

 部長は車を止めた。対向車も後ろから来る車も全く存在しなかったので俺達の停止が交通の邪魔になることはなかった。

 目を閉じて彩先輩のご両親の冥福を祈る。

 会ったこともない人達だけど同じサークルの大事な先輩のご両親だ。それに事故によって両親を一度に失った彩先輩の心中を察すると余りあるものがある。俺は一心に哀悼を捧げた。

 目を開く。目の前には広大な森が広がっている。その森の木々を見ていると心が何かざわついた。彩先輩の両親の死を聞いて心が過敏になっているのかもしれない。

 あまり緊張を高ぶらせると目が見えなくなってしまう可能性がある。拓也は俺の目のことを知っているが、他の二人は知らない。そうでなくても旅行の最中に突然目が見えないなんてなればみんなに迷惑を掛けてしまう。俺は精神を高ぶらせないように気を付けようと思った。

 全員が車に乗り込み、再びペンションに向かって走り出す。しかし先ほどと違って車中の雰囲気は暗かった。

「彩は俺や親父を恨んでいるのかもしれない」

 走り始めてから五分が過ぎた頃、部長は突然ポツリと呟いた。

「恨んでいるって一体?」

 部長の呟きに再び真っ先に反応したのは拓也だった。

「彩の両親が死んだのは親父の会社の工事計画がずさんだったせいかもしれないからだ」

 部長から出た言葉は彩先輩の両親の死に勝るとも劣らないほどに衝撃的だった。

 俺達はその言葉に対して何も発することができなかった。

 部長の説明によれば、この道の工事を受け持ったのは部長の父親の建設会社だった。会社は道を作る際に工事費を多く得る為に、環境に配慮してという言葉を使いながら不必要に蛇行する道を作ったらしい。そして専門家によると、その重なる蛇行道がドライバーの運転リズムに何か影響を与えるらしい。それで運転リズムが乱れるこの辺りでは過去に何度も自動車事故が起きているということだった。だから彩先輩のご両親の事故も不幸な事故や単純な運転ミスでは済ませられないものかもしれないということだった。

 連続する事故によりここは幽霊道として噂になり、この道を利用する車両は減った。そしてこの道沿いにあったペンションや別荘は次々と潰れていったという。

「昔は十件以上が運営されていたが、現在運営しているのは俺達がこれから向かう場所だけだ。他は、俺達の目的地から五キロほど奥にある別荘があるのだが、そこはどこぞの金持ちな医者か弁護士だかが年の若い愛人を連れ込むのに使っているらしい」

 寂れた別荘地は世間的には許されない逢瀬を交わすのに都合が良いという訳だ。

「それで、彩は両親が亡くなった後は俺の家にいたんだが……」

 彩先輩が昔部長の家で暮らしていたことは知っていたが、そんな背景があるとは知らなかった。そう言えば彩先輩から家族に関する話を聞いたことがないのを今になって思い出した。

 部長の説明によれば、彩先輩は部長宅にやって来た当初は塞ぎ込んでいたものの、その後は徐々に明るさを取り戻していったのだという。

 そんな彩先輩に再び転機が訪れたのは先輩が高校三年生の春のことだったという。サークルの飲み会で酔っ払っていた部長が事故原因に関する話を彩先輩にしてしまったらしい。それから彩先輩は再び部長の家族と距離を置くようになり、大学に入学すると共に部長宅を出て一人暮らしを始めるようになったらしい。

 だから彩は俺達を恨んでいるのかもしれないというのが部長の考え方だった。

 部長の話を聞いて、俺達の雰囲気は一段と重いものになってしまった。

「せっ、せっかくの合宿なのだし楽しみましょうよ」

 美穂ちゃんは殊更に明るい声を出して場を盛り上げようとする。美穂ちゃんのその提案は間違っていないのだが素直に従えない俺がいた。外を見ても心のざわめきは収まらなかった。

 

 

*四*

 

 駅を出発してから約二時間。俺達を乗せた車はようやく目的のペンションへと到着した。

「思っていたより随分綺麗なペンションだな」

 ペンションを見た俺の第一印象がそれだった。俺は部長の話を聞いて自分が泊まることになる所も潰れる寸前のような汚い所なのではないかと思っていた。だが目の前に立つ二階建ての建築物は塗装も剥げた箇所はなく、造りもしっかりしていて二階のバルコニーを見た時は真新しい感じさえ受けた。

