|
No.1191823
【哲学シリーズ27】アイイル哲学3
eye-elさん
アイイル哲学(滝口哲学)
過去と現在の記憶(記憶と「意識」)
多声世界
「先進国」
娯楽民主制
病児教批判
構造主義への批判
人間からの邪悪
オペラント教育(実は、虐待教育)
大サーターヌ(サーターヌ)・反サーターヌ(反世界(と言う批判))
2026-08-19 17:26:20 投稿 / 全30ページ 総閲覧数:57 閲覧ユーザー数:57 |
世界とは、過去と現在、二種の記憶である
「現在」という概念だが、実は、意識ではなく、記憶である
0.5秒程、現代医学で言う「意識」は遅れていると言う
…と言う事で、0.5秒間程、脳は遅れて、思い出すのである、後から記憶がよみがえるのであって、したがって、「意識」は存在しない
……しかし、連続的な記憶はある 連続的な、現在的の、記憶、それが「意識」の正體(しょうたい)である しかも、この「意識」、過去の記憶と互いに整合性を確かめ合う性質を持っており、記憶は記憶でも、鮮明さで、過去と現在で異なるものなのだ
過去の記憶で理性的に整合性が取れない「意識」の部分は、超「意識」的な幻覚である 「意識」とは記憶である(つまり、幻覚は専門的な用語で置き換えると、※「作話」なのである 幻覚的な「病気」は皆、作話という事になる(現在的な記憶の現在的な作話=「病気」))
※「作話」…記憶障害がある人が、だます意図はなく、抜けた記憶を埋めるために事実とは違う話や作った話を無意識に語る症状です。本人は嘘をついている自覚がなく、正しい記憶だと思い込んでいます。(「社会福祉法人 恩賜財団 済生会 ホームページ」「コルコサフ症候群のページ」)
作話には、「病気」という”錯覚の作話”と、「~の為に」という”太陽の作話”とがあり、”錯覚の作話”が病気に利用される作話、”太陽の作話”が病気を利用する作話である
………ニーチェや私の話を総合すると、今の世界は「作話世界」である ニーチェか、ニーチェと名乗る者はこの意味を良く考えていただきたい
ニーチェがもし生きていたとすれば、「この世界は病気である」よりも「作話世界」の方が近い形であり、いかにも「この世界は病気である」の文言はニーチェの嫌っていた、”宗教的”であるのだ
…実際、私は、病気とは、「聖なる大ウソ」であると断ずる
気性とは、以下の五気性、
・知気性
・勇気性
・忍気性
・妙気性
・機気性
…どれもこれも、”気性が強い”という意味での気性なんてない
多声世界
世界と世界の中の「存在」というのは「声(こえ)」である
言語的にせよ、イメージ(表象)的にせよ、混声的にせよ、声は声であり、世界の最小単位とは、「一声(いっせい)」だろう
…よって、この世界は
「多声世界」
である
知覚とは、知的に蓄積する感覚の事、感覚は無条件のものではなく、知的に蔵倉(ぞうそう・いわゆる「知性」)に蓄積して、それから表れる
「先進国」の基準と言うのは、世界初の、日本の栄養士制度や中東の病院制度などの科学を実際に活かす者、科学者系の制度の発展に貢献したかどうか? 自分たちの国家を自分たちで潰していないか? である
…それによれば、「先進国」は中東(イスラエル除く)、日本の二領域だろう
…また、フランスも「先進国」にしては、国内に問題が多く、外す事が検討される
……論外な例として、アメリカもあるが、こいつは心理学を挙げて、「オペラント教育」とか言う虐待教育を広めている有様
入れ直すとしたら、神聖ローマ帝国の後釜のドイツか、ローマ帝国の後釜のイタリアだろう
…しかし、イタリアも「先進国」扱いのくせに、ソムリエ(酒師)とか言っているし、ドイツはドイツで、ユダヤ人に通常感覚(常識)を潰されて、英雄ヒトラーをバッシングすると来た
…あの日本など、昭和天皇や明治天皇をバッシングする事は避ける、他の東郷平八郎、山本五十六、後、最後の英雄、舩坂弘など…バッシングする事はあり得ないと言うのに…
