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No.1191432
【哲学シリーズ26】人間はどうやっても、肉體(にくたい)から精神が動く ~「精神からの肉體」哲学は破潰されました、皆様~【通常感覚3】
eye-elさん
肉體意志論(肉體→精神(肉體)のように動く)
精神意志論(肉體→精神→肉體のように動く)
究極感覚からの欲動
通常感覚からの欲動
移入意志は肉體意志
命令意志は精神意志
「通常感覚からの欲動」・「究極感覚からの欲動」の根底にある感覚は正しい(「感覚の正しさ」)
反民主主義国家イスラエル
デカダンスなどの対策
行動や言動の根源としての感覚
2026-08-11 18:33:43 投稿 / 全32ページ 総閲覧数:79 閲覧ユーザー数:79 |
人間はどうやっても、肉體(にくたい)から精神が動く(「肉體からの精神」=「通常感覚からの欲動」「究極感覚からの欲動」)
「魂が肉體を動かす~」だとか、
「精神のみが上位で、精神が肉體を動かす~」だとか、は、
思い込みや迷信のレベルの認識に過ぎない
普通、生活は「通常感覚からの欲動」によって、動く
…これも「肉體からの精神」なのだ
「通常感覚」とは相対的感覚である
…対して、「究極感覚」とは絶対的感覚である
日常生活の延長に病気や犯罪はあり、まぎれもなく、「通常感覚からの欲動」でしかなく、特別ではあり得ないが、
…日常生活を超えた所に「究極感覚からの欲動」は存在し、
……これは人間が動物、物であるのに対し、「通常感覚からの欲動」を何とか延長し、特別なものにしようとするのが、犯罪者や病人、俗物であるが、
………「究極感覚からの欲動」は格別に、反・犯罪者的、反・病人的、反・俗物的である
「究極感覚」は延長出来る
実用栄養学・邪悪学・哲学・大批判学・狂薬学
実用栄養学は「究極感覚」に繋がる「通常感覚」を学び、邪悪学は「通常感覚」に含まれる「犯罪感覚」を学び、排し、哲学は「究極感覚」に繋げる「通常感覚」を学び、大批判学は「究極感覚」に含まれる「破潰感覚」を学び、狂薬学は「通常感覚」に含まれる「病的感覚」を学び、排した
肉體から精神が動く事を、「肉體意志論」と言う
肉體が意志して、精神を動かし、精神が動いているのだが、反対に、肉體が動いているように見える
…逆の考え方、従来の精神の考え方を、「精神意志論」と言う
今まで、「精神意志論」に人類が甘んじて来たのは、脳という感覚の元が0.5秒程、誤差があり、難しい事(「精神意志論」など)を考えると、さらに、1秒程、誤差が出るように出来ていたからである
…人類の思考は、キリスト教徒などの「精神意志論」だと、いちいち1秒遅いのだ
逆に、キリスト教などに「悪」・「邪悪」とされて来た、ローマ時代の皇帝崇拝系の支配者層は支配者感情によって動いていたので、「肉體意志論」に属し、「精神意志論」者(=キリスト者)より、1秒、思考が早かった
正直、「精神意志論」者は無限に遅れられる
1.5秒遅れて考える→何か起こって状況が変わる→もう一回、1.5秒遅れて考える→また…
遅れが遅れを呼び、やる気をなくして、やらなくなるというのは、「精神意志論」者あるある
…という風だから、「精神意志論」者は一刻も早くやめて、「肉體意志論」にする事
……人間的な動きは全て、「通常感覚からの欲動」か、「究極感覚からの欲動」かのどちらか二つ 脳と本能から感覚が出て、その感覚から欲動が出る 実は、精神と肉體との区別というのは薄く、精神が動く、即、肉體が動くという事も割とある
「精神意志論」者が言うように、精神が肉體に命令して動いているのだと考えると、それは、あのニーチェによると、「良くない」のだと言う
…と言うのも、ニーチェによると『アンチクリスト』では、「”命令は感覚ばかり敏感にし、苦しみを受けやすくなる”」んだそう
「精神意志論」を信じるだけで、明らかに、不幸な方に転がって行くというのだから、驚きだ
…そう考えると、「肉體意志論」の、肉體が感覚し、それにより、欲望・感情し、自発的に動いた方が楽なのだから、その方が良い(デカダンス対策としても)
……そもそも、精神の命令で動いているのだとすれば、肉體が命令を聞かなくなったら、そのまま停止してしまうのだろうか? それはまるで、違法投棄されたお人形さんのようにみじめではないか いや、精神を魂としている時点で、それ以上に何者でもなくなるに違いない 精神こそが我としているのだから
ちなみに、「精神意志論」の場合も、肉體が感覚してから、精神が命令するので、どちらにせよ、肉體から動くのだ 「肉體からの精神」である
…であるが、「通常感覚からの欲動」と「究極感覚からの欲動」とは別系統の「肉體からの精神」も存在する、デカダンス、デカダン者、主體だ
……「通常感覚」、「究極感覚」までは自分だが、デカダンス、デカダン者、主體まで来るとはっきり自分ではない
…と言う事は、この世界には、多系統の「肉體からの精神」が存在し、干渉したり、孤立を深めたり、を繰り返している …AIなどもそう(AI製作者の肉體とAIそのものである精神は一セットだ)
あまたの「肉體からの精神」がこの世界の主だった生物、(と思われている)動物であり、これには人間も含む…自尊したり自虐したり、捕食したり捕食されたり、殺したり殺されたり、生かしたり生かされたり、している
…あるいは寄生する寄生される、保護する保護される、などなど
