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No.1188087
【『コーラン』シリーズ1】『コーラン』の知識
eye-elさん
『コーラン』の知識
行動神学
アッラー(唯一神)
迫害と虐待と嗜虐(しぎゃく)の三位一體(さんみいったい)の国、イスラエル
インフルエンザ・エイズ(HIV)・梅毒・ノロウイルス・高血圧はアメリカ製
アメリカこそは、アンチ・ゴッド(反・創造神)、アンチ・エンジェルズ(反・諸天使)、アンチ・プロフェッツ(反・諸預言者)
真虚二元論
カリスマの知識
2026-06-02 09:59:16 投稿 / 全14ページ 総閲覧数:74 閲覧ユーザー数:74 |
0.『コーラン』について
今回、私が『コーラン』をテーマに選んだのは、その書が非常に興味深いというのと、私の持っている宗教的な知識と協和したからで、私にとって、人生でやらなければならないと決めているものの一つとして、『コーラン』についての知識の補足や知識を残す事があった
その為、今は私は学者であるから、時に国家など、様々なものへの批判を交えながら、『コーラン』というものはどういうものか? について、「本質」と呼ばれるような所に触れて行きたい
TtT、この文書で公開するものは、イスラム側は自由に使ってよい それがトーレ・トゥ・トーレである
トーレ・トゥ・イントーレがイスラム教、イントーレ・トゥ・トーレがキリスト教、イントーレ・トゥ・イントーレがニーチェである
アイイル・滝口
1.最高善のアッラー(イスラム神学)
2.唯一神のアッラー(ユダヤ神学・多義世界学)
3.七大預言者(イスラム神学)
4.トーレ(善)・イントーレ(悪)という考え(行動神学)
5.神の下に行動する事(行動神学)
6.積極的に努力しない事への言い訳=ニヒリズム(行動神学)
7.アクト・トーレ(行動善)・アクト・イントーレ(行動悪)という考え(行動神学)
8,ザ・べ・トーレ(最高善)というアッラー(独立性の哲学)
9.トーレ(善・元々の意味で「寛容」)という流失説の具體的な根拠(イスラム哲学)
10.トーレ(優)とは、アレテー(徳)であり、”良”の実存である(アリストテレス倫理学・ニーチェ哲学)
11.善とは? 善友(ぜんゆう、カリスマ)・真友(しんゆう、カリスマ)(イスラム哲学)
12.悪とは? 七種類の悪(邪悪学)
1.最高善のアッラー(イスラム神学)
アッラーという神は、私たち、日本人の耳になじみのない言葉だ
アッラーの人類に現れる目的というのは、神徳、つまり、アッラーは善をすすめ、命令する、最高善なのである、という前提から始まる
…つまり、宗教的にアッラーは必要とされ、善を行うにはアッラーを頼ればいいという主張に繋がるのである
まずは、そこからであって、脈絡なく、”アッラーが盲目的に何かを言っている”わけでは決してない、という知識が『コーラン』を読む際、必要なのである
「アッラーおひとりで十分」、つまり、神々は時に裏切るものなので、そういう「邪悪」な者どもより、善をすすめる善=最高善のアッラーが一人いれば、それでいいという考え方(唯一神教イスラム教=唯一神)
2.唯一神のアッラー(ユダヤ神学・多義世界学)
善をすすめる善が最高善のアッラーなのだとすると、その最高善のアッラーに代わる神がこの世界にいるのか? というといないのである
…つまり、他の神々は最高善のアッラー以外いらない、不用のものとされたのである これが、南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に行われた改革とされる
……一応、学者的な反論として、世界は多義的なので、事実、一神論者だけではないし、他の見方も確実に存在する
元々、世界が多義的なので、一神論者だけの窮屈な世界にする事は出来ない
…しかし、そういう世界の理性を無視して、一神論者が世界の人口の半分を占めるようになってしまった
世界が望まれない、非合理な方に進んでしまったのである
…しかも、一神論者の中でも、ユダヤ教という一義、キリスト教という一義、イスラム教という一義で、互い同士で、多義的になっているのだ
つまり、一神論世界も多義的である事、これを知っておきたい
結局の所、一神論もまた、世界として、多義的なのであって、一義的ではなかった
3.七大預言者(イスラム神学)
…つまり、アッラーは善をすすめる為の言葉(現実の人の舌や書をしたためる手)を必要とした
イスラム教では、五大預言者と言われる、特に、アッラーの言葉が集中している預言者がいる 「耳」なる預言者である
…しかしながら、ここでは、「アダムの物語」と『エノク書』が『聖書』自體(じたい)よりも、『コーラン』に与える影響が強いと見て、七大預言者と言っておこう
実に、それらの「人間」を挙げると、
アダム(アーダム):「アダムの物語」『アダムとエウアの生涯』
エノク(イドリース):『エノク書』
(ここから、五大預言者)
ノア(ヌーフ):「ノアの大洪水」
アブラハム(イブラーヒーム):「アブラハムの生涯」
モーセ(ムーサ―):律法書群(モーセ五書)
イエス(イーサー):福音書群
ムハンマド:『コーラン』
右は、七大預言者が書かれている物語や預言書の名前である
七大預言者は『コーラン』を知る上で、強力な軸になるので、『聖書』や除外典を見ておくのがいい
神を知るには、まず、それに仕えた人間を知る事、アッラーを主とする、こういう人たちが「主のヴァーレット(神の直接の従者)」と呼ばれる人たちである
…ちなみに、「ヴァーレット」とは”悪党”という意味もあるが、”従者”を、”従者”である事を支える精神性こそがいわば、「アッラーへの信仰」なのである たとえば、「ムスリム」とは、”絶対帰依者”、つまり、間接的にせよ、聖典を通じてアッラーに仕える者、神の間接の従者、それを「主のヴァーレット(神の間接の従者)」という形に出来るものが、「信仰者」というわけである
(私たちは「そんな事をするならば、言葉自體を正せばいいじゃないか?」と考えて、あまり積極的にはなれないのである もちろん、それもいいが、飽くまで、勉強してみて、「精神的な事」を計る指標の一つとして、『コーラン』を学んでみてはいかがだろうか?)
