No.630383

神次元ゲイムネプテューヌV ~WHITE WING~ (9) 覚醒

銀枠さん

遅れました。あともう少しで終わります。よろしくお願いします。
長すぎたので分割しようかと思いましたが、アレな描写を削ってひとつにまとめることができました。ほんとは全部公開したかったのですが、まあ未公開シーンがあるよ! ということで(笑)

※これは現段階ではいまだ未定ですが、今年の冬コミに出すネプ本を委託販売するかもしれません。そのときはまた連絡させてもらうのでよろしくお願いします!!

2013-10-22 11:48:17 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:1720   閲覧ユーザー数:1602

(9)  覚醒

 

 

 

 

 

 

 プラネテューヌ――西の遺跡

 

 時は夜。

 黒々とした黒雲がすっかり月を覆い隠してしまっている頃。

 プラネテューヌから遠方にあるここ。暗闇に染められた遺跡――その最深部に、三つの影があった。

「そ、そんな……私達が束になってかかっても全く歯が立たないなんて」

「つ、強い……強すぎる」

 倒れこみ、苦しげに喘ぐ二つの影。ノワールとネプテューヌのものだ。全身が傷だらけでなんとも痛ましい姿であった。

 それを傲然と見下ろす影。

「つまらん、その程度か」七賢人の一人マジェコンヌが言った。「もう少し楽しめると思ったが、それも無理はないな。この姿の私を見て、生きて帰った者は誰一人としていないからな。少し興ざめの結果ではあるが……なあ、ネプテューヌ」

 地面に横たわるネプテューヌの腹をぐりぐりと抉るように蹴った。

「どうしてお前なんだ。いや、どうしてお前だったんだ。なぜお前の存在がこんなにも私をいらつかせる? お前がそこに在るというだけで私がここまで苛つかなければならないんだ。なぁ!?」

「し、知らないよ。そんなこと言われても答えられるわけが……」

「こんなことを言うのも実に馬鹿げているが、あえて言わせてもらおうか。お前と私はこうなるより以前に、どこかで会ったことがある」

「も、もしかしておばさんってサイコパスだったの? 七賢人でありながらサイコパスだなんてどんだけキャラ濃くしたら満足するのさ」

「うるさいっ、私の足元でピーピーピーピー喚くんじゃない!」

 苛立ち混じりのマジェコンヌの蹴りが腹部へ飛んでくる。

「ぐふっ」

「お前はホントにムカつくな。人をムカつかせる天才だといってもいい。さあ、答えろ。私のムカつきの正体を。お前が知っていること全部話して――」

 そこでマジェコンヌの言葉が途切れた。

(む、背中を刺し貫くようなこの悪寒――殺気か!)

 何かに気づいたように顔を背後に巡らせ、こっそりと忍び寄ってくるノワールの姿をそこに認めた。

「うあぁぁぁぁっ!」

 ノワールが叫び声を上げながら片手剣を振り下ろした。

「貴様ァ! それで気づかれていないと思ったか!」マジェコンヌが勢いよく振り返った。「私には見えているぞぉ!!」

 ノワールの片手剣めがけて豹のようにしなやかな四肢を伸ばした。鉄さえも軽々と粉砕してのけるその一撃。ノワールの剣は紙細工のように真っ二つに吹き飛んでしまった。

「くっ、私の剣が……」

「私の注意がネプテューヌに逸れている隙をついて、背後から不意をつく作戦に打ってでたか」がっしりとノワールの腕を押さえつける。「どうやらお前は多少頭がキレるようだな。窮地に追い込まれているにも関わらず、移りゆく戦況を冷静に分析する観察感がある。だがな、この私にそんな手が通用すると思ったか、この間抜け――ッ!!」

 頬に鋭い平手打ちがかまされ、ノワールは地面に叩きつけられてしまう。

「ノワール!」

 ネプテューヌが叫んだ。

「くっ、強い。……こいつ強すぎるわ」

 苦しげに地面にのたうちまわりながらも声を発するノワール。なんとかまだ意識はあるようだ。

 ここから逃げ出そうにも出入り口はマジェコンヌの魔術によって塞がれてしまっている。二人はもうまともに立ち上がる体力すら残されてない。まさに万事休す。絶体絶命の到来であった。