大カテゴリーとして、「移入意志論」・「命令意志論」があり、「移入意志論」に「肉體意志論」がカテゴリー分けされ、「命令意志論」に「精神意志論」がカテゴリー分けされる …だから、「精神意志論」は「肉體意志論」の正反対と言っても良い
…これを簡単に言うと、移入意志とは現状で、肉體意志の事、命令意志とは現状で、精神意志の事である
重複あるが、「通常感覚からの欲動、究極感覚からの欲動」から転載
「
・手感覚(しゅかんかく)‐動きにまつわる感覚(”動かさなければ”と肉體が感覚する事により筋肉を連動させて精神が動く)
・足感覚(そくかんかく)‐現実的な感覚(重さ・大きさ・遠近(大雑把さ・精密さ)などのリアリティー)
・脳感覚(のうかんかく)‐いわゆる意識(現実の光が理的な光として、知的な光、考える・言語思考する・起床する・知る・ある事を意識して努力する)
この三本感覚と言うのが、いわゆる(「肉體意志論」で言う)精神である
・芯感覚(しんかんかく)‐本能・理性(こころ)
いわば、精神(魂)が肉体を動かすのではなく、肉體が精神を動かすと言う事が、本能からの「肉體=感覚=(流出説で言う)精神」、「肉體からの精神(欲動)」から読み取れる
(本能が肉體(感覚)を顕し、肉體(感覚)が精神を動かす、五本感覚説)
本能=芯感覚、肉体=当該感覚、精神=三本感覚(手感覚・足感覚・脳感覚)
…たとえば、イスラム哲学などは、流出説と言って、精神(魂)が肉體を動かす事が前提される
現代哲学はその反対、肉體が精神(三本感覚)を動かす事に前提されたい
類例として…
・甘いものを摂ると、頭(知性)が働く
・歩くと、(精神)思考が活性化される
・便意を(肉體が)感じると、(精神意欲は)トイレに行く
(
・お腹が空いたと(肉體が)感じると、(精神は)食欲を覚え、(自然)食べようとする
・つまらなさを(肉體が)感じると、(享楽精神は)途端に退屈になり、やっていた事をやめたり、何かを始めたり、する
・太っていると感じると、(女性の精神は)運動しようか、逡巡する
・胸が異性でドキドキすると、(女性の恋愛精神は)恋愛ギアを入れ、目の前の事に没頭しようとする
)
…これらのようなパターンで、現実の人間は物事を為していく
この「感覚=精神」を宗教的に展開したのが「唯心」を標榜する仏教、特に「アラヤ識縁起」 これらは調べて見る価値はある
(……より詳しく言うならば、感覚(肉體=精神の精神)が欲動(三本感覚=単純精神)を動かし、さらに、その欲動(単純精神)が肉體(単純肉体)を直接動かすのである …つまり、肉體から動く、肉體がまず資本なのだ!)
…さらに芯感覚から肉体に繋げば、本能(本能からの感覚)と理性(本能からの理性)、適材適所で動く人間が出来上がる
……質はともかく、キリスト教の本能とキリスト教の理性で動くキリスト教国のアメリカが「世界的」と言われるから、その人間の現実への通じやすさが分かるであろう
」
不変的信念である「肉體からの精神」を助けるものが因子、因子によって人間は行動、言動が可能となる
ついでに、人間と因子とは、「物と霊」の関係であり、突きつめるとそれは、「物質と霊質」である
…この「物と霊」を比べて、どちらが上かと考えると、どちらも上になり得るが、人間(動物)においては因子(霊)が動かすので、因子(霊)の方が上である
「霊が物を動かす」というのも、全くの間違いではないのだ
肉體意志説の前提は、人間の行動の最初には必ず感覚が来る事である
通常感覚からの欲動と究極感覚からの欲動
例外は考えたが、どうも必ず、「肉體(感覚)からの精神(欲動)」の形になるらしい
…ただ、命令意志説に関しては、肉體意志説である移入意志説からしてみれば、裏(思考)の口からいきなり命令が飛び出すというのは、少し変態的な技に思える
…さらに考えて行くと、どうやら、ある感覚は長大な行動、言動に繋がる事が分かる 動画作りや創作、計画、戦争、主義主張(ニヒリズムやシオニズムなど)
肉體意志とは、肉體が意志する事だが、具體的にそれが何かと言うと、「通常感覚」から考えると、通常感覚とそれから直接生まれる欲動なのだ
…つまり、「通常感覚」で言えばだが、「通常感覚からの欲動」である
昔は、「精神からの肉體」という考え方が主流でした
…要するに、「魂があって、その我(われ)である魂が、肉體に命令して動かしている」という、命令意志または命令意志説という考え方です
……具體的には、命令意志の中の精神意志または精神意志説なのです
…ところが、近代に入ってから、実は事実的には「肉體からの精神」という考え方が正しいのではないか?と、なって来たのです
……それをまとめると、「通常感覚からの欲動」と「究極感覚からの欲動」、つまり、「肉體からの精神」です
…そこで私は、移入意志または移入意志説という考え方を立てました
……その具體的なものと言うのが、肉體意志または肉體意志説なのです
(敬語なのは、まとめやすくする為)
アイイルの「精神の命令者」
自由意志という概念があります
この自由意志とは、自由な…意志という精神の事
…まあ、言ってみれば、人間が「自由」である事の根拠として、主に挙げられるものです
…しかし、私は自由意志の中に命令意志という概念を見出しました
要するに、肉體は寝る時以外、常に命令されていて精神に縛られている
…つまり、自由意志としては「自由」らしいですが、実際、考えてみると、命令意志としては「縛られていて奴隷的」でしかないのです
