No.53290

碧眼児、小覇王を越えて

最後の恋姫祭り作品、ということで思い切り趣味に走ってみました。

ギャク無しです
つまらないとお思いになるかもしれませんが、厳しいご意見、ツッコミお待ちしてます。

2009-01-21 01:25:37 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:14241   閲覧ユーザー数:10730

 

 

 窓の外で、ウグイスが のんびりと鳴いている。

 つい先頃までは裸であった梅の枝も、響き寄る初春の暖かさに蕾をほころばせ、紅と白の花色に蒼天を染め分けている。

 

 呉の地に春がやってきた。

 小覇王を失って後の、初めて迎える春である。

 

 

「……之を取りて燕の民 悦ばば、すなわち之を取れ、古の人 之を行える者あり、武王是れなり。之を取りて燕の民 悦ばずんば、すなわち之を取るなかれ、古の人 之を行える者あり、文王是れなり」

 

 

 窓から春の陽気をいっぱいに取り入れる室内で、冥琳――周瑜公瑾は、新たなる主のために書物を読み解いている。美周朗と名高い彼女の声音は、堅苦しい礼書を朗読させても その音曲は艶なる詩文のようであり、聞く者を別世界へといざなう。

 

「………………」

 

 その冥琳と机をはさんで向かい側に、現・呉主である蓮華――孫権仲謀が座っていた。が、目線は焦点定まらず、頭はうつらうつらと舟をこぎはじめている。

 うららかな春の陽気と、美周朗の滑らかなる美声、昼寝の共とするにはもってこいの組み合わせだ。

 

「………蓮華様」

 

「ひうッ…………ッ!?」

 

 冥琳に呼びかけられ、蓮華は不意打ち的に夢の世界からの帰還を果たす。

 

「…寝てない、寝てないぞ私はッ!」

 

 反射的に出たそのセリフに冥琳は思わず苦笑した、アレだけ これ見よがしに熟睡しておきながら。

 

「それでは連華様、アナタが私の授業を無視して居眠りしていなかった証明に、私が今読んだ部分を意訳していただきましょう。眠っていなければ わかるはずですね?」

 

「う…」

 

 蓮華は喉を絞められた鶏のような声を出した。仕方なく冥琳は、広げてある書物から、ある一文を指でトントンと示す。

 

(甘い教師だ……)

 

 冥琳は自分自身にも苦笑する。

 蓮華は あっと顔をほころばせ、

 

「之を取りて燕の民 悦(よろこ)ばば、すなわち之を取れ、…ね?」

 

「その通りです、では その意味は?」

 

 蓮華は自身の脳中で考えをまとめる僅かな時間の後に言う。

 

「この書物、――『孟子』が書かれたのは春秋戦国の頃で、韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦の七国が割拠しあう乱世の時代だった。さらにこの一文が書かれたのは、斉の国が燕の国を攻め滅ぼした際のことで、いくさに勝った斉の王に、孟子が言った言葉」

 

「まったくその通りです、では、その心は?」

 

 

 之を取りて燕の民 悦ばば、すなわち之を取れ―――、燕の国を奪い取って燕の民が喜ぶなら、国を奪いとってもいい。

 之を取りて燕の民 悦ばずんば、すなわち之を取るなかれ―――、燕の国を奪い取って燕の民が喜ばないなら、国を奪いとるべきではない。

 

 

「それはつまり、私たち武人が国を攻めるのも、その善悪を決めるのは民だということだ。旧主が悪政をおこない民を苦しめているならば、民は新主を開放者として歓迎しよう。逆に民を慈しむ旧主を追い出して善政を捻じ曲げたとすれば、民は新主を侵略者として忌避し、その施政には けっして従わぬ」

 

「満点です蓮華様、それに免じて居眠りの件は許して差し上げましょう」

 

「だから、居眠りなどしていない!」

 

 顔を真っ赤にして抗議する蓮華に、冥琳はクスクスと笑った。

 孫家三代に仕えてきた彼女にとって、蓮華の居眠りなどイチイチ目くじらを立てるまでもなかった。孫家の勉強嫌いは今に始まったことではない、蓮華の母・孫文台、蓮華の姉・孫伯符、それに蓮華の妹・孫尚香いたるまで、勉学となれば すっぽかして外で遊びまわるのが常だ。

 その点、蓮華はまだ机に向かってくれるだけマシといえよう。

 

「眠気覚ましに休憩でもしましょうか」

 