「お風呂もちゃんと使えるんですよ」

 美穂ちゃんがにっこりと笑いながら相槌を打ってくれた。女の子である美穂ちゃんにとってお風呂はやはり一番気になる所なのだろう。

「管理人もいないから気兼ねすることもない。騒ぎ放題という訳だ」

 部長は豪快に笑った。部長は普段から声も大きいし、誰の邪魔にもならないこの環境は気分が良いのかもしれない。

「つまりここは外部との連絡が一切取れない陸の孤島。驚かすには絶好のロケーションという訳だ。もっとも、翔太はもう負けだがな」

 移動手段としては部長が運転して来た4WDと、ガレージに置かれている拓也の愛車の黄色の軽があるのみ。足がなければ確かにここは陸の孤島に間違いなかった。もし、こんな所で目が見えなくなりでもしたらと思うと心中穏やかではいられない。

「うっせえ」

 冷や水を浴びせて来る拓也に怒鳴り返す。本当にこいつは嫌なことを思い出させてくれる。

 そして俺はこの合宿に必ずいなければならない人が、いつまで経っても俺の前に現れないことに気付いた。

「ところで彩先輩は?」

 今回の合宿の企画者である彩先輩の姿を俺はまだ見ていなかった。てっきりペンションで待っているのかと思ったが、いつまで経っても出て来る様子がない。

「いや、それが彩の奴は今まで俺達に一度も姿を見せていないんだ」

 部長は頭を掻きながら困ったように返答した。彩先輩がいないというのは俺にとっても予想外だった。

「てっきり、お前と同じ列車で彩先輩も来ると思ったからわざわざ駅まで同行したんだがなあ」

「拓也、お前……」

 拓也は何とも友達甲斐のないことをのたまってくれた。いや、拓也がわざわざ俺を出迎えに来るのは確かに不自然だと思ったのだが。

「もしかすると、彩先輩が姿を見せないこともどっきりの一部なのかもしれませんね」

 美穂ちゃんの意見はなかなか鋭いと思った。なるほど、彩先輩が現れないこと自体が合宿に謎を付加して緊迫感を演出しているのは確かだ。良い引き攣った表情も期待できるというもの。もっとも、俺はもう負けているのだけれども。

「驚いた顔なんかどうでも良いから彩先輩がこの場にいてくれればなあ。麗しい女性が一人いるだけでこの場が華やぐというのに」

 拓也は首を落とすと盛大に溜息を吐いた。

「麗しい女性ならここにも一人いるじゃないですか。ぶ~ぶ~」

 美穂ちゃんが拓也に抗議の声を上げている。その際に何気なく拓也に密着しようとしているのがポイントだ。美穂ちゃんが拓也の何分の一かでも俺に興味を持ってくれればもっと楽しい合宿になるのだろうけどなあ。

「それじゃあ翔太。荷物を置いたら、しばらくみんなでこの辺の散策に出掛けるぞ。せっかくの自然だ。満喫しないともったいない」

 部長の声にふと我に返る。

「はい、分かりました」

 そして俺達は夕飯前の一時を散策に出掛けることになった。

 

 

*五*

 

 夕飯の時間になった。俺達にカレーを振舞うと一人意気揚々と台所を占領する美穂ちゃん。それに対して俺達男三人は廊下の隅で作戦会議を行っていた。

「美穂に料理を作らせるのは危険だ」

 写真同好会の合宿なのに誰もカメラを持って出掛けようとしない光景を思い出して苦笑していると、拓也に声を掛けられた。それが発端だった。

「現代人のデリケートな胃袋は美穂くんの斬新極まる料理を二日連続で食べるには適さない」

 部長も現れて拓也に同意を示した。

 二人の話に拠れば美穂ちゃんの料理の腕は相当酷いもののようだった。青いグラタンを初めて見たと二人は語った。

「山吹花お嬢様学校も最近は料理実習に力を入れてないのだろうな」

 拓也の一言で俺は美穂ちゃんが近隣で有名なお嬢様学校出身であることを初めて知った。

「何はともあれ俺達は自分の生存を賭けてこの困難なミッションをクリアせねばならない」

 部長は拳を握り締めながら作戦概要を述べ始めた。

 