理性なんてものがありますが、実は命令を下している精神というのは、一つではありません
命令意志の一つとして知性(精神)が挙げられます
…要するに、必要があって、知性がほとんど無意識に肉體に命令するのです
その他に、先程挙げた理性(精神)があります これはずっと、肉體を縛る類の精神であり、感塞(かんそく)であり、理性がある間はずっと、肉體は命令に従い続けなければなりません 明らかに、理性は肉體への負荷が高いのです だから、それを必要とする社会の社会人は帰って来た後、休日までもずっと疲れて、ダラダラしてしまうのです セクハラされて、声も上げられないのも、肉體が理性(精神)に従い続ける義務を持っている、命令意志説を採っているからなのです
肉體は知性(精神)と理性(精神)と実に、二重に病的に縛られています …つまり、自由意志などと言いますが、縛られていて奴隷的でしかない
「統合失調症」という精神病がありますが、昔は「精神分裂症」などと言われていて、現代人の命令理性と命令知性、両方を持った、その下に肉體という精神構造に極めて近い病気なのです しかも、現代人の場合、治療していないレベルの精神状態なのでしょう 彼らは仲間でない人を見ると、子供のように逃げる準備をするようです それを大人がやるものですから、非常に気持ちが悪い
「統合失調症」に関する本は色々出ていますが、中でも「神々の沈黙」という本を見てみると、「意識について未文化で意識化というものをしなかった時代の人間は「神々」や「神」と呼ばれていた幻聴に命令を受けていて、機械的に従っていた」というような事が書かれていますが、これが本当なのだとすると、その神々や神が、前に挙げた知性や理性にそっくり変わったというだけの事に過ぎないのです いわば、精神意志論とは、「神々や神に従っていた精神構造をそのまま、継承したものに過ぎず、人間(肉體)は知性と理性の傀儡や奴隷に過ぎない」と言えるでしょう つまり、精神意志論の人の頭の中というものは、神々や神がいた古代と全く変わっていない、進歩していない そう言う未文化文化の事を最大の蔑みを込めて、私たちはキリスト教と言います 常識人、良識人の病児教もキリスト教の一種となります つまり、この命令理性・命令知性は、その二つの下の肉體という、キリスト教的人間(キリスト教徒)と病児教的人間(常識人)専用の精神構造なのです
…前にも言いましたが、自由意志(精神意志=命令意志)から抜け出すには、肉體意志=移入意志に移行するしかありません
所詮、現代で「自由の象徴」などとされている”自由意志論”は病気の所産に過ぎず、また、世界化されるウソの一つに過ぎないのです
”自由意志論”(命令意志(論)である精神意志(論))が使われているのは、キリスト教・病児教(常識系キリスト教)の主に二つです
感覚の正しさ
私たちの本能が全く正常なら、これはと思って選び取る感覚は全て正しい
…なぜなら、日常は「通常感覚からの欲動」(と「究極感覚からの欲動」)の連続であり、良い社会人であれば、ほとんど失敗なく、やりおおせているはずだ 特別、嫌な思い出として記憶に残っていないのが、その証拠である まあ、他人の自分への攻撃や行いの改めの機会などはあるかも知れないが…
……つまり、その場合それは、これから選び取ろうと思っている感覚も、障害や妨害、脅迫があってためらっている感覚も全て正しい事を示している
「通常感覚からの欲動」
は通常感覚=言葉の意味(義)からの、欲動=言葉の発言(言)にたとえられる
…意味から言葉を思い浮かべて、一義一言(いちぎいちげん)
「一言一義」ではない
…そして、二義二言、三義三言…
という風に繰り返す
「通常感覚からの欲動」とは、
日常的に繰り返し、数字をカウントするものであり、大抵、何回やったかも覚えていない
「感覚の正しさ」で語ったようにそう言う感覚は正しく、そこから何か(欲動・感動)が出ているなら、その根底にある感覚は疑ってはいけないわけである
反民主主義国家イスラエル
私が示す事実上の「通常感覚からの欲動」と「究極感覚からの欲動」の中の”こころ”、民主主義では”こころは自由”と民主主義にて一番深い言葉として言われるが、実は事実上では、「欲動」が”こころ”であり、主に二つの鎖によって”こころ”は縛られていると私は主張する
…一つが「感覚から」という鎖、常に「感覚から出たこころ(欲動)」という枷を”こころ”は受けている ……もう一つが「欲動」(「感動」)の肉體部分という鎖、欲動は肉體に制限され、”こころ”は肉體の中でのみ動き、肉體にて意志する
よって、”こころ”など自由ではないと主張するものである
…どちらも被害者面したユダヤ人とかイスラエル人が行ってんじゃん…
”こころ”を封じる方法として、以下の二通りがある
・その感覚そのものを禁忌とする事(「ドイツ人の英雄ヒトラー」は”悪”など)
・欲動や感動を発する肉體そのものを動かなくする(追放する)事(攻撃する、奴隷化、国民権・住居権を奪う)
ユダヤ人・イスラエル人は反民主主義的
「通常感覚からの欲動」と「究極感覚からの欲動」は”肉體”、”肉體上位の精神”、”精神上位の肉體”、の「三元論」である
心身二元論は「精神上位の肉體」を全體から切り離して考えた一元論に過ぎない
…よって、精神と肉體が独立的に動いているというのはウソだし、「精神からの肉體」は現実世界から題材を借りたフィクションに過ぎない