理性 知性 光性(意識・認識・現実光・音性など) 真性 虚性(嘘など)
「いいか?お前ら、アッラーは真性か虚性(ウソ)を用いるかで、お試しになるぞ、お前らが嘘を吐く時、試されているのだぞ、お前らが真性の正しい者か? 虚性の誤った者か?は」
これぐらい単純な『コーラン』だったら、良かったのだが…(真虚二元論) 世の中には虚性の病気で死ぬ輩がいるらしい…
真虚二元論
善悪二元論の奥底にある二元論
真なるものに属する者(真者(しんじゃ))、真なるものに属しない者(虚者(きょしゃ))の二元
…後に述べる真(トーレ)(虚(イントーレ))も同じもの
カプグラ症候群という病気のホンモノとニセモノが事実のように見える所から、真虚二元論が出来、善悪二元論者はその”病気の”原理が当然、働いている前提で考えて「善」という「ホンモノ」と「悪」という「ニセモノ」を作り出した 実に、カプグラ的善悪二元論はキリスト教的であり、その體質を病児教も受け継いでいる
…また、哲学世界や科学世界、宗教世界などにはホントウの知とウソの知が存在している
……他にも、女性信仰世界(男性世界)と男性信仰世界(女性世界)の、ホントウの関係とウソの関係というものもある
………また、日常生活はホントウの側だが、ウソが混じる事もある
…………それから、実利によるホントウの支配と舌による実を伴わないウソの支配とがある
……………さらには、武術の技術、モノづくりの技術などにもホンモノとニセモノがある
東洋思想として、基本的にはこういうホントウとウソは切り離す事が出来ず、ホントウを愛する知識階級、ホントウとウソが混じった支配者階級、ウソを愛する被支配者階級という風に、三つに分かれ、基本的には恋愛は、知的な喝破とただの日和見で、だまされない人間とだまされる人間とに分かれて、だまされない人間が子供を生み、DNAを遺し、民族の種は強くなって行くのである だから、実は、女性不信(男性不信)に陥るような人間は、典型的にダメな人間で、そのようなタイプの人間の種が自然淘汰されて行くと、その民族はより強くなって行くのだ
4.トーレ(善)・イントーレ(悪)という考え(行動神学)
イスラム教には善悪という考え方がある
…たとえば、『エノク書』では悪である「罪悪」をこのように定義している
”全ての遅れは罪だからである”
すなわち、これはトーレ(善)・イントーレ(悪)という考え方に繋がる
社会に存在する、ある種の闇を受け止め切った時、その人には優しさとか、努力の心が生まれる
…それが善性(トーレ)である寛容性(トーレ)なのだよ
…これは、トーレ(善)というものが、”骨身を惜しまない、努力についての寛容”という意味を持っており、トーレ(善)というものが「やれる内にやる」善(たとえば、小さな所で、市役所の手続き、大きな所で、和平交渉)であるのに対して、「ただやらない」悪(たとえば、小さな所で、市役所の手続き、大きな所で、和平交渉)というものも存在する 不寛容なるイントーレである
…こちらは骨身を惜しむのだ
単に、トーレ(善)とは、許す事であり、イントーレ(悪)とは、許さない事である
しかも、トーレ(善)としては「許すからこそ許さない事」(法律・国際法もこの考え方)もあり、イントーレ(悪)としても、「許さないからこそ許す事」(いわゆる「偽善」や「詐欺」、「復讐」)もあるのだ
トーレ(善)の本質は原義(「元型」とも呼ばれる)であって、イントーレ(悪)の本質は「退廃」である
トーレ(善)は時に、腐敗して、イントーレ(悪)化する
トーレ(善)がイントーレ(悪)に関わり続けると、「朱に交われば赤くなる」
…イントーレ(悪)化するのである
これは、個人の場合もあるし、組織の場合もあるのだ
…また、国家の場合すらあるのである
…また、飽くまで、そういう腐敗と無縁の神が「目なくして見、耳なくして聞く」精神のみの存在、アッラーなのである(唯一絶対の神・天地創造の神) そういう、善(トーレ)・悪(イントーレ)の知識を前提にして、『コーラン』はなり立っている たとえば、アッラーの本質はと言うと、”慈悲”と”慈愛”であり、”許す事”と”骨身を惜しまない事”、まさに、善(トーレ)の神髄である
特に…”全ての遅れは罪だからである”についてはこうである
「やれる内にやる」善、
「迷惑な事をしない」善、(「迷惑」という認識に思い至る)
「ただやらない」悪、
「迷惑な事をする」悪、(「迷惑」という認識に思い至らない)
やるべき仕事に関しては「善」である事が求められる
5.神の下に行動する事(行動神学)
努力を怠る行為は神(アッラー)に恥じる行為であり、飽くまで、信仰者はトーレ(善)を目指す
結局の所、目指すべき「アッラーの道」とは、「ジハード」(「奮闘努力」あるいは「聖戦」などと訳される)の言葉に示されている