「だから、私は眠ってなど……!」

 蓮華の言い訳を聞き流しているうちに、侍女がテキパキと冥琳の求めに従って、机上に茶と茶請けを並べてくれる。

 蜜煮の金柑が入ったお茶に、蒸し餅を摘みながら、蓮華と冥琳は勉強に一区切りをつけた。

 

「どうですか蓮華様、儒学の勉強はモノにできそうですか」

 

 茶碗に浮いた金柑の皮を指先でつつきながら冥琳は蓮華に尋ねた。

 

「……なんとかね」

 

 蓮華は忌憚なく言う。

 彼女の姉、先代孫策が急逝してから もう半年以上が経つ。その間、思いがけず王位を継いだ蓮華は昼夜を問わず勉学に打ち込み、何の準備もできないまま江東の主となった自分の素養を育て続けてきた。

 それは言語を絶する苦しい戦いだったであろう。

 自分の丈に合わない衣服に自分自身を合わせようというのだ。

 その辛苦の戦歴を、もっとも近くで見守り続けてきたのは この冥琳だった。

 この王佐の才を持つ者の前で、王・孫権は一人の少女のように微笑む。

 

「王様になると、学ばなければいけないことも格段に増えるのね。以前は軍略さえ学んでいればよかったのに、今では加えて土木、経済、施政、それにこの『孟子』のような儒学まで、数え上げればキリがないわ」

 

「……蓮華様は、この『孟子』の書をどう受け止められましたか?」

 

 冥琳が試すような口調で問いかける。

 

「そうね……、とても興味深い書だと思うわ」

 

 蓮華が茶の甘みを味わいながら答えた。

 

「儒学には、政治のことではなく、政治が人に対していかなる意味をもつかについて記されている。さっきの一文もそうだわ。…民が望むなら攻めるもよし、民が望まぬなら攻めるべからず。これに当てはまる事例は、この時代にもいくつだってある」

 

「たとえば我ら孫家が袁術を破って江東を手に入れたことですね。民の生活に何の関心も示さなかった袁術は、たしかに除かれるべき暗君であったでしょう」

 

「だからこそ雪蓮姉様は江東の主として民から迎えられた。姉様は民が さきわうための方法をちゃんと実行したから。……………でも冥琳」

 

「はい」

 

「だとすると曹操の侵攻はまったく逆の例になるのでしょうね。我が江東の民は姉様の施政に満足していた、それは疑いない、にもかかわらず曹操は我らの地を侵し、挙句 姉様に刺客を放って暗殺した」

 

「その通りです、蓮華様」

 

「江東の民は、曹操の施政などけっして望んではいない。それを押して この地に踏み入ろうとする曹操は民の意に反するものだろう」

 

 たしかにそれも一理ある、と冥琳は思った。

 しかしこの王佐の才を持つ者は、それとは別に、それだけでは説明しきれないものが曹操にはあるという直感をもっていた。

 

 儒学とは、仁・義・礼・智・信という人間の善なる特性をもって世を治めようとする思想だ。

 仁を重んじ、義を守り、礼を尽くして智恵を絞り、信じあいさえすれば戦争など起こりようもない、そういう学問だ。

 

 しかし曹操は、そういう思想を頭からバカにしている節がある。

 儒学の言うことは理想論に過ぎず、人に仁義あるのなら、それとは反対の汚い感情も心に眠っているという現実を鋭く見抜き、それらすべてを ひっくるめて支配に利用する。

 そんな気概が曹操という人物からは匂ってくる。

 

(そこを理解しない限り、蓮華様は曹操に勝てないのではないだろうか?)

 

 という危惧が冥琳の脳裏をよぎる。

 

「……でもね、冥琳、最近私は思うことがあるの」

 

「なんでしょうか?」

 

「雪蓮姉さまも、曹操と同じではないだろうか、って」

 

「?」

 

 一瞬、冥琳の思考が止まった。蓮華は冥琳の思考の虚を突いたのだ。

 

「それは、何が同じと言うことでしょうか?」

 

「雪蓮姉様は天下統一を大望に掲げておられた、江東を袁術から奪取したのはその第一歩に過ぎなかった」

 

「その通りです」

 

「お姉様が天下に名乗りを上げた あの頃、中華には同じような大望を抱く士で溢れかえっていた。袁術、袁紹、劉表、劉岱、橋瑁、公孫賛、呂布、張超、馬騰。その中には『孟子』のいう攻め滅ぼすべき悪政者もいただろう。しかし今、そのすべては実際に滅ぼされ、残っているのは私たちと曹操、それに劉備ぐらいのもの」