「まったく、ノワールったらいつも肝心なところでしくじるよね」

「う、うるさいわね。ネプテューヌの方こそ、もっと敵の注意をちゃんと惹きつけなさいよね!」

 危機的状況であるにもかかわらず、緊張感のない言い争いをはじめる二人にマジェコンヌが苛立ったように眉間をひくつかせた。

「もう少し楽しむつもりだったが、気が変わった。今すぐにでも貴様達をズタズタに引き裂いてやるっ!!」

 狙いをつけてまさに飛びかかろうとしたその瞬間――

 ぱぁんっ、と鼓膜を割るような破砕音が鳴り響いた。

 出入口を塞いでいた岩盤が、何者かによって粉砕されたのであった。

「な……あれほどの質量を破壊しただと?」

 マジェコンヌが驚きに満ちた表情で立ち尽くしているその前で、轟々と立ち込める粉塵の向こう側から一人の女が現れた。

「あらあら。ネプちゃんとノワールちゃんったらみっともないわねぇ。まるでボロ雑巾みたい」

 そこに現れたモノに、びりびりと肌が震えるのを感じた。藍色の長髪をなびかせながら、露出のきわどいボンテージ姿。自らの身体をきつく縛り上げるという、とんでもない異様に禍々しくてどぎついオーラが周囲に伝播されていくのをこの場に居合わせた者ならば全員が感じとっていたことだろう。

「なんだ貴様は……!」

 マジェコンヌが呻いた。突然の闖入者に驚きと苛立ちを露にしている。

「あたしぃ? あたしはぁ、プラネテューヌの女神よぉ~」

「プラネテューヌの女神だと?」

「あたしには一応プルルートとかいう名前があるけどぉ、この姿ではアイリスハートと名乗らせてもらってるわぁ」

「アイリスハート……だと?」

 驚きながらも成る程、合点がいった。岩盤の向こう側に分断されていたはずの女神の仕業だとすれば一連の行動にも頷ける。女神ならば岩盤など容易く破壊できるだろう。

 しかし、マジェコンヌは信じられなかった。こいつがアレと同一人物であると。あの人畜無害でほわほわおっとりとしたあいつに、何があったらこうまで見た目が変化するというのだろうか。いや、見た目だけではない。身にまとう雰囲気もそうだ。

(こいつ、本当に同一人物なのか?)

 それほどにまで、目の前にいるそいつの姿はあまりにもかけ離れすぎていたのだ。

 だが、アイリスハートと名乗ったそいつが手に掲げたそれを見せられて、否応なしに認めざるを得なかった。

「これってあなたの仲間だったわね~? なんか汚いドブネズミの分際であたしに触って来ようとするからぁ、お仕置きしちゃった~」

 そう――彼女の手には、ボロ雑巾のようにズタズタになったでかいネズミの姿があったのだ。

「くそっ、ネズミのヤツ。しくじったのか!」マジェコンヌが憎悪に口元を歪めた。「……まあいい。こうなれば私が決着を着けるまでだ」

 身構えるマジェコンヌの後ろで、二人がおたおたと取り乱している。

「あわわわわわ。プ、プルルートが変身してるだなんて……!」

「ちょ、ちょっとノワール。落ち着いてよ」

 本来ならば仲間のピンチに颯爽と助けに現れたプルルートに感謝を覚える場面であるにも関わらず、ノワールのこの異様な怯えようときたら尋常ではない。

 いや、ネプテューヌにもなんとなくだが分かった。アレは手放しに喜べるようなモノではないと。気分次第では周囲を巻き込みながら突き進んでいく災害のようなモノと何ら変わりない。たとえネプテューヌ達でさえも、アレの機嫌を損ねるようなことがあれば……その先は恐ろしくて想像のしようがない。まさに人の手には制御不可能な最悪の到来であった。

 イヴとノワールが以前、プルルートが変身しかけたときすごい反応を見せたのでずっと不思議に思っていたのが……アイリスハートの姿を見ればそれも納得である。

 ネプテューヌは知っている。女神は女神化したとき、姿が変わることを。女神によっては姿だけでなく性格すら別のものに豹変してしまうということを。自分がこの世界を訪れる前はそれが当たり前だった。だから、おそらくプルルートもその類なのだろう。

