差別主義的な「常識人」は、消極的な吾汝(個人の精神を形作る集団無意識的にあまり積極的に結び付かない他人)同士で付き合う
…すると、関係深度が浅いまま全てを行う
関係深度が浅いと、男女の結び付きや交友関係が軽薄になるのである(一見、情に厚いように、「常識人」は見えても、噓泣きなどするぐらい、軽薄だったりする)
……だから、「常識」よりも「大人の常識」(「自由性=特別」「不自由性=凡」)を学び、盲目的な自由・征服的な自由の分別を付けて、力の容器の征服者(いわゆる超人)になるのが、奴隷的でなく、自由的である
盲目的な自由(な言論の栄養学)
現代の栄養学は言語性が反転している部分が多々見られる
…たとえば、お腹が空いているままにして置けば、
普通に考えたら、「やせて行っている」となるにも関わらず、
栄養学では「太って行っている」と考えるのだ
もちろん、お昼ご飯を丸ごと抜くならば別だが、ただ、お腹が空いている事を
「逆に太って行っている」のだと、決め付ける
…こう言う類の全ての言語性の反転が、「エゴのままの決め付け」であり、
ただ、”お腹が空いている”と言う「自分事」が反転して、
栄養学では、”ならば、太って行っているのだろう”と言う「他人事」になってしまうのだ そして、それが「立派な学による決定」となってしまうのだ
普通は、感覚を肯定して、”ならば、やせて行っているのだろう”となる ところが、栄養学では、要するに、感覚の否定をして、それに繋がる現実の否定をして、それに基づいた科学をも否定してしまうのだ 結局、感覚の否定から、(理性)幻覚によって、「常識的」な結果がもたらされ、栄養学では、現実も科学も否定するのである
……つまり、栄養学では、ただの「エゴのままの決め付け」が、「立派な学による決定」に反転して、宗教の世界と違う、科学の多義的な世界と言うものが、宗教のように一義的な世界に決め付けられてしまうのである これを「エゴのままの決め付けによる科学の多義性の否定」と呼ぶ これが公然と行われているのが、現代の栄養学の世界である ただ単に「科学の否定」「多義性の否定」でも良い
とかく、こう言う低レベルな”盲目的な自由”がはびこっているのが現代の時代なのである
つまる所、このような自己成長のない”盲目的な自由”から得られる事は、宗教のような「科学の否定」ではなく、科学自身の「科学の肯定」に科学が至る事は当然、
個人個人が、「科学の肯定」に与する、健康的な成長を指向する”征服的な自由”をそれぞれ感得し、取り組む必要性を感じるものである
科学の進むべき道とはこう言うものであり、これより先の科学は、この”征服的な自由”を取り込んで行けるかどうかで、決まって来る これからの”征服的な自由”にはもはや必要ないものとして、民主主義やキリスト教、アリストテレスやシュタイナーは否定させて頂いた
一般的に100年目であると考えられている、DC100(西暦100年)は実は、101年目だった
実際、暦ではDC100年は1年分として数えるのだ
100-100は通常、数学の世界では、0である
…しかし、暦では100年と言う年を認めているので、
100-100は1(年間)である 勘違いしがちだが、一年間とは、1月1日から同年12月31日までの事だ
……要するに、暦では1~100年は、101年間なのである
つまり、100・200・300…1800・1900・2000は余計に1年数える為に、2000年が1年間である事を知ってないと、そこが計算違いになって、一年多く年数を計算しやすい
…と言うのも、皆、数え年を頼りに計算するのではなく、普通に足し算で計算しようとするから、2000年と言う年を飛ばして計算するものだから、勢いで、数え年より一年多く計算してしまう為に、2025年なのに、2026年に必ず、間違うのである
2026年とやはり、今年も間違う馬鹿な学者のせいで、2025年が今年と、今年(2025)と言えないのだ その証拠にアメリカは去年は2024年だった 当然、今年は2025年だろう
……その程度の国威の頭脳しかないから、国家としても、GDPランキングが四位まで落ちるんだと言う事が、分からないのかねぇ?
征服的な自由、とは?
