No.86631

エピクロスの鳥籠

犬候さん

 この世界を、未だ数匹の亀と象が支えていた時代。
 霧は濃く、森は暗く、神秘と信仰と迷信は絶えず、ただ空だけはどこまでも高かった頃。
 忘れられた、彼らの物語。
 短編連作「死者物語」。

2009-07-27 02:46:34 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:873   閲覧ユーザー数:827

 私たちは鳥籠のなかにいる。

 ――お兄様はそう言った。私にはその言葉の意味がよくわからないのだけれど、お兄様が言うのだから、きっとそうなのだろう。

 ……今は夕暮れ。ここには黄昏と夜しかないのだとお兄様は言う。私も、そうだと思う。

 ここにはたくさんの素晴らしいものがあるのだけれど、ないものもある。ここには……いや、もうどこにも存在しない、数々のもの。

 森。山。川。丘。朝。昼。虹。風。お日さま。星。月。そして――空。

 私は顔を上げた。

 壮麗な細工の施された銀のランプ――そのやさしい光の向こうに、お兄様のお顔が見えた。

 私はそっと、室内を見回した。

 壁を彩る、異国風のタピストリ。大きな石造りの暖炉。床に広がる、真紅のペルシア絨毯。こまやかな細工が目を引く、銀のランプと銀の燭台。木目が美しい鏡台の上には宝石箱があって、その中で、色とりどりの宝石が輝きを放っている。

 そして、私の正面には、お兄様が。

 何より大切な、私のお兄様。

「……ん」

 私の視線に気付いて、お兄様がお顔を上げた。そして、口を開く。

「眠いのかい、トリシア?そろそろ寝ようか」

 優しい、大好きな声。

 私はべつに眠かったわけではないのだけれど、それでも全然眠くないということもなかったので、

「はい」

 と、素直に頷いた。

 

 

「さ、今日はどんなお話が聞きたい?」

 私を美しい天蓋のあるベッドに寝かせると、お兄様はそう尋ねた。お兄様の大きな手が、私の頭をやさしく撫でた。

 私が眠りにつく前に、お兄様は必ずお話をしてくれる。どれひとつとして同じものがない、宝石のような、素敵なお話。そのお話の中では、私ははるか東方にある異国のお姫様になり、あるときははるか昔の大王になり、またあるときは、砂漠を行く一頭のラクダになった。

 私は、お兄様のお話を聞くのが、他の何より――お兄様自身をのぞいて――何より好きだった。

「東の果てにある国の王様のお話、その続きが聞きたいです」

 お兄様がしてくれるお話は、不思議と驚きに満ちていて、それは尽きることがない。私はいつも胸を高鳴らせながら、お兄様のお話に聞き入るのだ。

「ああ……そうだったね。そのお話はまだ途中だったね。それじゃあ今日は、その続きを話してあげようね。遥か西の果て、海を隔てた島国にいた、偉大な王様のお話だ――」

 お兄様は滔々と語り始める。

 平穏な一日は、こうして終わる。

 お兄様の声を聞きながら、私は目を閉じた。まぶたの裏には、世界が広がっていた。

 

 

 僕たちは鳥籠の中にいる。

 ――そう言ったら、妹は少し不思議そうな顔をして、可愛らしく首をかしげたのを覚えている。

「さ、今日どんなお話が聞きたい?」

 妹の頭を撫でながら、僕は尋ねる。

「東の果てにある国の王様のお話、その続きが聞きたいです」

 澄んだ、やさしい声が返ってくる。僕はそれで思い出し、

「ああ、そうだったね。そのお話はまだ途中だった。それじゃあ今日は、その続きを話してあげようね。遥か西の果て、海を隔てた島国にいた、偉大な王様のお話だ――」

 なるべくゆっくりとした調子を心がけながら、話し始めた。

 妹は、僕の話に、目を輝かせて聞き入ってくれる。ときどきその愛らしい瞳を閉じて、物語の世界に心を遣り、そしてまたそのつぶらな瞳を開いて、話の続きをせがむのだ。それはとても――言葉にできないくらいに嬉しいことなのだけれど、トリシアは僕のお話が終わらない限り眠ってくれない。それがほんの少し困ったところだった。

 ……とはいえ、僕にしたってトリシアにお話をするのは嫌いではない。それどころか、僕はトリシアにお話をするのが何より――彼女自身をのぞいて――何より好きだった。

 

 

 僕はお話を続ける。僕がするお話は、そのほとんどが僕の創作だった。聞き知ったお話、本で読んだ物語などは、とうの昔に語り尽くしてしまった。しかし不思議なもので、こうしてトリシアの傍らに座っている限りにおいて、僕の想像力は尽きる素振りを見せない。いまや、僕の想像の腕はミダス王のそれに等しい。僕の想像の指先が触れるものはすべて、黄金に変わるのだった。

