No.666268

神次元ゲイムネプテューヌV ~WHITE WING~ (10) 白き災厄の翼

銀枠さん

長くなったためなくなく分割投稿しました。
あと二話で第一部が終了する予定。
なお、11話は今日の21時半に上がるように予約投稿しておいたので、もしよければ( ^ω^)_凵 どうぞ

2014-02-26 15:24:57 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1314   閲覧ユーザー数:1250

 ~第十話 白き災厄の翼~

 

 

 

 

 何が美しくて、何が醜いのか。

 お前たちは考えたことがあるだろうか。

 それは肌の色だったり、髪の色だったり、顔の造形だったり――そういう表面的なモノだったり。

 やはり人の第一印象はそれで決定づけられる。哀しい話だが、人を測るには外見が優先される。誰にも心を覗くことは出来やしないのだから。見えないモノと解かり合おうと努力を試みても、それは結局のところ目にするのは不可能だ。雲をつかむのと同じ不毛さである。理解できないのならばさっさと切り捨てた方がよほど懸命なのは言うまでもない。

 ところで、お前たちは内臓を美しいと感じたことはあるか?

 常人なら、そんなことはないと即答するだろう。はたまた首を縦に振る酔狂な――変わった価値観を持つ者がいるかもしれない。

 内臓はとても気色が悪い見た目をしている。それは美しく気高い麗人にも、肌が滑らかな大和撫子にも備わっている。生き物にとって大切な器官なんだろうが、あんな見た目なら吐き気をもよおしてしまうのも詮無きことだろう。

 人は、外見よりも中身が大切だっていうけれど私には難しい価値観だと常々思う。

 まあいい。そんなことよりお前たちは考えたことがあるか?

 内臓からどう思われているか考えたことはあるか?

 私たちが内臓を醜いと思うのなら、その逆も然り。内臓も私たちのことを醜いと思ってるのではないかと。

 自分達と異なる姿である私達のことを普通の目では見られないはずだし、私たちが内臓を見ると気分が悪くなるように、内臓も私たちを見て気分を悪くしているかもしれないし。

 でも、私はこう考える。

 その醜い姿こそが、本来の人の姿ではないかと。

 どんなに見た目が綺麗な人でも、どんなに心穏やかな人でも、その中身はどす黒く汚れている。内臓のようにグチャグチャのドロドロだ。

 心が真っ白な人間なんてどこにもいやしないのだから――

 そもそも美しいものなんてこの世にあるのだろうか。

 そもそも醜いものとは何なのだろうか。

 その答えは私にも解らない。

 もしかすると始めから、そんなものはこの世に存在しないのかもしれない。

 全てが今更だった。こうなってしまった今では――

 

 ――生き残りたい。

 

 心が必死に叫んでいた。

 それは生き残るために必要な行為だった。たとえ敵に背を見せるという恥ずべき醜態を晒してでも。目の前にいる最凶最悪の宿敵を前にして、否応なしに恐怖が溢れた。想像を絶する恐ろしさのあまり心が軋み、今すぐ叫び出したい気分に駆られた。

 しかし金縛りにあったように足一つ動かすことすらままならない。まるで亡霊を見てしまったかのように心も身体もすっかり怯えきっていた。狂って何かもを思考の激流に身を委ねた方がどんなに楽だったことだろうか。

「どうしたんですかぁ? 幽霊でも見たような顔でぽけっと立ち尽くしているだなんて」

 キセイジョウ・レイが、ゆらりゆらりと近寄ってくる。彼女は女神規制団体“七賢人”のリーダーである。

 驚くべきことに、その七賢人のリーダーと謡われる彼女の全身を包んでいるのは、素肌を申し分程度に包む装甲。

 女神専用の武装――プロセッサユニットだった。女神を批判的に構えている彼女が、人知を超えた存在としてこの世に顕現していたのだった。

 そう――イヴは知っている。レイが七賢人のリーダーを名乗るより遥か昔。

 この女こそ、かつては“女神”と呼ばれる絶対的な存在だった。

 誰もが崇める希望の象徴。全ての人間の上に立ち、自分につき従う国民を導く救世主様だった。

 しかし、その素晴らしき救世主様は、嗜虐的な笑みを浮かべながら死神の足音を響かせている。

 人類に殺戮の笑みを投げながら、世界に滅びを振りまく災いとして大地に君臨していた。

 実際、イヴの目の前に対峙するこいつは死んでいたはずだった。国を巻き込んだ死闘の果てに。

 いや、本当は死んでいなかったのだろう。こうしてイヴの目の前に生きて立ちはだかっている以上は。

「それはお互い様ですよぉ。この一万年の間、私だってこの目であなたを見るまでは信じられませんでしたし。現に、あなたの目撃証言が七賢人会議の報告に出てきたとしても今の今まで疑っていました。うちには情報分析に長けた優秀なハッカーがいますが……その報告を聞いた後でも、よく似た他人の空似じゃないかと思っていました」

 ところが――と、狂乱の女神は血走った眼で刺すように睨みつけてきた

「テメェはあたしの前に現れた。何の悪戯か、あの時と……一万年前と寸分違わぬ姿でねぇ!」

 そうだ――イヴの全身は純白の装甲に包まれていた。

 肢体を申し訳程度に包む装甲。背部から伸びる純白な翼。13対にも枝分かれしたソレはどこか不恰好で、どこまでも不完全だった。翼を生やしたヒトならざる歪な姿。

 鳥――というよりも、それは見る者に天使を連想させた。神が送りたもうた清らかなる天界の使者。さながら地上に降り立ち、人間達の行いを監視する役目を背負った聖なる御使いのようだった。

 女神専用の武装――プロセッサユニット。

 光り輝くこの神々しき姿こそ、まさしくイヴが女神であることの動かぬ証拠であった。

「私はねぇ、この日を今か今かとずっと待ちわびてたんですよぉ。その気持ちが、あなたに分かりますかぁ? 分からないですよねぇ。まあ、それも無理はないことですよね。だから今教えて差し上げましょう。私はあなたを見て、こう思いました」

 二ィ、と歯を剥き出し、唇がいびつな形で引き結ばれる。

「ぶっ殺してやりたいってねぇ!」

「……」

 たしかあの時もこの女神は可笑しそうに笑っていた。今も昔も。無数の夥しい死体を前にして、恍惚に浸っているという女神にあるまじき行為。幾重もの屍の山を、自分の手で築き上げたという冒涜。殺戮の饗宴にたまらない快感を覚えているのだろう。

 身体が鉛のように重い。こうして真っ向から睨み合っているだけでも希望が残らず吸い取られていくようだった。ここから生きて帰る――それすらも困難な壁が立ちはだかっているかのように思えてくる。

「……ひとつ、訊いていいか」

 それでも勇気を振り絞って、イヴは重々しげに口を開いた。震えそうになる声をなんとか押さえつけることで。

「お前は、何故殺したんだ?」

「は?」

 眉にしわを寄せるレイ。そもそも質問の意味が理解できないとでも言うふうに。

「あの時……みんなを殺す必要があったのかと訊いているんだ」

「あの時? あぁ、何かと思えば昔の話でしたか」

 やれやれ、と肩をすくめた。いつまでも物分かりの悪い子供に呆れかえるように。

「ウザかったからですよ。これ、前にも説明しませんでしたっけ?」

「それで殺したのか。それだけの理由で……そんなしょうもない理由でたくさんの命を――私の両親を殺したのか?」

「両親?」

「とぼけるな! あの時っ、あの場所にっ、私の両親がいただろう! お前が手塩にかけて育てた部下を――領主ウイングナイツの名を忘れたとは言わせないぞ!」

 積み重なる死体の山の中――顔面を蒼白にし、事切れた両親がいた。顔いっぱいに驚愕に引き伸ばして。

 自分が何故死んだのか、誰が自分を殺したのか――いや、自分が死んだことすら気づいていないのだろう。

 無念――あの表情は、ただその一言に彩られていた。

「あぁ……あなた、ウイングナイツの娘だったんですか」

 呆れていたのが一転、レイは面白いものを見るようにその目が細められた。

「あの男は自分で物事を考えられない機械みたいな人間だった。支配する者からすれば、実に都合の良い人材でしたよ。これ以上この上なく有能で有望な、よく出来た優秀な人材ですしね。ところで、疑問に思ったことはないですか? あの男が何故あれほどまでに優秀だったかを。あれはねぇ、あの男にそうするように私が骨の髄から教えてやったんだよ。あなたがあの男の娘だっていうなら、あの家で散々教えられてきたのでしょう? ペットは飼い主に反抗してはいけないって。飼い主の言いつけには従順であれと。与えられたモノに、疑問をもってはならないと。まあ、結局は私のうっかりミスで間違って殺しちゃったんですけどねぇ」

「……」

「でも、自分のところで飼っている家畜を生かそうが殺そうが、私の勝手じゃないですかぁ」

 レイの言葉はとても軽かった。たくさんの人間の命を奪っておきながら。嗜虐と破壊の限りを尽くした暴君は、何の呵責もなければ微塵の躊躇いも罪悪感もない。

 こいつにとって人の命など、その程度のものでしかないのだ。

「そうか……そういうことだったのか」

 諦めにも似た掠れ声が絞り出た。刹那、盛大な哄笑がイヴの喉から放たれた。

「つまらん。なんて下らない茶番劇なんだ。安い三文芝居以下だよ、こんな結末は!」

「はぁ?」

 予想外の反応に、レイが怪訝そうに首を傾げた。

 仮にも自分の両親。あそこまでけなされて何故こうも笑っていられるのか。それほどまでにウイングナイツ家の娘は、肉親に対する憎しみが深かったということであろうか。

(まさか今の話を聞かされて狂ってしまったんですかねぇ? もう壊れてしまうとは)

 興醒めな結果ではあるが、余興としては丁度良い。十分な愉悦に浸ることはできた。あとはこの用済みの玩具を粉々にするだけ。消耗品としては三流であるが、せめて断末魔の悲鳴を今しばらく楽しむことは出来よう。

 

 このとき、レイはとんでもない思い違いをしていた。

 イヴは気が触れてしまったわけでもない。彼女は全てを諦めてしまった訳でもない。絶対な存在を前にして、恐怖を感じるだけの理性はまだ生きている。

 だが、かつて大勢の命を屠り捨てた悪鬼を前にして、恐怖を上回るモノが胸の奥で膨らんでいた。

 熱い感情の焔が、静かに勢いを増していく。たき火にくべられた薪の如く燃え盛っていくこの思いを感じながら、イヴは静かに深呼吸を始めていた。

「イストワール。悪いが計画変更だ。覚悟を決めてもらうぞ」

(え?)

 何を思ったのか。唖然とする人工妖精をよそに、穏やかに息を吸い、ゆっくりと空気の塊を吐き出した。

 胸の膨らみが数度上下するたびに、幾分の冷静さがイヴの中に帰ってくる。

 一万年前の悪鬼を、イヴは真正面から睨み据えて、

 

「――お前を殺す」

 

 そんな主の叫びに応えるかのように、背後の翼が激しい振動を起こした。

 瞬間――イヴのプロセッサユニットが純白に輝いた。全部で13対の翼が獰猛な光を帯びて、怒りに震えている。

 恐怖になど屈しはしないと主張するかのように。迫り来る死に抗おうとしていた。

 野獣のような唸りに、一瞬、レイの頭からつま先を鋭い悪寒が貫いた。

(なんですかぁ、この奇妙な気持ち悪さは?)

 肌をざらつかせるようなこの感触に最初は戸惑いながらも、奇妙な感覚の正体にレイは気づいた。自分が女神になる前、嫌というほど身近に寄り添っていたモノ。臆病で非力な人間でしかなかった頃の自分には、どうあがいても遠ざけられなかったモノ。

(この私が、恐怖を感じただと?)