「ネプちゃーん、ノワールちゃーん。ちゅうも~く」

「は、はひっ!」「な、なんでしょうか!」

 びくりと身を震わせる二人に、アイリスハートが楽しげに頬を染める。

「二人が欲しいものってこれだっけぇ~?」

 そう言ってアイリスハートが取り出したのは、銀色に輝く結晶体であった。

 あの輝きこそ二人が喉から手が出るほど求めていたモノ――

「「女神メモリー!?」」

「ええ、そうよ~。もちろんノワールちゃん達の頼みとなれば、これをゆずってあげないことはないけどぉ――ひとつだけ条件があるわぁ」

 ぞわっと全身を舐め回されるような悪寒に取り付かれた。いやな予感しかしない。

「なんでも、あたしの言う事を一つだけ聞く。それが条件よぉ」

「……と、言いますと、わたし達、一体何をされてしまうんでしょうか?」

「さあ? あたしにも何が起こるか分からないわ。きっとあんなことやぁ、こんなことがぁ起こると思うわぁ」

「さ、さいですか」

「さあ、選びなさい」アイリスハートが指を立てた。人差し指と中指を。「ここでボロ雑巾のように野垂れ死ぬか、それともあたしの言う事を聞いて助かるか。二つに一つよ」

「……本当は三つに一つだけどね」

 ノワールが躊躇いがちに言った。まだ侮ってはいけない。女神への素質がない者は醜い怪物になってしまうのだという噂がある。

 もし自分達に素質がなければどうなるか……たちまち醜悪な姿へと変わり果ててしまうのだから。

「細かいことをいちいち気にしないの」

「こ、細かいことって」

「大丈夫よぉ、あたしならネプちゃん達がたとえ怪物になっても、ずっと可愛がってあげるわぁ」

「……」

 アイリスハートの視線からそら寒い何かを感じた。正直怖くて直視できそうにない。

 一体どんなことをお願いされてしまうのか。彼女がもたらす約束の結末は未知数である。天国か地獄か。賭けとしてはこの上ないリスクを背負い過ぎるといってもいいだろう。

「……分かった。分かったよ」ネプテューヌが頷いた。「約束する。わたし、ぷるるんの言う事を何でも聞くよ!」

「ちょっ、えええええええええ!?」ノワールが驚きの声を上げた。「ネ、ネプテューヌ。そ、それは本気で言ってるの? いつもみたいにノリとテンションだけで決めてるんじゃないでしょうね!」

「ノワール。それはいくらなんでも心外だよ。わたしだって考えるときはちゃんと考えてるよ! この状況、どう見ても後にはひけないよ!」

「あなたはあの状態のプルルートの恐ろしさを知らないからそんなことが言えるのよ! ああなったプルルートはね、冗談とか絶対に言わないんだから!」

「ノワールはさ、自分だけの国を作りたかったんじゃないの? ほら、絶好のチャンスってやつが目の前にかま首もたげて転がってるよ。きっとこの機会を逃したら二度と巡ってこないかもしれないんだよ。それでもいいの、それでもいいの?」

「……上手い話には裏があるのよ」

 この条件、ブラック臭がプンプンである。むしろない訳がない。

 しかし、選択の余地が残されていないこともまた明白である。

「オーケー。交渉成立。あぁ、楽しみだわぁ。どんな恥ずかしいことをお願いしようかしらぁ」

 アイリスハートは満足そうな笑みを浮かべている。その笑みの裏側に得体の知れない光がぎらついたのを見て、二人は背筋が震え上がった。もしかしたら一番ブラックな選択をしてしまったのかもしれない。

「貴様達、この私を無視して盛り上がるとはいい度胸だな」

 マジェコンヌがギリギリと歯を軋らせている。会話が落ち着くまでちゃんと待ってくれるあたり律儀というか、真面目というか正々堂々としているというか。

 いや、違う。ここで不意を衝くなどという姑息な手段にうって出なくとも、十分にこの場を制圧できるという自信があるからこその落ち着きなのだろう。

「へぇ、面白いこと言うわねぇ。おばさん、たしか七賢人の一人とか言ったわよね」

 全身から鋭い殺気をみなぎらせるマジェコンヌに怯むどころか、挑発するような笑みさえ浮かべて歩み寄っていく。

 敵を前にしているにもかかわらず、その堂々とした足取りは、ランウェイを自信満々に歩くトップモデルのようである。

「時々、ウチにあなたの身内が来て小鳥のようにピーピーピーピーさえずるのよね。たしか、名前はなんていったかしらぁ。アブなんとかっていうあの金髪の女の子。ようじょがどうとか、うるさくてうるさくて耳障りでたまらなかったわぁ。オバサン、あなたに恨みはないけどぉ、あの子のかわりにイジメてもいーい?」