イギリスやアメリカ、イタリア、ドイツ、フランス、後、なんだお前、カナダ、こいつとかなんもやってないだろ… 「先進国」なわけないだろこの六国
狂人・廃人の特徴
・精神的なものを何の疑いもなく解体してしまう
・国際的なもの、社会的なものをあくせくウソを吐く
「”不”常識」と「常識人」は言う
…実は、「不常識」とはイスラム的な「不信仰」を解体して、自分たちの言葉、「常識」にくっつけただけのものにも関わらず ”何の疑いもなく”というのは、狂人の特徴である
「”国際的なもの”をあくせくウソを吐く」の、”国際的なもの”とは「ニーチェ」という国際人を含む たとえば、”ニーチェは「この世界は病気である」と言った”などと言っていても、それはウソであり、社会人として踏み越えてはいけないラインを越えている そう言う輩には、「ああ、(デカダンス)廃人で、ウソ吐きなんだな(知識を盗んで、足りない部分を作話的に、自分の都合良く意見を通す為、ウソを吐いているんだな)」とでも思っておけば良い
デカダンス廃人にこう言うものがある 「神罰」または「天罰」こと超「意識」的な幻覚、まあ、要するに、幻覚だ
…本気で「プレート説」があり得ると思っている「常識人」が見せているもの 「熊本大地震」に関しても、この病児教の狂信者がウソ吐いて、フェイクニュースを通している それは、デカダンス廃人の特徴にも関わらず …所詮、廃人は廃人だから、そう言うウソを平気で吐けるのだ
……デカダンスの仕組みについては既に説明したが、デカダンス廃人と思える子供じみた行動をすると錯覚させる事自體が、デカダンスであって、そもそも、デカダンス廃人がこんな力を持っているかよりは、私たちが勝手に集団幻覚を見ているだけという事
まあ、言ってみれば、色々な恣意的な地震などの現象と、フェイクニュースとは、全く別の系統のウソであって、同じような発信者からではないという話 つまり、一方は病児教徒がウソを吐いているだけだが、もう一方は作話の世界に私たちの方が巻き込まれているだけと言う …わざわざ、いい加減な情報(特に「プレート説」)と現実の状況を繋ぎ合わせないように…
ニュースでもチラッと見えたけど、熊本イオンモール無傷のようだったよ
シュタイナーとか、ガブリエルとか、病児教徒(ほとんどキリスト教徒)がいるが、昔(ルネサンス時代以前)の「信仰」(「敬虔で善い」)とか、「無信仰」(「放縦で悪い」)とか、言ってるくらいの文化レベルなのだよ
…あいつら、決まって根暗に、「無信仰者の言う事は聞くな」って、自分に言うみたい
…確かに、ユダヤ人みたいなデカダンス廃人の言う事に耳を貸す事ないな ……刺激するのもヤバイけど……
…たとえば、女性で、「肉體的で健康」としての価値は巨乳という象徴界のものだが、キリスト教中世ヨーロッパでは、貧乳である事が価値とされた
……それが女性にとっての信仰の表れとされて、女性は(現代とは逆に)「精神的で不健康」であれば良いとされた
現代の価値観で、そう言う「健康を健康と認められない」、引いては「巨乳を巨乳と認められない」レベルの人間を、病児教または病児教徒と呼んでいる(たとえば、巨乳を「エロい」などと言って、呪いや魔法レベルのものに引き下げている事も幼稚な、「健康を健康と認められない」人間なのである)
…つまり、「常識」としては、女性とは、「精神的で不健康」の方が良いといまだにされているわけだ
この未文化人めが
引きがなく、気が強い女は魅力とは正反対の民族的堕落力である(「ツンデレ」という言葉とキャラクターが示す通り、女性的な魅力とは引きにある)
私の考える「決定論」とは、これである
世界は事実的である
事実は変えられない 赤ちゃんが泣いたとしても、どんな権力者が世界に命令したとしても、人間があらゆる手段を尽くして、事実を止めようとしても