 

「はい」

 

「そこまで勝ち残った者ならば、まさか愚か者もいないだろう。民への治世も、人一倍の配慮をもって当たるだろう。だが天下統一の志とはそういう者たちをも踏み潰して行かなければいけない道。雪蓮姉様ならきっとそれを成し遂げたに違いない、姉様には それだけの実力があったのだから」

 

「…………」

 

 冥琳はついに一言も発せなくなった。

 

「…でもそれは、『孟子』のいう民の望む国取りであるだろうか、曹操と同じ、大義なき侵略に過ぎぬのではないだろうか」

 

 雪蓮の大志は本当に正しかったのか どうか。

 

「今の私には わからなくなってきたの」

 

 蓮華は金柑の皮が浮かんだ茶碗を見下ろしたまま、ついに言葉を吐き出しつくしてしまった。

 蓮華本人をはじめ、呉のすべての将兵が尊敬の対象として見、もはや神格化されたともいうべき孫伯符の虚像。その今は亡き雪蓮の虚像に疑問を投げかけてしまったのだ。

 雪蓮の後継者である蓮華自身が。

 

「……では蓮華様は、呉はこれ以上 他国を攻めるべきではない、と仰られますか?」

 

「冥琳……」

 

「魏や蜀が膨張し、いつか あちらから攻めてくるその時まで黙って見ていろ、と仰られますか?」

 

「そ、そうは言っていない!……ただ、私は…………」

 

 蓮華はそれ以上 言葉を発しなかった。

 

(そこから先の、自分を語る言葉は まだ得ておられぬか……)

 

 それでも冥琳は、この若い君主の成長を満足に見届けた。

 

「蓮華様、この『孟子』の書が、世になんと評されているかご存知ですか?」

 

「え?」

 

「無用無益の書です」

 

「はぁッ?」

 

 蓮華は素っ頓狂な声を上げた、だが上げたくもなるだろう。彼女は王としての素養を磨くために、最近はこの『孟子』を精読し、その理解に幾夜も費やしてきたのだ。その『孟子』が無用無益の書なら、彼女のここ数日の努力も無駄になってしまうということになる。

 しかし蓮華の戸惑いも無視し、冥琳はスラスラと話を進める。

 

「たとえば、『孟子』に こんな一説があります」

 

 

 ―――仁をそこのう者 之を賊といい、義をそこのう者 之を残という。残賊の人は之を一夫という。

 ――― 一夫 紂を誅せるを聞くも、いまだ君を弑せるを聞かざるなり。

 

「これは、孟子が ある人から『殷の紂王を倒した周の武王は逆賊であるか?』と問われた時に、返した答えです」

 

 紂王とは、蓮華たちの生きる三国時代からさらに1200年前に存在していた殷王朝最後の王だった。

 その性格は暴虐で、王の立場を悪用して非道の限りを尽くし、民を苦しめ国を衰えさせたため、当時西方の一領主に過ぎなかった姫発に打ち倒された。

 その姫発は後に武王を名乗り、新たな王朝・周を立てる。

 

「『孟子』の言葉の意味はこのようなものです」

 

 ――仁や義を蔑ろにする者は一夫(一庶民)に過ぎない。ゆえに暴虐をおこなう紂王も王ではなく一夫である。

 ――ゆえにそれを武王が処罰したところで、なぜ武王を逆賊と呼ばねばならぬのか。

 ――武王は罪人を罰したのであって、王に反逆したのではない。

 

「それが何を意味するのかわかりますか、蓮華様?」

 

「……わかる」

 

 蓮華は恐る恐る、言った。

 

「つまり『孟子』はこう言いたいのね、王という存在は、代々続く血脈によって決められるのではなく。いかに民を幸せに導くかで決められる、と」

 

「そうです、『孟子』は血脈による王位継承を否定したのです」

『孟子』の中にはそういう記述が幾度となく繰り返し登場する。『孟子』は権力者にただひたすら仁政を求め、それを行うか否かだけを王者の価値とする。

 

「だから、たとえば雪蓮が文台様の娘であることが孫呉の王たる資格にはならず、また蓮華様が雪蓮の妹であることも孫呉の王たる資格にはならないのです」

 

