No.734585

遠志

千華さん

蜀に降った姜維のもとに、魏に残された母からの手紙が届く。
当帰(とうき)と遠志(おんじ)に秘められた母と子の伝説。

2014-11-02 17:27:55 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:874   閲覧ユーザー数:860

蜀の建興七年、春三月。

漢中城内は、上巳の節句を祝う人々のさざめきに満たされていた。

そちこちにつるされたぼんぼりの灯りが揺れて、春宵に艶かしさを添えている。

そんな世間の喧騒とは関係なく、いつものように仕事を終えた姜維伯約が丞相府の執務室を出たのは、すっかり空が暗くなってからのことだ。

かれは今、丞相府と地続きにある諸葛邸の一室に寝起きしている。その方が何かと都合がよかったし、何よりも敬愛する諸葛亮の傍らに少しでも長く侍していたいというのが、姜維の唯一の望みだったからだ。

そんな姜維の帰宅を待ちかねたように、かれの自室を訪ねた人がいる。屋敷の主で、蜀漢の丞相である諸葛亮孔明そのひとだった。

「これは丞相。何かご用ですか?」

驚いて居住まいを正す姜維の前に、孔明は錦の袱紗に包まれた文箱を差し出した。

「文? 私に?」

「今日、天水からの使者と申す者がこれを届けて参った。そなたの母御からの文だそうだ」

「母の……!」

姜維には、故郷に残してきた母があった。

孔明に降伏した際に離れ離れとなった後は、消息を尋ねることもままならなかった。そんな母の手紙が思いもよらず手元に届けられた。しかも、正式な魏の使者からだという。

これはどういうことなのか。

受け取った文箱をどうするべきか、とっさに判断できず、姜維はそっと師の顔を見守った。

「この書簡の扱いについては、いろいろと口うるさく言う者もおっての――」

やはり、そうなのだ。

降将である姜維に、魏に残る母から届いた書簡となれば、内容は推して知るべしである。魏に戻って来い、という誘いであろう。そんなものをわざわざ本人に見せる必要はないという者から、使者を斬ってしまえと強硬論を述べる者まで、蜀の廷臣の反応はさまざまだった。

蜀に降ってからまだ日の浅い姜維を、すべての蜀将が信用しているわけではない。そこをねらっての離間の策とも考えられる。

「いずれにせよ、まずは、そなたに見せぬわけにはいくまい。ただ、皆への配慮として、私が同席することを承知してもらいたい」

孔明は多くを語らなかったが、廷臣たちを納得させるために、ずいぶんと骨を折ってくれたであろうことは想像に難くなかった。

「もちろん、私に見せる必要はない。それを読んで、どうするか。それはそなた自身が決めることだ。そして、その決定に、蜀漢の宮廷が何ら口を挟むものではないことを、私が約束する」

「かたじけなく存じます」

孔明にうながされ、ふるえる手で袱紗を解き、文箱の蓋を開ける。

目に飛び込んできたのは、紛うかたなき懐かしい母の筆跡。姜維は我を忘れ、むさぼるように母の手紙を読んだ。

「妾は、最初、裏切り者の大罪人の家族として、死罪になるところだった。けれども、息子は自分から進んでそうしたわけではなく、進退窮まってやむなく降伏したのだからと、とりなしてくれる人があって、ようやく命を永らえることができました。それからは獄に下されて、つらい毎日を過ごしていたが、一日とてお前のことを忘れたことはない」

「その後、恩赦にあって罪一等を許され、またこうして便りを書くことができるようになりましたが、牢獄の苦労がたたったのか、病に伏せることが多くなりました。年老いたこの身には、先の不安ばかりが思われてなりませぬ。息子よ、維児よ、母を哀れと思うなら、どうぞもう一度、こちらに戻って来ておくれでないか」

(母上……。申し訳ございません)

もともと孝心の篤いことで知られた男である。姜維は、手紙を握りしめながら、しばし天を仰いだ。

だが。

母の筆跡をなぞるように目に焼き付けながら、なぜかその文面に違和感を感じずにはいられなかった。母は決して、息子に対してこんな恨み言を書いてよこすような女人ではなかったはずだ。

(私が孔明先生のもとで蜀漢のために働いていることは、すでに魏に知られていよう。とすれば――?)