…だから、事実をそのまま知る事が世界を理解する事に繋がるので、私は事実的に世界を構築する
人間は本能と存在のあり方として「それ以下にはなり得る」
…これが自由意志論の結果である
最高の生き方としては通路がいくつもあるように見えるが、ただ一つしかない(将棋の「定石」と「詰め将棋」の考え方と同じである)
…しかし、自由意志論を持っている人間がポカをやらかす度に、最高の生き方を目指す決定論者がさらに上のところに行きやすくなる これは、自由意志論者と決定論者を人々が比較して、決定論者を支持し出すからである 民主主義ではそれが一段と行われやすい(自由意志論者が引き立て役やかませ犬になって、決定論者を実際より上に見せるのだ)
自由意志論とは、キリスト教宣教師をしても、行動神学的に「惰弱」とされた、インドの「劫(カルパ)」思想を前提としており、まず、劫的な「作話の世界」が実在する事が奥底にある
自由意志の目的・理由として「”より良く”する為」にも関わらず、結果として現実世界ではむしろ、トランプ、プーチン、ネタニヤフの世界での暴虐っぷりから「”よりわるく”する為」に存在しているとしか言いようがない
…非常に劫が堕落的(堕落力)論理であるように、自由意志もまた堕落的(堕落力)なのだ
※「劫(カルパ)」…インド思想における「永劫回帰」に似た時間観としては、ヒンドゥー教や古代インドの宇宙論にみられる「円環的(循環的)な時間観」や「輪廻(サンサーラ)」、そして宇宙の創造と破壊が無限に繰り返される「劫(カルパ)」の思想が挙げられます。
私たちは多民族多様多義(多民族、多様なあり方、多様な見方)である この事実をまず、受け止めねばならない
幻覚および錯覚および攻撃性うつ
うつと言うのは、意味として、”内向的になる”、または、”内部に閉じこもる”であり、デカダンス(乗り移る事の錯覚)廃人は、この「幻覚および錯覚および攻撃性うつ」なのだ 後、幻覚性うつ病者は攻撃する
内部に外部の情報を見つけたら、そりゃあ、幻覚性うつ病者は楽しいだろうね?
現実世界を「ゲーム」として、チート方法(抜け穴)を見つけたようなものだからねぇ…
娯楽民主制
…世の中には娯楽民主制というものがもーー、既に、確立されている
自由意志論に対して、決定論は事実を知る事が暇つぶしの道具になる、したがって決定論は娯楽民主制側の思想である
…たとえば、ニーチェの「独立性の哲学」として、健康的な社会の三階級がある
日本社会では、天皇が皇帝で一番、思考的に独立している、他には、皇室など
…二番目に民主制によって選ばれた政治家、娯楽民主制によって選ばれた娯楽政治家
…三番目に社会人と呼ばれる人たちが来る
(独立性が皆無の人間として、最下層民が来る)
…これを知る事だって、事実的な娯楽政治の一つとも言えるかも知れない…
虚無主義者(ニヒリスト)は最下層民
有名な虚無主義者としては、マルクス・ガブリエル、ピーター・ティールなど、彼らは”無”を自称する人間であり、最下層民に含まれるのだ
…実は、虚無主義者はキリスト教徒や社会主義者でもあり、それぞれ、世の中や労働に対して、価値や意味を認めず、それらを打ち壊そうとする事をキリスト教徒の虚無主義(ニヒリズム)性、社会主義者の虚無主義性と言い、犯罪者の側面として、これら二つもまた、代表的な最下層民である
……積極的虚無主義(ニヒリズム)として、ヨーロッパの哲学における批判継承や仏教がある 批判哲学や仏教もともに、先人の哲学を否定し、進み行くというものだったが、ヨーロッパの哲学は批判においては認めざるを得ない なぜなら、それが、ニーチェの、キリスト教を土台とするヨーロッパの哲学全體を否定する事に繋がるからである 積極的虚無主義として、ヨーロッパの哲学では哲学そのものを否定し、仏教では自分そのものを否定した もっとも、仏教では自性を否定する代わりに、利己主義を※空の中に入れる事を義務としたのだが…