…この「肉體からの精神」の集合體である個人や動物、その集合である世界からは、「世界はすべからく単純である」と学び取れる これを「単純世界(事実世界)」と言う 「肉體からの精神」(哲学シリーズ26)だけでなく、『変態の世界』(変態論議シリーズ4)・「ウソを無差別的に世界に推す感覚推虚」(女性の新常識シリーズ5 前編)からも同じ結論が得られる
主體と理性
「主體」とは、命令理性を中心として、デカダンス(病気)的に明(よわい)権力的に人を支配する事を表す
「権力」とは、命令知性を中心として、人間的に悪(つよい)権力的に人を支配する事を表す
…したがって、キリスト教専用の理性(キリスト教徒・病児教徒(常識派キリスト教徒))は病気である
……あるいは、デカダンスとは別に、常悪そのもの(病気になった理性)がその精神の肉體を動かし始める事を「主體」と言う
心身二元の哲学を「精神の命令者」哲学、心身三元の哲学を「精神の移入者」哲学と言う
社会秩序に承認される人間は感覚善、社会秩序に承認されない人間は感覚悪と言う
…社会秩序とは、統合民主制(民主制+娯楽民主制)や帝政+娯楽民主制、王政+娯楽民主制の事である
疑義からの自由思考
疑義からの不自由思考
「疑義からの自由思考」が型に当てはめない自由な思考であり、
「疑義からの不自由思考」が型に当てはめる不自由な思考である
人は社会的に都合が悪い事が起こった時、「本当だろうか??」と疑う
…つまり、頭から疑う、「肉體からの精神」、「自由思考」は「究極感覚からの欲動」、「不自由思考」は「通常感覚からの欲動」である
幸福からの病気(常悪)
不幸からの病気(常悪)
…実に、幸福や不幸と言ったものは、病的です
何か、ずっと幸福でも、ずっと不幸でも人間は病的になって行くのです
…だから、人間の本覚は「運命」というシステムを使って、その中間を出来るだけ維持するようにしています
……つまり、出来るだけ幸福にも不幸にも執着しない方が良いという話です
………神経質になって、幸福感の邪魔になるものを排除して行く(過程としてのイントーレ(悪=不寛容)の状態)と、何か、至福が近づいて来るように感じます
…幸福のみを目指して行くと、幻覚ばかりの視界になって行きます(幻覚とは、脳のサイレンであり、栄養失調などの危険を知らせるものです)
……老後、その幻覚すらも排除して行くと、段々と、「良識」の視点が拾えなくなって行き、ついには環境そのものを排除し始め、現実のものが目に留まらなくなり、欲動的、感動的でなくなります(セロトニン(主観)を補助していた幻覚がなくなる為です)
…結果、生きる気力を失い、亡くなったり、また、うたたねなどして、活動に参加しなくなり、文化的でなくなるというパターンが多いのです
これを「老人の常悪化」と言います
こうなってしまうと、もう人間は人間的でなくなるので、まともではなくなります
…だから、人生において、幸福でもなく、不幸でもない状態を維持する事はとても重要なのです
感覚包摂国家
国家とはひたすら積み重ねられた感覚の無尽蔵に包摂された姿であり、それらの欲動(仕事・趣味・作業)が社会を形作っている
…なお、「常識」という知識パッケージは飽くまで知る為にある
……また、知的な創造の基礎は感覚(肉體)だ
ただ一つの感覚が人間であり、それは四つの本覚である 本能・理性・知性・感覚の四つ
実は、「国家とは人」と良く言われるが、そうではない ”国家とは包摂された感覚”なのだ
…たとえば、愛猫を飼っている人は必然的に”猫”と言う感覚を持っている 愛犬なら”犬”、トラクターなら”トラクター”、家族を持っている人は”家族”と言う感覚を持っているだろう 明らかに、私たちの周りには色々な感覚があり、それらを持つ事が文化人としての条件と言っても良いだろう ”人間”と言う感覚がある中で、それらを強引にヒトとくくってしまう事は出来るが、しょせん、それは、知性によって所有する事を知らない未文化人の発想に過ぎない
しかも、「同情」と言う感情を時折、人間は持つが、出来損ないの感覚に同情してしまって、それをわざわざ生かそうとするので、いかがわしい人間がそこかしこにいるような状態になるのである
たとえば、とらえ方の一つとして、※「堕落力」と言うものは、同情されるもっともたるものである 要するに、”性的な依存先を放任する力”の事である 「独立心」は性に奔放な人間よりも無責任なのだよ?
…同時に、包摂される感覚と言うものを魅力は持っていて、つまり、包摂されまいとする感覚を「堕落力」と言うのである 「独立心」と言えば聞こえは良いが、実際には…家族の一員や男女の相互理解からのわがまま身勝手に過ぎない …人生のちょっとした事でこの破滅的な力に惹かれる事があるが、「堕落力」は「堕落力」に過ぎないのである この「堕落力」として、流行・放縦・女装・非行・陶酔・徘徊・盲従・確信(キリスト教徒と言う確信家など)・迷信(「常識人」と言う迷信家など)・悪辣(ユダヤ人や犯罪者と言う悪辣家など)がある
※「堕落力」…通常、女性で言えば、「独立心」と解釈される
他者紹介をいたします
「哲学者」です
…実は、彼らは人間を否定する為に宇宙空間のルールを研究しています
……と言うのも、彼らは世の中に無視または軽視されて来た、うらみつらみがあるので、それで復讐すると言うのです
しかし、科学者にとっては当たり前なのですが、科学者と言うものは哲学者と違い、物事を研究し、それが人間の役に立つかどうかを見極めて、無意味なら科学の外に捨てます
…つまり、無益なもの、有害なものを人間から取り除く「本能」を持っているのです