 ほんの瞬きの間とはいえ、彼女は久方ぶりに恐れを感じていた。イヴという少女を前にして。だが、恐れはすぐに耐え難い怒りへと塗り替えられた。

(ありえない。この私が恐れなど)

 そういえば一万年前もそうだった。このクソガキは生意気にも拳一つで立ち向かおうとしてきた。みっともなく喚いて、みっともなく涙を流すことしかできなかった少女。

(愚かな。この私を殺すだってぇ? 家族の仇を討とうとでもいう算段なわけぇ? 上等じゃないのぉッ! そんなにお望みなら――)

 鼻で軽く笑った。こいつは周りが見えていないのか。

 世界の支配者たる自分に刃向おうなど万死に値する大罪。ましてや大勢の人間を目の前で虐殺してのけたにも関わらず。圧倒的な暴力を目の当たりにして、どこに勝機を見出したというのか。

 しかし、あのときレイはその少女に負けた。手に入れたばかりの力に自分は敗北したのだ。

「それはこっちのセリフだっつーの!」レイが激昂した。「この世に、女神は何人もいらないんだよぉっ!」

 レイの腕にすさまじい光の粒子が集束していく。時間にして十秒もかからなかっただろう。わずか数秒にて周囲の空間をねじ曲げてしまうほど莫大な高エネルギー反応が蓄積されていた。

 やがてレイは腕を振りかざし、超高密度のエネルギーを解き放った。

 溢れんばかりの光の洪水――

 ソレは何もかも破壊し尽くし、ソレが通った跡を何もかも灰塵に帰す。まさに滅びの光。幾人もの罪なき人々が、無惨にも斃れ伏していった必殺の技。

 はたしてイヴは動かない。

 ソレを目の前にしても落ち着き払った様子である。その瞳に映るのは諦めや絶望ではない。粛々と凝縮された殺意のみ。

 何もかもを呑み込んでいく滅びの光に、イヴの全身が飲み込まれていった。

 圧倒的な公開処刑――仮にこの光景を目撃した者がいたとすれば、この無惨ともいえる仕打ちに恐怖し、顔を伏せてしまうことだろう。

 だが――立ち込める砂埃の中から、悠々とした足取りでイヴが歩いてきた。

「!?」

 レイは驚きに目を見開いた。

 イヴはまったくの無傷だった。かすり傷一つ負ってすらいない。

 レイの攻撃はたしかに直撃した。自らの放った光弾の中に、イヴが飲み込まれる瞬間をしっかり目撃している。無事でいられる道理などどこにもない。

 原理は実に単純明快である。そう――レイの放った光弾は、イヴだけを避けるようにして通り過ぎてしまったのだ。まるでイヴの周囲にだけ見えない壁があるかのように。

「またあの『謎の力』ですか……」

 忌々しげにそう漏らした。

 

 謎の力――それこそイヴの『女神』としての力であり特性であった。ゴースの豪腕と、迫り来る黒の教団の軍勢を遥か彼方へと吹き飛ばしてしまったのも、この能力によるものである。

 

 だけど、ある程度こうなることは予想していたし予測も出来ていた。昔戦ったときにもレイの力はこうして弾かれてしまったのだから。それ故に、解せなかった。

 悔しげに歯噛みするレイの前で、イヴが動き出した。

「どうした? もう終わりか?」

 お前なんていつでも殺せる――それはそういう余裕を含んでいるような口調だった。

 変わらぬ殺意を瞳に宿して、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

「いい加減にしなさいよぉ……」

 レイの腕に高密度のエネルギーが集まっていく。今度は片腕だけではなく、両の腕に集中。今までの二倍のエネルギーがそこに収束。

 そして両腕を空高く振り上げ――

「そうやって調子に乗っていられるのも今の内ですからねぇっ!」

 合わせて二本の巨大なレーザーが、イヴめがけて殺到。空気を焼き焦がす程の光量が迫りくる。

 だが、決してイヴに届くことはなかった。

 レーザーがイヴの肌に触れるか触れないかのところで、まるで鏡に当てられた光のように、いきなり見当違いの方角へと反射されてしまう。

 どれだけ力を込めたとしても、こうして『謎の力』によって阻まれ、無力化されてしまう。

 その事実は、かつてこの地上に暴君として猛威の限りを振るい、悪鬼として君臨し続けていたプライドをズタズタにするには十分なものであった。

「こんのぉッ……!」

 屈辱だった。またしても自分は一万年前のように敗北というしょっぱい辛酸を舐めさせられるというのか。思い出しただけでも度し難い。

 身を焼くような怒りが否応なしにこみ上げ、視界の端が白味を帯びていく。度を越した怒りが、レイから正気を奪い去るのは容易い話であった。

「調子に乗るなぁぁぁぁぁぁぁッ――!!」

 声の限りに叫んだ。ほとんど悲鳴と変わりなかった。レイは両腕にエネルギーを極限集中。無我夢中で両腕を振り回し、身体中のエネルギーというエネルギーをかき集めてイヴに投げ放っていく。

 光の雨――無数の光弾が矢のように降り注ぎ、イヴの身体を貫こうと迫りくる。

 暴力的なまでの破壊の嵐。けれども、レイがどれだけ力を込めようとも結果は同じだった。いずれも彼女の身体にはかすり傷ひとつ与えることはない。

 イヴは進行を休めることもなく、むしろ涼しげな顔で近づいてくる。所詮レイの力では、彼女の歩みを止めることさえ叶わない。

「気は済んだか?」

 その言葉を合図にするかのように背後から生える13対の翼がはためいた。

 イヴの細い肢体がふわっと宙に浮かび上がり、空中に静止。

「ならば、次はこちらの番だ」

 言い終わるや否や、もの凄い速度で動き出した。

「くっ……」

 呻きながらレイはバックステップする。イヴのあまりの速度に一瞬だけ判断が遅れた。

 地面すれすれの低空飛行――まるで空を滑るような動きでイヴが加速。

 否――断じて加速などというちゃちなレベルではない。むしろスピード自体に変化はなく同じ速度のまま。何を隠そう、イヴは最初から最高速度を保ったまま滑っていた。 

 気づけばもう目の前にイヴが接近。まさに眼前で大きく腕を振りかぶっている最中だった。

 このままでは殴られる。だが遅い。

(ならば殴られる前に、殴り返すのみっ!!)

 咄嗟にレイが腕を振りかぶった。イヴよりも早く繰り出された高速の正拳突き。戦いにおいてはほんの少しの迷いが生死を分ける。短い時間でその判断を下したレイは成る程、戦闘においては天才だといえるだろう。大気を裂きながら迫る拳は、しかし空を切った。イヴに届くか届かないかという距離で、レイの拳は見当違いの方角へと飛んでいったのだ。

「なっ!?」

 まるでイヴを避けていくような自分の拳に驚愕を禁じえない。

 またしてもあの『謎の力』で跳ね返された。目の前にイヴの拳がすぐそこに迫っている。

 レイは反射的に両腕を上げて顔面をかばおうとするものの――

(ま、間に合わない)

 そう確信したときには、頬に鋭い痛みが突き抜けてきて、レイの身体は地面を抉り取りながら後方へと大きく吹き飛ばされていった。

「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ。お互い、一万年も待ったんだ」

 イヴはそれを冷然と見下ろし、じんじんと痛みを訴える拳を撫でながら、改めて宣戦布告を言い放った。

「そろそろ終わらせよう」

 イヴは銃剣を取り出し、再び動き出した。

 

 

 

 プラネテューヌ――西の遺跡

 

 

 イヴとレイが激闘を繰り広げている一方、こちら側でも女神達とマジェコンヌとの激しい戦いが繰り広げられていた。

 三人が女神化を果たしたことにより、戦いはより激しさを増していた。激しいとは一言でいっても、両者の戦力が拮抗しているわけではない。

 女神達が一方的にマジェコンヌへ攻撃を仕掛けているという点を除けば。

 

「レイシーズダンス!」

 ブラックハートの鋭い連続蹴りがマジェコンヌの腹部にヒットする。

「キャハハハッ、どう? 女神化した私は強いでしょう?」

 耳朶を割るような甲高い笑い声を上げながら、オマケとばかりに神速のつま先蹴りがマジェコンヌのアゴを強打。後ろにのけぞり返っていく。

「ぐふっ……」

 苦しげな呻き声を上げながらも、なんとか体勢を立て直す。

 三人が女神化してからというものの、こうして成す術もなく翻弄され続けている。その事実にマジェコンヌは腸が煮えくり返るのを抑え切れなかった。

 初めて戦う女神の実力に痛感していた。女神がここまでのモノとは夢にも思わなかった。まさかこの自分を遥かに上回る戦力を有しているとは。正直なところ女神というものを侮りすぎていた。

 だが、いつまでもやられ続けている訳にもいかない。

「この……いい加減にっ!」

 怒りを薪にしてすぐに反撃へ転じようと自慢の鉤爪を振り上げたとき、

「サンダーブレード!」

 突如、脳天からつま先を貫くような衝撃が駆け抜けた。マジェコンヌの後ろに控えていたアイリスハートの攻撃だった。

「どこへ行こうというのぉ? おばさぁん。あたしはここよぉ」

 圧倒的優位なこの状況を一番に楽しんでいるのだろう。嗜虐的な微笑を浮かべながらアイリスハートが言った。

「あたし達をまとめて相手するんじゃなかったのぉ? それにしてはいささか威勢が足りないわねぇ」

「小癪な!」

 ギリリと歯を噛みしめながら、アイリスハートへ爪を振り下ろすものの、彼女の大剣に軽々と受け止められてしまう。

(この私が手も足も出せないだと……)

 いくら腕に力を入れども、アイリスハートの大剣はびくともしない。

 一人でも十分に厄介だが、女神が三人も揃えばここまでの脅威となる。しかもここまで連携の取れたコンビネーション。

 対して自分は一人。いや、正確には二人だったのだが、ワレチューは既にアイリスハートの手によって敗れていた。

(アレを使うか? いや、しかしこの体勢では発動不可能だ)

 このコンビネーションを崩す必殺技を自分は持っていない。この逆境を打開できる切り札を持ち合わせていない。

 数の差でも実力の差でも、相手はマジェコンヌを遥かに上回っている。

 さっきまで自分が優勢に立っていたのも、相手はただの少女でしかなかったからだ。今では女神という強大な存在となって、自分の前に立ちはだかっている。

 そして致命的なのはそんなモノに自分は挑んだのだという事実。

 マジェコンヌが青ざめたそのとき、背後から忍び寄る気配に気づいた。

 首を巡らしてみれば、そこにはあのにっくきネプテューヌがいた。初めて会ったはずだが、この胸の中でくすぶり続ける怒りは、どうしてもただの他人だとは思えない。

 その存在はパープルハートという強大な敵として、今まさにマジェコンヌに刃を振り下ろさんとしていた。

「認めぬ…」

 蒼白な顔でなけなしの憎悪をつぶやいた。

「私は、認めぬぞ――ッ!!」

 抗うようにありったけの怨嗟を叫んだ。 

「ネプテューンブレイク!!」

 紫の女神による神速の太刀筋が煌めいた。舞うような動きで駆け抜け、瞬きの間に全てが終わりを告げていた。

 七賢人マジェコンヌが、女神に敗北した瞬間だった。

 

 

 

 プラネテューヌ――東/丘陵地帯

 

「……派手にやってくれるじゃないですかぁ」

 レイが身を起こしながら、口内に溜まった血を恨めしげに吐き捨てて、じっとイヴを睨みつけた。

「あぁ~、今のはとても痛かったなぁ」

 実にわざとっぽい口調。豪快に地面を転げまわるハメになったものの、実際レイが受けたダメージは殴られた頬のみ。堕ちても流石は女神といったところか。損傷は軽微そのものである。

 だが、それは肉体面の話であって、精神面となるとそうはいかない。レイのプライドや自尊心といったものは大いに傷つけられ、骨折どころか盛大に血まみれである。

 あのとき、イヴがレイに近づいてきたとき。レイは本気で死を覚悟した。

 敵はすでに避けられない間合いに踏み込んできて、あいつの得意とする銃剣で身体を八つ裂きにされると思った。

 しかしイヴが取った行動は拳を握り締めて思い切り振りかぶることだった。あの永遠とも思える一瞬で、あいつはレイの命を握っていた。殺そうと思えば殺せたはずである。けれど、それが可能な状況であったにも関わらず、イヴはそうしなかった。

(あたしのことを舐めているんですかね? それとも、たっぷりと盛大に痛めつけてから親の仇でも晴らすつもりかしらぁ? いかにもあのクソガキが考えそうなことですねぇ)