まず、イスラム教という宗教は”許す”という原則がある たとえば、異教に入っている事を許す事、飽くまで、イスラム教というのは、寛容に促すだけなのである
そして、必要以上にイントーレ(悪)に関わらない事が、イスラム教の大きな一つの意義である
…実際、イスラム教は、ユダヤ教・キリスト教に対して、過激派組織以外は、必要以上に干渉しようとしなかった歴史がある 「オスマン帝国」という国があるが、帝国とは言っても、強引にヨーロッパを支配しようとはしなかったからこそ、ヨーロッパの今があるのである 少なくとも、「イスラエル」という国に関しても、国と呼べる規模の入植をしても、自分たちからは排外運動などはしなかったはずである(そもそも、イスラエルと言う国は一種の排外運動から、国家が出来ている 実際の所、多かれ少なかれ、イスラエル人というのは、排外の民なのである 迫害とか、差別とか、虐待とか、を自分たちがやられて来て嫌だった事を、今度は他のアラビア人にやっているわけである(嫌々売々(けんけんばいばい・自分がされて嫌だった事を、かえって他人にも売りつける事)の国、イスラエル))
……反対に、キリスト教というものは、非常に不寛容な宗教として、アレクサンドリア図書館消失、ローマ法王主導による十字軍運動、ヨーロッパ諸国による宣教によった植民地化、アメリカのインディアン虐殺、オーストラリアのアボリジニ虐殺、などによって世界に知られている
いくら、他人・他国を「悪」としているからと言って、やってはいけない事とされる事を、模範の正反対のダメな例のように、やっているのが、キリスト教なのである いわば、キリスト教は「悪」の模範なのだ
行動によって、キリスト教とは違うのだと、イスラム教は示し続けたのだ
…つまり、第四項の行動神学を自分たちなりのやり方で正しい事とし続けたのが、いわば、アラビア人なのである
キリスト教の国で、有名なアメリカは病気大国であり、戦争狂の国である 普通に考えて、日本やアラビア諸国に比べて、病気が多いのだ つまり、こういう事だ
「病質の神性」、病気を手や足や声、神具(しんぐ・神の道具、武具)にするのが、神である 病気を利用しているのだ しかし、病気にかかるという事は、それとは正反対、病気に利用されているのである そういう、病気に利用されている自分を知らない事をまた、「邪悪」と言う そして、錯覚という病質は、神最大の器官、頭脳であった
実際の所、アメリカという国はおおよそ、神とは正反対の国、インフルエンザの国、エイズの国、梅毒の国、ノロウイルスの国、高血圧の国なのである 「神の錯覚」とは反対の浅慮で暗愚な国なのであった
また、『コーラン』の全體は平和にかかっている アルコール禁止も平和、賭博禁止も平和、ジハードも平和を勝ち取るものであるし、アッラー、天使、預言者も平和秩序を維持する為のものである
…アメリカは『コーラン』と正反対の立場を取っている いわば、アメリカは、アンチ・ゴッド(反・創造神)、アンチ・エンジェルズ(反・諸天使)、アンチ・プロフェッツ(反・諸預言者)なのである
『エノク書』ではこのような事を言っている 「”未文化人(ユダヤ人(ヘブライ人と呼ばれる人たちは除く)・イスラエル人・キリスト教徒など)は全て神の天使に牢に繋がれるべき罪人である”」
また、『コーラン』への影響が強い『エノク書』(具體的には『エノク書2』)はこう言っている ”全ての遅れは罪だからである”
平和を享受する事の遅れ、戦争を取りやめる事の遅れ、アメリカはそれらを遅れさせ続け、ついには至らなかったのが、先の太平洋戦争である
アメリカは悪にも劣る悪なのである 所詮、アメリカに味方している内は、日本国民は幸福にはなれないのだよ
6.積極的に努力しない事への言い訳=ニヒリズム(ニーチェ哲学)
「ただしない」という悪(イントーレ)からの言い逃れがいわば、ニヒリズム(科学信仰・キリスト教・オカルトなど)である
つまり、世間の人というのは、自身が善(トーレ)でも悪(イントーレ)でもない中途半端な所に立っている、と主張する たとえば、学者ニーチェに言わせるなら、「「悪」とは弱さから出るもの全てです」、要するに、「ただしない」の中に、「”言い訳した上で”ただしない」も含まれていると、ニーチェは主張するのである
聖なるものである『コーラン』によれば、”神により、または神のしもべである人間により、人は善と悪によって分けられる”、これがイスラム教の最後の審判の前提なのだ
…それが、善(トーレ)・悪(イントーレ)なのだとすれば、『コーラン』のムハンマドやニーチェと言った人物はアッラーのカゴを担ぐ役である それが自然の定めた善悪であり、アッラーのニ要素としての、自然の神ロヴェイン・スカーレット、幻想(生命幻想)の神クリスティー・スカーレット、第三世界のゴー・グ(神の神々)、連続世界を前提とした神々はこう呼ばれる …それは、つまり、流出説を肯定した神々、アッラーが全世界の神である事を認めている神々なのである