「……あえてもう一度言わせてもらおう。――この姿を見たからには、生きては帰さん!」

 マジェコンヌがアイリスハートめがけて飛びかかろうと距離を詰めたそのとき、足元にビリビリと電流が駆け巡った。

「む……電撃だと?」よろめきぐらりと膝をついた。「何だ、これは!」

「簡易だけど電撃の魔法陣よ。ネプちゃん達と話している間に、こっそりと仕込んでおいたのよぉ~」アイリスハートが横目でちらりとネプテューヌ達に目配せをしながら女神メモリーを宙に放った。「ほぉら、ネプちゃんとノワールちゃん。使うなら今のうちよ。あまり長くは足止めできないからね」

「え、ええええええええええええっ!? ひ、卑怯だ! 卑怯すぎるよぷるるん! 敵だってわたし達のことを待ってくれてたんだからさ、こっちだって正々堂々としてようよ!」

「あたしはぁ、ねぷちゃんとノワールちゃん達の恥ずかしくて、あられもない姿が見られればなんだっていいのよぉ~。……それにイヴちゃんが大変なことになってるんでしょう? なら、こんなところで時間をいつまでもかけていられないじゃなーい」

 呆気に取られる二人の前に、女神メモリーがころころと転がる。

 魅惑的で蠱惑的な光。蛇が出るか鬼が出るか。手にしたモノをまとうのは栄光か失墜か。その輝きがもたらす力は誰にも計り知れない。

 もしかしたら自分達は決断を誤ったのかもしれない。ネプテューヌは力強く拳を握り締めた。だけどもう選んでしまった以上、後には引けなかった。

「……ええい、ままよ!」

「ど、どうなっても知らないんだからね!」

 二人は女神メモリーに真っ向からぶつかるようにして手を伸ばした。

 そうして二人を中心に、目も眩むような目映い光に包まれた。

 二人が掴み取ったモノは――

 

 

 

 

プラネテューヌ――東側にそびえる丘

 

 

 ここ、プラネテューヌでは、黒々とした積乱雲が獣のような唸りを上げながら紫の大国に巨大な顎をかまげていた。

 激しい暴風雨が吹き荒れる中、一人の少女が丘のてっぺんに立ちながら、憂いに満ちた目でプラネテューヌをじっと見つめていた。

「《遺失物(ロストメモリー)》との接続の断裂を確認。ハザウェイさんの反応が消失しました……」

 黒の教団大司祭、フレイアが嘆息するように吐息をもらした。

 肩書きこそ異質であるが、その見た目はどこからどう見ても十代の少女である。彼女が荒くれ集団を統括する立場だと言われても、とても信じられない異様なものがあった。

「やはりこうなってしまいましたか……」

 ぎゅっと震える手で手のひらを握り締めた。司祭達に《遺失物(ロストメモリー)》という奇跡を植え付けたのは他ならぬ彼女本人の手によるもの。例えるならそれは自分の身体の一部を分け与えるようなものだった。だからこそ使い手の状態と状況を《遺失物》を通して逐一知ることが出来る、いわば発信機のような用途である。《遺失物》が彼らと共にあり続ける限りは。しかし今、その一つが、ハザウェイの右腕に植え付けられた《遺失物》との接続が完全に断ち切られてしまった。すなわちハザウェイのみにおそらく何かが起こったとみてもいいだろう。

 フレイアは密かに苦悩していた。プラネテューヌへの進出は早計だったのではないかと。

 女神をひとり残らず駆逐し、世界を再び人の手に取り戻す。マジェコンヌの口車に乗った形であるとはいえ、それは一族の悲願だったことに変わりない。

 何かを得るには代償がつきものである。今回の戦争で犠牲者が出るのを少なからず覚悟はしていた。しかし実際にこうして死を実感してしまうとやりきれないものがある。

「――っ!?」

 ふいに、ぴりっと脳内に電流が走った。灼けるような痛みに頭を押さえながら、驚愕に肩を震わせた。

「そんな……まさか、ありえません」

 信じられないモノを目撃したかのように表情をこわばらせ、眼球を落ち着きなく蠢かせている。

「スタークさんの反応まで消えるだなんて……彼は留守番をしていたはずなのに、一体何が?」

 おそるおそる、自分達の聖地がある方角を仰ぎ見た。激しい暴風雨が吹き荒れているため、視界は良くない。だが雨にも風にも負けず、懸命に目を凝らしてみれば、遠目にも白煙がもくもくと立ち昇っているような気がした。