 どちらにせよ、レイにとってはその事実がただただ腹立たしい。

 荒れ狂いそうな怒りは依然として鎮まりを見せる様子はないが、今の一撃でだいぶ冷静になってきた方だ。激情に駆られて周りが見えなくなることは当分ないだろう。

 だが、鮮明になっていく思考が告げた答えは、イヴと自分の能力とでは相性が悪いという最悪な事実のみ。

 どれだけ絶大な力を振りかざしても、イヴの謎の力の前ではそれも全て無力化されてしまう。目に見えない壁らしきものがレイの渾身の力をことごとくはじき返してしまう。

 絶対的な力で敵を圧倒するレイ。全ての穢れを阻む壁を持つイヴ。さながら矛と盾の関係のように。

 腹立たしいことに文字通り、最悪で最凶の相手だった。

 対するイヴは宙に静止しながら、狙い澄ましたかのように銃剣を構えて発砲。鋼鉄の弾丸を叩き込んできた。

「あらあらぁ、懐かしいですねぇ。まさかあなたも遺失物を持っているだなんて思いませんでしたよぉ。一万年前にはお持ちしていなかったみたいですが、どこでそれを拾ったんですかねぇ?」

 迫り来る鋼鉄の弾丸を前にして、レイはけらけらと可笑しそうに笑い出した。目はちっとも笑っていない。

「見たところ、そこそこの業物みたいですねぇ。でもでもぉ、そこらの三下ならともかくぅ、私にこんなオモチャが通用する訳ないじゃないですかぁ!」

 鋼鉄の弾丸めがけて勢いよく平手を打ちこんだ。

 まるで鬱陶しいハエを叩き落とすかのような単純の動作――それだけで全弾を残らず打ち落としてしまったのだ。

 弾丸をモノともしない規格外の肉体。加えてすさまじい動体視力である。

「あらあら、もう終わりですかぁ。まさかこれで終わりって訳じゃないでしょう。あなたの力はこんなものなんですかぁ?」

 銃弾が通用しない。たった今、身を持って味わわされたくせにイヴはまだ銃を撃ち続けている。

「どうしたんですかぁっ、早く来なさいよ! 私を殺すんでしょう!? ほら、武器なんて捨ててかかってきなさいよ! あの『謎の力』で私を殺してみなさいよ! さっきのアレで終わりってわけじゃないんでしょぉ?」

 あいつの力と自分の力を真っ向からぶつけ合い、競い合わせて、あいつの力の源を根本から叩き折ることにこそ意味があった。それで初めて自分は完全なる勝利を遂げることが出来る。女神としての矜持と誇りを取り戻すためには。

 にも関わらず、イヴは懲りずに発砲を止めようとはしない。それはレイの神経を逆撫でるには十分な材料であった。

「いいから、力を使えって言ってるのよぉぉぉッ!!」

 ぶちっと額の血管が切れるような音を響かせながら、レイは感情に任せて光弾を投げ放った。

 それは全ての銃弾を巻き込みながらイヴに迫っていき、やはり彼女に当たる直前で見当違いの方角へと吹き飛ばされると――同じような結果になると思っていた。しかし、今度ばかりは違った。レイの放った光弾はイヴの直前で見えない壁に遮られているかのように静止していた。それは周囲に衝撃波を散らし、もの凄い力の唸りを響かせていたかと思えば、まるでビデオテープの巻き戻し機能のように、そのままレイの元へと跳ね返っていった。

「っ!」

 レイは驚愕に顔をこわばらせながらも、とっさに横へ回避した。

 今度は攻撃を反射された。その事実にレイは内心憤りを覚えながらも、面白そうな笑みを浮かべた。

「……へぇ、やるじゃない。私の攻撃をそっくりそのまま跳ね返すなんて。器用な芸当も出来るんですねぇ」

 フっとイヴが鼻で笑った。

「今までは反射の仕方もよく分からなかった。だが、効かないと分かっていながらも、お前がさっきからバカの一つ覚えみたいに攻撃してくるものだからこの『力』の使い方が分かってきた。その点では感謝しよう、キセイジョウ・レイとやら。――お前は良い練習代となった」 

「はっ、言うじゃない! この私が練習代ですってぇ? それはこっちのセリフでもあるんですよぉ。おかげで、私にも分かってきましたよ。あなたのその力が何であるかをねぇ」

 子馬鹿にするようにくすっとレイが笑った。

「あなたの得意とする力はさしずめ『重力制御』といったところでしょうか。自分の周囲に『重力の壁』を展開することで、全ての攻撃を寄せ付けない侵入不可避の絶対領域を作り上げているというわけね。私の攻撃が跳ね返されるのもその『重力の壁』が邪魔をしているせいってこと」

「これは驚いた。よくそこまで分かったな」

 感心したようにイヴが言った。余裕たっぷりに口元を緩ませて。

 それくらいバレてしまっても何ら支障はないし、未だレイが重力の壁に対して決定打を打てないのは変わりない。

「あそこまで能力を連発させていればイヤでも分かってしまいますよぉ」

「私にも分かったことがある。お前は遺失物のことを玩具だと言い放ったな。その割には銃弾を打ち落としたりと随分御執心じゃないか。直撃するとよくない事情でもあるのか?」

「試してみればいいじゃないですかぁ。当てられるものならねぇ!」

 何かを含めたような物言いにイヴは不審なモノを感じたが、あえて挑発に乗っかるような形でレイの頭部めがけて銃を構える。そうして指に力を込めて引き金を振り絞ろうとしたとき――

 イヴの背後で爆発が起こった。全身に重たい衝撃が走り、爆風で平衡感覚が完全に狂わされる。焼け焦げるような臭いが鼻先を掠め、咄嗟に後方へ飛び退いた。何かが通り過ぎていった。振り返ってみれば、イヴの背中に生えた翼から黒煙が上がっている。

それもそのはず、13対あった翼の1つが、破壊されていた。翼の中に血管のように張り巡らされた機械が剥き出しとなっており、駆動器官がバチバチと火花を立てながら、明らかな異常事態を告げている。

「――なっ!?」

 イヴは驚愕した。敵がついに重力の壁を突破してきた。今までこの能力の前に成す術もなく、苛立ちを募らせるしかなかった相手が無遠慮にも壁をまたいできた。

「思った通りでしたよぉ。その背後の翼はただの翼ではありませんよね。外見こそ翼の形を象ってはいますが、実態は似て非なるもの。私が一本叩き折った翼の断面から火花を上げていることから明らかな通り、それは『重力制御装置』の役割を果たしているといったところでしょうか。その翼で飛んでいるように見せかけておいて、本当はその中に仕込まれた『重力制御装置』に生み出される重力によって、身体を押し出しているといったところでしょうか」

 そのときイヴは気づかされた。レイの人指し指から糸のように細い、うっすらとした光が放たれていることに。力を指一本のみに振り絞ることで、一点に極限的なまでの力を集中。それはイヴの目にも止まらぬ爆発的なパワーとスピードを編み出すことに成功させている。

 しかし、それではレイが一体どうやってイヴの重力の壁を破ったのか。その説明はつかない。

「ああ、どうやって私の攻撃があなたの重力を破ったかですって? 誠に遺憾ですが、私ではあなたの重力の壁を貫通するまでの質力は出せません。ですが、貫通させる必要なんて最初からないんです。単純な話、あなたの張り巡らせている壁の隙間を縫うだけでいいんですよぉ。原理はとても簡単なことです。あなたが私に向かってその玩具を撃つとき、重力の壁があると邪魔になって撃てないでしょう。そこで私は気づいたんですよぉ。邪魔にならないよう攻撃に転じるほんの一瞬だけ、重力の壁を無効化しているってことに」

「……」

 否定も肯定もしなければ険しい目つきで押し黙っているイヴ。その表情にいよいよ焦りが表れ始めていたことを、レイは目ざとく読み取っていた。

 イヴが重力障壁を展開している限り、他者はその身体に直接触れることも出来なければ、傷一つつけることすら叶わない絶対不可侵領域。自分が進みたいと思う方向に、重力を向ければ移動にも使える優れものである。

 けれど、どうしても攻撃の際、無防備な素肌を晒さなければならない。イヴの所有する特性上、そのリスクは避けて通ることなど出来やしない。

「そして、あと残された重力制御装置は残された12対の翼のみ。それを残らず破壊すればあなたは無力なクソガキに逆戻り! あははははっ、種明かしさえ分かってしまえば、なんてことはありませんねぇ!!」

 レイは愉快そうにここ一番の笑い声を上げた。

 今までバカの一つ覚えみたいに大振りな攻撃動作ばかり繰り返していたのは、すべて敵の油断を誘うためであった。現にそうしてイヴは見事に騙されてレイの術中に飛び込んでしまった。

 見た目こそどんなに見目麗しい使者の姿をしていても、その本質はただの機械仕掛けの天使であることを敵は知った。

「もしかしてもしかしてぇ、私が考えもなしに闇雲に攻撃を放っているのかと思ってましたぁ? ざぁーんねぇーん、むねぇーん、まぁーたらーいしゅう!」

「見事だと言っておこう。だが……私の力が何であるかを分かった程度で勝ち誇られては困るな」

「あら、あらあらー。イヴちゃんったら強気でちゅねぇ。まだ私に勝つ気でいるんでちゅかぁ? でもねぇ、現実は全てあなたの思い通りに動くと思ったら大間違いなんでちゅよぉ。――そこのところを理解してるかなぁ?」 

「そうだ。だからこそ、お前の統べていた帝国は滅亡したんだ。力だけで自分の思い通りに事が運ぶと思いこんでいたお前のその傲慢こそが、敗因だ」

「んー、ちょっと今の発言だけは聞き捨てならないですねぇ。だけどぉ、今すぐ泣いて謝るんだったらぁ、半殺しにする程度で許してあげますけどぉ」

「宣言しよう。私の12の翼を破壊すればお前は勝ちだ。だが、お前が私の弾丸をたった一発でも顔面に喰らったそのときは――お前の負けだ」

 イヴは大胆不敵にも挑発的に銃口を向けてみせた。

 まるで一万年前に始めて対峙したときと同じように挑発的な眼差しで。

 そういえば、あのときもそうだった。

 あの世でみんなに土下座させてやる――そう言って手招きをしてきたことをレイに思い起こさせた。それは無謀からくる蛮勇か、それとも無知からくる仮初の勇気なのか。レイには分からない。

 しかし、言うに事欠いて、この自分を相手にたった一発の弾丸で仕留めると言い放ってきた。レイはどうしても沸き立つ激情を隠せずにはいられない。

「どうした、先ほどの余裕はどこにいった。まさかと思うが、こんな取るに足らないクソガキに敗北することを恐れているのか?」

「調子に乗るなよクソガキ。私とまともにやりあって生きていられたことだけは褒めてやる。だが、この期に及んでまだ私に勝つつもりでいるなんざ片腹痛いんだよぉ!」 

「いいからかかって来い。一万年も待っていたんだろう。そろそろ終わりにしないか」

「叩き折ってやる! 翼を残らずもいでから、ズタズタの肉塊になるまで地面を引き摺り回してやる! 今更泣いて謝っても許さないからなぁ!」

 レイが地面を蹴った。恐るべき速度で宙を舞い、両腕を旋回させながら強襲をしかけてくる。

 イヴはすかさず重力の壁を頭上に展開。不可視の盾がレイの攻撃を身体ごと弾いた。跳ね飛ばされたレイが地面に着地する隙を狙って発砲する。

 レイは左腕だけで銃弾を防ぎながら、自由な右腕で光弾を投擲。目を焼くような光が、重力の壁が解かれた瞬間を過たず突いてくる。

 横に飛んで回避を試みるも、わずかに間に合わない。光弾が背中の翼に直撃し、炎を噴きながら翼の一つが爆発。たちまち視界が黒煙に呑まれ、前後不覚に陥る。敵の姿も見失う。

「くっ!」

 重力で黒煙を吹き飛ばして視界をクリア。急いで辺りを見回すが、レイの姿はどこにも見当らなかった。一体どこに隠れたのか。

 そのときだった。イヴの視界の隅を何かが掠め――しかし、重力の壁にあえなく阻まれて、あっけなく落ちた。

 イヴがそちらに目を向けると、そこには変わり果てた姿の男がいた。

 眉間に皺を寄せ、飛び出た眼球が挑むようにイヴを睨みつけ、世界に憎しみを叫ぶかのように大口を開いている。男の首から下はない。人間の生首がぶつかってきたのだ。

 そのグロテスクな光景に若干の気後れを覚えるイヴだが、それが先程、交戦した黒の教団の兵士の死体であるという認識がきた。

「何故殺したのかと、あなたは私に問いかけましたよねぇ?」

 どこからともなく響き渡るレイの哄笑。

 それを引き金とするように、兵士の亡骸がこちらに向かって山なりに飛来してくる。一つや二つではない。これまでイヴが刃を交えた無数の死者達が石つぶてのように飛来してきた。

