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No.1184725
新人さん
シルクロードは長安~シリア間だとする説や、洛陽~ローマ間と見る説もあるそうだ。また日本がシルクロードの東端だったとする考え方もあり、どこが起点か明確には定められないらしい。 1900年(明治33年)3月28日にスウェーデンの地理学者/中央アジア探検家によって、シルクロードの古代都市・楼蘭(ろうらん)が発見された。それで3月28日はシルクロードの日になっている。学生時代にうろ覚えたシルクロードは1つだと思っていたが 他にも幾つかの交易ルートがあったという。 交易ルートA『草原の道コース』中国西安から北上してカラコルムに渡り、モンゴルやカザフスタンのステップ地帯を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海北側の南ロシア草原に至る交易路。そして交易ルートBは『オアシスの道コース』東トルキスタンの砂漠をオアシスづたいに横切って東西を結ぶ隊商路だ。このルートBが「シルクロード」と名づけられている。洛陽や長安を発って黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。シルクロードはここから先に さらに主要なルートが3本あり、西トルキスタン以西はより多数のルートに分岐していた。①ルート「西域南道 (漠南路)」タクラマカン砂漠の南側を通るルートで、崑崙山脈北側のオアシスを辿ってパミール高原(地形的には高原ではなく6,000~7,000メートル級の急峻な山々が連なる)オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。5世紀に法顕は西域南道を通ってインドに渡った。このルートは、敦煌を出てからロプノール湖の北側を通るのと、ロプノール湖の南側に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノール湖が干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、砂漠の南縁に下るルートが困難になったという。シルクロードの距離的には最短だが、極めて危険で過酷なルートらしい。7世紀の玄奘三蔵はインドからの帰途、このルートを通りに楼蘭の廃墟に立ち寄ったことが『大唐西域記』(西遊記の素材となった旅行記)に記されている。13世紀に訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルからロプノール湖の南側、アルチン山脈の北麓に沿って進むルートを辿って敦煌に達したとされている。②「天山南路(西域北道, 漠北路, Northen Silkroad)」天山山脈(中央アジアに位置する全長約2,500kmに及ぶ壮大な山脈で最高峰は7,439mのポベーダ山)の南側を通るルートで敦煌から天山山脈の南麓に沿ってパミール高原に至り、最も重要な隊商路として使用されていたそうだ。このルートも2通りに別れており、いったん北上し西進してトルファンを通る方法があったが、楼蘭で水が得られなくなると楼蘭を経由してコルラへ行くのが困難になった。③「天山北路」天山山脈の北側を通るルートで、安西から北上し天山南路と分かれて天山山脈の北麓沿いにスイアブに至る。砂漠を行く①と②のルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000 mもあるパミール高原を越える必要もないらしい。 こうして改めてイメージすると中国は恐ろしく広い。広いだけでなく、高低さが物凄い。中国人達は 砂漠を越え、平均標高5000 m以上の高地を越え、海のような大河を渡って商品を運んだのだ。そんな中国人のスケール感覚からしたら、富士山がとても小さく思える。いくら登山規制をしても、「たかが3776mの山なんてサンダルでいいぞ」と、中国人になめられるのは仕方がない気がした。
2026-03-28 15:45:39 投稿 / 734×550ピクセル
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シルクロードは長安~シリア間だとする説や、洛陽~ローマ間と見る説もあるそうだ。また日本がシルクロードの東端だったとする考え方もあり、どこが起点か明確には定められないらしい。 1900年(明治33年)3月28日にスウェーデンの地理学者/中央アジア探検家によって、シルクロードの古代都市・楼蘭(ろうらん)が発見された。それで3月28日はシルクロードの日になっている。学生時代にうろ覚えたシルクロードは1つだと思っていたが 他にも幾つかの交易ルートがあったという。 交易ルートA『草原の道コース』中国西安から北上してカラコルムに渡り、モンゴルやカザフスタンのステップ地帯を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海北側の南ロシア草原に至る交易路。そして交易ルートBは『オアシスの道コース』東トルキスタンの砂漠をオアシスづたいに横切って東西を結ぶ隊商路だ。このルートBが「シルクロード」と名づけられている。洛陽や長安を発って黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。シルクロードはここから先に さらに主要なルートが3本あり、西トルキスタン以西はより多数のルートに分岐していた。①ルート「西域南道 (漠南路)」タクラマカン砂漠の南側を通るルートで、崑崙山脈北側のオアシスを辿ってパミール高原(地形的には高原ではなく6,000~7,000メートル級の急峻な山々が連なる)オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。5世紀に法顕は西域南道を通ってインドに渡った。このルートは、敦煌を出てからロプノール湖の北側を通るのと、ロプノール湖の南側に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノール湖が干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、砂漠の南縁に下るルートが困難になったという。シルクロードの距離的には最短だが、極めて危険で過酷なルートらしい。7世紀の玄奘三蔵はインドからの帰途、このルートを通りに楼蘭の廃墟に立ち寄ったことが『大唐西域記』(西遊記の素材となった旅行記)に記されている。13世紀に訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルからロプノール湖の南側、アルチン山脈の北麓に沿って進むルートを辿って敦煌に達したとされている。②「天山南路(西域北道, 漠北路, Northen Silkroad)」天山山脈(中央アジアに位置する全長約2,500kmに及ぶ壮大な山脈で最高峰は7,439mのポベーダ山)の南側を通るルートで敦煌から天山山脈の南麓に沿ってパミール高原に至り、最も重要な隊商路として使用されていたそうだ。このルートも2通りに別れており、いったん北上し西進してトルファンを通る方法があったが、楼蘭で水が得られなくなると楼蘭を経由してコルラへ行くのが困難になった。③「天山北路」天山山脈の北側を通るルートで、安西から北上し天山南路と分かれて天山山脈の北麓沿いにスイアブに至る。砂漠を行く①と②のルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000 mもあるパミール高原を越える必要もないらしい。 こうして改めてイメージすると中国は恐ろしく広い。広いだけでなく、高低さが物凄い。中国人達は 砂漠を越え、平均標高5000 m以上の高地を越え、海のような大河を渡って商品を運んだのだ。そんな中国人のスケール感覚からしたら、富士山がとても小さく思える。いくら登山規制をしても、「たかが3776mの山なんてサンダルでいいぞ」と、中国人になめられるのは仕方がない気がした。