※空…肉體とは、元々は空っぽのものであり、そこに何かを入れる事でのみ、肉體は動き出すのである、という仏教の教え
二元性カプグラ症候群
「善」・「悪」や「常識人」・「非常識人」のような二元的な決め付けをする病気
…代表例として、ユダヤ人、イスラエル人、キリスト教徒、病児教徒の四宗教
ガブリエルみたいな人間の〇〇は割とどこにでもいる
脅迫したり、無視したり、自分の倫理観を押し付けたり、する○○はまあ、要するに、病児教徒、病的で”子供”なんだ 何が病気かと言うと、デカダンス、幻覚性うつ病者なんだから、周りにいると、嫌な気分になるのはやっぱり当然の事と思った方が良い
…まず、行動神学の前提として気にするべき事は人である
考え方としてはこうだ
最初に大きく分けて、行動の原点として、「自分から見て」と「人から見て」がある
…実は、前者の「自分から見て」は本来の善であり、「人から見て」は偽善であると言える
行動とこう言った主體の間には感覚をはさむ
…であるなら、「自分から見た感覚」と「人から見た感覚」、二つから行動が生まれるのである
人間というものは、感覚を一概に考えるもので、人間というものは、二種類、つまり、「自分から見て」の人間、善者と「人から見て」の人間、偽善者とで分かれる
これが行動神学の「良識」というものである
「良識」的な人間を”強者”、「良識」的でない人間を”弱者”と言う
(【『コーラン』シリーズ1】から引用(一部補足))
「常識」というものをある一定の人々が必要とするのは、行動神学の「良識」的な生き方、自分が自分で考えた考えを持ったり、自分の肉體に自信を持ったり、を出来ないから(強者の生き方)
…いわば、「自分から見て」の人間(強者)になれないからであり、
「人から見て」という「良識」的でない価値(弱者の価値)を正当化しようとするからだ
だから、仮に「自分から見て」の生き方(強者の生き方)を実行出来れば、宙に浮いた「常識」を積極的に採用しに行く必要はない
ハンチントン病
陶酔性ハンチントン病
病児教・キリスト教・ユダヤ教の病気は、この陶酔性ハンチントン病と二元性カプグラ症候群、幻覚性および錯覚性うつ病の主に三つ 病児教と言えば、陶酔性ハンチントン病、キリスト教と言えば、二元性カプグラ症候群、ユダヤ教と言えば、幻覚性および錯覚性うつ病
解離性世界(性)障害
事実と異なるものを確信して、現実世界を確信で埋め尽くし、ついには事実が存在しない現実世界を作り出す病気
YouTubeのニーチェ哲学で流行っている「この世界は病気である」とかそう
不安な哲学を提出しておいて、その哲学者は果たして、「学者」と呼べるのだろうか?
…死後に至って、勝手に提出された学を「哲学」などと私は呼べない
細胞連結的な(有機的な)知識を持たない人間程、哲学者が提出しない「哲学」を「哲学」と呼んでしまう
…哲学者が含まない「哲学者」を「哲学者」に含んでしまう
民族の中の一人としては、民族の魅力を推し、民族の堕落力を退ける事が何よりの「民族への積極」なのだ
…今の日本の世の中は民族への積極とは正反対の「民族への消極」である
私たちは民族への積極を取るべきである
最終的に私たちは「民族からの栄光」に至るべきである
民族からの栄光批判への反論
歴史の美化と排他性の強化
・批判内容
民族を持ち上げる事は、失敗した時の敗北の歴史やそんな事をするわけがないと思われる事の歴史を隠蔽する事に繋がるのではないか?
・反論
普通、民族への積極を目指す人は歴史の事実を正しく伝え、民族の魅力へと繋げるものである
…民族からの栄光は失敗の反省、罪科の反省から生まれるものであり、むしろ、批判者の批判とは、反対へ行くのが、真の愛国者と言うものである
政治的利用(ポピュリズム)
・批判内容
権力者が国民を都合の良い所に注目させる為に、過去の「民族からの栄光」を利用するのではないか?