「私に、孫呉の王たる資格があるかどうかは、どれだけ民を慈しみ、その生活を守るか、それだけに掛かっているのね?」

 

「ご明察です蓮華様。そして大半の権力者にとって そんな『孟子』の言葉は煙たいだけのもの」

 

 だから世は『孟子』を無用無益の書とし、権力者はこれを遠ざける。

 ある国の話では、この『孟子』の書を乗せて運ぶ船は、必ず海に沈むとすらいわれる。

 

「……ですから、最初 蓮華様の帝王学の参考書として この『孟子』を加えることに、文官たちはこぞって反対しました。私ひとりが無理押しして『孟子』を教卓へ上げたのです」

 

 そんなこと蓮華は初めて聞いた。

 

「冥琳、…アナタはなぜそうまでして私にこの書を読ませたかったの?」

 

「今のアナタに必要なものだと感じたからです」

 

 冥琳は表情を変えずに言った。

 

「そして、私の直感は どうやら正しかったようです。たった今アナタは、『孟子』の言葉を借りて、雪蓮という前王の影から脱することができた。―――それは、孫仲謀という新たな王が上げた産声といっていい」

 

 もし雪蓮が生きていれば中華全土を統一する覇王となっていたろう、しかしそれは中華全土の民が望むことであっただろうか。

 その疑問が、雪蓮が掴み取ろうとした覇王の形と、蓮華が築き上げようとする王の形とを別のものにする。

 

「冥琳、そんな大袈裟な……」

 

「蓮華様、今のアナタならば、雪蓮の受け売りでなく、アナタ自身の理想として掲げる国の形を語れるはずです。どうかその理想を この周公瑾にお聞かせください」

 

「そんな、私は……」

 

「拙い言葉でも、幼い言葉でも構いません。アナタの志は今生まれたばかりなのです、その純粋で汚れを知らぬ理想は、やがて この呉を発展させる原動力となるでしょう。……ゆえに、今」

 

 蓮華は戸惑ったが、冥琳に迫られることで彼女は意を決し、言葉を紡ぎ始める。

 

「でも私は、本当に大したことなんて望んでないの。私の願いは、姉様が築き上げたこの国の民が いつでも笑ってすごせること。そのためなら私は、どんなことでもするつもりよ」

 

「はい」

 

「でもそのためには、私自身の力は圧倒的に不足している。劉備は徳で、曹操は法で、蜀や魏をどんどん発展させているというのに、私には奴らに対抗できるような『何か』をもっていない。このままでは呉は、蜀や魏に大きく立ち遅れてしまう……」

 

 そんなことはない、といって蓮華を慰めるのは簡単だった。しかし冥琳はそれをしなかった。

 その先の答えは蓮華自身が導き出すべきなのだから。

 

「でも私には、いえ呉には、劉備の徳・曹操の法に対抗しうるものが一つだけある。それを大いに用いれば、呉は他国を圧する大国へと成長することもできる」

 

「北郷ですね?」

 

 そこで初めて冥琳が口を挟んだ。蓮華は虚を突かれ、しばし言葉を止める。

 

「………冥琳はなんでもお見通しなのね」

 

「中華広しといえど、アレより珍しいことを言う者は他におりますまいから」

 

「そうね、その通りよ、一刀が話してくれる天界でのしきたりは、私たちには想像もつかないことばかりだった」

 

 政治においては民主主義に代議制、選挙制、経済においては貨幣流通、株式、広告収入、賃金制、歩合制、数え上げればキリがない。

 

「あらあら、蓮華様と北郷が話すことといえば、愛の睦言ばかりだと思っていましたが」

 

「冥琳!こんなときにからかうな……ッ!」

 

 顔を真っ赤にする主に、冥琳はクスクスと笑った。

 

「北郷の話は、煌びやかですからね………」

 

「ええ、私たちの常識を遥かに越えるほど。そんな一刀の、先進的な思想を導入すれば、呉は他国よりも一層発展することができる、そう思わない冥琳?」

 蓮華は表情を輝かせて問いかけてきた。

 その表情がいい、と思った。国の行く末に心躍らせることはできるのは、王にだけ許された特権だ。

 

「……一つだけ、ご注意を喚起しておきます」

 

「え?」

 

「北郷の知識はたしかに魅力的です、しかし良薬も使い方を違えれば毒となるように、北郷の知識にも危険がひそんでいることもお忘れなきように……」

 

「め、冥琳……」

 

 蓮華にとって、後見人というべき冥琳の この冷えた反応は、裏切られたと思うほど意外なものだった。

 