疑似審判であるにせよ、『アンチクリスト』について、ムスリムが見たならば、「本当に、このニーチェという学者は審判をする権限を与えられているのでしょうか? アッラー」という風に思うはずだ 確かに、ニーチェが『アンチクリスト』で糾弾しているキリスト教というものは、ムスリムが考え得る中での、最大の悪(イントーレ)運動だろう 直接は口にしないが、キリスト教を、ムスリムは「悪」だと思っている しかも、キリスト教はユダヤ教の神と同じに言われているが、キリスト教を統べる者というのは、恐らく「シャイターン」(悪魔=サタン)の類だと、名のあるイスラム系の学者は言う事だろう つまり、真っ当なムスリムに言わせれば、「キリスト教の神」こそが「アッ・シャイターン」(シャイターンの正式名称)だと本音は思っているだろう …彼ら、キリスト教徒のやって来た事を鑑みれば、当然の答えだと思う
しかも、まともにこういう事に触れる私にしても、悪(イントーレ)である事のニヒリズム、その超越を主張するニーチェの「超人」、その一種である「怪人」なのである いかに、ニヒリズムというのが、悪(イントーレ)であり、「超人」や「怪人」が善(トーレ)である事は分かろう
…善(トーレ)の選択が待たれる
…よろしい教えよう、何が善性(トーレ)で、何が悪性(イントーレ)なのかを
世間の人々はニヒリズムであり、科学信仰やキリスト教などは悪(イントーレ)である 社会主義も悪(イントーレ)である
…それから、ユダヤ人やイスラエル人も超正統派と呼ばれるイスラエル系を除いて、悪(イントーレ)、キリスト教の中でも特にイギリス、ロシア、アメリカは悪(イントーレ)
……しかし、反対の善(トーレ)は、アフリカ人、一部を除いたアラビア人、ほとんどの日本人も善(トーレ)ではある
後、イスラエル系の超正統派、ニーチェの『アンチクリスト』を読んだキリスト教カトリック派なども、一部のドイツ人もである
カプグラ症候群
ユダヤ教やキリスト教や病児教(常識や自分を神とする宗教、日本はこれに支配されている)の根幹にある善悪二元論は、カプグラ症候群から生まれた
カプグラ症候群は主に、統合失調症に付属する病気である ホンモノとニセモノを錯覚して、「ホンモノは”自分”」、「ニセモノは”敵”」という風に、表現し、その形式として、「”善”と”悪”」を用いるのが、このカプグラ症候群が進行して重篤になった場合である 敵意をもって、「悪」を攻撃し、自分たち、「善」と差異を付けようとする、為に、一刻も早く、医療機関にかかる事が求められるのである こういう病者の中で、ある種の「絶対神」となっているカプグラの教えとして、「善」だけを愛し、他は「悪」として排撃すると必ず、彼らは主張する
たとえば、イスラム教とユダヤ教はユダヤ教が一方的に、イスラム教を迫害・虐待などをして争いが生じているが、ユダヤ人(ユダヤ教徒)はまさに、カプグラ症候群なのである 無論、それに参加しようとしない、超正統派なる比較的、カプグラ的でない人間はイスラエル側にもいるが、結局の所、所詮、「カプグラ教」という宗教であって、カプグラ症候群という病気にイスラエル人は利用されているだけであって、それも私からしてみれば、「邪悪」(信頼出来る学者的な視点ではなく、病人的な歪んだ意識や認識の中にある病気との共通価値、つまり、病気の価値)を世界に対して表現しているに過ぎないのである
…それについては、類例を出してみると、ユダヤ人がハマスに復讐する理由として、病的なカプグラの世界にある「神がユダヤ人を通して、攻撃するハマスに復讐する」と言った感じで、カプグラ的とは、ニセモノの世界にある「何某かが、働きかけて、ユダヤ人をたきつけている」、つまり、「ユダヤ人(病気)に責任はない、あるのは、「悪い」あいつらだ」と言った風に、「善い」という自己擁護と「悪い」という自己正当化を繰り返すのが、病気であるユダヤ人で、こういう知的な攻撃は一方的になりやすいのが特徴である
その本質にあるのは、まさに、先程述べた、「邪悪」がカプグラ的なユダヤ人にあるから、である
知的にも現実的にも攻撃する一方的で、明らかに、悪い(イントーレ的な)のが、あるいは、わるい(「良し」「悪し」の「悪し」な)のが、カプグラ的なキリスト教徒、ユダヤ人、病児教徒なのだ
「ヒトラーの大虐殺は知っている
…何という事だ ヒトラーに死ぬまで虐待を加えられた者たちが今度は、アラビア人に虐待を加えるのか? この虐待的態度が世界に広まってしまったとしたら…、自分がされた嫌な事を、かえって他人にやるというサディズム、ユダヤ的サディズムがなぜ生まれてしまったのか?
自分がされた嫌な事を、他人にしないという当たり前の事がなぜ理解されないのか?
