No.1178518

【哲学シリーズ4】マルクス哲学(浅慮と浅知恵の哲学=社会主義の大元)は破潰されました、皆様(マルクス哲学大批判)

eye-elさん

マルクス哲学について暴露

2025-12-13 13:26:36 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:118   閲覧ユーザー数:118

(共産主義系企業一覧あり(二ページ目))

 

”「労働力」を商品として資本家が買い取る”

 

正しくはこう「「拘束時間」の対価として賃金を資本家が支払う」

 

”資本主義の最小単位は「商品」”

 

正しくはこう「日本国の取引の最小単位は「一円」、一円から取引が始まり、支払いが生じる」

 

 

 

 所詮、マルクスの言う資本論とは、言葉の反転性(言い換え)を利用して…

 

・「やりがい」を「物神」に、

・「信用」を「物象化」に、

・「信用の裏返しの責任能力」を「社会的平均労働力」に、

・「拘束時間(企業の時間掌握)」を「労働量・労働力(労働者の空間掌握)」に、

・産業の最小単位としての「一円」をマルクスの言う「資本主義」の最小単位としての「商品」に、

・労働力という「体の資本」を労働力という「商品」に、

・使用者が決める変動的な「モノの価値」を固定的な「使用価値」(モノには「~についての価値」もあれば、逆の「~についての無価値」もあり、それを両面的に「モノの価値」と呼んでいる にも関わらず両面的な「モノの~」と使わずに、物事を捉えようとするマルクスの「使用価値」は独善的である(ニーチェはこの一面しか見ない独善性を「デカダンス」と呼んでいる))に、

 

・「そのものの金銭的価値」を「交換価値」に、

・公的な企業に還元する「もうけ」をマルクスが労働者を嫉妬させる為の私的な「剰余価値」に、

・「もうけ」を出す為の企業も個人も必要な分の「労働要求」を「剰余価値」を出す為の一方的に個人が必要ないとされる「余分な労働」に、

・資本主義的な「生産」を社会主義的な「搾取」に、

・業種によって変動する「仕事の対価としての賃金」を固定的なマイナス収支の「「搾取」の道具としての賃金」に、

・生産者が生きた消費者に売って出す「売り上げ」を機械的な、買われる事前提の「生み出された価値」に、

 

(『アンチクリスト』の逆算哲学)

 

…ねじ曲げる事によってでしか、意味を持たない

(ネットに落ちているマルクス哲学を見ていけば分かるが、前と後は正反対の意味である おーい、労働者に大切なものをマルクスがねじ曲げているぞ!)

 

 

 

……また、以上の置き換えによって生み出された社会のクズである「反資本主義者」を別な社会の一員である「社会主義者」に、

 

 

 

 これらの置き換えを行った後、マルクスの「絲(し)」によって、それを批判しようとする批判者の舌をもつれさせ、黙らせる論に過ぎない

 

 

 

・「労働疎外」、原則として労働者は労働から疎外されない

・「生産手段(土地・工場・機械など)の私有」、社長の中では会社の体質によって、偏った見方をしていない限り、生産手段は公的なものである そもそも、生産手段を公有化するものが資本主義の事業である!

(もし、マルクスが偏った見方の社長を資本主義全体と考えたなら、マルクスの資本主義観は偏っている!!)

・「賃金は生活に必要な最低限の費用で賄われる」、まともに八時間五日勤務していれば、貯蓄出来る余裕があって当然である

・「価値の増殖運動」、この一言から、マルクスは病的であって、国を司る思想家としては不適格である!