「まさか、一万年前の怪物が再来したというのですか? あの国には本当に《白き災厄の翼》がいるというのでしょうか?」

 そんな馬鹿げた話があるわけない。なんせあれは一万年も昔のおとぎ話で、カビが生えてしまうくらい鮮度が古く、そもそもその内容も一笑に付してしまうような与太話である。しかしそれが他ならぬ彼女達の先祖が一族のみが抱える闇の歴史として後世にまで語り継いでいた。壁画という大きな絵本という形で、誰の目にも触れられるように刻み付けられているということ。それが問題だった。

 これから自分はどうすればいいのだろう。このまま自分がプラネテューヌに総攻撃を仕掛けて一気に畳み掛けるか? いや、《白き災厄の翼》の力が未知数な以上、本丸である自分が迂闊に動くのは得策とはいえない。仮にも相手は黒の教団が誇る司祭をこの短時間で二人も倒してのけている。もちろん自分の力が司祭どころか女神の力すらも遥かに凌駕しているという自信はあるが、それでも絶対に勝てるという確信はない。相手が伝承で語り継がれているあの《白き災厄の翼》なら尚の事。

 それともプラネテューヌに攻め入ったマイザーの軍隊を呼び戻して聖地へ帰還するか? いや、それもダメだ。スタークが命を落とした今、聖地への道は閉ざされてしまった。まさか門番の命を優先した結果が裏目に出てしまうとは誰が想像するだろうか。門番が失われ、帰り着く手段は水泡に帰した。それに黒の教団がこうして表舞台に上がってしまった以上、引き返すことなど許されないのだ。

 繁栄か滅亡か。

 何かしらの戦果をこの戦いで上げない限りは、自分達に明日はない。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際を強いられていた。

「私が生まれて間もない頃から、お爺様に寝物語として聞かせられたおとぎ話が、今こうして現実のモノとなってしまうだなんて……」

 フレイアはおもむろに頭を振った。まるでそこにいる誰かに語りかけるかのように宙へとせわしなく視線を走らせている。

「いいえ、覚悟はしていました。一族を束ねる大司祭になったあの日から、いつかこのような日が来るのではないかと。……だけど、情けないことに私は怯えきっています。一族の因果を前にして、子供のようにどうしようもなく震えています。たかだか10年程度の時を生きただけの私が、一族の役目をまっとうできるというのでしょうか?」

 懺悔するように両手を合わせ、大地に膝をついた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。私にはとても……重いです。怖くて怖くて、重圧に耐え切れず、押し潰されてしまいそうです」

 震える自分の身体を必死に抱きしめた。ただ、フレイアにはそれだけしか出来なかった。自分が死んでしまうことよりも、一族の悲願を果たせないというその事実に恐怖し、絶望に打ちひしがれてしまった。

 こんなみっともない格好を見られれば、誰もが不安がるだろう。士気の低下に繋がる。それだけは避けなければならない。

 普段から気丈に振舞っている分、その反動がきたのだろう。彼女はこれまでその幼さに見合わずしっかりと一族を纏め上げていた。それもひとえに一族の頂点に立っているという覚悟と、自覚と自責の念によるものだったし、それが年相応以上に彼女を成長させている原動力であった。しかし、直面したこともないような大いなる危機によって彼女の心の均衡は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。四司祭の内、二人が生死不明。聖地崩壊の危機。そして《白き災厄の翼》再来。どこで運命が狂ってしまったのだろう。自分達はまだ国力が十分に整っていない弱小国を陥落させるのではなかったのか。

 そのとき――

(フレイアよ。顔を上げなさい)

 ふいに声が聞こえた。しわがれた老人の声がどこからともなく響き渡ったのである。

 すっかり慣れ親しんだ声に、フレイアは言われるがままそっと顔を上げた。その頭上をふっとやわらかな風が通った気がした。まるでフレイアの頭を優しくなでるように。

 そこにはフレイア以外に影も形も見当たらない。だが、たしかにその声はフレイアの心に届いていた。

(まさか我らの聖地への侵入が許されるとはな……許してくれ、フレイア。お前に一族の悲願などという血生臭い因果を背負わせてしまって)

 老人の見せた優しさに、フレイアは驚きに目を見開いた。

「……お爺様? なぜお爺様が謝るのですか?」

 てっきり自分を呪う罵声や叱責の数々が飛んでくるのだとばかり思っていた。何故なら自分は一族の期待に答えられなかった親不幸者だから。

(お前はよくやってくれたよ。これまで、その若さで実に素晴らしい働きをしてくれた。一族の頭としての責任や重圧に臆することなく、一族を正しく導いてきた。お前は間違いなく、一族の中でも最高の才能と素質を持った子だ。我ら黒の教団の誇りであり、同時に自慢の孫娘であった。だが、お前はまだ若すぎる。今まで上手くいっていたように見えても、すべてを背負いこむのは到底無理があったんだ)