はっきり言って、ユダヤ人には人間には当たり前にある学習能力が欠けているからに過ぎない そして、学習すべき内容をかえって憎しみに変えて、赤の他人にぶつけてしまう 学習放棄者イスラエル人、学習を放棄した人間はクズに過ぎない
(あなたたちは学ばなかった
『聖書』の枢軸書『列王記』が、「異教徒」への迫害と虐待を推奨していると知られていたからこそ、あなたたちも迫害と虐待を”かえって”受けた事を(キリスト教的サディズム<ラダー・サディズム(心理学・哲学)))」
7.アクト・トーレ(行動善)・アクト・イントーレ(行動悪)という考え(行動神学)
アクト・トーレ(行動善)、アクト・トーレ・トゥ・トーレの略、またはアクション・トーレランスの略
アクト・イントーレ(行動悪)、アクト・イントーレ・トゥ・イントーレの略、またはアクション・イントーレランスの略
司法天使が異教徒には神のように見えるようだ
「この者は「主のヴァーレット」(ムスリムやヘブライ人)ではないが、正しい事をした 故に、アクト・トーレの審判を下す」
良く通る、まるで神のような声で、司法天使はアクト・トーレの判定を下した
(さすがに、人間以外の天使が裁判をするというのは、見ようによっては滑稽だが、しかし、ムスリムとしてはこういう話には真剣なのである)
…つまり、異教では善(トーレ)・悪(イントーレ)ではなく、行動善(アクト・トーレ)・行動悪(アクト・イントーレ)で、メタトロンを本體(ほんたい)とする司法天使ラグエルなどが飛んで行って、審判を下すらしいのである
それが誤解されたのか、インドで、閻魔大王(ヒンドゥー教ではヤマ)の輪廻転生の業(カルマ)になったらしいのだ
…ちなみに、キリスト教徒は人間の言葉だろうが、天使の言葉だろうが、悪魔の言葉だろうが、幻聴の言葉だろうが、悪い方悪い方にとらえる アクト・イントーレの言葉はアクション・イントーレランス(「行動の不寛容」という批判)の略ではなく、アクト(行動しろ)・イントーレ(不寛容な方に)と解釈する
実際の所は、キリスト教徒は常に苦しんでいる 自分の行動と自分の頭の悪さに 結局の所、全知全能の神アッラーからしても、「馬鹿」は始末に負えないという話 結局の所、「馬鹿」は「天才」よりも正確に、その正反対に、物事の裏表を間違えるという話
行動善(アクト・トーレ)とは?
たとえば、息事(そくじ)、息をしなければ、死んでしまうように、平和を守ってお金(知識なども)をもうけ、自他の為に使う事、戦時には立ち上がって国家(からだも)を守る為の活動をする事、必要な手続きをする為に市役所に行く事、正当なだけ代金を支払う事など、とまあ、普通の事だ
行動悪(アクト・イントーレ)とは?
非息事、つまり、普通の事とは正反対の事をする事、
たとえば、平和なのに視覚や聴覚、触覚などを通じて世の中や人心を荒らす事、戦時に国家を売り渡したりする売国行為、自己都合で手続きを市役所でしない事、代金をまるっきり支払わない事など
行動善(アクト・トーレ)は現実契約に繋がる
現実契約には、自分との契約(記憶する事)、生との契約(生きる事)など、より直接的なものも含まれる
…ラグエルなどの司法天使はその契約が有効かどうか、判定する
……また、主のヴァーレット(神の直接の従者)の中に、ヒトツボシ ジウという者が混じっており、”現実の神”と呼ばれ、現実契約を受け持ち、アッラーに繋げる
ここまで来て、人間が出ていない事に気付く、少なくとも、神が裁いたりするにしても、行動神学とは”人”である
…まず、行動神学の前提として気にするべき事は人である
考え方としてはこうだ
最初に大きく分けて、行動の原点として、「自分から見て」と「人から見て」がある
…実は、前者の「自分から見て」は本来の善であり、「人から見て」は偽善であると言える
行動とこう言った主體の間には感覚をはさむ
…であるなら、「自分から見た感覚」と「人から見た感覚」、二つから行動が生まれるのである
人間というものは、感覚を一概に考えるもので、人間というものは、二種類、つまり、「自分から見て」の人間、善者と「人から見て」の人間、偽善者とで分かれる
これが行動神学の「良識」というものである
…つまり、西洋式キリスト教(病児教)に言わせれば、善者とは「善人」であり、「我々」で、偽善者とは「悪人」であり、むしろ、「わけの分からない事をのたまっている”お前たち”だ」という事
……すなわち、言っている事はこうだ
「我々は「常識人」であり、お前たちは「非常識人」、”簡単に言えば”、私は「善」で、お前は「悪」」と良識派の人間に対して言うのが、いわば、ユダヤ人、イスラエル人、キリスト教徒、病児教徒なのである
…これがユダヤ教やキリスト教、病児教の「破壊」である
…対して、キリスト教の破潰はこう言う
お前たちのさえない宗教では「神々」が「悪魔」とされ、「悪魔の首領(ドン)」が「神」とされるそうではないか?
…では、お前たちの言う「善」とは実は「悪」(偽善)でお前たちそのもの、お前たちの言う「悪」とは実は「善」で、お前たちの”敵”ではないのか?
そうとすれば、正しい人を”敵”としているお前たちとは何か?