今になって届いた母の手紙。魏の監視下にある母が書いたものだとするなら、ここに書かれていることは母の本心なのだろうか。

 

 

そのとき、文箱の底にしのばせた麻袋が目に入った。

おずおずと手に取り口を開くと、中には一束の薬草とおぼしき植物が入っていた。

「伯約、それは?」

孔明が身を乗り出す。

「これは……。『当帰(とうき)』ですね」

「『当帰』、まさに帰るべし――。そなたに帰ってきてほしい、ということか。いや、表立っては聞けぬゆえ、帰ってこられるか?という謎かけであろうな」

「はい。手紙はおそらく、誰かに脅されて書いたものでしょう。母の真意は、この『当帰』に込められているのだと思います」

隠さねばならないことは何もない。姜維は孔明に、母からの手紙を見せた。

孔明は、くいいるように文面を見つめていたが、読み終わった手紙を丁寧にたたむと、だまって姜維の手に返した。

「伯約。たとえここに書かれていることが母御の本心ではないとしても、そなたと離れ、さぞ心細い思いをしておられることは事実であろう」

姜維は幼くして父を失い、母親に育てられた。孔明もまた、子どもの頃に父親と死別している。もっともかれは、実の母の記憶もあまり持っていなかった。孔明の生母は、弟の均を生んで間もなく、病死したからだ。

そんな孤児の境遇の近しさが、孔明と姜維の間を、師弟よりもっと、情感において近いものにしていたといえなくもない。

「返事は急ぐ必要はない。皆には私から話しておくゆえ、ゆっくり考えるように」

「いいえ!」

孔明の言葉を、姜維は即座に切り返した。

「丞相のもとに参りました時より、すでに私の心は決まっております」

その場にがばと身を伏せ、かれは続けた。

「おそらくは母も、私の志を分かってくれるでしょう。『まさに帰るべし』とは、お前の心の赴くところに帰れ、という意味だと思っています」

姜維の言うように、蜀に降った息子の選択を認めた母は、健気な覚悟を決めているのかもしれない。たとえ己の命と引き換えても、息子の未来を守ろうと。

「しかし、そなたが魏に帰らぬとなれば、母御の命にかかわるやもしれぬ。何とかして、母御をこちらに呼び寄せることはできまいか」

「それは……、とても叶わぬかと――」

「そなたは、それで良いのか?」

孔明の深く澄んだ双眸にみつめられて、姜維は沈黙した。

若くして夫に先立たれ、幼子をかかえての母の苦労。けして裕福といえぬくらしの中で、人並み以上の学問と武芸を学ばせてくれた情愛の尊さ。孔明のまなざしの中には、母との過去をあざやかに思い起こさせる優しさがあった。

今、ひとり敵国にとり残された母は、どのような思いで毎日を過ごしているか。それを考えると、かれの心は千々に乱れる。そっと視線をそらした姜維の目頭に、熱いものがにじんだ。

しかし、もう戻ることはできない。

すべての懊悩を振り払うように、姜維は眉をあげて、正面から孔明の眼光を受けとめた。

「丞相。私の心は、とうに決まっております。そして、それは決して覆りませぬ」

「―――」

「たとえ家を捨て、母を捨て、不孝者のそしりを受けようとも、ただただ丞相をお助けし、その理想の実現のため、天下万民のために、命の限り戦う所存。あの日私は、そう己に誓ったのです」

必死に言い募る姜維の心根が、孔明には無性に悲しくてならない。この至誠の若者が自分と出会ったことで、手にするものはあまりに小さく、失うものはあまりに大きいと思えたからだ。

「結果的に、そなたとそなたの母御を引き離すことになってしまった。許してくれい」

血を分けた家族が離れ離れに暮らさねばならない辛さ、悲しさは、身にしみてわかっている自分なのに……と孔明は思う。たとえそれが、この戦乱の世に、一族の血脈を残さんがための方策であったとしても。

 

 

深夜、姜維は、長い間かかって、母への返書をしたためた。

「あなたの息子は、諸葛孔明先生という最良の師に出会い、己の大義を全うするために生きる覚悟でおります。遠志を抱く者は、故郷を顧みぬものと申します。もはや、母上のもとに戻ることはできません。不孝なこの身をお許しください。どうぞ、私のことは、死んだと思ってお諦めください」

ごく短い文面に万感の思いをこめて、母への訣別とするつもりだった。

だが、このまま送り返せば、あるいは孔明が言うように、母の命はないかもしれぬ。そう思い返して、書き上げたばかりの手紙を破り捨てたかれは、そっと諸葛家の納屋に向かった。

そこには、多種多様な道具類のほかに、さまざまな肥料や薬草などが保管されている。その中から、姜維は『遠志(おんじ)』と記された薬草を持ち帰った。

母が送ってよこした『当帰』。それが入っていた麻袋に『遠志』を入れ、文箱に収める。

『当帰』も『遠志』も血のめぐりをよくする薬効があり、子どもの頃から母が煎じて飲ませてくれた薬草だった。

(母上ならば、きっとこの意味を、そして私の思いを分かってくださるはず――)

たとえ二度と会うことはかなわずとも、最期まで母の誇りとするに足る息子でありたい。

姜維は文箱を母と思い、その前に拝跪すると、長い間身じろぎもせずに額づいていた。

そして、その日以来、母のことはきっぱりと忘れた。

過去に拘泥することなく、真に、蜀の姜維伯約となったのである。

 

 

 


 
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