 そう、北郷一刀の未来の知識には、蓮華たちの生きるこの時代に絶対に噛み合わない問題点がある。

 一刀の生きる時代は、民主主義だということだ。

 即ち、一刀の生きる時代に王はいない、ゆえにその施策はことごとく王を不要のものとする。

 もしこの先 蓮華が、一刀の知識を利用して呉の政治に組み込んでいけば、民意は一人歩きし王から政治を取り上げ、ついには呉王としての孫家を有名無実にしてしまうかもしれない。

 

「それが、北郷の知識にひそむ毒です」

 

 蓮華たちの生きる時代は、良く悪くも王、もしくは天子という特権者を中心に回る世界。その特権者たちが、自分たちの特権を失わせるような施政を受け入れるだろうか。

 

「雪蓮も、そういうことに気付いていたようです」

 

「姉様も…?」

 

「あるとき私が北郷から、学校、というものの話を聞いていると、横から聞いていた雪連は言下にそれを否定しました。民に知恵をもたせるべきではない、それはいずれ反乱の火種となるから、と」

 

「姉様は そんなことを言ったのッ?」

 

 蓮華は驚き戸惑いながらも、そんなことを言った姉の態度がわかる気がした。

 思えば雪蓮は、一刀の天界の知識に何の興味も示していなかったように思える。姉が興味をもっていたのは ただひたすら一刀の存在そのもの。

 知識の方には見向きもせず、したとしても一刀に尋ねるのは酒や遊びなどの雑談レベルがせいぜいだった。

 

「雪蓮は、北郷の知識がもたらす、王政を蝕む危険性を本能的に察知していたのでしょう。だからこそ雪蓮は、北郷を呉の名声を上げる御輿としてしか扱わなかった」

 

「危険な部分には、あえて手を出さなかった、と?」

 

「そうとも言えますね」

 

「しかし私は そんな危険性にも気付かず、浮かれたままに一刀の知識を政治に組み込もうとしていた。……姉様はちゃんと気付いていたのに、まだまだ私は姉様に及ばないということね」

 

 蓮華は声を暗くして下を向いた。

 自分の未熟さが、またも偉大な姉を通じて浮き彫りになった、という気分なのだろう。

 

「ですが蓮華様、こう考えることはできませんか?」

 

「え?」

 

「所詮 雪蓮は王としては、北郷のことを それほど重く求めてはいなかった。一人の女としては どうであったか知りませんが。ですが蓮華様、アナタはどうでしょう?」

 

「ええ?」

 

「アナタは北郷の知識を、魏・蜀に対抗しうる切り札として取り上げようとした。それはつまり蓮華様は、王として北郷を強く求めていらっしゃるということ。そして女としても激しく北郷を求めておられる」

 

「冥琳!だから今はそういう話は……」

 

「少なくとも蓮華様、北郷を思う気持ちでは、アナタは雪蓮より格段も上ということですよ?」

 

「ひう」

 

 蓮華は変な声を出し、唇を変な形に歪めて固まった。

 やがて、段々と平静を取り戻していくと、

 

「………そんなことで勝ったって嬉しくなんかない」

 

 と照れ隠しの言葉を吐き出した。

 その仕草が可愛らしくて、冥琳はついつい吹き出す。

 

「冥琳ッ、笑うなッ!」

「フフッ、失礼、でもそういう可愛らしさが蓮華様の王としての魅力なのかもしれませんね」

 

「誤魔化されないからな!」

 

 おや、完全にヘソを曲げられてしまったか。だが さっきまでの無力感に沈んだ顔よりは ずっといい。

 

「やれやれ…、話が脱線しすぎてしまいましたね。今日の授業はここまでにしておきましょうか」

 

「『やれやれ』は こっちのセリフだわ。たしかにもう勉強する気分じゃない、授業を切り上げてくれるのは ありがたいわね」

 

「そして、北郷に会いに行きますか?」

 

「冥琳ッッ!!!!」

 

 どうやら からかいすぎたようだ、蓮華の目に本気の怒りが宿りつつある。

 

「……蓮華様」

 

「な、なんだ?」

 

「もっと北郷と絆を結び合いなさい。北郷のことをより理解し、ご自分のことを北郷に理解してもらい、そうした上でなら北郷の知識を政治に活かすのも良いでしょう」

 

「で、でも、それは姉様が……」

 

