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【哲学シリーズ21】アリストテレス哲学は破潰されました、皆様

eye-elさん

アリストテレス哲学と「理性」を破潰する

2026-06-26 08:40:39 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:72   閲覧ユーザー数:72

 アリストテレスの形相(エイドス=本質)・質料(物質)についての批判

 

因子(人間の中に出来る、人間因子からの派生の因子(歩行因子や作業因子(単純)、世間話因子など)によって、人間の行動、言動は説明出来る)

 

 物には完全因子と言うものが存在し、たとえばイスとしての完全因子がある物体は「座れる」

…逆に、完全因子と言うものが存在しなければ、イスは十分に「座れない」

 

 物と完全因子は連環し、物としての形質を保っている

 

 

 

……このように、者もそうだが、物も因子によって左右されるのである

 

 

 

 意識としては、イスを作る場合、イスとしての完全因子を組み上げると言う事を知識しておけばいいのである

 

 

 

 本質としての形相(エイドス)についての批判

 

 物の因子には完全因子があり、不完全因子と言うものは存在しない 完全因子が存在しないと言う事実だけがある

 

 したがって、不完全因子に従属する非形相(非エイドス)と言うものは存在せず、非形相(非エイドス)が存在しないならば、非形相(非エイドス)と形相(エイドス)と言う区別と言うものも存在しない

 

…と言うわけで、区別を持たない形相(エイドス=本質)は存在すらしないのである 区別が形相性(エイドス性=本質性)を形成しているからである

 

 

 

私の知る所では、「本質」と言うのは錯覚(幻覚)のものでしかないのだ!

 

「本質」とは、病気の世界のものなのである

真の本質=実体(ウーシア)についての批判

 

 物と物の関係、人と物との関係、人と人との関係は、能動因子と受動因子によってなり立つ

 

…つまり、人の側の「座る因子」があれば、物の側の「座られる因子」があり、双方の因子が対応する事によって、因子に従属している人と物の座る・座られる関係がなり立つ

 

 故に、実体(ウーシア)はなく、実体のない「対関係」(ついかんけい)があり、因子にまつわる、物質と物質が因子の言語性によって対関係を結ぶに過ぎない

 

 

 

 物の本質の内在性についての批判

 

 現実にはついぞ、「対関係」と言うものがなり立つ事が分かった

 

…しかし、物に本質が内在しているのではなく、この対関係をならしめる二点の因子は本質を二分するものであり、二分された意義の因子は人や物に取って、内にあるとも言えるし、外にあるとも言えるのである

 

……したがって、アリストテレスの「物の本質の内在性」については明確には本質と呼べるものはなく、本質は内だけにあるものではなく、外にもあるもの、自分の中にあるものが絶対でないように、本質と呼ばれるものも絶対ではないのである

 

…と言うわけで、明確な意味での本質は存在しない

 

 だから、物そのもの(実体・物自体(仏教の「表象世界」含む)・原子など)も存在しない

目的としての形相(エイドス)についての批判

 

 各々の因子を束ねる思が生まれる事により、思は意思になり、その意思を目的と呼んでいる

 

…意思と言うのは精神であって、意思はこころである

 

 

 

 こころが物質になるには、まず、こころにあるものを書き出さなければいけない、つまり、イスを作りたいのだとしたら、「”こう言う”イスを作りたいこころ」が目的なのであって、”こう言う”イスでなければ意味がないのである

 

 こだわりがある以上は単純な形相はあり得ず、こだわりを持つこころと形相を同じにしなければいけないのだが、その為に偏屈な空間である会社に身を置かなければいけない

 

…それを避けるには、そのこだわるこころの為にその人自身が形相を描かなければいけないのである

 

(現代のモノづくりはアリストテレスの形相(エイドス)の為に、偏屈なものとなっている)

 

 しかも、細かい所まで詰めなければいけないので、形相はこだわりを描くには適していない

 

 

 

…すなわち、組織図である形式ならば、文字と記号の式で書ける為にこだわりを表しやすい

 

……形相より形式の方が目的を達するのによいのである

 

 

 

形式の例:

 

冷暖房>長細くて大きな(一つの)口=筋肉(電力)で動く>一つののど=筋肉(電力)で動く>三つの肺=筋肉(電力)で動く

 

三つの肺にまつわる三つの機を持つ精神

 

 

 

アリストテレス哲学の物の本質についての補足

 

 物の中にある完全因子の派生に形質因子が複合している

 

…たとえば、イスだと形質因子(イス)(金属)(土台)(A)と形質因子(イス)(木)(着座部分)(A)と同じく、形質因子(イス)(木)と(背もたれ部分)と(A)、主にこれである

 

 その場合、外形でもあり、因子でもあり、形質因子の因子と材質とは一体化しているのである

 

…それは形質因子と言うものが外形と内なるもの両方である事を示している

 

 物の本質と言うものがあるならば、先に挙げたような「対関係」にある因子、「座る因子」・「座られる因子」のような、外なるもの(機能系)、外形、内なるもの(内因子)、それとこだわりのこころである形式=組織図も本質であって、四大本質を成している

 

 

 

現代のアリストテレス哲学に補足させてもらった

 

 

 

アリストテレス哲学の物の本質についての破潰(大批判)

 

 概念因子の派生に概念因子(原因)と概念因子(結果)のみある

 

 

 

…たとえば、アリストテレス哲学の形相(エイドス)と言う概念、原因としてなら、設計図と言う意義しかなく、結果に至っては意義は皆無である

 