…ただの邪教徒ではないか
…と破潰の神(二神教の神)アイイルは言う
8.ザ・べ・トーレ(最高善)というアッラー(神)(独立性の哲学)
最高善(ザべ・トーレ)のアッラーは、ある事を人間に認めている それは、「思考の私有」である さらに、キリスト教の神などは思考の私有を認めていないのである 「思考の私有」とは”人間主體(しゅたい)の思考領域”を学者に認めているのだ 『コーラン』には学者になる事をすすめるヶ所がある
何と言っても、『コーラン』が定めている事は、「アッラーの下の平等」である 「平等」と言っても、「思考の私有」を認めている以上、「思考の私有」をしている学者が偉い事は、『コーラン』の解釈をイスラム系の哲学者が引っ張っている事からも明らかである
まず、『コーラン』を中心とした階級には、三つあるのである 一番上にイスラム系の学者という知識階級、これは二番目の指導者階級を左右する階級だ 二番目に指導者階級、まあ、これは、皇帝系や国を引っ張る元首系である 三番目に被指導者階級、ムスリムの中で最も特徴がなく、平凡な階級なのだ その他に、無信仰者や異教徒、コジキなどが入る
「平等」というのは、この三階級もまた、アッラーの下にあり、「アッラーの慈悲と慈愛」の下に、日々の生活を送っているという事、アッラーの下には、同じ条件だという事
最高善(ザべ・トーレ)のアッラーは「学者の自主性」というものを認識しており、こころという領域において、なかば、アッラーから独立しているのが、学者であり、アッラーの「ジハード」に自主的に従っているのが、指導者階級である アッラーの「ジハード」を見よう見まねでしているのが、被指導者階級であって、この三階級はいわば、「独立性の哲学」において、イスラム教で言ったら、自尊・自従・尊従の順番で、上に行く程、独立し、下に行く程、依存するのである こういう三階級に分かれる独立を旨とした三階級を哲学する事を、「独立性の哲学」と言う
飽くまで、この三階級の上に、最高善(ザべ・トーレ)のアッラーが自存するという事である
9.トーレ(善・元々の意味で「寛容」)という流失説の具體的な根拠(イスラム哲学)
流出説の説明は大體こう(全世界は「三世界説」とする)
「…こうして、アッラーから第三世界が流出したのである アッラーの世界は限りなく、寛容(トーレ)であったが、やがて、第三世界には律法(現代で言う「法律」)という考えが生まれた アッラーの一義性に対して、アッラーの言葉という形で、生活におけるアッラーの多義性を人々は求めたのである この段階では、考えに対して、そんなに不寛容(イントーレ)ではなかった」
「…そして、第三世界から第二世界が流出したのである 第三世界はかなり寛容(トーレ)であったが、第二世界では寛容(トーレ)に対して、不寛容(イントーレ)が入り混じり始めた 原則という考えと、例外という考えが生まれた この段階で、言葉(ロゴス)は神ではなくなった」
「…さらに、第二世界からこの世界、第一世界が流出したのである 第二世界はある程度、寛容(トーレ)であったのだが、結局、人類というものは、善と悪、または良と悪という価値観を生み出した まさに、第一世界とは不寛容の世界なのである 自然は人間に対して厳しかった …そういうわけで、人間は人間に対して、甘くなった」
…つまり、アッラーから第三世界が、第三世界から第二世界が、第二世界から第一世界が、流出し、アッラーが最高に寛容(トーレ)であるのに対して、第三世界はそれに劣る、第二世界はさらに劣る、第一世界と来れば、不寛容の世界というくらいなのである
というわけなので、アッラーは全てを操る事が出来るが、完全に寛容(トーレ)なので、そんな事はせず、第三世界は第二世界をほとんど操る事が出来るが、かなり寛容(トーレ)なので、そんな事はあまりしない
そういうわけだから、割と不寛容な第二世界の神々が血筋によって、この世界、第一世界に「世界族」という人々を生み、人類の大半を支配しているのである
そういう事で、世界は第二世界のスカーレット家の支配下にあったのだが、モーセやイエスやムハンマド、ニーチェによって、その支配から解き放たれていったのが、おおよその人類の歴史なのだ
つまり、人類の狂乱の歴史というのは、この人類のほとんどの血を握っている第二世界のスカーレット家によって、起こされた事件や戦争、反乱、事故や事変なども全て、意識的にせよ、無意識的にせよ、第二世界の神々の操り手によって、起こされて行ったわけである
…ニーチェは行動に関して、寛容の世界を築くべくして、様々な事を言ったが、その中の一つの手段が一見、寛容(トーレ)の「原則」と矛盾する「破潰(大批判)」であったのだ
10.真(トーレ)とは、徳(アレテー)であり、”良”の実存である(アリストテレス倫理学・ニーチェ哲学)
「その人の根底にある動機や目的は必ず『善』(本人にとってプラスになること)である」(行動善)
…ただし、行動善の中にも、「物事を事実的に見すえる」アクト・トーレと、
「物事を事実的に見すえない」アクト・イントーレとがある
その判定は神に救われるか、神に堕とされるか、によって為され、その解釈はアクト・(行動せよ)トーレ(真なる者から)(心象的に神に救われる)という内在的な無意識によって、(あるいは本能によって、)命令が為される これを神からの言葉とし、その命令が天使や幻聴によって現実に反芻(はんすう・豚などがもう一度味わう為に、吐き戻す事 意味がひるがえって、もう一度味わう事)されるのである
アクト・イントーレ(行動せよ・虚なる者から)も同じ事(ダメになった無意識(本能)による)