「――そこで王様は、空を見上げて――」

「お兄様」

「――ん。何だい、トリシア」

 トリシアは大抵、黙って僕のお話に聞き入っている。けれどたまに、僕に物を問うことがあった。

 今回も、多分。

「空とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」

 空。

「……ああ、空は、ね……もうずっと昔、ずうっと昔にあったものなんだ。気が遠くなるくらい、昔にね。今はもう、どこにも、ないんだよ。だから僕にも、それがどういうものなのかわからないんだ」

「そうなのですか」

「うん。……ただ、見上げるというのだから、きっと上のほうにあったのだろうね。僕らの頭上、遥か――どこかに」

「……」

 トリシアは納得したように見えた。そう見えはしたが……本当のところはわからない。彼女は本当にやさしく、賢い子だから……その質問が僕を困らせるものだと分かって、そう振舞ったのかもしれなかった。

 空。

 空なんてもう、どこにもない。そう、どこにもない。

 ここにあるのは、針を差し込む隙間もない石造りの壁と、床、天井だけ。壁に引っかかった何かの布きれ、大げさなつくりの通風口、麻でできた敷物に、何でできているのかよくわからない、煤けたランプ。腐りかけた粗末なベッドの隣には小さな台があって、その上にはいくつかの石ころが転がっていた。

 大切なものはひとつだけ。

 トリシア。

 僕の最愛の、最後の肉親。

 

 

 窓の一つもない、出入り口のない空間に、僕たちは閉じ込められている。

 僕たちは、囚われの身だった。

 王位をめぐる争いから、僕の父と母は殺された。父と母を殺した連中が、なぜぼくたちを殺さなかったのか――そして、殺さないのか。それは分からない。……僕が知る由もないことだ。

 そうして僕たちは、この石造りの、日の差さぬ地下牢に幽閉されたのだ。

 ここには真実何もない。僕と、僕の妹――トリシア以外、何もない。

「お兄様。それから王様はどうなさったのですか?」

 つい黙り込んでしまった僕を、トリシアがそっと促した。

「……うん。王様はね――」

 トリシア。

 可愛いトリシア。

 僕は、トリシアに嘘をついた。

 妹は本当に幼いころにここに入れられたので、外の世界をよく知らないのだ。

 ここには何もありはしないのに。壁を彩るタピストリも。大きな石造りの暖炉も。床に広がるペルシア絨毯も。銀のランプと銀の燭台も。鏡台も宝石箱も、その中にあるはずの、色とりどりの宝石も。

 全てが、何もかもがが嘘だった。

 

 

 何故そんなことをしたのか、今となっては思い出せないが……はじめの頃は、妹に嘘をつくことが、妹を騙すことがひどく心苦しかった記憶がある。しかしいつからか、その痛みは薄れていった。それは多分、僕が自分を騙す術を身につけたからだろう。自分が妹に押し付けた幻想を、自分自身で受け入れる。そうしてさえしまえば、ここの生活も、そう悪いものでもなかった。

 妹――トリシアはと言えば、結局のところ、本当のことを薄々感じ取ってはいるのかもしれない。その上で、僕の嘘に付き合ってくれているのではないか――最近は、そんな風に思う。

 僕が嘘を吐きはじめたのは、多分子供っぽい同情心からだったのだと思う。僕が妹を守ってやらねばならない、救ってやらなければならないという、そんな思いはあったように思う。だが今こうしてみると、果たしてそれは本当なのだろうかという疑念を振り払うことができない。

 守られているのは、果たしてどちらなのか。救われているのは、果たしてどちらなのだろうか?

 

 

「王様は、空を見上げてこう言った。『これが全てだ。これが私の持ちうる全て、私が愛するものの全てだ』」

 この生活がいつまで続くのか、それは分からない。何しろそれは、外の、僕たちの与り知らぬ世界で決定されることなのだから。僕たちは明日、毒を盛られて死ぬことがあっても、何ら不思議ではない。同様に、あと何十年このままの生活が続いても、その末に老いて死んだとしても、何もおかしくはない。そして、外に――……この石造りの牢獄の外の世界を、再び見ることも――まずありえないとは分かっているけれど――もしかしたら、あるかもしれない。

 ああ。

 もう一度、外の世界に出ることができたら。あの光に満ちた世界に、再び帰ることができたなら。それはほとんど夢のような話ではあるのだが、ここでは夢を見る以外にすることなどないのだ。

 ――しかし、その想像だけは、僕の心を満たしてはくれない。僕は恐ろしい。

 もしその時がきたとして、もし外に出ることができたとして、妹は、トリシアは、僕を恨むだろうか?憎みはしないだろうか?僕はただ、それが恐ろしいのだ。

「お兄様?」

 再び言葉に詰まった僕を、トリシアは不思議そうに見上げ、そして微笑んだ。

 ああ、だから。

 だから、願わくは。

 もしその時が訪れたなら、

「お兄様」

 その笑顔が、

「トリシアは仕合わせです」

 僕から、勇気を奪うことがありませんように。

 

 トリシアの手を握って、僕はお話を続ける。


 
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