 イヴは頭上に手をかざし、重力の壁で全てを弾き飛ばしていく。そのたびに血や内臓が飛び散り、噎せかえるような血の河を広げていく。直に血が触れることはないが、不快な臭いだけはどうしても防ぎきれない。

「あははははっ、聞けば聞くほどこんなに笑っちゃうほどおかしな質問はありませんよぉ。あなたもこれだけたくさんの人を殺しておきながら、よくもそんな綺麗事を平然と吐ける口があったものですねぇ。ほんと、傑作ですよぉ」

 まるで死者の群れが行軍を成して迫ってくるような悪夢。夥しい量の死が空から降り注いでくる。この醜悪な連鎖に終止符を打つべく、イヴは真っ直ぐ加速した。

 死者の流れを生み出す始流――そこには悪趣味ながら死体を担いでは投げ飛ばすレイがいた。敵の姿をそこに認めるや否や、イヴは迷うことなく撃鉄を引いた。

 レイはそれを予測していたかのように笑みを浮かべながら、躊躇いもなく死体を投げ放った。銃弾は死体に命中。イヴの目の前で上半身と下半身が別たれ、爆散するかの如く大腸を飛び散らせていった。

 思わず目を背けたくなるような惨状に、気を取られている隙に、レイの姿はすでに消えていた。またしても見失ったというのか。

「逃げるな! 戦え! お前の罪から目を背けるなっ!」

 責め立てるような悪鬼の怒号――イヴが振り返ると、巨大な岩石を持ち上げたレイがいた。とんでもない馬鹿力を垣間見た。自分の背丈の五倍はあろうかという岩石を片手だけで軽々と持ち上げながら、

「私はここにいるぞぉっ――!」

 気が触れたような笑いを上げて、勢いよく岩石を振り下ろした。

 受け止めるような体制でイヴは両手を掲げ、精一杯の重力を岩石にぶつける。両腕の血管がはちきれそうなくらい膨れ上がり、苦痛の呻き声を上げた。両腕が引きちぎれそうな激痛に、頭の中が真っ白になる。

 この岩石には敵の魔力が込められている。敵の放った実体の持たないビームと違い、こちらは実体を持った質量のある物質である。その規模がでかければでかいほどイヴの身体にかかる負担は必然的に大きくなる。腕ごと持っていかれそうな痛みをこらえながらも、イヴは岩石をかろうじて押し返し、それを相手めがけて反射した。

 しかし、何を思ったのかレイは突っ込んできた。まるでそれを待ち構えていたかのように、岩石に身体ごとぶつかりにいくような勢いで手刀を振り下ろした。風を切るような音。それだけで身の丈は五倍もあろうかという岩石は真っ二つに砕けてしまった。

 女神化がもたらす驚異的な身体能力の発露。それは岩石を叩き割るだけでは止まらず、その勢いに乗ったままイヴに捨て身の体当たりをくらわせてきた。

 真っ向からイヴは重力の壁で迎え撃つ。せめぎ合うレイの腕力とイヴの重力に、びりびりと大気が震えた。いや、震えているのはイヴの身体だった。レイの腕が重力の壁を少しづつ突き破り、イヴの体勢が徐々に押し返されていく。

(このままでは……破られる)

 内臓を殴打されている不快感。嫌な汗が額に浮かんでいるのを感じながら、イヴは自らの限界を悟らされた。重力の壁がもたないときがもうそこまで来ている。

「絶大な力の前では、それに伴う莫大な対価を支払わなければならない。――そろそろその身体も活動限界ってやつじゃないんですかぁ?」

 攻撃が効かないと分かっていながらレイは闇雲に攻め込んでいた訳ではない。これまでも全て計算の内。イヴに対して確実な王手を打ち込むための布石に過ぎなかった。

 レイにはお見通しだった。イヴの力の源である『重力装置』――背中の翼がレイによっていくつか破壊されている。それは当然のことながら出力が落ちることを意味しており、その証拠とばかりに今まで通らなかったレイの攻撃が通用し始めている。

 現在、イヴに残された翼はあと10――

 それでも、あえてイヴを直接狙わないのは彼女から何もかもを奪い、屈服させる為だった。それも全ては、一万年前に失墜した誇りと自信を取り戻すためである。

「あなたの死を以って、私の復讐は完成される!」

 ついにレイの身体がイヴの重力を突き破ってきた。みしみしと血管の浮き立った腕を伸ばして、無防備なイヴに襲い掛かる。

 イヴは銃を剣に変形――残された力を振り絞り、迎撃の一閃を振り下ろした。

 突然レイの腕が光り、何も無い空間から杖が現れた。そして次の瞬間には、イヴの振り下ろした渾身の一太刀を受け止めることに成功している。恐るべき反射神経である。

 イヴは舌打ちしながらも、剣を握る腕にありったけの力を込めて相手の身体ごと押し返そうとする。

「そうやって自分に気に食わないモノを片っ端から殺していって満足か? 勝手に生んでっ、勝手に捨ててっ――お前はそうされた者たちの気持ちが分かるのか!」

 けれどもレイの身体は微塵も揺らがなかった。杖を握る腕には、わずかな震えすら見られない。まるで小人と巨人が相対しているかのように、その力量は歴然としていた。

「はぁ? そんなもの分かる訳ないですよぉ。どうせ息絶える家畜の気持ちなんて考えるだけ時間の無駄だと思いませんか?」

 まるで子供を押しのけるかのように、レイは杖を横なぎに振るった。それだけでイヴは剣ごと押し戻されていく。それでもイヴは物怖じすることなく果敢にも剣を振った。叫びながら、嵐のように激しい剣戟を浴びせていく。

「よくもっ、そんな言葉をぬけぬけと言えたものだな!」

 様々な角度から繰り出されるイヴの斬り込みを――そのことごとくをレイは弾いた。

「やつらは少しでも自分達の気に召さない政策があろうものなら、すぐに手の平を返します。一人では何一つ考えられない家畜共は、革命という大儀に則って武器を取り、女神に仇名す反逆の使徒と成り果てる。何のための平和だ、誰が為の平穏だ。安息が約束されていた恩義すら忘れて、私の信者を名乗る価値などない! そんな愚かな民衆に裏切られ、踊らされる気持ちが分かるか!」

「戯言を! 守るべき民を導かずして、何が指導者だ! 最初に裏切ったのはお前の方だ! 守る努力すら放棄して安易な殺戮に走ったお前に、女神を名乗る資格はない!」

「女神! 女神ねぇ! あははははははっ!」

「何が可笑しい!」

「いやねぇ、現代の女神共のこれからの行く末に思いをはせていましてねぇ……これが傑作で傑作で笑わずにはいられませんよぉ」

「どういう意味だ」

「あなたも薄々感づいているんじゃないですかぁ?」

「――……っ!」

 瞬間、イヴの剣が停止した。身動きが取れないように、レイの杖に硬く硬く固定されてしまったのだ。

(しまった――)

 柄を握る腕に力を込めても全くびくともしない。武器を封じられた。いや、奪われてしまったといった方が正しいだろう。

「今に見ているがいい! やつらは今の女神が気に食わなくなれば、すぐに手のひら返しを始めるぞ! そうなったとき、現代の女神はどういった決断を下すのか。あぁ、非常に楽しみで楽しみでたまらないですよぉ。そこにはきっと数多の悲劇と、身の毛もよだつ滅びが待ち構えている!」

 そうしてレイは杖を握っていない片方の腕に力を集中。そこに例の空間を捻じ曲げるほどのエネルギーが収束されていくのが見える。レイはこの至近距離で光弾を放つ気でいる。イヴが身動きを取れないのを良いことに、ここ一番で、彼女を確実に殺害し、効率的な損害をもたらすことの出来る行動に転じてきた。

(この距離はまずい!)

 咄嗟に武器を捨て、上体を後ろに反らして回避を試みるイヴだが――それよりも早く、光り輝くレイの腕が迫り来る。破滅をもたらす輝きをまとったレイの腕が――

(間に合わな……)

 目と鼻の先にまで近づいてきている。イヴに終わりをもたらす光が、最早避けようのない距離に肉薄している。死が数コンマ先に音を立てて近づいてくるのを肌に感じる。

 瞬間――イヴの頭の中をまばゆい閃光が駆け抜けた。

 不思議な現象だった。世界がスローモーションに感じる。

 死ぬかもしれない。そんな絶体絶命な状況であるにも関わらず、胸が温かくなるような、心が癒される安らぎに満たされていく。意識が遠く感じていく。

 この現実から突き放される感覚を例えるとするならば、いまわの際に見る、走馬灯のようなモノに近いのかもしれない。

 

 記憶――それはあの悲劇が起こる前夜。

 

 闇よりも深い深遠の底で、少女が振り返った気がした。

 母の胎内より大地に生まれ落ちたその瞬間から、地下牢に幽閉された少女。

 生を受けたそのときから、この世のどんなモノより忌むべき存在が、死の淵で甘い誘いを微笑みかけてくる。

 

(ねえ、イヴ。二人でこの家から逃げ出すのよ。屋敷の外に出て、ヘンゼルとグレーテルのように森をひた走るの。人でなしの両親の手が届かない場所に隠れて、森に棲む恐ろしい魔女を一緒にやっつけるの。そして二人だけでお菓子の家に暮らすのよ。あなたと私だったら絶対に出来るわ! だって私のたった一人の家族だもの)

 

 生気の感じられない吐息を囁いた。死人のように冷たく、幽鬼のように骨ばった肌を身近に感じる。

 

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ。

 

 私たちは逃げられない。そんなこと出来やしないのだ。

 たとえ逃げ出したとしても、ここから無事に逃げ切れる訳がない。

 私がいなくなったら、きっとパパとママはどこまでも追いかけてくる。地の果てまで――いいや、地平線の向こう側まで追いかけてくるだろう。

 逃げられる場所など、この世界のどこにもないのだ。最初から無理な話なのだ。

 だけど、だけど、私は知っている。否――知ってしまった。

 このお話の続きを。物語がどういう終わりを迎えたのかを。

 避けようのない滅びが、その先にあることを。

 あのとき、もし姉を連れ出して逃げていたなら。

 ほんのちょっとの勇気を振り絞ることが出来たなら。パパとママに反抗するだけの度胸があれば。例えそれが悪い子と言われても、醜い行いだと言われても。あのときの私にとって絶対であったルール――家族を縛る愛の鎖を破る覚悟があったならば。

 未来は変わっていたかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

 私の行動ひとつ次第で姉は助かっていたかもしれない。そう思うだけで、じくじくと胸が焼け付くような後悔に囚われていた。

 悪い子でもいい。醜い行いでもいい。私の行動ひとつで、一人の命が救われるならば。

 あんな最悪な結末を変えることが出来るとしたら――

 

 

(だからお願い。リリー)

 

 私の手には二つの選択肢が残されている。

 生か、死か。

 この手には姉の命が握られている。

 そういう意味では、今の私は処刑台に立ってまさかりを構える処刑人となんら変わりない。

 決まっている。私の取るべき選択はただ一つだった。

 願わずにはいられなかった。縋らずにはいられなかった。たとえこの先にどんなモノが待ち受けていようとも、あんな終わりを回避できるのならば。

 過去をなかったことに出来るならば。未来への希望を掴むことが許されるならば。私の家族を救うことが出来るなら。

 神にでも悪魔にでも、喜んでこの魂を売り払ってやる。

 

(私をアイして――)

 

 この世のどんなよりも美しく、魂がとろけそうなほどの甘美を湛えて――少女が笑った気がした。

 その微笑みの向こう側に、どこまでもどこまでも楽園が広がっている気がした。

 私は、神にも縋るような思いで、いつの間にか手を伸ばしていた。

 まるでそこに救いがあるのだというように、唇がゆっくりと小刻みに震えていた。

 私は願いを口に――

 

(イヴさん! 目を覚ましてください!)