 よって、概念因子の概念意義性に形相(エイドス)は設計図の意義以外含まれない 形相(エイドス)は設計図以外において、そもそも、科学的概念に含まれないのである

 

(補足:「科学とは「原因と結果」である」(『アンチクリスト』ニーチェ著)/「原因があって結果がある 当然であろう」(左記同書)

 

…よって、概念に関しても、概念そのもののカテゴリーの「概念因子」と、それが二つに分かれて、「概念因子(原因)」と「概念因子(結果)」だけ存在する

 

……有意義な概念はこの二つに分類され、余ったものは概念の中で、無意味なものである

 

 形相(エイドス)のアリストテレスが追記したものなどは、やはり無意味である)

 

……ただ、アリストテレス哲学は破潰され、設計図と設計と組み立てと言うモノづくりが残るのみである

 

 

補足:

 因子は原因じゃない 因の子であって、結果である(言論因子(批判)があるとして、因子は批判言論と一体である)

 その結果がまた原因になる事もある 因子はそもそも、完全な本質ではない

 

…なぜなら、因子そのものは物と一体であって、実質、物だからである 因子と言う実体があるわけでもない

……ただ、考えとして、存在していて、考えが力を持つだけの事(考えと力としての因子)

 アリストテレスの「本質」についての批判

 

 本質は目的因子から生み出される四つのものである

…そして、一つの本質をアリストテレスは語る

 

 たとえば、イスの目的因子、目的因子(イス)があったとして、イスを作る事への行為と目的因子(イス)を定める言動と、イスそのものへ変容した目的因子(イス)、つまり、イスの中の完全因子と、「座る因子」と、「座られる因子」と…つまり、言動と行為と者と物が合わさり、複雑な回路を構築する その回路の中の一つ一つが本質なのだ

 

……しかし、アリストテレスは複雑な回路をありのまま認めようとせず、単純な「本質因子」(彼はそれを「形相(エイドス)」と呼ぶ)なるもので説明しようとした

 

 本質とは四大本質が合わさって始めてあり得るものである

 

…言うなれば、一つの本質など、物にはない ただ、本質を客観化して言い表す事は出来る、が、たとえば、空間の本質とは真理であり、一連の言葉でしかない

 

……よって、本質とは、ただ一つの概念によって表されるものではない

 

 したがって、形相(エイドス)は本質ではあり得ない

 

 

 

 形相(設計図)も物の含み込んだ本質とはならず、形式(組織図)の一つに過ぎないのである

 

 アリストテレスの理性についての批判

 

 人間因子にはまず、狂気因子が存在するかしないかを選択されている

…しない事がアリストテレスに取っては、理性と錯覚されたようだが、狂気因子がない事、すなわち、理性があるわけではない

 

 それは、無・狂気因子と言う状態であって、因子を仮定する事により、

…アリストテレスの「理性」は否定される

 

 

 

 人間因子から派生した無・狂気因子からは無・偏見因子、無・知礙(むちげ・知を妨げざる)因子が派生する

 

 無・偏見因子は行動的理性の実の働きを、無・知礙因子は直観的理性の実の働きをする

 

 

 アリストテレスの理性についての批判2(理性とは幻覚である)

 

 普通に床に足を付くのと、ソファーに足が付くのと、比べてみれば、理性が存在さえしない事が明らかであろう

 

 普通、床に足を付くのに躊躇する人はいない(たたみの文化を除く)

 

…ただ、ソファーに足を付くのはダメかと言うと、理性が存在さえしないからこそOKなのである

 

 理性の代弁者は言う

「ソファーに足を付くのが大丈夫である事を理性が”知って”いるので付けられるのだ」

 

知っている、理性は分かっているのはずである、つまり、知っていると言う事は知性によるもの、加えて「机の上に足が付くのがダメである事を理性が”知って”いるので付けられないのだ」となると、

 

……この時点で「理性」と我々が言っているものはどうやら知性である事が分かる

 

 知性の代弁者(哲学者)は言う

「知性が足を付くのをダメだと”知って”いるから、机の上に足を付く事をためらう」事もそれを裏付けている

 

 

 

 ”知っているのが知性”であると言う単純な事が世間に伝わっていなかったからこそ、”理解”と言う”知っている”で事足りるのに、わざわざ理性を持ち出した、誤解の末の、言葉が生まれてしまったのだ

 

…この誤解を、理性と言うものが無様の長物である事を、知っていたからこそ、近代の哲学者は「理性」を「知性」と呼び、「原理」を「知識」と言い直したのであろうが(ニーチェなどは、便宜上、「知性」を「理性」と呼んでいる)

「常識」そのものは死んだ(「常識」の一方的に正しいゆえの私益道徳・公益道徳による否定)

 

 私益道徳と公益道徳とは、空間的な道徳です

 

…私益道徳とは、私益の倫理、公益道徳とは、公益の倫理です

 

 アリストテレスの「常識」のような閉塞的な倫理では、どちらにせよ、人間は人間的に生きる事が不可能です

 

…よって、私益の倫理と公益の倫理との「常識」の比較により、公私の倫理は肯定人間、アリストテレスの「常識」は否定人間として、まず、最初にアリストテレス自身が否定されて、アリストテレスの精神そのものは死にました(常識そのものは死んだ)

 

 「常識」の代わりに肯定人間である私益の倫理・公益の倫理が「常識」の代わりに人間の上へ君臨するのです

 

 

 

 これが”正しさ”です


 
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