「美穂、ちょっと玄関に来てくれないか?」

 わざとらしく大声を出しながら拓也が美穂ちゃんを玄関に誘導する。

「は~い。今行きますね」

 美穂ちゃんが台所を出たすぐ後に俺と部長が台所にこっそりと侵入する。

「ゲッ、何だ、これは?」

 台所のコンロの上に置かれた鍋の中には何か紫色のゲル状のものが入っていた。それを見て俺は昨日二人が食べさせられたものがどんなものだったか容易に想像することが出来た。

 部長はその鍋に目をしかめながら中身を手早く準備していた黒ビニール袋の中に移し変えた。そして俺が鍋を手早く洗い、部長は今日駅まで出た際に密かに買っておいたレトルトカレーを洗い終わった鍋の中へと放り込んだ。仕上げに美穂ちゃんに気付かれない内に台所を去る。これでミッションはコンプリートだった。

 しばらくして美穂ちゃんが台所に戻って来た。

「あっ、カレーがちょうど良い具合に煮えている。拓也先輩、他の先輩もご飯の準備ができましたよ~」

 何故鍋の中身が入れ替わっているのに気付かないのかは謎だが、とにかく俺達の作戦は成功した。せっかく料理を作ってくれた美穂ちゃんには悪いが、作戦遂行中は結構ドキドキして凄く面白かった。

 

 夕飯も終わり、交替で風呂に入ることになった。

「おう、翔太。風呂なんだが、お前が先に入ってくれ」

 拓也が荷物を整理するとかで順番を替えて俺が先に入ることになった。

 温泉でないのが惜しい所だが檜の浴槽を旅情気分と合わせて満喫していた。

 そして肩まで浸かって百数えようかなと暢気に考えていると

「誰も入っていませんよね~? じゃあ私、入っちゃいますね~」

 如何にもわざとらしい確認の声が響いて浴室のすりガラス扉が開かれた。

「あれ~? 拓也先輩が先に入っているなんて全然気付きませんで……って、え?」

 開かれた扉の先にはバスタオルを一枚巻いただけの美穂ちゃんが立っていた。

「美穂……ちゃん」

 俺が覗いた訳ではないし、俺に非がある訳でもないのだが気まずくて言葉が出ない。

「翔太、先輩?」

 美穂ちゃんは美穂ちゃんで引き攣った顔を浮かべながら俺を眺めていた。おそらくというか確実に拓也が入浴していると思って入って来たのだろう。この子のアピールぶりは呆れるを通り越して凄い。ところが実際に入浴していたのは俺。彼女も対応に困ったに間違いない。

「失…礼…しました」

 美穂ちゃんはカクカクと上下に揺れ動揺しながら扉を閉めようとした。しかしその上下動は彼女が巻いているバスタオルには大きな負担となったようで

「あっ……」

 扉を閉める前に美穂ちゃんのバスタオルはポトリと床に落ちた。

 それから三十秒の間に起きたことを俺はどう説明すれば良いのか分からない。

 憶えていることを挙げていくと、俺は一糸纏わぬ美穂ちゃんから目を離せなかった。意外に大きなその胸に、女の子らしい柔らかそうな体つきに目を奪われていた。俺も健康な男だしそれは仕方がない事ではないかと思う。

 それに対して美穂ちゃんはしばらくの間固まったまま微動だにしなかった。そして動き出したと思ったら、次に起こした行動は予想済みではあったけど悲鳴だった。だがその悲鳴の内容は俺の予想とは違っていた。

「男の人に裸見られて、もうお嫁に行けない~ッ!」

 美穂ちゃんは扉も閉めないままその場にしゃがみ込むと大声で泣き出してしまった。美穂ちゃんらしからぬ何とも時代錯誤的な考え方だった。それでふと思った。山吹花お嬢様学校は料理実習には力を入れていなくても、お堅い考え方は十分守っているのだと。

 泣き続ける美穂ちゃんを前にして俺が手をこまねいていると拓也が彼女の後ろに現れた。拓也は美穂ちゃんの背中にバスタオルを掛けてあげながら俺に向かって

「責任取って幸せにしてやれよ」

 短くそう告げた。

 それを聞いて俺は拓也に嵌められたことを悟った。拓也は美穂ちゃんが乱入して来る可能性を予測して俺と順番を替わったのだと。

 まあ、俺としては役得だったので文句は言えないのだが、泣き続ける美穂ちゃんとニヤリと笑う拓也を見ると何か釈然としないのだった。

 

 

 

*六*

 

