No.87623

狼と羊のアポリア

犬候さん

 この世界を、未だ数匹の亀と象が支えていた時代。
 霧は濃く、森は暗く、神秘と信仰と迷信は絶えず、ただ空だけはどこまでも高かった頃。
 忘れられた、彼らの物語。
 短編連作「死者物語」。

2009-08-01 18:07:18 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:717   閲覧ユーザー数:674

 

「狼が来た」

 広場に集まった人々に、青年はそう説明した。

 彼はその前日、村の北端――森に面した辺りで起こった家畜の大量死、その唯一の目撃者であった。

「狼が来た」

 青年は幾度もそう言った。しかし、その場に集まった人間の誰ひとりとして、彼の言葉を信じる者はなかった。

 元々この村の付近には狼が生息していなかったので、一部の良識ある人々でさえ、彼の言葉はにわかには信じられるものではなかった。そのうえ迷信深い人々の中には、前日の深夜に木々の間を渡る黒い影を見たなどと言い出す者がいて、考えを保留した慎重な人間以外は、みなその話を鵜呑みにした。

 『影』についてのまことしやかな噂が、人々の間で囁かれだしたころ、青年は失意のままにその場を後にした。こういったとき、彼はいつも、そうやって人知れず立ち去った。

 青年は朴訥としてはいるものの誠実な人間であったが、村の多くの人間には、彼のその人柄がいまいち理解されていないこともあって、それにより彼はしばしば損をした。そういったことについて、彼にもその自覚はあったのだが、しかし彼は、それを積極的にどうこうしようとはしなかった。

『正直に生きていれば、人はいつかは分かってくれる』

 そんなふうに、彼はある意味楽天的に考えていたのだった。

 

 

『狼は群れでやってくる。牧羊犬ですら数には勝てない。数は力だ。多数に勝る少数など、まず存在しないと考えろ』

 青年の祖父は、生前彼にそう語ったことがある。青年の祖父は、まだ少年であった頃、一度だけ狼を見たことがあったという。青年は、祖父が遺したその戒めを、決して忘れなかった。

 

 あくる日の早朝、青年は自らの住まいを囲う柵をつくり始めた。彼には守るべき家族――病弱な妻と幼い息子――があり、また守るべき財産――生活の術である羊たち――があった。自らの身は、自らで守るよりないのだ。

 彼が占有する土地は、決して広いと形容されるようなものではなかったし、彼はそもそもが勤勉な人間であったから、柵は数日のうちに完成した。

 青年は、これでひとまずは自分たちの安全が守られると考え、ささやかな満足感を感じながら、その日は眠りについた。

 

 

 ところが翌日の夕方、仕事を終えた青年が家の裏手を歩いていると、彼がつくった柵の、最も森に近い部分――ここはほとんどの場所から死角になっていた――の辺りに、三人ほどの男がいるのを見つけた。

 彼らはみな青年とおなじ村の人間で、特に目立って賢しいことも無知なことも、粗暴なことも思慮深いこともない、ごくありきたりな者たちだった。彼らは青年と、彼がつくり上げた柵とを嘲るような様子で、策を蹴ったり揺すったりしていた。

 青年はそれを遠目に見てはいたのだが、何も言わなかった。青年のそう言った態度も、村の人間が彼を低く見る傾向を助長していただろう。

「……」

 もう日も暮れる頃だったので、青年は踵を返し、その場を後にした。

 

 その日の深夜、青年は、羊の首につけた鈴が鳴る間隔がいつもより妙に速いことと、そして何より彼らの鳴き声――ほとんど幼子の悲鳴のような――によって目を覚ました。彼はあわてて飛び起きると、家の裏手、家畜小屋に面した窓をうすく開き、その隙間から外の様子を窺った。

 月明かりだけが照らす草原に、彼はそれをはっきりと見た。

 青白い――彼にはそう見えた――数頭の獣を。数日前に見た、あの獣を。

 それは狼の群れに違いなかった。

「――――ああ」

 青年は絶望の混じった溜息を吐いた。彼には、狼のうちの一頭が、その口に子羊のようなものを咥えているのが見えていた。……手遅れだったのだ。彼は両の手で、自らの目を覆った。

 

 

 狼の群れが完全に見えなくなってから、彼は羊たちの受けた被害を調べるために、外に出た。

 そこで彼ははたと気付く。

 彼とその家族が眠りにつくときにはしっかりと掛けられていたはずの、家の扉を守る鍵が、開いていたことに。

 青年は半ば混乱しながら、家の中に取って返すが、そこにいるのは妻一人だけ。……彼の彼の幼い息子の姿は、どこにも見当たらなかった。

 青年は再び、家の外に飛び出す。

 だが、一晩中かけて彼が見つけたのは、柵の一部が無残に破壊されていたことだけだった。

 

 

 数日後。

 青年の妻は、もともと病弱だったこともあり、幼いわが子の後を追うように息を引き取った。

 それで、彼に残されたものはもう、何一つとしてありはしなかった。

 成年は。

 青年は、今度ばかりはもう、その場を立ち去ることはできなかった。彼にとって立ち去るということは、ここに、家族のもとに帰ってくるということだったのだから。

 彼はただ、立ち竦む。

 

 青年の妻が亡くなった夜、彼の村は跡形もなく焼け落ちた。

 その村でただ一人生き残ったのは、あの青年だけだった。領主から派遣されてきた役人に彼が語ったのは、ただひとつ。

『狼が来た』

 それだけだった。

 

 
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