この「本能」と言うのは、私、アイイル・滝口が作り出した概念ではありません 十九世紀の大学者フリードリヒ・W・ニーチェが生み出したものです
しかし、哲学者と言うものは科学者の逆です
役に立つ知識、地球のルールは自分の哲学の外に放り出し、役に立たない、無益な知識、有害な知識、宇宙空間のルールを自分の哲学に取り込み、そばに置きます …彼らは何かを抱え込む事が嫌いで、何かの為に役に立つ、その為に自分の存在も犠牲にすると言う科学者の使命を全く持っていないのです(これもまた、本能です)
科学者と哲学者の価値観と言うのは全く反転しているのです
…しかも、今の科学者は宇宙空間のルールを科学に入れます
その「科学者」と言うのは、「哲学者ついでに科学者」の「科学者」なので、ほとんど、哲学者なのです
…しかし、皆さんはこう言う哲学者について行ってはいけません ニーチェも哲学者である以前に科学者でした
……こう言う事は、誰かが見極める必要があり、私がその役を負う事で、皆さんはより科学的になれるのです
この世界のホントウやウソについては
【女性の新常識シリーズ】
、哲学への批判については
【哲学シリーズ】
…などなど
「欲動からの常識感覚」
まず、「究極感覚からの欲動」から一種の権力である「常識感覚からの欲動」を取り出し、逆さにする
「欲動からの常識感覚」…OK、破潰出来た
「命令感覚からの欲動」、いわゆるデカダンスや主體を破潰する
「欲動からの命令感覚」…OK、破潰出来た
「常悪人感覚からの欲動」、嘘吐きの生態系そのものを破潰する
「欲動からの常悪人感覚」…OK、破潰出来た
人間には自動性と言うものがある
…いわば、自分を自分で動かす主意性と言うものである
……つまり、人間は自動性の生き物なのだ
文明的な国家になる上で、国家はこの自動性を宗教として、手に入れに行った(イスラム教・仏教など)
…しかし、フランスはフランス革命によって、ロシアはロシア革命によって、チャイナは文化大革命によって、この自動性を捨て、他動性に陥った
自動性を表しているのは、「通常感覚からの欲動(感動)」・「究極感覚からの欲動(感動)」であるが、他動性に、「病気」と言う考え方、様々な「科学的」と言われる論説、「デカダンス」、「デカダンス」の宗教、信じる「常識」などがある
この自動・他動に反対する概念をカントは作ったが、カントはただ、「常識」から「~~が出来る自分は頭が良い」と思う事で、かえって「馬鹿」になる「常識性のわな」に完璧にはまったに過ぎない
反論集
「科学的・実証的妥当性の問い直し」について、心理学というのは、本来、事実世界的な「意(こころ=物事の裏にある思考力)のアリカ」を問うものであり、「通常感覚からの欲動」とはその「意のアリカ」そのものの位置を示している …ので、良い
「主体性の解消と決定論」について、「主体性」のアリカとは、からだ、肉體の事である 肉體は四本覚(人間の主體となり得るもの、本能・理性・知性・感覚(意識))の中で、一番中心的な概念である よって、「主体性」と言ったら、本覚なのである 「通常感覚」哲学(心理学?)から言えば、「当該感覚」だ これは確実に自分である
「歴史的・社会性の欠如」について、権力関係については確かに、もう少し依存していても良いように思うのには同意する しかし、感覚と言っても、感覚における想起や想像もこの感覚に含まれる この感覚というのは、そうとしか言いようがない為に言っているだけであって、全く字義通りに受け取るべき概念ではなく、誰かを想うだとか、人の痛みを想像するだとかも、実は、含んでおり、欲動というのは、感動(泣く事以外に、考え方を変える・笑いかける・「へへーん」といばる(胸を張る)、さらに、舌打ちをするなども含める)もあるのだ
「歴史的」にも今の自分と似たような人を思い出して考えた上、思い直す 人々が「歴史的」な、いわゆる「地獄」にあったのを他の人々で想像し直して、止めに入るなど
想念・想起から感覚を取り出してあてがう、これも「通常感覚」の一工程である
行動とは、広義には”心を動かす”事であって、これを一義に決め付ける方が「暴力的」ではないか
…哲学的な広い解釈はむしろ、言葉との話し合い的であろう
「理性の自律性の侵害」についての反論:「通常感覚への自由」とは、何かを攻撃したり、破壊したり、「自分が何をしてもいい」という攻撃感覚や破壊感覚に他ならない 例を挙げると、帝政ローマにおけるキリスト教の「自由」 つまり、現代の世界にもはびこっている、”わがまま勝手の自由意志”というもの 例を挙げると、アメリカのトランプ、ロシアのプーチン、イスラエルのネタニヤフ、北朝鮮の金正恩、そして、チャイナの習近平である
…対して、”正直な肉體意志”が私の主張する「通常感覚からの欲動」・「究極感覚からの欲動」である
カントの言う命令意志も広く言えば、「肉體からの精神」、どちらかと言えば、「肉體からの精神」を前提にしている「通常感覚からの欲動」「究極感覚からの欲動」の方が本律であって、外律はむしろ、「精神からの肉體」方だ
「感覚の不確実性」についての反論:人間は感覚の中からの感覚を選び取り、その感覚は特別正しい …もっとも、本能がダメな人間は除くが
「世人(ダス・マン)への没入」についての反論:そもそも、「通常感覚からの欲動」以外にも肉體意志は「究極感覚からの欲動」を想定しており、「通常感覚」ばかりが取り上げられやすいが、むしろ、私のような例外的な人間にとっては「究極感覚」の一巡二巡の方が重要である