「それでは、写真同好会の合宿を祝してみんなで乾杯だッ!」

「乾~杯ッ」

 部長の音頭と共に四人のグラスがぶつかり合って音を奏でる。

 俺はあの後美穂ちゃんに謝りっ放しで大変だった。俺に非はない筈なのだけど、とにかく謝って謝って謝った。拓也が後ろで責任責任と繰り返すのが煩かった。美穂ちゃんは膨れっ放しでテーブルの上に並んだ様々なお酒の缶を見てようやく怒りを解いてくれた。

「このサワーってお酒は甘くてとっても美味しいですよね」

 美穂ちゃんは昨日生まれて初めてお酒を飲んだらしいのだが、すっかりアルコールの味を占めてしまったようだった。彼女の前には空いたサワー缶が既に二本置かれていた。まだ十八歳の筈なのに良いのかなと思わないでもないが、せっかくの合宿なのだし大目に見てもらおう。誰に大目に見てもらうかは俺もよく分からないが。

「アルコールは人類の敵だぞ」

 一方で話し掛けられた拓也はウーロン茶をちびちびと飲みながら美穂ちゃんを渋い顔で眺めていた。実はこの色男さんはアルコールが全く駄目だったりする。焼酎一滴で顔が赤く染まり、二滴でグロッキー、三滴で爆酔という典型的な下戸なのだ。

「拓也は酒が飲めんからといって僻むな僻むな」

 言いながらビールを瓶ごとグイグイ飲んでいるのは部長。この人はやっぱり現場監督がよく似合いそうだ。しかし……

「瓶の連続はいくら部長でもやばいんじゃないですか?」

 部長の隣には既に空いたビール瓶が三本転がっていた。肝臓が大丈夫だとしても胃や腸に悪そうな飲み方だった。

「どうも喉の調子がおもわしくなくてな。それでビールで殺菌しているという訳だ」

 部長は大声で笑った。

 体調良くないなら飲酒は控えて欲しい。というか、それだけデカイ声が出て、喉が痛いというのはにわかには信じられなかった。

「まあ、お酒は楽しく飲むのが一番ですけどね」

 酒に強くも弱くもない俺はちょびちょびと缶ビールを空けていく。四者四様の酒の楽しみ方で俺達の宴会は盛り上がっていった。

 

 宴会が始まってから一時間位が経過した。拓也を除く俺達三人はほろ酔い加減になっていた。

「それにしても彩の奴はいつになったら現れるんだ?」

 それまで避けていた話題を部長が軽く船を漕ぎながら出して来た。何故、避けていたのか。

「彩先輩がいないんじゃ、俺が合宿に来た意味がねえぇ」

 それは勿論、この話題が出ると拓也が煩いからであり

「拓也先輩には私がいるのに。ぶ~ぶ~」

 美穂ちゃんが不機嫌になるからだった。

「だけど俺、さっきの散歩の最中に確かに彩先輩を見たぜ」

 拓也は昼間の散策の時から、何度も何度も彩先輩を見たを繰り返している。

「あのな、拓也の他には誰も彩先輩を見ていないんだぞ。それにこんな何もない山の中、彩先輩はどこに何で隠れているって言うんだよ?」

 拓也は彩先輩を見たというが俺達三人は見ていない。それに彩先輩は免許を持っていないので移動手段がない。そんな先輩が山中に隠れながら俺達の付近にいるという話はどうにも現実味がなかった。

「翔太先輩の言うことももっともですが、拓也先輩の言う通りだとするとこれは何やらサスペンスの臭いがしますね」

 美穂ちゃんは顔を引き締めて雰囲気を出しながらサスペンスという言葉を使った。みんなの注目が自ずと美穂ちゃんに集中する。

「企画者なのに合宿二日目が終わろうとする今も姿を現さない彩先輩。これは、何か大いなる企みがあるのではないでしょうか?」

 大げさに喋り始める美穂ちゃん。何となくだか、彩先輩の評価を下げることで漁夫の利を目論んでいるようなそんな感じを受ける。

「彩先輩がそんな企みごとをする筈がないだろ」

 対して真っ向から陰謀説を否定する拓也。彩先輩信者である拓也は一言では動揺しない。

「それがですね、根拠の全くない話をしている訳ではないんですよ。あれは私が彩先輩と先月にホラー映画を見に行った時のことです」

「ああ、俺が誘いを断った映画のことだな」

 拓也は映画の誘いまで断ったというのか。何て羨ましい奴だ。

 それにしても美穂ちゃん、拓也に断られたのなら俺を誘ってくれれば良かったのに……。

「それで彩先輩、映画の最中も終わった後も全く怖がらなかったんですよ。私なんか悲鳴上げっ放しだったのに。それで私が怖くなかったのですかと尋ねたら、所詮は作り物。本物の血の臭い、人の肉の焼ける音とは比べ物にならないわって答えたんですよ!」