自分が自分の意志に関わらず、勝手に動いていたら、その人が正気で犯罪的でない限りは自分を律する事を考えるはず、
他人に関しても警察や軍隊、自衛隊などの、奥深くにある思考のように、言動や強制力、ルールで律する事を考えるはず、
…それが「征服的な自由」である
…このように、征服的に自分の自由、他人の自由を律して来たからこそ、今の国家の繁栄があるのだから、それを前提に動く、より理性的・知性的で、強くある人間(一言で言えば、権力者)程、「征服的な自由」は否定しがたいものである
……よって、国家や国際社会、会社、個人が「征服的な自由」を否定する事は根源的な犯罪であるので、むしろ、肯定すべきである、と言える
私の挙げる自由とはこれである、「征服的な自由」
…それはこのようである
自分の存在を喰らい、なおも生きる事、これが「自由」と言うものである
……つまり、自分の存在を喰らうようにして、征服し、腹の底から、こころの底から生きる事
それが、「征服的な自由」と言うものだ カントやヘーゲルの言う自由など、自分で自分を喰らう事、腹の底から生きる事、こころの底から生きる事に比べたら(礼儀尽心(特にこれは、「化粧する女みてえに」大言壮語な言葉で自分を虚飾する男への皮肉である(せめて、もうちょっとこころを込めて言いなさい))返事無待・自己定義・自由意志)、どこらへんが自由なのか?
むしろ、自分を弁解してもらいたい所だ
小手先の哲学者の言う小手先の自由など、浅海浅慮の結果に過ぎない 人間の中の何も動かさない 動かせないのだ
ぱいコン・パイコン
おっぱいコンプレックス
これには男女の別がある
ロリコンとかと同じような病気
…特に太豊(たいほう=巨乳)に対する男女のコンプレックス
キリスト教徒はこの病気である
われコン・ワレコン
我=自分コンプレックス
これにも男女の別がある
ぱいコンと同じく、ロリコンとかと同じような病気
…自己の所在(中心か? 辺境か?)に対する男女のコンプレックス
自己中、ヤクザ、マフィア、病児教徒と言うのはこの病気である
ロヴェイン・スカーレット=太豊神(巨乳の神)・自然神・創造神
アイイル=太豊人(たいほうじん)
ひしめく病気=病的と言う解釈
相手が自分を潰して来るならば、その相手を自分はすり潰せば(破潰すれば)いい
…私の言論のように
自身財産権
・自身の身体(身体だけが対象ではないが…)を財産として持ち、他者害損に賠償などを命じる
自身商品財産権
・自身の身体の将来が商品として売れる見込みがあった場合、真偽を明らかにして他者害損に賠償などを命じる
自身財産権・自身商品財産権は死後、相続される
性的障害者
・男性の自覚があるのに、女性的など(この場合、男性でもあり、女性でもある=二顕性)
私の場合、自覚的男性+還身(げんしん)リビドー(※衝動)的女性
※衝動…この場合、体外的な器官を意識出来るように選択する事
…たとえば、ショーペンハウアーの「意志世界」、ニーチェの「権力への意志」は衝動的意志である この意味での衝動だ
……これだから、意志は否定出来ないのだよ?
ニーチェが何よりも重要視したのは論理性、肯定出来てしまうと言う事、否定出来てしまうと言う事、それらの自然にあった
私からして見れば、彼もまた、創造自然の神ロヴェイン・スカーレットに(『コーラン』や『聖書』で言うアッラーやヤーヴェに当たる神に)真剣に向き合った中の一人で、神を正しいとしているととらえられる
技術(凝らす、凝らさない)の盲目的な自由
権力(許す、許さない)の征服的な自由
…バキシリーズのような世界
凝らす、凝らさないの世界は空手などの世界、許す、許さないの世界は體術・女性體術などの世界の事
概念的なもの、心証的なもの、
概念的なものは存在しているもの、心証的なものは純粋に信じるもの、信用するもの、
…アンチ・クリスト教の神は「そうである」と信じ込む概念的なものではなく、信用する心証的なもの(者)である
人間は存在するものに対して、二つの感覚を持っている 概念的なものと心証的なもの、の二つ
「常識」の病児教、「悪人」のキリスト教、「人格」の押し付けの仏教の、世界三大※邪悪教
※邪悪…「悪」と自覚しない「悪」、ねじ曲がった方法の攻撃的な奴
…そもそも、世界三大邪悪教徒には自分の事さえ分かり得ない
……そんな奴が、「常識人」や「キリスト者」であるわけもなく、真理の事? 分かるわけがない
理性的世界(幻覚的世界)
・理的幻覚の世界
知性的世界
・知的感覚の世界
「こいつは男だから…」
で、始まる理的幻覚(理的作話)は、まず、その前提から間違っている
「男に見える」と言うのは、飽くまで、思い込み(錯覚=幻覚)が見せているに過ぎない
…錯覚は錯覚を愛すると言う事
|
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
盲目的な自由=カントやヘーゲル、自由民権運動などの「自由」