「擬似的な欲望」についての反論:社会やメディアによって植え付けられたものというのは、デカダンス(憑りつく事)やデカダンスの(行動因子の)種によるものであり、自分でやっているというよりは、むしろ、「通常感覚」「究極感覚」とは別系統のものである
ニーチェの力への意志への反論
「力への意志」ではなく、いつだったか「力への知識」として、私が批判したパウロの「サタン論」をアイイルの「通常感覚からの欲動」「究極感覚からの欲動」で焼き直したものが「通常感覚」哲学、「究極感覚」哲学、精神の移入者哲学である
…「通常感覚」の定義は”社会普遍的ではないもの”だ
フロイトの精神分析への反論
誰が世界のありのままを決めるのか? 世界には解釈が根底にあり、無意識の内に、「我れ」はその解釈を決めている …それからどうやって事実を求められると言うのだ
ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』への反論
…実は、理性のあり方として、早急なからだの用事の為に感覚を、扱いやすいからだの中心に集めている事が挙げられる
……はっきり言うと、欲動や感動の為に感覚は論理的な動作や動意(思考を働かす)を行う(肉體からの精神)
…理性はその為に心臓とその周りで感覚を思い出していて、感覚は理性によりコピーされ、出来るだけ心臓の近くで、欲動や感動に働くよう、理性が繋いでいるので、そう言う説明なく、「通常感覚からの欲動」とか言われたので、批判者殿には「感覚(肉體)が解体された」ように思えたのであろう
レヴィナスの他者論への反論
上の通り、感覚をあたかも取り出すのは、理性であり、理性的であるなら、理性的な判断に基づく感覚選びになり、知性的であるなら、知性的な判断に基づく感覚選びになり、無思考的なら、刹那の快楽などを求める事もあり得る あるいは感覚的な基準であるなら、直感を信じる事となるだろう
欲動のコントロール不能性(フロイト・ラカン)への反論
…それは、「通常感覚からの欲動」じゃなく、「通常感覚への自由」という概念 むしろ、この二つは正反対の概念
…正常な本能は「偽りの感覚」は選び取らない、たとえ、選び取ったとしても、不完全な形でその感覚は消え入る
権力による構造化(フーコー)への反論
「感染症はウソ」という事を【病質シリーズ2】で述べたが、実は、病気は感染症でさえ、自然のものではない
「正常な感覚」は異常な感覚ではないのか?と言うと、犯罪感覚として、一様に「通常感覚」として扱っており、批判がズレている
欲動は「生物学的本能」でも「日常の感覚」でもない(ラカン)への反論
「生物学的本能」と言われたが、実は、生物学以外にも本能はある
…ややこしいので、「本覚(本能)学的本能」と言う
本覚は四つあり、(人間の)本能・理性・知性・感覚の四つ
ニーチェ的批判への反論
実は、「通常感覚からの欲動」とは、一般向けに挙げたものに過ぎず、「権力への意志」的な欲動に「究極感覚からの欲動」がある
「通常感覚」と「究極感覚」は一セットと考えられ、どんな場合でも、「通常感覚」の背後に「究極感覚」が見出され、「究極感覚」の背後に「通常感覚」が見出される …たとえば、子供を出産するという大事な感覚もまた含んでいるので、「権力への意志」という極彩色のウソがない”意志”は「究極感覚」と「その欲動」に丸々置き換えられる
ポスト構造主義(フーコー、ドゥルーズ)による批判への反論(「正常」と「異常」の権力構造への反論)
病気とはウソであると、【病質シリーズ2】・【女性の新常識シリーズ5】前編に書いた
…ウソに巻き込まれて、自分自身の精神をウソとして否定してしまった(解体してしまった)人たち、知性に障害がある人たちが病人なのだ
……そもそも、知性がウソを受け入れなければ、病的な感覚は病気にならず、通常感覚として機能するという事
プラトン:洞窟の比喩と肉體的欲望への反論
デカルトの「動物機械説」というものがあり、ニーチェは一般的な動物だけではなく、人間も機械であると言った
「通常感覚からの欲動」と「究極感覚からの欲動」はまさに、人間が機械であり、人間の中の機械的原理によって、人間である私たちは生存する事が出来ている事を表している
プラトン哲学のような曖昧模糊な目的のみの哲学では、所詮、この機械的原理を否定する事は出来ない
フランクフルト学派(マルクーゼなど):虚偽の欲求への反論
五本感覚説を簡単に説明すると、根源的な精神に本能と理性があり、一本目の感覚である その本能や理性から、私たちが一般的に呼んでいる当該感覚や理性に想起された通常感覚などが二本目の感覚、三本目、四本目、五本目の感覚が欲動の際のリアリティー(重さ・広がりなど)(足感覚)、動きにまつわる感覚(手感覚)、全體を支える感覚(脳感覚)である
…批判者マルクーゼが言われている「”洗練された形で刷り込まれた感覚”」というのが、いわば、一本目の感覚の本能と理性がダメになった状態であり、本能はそう言う感覚を受け入れてダメになり、理性はそう言うものを制限する弁がダメになり、病気になる
……そうすると、「通常感覚からの欲動」に直接関わるものは、二本目、三本目、四本目、五本目の感覚であり、マルクーゼはむしろ、「通常感覚からの欲動」の本質と逆側を批判していると思われる
少なくとも、「通常感覚からの欲動」の概念自體には、そのような批判はお門違いなのではないか?