 

 割れんばかりの懇願。否――魂の悲鳴が響き渡った。

 

(それは幻です! あなたはまだ生きています。生きることを諦めないで下さい――!)

 

 それは自分をずっと支え続けてくれた良心の声。

 あんな醜悪なモノを見せられ続けて、まだ自分に寄り添ってくれる心強い仲間。

 そうだ、自分にはまだまだやるべきことがあった。

 最悪の敵――

 どうやらこいつの狙いは自分だけのようだが、もしかしたら自分を倒したその後にガラ空きのプラネテューヌを侵攻されかねない。

 たしかに現実はあまりにも過酷で厳しいことだらけだ。たまには目を背けたくなることもある。

 だけど、今だけは何が何でも倒れるわけにはいかない。たとえ刺し違えてでも、レイを止めなければならない。自分に何かを守れるほどの力があるとは思えない。

 でも、あいつらと過ごした時間は楽しかったから。それだけは守らなければならない。

 そんな大切なことを忘れていた自分が、なんだか申し訳なくて、今すぐにでもイストワールに謝りたくなった。

 そのためには、ここで立ち止まっているわけにはいかない。過去に囚われたままではいけない。

 

(どうしたの、リリー?)

 

 妹の異変を察したのだろう。姉が不安そうにまつげを揺らしている。その今にも壊れてしまいそうな儚げな姿に心が揺らいだ。

 いや、違う。これは姉なんかではない。ただの幻だ。姉の姿をかたどった亡霊。死の間際に見た泡沫の夢。必死にそう言い聞かせた。

 もう姉は気の遠くなるような昔に死んでしまった。自分がこの手で殺してしまったのだから。

 それでも胸がひどく痛んだ。信じていた人を見放すという背徳に。アイする人を突き放すという冒涜に。まるで半身が引き裂かれるような痛みを覚えながら、

(ごめんなさい、お姉ちゃん)

 ゆっくりとイヴは首を振った。辛かった。またしてもこんなひどい仕打ちをしてしまう不孝者の自分が憎たらしかった。

 それでも自分は生きてここから帰らなければいけない。

 だから――

 

(私は、あなたと一緒にはいけない)

 

 妹は、姉を裏切った。過去と決別するために。

 瞬間、世界がひび割れた。ガラスのように姦しい音を立てて、足元から崩壊していった。

(どうして、どうしてそんなひどいことを言うの? リリーはっ、あなたは――私をわかってくれるって言ったじゃない!)

 姉の悲嘆と憤怒に満ちた悲鳴が響き渡った。やり場の無い悲しみと怒りが込められた声。

 一人で取り残されるモノの断末魔。

 イヴには姉が何を言っているのかしっかりと聞き取れなかった。姉は怒りのあまり感情をぶつけるだけで、ちゃんとした言葉を発することすら出来ないようだった。だが、

(この嘘つき!)

 イヴにはそう言っているように聞こえた。

 それを最期に、ごうごうと荒れ狂った音を立てながら、暗黒の地下牢が遠のいていく。

 そして、イヴは目を覚ました。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 イヴがはっと我に返ったその瞬間――そこには破滅の光をまとったレイの腕がある。死が一刻一刻と近づいてくる最中だった。

 そこで何を思ったのか、イヴは身体を必死によじった。何か策があってのものではない。ほとんど反射的なものだった。

 生きたいという願い。死への徹底反抗。

 本能からくる回避行動――イヴはその判断に身をゆだねた。

 これまで自分はなんだかんだで一万年も生きてきた。案外なんとかなるかもしれないという予感。

 運命に賭ける――

 もしここで終わる命ならばそれまでだ。潔く諦めることも辞さない。

 刹那、全ったき破滅の光が炸裂した。爆発が広がり、全てを飲み込んでいった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 地形をまるごと変動させる程の衝撃が襲いかかる。

 大地は抉れ、そこに元々広がっていた森林すらも跡形も無く吹き飛び、まるで爆心地のように真っさらな風景が出来上がっている。

 だが、勝負はまだ決していない。レイにはその確信があった。

(手ごたえが浅い。あのクソガキはまだ生きている。あたしの実感だと、損傷はほとんど翼にしか与えられなかった)

 実にしぶといクソガキだとレイは毒づきながら、もうもうと立ち込める砂埃の中を見渡して動くものがないかを注意深く探っている。

 しかし、その必要もないことをすぐに思い至る。

 何故なら――お目当ての存在はすぐそこにいた。

 息も絶え絶えに膝をついたイヴがいた。

 口から血を吐きながら、傷だらけの身体をかろうじて支えている。

 全身を申し分程度に覆っている装甲が、人体への衝撃を緩和してくれたものの、それでもレイの攻撃力は計り知れなかった。内臓が悲鳴のように軋みを上げている。

 最早、意識を保っているだけで精一杯なのだろう。

「へえ、やるじゃないですかぁ。今の攻撃は直撃だと思っていたのですが、まさか身体をひねって損害を軽減していたとはねぇ。さすがゴキブリのようにしぶとく生き永らえていただけはあります。ですが、それもここまでみたいですよぉ」

 イヴに残された翼はわずか1枚――

 そして彼女の武器である銃剣は地面に転がっている。

「ざまぁないですねぇ。もうズタボロのボロ雑巾じゃないですかぁ」

 到底レイの攻撃から身を守れることなど不可能だった。精々、付け焼刃がいいところの出力しか出せないだろう。1枚では自分の身体を宙に浮かせることも出来ず、移動することすらままならないようだ。

「……」

 苦しみを堪えた息を吐きながら、イヴは悔しげにこちらを睨んでいる。それが全力の反抗だとでもいうように。今では軽口を返す余力すら残されていないようだ。

(勝った――)

 レイは勝利を確信した。くくっと喜悦の笑いがこぼれるのを自分でも押さえきれない。

 あのにっくき、白き災厄の翼は瀕死。逃げも隠れも出来やしない。いまや、ただの小娘にしか過ぎない。散々手こずらせてくれたがもうこれで終わりだ。

(最早、力を使うまでも無いです。残った翼をこの手で直々に叩き折ってから、宣言通り、あのクソガキがずたずたの肉塊になるまで引きずり回してやりますよぉ!)

 レイは大地を蹴った。白き災厄の翼に引導を渡すべく、手を伸ばしたそのとき、

「――!?」

 ふいに身体がぴたりと静止した。

 身動きが出来ない。いや、それどころか身体が鉛のように重くなっていくのを感じる。体勢を維持することすら困難になってくる。自分の身体じゃないかのようにまるで言うことを利いてくれない。

 あまりの重圧に膝をつき、盛大にへたり込んだ。人間がたったの二本足で立っていることが奇跡のように思えてくる。立つことがこんなに難しいとは。

 そう、見えざる力に全身を押さえつけられているかのように、一切の自由をレイは封じられていた。

「罠にかかったな」

 イヴがふらふらと立ち上がった。苦しげに、だがそれに勝る余裕の笑みがそこにはあった。

「なぁん、ですかあ、これは?」

「お前は私の力を知り尽くしていたんだろう? ならば分かるはずだ」

「ま、さか……重力制御?」

「御名答。重力制御装置だよ。私の力はなにも防御や移動だけが取り柄ではない。自分の身を守る盾にもなれば、相手を重力で押し潰す剣にもなるのさ。――獲物を絡め取るクモの巣のようにな」

 その言葉を証明するかのように、レイを取り囲むようにして5枚の翼が宙に浮かび上がっていた。

 もしかしてあの翼は自由に取り外しが出来て、なおかつ自分の意思で遠隔誘導を可能とする攻撃端末だとすれば――。

 イヴは翼を自由自在に飛ばして、任意の場所に重力を放つことが出来るのか。レイが肉薄するまではたしかに10枚あった。ならば、さっきの衝撃で実際に壊せたのは3枚だけで――そしてどさくさに紛れて、5枚の翼を隠していたというのか。レイの油断を誘うためにあえて翼を1枚だけにしていたというのか。

「残念だったな。お前が叩き折ることができたのはたったの7枚だ。私の翼を完全に破壊しきれなかった時点で、お前の負けは確定した」

「くそっ、こんなものすぐに力づくで抜け出して――」

「ああ、勘違いしてもらっては困る。普段は私の身体を間違って押し潰さないために安全装置が作動している。そのため出力は控えめに設定されているが、それが私以外に向けられているとなれば話は別だ。まかり間違って敵を逃がしても困るからな。対象が私以外の場合、出力は通常の三倍に設定されている」

 そう言ってイヴがゆったりと近づいてくる。足取りはまるで死人のように弱々しい。

「それは私の武器だ。返してもらうぞ」

 イヴはゆっくりとした動作で銃を拾い上げた。銃を握るどころか、引き金にかける指が震えている。

 相手は手負い。しかし、レイは身動きが出来ない。獲物を殺せる絶好の機会を前にしているにも関わらず、それをのうのうと見ていることしか出来ない。

 そしてその瀕死の獲物に、自分は殺されようとしている。

 イヴは銃を構えたそのとき――銃に異変が起きた。

 内部からとげとげしい複雑な機構が飛び出し、鋼鉄のような銃の外装を貪るようにして覆いこんでいく。

 その中から顔を出したのは巨大な銃だった。銃なんて生易しいものではない。人間一人ならすっぽり飲み込める程、極太な銃口が怪物のような大口をあんぐりと開けて待ち構えていた。36,5センチの主砲。ほとんど戦艦の主砲の如き砲塔がそこに顕現していたのだ。

「テメェっ、この――卑怯だぞ」

「言っただろう。お前をたった一発の銃弾で仕留めると」

 銃と剣のお次は、超ド級の対艦砲塔――そんな馬鹿げた話がどこにあるだろうか。しかし有り得ない話ではない。

 一万年前に歴史の闇に埋もれた遺失物ならばどんな夢も魔法も可能に変えてしまう。まさに人が生み出した禁忌のみが成せる、謎多き古代兵器である。

 いくらレイの身体が強靭であるとはいえ、あんなものを至近距離で喰らえばただで済まされる訳が無い。

「普段の銃剣も使い勝手がいいが、少し火力不足でね。それを補うための隠し玉でもある」

 そうしてイヴは砲身を向けてきた。竜のように巨大な大口が覗いている。底の見えない闇から、想像もつかない力が渦巻いているのを感じる。破滅の呼び声が聞こえてくるようだった。

「認めない……」

 悔しげな息が漏れた。

 最早レイは地面に顔をこすりつけたまま起き上がれなかった。面を上げることすら許されない。

(力でも技能でも、全てにおいて圧倒していたはずだ。それなのに何故こんなクソガキに負ける?)

