No.734582

成都の風

千華さん

孔明から託された大志の実現を目指して、ただ一人戦い抜き、ひたすらに駆け続けた男の生涯。夢を追い、夢に殉じた男の名は、姜維伯約――。
姜維の孤独な戦いを描く「遠志」シリーズの一作です。
諸葛亮亡き後、孤軍奮闘する姜維に、初夏の風が語りかける。

2014-11-02 17:01:44 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:843   閲覧ユーザー数:833

 

――貴様に……貴様らごときに、丞相の何がわかる?

 

喉まで出掛かった言葉を、姜維伯約は暗い失望とともに飲み込んだ。

 

 

長年ともに国事に奔走してきたというのに、ここにいる連中は、何ひとつわかってはいないのだ。

諸葛亮孔明という、類まれな巨人のことなど。

 

丞相が晩年、どのような思いで魏討伐の軍を進めておられたか。

命を削るような激務の中、それでも中原への冀望を諦めなかったのはなぜか。

すべては天下のため。先帝劉備玄徳さまより引き継いだ大いなる夢をかなえるため。

 

それを……蜀さえ、我が身さえ安泰ならばよいと言うのか。

狭い四川盆地に閉じ込められ、漢王室再興の旗印も、万民が安寧に暮らせる世の中の実現という崇高な大義も打ち捨て、未来への望みまでをも押し込められて。

この偽りの平穏が、それほど価値のあるものだと言うのか!

 

 

蜀漢の柱石ともいうべき丞相 諸葛亮孔明が、中原回復の壮図空しく五丈原に陣没してから、はや五年が過ぎようとしていた。

孔明の後は大将軍となった蒋エンが引き継ぎ、ここしばらくは戦もなく、蜀の国は、一見平和な日々を送っているかに見えた。

しかし――。北には曹魏、東には孫呉が、以前にも増して国力を強めている。孔明が生きていた頃と、状況は何ら変わってはいないのだ。

 

この年一月、魏の明帝曹叡が没した。後を継いだ曹芳は、わずかに八歳。さらに、その後見をめぐって内紛が起きた。

「この好機を逃してはならじ、今こそ大軍を率いて関中に撃って出るべし」と、姜維はすぐさま参内して後主劉禅に進言したのだが、あっさりと退けられてしまった。

生来暗愚な劉禅は、今の平穏な暮らしに満足していたから、敢えて困難な魏との決戦に臨むことを快く思わなかったのである。

主のこのような反応は、もとより予想していた姜維であったが、かれが何より苦々しく思ったのは、宮廷の重臣たちが皆、口を揃えて出師に反対したことだった。

 

姜維は、蜀では新参者である。

どれほど知略武勇に優れ、また生前の孔明から大きな信頼を寄せられていたとはいえ、ほかの者から見れば、ついこの間、敵国である魏から投降してきた若輩に過ぎない。

古くからの家臣たちは、そんな姜維に対して、侮蔑とも嫉妬ともいうべきどす黒い感情をたぎらせていた。孔明が死んでからは、なおのこと風当たりはきついものになった。

(自分のことはいい。どれほど蔑まれようと、疎まれようと、苦にはならぬ。だが、丞相のあの鬼気迫るお姿を、忘れたとは言わさぬぞ!)

廟堂を退出し、長い回廊をわざと履音高く歩きながら、やりきれぬ怒りに姜維は唇をかんだ。

 

 

今も。

脳裏には、あの日の光景が焼きついて消えぬ。

渭水をはさんで、司馬懿率いる魏軍と対峙すること数ヶ月。筆舌に尽くせぬ心労と激務に倒れ、死期を悟った孔明は、最期に姜維を枕元に呼び、凛呼とした声で告げたのだ。

「姜維伯約。すべてを、そなたに託す――」と。

「すべて」とは。

蜀漢の、いやこの国の未来。中国の大地に生きる、すべての民草の幸福。そして、劉備から孔明へと受け継がれてきた大志、見果てぬ夢。

孔明の身から抜け出た魂が、己が身に宿ったような気がした。

その瞬間から、姜維の孤独な闘いが始まったのである。

 

――やらねばならぬ。何としても!

 

決意をこめて見上げた目に、春霞にくすんだ空とは対照的に、輝くような薄紫の花が飛びこんできた。

回廊を縁取るように、藤の老木が見事な花房を垂らしている。

姜維はふと、以前孔明が、今の自分と同じようにこの花の下にたたずんで、ひとり思索をめぐらせていた姿を思い出した。

(丞相にも、ひとには言えぬ深い悩みがおありだったにちがいない)

今は亡き尊きひとの思い、その身に負うた荷の重さが、我がことのように思われて、姜維は目蓋を熱くした。

 

 

「丞相。見ていてください。この姜維、必ず丞相のご期待に添い奉ります」

必死の呼びかけに、むろん答えはない。

けれども、姜維の耳の底には、今も孔明の声がしっかりと刻まれている。あの日、魂を受け取ったとさえ感じた、凛たる声だ。

 

そのとき、早や初夏の匂いを含んだ風が、一斉に花穂を揺らし、姜維の横を通りすぎていった。

吹き渡る風の中に、懐かしい声が聞こえた。

 

――姜維よ。己が信ずる道をゆくがよい。私は、いつも、ここにいる。

 

 

 

 

 

 
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