…この真(トーレ)とは、アリストテレスの徳(アレテー)であり、ニーチェの「”良”の実存」である
虚(イントーレ)とは、ニーチェの「”悪”の実存」である
しかしながら、現実というのはそういうものを中々、共有出来ないので、実際の所は、誰でも必ず、善の面も悪の面もあり、どんなに悪く見える人でも、善い面があり、どんなに善く見える人でも、悪い面がある ムスリムに神すら馬鹿にされているキリスト教徒ですら、それより下等な病児教徒ですら、さらにその下の社会主義者でさえも、善の面は存在している
11.善とは? 善友(ぜんゆう、カリスマ)・真友(しんゆう、カリスマ)(イスラム哲学)
純善(ニーチェに言わせれば、「純粋な精神」)は少なくとも、この世界には存在しない 必ず善(トーレ)は悪(イントーレ)の介入を受ける
…この第一世界が不寛容の世界である限り
……代わりに、善友(ぜんゆう、カリスマ)(または真友(しんゆう、カリスマ))を目指す
不可逆の善友、たとえば、(少なくとも善三友の)女性にしてみれば、自分をむやみに襲うような男性はノー・サンキューなのである
…不可逆とは、善友から、悪友の、「助けてやるからヤらせてくれ」などの非男性的な要素を、男性的に取り去った、ちまたで言うなら、「神」の男性である 普通に考えてイケメンで、優しくて、男性的な、善友など、手放す意味が分からない やはり、そういう男性以外に浮気するというのは、女性として何か欠けているに違いないのだ 言ってみれば、不可逆の善友(または真友)とは、モテる為の必須の条件であって、まず、最初に持っていなければならないものである
女性だけでなく、男性から好ましく思われる為にも、これは必要な要素である
…『コーラン』の預言者であるムハンマドもそれを持っていた 人間的にはそれがほとんど全てなのである
いわゆる、「善友(カリスマ)」というものである また、「真友(カリスマ)」、実を得させる友もいる
(善友が人徳なのだとすれば、真友は役得なのである)
…それで、具體的(ぐたいてき)には善は何か? と言うと、善友(カリスマ)と行動善(アクト・トーレ)、善(トーレ)は行動善(アクト・トーレ)をも含むものとして、イスラム教では「天国」の報酬にて、見通しの明るい宗教として、誕生当時、名をはせたのである
「信仰して善行に励む者」である
キリスト教は信仰だけをしたり、難しい概念をむやみに考えるが、イスラム教はその正反対だという事だ
行動善(アクト・トーレ)は見通しのいいものだが、悪とは自分を、他者を通して、他者を利用して、表現するので、かえって見通しの悪いものである
…だから、行動善(アクト・トーレ)は悪と正反対なのだ
12.悪とは? 七種類の悪(邪悪学)
邪悪と悪
聖典などで言われる「邪悪」とは、「悪と自覚しない悪」、その”悪”とはキリスト教を例に挙げると、「劣悪」の事
…また、悪には、「劣悪」の他に、「常悪」、ほとんどこれは「劣悪」と被っている、狂人の狂気の事 「極悪」・「巨悪」・「純悪」、ただし、「悪は善などの他者を通して、悪の自分を表現する」ので、
(悪は「表現悪」、飽くまで、トーレでない「善」というのは、社会主義者やキリスト教徒、病児教徒の一面に過ぎず、反対の「表現悪」も切り離す事の出来ない一面として存在する つまり、「善」を演ずるとともに、反対の「悪」も表現意欲的に欲する)「純善」と同じく、「純悪」も存在しない
……それに、「シャイターン(『邪悪』(病気の価値=病気に利用されるよう)な「意志」(権力レベルごとのショーペンハウアー的な「意志」・社会主義者やキリスト教徒、病児教徒などの総體(そうたい))の力の具現化)は悪(イントーレ)をもって、善(トーレ)を平和からおびき出そうと試す
…それは「アッラーの意志」である『コーラン』の中の全てが、平和にかかっているからだ
もし、戦争が起きたとしても、善(トーレ)にとっては憎悪的であってはダメなのである
平和(寛容)からの戦争(不寛容)であるべきだ」
…という事である
この「寛容からの不寛容」は大事な、警察などの「征服的な自由」にも通じる概念である
…反対の概念に、キリスト教徒などの「不寛容からの寛容」がある
常悪を含めれば、四パターンの悪が存在している また、邪悪と呼ばれるものは悪の四パターンの自覚がないかどうかなので、劣悪、常悪、極悪、巨悪、この四つがいわゆる「悪」で、劣悪+邪悪、常悪+邪悪、極悪+邪悪、巨悪+邪悪(正確には、巨悪と邪悪は相反するもの)、この三つがいわゆる「邪悪」で、したがって、七種類の悪が存在する 悪は偽善的な事がある
『邪悪』、つまり、”病気の価値”に対抗する為、アッラーの啓示として、数多くのものをムハンマドは遺した
まず、法律の原義、大量の法律の元本のようなルールを遺した
…イスラム教国の警察組織の「征服的な自由」の基盤になった
ジハード、内なるジハードと外なるジハードである
…内なるジハードが個々人の「征服的な自由」になり、
…外なるジハードが軍隊組織の「征服的な自由」になった
最後に、男女関係について、信仰というものは、男女関係に例えられるが、男性信仰をするのが、女性であり、女性信仰をするのが、男性であり、というような基本があって、それに背く事はアッラーと「被造物世界」に背く事とされる
今日、日本では、「こころは自由」とされ、「自認性」としての男性や「自認性」としての女性が存在しているが、それは飽くまで「精神の問題」に過ぎず、実際の性を直視する必要があるのである …そこで、少し現実的に考えると、上の「男性信仰の女性」、「女性信仰の男性」という事になる 「女性信仰の女性」、「男性信仰の男性」はあり得ないという事である