 屈辱に唇を噛みしめながら、イヴに対して無様に跪くことしか出来ない。

「こんなの認めねぇぞぉぉぉぉっ!!」

 せめてもの抵抗の意思を示すかのように、血走った眼で睨みつけた。

 イヴが引き金に力を込めた。

「さようなら、女神様――」

 静かなつぶやきと共に、銃火が爆ぜた。

 火山の噴火の如き爆炎があたり一面に吹き荒んだ。レイのけたたましい悲鳴を飲み込み、地獄の業火が全てを包み込む。

 大地が震えていた。

 それは怒り。苦痛の叫喚――無念のまま果てていった者達の思いが代弁されたような振動。

 そして、全てに終わりを告げるかのような轟音が鳴り響いて――やがてはそれも尾を引き、消え去った。

 一万年もの永きに渡る闘争が今――ここに終止符が打たれた。

 戦争が終わった。

 

 

 

「ああ……」

 イヴは力なく息を吐きながら、その場にどっかりと座り込んだ。自らの自重に耐えかねるように。または手に握られた巨大な砲塔の重みに引きずられるかのようだった。

 目の前には、ぽっかりとした大穴が出来上がっていた。まるで隕石でも衝突したかのように巨大なクレーターが出来上がっていた。あの女がこの世に存在していたという形跡は、地上から跡形も無く消え去っていた。

 自然、それを生み出したの砲塔に目が行く。

 遺失物――

 古代の文明が遺したという遺産。

 人間の文化を遥かに促進させた道具。人間の技術水準を向上させた生活必需品。これで人々の暮らしが豊かになったのは言うまでもない。あるいは超兵器としての顔も持ち合わせている。

 こうして改めて見てみれば、とんでもない威力であるという実感がこみ上げてくる。

 何故そんなモノを古代人が造り上げたのか。

 一万年もの時を望まずとも生きてきたイヴだが、生憎そういった兵器の知識はなかった。専門外のことにはとんと疎い。自分が生まれてきたときには既に、遺失物は当たり前のようにあったのだから――。

 当時、少しでもそういった疑問を抱いていればという後悔も多少はある。

 それくらい当たり前のようにそこにあって、あまりにも日常に溶け込んでいた。疑問にすら思わないのも当然のことかもしれない。

 遺失物がどこから来て、どこへ消えていったのか。それすらも闇の彼方に包まれたまま。

 ましてや、自分がこれをいつ手に入れたのかすら思い出せない。

(やりました……ついにやりました、イヴさん)

 感動に震えたイストワールの声が、頭の中で聞こえる。

 イヴは無言で頷いた。その表情は達成感とは程遠い、憂いが浮かんでいる。

 怖かった。恐ろしかった。自分の能力の片鱗を見破られたとき――

 今度こそ殺されるのではないかと思った。今すぐ何もかも捨てて逃げ出したくなった。

 死闘の果てにつかんだ勝利。

 しかし、それでも素直に喜べなかった。イヴの心は晴れる素振りがまるで見られない。

 彼女の心を満たすのは喪失感。

 それと引き換えに、たくさんの命が失われた。

 もう二度と見たくも無かったモノを、見せられた。この戦いで、心の奥に厳重に仕舞い込んだモノを掘り返された。

 イヴの心にはまたしても深い深い傷跡が刻みつけられた。

 この戦争の代償は大きい。

 だが、まだ休んでいる暇はない。この後の事後処理が山積みとなっている。

(イストワール……頼む。このことはプラネテューヌには伏せろ。捏造でも偽造工作でも何でも良い。決して真実を公表するな。隠し通せ。あいつらにも、このことは絶対に言わないでくれ。この戦いのことも、黒の教団のことも、あの女のことも――私の身体のことも)

(それは……)

 イストワールが困惑したように言いよどんだ。これほどの規模の事件を隠し通すのはいくらなんでも無理があった。実際にプラネテューヌ側には市民から死傷者が出てしまっている。

 何より問題なのは黒の教団の兵士たちの死体。

 彼らの死をどう言い訳すればいいのか。

(お願いだ。私も出来る限りのことをする。……世の中には知らないほうがいいこともある。あいつらをこちら側に行かせてはならない。これは私の問題でもある。私のせいで起こった問題なんだ……)

 今度は命令ではなく懇願だった。見ているだけで胸が痛くなるくらいの懇願。なんだか危うくて、今にも壊れてしまいそうで、とても見ていられない。

(はい……承知しました。だけど、後でちゃんと全てを話してくださいね)

 イストワールは何か言いたそうだったが、頷いてくれた。イヴの言葉から悲しみの念を察したのだろう。多分、その言葉の裏にあるモノも。

 そのときだった。

 イヴの身体からまばゆい光の柱が上がった。天にも登るような柱の中から、いつもどおりのイヴが姿を現した。

 どうやらイヴが女神化を解除したらしい。

 けれども、イストワールは違和感を感じていた。

 女神化が――イヴが意図せずに解除されたように思えて。まるで力そのものが勝手に流れ出ていったかのように見えたのだ。

 瞬間――大量の血がイヴの口から堰を切ったように溢れ出た。余程の無理が祟ったのと、張り詰めた緊張の糸がぷっつりと切れたのだろう。熾烈な戦いを繰り広げておきながら、ここまで意識を保っていたこと。それ自体がほとんど奇跡のようなものである。

 そして、そんな危険な状態とは裏腹にちょっとだけ安心しきったように頬をほころばせて、

「これで……ようやく眠れる」

 脱力しきったように頭から倒れこんだ。自らが作った血の池に倒れ伏した。

(イヴさん!? そんな……しっかりしてください! イヴさん! イヴさ――ん!)

 返事は返ってこなかった。

 死んだように深い眠りについてしまった。

 

 

 

 神次元界――某所

 

 今までの一連の流れを監視している者がいた。

「なんだよ、レイのやつ今度こそ本当に負けてやがんの。マジだっせぇー!」

 それはレイにつき従っている人工妖精クロワールである。何がおかしいのか、クロワールは腹を抱えて笑い出した。

 自分に危害の及ばない安全圏に引きこもり、レイの手助けを全くしない辺り、本当につき従っているかどうかすら怪しいものだが。

「楽しかったパーティーも終わりか。こうして見るとあっけない幕切れだったな」

 かと思えば、何か別のことを思い出したかのようにふっと笑いを引っ込めて、

「おっと、そういやあいつらが後始末に動き出すんだったな。こうしちゃいられねーなー。まだまだパーティーが終わらないうちにオレも行くとするかー」

 クロワールはくくっと笑い、そしてその姿が風に包まれたかのように虚空へと消えた。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 プラネテューヌ東部――森林

 

 敗残兵たちが闇の中をひた走る。

「畜生っ、どうなってやがるんだ!」

「俺たちが狙っているのは弱小国じゃなかったのかよ!」

「そ、そんなの俺が知るかよ!」

 闇の中に困窮しきった男たちの怒号が響き渡る。

 そう――彼らは黒の教団の生き残りの兵士たちである。

 戦争には負けた。それでも運良く生き延びることが出来た。混沌と化した戦場からは脱出できた。しかし安心は出来ない。安全が確保されたわけでもない。

 頼るべき司祭はもうどこにもいない。

「俺たちはこれからどうすりゃいいんだ! なぁ、教えてくれよ! 頼むからさぁ……」

「そんなこと言い争ってる場合かよ! 余計なことを考える暇があったら、ここから全力で逃げ出すんだよ! いつあの白いバケモノが俺たちを襲ってくるかも分からねぇ!」

 白いバケモノ――男の発した言葉に男たちを身も竦むような恐怖が駆け抜ける。

 方角は定かではない。最早、右も左も分からない。自分がどこへ走っているかすら分からない。

 森の奥の奥へと身を隠すことで、少しでも敵に見つかる可能性を低くできるのだと信じて。

 このいつ終わるとも知れない暗闇に、救いを求めてあてどもなく進んでいる。

 ここではない。どこか遠くへ。

 あのバケモノに追いつかれない場所へと。

「そうだ。まずは身を休めよう。それからひとまず我らの聖地へと――」

 ふいに、男の言葉がピタリと止まった。

 誰かに見られている――

 戦慄が男たちの間に走る。

 まさか敵が自分たちの後を追いかけてきたのだろうか。

 男たちの目の前に、奇妙なモノが立っていた。

「――」

 そう、軍服を身にまとった女性が、道を塞ぐようにして立ちはだかっていた。外見年齢は十代後半といったところか。

 軍服の上からでも分かる、自己主張するかのように大きく突き出た胸。すらっとした腰周りとしまりの良いヒップ。露出が特に激しいわけでもなく、自らを律するかのように禁欲的な出で立ちをしているにも関わらず、なぜだか妙に艶かしく、丸みを帯びた大人の身体つきが否応なしに強調されている。

 そして最も印象的なのは、左目に当てられた眼帯。その反対側には鷹のように凍てつく眼光がギラついている。油断無く敵の一挙一動を観察しているかのようだった。

 腰には一振りの軍刀を帯刀している。

 それらが、男たちの目線を捕らえて離さない。

「……おい、アレは何だ?」

「さ、さあ」

 ようやくいぶかしむような声が上がったことで奇妙な間が動き始める。

 その風体こそ奇抜でどうしたものかと戸惑っていた男たちだったが、相手が女だと分かった途端、張り詰めていた緊張が徐々に和らいでいった。

「なんだ、ただの女じゃないか」

「まったく、びびらせやがって」

 ガハハハ、と安堵から盛大な笑い声があがる。あれだけ男たちを駆り立てていた恐怖は嘘のように吹き飛んでいった。

 そのとき、眼帯の女が口を開いた。

「悪いが、ここから先へ行かせる訳にはいかない」

 ドスの利いた声が腹の底から轟いた。相手を屈服させるような重い声音だった。

「は?」

 一瞬、その高圧的な物言いにたじろいだ男たちだが、決して勢いが怯むことはなかった。

「おいおい、お嬢さん。俺たちは先を急いでいるんだ。大人しくそこを――」

「断固、拒否する」

「何言ってるんだこの女は?」

「お嬢さん。ふざけるのも大概にするんだな。いいからそこをどくんだ」

「拒否すると言った。これは命令だ。貴様らに拒否権はない」

 ぴしゃりと断定した。その相手を屈服させるような声音には、いかにもお堅そうな軍人気質。指令に忠実な士官としてのたたずまいが感じられた。

 ふざけたり冗談を言っている訳でもないらしい。本人はいたって真面目そのものである。

「命令だと? 誰のだ?」

「それを話す道理もなければ義理もない」

「何?」

「貴様たちは、白き災厄の翼と接触して生き延びた。そんな者達が生きているだけで、この後の歴史に何かと影響を及ぼすかもしれない。我々の計画に支障をきたすかもしれない不穏分子は、消去しないといけない決まりだ」

 つらつらと訳の分からないことを言った。だが、この眼帯の女ははっきりと殺すといってのけた。それだけは理解できた。

 男たちは数にしてざっと三十人を超える。圧倒的不利であるにも関わらず、そんな人数を一人で相手取るなど正気の沙汰ではない。

 だが、女の隻眼には燃えるような使命感が猛り狂っている。

「貴様らに恨みはないが――あの御方のために消えてもらおう」

 言い放つと、眼帯の女が鞘から軍刀を抜き放ち、夜闇に白刃が躍り出た。

 この女は真剣だ。何が何でも殺る気である。何があっても男たちを通すつもりはないらしい。

「こいつ……よく分からんことを言いやがって」

「貴様らの命と、あの御方の意思を天秤にかけるまでもない。そう言ったのだ」

 そんなことも分からないのか、というふうに眉間を寄せた。別に男たちを見下しているわけではない。ただ、当たり前のことを言ったまでである。

 眼帯の女にとって、あの御方の意思は絶対遵守の誓い。

 それを守ることは、自分を自分たらしめんとする法であり――正義そのものであった。

 けれども、男たちには、眼帯の女の物言いは、いかにも見下しているようにしか映らなかったのだろう。

 ついに男たちが苛立ちを露わにした。

「この人数を相手によくもそこまで大層な口をきけたものだ」

 そう、数の上での圧倒的優位はどうしても覆すことなどできない。

「図に乗るのもそこまでにするんだな、女。俺たちはお前に付き合っていられるほど、余裕はないんだよ!」

 けれど、男たちを支える自信はそれだけではない。自分たちは先程まで地獄の最中にあった身。あれ以上の地獄がどこにあるのだろうか。

 たとえこの女がどれだけ剣術に長けた達人であろうとも、あの生き地獄を潜り抜けたあとではたかが女一人、恐れるに足りなかった。

「いいからそこをどけ!」

 近くにいた二、三人の男が痺れをきらしたように、青銅の剣を威勢良く抜き放つ。眼帯の女に走り寄ると、躊躇いもなく剣を振り下ろした。

 眼帯の女を切り裂くかと思われた凶器は――しかし突然根元からぽっきりと叩き折られた。

「はっ!?」

 男たちが驚愕の声を上げた。

 それもそのはず、眼帯の女には何の反応もなかった。ただ軍刀を構えて突っ立っているだけ。男たちに何かを仕掛けたような素振りや予備動作は見られない。何の前触れもなかった。

 にも関わらず、剣が叩き折られたのである。まるで剣の方が、自らの意思で勝手に折れていったかのように――

「やれやれ。歴史の闇に葬られた戦士がこの程度とは。少しは張り合いがあるかと身構えていたものだが、我はどうやら貴様らを買い被りすぎていたようだ」

「こいつっ、……一体何をしやがった! どんな手品を使いやがった! この奇妙な技……もしかして貴様も女神か!?」

「我が女神だと? 笑止千万! 勘違いも甚だしい。貴様らの目は節穴か? 我をあんなマモノと同列に語るな」

「じゃあ何だってんだよ! 剣が勝手に折れるだなんてことがありえるかよ! こんなのおかしいだろうが!」

 原理は分からないが、この眼帯の女がよく分からない力を持っていることだけは分かった。

 ならば、こいつの隙を突くしかない。男たちは即座に思考を切り替えた。

 こいつの弱点は、悪目立ちする眼帯。それが意味するのは、この女は片目だけしか見えていないということ。まるで自ら進んで裸体を晒しているようなものだった。実に分かりやすいことこの上ない。