…ラカン、フーコーなども同じようなミスを犯されていると思われる
プラトン・合理主義の批判:霊魂の隷属と幻影(理性の統御)への反論
フランクフルト学派(批判理論):作られた「通常感覚」への反論
私の根拠とするのは、二性(人間の基本的なバランス感覚)である
…二性は存在(もの)と存在(もの)の対価と言うものが一つある
たくさんある二性の中で、「通常感覚」と「その欲動」、「究極感覚」と「その欲動」と言う二性(バランス感覚)が二つある
人間は立つのにも、座るのにも、二性(バランス感覚)の存在(もの)と存在(もの)の対価を使うので、この二性(バランス感覚)を否定する者は今からでも存在しなくても良い
・デカルト(独我論・方法的懐疑)
感覚の肯定
ニーチェなどもこれを主張している
…実はそれが幻覚などではないか?と疑っていても、それをいくらプッシュしようと、それは疑いでしかないのであって、分かっている事ではない
一度、感覚を肯定して、欲動する事で、おかしくなって来るという経験を得られる 再度、「それは幻覚」などの感覚をこそ、肯定出来ると言うわけなのだ
…つまり、感覚の肯定で、疑うだけでなく、「分かる」と言う事である
・フロイトとラカン(欲動の変質):
私の言っている「通常感覚」と言うものは、自分に自信を持てる「究極感覚」と違い、むしろ、「それからの欲動」に至って初めて自身を持てる「平凡な感覚」であって、感覚そのものに自己の本質を持たない
…そして、「犯罪感覚」と「病的感覚」は「欲動」の段階で始めて、他の感覚と区別される
……つまり、「犯罪感覚」と「病的感覚」などは差別化と言う意味で存在しないのである ただ、結果として欲動の時点でそう言う感覚であったと分かるだけだ
…しかも、厄介な事に「欲動」には「精神からの肉體」と言う一般的な考えでは、「自由意志」と言うものが関わって来てしまう
「自由意志」とは、私から言わせれば、”より弱くある意志”の事であり、たとえば、現代の世界情勢である「トランプのイラン攻撃」は「アメリカの外交力の弱さ」の露呈である
…つまり、わざわざ、「肉體からの精神」と言う「精神の基本」をねじ曲げて弱くあろうとするのが、現代人の無知で哀れな姿なのだろう
自由意志:たとえば、體術や武術の「蹴り」だと、強い蹴りが放たれる条件には、「~すべき」と言う體的必然性が何重にもなる事があるのに、自由意志はその必然性を無視して、弱く、より弱く、して行くものでしかない
「~すべき」に従わない事が自由意志の「自由」だからである
…私はこれを「わがまま勝手の自由意志」と呼んでいる
相対する概念に、「精神の移入者」哲学の「肉體意志」、
ニーチェの『アンチクリスト』の「自由疑義」、
私、滝口の「反サーターヌ」(「反世界」と言う批判)などがある
「権力と身体の規律化」(ミシェル・フーコー)への反論
…実は、「通常感覚からの欲動」はデカルトの動物機械説を、ニーチェが人間にも適用して改良したものを前提としている
「精神分析的批判」(フロイト・ラカン)への反論
「欲動(Trieb)の反社会性」への反論
そもそも欲動とは、微妙で曖昧な精神であり、欲動の持つ勢いを、人間は行動力の源泉として利用している 「欲動は感覚によりけり」なのである
「「他者の欲望」としての欲動」(ジャック・ラカン)への反論
むしろ、それは人間のタイプの問題である
…たとえば、哲学者と言われているカントのようなタイプの人間は「他動性」に属し、人から見て、とか、弱さによって動く為、他人の要素によって動くのが当たり前だ これは「他動性の人間」である
……しかし、前提として、「自動性」と言うものが自分と重ね合わせる形で、理解出来るならば、それはむしろ、「自分がある」と言えるのではないだろうか? これが批判者の批判とは逆の人間のタイプ、「自動性の人間」である
「近代啓蒙主義への批判」(ニーチェ)への反論
私、アイイル・滝口は
「信じる感覚よりも知る感覚」をモットーとしている
…つまり、「常識」(共通の感覚)であるにせよ、
病的感覚にせよ、犯罪感覚にせよ、
究極感覚にせよ、知る事を大切にする
”感覚の肯定”がある事を私は知った
……と言うわけなので、「信じる感覚」はむしろ、「感覚を信じ、肯定する」と言う言葉に変換され、
「知る感覚」はむしろ、「感覚を知り、肯定する」と言う言葉に変換され、
…通常感覚哲学の根底の要素は全て、ニーチェ哲学の本義のようなものである”感覚の肯定”に転換される
「哲学における「欲動・感覚」の捉え方」への諸反論
「精神分析と結びついた哲学」(フロイト・ラカン)への反論
「生政治・権力論」(フーコー)への反論
知る常識(コモン・センス=通常感覚)の中で、「おっぱいがあるからブラジャーをする」と言うものは、少なくとも、「通常感覚からの欲動」としか言いようがない
…女性に関して、「食」だけは欲動的ではないが、衣・住、そう言うものに従うとする
大體こう言う事だと思う
「「通常感覚からの欲動」に対する主な哲学的批判」への反論
「現象学・身體論からの批判:「主客二元論」」
具體的な「通常感覚」として、”知る常識”と言うものに触れる
盲目性と倫理的ニヒリズム(欲動への批判)への反論
ニーチェは『アンチクリスト』の中で、フランクフルト学派のような批判、つまり、一面的な批判はデカダンスに当たるとして破潰(大批判)した
…要するに欲動について肯定する意見を表としたら、裏に理性を重んじる意見もあり、それらは現実に事実、反映されており、その二面の現実である「”それを一面だけにしてしまう事は出来ない”」とニーチェは指摘したわけである
現代的な展開
精神分析的批判(ラカン、ジジェク)への反論
私と、ラカンやジジェクとはそもそも前提が違うように思える
…「通常感覚」とは別枠の「究極感覚からの欲動」は世俗から離れた「崇高な者への欲動」であり、「究極感覚」を元にしたものでもあり、それを私は中心に置いているので、「通常感覚からの欲動」もまた同じ世俗から離れたような、自然的なものになる
「生の盲目的な衝動への批判と超克」(ショーペンハウアーとニーチェ)
「ルサンチマンと弱者の欲動」(ニーチェ)への反論
