孫呉の『獣姫(けものひめ)』こと孫瑜―――真名を円は今日も今日とてその名に恥じぬ行動力を発揮していた。大きな音を立てて自室の戸を開けた彼女の恰好を見て、最近呉の王宮に就職したばかりの侍女は仰天して部屋の主を呼びとめた。
「そ、孫喩様!なんですかその格好は!」
円が身に纏っていたのは孫家のイメージカラーである赤を基調としたいつものドレスではなく城下で走り回っている男の子達が着ているような(中流階級出身の侍女から見れば)ぼろ布のような衣装だった。
「今からちょっと素潜りしてくるんだよ。潜る時はサラシ巻くからいいけどさすがに街中をサラシ巻いた姿で歩きまわるわけにはいかないからさ。ほら、このカッコだと汚れとかも気になんないし。あ、そうだ。蓮華姉様に『昼はよそで食べてくる』って言っておいて!」
それだけ侍女に言い残すと『ビュン!』という効果音が聞こえてきそうなスピードで早朝の建業城内の廊下を駆け抜けて行った。
バシャバシャと海の水をかきわけて円は砂浜に置いてあった手拭いで体を拭き、着てきた着物を着る。彼女が右手に握った網には大小様々で色とりどりの魚が収まっていた。
「う~ん・・・久しぶりに素潜り漁をやってみたけど、結構美味そうな魚が獲れたな・・・よっしゃ、そんじゃこれを持って―――」
円は意気揚々とある場所に向かって歩き出した。途中、顔見知りに漁師のオヤジや市を出しているおばさんに声をかけられ、笑顔で返す。彼女はこの街の人気者なのだ。
「そんな訳で料理開始だぜ!」
「どういう訳かはよくわかんないけど・・・料理をするんだね?」
円がオーッと拳を宙に突き上げ、隣に立っている少年―――劉永は猫が可愛く描かれたパジャマに袖を通した「私、さっきまで寝てました」スタイルだ。円は漁を終えたその足で蜀の大使たちが逗留する屋敷に潜入。兵の警備の目を掻い潜って劉永の寝室に到達して彼を叩き起こし、キッチンに引っ張ってきたという訳だ。
「で、料理って何を作るの?」
「刺身だ!獲れたての魚は生が一番美味いからな!」
確かにキッチンテーブルに置かれた魚達は獲れたてのぴちぴちで刺身にしたらと手も美味だろう。劉永は納得して「そうだね」と相槌を打つ。
「他には?」
「へ?」
確かに刺身もいいが、これだけ大量の魚があるのだから様々なバリエーションの料理が楽しめるのかな?と期待していた劉永は、キョトンとする円に嫌な予感を覚えながら質問した。
「円・・・まさかと思うけど、この数十匹いる魚を全部刺身にするつもり?」
「当たり前じゃん。だってオレ料理は刺身しかできないし」
(それは料理じゃ無くてただ魚をさばくっていうんじゃ・・・)
そんな事を頭の隅で思った劉永だったが、とりあえずこの部分はノータッチで行くことにした。
「それならさ、ちょっと工夫を凝らしてみない?こんなにいっぱい魚がいるんだし」
「だからオレは刺身しかできないって―――」
その言葉を待ってましたとばかりに劉永は魚を一匹持ちあげた。
「男だって料理は出来るんだよ?」
円は劉永の手が鮮やかに動く様を感心して見つめていた。
「へー、魚に衣をつけて油で揚げちゃうのか・・・なんて言う料理なんだ?」
「てんぷらっていう天の料理なんだって。父さんに教えてもらったんだ」
結果だけ言えば劉永の料理の腕前はすごかった。てんぷらの他にも魚の煮つけやムニエル、カルパッチョなどを次々と完成させてゆく。
実は劉永や関興、趙広たち一刀の息子達はそろって料理上手である。これは「男だからと言って料理が出来ない、という理由にはならない」という父・一刀の教育方針によるものだった。ちなみに彼の娘達の間では母に似てお菓子作りの得意な諸葛瞻と母より女の子らしい魏長、そして鳳林,厳封の4人だけが料理上手である。あとの娘たちの料理の腕は壊滅的で厨房長から出入り禁止を通告されているほどだ。
テキパキと魚をさばいて調理していく劉永の横顔を、円はチラリと見つめる。彼は彼女の視線に気づかずに作業をこなしてゆく。
「あらあら、まるで御夫婦のようですわね」
『し、紫苑(さん)!』
いきなり後ろから声をかけられて驚いた2人が振り返ると、そこには紫苑が立っていた。なにやら頬に手を当ててニコニコと微笑んでいる。
「料理上手の夫と彼の横顔に見惚れる若妻・・・といった感じの絵でしたよ、今のお2人は」
慈しむ様な微笑みに2人はお互いに意識してしまい、お互いに頬を赤らめて会話がピタリと止まってしまったそうな・・・
|
Tweet |
|
|
55
|
5
|
追加するフォルダを選択
この作品でとうとう49作品目の小説、『蜀の日常』も20作目です!この後アンケートを投稿する予定ですのでよろしくお願いします。