 そして死角である眼帯――目の不自由な方角から攻めてしまえば、相手はこちらの姿を視認できないだろう。たとえその目論見を気づかれたとしても数瞬ほど反応は遅れる。そうなれば、もうこちらのものだった。

 だが、そんな考えを見透かしていたかのように、

「やめておけ。そちら側に立つと死ぬぞ」

 うっ、と男たちが怯む。何の根拠も無いのだが、この眼帯の女の声音から、ただのハッタリだとは到底思えなかった。何かとんでもないことが起こるかもしれないと信じさせるような何かが。

「もういい。いいから全員でかかってくることだな。――なに、恥じることは無い。貴様らにはその権利がある」

「舐めるんじゃねえぞ、このアマ!」

 殺気だった男たちが叫びながら一斉に押し寄せてきた。

 そんな一方的な展開を尻目に、眼帯の女は軍刀を構え直した。その心は曇りなき信念に燃えていた。今一度心を落ち着けるかのように、ゆっくりと自分の信奉する正義を口にする。

「これより掃討を開始。コードネーム『メタトロン』の名において、対象を速やかに――徹底的に排除する!」

 眼帯の女――メタトロンの瞳が冷酷な輝きを発したそのときを境に、全てが動き出した。

 それを合図に、闇に潜む邪悪な傀儡共が、人知れず行動を開始した。

  

 ◆ ◆ ◆

 

 また、とある場所では二人一組の少年と少女がいた。双子の少年少女である。

 突如、敗残兵たちの進路を塞ぐようにして現れたあどけない姿に、当然戸惑いの声が上がる。

「なんだ、こいつら……?」

「子供がどうしてこんなところにいるんだ?」

うりふたつの少年少女――いや、どちらが少年でどちらが少女なのか。容姿からはいまいち判別がしにくい。

 中性的というべきか――ドレスを着ているほうが少女で、礼服を着ているほうが少年だと、衣装でかろうじて分かるというなんともあやふやな感覚だった。着ている服を入れ替えられたら絶対に気づかないだろう。あまりにも二人は似すぎていた。

 そして、この二人もメタトロンとかいう眼帯の女と同じく、やはり黒の教団の敗残兵たちが来るのを待ち構えていたようだった。

 そのことを、この場にいる誰もが知らない。我が身に降りかかるであろう惨劇も。その末路も。

 ふいに少年少女がにっこりと微笑んだ。

「ねえ、見せてよ」「ねえ、見せてちょうだい」

 そう言って少年少女は笑いかけた。血と泥にまみれた戦場に咲く、一輪の花。天使の微笑みである。

「あなたの大切なモノをボクにちょうだい」「あなたの大切なモノをワタシにちょうだい」

 無垢な瞳にたじろぐ男達の前で、どこから取り出したのだろう。身の丈の二倍以上は優にあろうかという大鎌を取り出した。

 あまりの事にぽかんと間抜け面を晒す男達に、純粋無垢な殺し屋たちはワルツでも踊るかのような気楽さで大鎌を振り下ろしている。

 容赦なく振り下ろされた刃が男たちの首を刎ね飛ばし、温かな鮮血をまき散らした。

「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ――――!!!!」

 魂消る絶叫。不意をつかれた男たちが一目散に逃げ出していく。場は一瞬で血と恐慌に包まれていた。

 少年がばっさばっさと男たちが細かい肉片になるまで切り刻み、逃げ出すモノがあろうものならその退路を阻むようにして少女が回りこみ、すかさず八つ裂きにしている。

 息の合った抜け目の無い連携が、兵士たちの士気を削ぎ落とし、骨抜きの臆病者へと変えている。

 べっとりとした大量の血を頭にたくさんかぶっても少年少女の踊りは止まらない。むしろ恍惚とした表情で歌を歌いながら、無我夢中で鎌を振り回し、それが生み出す惨状に酔い痴れてすらいる。

 まるで二人だけが独壇場にいるステージのように。

「人が苦しみに悶える様は美しい。散りぎわに輝く華のように、ボクを惚れ惚れとさせる。そうだろう、『マールート』?」

 少年が歌うように言った。

「ええ、『ハールート』お兄様。命が消えるその刹那――燃え上がる苦痛の灯火。人間があらゆる苦悩から解き放たれる一瞬はステキよね。断末魔を聞いているそのときが、まるで世界の知らない側面を見ているような気がして、最高にロマンチックだと感じられるわ」

 少女が歌うように言った。

「今日もキミは素敵だよ。マールート」

「今日もお美しいわ。ハールートお兄様」

 二人の視線が交錯する。惨劇の真っ最中であろうと、場違いなまでにうっとりとした表情で見つめあう二人。

 兄妹――というよりかは、まるで恋人のように必要以上にべったりとしている。

 激しい息づかい。恍惚に染まった瞳。今にも濃厚な口づけを交わしてしまいそうなほど二人の距離は近づいている。人の倫理を外れたその眺めはどこか背徳的で冒涜的だった。

 後もう一歩で唇が重ね合おうとするまさにそのとき、二人はちらっと視線を逸らした。

「ご覧、マールート。まだまだあんなにたくさんいるよ。ボクたちから逃げ出そうと必死になっている」

「ええ、お兄様。ここから逃げ出せるはずもないのに。どうせ無駄なあがきでしかないのに。何故、人間は無理だと分かっていることに一生懸命になれるのかしら」

 不機嫌そうに頬を染めながらマールートは言った。邪魔をされてすっかりお冠らしい。

「さあ、ボクにも分からない。彼らは努力なんて言葉で己の行動を正当化し、美化しようとしている。まったく訳が分からないよ。でもはっきりとしていることが一つだけある。いっぱいいっぱいあいつらを殺そう。野を駆ける哀れな子羊達を狩ろう。一人残らず首を刎ね飛ばそう。それがボクたちに与えられた仕事だ」

「ええ、お兄様。マスターの命令は絶対だもの。この仕事が終わったら、紅茶を飲んで、それからたっぷりとお風呂に浸かりましょう。ふたりだけの世界を楽しみましょう」

 二人は手の平を重ね合わせた。まるでそれが口づけの代わりだとばかりに体温を溶け合わせた。

「それは名案だね。マールート」

「楽しみにしてるわ。ハールートお兄様」

 少年少女は尻尾を巻いて逃げ出す男たちに微笑みかけた。

 それはこれから死に行く者たちに贈られる祝福の笑み。死神のように巨大な鎌を構え、冥府のように彩られた夜闇を疾駆した。

 無邪気な殺戮者達の狂宴が、敗残者共を混沌の極みへと追いやった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 また別の場所では、敗残兵たちが、何かを匿うようにして洞窟の前に集まっている。

 そこには敗残兵と対峙するようにして――仮面の男がいた。

 そいつは、亡霊のような男だった。

 全身が黒づくめのローブに包まれている様は、この男こそが闇に溶け込もうとしているかのよう。

 腰に設えられた一振りの刀が目を惹きつける。おそらく腰に備えられた刀が、仮面の男の得意とする武器なのだろう。

 表情が一切読み取れない無機質な佇まいと、突け入るだけの隙を感じさせない構え。

 何を考えているのかまるで分からない相手に、兵士たちの間で重苦しい戦慄が実体をともなって支配していた。もしこの男の前で、ほんの少しだけでも瞬きをしようものならば、次の瞬間にはとんでもなく恐ろしい災いが降りかかるのだという恐怖があった。

 そして、仮面に彫られた歪な笑顔が、見るものに不気味な印象を植えつけることに成功している。

 この仮面の下にどんな表情があるかは誰にも分からない。おそらく本人にさえ分かっていないのかもしれない。

「……」

「く、来るな! 来るんじゃない!」

「ここから先は我らの命に代えても通さんぞ!」

 仮面の男を近寄らせないように、必死に槍の切っ先を向けて牽制している。男たちはこの得体の知れない仮面男に、あからさまな恐怖を覚えていた。

 状況から察するに、この仮面の男は、おそらくメタトロンやあの双子の兄妹の仲間だろうか。

 ただ両者と異なる点を挙げるのならば、敗残者共をただ排除しようとしているだけではなく、こいつらが奥で匿っている何かを狙っているようだ。

 両者は互いに睨みあったまま一定の距離を保っている。膠着状態を維持したままどちらも動こうとせず、隙が生まれるその瞬間を探り合っている。

「――どうやらその奥にいるようだな」

 そんな殺伐とした空気を破るように、渋みのある声が聞こえた。

 仮面の男の背後から、一人の老紳士が忽然と現れたのだ。

 立派にたくわえられた顎髭。未だに衰えを感じさせない頭髪。いまいち正確な年齢を測りかねる男。

 いや、それどころかその存在さえ定かではないような、この老紳士を見ているだけで自分が本当にここにいるのかどうかすら不安になってくるような印象があった。この男は本当に人間なのかという馬鹿げた思いすら真実のように思えてくる。

 戦場には似つかわしくないくらい柔和で、それでいてどこか貫禄を感じさせる大人の笑みを浮かべている。どこぞの金持ちの家で、執事でもやっている方がよっぽど絵になりそうであった。

 それにしては余裕たっぷりで、仮面の男とそれを取り囲む兵士たちを交互に見比べている。どう見ても堅気の人間ではない。この老紳士もまた、仮面の男と同様にこちら側の人間のようだ。

 ふいに、仮面の男が前を向いたまま言った。生気の感じられない、冷たい声で。

「……マスター・ミカエル。ご命令を」

 王の命令を待つ忠実な騎士のように。仮面の男が仕える王とは、どうやら後ろにいる老紳士のようだ。

 老紳士――マスター・ミカエルがそれに答えた。

「エージェント『ルシファー』に命ずる。そいつらを始末しろ」

「イエス、マイロード」

 仮面の男――ルシファーが刀の柄に手をかけた瞬間――すでに決着が着いていた。

 稲光が駆け抜けたかと思うと、男たちが細切れの肉片と化し、派手に血しぶきを上げながら崩れていった。

 まさに電光石火の剣技。刀を抜いたことさえ気づかせぬ手際の良さは、まさに達人の域といえよう。おそらく自分達が死んだことにすら気づいていないのかもしれない。

 ルシファーの腕ならば、この場を制圧出来ようと思えば容易に出来ていたはずである。しかし、それを実行に移さなかったのはマスター・ミカエルの命令があるまで待機していただけに過ぎない。この仮面男にとってミカエルは、それほどまでに偉大で信奉に値する存在なのかもしれない。

「今日も見事だな、ルシファー。お前の剣技はいつにも増して冴えを増しているように思うよ」

 ミカエルからの掛け値なしの賛辞に、

「お褒めに預かり光栄です。マスター」

 ルシファーは感情の欠落した声で、淡々とそう答えただけだった。

 相も変わらず無機質で、愛想の欠片はどこにも感じられない。いや、もしかしたら本当に感情がこの男にはないのかもしれない。

 二人は肉の塊と化した兵士たちに目もくれず、洞窟の奥へと進んでいく。

 薄暗い縦穴を進んで、ほどなく二人の目的の物が見つかった。

「やあ、小さな女王様。人の上に立った気分をすっかり満喫できたかい?」

 そこには少女――フレイアが洞窟の隅で震えていた。

 何かから身を隠そうとしているのか、小動物のように小さく縮こまっている。

 かつての大司祭としての面影や威厳は全く感じられない。あちこち泥まみれで、息をすることにすら疲れきったように憔悴している。

「ミカエル……まさかあなたが表舞台に出てくるだなんて……やはり、最初から全て、仕組まれていたことなんですね?」

 フレイアの怒りに震えた声は、誰の目にも明らかな敵意に満ちていた。

 この二人はどうやら知り合いだったらしい。

 当のミカエルは、あごひけを軽く撫でつけながら、何食わぬ顔で人の良さそうな笑みを浮かべている。

「人聞きが悪いな。君は白き災厄の翼に敗北し、黒の教団も壊滅寸前にまで追い込まれた。これが君の力量。君の全てなんだよ。そこに私がつけいるまでの余地はない」

「スタークさんを殺したのはあなたなんですか!」

「はて、たしかにあれはやったのはウチの手の者の仕業ではあるが、私の管轄外で起こった出来事だ。私はスタークという青年のことはよく存じ上げないが、その身に降りかかった不幸は十分同情に値する。お悔やみ申し上げよう」