 美穂ちゃんの言葉を聞いて俺が感じたのは彩先輩に対する恐怖でなく悲しみだった。もしかすると彩先輩はご両親の惨劇の光景を今でもはっきりと覚えているのかも知れない。血と肉というのは……。そう思うととてもいたたまれなくなった。

「それで彩先輩は続けて私の首筋に指を沿わせながら、そうは思わないって目を細めて尋ねて来たんです。私、すっごく怖かったです」

 それは確かに俺でも怖いだろう。彩先輩は結構演出家だな。

「だから、彩先輩が何か恐ろしい計画を立てていてもおかしくないかと思うんです」

 しかし美穂ちゃんの話はやっぱり発想に飛躍があるという感じだった。

「彩先輩みたいに人間ができた人が恐ろしい計画なんて立てる訳がないだろうが」

 ここは拓也に一票。

 旗色が悪いことを悟った美穂ちゃんは咄嗟に俺の方を向いた。

「翔太先~輩、先輩は私の裸を見たのですから責任とって私の味方になって下さい」

 そして無茶な命令が来た。

 だが、また先ほどの件をぶり返されては敵わない俺としては選択の余地はなかった。とはいえ、彩先輩を悪く言うのは俺としては絶対にしたくない。となると……

「俺は、彩先輩のご両親が亡くなったことは今日初めて知ったのだけど、それとちょっと関連した話なら本人から直接聞いたことがあるんだ」

 当時は意味が分からなかった彩先輩が語ってくれた話。それを話してみようと思った。

「五月だったかな? 彩先輩と部室でニュースを見ていたら、一家で子供一人だけが生き残った殺人事件の報道があったんだ。先輩はそのニュースを聞いて、独りだけ生き残るのとみんなで死んでしまうことのどちらがより不幸なのか分からないと呟いたんだ。その呟きが俺には印象にずっと残った」

 今思うと彩先輩はきっと事件と自分の状況を重ねていたのではないかと思う。

「つまり、翔太先輩と私の話を総合すると彩先輩の皆殺し計画が発動されたという訳ですよ」

 うんうんと頷いてみせる美穂ちゃん。幾ら何でも話が飛躍し過ぎだ。それに皆殺し計画だったら自分も殺害対象に含まれるってこの子は理解しているのだろうか?

「いいかあ、よく聞け。彩先輩はな、普段は明るく優しくおしとやかで女神様が地上に現れたような方だが、人目につかない場所ではとても淋しそうな顔をしているんだよッ!」

 拓也の叫びにも熱が篭る。彩先輩とは出会ってもう一年以上になるが、今日は今まで気付かなかった面を沢山知った気がする。

「なるほど、それで彩は悲しみから全てをぶち壊す気になったと。うんうん」

 そして拓也の加熱ぶりを面白がる部長。この人は火に油は注いでも鎮火させるつもりはないらしい。

「俺は彩先輩のナイーブな面について真面目に話をし……ウブッ?」

 部長は突如拓也の怒りの声を遮ってその口にビール瓶を押し当て、その中身を口の中へと流し込んだ。

「ガハッ!」

 拓也は一言呻いたかと思うと、テーブルに突っ伏した。そして二度三度体を震わせたかと思うと、すぐに寝息を立て始めた。相変わらずの酒の弱さだった。

「フム、消化完了」

 部長は得意になりながら新たに瓶ビールを一本空けている。

「拓也先輩の馬鹿ぁあああぁッ!」

 拓也の賛同を結局得られなかった美穂ちゃんは自棄飲みを始めてしまった。

 俺はこの後の飲み会が荒れていくのを予感せずにはいられなかった。

 

 

*七*

 

「翔太先輩、起きて下さい」

 女の子の俺を起こす声が間近で聞こえて来た。鈍い痛みを発する頭に抗って目を開けてみる。見慣れない天井とショートカットの女の子の顔が見えた。女の子は美穂ちゃんだった。そして後頭部に当たる感触がやけに痛いことに気付く。体勢を把握してみると、俺は床に寝ていた。椅子から転げ落ちたのだか、自分から床に寝転がったのかは知らないが、とにかく俺は床で寝ていた。