「アナタは雪蓮ではないのです。雪蓮が使いきれなかったものを、アナタが使いこなせることだってある」

 

 パタン、と扉が閉まった。

 冥琳はそれだけ言いっぱなしで部屋から出て行ってしまったのだ。

 

 なんとなく取り残された感のある蓮華は、しばらくの間 呆然としていたが、やがて思い出したように、

 

「………一刀に会いにいこ」

 

 と自分もいそいそと部屋から出て行った。

 

 

 

 今日の授業は、冥琳にとって とても収獲の多いものとなった。

 なにしろ初めて蓮華に王としての萌芽を見ることができたのだ。

 

「……しかも雪蓮、蓮華様の王器はアナタより上よ」

 

 冥琳は庭先に咲く梅花を眺めながら呟いた。

 

 たしかに雪蓮は、一刀の先進的過ぎる知識の危険性を見抜き、これを遠ざけた。

 蓮華は、そういうことに頓着なく、一刀の知識を政治に組み入れようとした。

 

 その点の用心深さは、たしかに雪蓮に分があるかもしれない。しかしそれは、別の言い方をすれば一刀の知識がもたらす革新を雪蓮は恐れていたということになり、ひいては既存の王から脱却することのできない雪蓮の限界を示すものだともいえる。

 

 しかし蓮華は恐れることなく一刀を受け入れた。

 それは、呉の国が、これまでの中華のどこにもなかった新しい国へと進化できる可能性を示すのではないだろうか。

 

「……雪蓮、アナタは元々、呉に 天の血を入れるために北郷を迎え入れたのだったわよね」

 

 冥琳は天に向かい、今は亡き盟友に語りかけた。

 

「アナタの目的は達せられそうだけど、少々違う形になりそうよ」

 

 蓮華は、一刀を父に、自分自身を母にして、新しい孫呉を生み出そうとしている。

 

「アナタですら想像もできなかった孫呉よ、雪蓮」

 

 そう呟くと、冥琳の四肢には言い知れない熱さが込み上げてくる。

 新たなる王が生み出す 新たなる国。それを もっとも近いところで見届けることができる悦びに、冥琳の王佐の才が打ち震えているのだった。

 

 しかもそれは曹操のような法や理でもたらされるものではない。

 蓮華が新しい国作りの起点とするのは、あくまで王が民を慈しむ心、『孟子』が圧倒的なまでに説き続ける仁政の志によるものなのだ。

 

「だとすれば雪蓮、アナタはいい時を選んで退場したのかもしれないわね」

 

 雪蓮は例えるならば炎だった。

 炎のように熱い雪蓮の覇気は、袁術を初めとする旧悪すべてを焼き払い。細かい垣根に分けられた江東を、たった一つの焼け野原にした。

 

 そして その焼け野原に、次に現れた蓮華は、雲だ。

 蓮華という雲は、一刀という日輪と交わって雨を降らし、いくさの熱に焼かれた江東を慈雨で癒し、やがては草木を実らせて、豊かな国へと発展させる。

 

「なんと見事な代替わりなのでしょうね」

 

 だとすれば、あそこで雪蓮が命を落としたのも、天が孫呉のために定めた天命なのであろうか。

 

「それでは天よ、この周公瑾の天命は、どこにあるのでしょうか?」

 

 この友のいない孫呉の大地に立ち、冥琳は北へ視線を向ける。

 北から、雪蓮を超える炎が迫りつつある。

 

「……曹操」

 

 死者は留まり、生者は歩み続ける。

 だとすれば今の曹操の覇気は、雪蓮と天下を競い合っていた頃のものとは まったく別物だろう。中原だけでなく、中華全土を焼き払うほどの曹操の猛炎が、この孫呉にも襲い掛かろうとしている。

 

「私の天命は、それから蓮華様の新しい国を守り抜くこと…?」

 

 そうかもしれない。

 蓮華と一刀が築き上げる、この新しい国の完成を見届けること、それが王佐の才を持つ自分の、最高の天命といえよう。

 

「……曹操、蓮華様と北郷の呉に、お前の法理は必要ないぞ」

 

 だとすれば曹操の侵攻は、民の望まぬ あざとい侵略なのであろう。

 殷の紂王のように、一夫として滅び去るか?

 

 冥琳の長く艶めく黒髪を、一陣の春風が撫でた。

 その春風には僅かに いくさの匂いが含まれていた。

 三国の王者を決める決戦は近い。

 

終劇


 
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