「あなたはっ……あなたはっ、はじめから私たちを殺す気でいたんでしょう!」

「心外だな。君の先代が倒れ、瓦解しそうだった黒の教団を短期間でまとめあげ、そこから更に発展させたのは誰だ? そして幼い君に指導者としての神格を与えたのは私だということを忘れてもらっては困るな」

「私はあなたの計画のための駒に過ぎなかったということでしょう? あなたがここに来たのは私に利用価値が無くなったから処分しにきたと。そういうことなんでしょう!?」

「君に駒としての価値があると? 自惚れるのも大概にしておくんだな、小娘。君一人だけでは何も成し得ない。そこら辺の子供となんら変わりないんだよ。私たちがここに来た目的は君の遺失物にある。君の遺失物の力は死を蒐集する力。他ならぬ私自身が君に貸し与えた神格だ。そんな大切なモノをずっと貸しておける訳ないだろう。そろそろ返してもらうよ」

「……っ!」

 恨めしげに歯噛みするフレイアに、ミカエルが無慈悲にも最後の言葉を投げかけた。

「さて、これで君の物語はもう終わりだ。役目を終えた役者はそろそろ表舞台から降りてもらわなければならない。――せめてもの情けだ。舞台から飛び降りる前に、何か言い残すことはあるかい?」

 いつの間にかフレイアの背後に、ルシファーが立っていた。音もなく、気配も感じさせることなく、まるで影のようにそこに現れていた。

 気づけば、すでに前後を二人の男に塞がれている。

 もうどこにも逃げ場はない。今や自分は断頭台に乗せられた罪人と同じようなものだ。

 もとより、フレイアは逃げるつもりなど毛頭なかった。

 この二人が直接ここに出向いてきた時点で、自分が助かるなどとは夢にも思っていない。おそらく自分はあの白き災厄の翼を相手に生き残ることが出来た時点で、全ての運を使い切ってしまったのだろう。

 そう思うと、生への未練はすっぱりと断ち切れた。生きることを簡単に諦めてしまった。

 だけど、希望はまだ捨てていなかった。この強大な相手を前に、無力な小娘なりの、精一杯の復讐をしよう。

「……いつまでもこんなことを繰り返してられると思わないことね。あなたたちはいつか必ず滅ぶ。いつか……いつの日か、そう遠くない内に神の鉄槌が降りかかるわ」

 いまわの際に残した少女の呪いの宣告。

 ミカエルは何も言わず、涼しげに鼻で笑っただけだった。

「やれ、ルシファー」

 ミカエルの冷酷な声と共に、閃光が弾ける。

 ルシファーに斬られたフレイアの生首が宙を舞った。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ミカエル達が洞窟を出て、森の中を歩いてしばらく――二人の前に、軍服の女と双子の少年少女が姿を現した。

 メタトロンとマールートとハールートだった。

 森の中で混乱し、逃げ惑っていた黒の教団の敗残兵たちを残らず抹殺し終えてきたところであるにも関わらず、三人は息一つ乱れていない

「ただいま帰還しました。マスター」

 メタトロンが恭しく頭を下げた。

「ご苦労だった、メタトロン。怪我はないか?」

 ミカエルの労いの言葉に、双子が不満そうに頬を膨らませた。

「マスター。ワタシたちも頑張ってきたのに何か一言ないのぉ」

「そうだそうだ。メタトロンばかりずるいよぉ」

「こらっ、うるさいぞお前たち! マスターの御前でギャーギャー騒ぐんじゃない!」

 かっと腹の底から一喝するメタトロン。しかし双子は怯まずに、

「一番うるさいのはメタトロンの声だよ!」

「そうよそうよ。ギャーギャー騒がないでちょうだい! マスターの前でみっともないわ」

「なんだとぉっ! そもそも貴様たちは礼儀というものがなっていないんだ! マスターの御前であるにも関わらず、頭が高いとはどういうことだ!」

 それどころかむしろ余計にやかましくなってしまった。

 ルシファーは三人の諍いを治める気がさらさらないのか、いたって無関心そうに突っ立っている。

 ところが当のミカエルだけは目を細めて、

「皆、よく頑張ってくれた。君たちの協力がなければ今夜の仕事を無事に達成出来なかったよ。ありがとう――メタトロン、ハールート、マールート、ルシファーも」

 と優しい笑顔を浮かべている。気分を害すどころか微笑ましい者を見るような眼差しがそこにはあった。まるで昔懐かしいモノを垣間見ていたかのように、どこか哀愁すら漂わせて。

「ところでマスター。ボクね、一つ気になっていたことがあるんだけどいいかな?」

 おずおずと手を挙げるハールートの声で、ミカエルの思考が中断された。

「なんだい、ハールート?」

「あのさぁ、一つだけでもいいから死体を持って帰っちゃダメかな?」

「ダメだよ、ハールート。それはここに来る前に散々話していただろう」

「えぇー! ダメなのぉー? たったの一人だけでも?」

「何故ダメなのか。理由を覚えているかい?」

「……生贄。儀式を行うためには大量の血が必要なんでしょ?」

「そうだ。私たちの組織の目標にはたくさんの血液が必要とされている。一人でも二人でもそこから欠けてしまうと、それだけ私たちの計画に狂いが生じてしまう可能性があるということだ。グループで何か大きな事を成し遂げるためには、一人一人の思いやりが必要とされている。君だけのワガママを優先してしまうと、それだけ他の者に迷惑をかけてしまうことになるんだ」

「……ごめんなさい、マスター」

 目に見えてしゅんとするハールートに、

「落ち込まないで、お兄様。家に帰ったらワタシがたくさん遊んであげるから。ね?」

 マールートが励ましの声をかける。兄を慰めようとする妹の瞳に、何か含まれたモノがあるのをミカエルはすぐに察して、

「マールート。ポケットの中に隠してあるものを出しなさい」

「えっ、どうしてそれが!? ……じゃなくてっ、ななななな何にも隠してなんかいないんだからねっ!!」

 いきなり虚を突かれたマールートがぎょっと振り返った。

「君がポケットの中に、成人男性の指を五本も隠して持っているのはお見通しなんだ。いいから早くそれを出しなさい」

「てへっ、ばれちゃってたかー。流石マスターね。いい目をしてる。……これを使ってお兄様と、おままごとをしたかったんだけど、仕方ないわね」

 悪びれることもなくちろっと舌を出しながら、ポケットの中に隠していた指をマスターに差し出した。ご丁寧なことに親指(お父さん)人差し指(お母さん)中指(お兄さん)くすり指(お姉さん)小指(赤ちゃん)がきちんと切り揃えられている。兄以上に、なかなか抜け目の無くてちゃっかりした少女である。

 メタトロンが双子に対して何かを言いたくてたまらないという顔をしていたが、それを必死に飲み込むと、

「マスター。我も今回の作戦のことで質問してもよいだろうか?」

 と訊いてきた。怒りよりも疑問が勝ったらしい。

「いいよ。メタトロン」

「何故シェラハザードだけが待機なんでしょう? あいつがいれば今回の殲滅戦は容易に事が進んだはず。いや、むしろあいつの力ならば一人で終わらせることが出来ただろう。我々がわざわざ前線に出てきて、誰かに姿を見られるかもしれないリスクを冒してまで、やる必要があったのでしょうか?」

 シェラハザード――その名は、彼らの属する組織の構成員の一人である。ようするに彼らの仲間だ。

「お前は、シェラハザードの力を正しく理解していない」

 亡霊のように低く、くぐもった声が遮った。それまで沈黙を保っていたルシファーがふいに口を開いた。

「何だと?」

 メタトロンが聞き返した。

「殲滅なんて生易しいものではない。あいつの力は強大で、あまりにも無差別すぎる。おそらくここにある死体だけでは飽き足らず、プラネテューヌもこの世から残らず消えていることだろう。それでは意味がない。だからこそ我々が出向いて死体を用意する必要があった。我々の目的は殺戮に在らず。血の採取に在る」

「――まるで見てきたような物言いじゃないか。ルシファー」

「……」

 メタトロンの問いに、ルシファーは何も答えなかった。

 その表情は顔を覆い隠す仮面のせいで何も読み取れない。

 しかし仮面の奥から、無言の笑い声が聞こえてくるようだった。絶望だとか苦痛だとかそういったモノに喜びを覚えているような、そういう類の叫びを。もしかしたら、この亡霊のような男こそが破滅を望んでいるのかもしれない。

 つくづく気味の悪い男だった。

「ルシファーの言うとおりだ。シェラハザードの力は今回の作戦においては不向きだ。だから私は彼女に待機を命じた。今の時期にプラネテューヌから犠牲者を不用意に出すことは好ましくない。最悪の場合、ルウィーや白き災厄の翼に我々の存在が気づかれる可能性がある。避けられるリスクは避けておくに越したことはない」

 ミカエルが懐中時計を取り出した。なんだか古びたデザインである。外装だけの問題ではない。内部の機構が壊れて動かないのではないかと不安になるくらい針が錆びついている。

「もうすぐ夜明けだ。これ以上のんびりしていると誰かに感づかれてしまう恐れがある。これより、計画はそろそろ最終段階に突入する。各自――散会せよ!」

 ミカエルの合図と共に、四つの影は音もなく一斉に消えた。ついさっきまで騒がしかったのが嘘のように。重たい静寂が横たわっていた。

「七賢人も大概だが、相変わらず騒がしいな。お前のところはよ」

 さっきの四人と入れ替わるようにして、クロワールが虚空から姿を現した。

「やあ、君か。見ていたのなら声を掛けてくれればよかったのに」

 ミカエルは特段驚いた素振りを見せることもなく、親しげなふうにこの人工妖精を出迎えている。

「やだよ、お前の手下と顔を合わせんのはめんどくせぇからな。オレもレイのやつを回収しなきゃいけなかったし、色々疲れてんだよ。まったく……あいつ少しは痩せろよな」

「こんな嵐の中、ご苦労なことだ。君もレイもよく働いてくれた。おかげでこうして何の滞りもなく滅びを回収できた」

「今のところ全てお前の筋書き通りってわけかい、ミカエル?」

 クロワールの言葉に、老紳士は渋みのある笑みを浮かべた。

「いいや、違うよ。私一人では筋書きなんてとても成り立たない。私と君があっての物語だよ、クロワール。君のおかげで、歴史が動く瞬間に立ち会えているという実感があるのだから」

「おっと、それはこっちのセリフだぜ。なんせ、お前のおかげでやっと世界が面白おかしくなろうとしているんだからな」

 ケケケッと満更でもなさそうに笑い声を上げた。イストワールと同じ人工妖精と違い、子悪魔的なイメージが近いのは何故だろうか。

「これで血はそろった。そろそろ最後の仕上げに取り掛かるとしようか」

 ミカエルは古びた懐中電灯のフタを開いた。それこそがギミック起動の合図だった。

 小さい針が狂ったように回り、それが一回転を終えるたびに大きい針がつられるようにして少しづつ動き出していく。

 実を言うと、これはフレイアから奪ったモノである。正確にはミカエルがフレイアに貸し与えていただけなのだが。

 それは死を蒐集する遺失物――

 彼らが便宜上そう呼んでいるものだった。

 時計の動力源は死。たくさんの生命。膨大な時間――

 つまり戦場で倒れる死体と流れ出る血こそ、まさにエネルギーそのもの。

 そう――今まさに大量の血液が吸い込まれていくことで、懐中時計が動いているのだ。

 大きい針が回ることで血液が入っていくのを示しており、小さい針が回るとそれは最大許容量が一メモリ進んだことを意味する。

 時計が示す文字盤は全部で12。

 そして現在、大きな針が指し示す時刻は10時――

 ミカエルは満足そうに口元に深い皺を刻みつけた。

 小さい針があと2メモリ動けば12時へと到達する。

 それが何を意味するのか。また、そうなったときに何が起こるのか、未だ彼らにしか分からない。

「後で必ず迎えに行きます。それまで今しばらくお待ちください。――お嬢様」

 マスター・ミカエルはまたしても哀愁のこもった目でそう言ったのだった。

 それが誰に向けられた言葉かは――神のみぞ知る。

 


 
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