・反論
そもそも、現代社会では、テレビや新聞以外でも、ラジオ、インターネット系、図書館などの多様なメディアがあるので、そうなる可能性そのものが少ない
歴史の修正・美化(神話化)への批判への反論
・反論(同文)
普通、民族への積極を目指す人は歴史の事実を正しく伝え、民族の魅力へと繋げるものである
…民族からの栄光は失敗の反省、罪科の反省から生まれるものであり、むしろ、批判者の批判とは、反対へ行くのが、真の愛国者と言うものである
他者(多民族・マイノリティ)への排除と差別
妄想?
自国中心主義と国際的な孤立
暴論 最初から書き直せ
政治的権力による民衆扇動(ポピュリズム)への利用
・反論
そもそも、現代社会では、テレビや新聞以外でも、ラジオ、インターネット系、図書館などの多様なメディアがあるので、そうなる可能性そのものが少ない
普通に政治をしていたとしても、そうなる可能性は一定あり、そもそも、その場合、「民族からの栄光」を使う意味がない(民衆インテリによって、歴史的事実に基づき、危険分子としてマークされやすい為)
「排他性と他者差別の助長」への反論
図書館行って、具體的なデータに触れて来い
お前の言っている事が「良く出来た妄想」だって事が分かるから
「歴史の修正主義と神話化」への反論
具體的にはどの国だ?
確かに中世ヨーロッパの一騎討ちとか、隠しているものもあるが…
(ジャンヌ・ダルクにフランス騎士ジル・ドレイがついて行ったりとか痕跡はある 一騎討ちは文化国のアラビア系では七世紀あたりにやめになった 文化国の日本系では十世紀を記した正確さがあると言われる『将門記』でさえ、全く触れられない(既に不合理だからやめていた))
…はっきり言って、中世ヨーロッパ人とか、丸っきり野蛮人だからな、そう言うものを隠す事はあるが、問題なのは明らかに勇ましい描写でも後世になって省かれる事もある
……むしろ、民族を持ち上げるはずと当時は思われていた事、それに反して、明らかに合理的な手段である「虐殺」も、むしろ、十把一絡げにされて、おかしな事にこう言う「恥」とされる事の方が修正主義にさらされているのだよな 普通に、ドイツに暮らしていたなら、「ヒトラーは”英雄”」と分かるが、「ヒトラーは”悪魔”」と修正されたのだよ
…そう言う「反対の修正主義者」として、人権擁護団體の人間があったり、「まっとうな」歴史学者があったりするわけだが…
日本で言っても、「南京大虐殺」についてだが、いやない …これも図書館行って、実際の当時の「チャイナの人口の前後のデータ」に触れれば、自明のものだぞ?
「排他性と他者差別の助長」への反論
民族中心主義じゃなくてもどこでもあるぞ、それ(「多民族への見下し」や「マイノリティ(少数派)への差別」)
「個人の犠牲と全体主義への傾倒」への反論
それって逆の解釈だよな?
「民族の繁栄には個々人の努力と尽力が必要不可欠である」
「「民族」という概念自体の不確かさ(作られた伝統)」への反論
たとえば、我が国である日本の歴史はこう出来ている
”前の政府や幕府を叩く解釈にあえて歴史を作り変える事で、現政の正しさを証明するようにし、それで日本史は繰り返し、出来ている”
現政府も例外ではない
…この批判者の解釈はむしろ逆、民族の歴史は形を変えるごとに叩かれている だから、室町は鎌倉を、江戸は室町を、明治は江戸を、昭和は明治を、正当性が出ないように歴史自體を”封印”していると言う事(例を挙げると、日本の他に、フランス・ドイツ・チャイナなど)
他には、中世ヨーロッパから見れば、キリスト教史を中心にしているので、北イスラエル王国のヤロブアム王は「愚王」(その前二代は「賢王」)、その流れでイスラエル王国の歴史を重大に無視し、イエスの時代のローマ帝国時代もキリスト教をローマ帝国公認にした、コンスタンティヌス帝だけ特別、「賢帝」、その前は「愚帝」と言う決めつけを行い、やはり、ローマ帝国の歴史も割と重大に無視している
キリスト教は割と、ダビデ、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤの目指したと言う国家や理想に向かって、突き進んで行くという「民族的な作り」なのではないだろうか? つまり、アメリカやロシアと言う国は、統一国家の成立と統一国家の統治、宗教改革などを軸としており、理想としては社会主義、アメリカ制社会主義(資本主義を軸とした社会主義)が理想なのだと思われる 彼らのやっている事に関しては批判者のご指摘通り、いわゆる「民族的な作り」なのである
…アメリカが歴史を通して、反省より栄光なのも、ロシアが現代で侵略を始めたのも、実は、この「民族的な作り」と言う概念が関係する
(と言っても、やれば分かるが、「民族的な作り」と言う概念だけでは限界があるので、あなたは、まあ、宗教学や地政学をやって批判すれば良いのではないか?)