 それで俺は昨夜のことを思い出した。拓也が潰れた後、俺は二人の絡み酒につき合わされ、途中でノックダウンしたのだった。

 昨日のプチ惨劇を思い出すと酔いが一気に醒めた。頭を起こすとリビングには俺と美穂ちゃんしか姿がなかった。

「あれ、拓也は?」

 美穂ちゃんが拓也より俺を優先する訳がない。だから拓也はもう起きている筈だった。

「その、気分が悪いと言ってお手洗いに行っています…」

 拓也は酒が飲めないだけでなく、酒が引かないというダブルに不幸な体質でもある。きっと今頃トイレで苦闘中だろう。

「じゃあ、部長は?」

 部長はあれだけ飲んでも翌日にはケロッとしている鉄の肝臓の持ち主だ。だから既に散歩なり、撮影なり何らかの活動中なのだろうと思った。

「それが、部長さんがどこにも見当たらないんです」

 ところが美穂ちゃんはちょっと聞き逃すには不穏当な返答をよこした。

「どこにも見当たらないって?」

「私が起きた時にはもう部長さんはいなくなっていて、車もなくなっていて……」

 美穂ちゃんの説明によると、美穂ちゃんが目を覚ましたのは俺達より一時間早い午前十時。その時には既に部長と部長の4WDの姿はなかったという。

「もしかすると、急用を思い出したとかで先に帰ったのじゃないかな?」

 卒論で指導教授に呼び出されていたことを急に思い出したとか。

「それにしたって、声も掛けず、手紙一つ残さずに急にいなくなるのはおかしいですよ」

 美穂ちゃんの言う事は確かに道理だった。確かに部長はチャランポランな人だが、筋とかけじめはいつも重んじていた。その人が急にいなくなるのはおかしい。とはいえ……

「いなくなったのが美穂ちゃんだったら俺も心配するけど、部長だったら心配ないよ」

 美穂ちゃんみたいな可愛い女の子ならともかく、ガテン系の部長が行方不明と言われても犯罪に巻き込まれてという可能性を考えることすら難しい。むしろ加害者側の方が想像し易い。

「普通なら翔太の言う通りなのだろうが、美穂の言うように気になる部分もあるんだ」

 振り返るとドアに背を預けながら拓也が立っていた。顔は青白く如何にも具合が悪そうだった。

「気になる部分って何だ?」

 拓也の真剣な声に俺も立ち上がって姿勢を正す。

「美穂、あれを翔太に見せてやれ」

 美穂ちゃんは首を縦に振るとリビングを出て行った。そしてしばらくして緑色の布を持って戻って来た。

「これって、部長のタンクトップじゃないか」

 それは昨夜まで部長が着ていたシャツだった。

「これが一体どう気になるの?」

 部長が上半身裸で帰ったというのなら確かに気になりはするが……。

「タンクトップの腹の辺りをよく見てみろ。赤黒く染まっているだろ」

 拓也の指示通りに見ると確かにそこは一面が赤黒い色に染まっていた。

「美穂が言うにはこれは血なんじゃないかと。俺には真偽の程は判断できないが、だからこそ血じゃないとは断言できない」

 言われてみると色といい手触りといい乾いた血がシャツに染み入っているようにも見える。しかし、親父が医者とはいえ医学に精通していない俺にはこれが血なのか判断できない。

「仮に血だとして、部長はお腹から血を出しながら無言でどこに消えたというんだよ?」

「だから気になる部分があると言ったんだろうが」

 拓也の声は苛立っていたが、言っている事はその通りだった。

「やっぱり、部長さんに何かあったんじゃ?」

 美穂ちゃんは泣きそうな声を出しながら部長の行方を心配していた。確かに一度部長と連絡を取った方が良さそうだった。とはいえここは陸の孤島。電話一つ通じない。となると……

「仕方ねえ。駅まで降りて部長の携帯に連絡入れてみるか」

「そうだな」

 俺は拓也に同意した。拓也の提案した方法しか俺達に連絡の手段はなかった。

「それでは翔太先輩、悪いですが拓也先輩の車を運転して駅まで行って頂けますか?」

「えっ、俺?」

 美穂ちゃんの提案にはちょっと面食らった。

「それは無理だろ。だって翔太は免許を持っていないのだからな」

 拓也の言う通りだった。運転しようにも俺にはできない。

「えっ? 翔太先輩、運転できないんですか?」

 美穂ちゃんの驚きぶりに俺は少しへこんだ。やっぱり免許も車もない男なんて女子大生には無価値に見えるのだろうか?