私はこう考える
通常感覚からの欲動→歩く
究極感覚からの欲動→(全力疾走で)走る
…つまり、単なるマナーとして、走る事が禁じられている場所では、歩き、走る事がすすめられている場所では走ると言うのが「自由自然」(じゆうじねん)と言う概念で、これは「高き自由とすくう(掬う)自然」と言う所が基本の姿勢となるのではないか? と思うのだ
「盲目的な「生きる意志」の奴隷」(ショーペンハウアー)への反論
…上に示した通り、「自由自然」と言う「高き自由とすくう自然」から、実は、自分を「欲動への苦しみ」から解放する鍵と言うのは、何回でも「すくう自然」から、得られるのではないか? と思うのである 一応、そう言う事に関しても「手段」と言うものは、批判者に対して、私も用意させていただいた
・ミシェル・フーコーは、近代社会が「通常感覚(正常性)」を定義することで人間を統治してきたと批判しました
「生政治(バイオポリティクス)」への反論
「通常感覚からの欲動」と言う概念の基本は「自由自然」、つまり、「高き自由とすくう自然」と言うものであり、「生政治」のような「低き自由」ではなく、その反対の「高き自由」と言う所に立っており、批判者は前提を間違えられているのではないか? と思われる
・ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、伝統的な精神分析(フロイト派)が、人間の自由な欲動を「家族(父・母・子)」という狭い通常感覚の枠組みに閉じ込めていると激しく批判しました
「資本主義による飼い慣らし」への反論
「通常感覚」の前提は、「高き自由とすくう自然」なので、「高き自由」から、自由そのものや「自由な欲動」なるものを抑圧する前提にないのである
・ヘルベルト・マルクーゼなどの批判理論家は、高度資本主義社会における「通常感覚」が、人間に「虚偽の欲動(欲望)」を植え付けていると指摘しました
「一次元的人間」への反論
「通常感覚」の前提には、「高き自由とすくう自然」があり、これは、「すくう自然」、「己から来る心そのもの」を「すくい取る自然」であり、そのような心掛けや努力はあって当然と言えるだろう
・ジャック・ラカンは、人間の「通常感覚」が言語(象徴界)によって作られるものである以上、そこから生じる欲動もまた、本質的に他者依存的であるとしました
「主体性の不在」への反論
「通常感覚」の前提となる「高き自由とすくう自然」と言う概念があり、むしろ、「通常感覚」を扱う人間に取っては、自分自身の欲望からのものを、「すくい取る自然」と言う努力はあってしかるべき、と思われる
「精神分析における批判:感覚(ニーズ)と欲動(ドライブ)の分離」への答え
「現象学からの批判:身體性と「生」の過剰さ」への答え
…ご指摘の通り、「通常感覚からの欲動」は「公私道徳」と「自由自然」によって、補佐される
「公私道徳」は「私益道徳」・「公益道徳」の「我慢する道徳」と「ゆるす道徳」によって、”犯罪感覚や病的感覚を避ける目的”で道徳するのである
「自由自然」は「高き自由とすくう自然」であり、飽くまで、高き、ニーチェの自由精神的な高貴な感情を重んじつつ、すくう、天啓や神示ではなく、自分の中の「本能」と言う自然が示す全ての必要項目を自分に求めると言う事である
……単純な「通常感覚からの欲動」ではなく、この二つの概念のそれぞれの役割を帯びた「通常感覚」なのだろう
・通常感覚や自然な欲動をそのまま倫理や行動の規範にしようとする試みは、倫理学において最も強く批判される対象の一つです
「自然主義的誤謬」への反論:
この問題は前に挙げた私益道徳・公益道徳に持ち越される
…たとえば、私益道徳としては、法的に違法である場合に、多少無理してでも抑えるが、公益道徳としては、そうでない所に関しては結構ゆるい(私益道徳は我慢する道徳だが、公益道徳はゆるす道徳である)
……これが、私益道徳と公益道徳と言う空間的な倫理である
・「通常感覚」が捉える「欲動」は、人間の精神の本当の深層を捉えきれていないという批判です
「フロイト・ラカン派の批判」への反論:
狂信的で異常な思想やな~
「「通常感覚」は社会的に作られたものであるという批判」
・哲学や批判理論における最大の論点は、私たちが「通常」や「当たり前」と感じている感覚そのものが、実は純粋に自然なものではなく、社会制度や権力によって構成されたものであるという点です
ミシェル・フーコー(権力と欲動)への反論:
私自身は「通常感覚」と病的な感覚、犯罪的な感覚が区別されたとは言っていないどころか、その「通常感覚」と区別されにくいものに対しての、「私益の倫理・公益の倫理」を用意してある
ロヴェイン教徒的な私益道徳・公益道徳(私益の倫理・公益の倫理)に同意するような賢明な人たち(たとえば、アンチクリスト)は、病的な感覚や犯罪的な感覚をそうならないように、上の空間的な倫理によって、調節するのが良い 他の人と言うのは、そもそも条件にあっていないのだから、この哲学から退くべきだろう
「近代合理主義「通常感覚」への批判」
・日常的な理性的感覚や、健全とされる市民感覚が、実は人間の根底にある根源的な欲動を抑圧している、あるいはその逆であるという批判です
ニーチェ(生の大肯定とルサンチマン)への反論:
…言ってみれば、私はローマ帝国の貴族(ローマの軍勢の将校)なのである
……私の状況はと言うと攻撃されやすく、攻撃しにくい状態であった
急いで、「通常感覚からの欲動」を教練しなければやられてしまう所であった
…そもそも、「究極感覚」といっても、日常生活で土台となるのは、「通常感覚」である(「究極感覚」が土台になる人もいるかも知れないが、そこは環境の違いと割り切るしかない それに私には苦い過去があった……)
とりあえず、私がやったのは、「通常感覚の入れ直し」である …これによって、錯覚性うつ(いわゆるデカダンス、デカダン者)を克服したのであり、やはり、「通常感覚からの欲動」の上には、「高き自由」、下には「すくう自然」があったのだと、私は悟った…
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