・「資本主義の矛盾」、何かあったか? いや、見た所なかった

・「資本主義の崩壊」、大タワケのタワゴトである

共産主義(労働価値説採用)企業として、

・株式会社オビタス(共産主義者・大竹隆弘)

・株式会社ワンデックス(共産主義者・大竹隆弘)

 

の二社(革命の可能性あり)

 

 マルクスの「労働価値説」はニーチェの言うデカダンスである

 労働で価値が決まるなら、消費者の出る幕はない 実際には、消費者が価値を決める その前に生産者が価値を見出す

 

 「生産者から見た価値」と「消費者から見た価値」と、両方で価値が決まる「両者価値決定説」、まず、生産者が決定し、消費者が決定する この決定の方法が「売る」と「買う」である 「売る側と買う側の両者が価値を決定する」と言う説である

 

 買われなければ、価値はないのであり、売られなければ、価値はないのである 労働価値説など、いくら労働したとしてもまず、売られる保証は「信用」にしかないのである

 

 売る側がまず、価値を認めなければ労働に価値など生まれない

 

…通常のお客様目線と言うのも、デカダンスである

 ”お客様”と言う視点に偏り過ぎて、まず、現代社会は生産者が決定すると言う視点が欠けている

 生産者としての個人の視点をないがしろにし過ぎて、面白いとも言えるが、退屈なものが世の中にあふれているのである

「世界は物質(経済的基盤)が根本であり、意識や観念がそれを規定するのではなく、物質的条件が意識を規定する(唯物論)。」

 

マルクスの唯物論の反対に、仏教の唯識論(唯心論)がある

「唯識論(ゆいしきろん): 瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)が唱えた思想で、「すべては認識の表象( vijñapti)に過ぎない」とし、八つの識(阿頼耶識など)によって世界が構成されると説きます。」

 

 こちらの方が現実的

 

 なお、もっと現実的なものとして、「多記号世界」がある

 

(多記号世界=私たちの見ている世界、これを非世界世界と言う

 

 世界は表象(イメージ性)ではない、記号である 記号を頭の中で何らかの物質・心象・感覚に置き換えているのである

 

 世界は多記号である 世界には非世界世界と記号の世界である世界世界がある

 

…平凡に考えると、世界は非世界世界だが、アンチ・クリスト的に考えると、世界は世界世界である

 

 よって、真理として、多記号世界が挙げられる)

「科学的社会主義(共産主義)

空想的な社会主義と異なり、資本主義の構造的矛盾を分析・解明し、階級なき社会(共産主義)の到来は歴史の必然であると主張した。 」

 

 対するものとして、資本主義と五本感覚の三階級がある

 

 まず、直接世界に現れない本能(芯感覚の一本)がある 本能は自分を顕し、肉体(当該感覚の一本)を生む 肉体は精神(三本感覚(手感覚・足感覚・脳感覚))を動かす

 

 この内、三階級は肉体の層に現れる 上が究極的感覚の人間、中が究極的感覚と通常的感覚の中間程の人間、下が通常的感覚の人間である 肉体は三階級として現れるが、共産主義者は下層民の下、最下層民、三階級に含まれない キリスト教徒や病児教徒もこの最下層民である

 

 根本的に、共産主義とは、人間が自然のあり方をねじ曲げたものに過ぎず、資本主義と五本感覚の三階級が自然のあり方に適っている

マルクスの「絲」

 「絲」と言うのが、まず、「~を~」と定義させ、そこから、”知的な”現状の自分と言うものを隠し、ただ焦っている様子だけを残し、自分と言うものをマルクス流に酔わせる

 

 自殺的指向(デカダンス)など知らない無知な者から、批判意見をマルクスが書いたものと言う烙印(らくいん)を押して取り上げ、「お前の思考など俺の手の内にあるのだよ」などと思い込ませる

…思い込んでいる被デカダンス者はその病的な考えに疑問を覚えない

 

大筋として…

 マルクスは下手な論考で簡単にもみ潰せると批判者に思い込ませ、スキあらば、考えを盗んでいって、最後にマルクスの考え(マルクス哲学)を受け入れさせてしまう

 

 

 

 これが「絲」である

「浅慮と浅知恵」を哲学にしたら、マルクス哲学、つまり、「浅慮と浅知恵の哲学」になる

 マルクス哲学は破潰されました、皆様


 
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