「民族紛争や「民族浄化」の引き金」への反論
超妄想的
民族からの栄光 批判(排他性と他者への差別(エスノセントリズム)・歴史の美化と都合の悪い事実の隠蔽・個人の尊厳と多様性の抑圧・政治的利用(ポピュリズム)と紛争の誘発)への反論
「民族からの栄光」は「民族の魅力」から発展する「民族への積極」からなる
…つまり、こう言った批判者どもは、「民族の堕落力」からの「民族への積極」からの「民族からの堕落(脱落)」と言う概念に繋がる
ここらへんの批判者のDNAは優秀でないので、百年単位で見たら、地上に残っていないと言うわけである
…それは良い事と思う こんな奴らのDNAが残ったら大変だ
第二階級は三つに大分(たいぶん)される
…信用者か、信似者か、その関係(信用と信似の関係)そのものを拒絶する者か、この三つである
第二階級は努力の結果がそのまま特権になるのである
二重の努力をする宿命と努力を怠れば廃絶される運命の間に、彼ら・彼女らはあるのだ
デカダン者:いわゆる「デカダンス」、”物事の一面だけを見ている事”である
…たとえば、地震の概念に置き換えると、”地震のショックがなく、一方的に解離して行く状態”、私がウソだと言っている現代科学の概念と比べても、極めて幼稚なものの見方なのである
……国に置き換えてみれば、デカダン者とは、歴史で言う連合国側、アメリカ、イギリス、ロシア、そして、チャイナなどだ
このデカダンスにおける「善」は、本来の「『エノク書』的な聖=善」から、ずれ込んで行って、ついには社会主義者とともに、その正反対のものと、ニーチェに言われる「良」になってしまい、彼らの「良」とは実際には「悪」であり、彼らの「悪」とは「良」である、となってしまった(彼らの「良い人間」とは、「わるい人間」、彼らの「わるい人間」とは、「良い人間」 …実際にはわるい人間が「良識」や「常識」を持つようになってしまって、実際には良い人間が「良識的でない」や「非常識」に”彼らの頭の中の世界”ではなってしまった)
彼らは専門家や職人に反対意見を押し付けるようになったわけである これは大人な人の常識から言えば、結論的な「クローン人間」や作ったものは※順製的な「コピー品」なのだ
腐り切っている…
そのデカダン者的な人物像と言うのが、今の世代の多世界教徒なのだよ
※順製的…実際、プロが製品を作る時は、余程の天才でない限り、順製品は作らない 最初に計画を立てるなどして、段階を経て、大抵、終わりから始まりを作り、その過程を作って行くものである 順製品は酷い出来栄えになると相場が決まっている
ムダなんだよ セックスのない愛なんてムダなんだよ
…民族にとって、母なる存在にとって
「ガブリエルの「意味の場」は無である」への批判
…なぜなら、人間に関わるあらゆるものは二性(相対性)を持ち、光に対する影も持っているから、「意味の場」は光に照らし出される実體がないので、存在さえしない 幻覚のような概念である
バディウ哲学への批判
無の多についての批判:ものとは存在と存在の対価の二性(相対性)が示すように、空間に根付いた有なるものである
…なぜなら、そもそも存在が幻覚のようなものだとしたら、物そのものを現す影、光に対する影さえも存在しない事になる しかし、現に存在している
……たとえば、人間は存在(もの)であるが、存在の対価という存在(もの)の条件を満たしている為、存在(もの)である もし、この二性がなり立たないと主張するなら、あらゆる数学やあるいは、物理学的、力学な相対性は存在しない事になり、バディウ哲学の前提が崩れてしまう
そもそも、存在の対価は言ってみれば、物理学的自分、力学的自分の証明である なぜなら、書いている本人たちもまた、二性のバランス感覚を認めざるを得ないからである
ガブリエル哲学は臆病卑怯の哲学である
…実に、病児教的な哲学ではないかね?