「そんな訳で駅には俺が向かう。部長が怪我をした状態で戻って来る可能性もあるから翔太と美穂はここに残れ」

「そんなあ~」

 留守番を告げられやたらと落ち込んだ表情を見せる美穂ちゃん。

 それでふと気付く。美穂ちゃんが俺に運転を要求したのは、拓也と一緒に留守番したかったからなのだと。部長の危機でさえ自分のチャンスに変えようとするのだからこの娘は本当に逞しい。

 

 

*八*

 

 拓也は車で駅へと向かった。移動手段を失ったこのペンションは本当に陸の孤島と化した。それはやはり不気味な感じがした。

 おまけに美穂ちゃんには

「二人きりだからって変なことをしたら駄目ですからね」

 予防線を張られてしまった。

 美穂ちゃんの中では昨夜のお風呂の一件は俺が覗いたと事実が変移しているようだった。本当に信用がないな、俺。そんな自分が少し悲しい。

 部長のことが気になって外出することもできず、美穂ちゃんと並んでリビングのテレビを見て過ごす。外界との連絡・移動手段がないのに情報だけは一方的に入って来るのは少し不思議な感じがした。平日の昼間なので面白い番組は特になかったけど俺達は不安を打ち消すかのようにテレビの前から離れなかった。

 時刻は午後四時を過ぎた。拓也が出発して既に四時間以上が過ぎていた。そろそろ戻って来ても良い時間なのに拓也の車の音は一向に聞こえて来ない。

 美穂ちゃんは段々とそわそわし始めた。俺も落ち着かない。気を落ち着かせようとテレビ画面に集中する。そして俺は県ニュースの交通事故に関するニュースの中でとんでもない放送に出くわしてしまった。

「……大学生高橋拓也さんの運転する軽自動車がカーブを曲がりきれずに街路樹に衝突。胸や頭などを強く打ち高橋さんは意識不明の重態です」

 そのニュースを最初聞いた時、悪質なドッキリだと思った。次いで腹が立った。拓也が事故を起こして意識不明の重態なんてそんな馬鹿なって思った。

 けど、テレビに映ったのは紛れもなく拓也の車で、事故現場は昨日見た森の中の道にそっくりで。そしてテレビ局が俺達をドッキリにかけても何の得もない訳で。

 俺は拓也の事故を認めるしかなかった。そして認めると同時に激しい悪寒が全身を駆け巡った。歯が音を立てて鳴り響き震えが止まらない。

 だけど隣から歯が擦れ合うもっと大きな音が聞こえて来た。見ると美穂ちゃんが頭を抱えながら全身を激しく震わせていた。

「拓也先輩が事故だなんて……嘘……嘘……嘘……」

 取り乱す美穂ちゃんを見て俺は少しだけ自分の心が落ち着いた。おかしなものだが人は自分以上に混乱している人間を見ると冷静になれるものなのだ。それに取り乱している女の子を前にして年上の男である俺がパニックに陥っては男子の沽券に関わるというもの。俺は必死で自分を奮い立たせた。そして美穂ちゃんの両肩を掴んで呼び掛けた。

「落ち着くんだ、美穂ちゃんッ!」

 俺としては精一杯の呼び掛けだった。

「拓也先輩……嫌ぁああああぁッ!」

 だけど美穂ちゃんは落ち着かなかった。

 拓也の名を叫びながら涙を流し続けた。

 俺では美穂ちゃんを落ち着かせることはできなかった。

 いや、俺という人間の存在によって彼女は自身の内に向けて放っていた負の感情のうねりを外側に向けたのかもしれない。

 だが、何にせよ美穂ちゃんは絶叫し続けた。

 そして俺もまた混乱していた。

 姿を見せない彩先輩、血だらけの服を残して姿を消した部長、そして拓也の事故。

 更に俺たちがいるのは陸の孤島。

 あまりにもできすぎたホラーサスペンスシチュエーション。

「大学の同好会合宿のドッキリにしちゃ手が込みすぎてますよ……彩先輩」

 俺の声は自分でもわかるぐらいに震えていた。

 

 

 後編に続く

 


 
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