…『コーラン』や『エノク書』を読み解けば、「男性はまず自分の男性自體(じたい)を征服し、性別的に女性の心をも征服する」という考え方であり、逆はあり得ない この一パターンを第四の「征服的な自由」としているのである 言ってみれば、現代の日本社会などは反イスラム的であり、
(と言っても、キリスト教の国、アメリカや同じく、ロシアに比べると、私の母国・日本は圧倒的に寛容なのだが)「第四の獣」などと言っているユダヤ教やキリスト教、他の、病児教(「常識」系・「神示」系の二つ)・民主主義・社会主義・多様性社会に暮らしている人々などは、それらの世界をも秩序付けている「征服的な自由」を、基本としているイスラム世界の人々からしてみれば、「ダッジャール人」と言っても過言ではないのである
(偽救世主の国民=今の言い方で言うと、独裁国家・独裁国家に近い體制(たいせい)の平民軍主(平民元首)国家:たとえば、トランプのアメリカ、プーチンのロシア、ネタニヤフのイスラエル、習近平のチャイナ、金正恩の北朝鮮、それらと比べると、日本は比較的、平民非軍主国家(軍人的ヒエラルキー(自衛隊的ヒエラルキー)がほぼ全てである)であるし、高市早苗は女性であるから、その(「ダッジャール」という疑いの)対象から外れるし、最近変わったばかりで、風通しもいいので、アラビア諸国とはうまくやっていけるだろう)
それでも、アラビア諸国の国民が批判などあまりせず、暮らしているのは、アラビア諸国以外のそれらの国々にもある「征服的な自由」、軍隊組織や警察組織に敬意を払う男性的な品格を持っているからなのである
平民軍主主義、なぜ、平民軍主国家がダメなのか?と言うと、まず、『三国志』を見てみれば分かる
魏呉蜀、どこが一番弱かったのか? と言うと、蜀が圧倒的に弱かった まず、要人たちが国力のなさから、はかりごとに遭い、次々に討ち取られて行った事(張飛に至っては、まともに張飛を守る護衛すらいなかった事が国力のなさを物語っている) 劉備自身が大軍を率いる器でなかった事 劉備が平民であった事から、二代目からして国が腐って行った事
…よって、平民軍主国家は腐るし、国力が充足しにくく、そもそも、大統領などは軍民ではなく、ほとんど文民であり、しかも、元々、平民なのである
(フランス貴族などは、「ノブレスオブリージュ(持てる者の義務・実は別の言葉が使われていたようだが…)」などと言って、得意不得意・好き嫌いに関わらず学んだり、訓練したりを義務としていた それと比べると、平民など、フランス革命的な「わがまま勝手の自由意志」のままなのである)
オススメするのは、公民軍主主義、平民軍主主義よりも、より高い位置にある公民が軍のトップになるというもの 後は、(平民)非軍主主義、スイスや日本である
キリスト教について
『コーラン』にはこうある
「(憶(おも)い起すがよい)ムーサーが自分の民に向かってこう言った時のことを。「これ、みなの者、犢(こうし)を(神として)拝むとは、己に己が害がいなすようなもの。さあ悔い改めてお前たちの創り主におわびせい。いっそお前たちお互いに殺し合え。その方が造り主のお心にかなって、お前たちに(赦しの)お顔を向けて下さるかも知れん。まことに(アッラー)はよくお思い直して下さるお方。まことに慈悲あまねきお方だから」と」
「犢(こうし)を(神として)拝む」・「いっそお前たちお互いに殺し合え」とは、キリスト教は「イエス・キリストを神の子として崇拝する宗教」である つまり、モーセ(ムーサ―)が言った言葉、「犢(こうし)を(神として)拝む」はキリスト教徒にも当てはまる いわば、「いっそお前たちお互いに殺し合え」は言葉を選ばず言うなら、”いっそ、死ね”と言っているのであり、モーセという人物は、キリスト教徒も含めて、”神を崇める立場であるはずなのにも関わらずの、(無信仰な)悪はいっそ、死ね”と言っているのである
論理立てられた哲学(アッラーから与えられた?)などを身に付けた、腰の据わった人物でなければ、こういう事は中々言えないのである
『コーラン』は飽くまで、悪に対して、こういう姿勢を見せているという事を述べておこう
…それは他人事ではない、いわば、神社神道の神道家などもこう言ったモーセの呪詛を受けているのであって(作話者となって生きのびている神道家を見た事があるが、信実(または真実)どころではないあり様であった ”いっそ、死ね”とは、”信実において死ね”という意味でもあるのだと思う)、信じるならせめて、アッラーの世界と一セットのゴー・グ(Go-G=英語で「神の神々」)が無難だという事も述べておく
…また、『日月神示』は無政府主義者(アナーキスト)の岡本天明の書だが、モーセの呪詛から逃れる為に、天明が、『日月神示』という書を生み出したからこそ、神社神道から離れて、無政府主義者たちは腰を落ち着けて信仰出来るという話
……ただし、『ヨブ記』には「 あなたのむなしい言葉(虚言=ウソゴト)は人を沈黙させるだろうか。あなたがあざけるとき、/人はあなたを恥じさせないだろうか。
あなたは言う、『わたしの教は正しい、/わたしは神の目に潔い』と。」(ヨブの友人のゾパルのセリフ 11:3-4・『ヨブ記』によると、ヨブは嘘吐きらしいw)とあるので、「岡本天明」の名で本人が、主宰神の神示(啓示=教え)を出版する許可を出した時点で、「天明」は「自分の教えを正しい」としていて、しかも、「神そのもののように言葉が清い」としているが、「ウソゴト」であり、「”神の前に不義なる者”」であり、”呪詛されるべき者”なのではないか?
…という「信仰的」には重大なテーマで締めくくるとしよう
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