邪悪学の「邪悪」は実は「人間からの邪悪」である
…これは、「人間が人間的に悪であり、その人間を悪と自覚しない事」を言うのである
……たとえば、キリスト教的人物像は劣悪でありながら…、病児教的人物像は常悪(キチガイの”それ”)でありながら…、イスラエル人的人物像は極悪でありながら…、悪と自覚しない
人間からの邪悪批判への反論
道徳・倫理学的批判への反論:
まず、人間は悪(”わかってて”やっている場合)と邪悪(「悪」と自覚していない場合)とがあり、その二つの基準で分ける
…邪悪の場合、対処は比較的容易で、返射と言う技術を使って、攻撃や破壊と言った手段からの力をその邪悪な相手に返す
具體的には、攻撃された内容を特徴をつかんでとらえ、他の人にインパクトのある言葉で伝えて広める事(広報)
最もポピュラーかつ、一般的な方法としては、この広報のみである
仏教(煩悩と業)
邪悪とは、”悪を悪とせず、これを習慣とする事”でもある
これは仏教の「問題をとらえ、理性にて、その答えを知る」という態度に邪悪学は一致する
邪悪学は「邪悪」を知る事から始まり、「邪悪」が徹底的に批判される事によってはじめて、離れられるのである …その秘訣は、本を良く読む事なのである
思想・哲学(性悪説など)
荀子(チャイナの思想家)への反論
人類と言うものは、多民族多様多義であり、多様(善者も偽善者もハンパ者もいる)であるし、多義(色々な見方をする人がいて、その見方の基礎となる世界がある)でもある
荀子はその一様一義を見たに過ぎず、「窮屈な領域の真理」、いわゆる仮象に他ならない
…いわば、荀子は事実すらも遠ざける愚か者であると言うだけなのである
トマス・ホッブズ(哲学者)への反論
ホッブズの言う事が本当だったとして、「邪悪にはそれに対抗する権力を」と言うが、邪悪を解明する科学(邪悪学)が必要なのであって、他ではない ホッブズは間違っている
心理学への反論:他者化とラベリング
=利用同情者的な攻撃
せっかく、批判的に日常生活の邪魔をする相手から自分を守れても、こう言う「心理学者」は同情をあおり、自分の防衛本能を悔いさせ、自分で自分を否定させる
…はっきり言ってこう言う態度は、キリスト教のような宗教とまるで変わらず、邪悪(自分の悪を悪としない者)である
……いわば、こう言う心理学を利用した攻撃は心から出るものを利用し、他者そのものを排撃するゲスのやり口なのだ こう言う「心理学者」そのものが、「心理学者」の言う「悪童」なのである
…言うまでもないと思ったのだが、はっきり言って、上の「他者化とラベリング」のような、蔑みの笑いがこぼれそうになるような心理学の「心理学者」から、ジークムント・フロイト、ジャック・ラカンは明らかに格上であり、そう言う人たちの心理学は飽くまで、ここで言うような「心理学者」に含まないとする
環境・生態学的な視点(地球環境に対する邪悪さ)
「人間中心主義への批判」への反論
逆に、「常に人間が進化史において一等であり、他の生物を一方的に支配し得る」はおごりでしかない
…むしろ、人間とはこう言うものである
……民族ごと国ごとに分かれている人間は民族について、自虐行為をし、自分で自分を滅ぼす可能性(情報攻撃や絶滅戦争を招く事によって、自分自身を御し切れずに)のある出来損ないであるかも知れない
|
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
総合的なアイイル(滝口)の作品