 そこでフレイアは気づいた。自分を気遣う優しさばかりではなく、老人の言葉には深い哀惜が込められていたことを。

(だが、ワシはお前が優秀であることが内心不安でたまらなかった。お前がどんな難解な試練をこなすたびに、無理をさせているんじゃないかと思っていた。ワシの勝手な期待と希望を押し付けて、お前を疲弊させているのではないかとずっと後悔していた。どうやらワシの存在はお前に必要以上の負荷をかけていたみたいだのう)

「そんな……お爺様は悪くありません。むしろ謝らないといけないのは私のほうです。一族の因果から――いいえ」フレイアは首を振った。「私の役目から目を逸らしてしまってごめんなさい。誰がとか、そういう些細な問題じゃなくって、これは私が果たさなければならない試練なのに。私ったら泣き言ばかりいってお爺様を困らせてしまってる」

(フレイア……)

「お爺様。私はもう逃げたりなどしません。運命に立ち向かいます。……だけど、許されるなら一つだけワガママを申してもよろしいでしょうか?」

 フレイアは立ち上がった。決意に燃える瞳で虚空を見つめていた。先ほどまでの迷いや臆病な心が嘘のように吹き飛んでいた。

 ひどく満ち足りていた。ただ、そばで自分を見てくれる誰かがいるというだけで。包み込んでくれるような安心感に満たされていた。

「どうか、私の晴れ姿を見守ってください」

(ワシ達はいつでもお前のことを見守っているよ。今までがそうだったように。そしてこれからもそれは変わらない。お前が望むならば、お前の号令一つでどんな敵にも立ち向かっていくことを誓おう)

 フレイアの瞳に、無数の人影が浮かび上がった。そこに現れたのは古代の英霊の姿であった。黒の教団が誇る司祭や歴戦の兵士などさまざまな顔ぶれがそこにあった。いずれも槍や刀剣や弓矢で武装しており、厳めしい面構えの屈強な男達が一様に立ち並んでいる。彼らはただ見届けようとしていた。現代の大司祭の覚悟と決意の程を。そして仕えるべき主君の器を見定めるべく、ただ静かに固唾を飲んでいる。

 老人の声に、フレイアはゆっくりと頷いてみせた。

「はい、私は絶対に負けません。役目を果たすそのときまで、この身はあなた達の気高き魂と共にあると誓います。故郷が奪われたなら奪い返せばいい。それだけのことです」

 英霊達が喝采を上げた。地を揺るがすような歓喜の雄叫びを。それは主君の下した決意に、不変の忠誠を記す儀式。

「女神に裁きの鉄槌を! 正義の剣を掲げよ! 我ら雷となりて彼の国を焼き尽くして進ぜよう!」

 激しい喧騒の中、老人だけが穏やかな顔で佇んでいた。

 

(ワシ達は、お前と共にある)

 

 

 

 黒の教団の司祭の一人であるゴースは、自分たちを取りまとめる大司祭フレイアの不思議な行動に前々から気づいていた。

 前大司祭であった老人が病で病床に臥せったため、幼くして大司祭という地位に就いた彼女に当惑の目が一族の者達から向けられた。

 フレイアはあまりにも幼すぎた。当然である。

 しかし、それもすぐに杞憂となった。彼女には先を見越す目があった。

 外見の幼さに似合わず、卓越した観察眼と統率者としての度量と器量による大人顔負けの手腕を発揮。彼女こそ次期大司祭であると大人たちに無理やり納得させてしまったのだ。

 そんなフレイアには謎があった。

 彼女は独り言が妙に多い。何もない空間に向かって微笑みかけたり、誰もないない場所に語りかけてみたりと。ゴースだけでなく皆がフレイアの癖に気づき訝しんで噂していたものだが、結局それがなんなのか誰にも分からずじまいであった。

 そしてゴースが大司祭の下に趣いたそのとき、皆から噂される奇行の真っ最中に出くわしてしまったのだった。

「あれ、ママぁー。だれとおはなししてるのぉー?」

 身の丈がざっと2メートル後半くらいあるだろう男が、ぼっちゃりとした幼い顔に疑問を貼り付けている。

 誰もがその光景を見てしまったとき、必ずそう問いかけた。誰と会話をしているのかと。けれども、

「私達のご先祖様にお祈りをしていました」

 と、決まり文句のように微笑み返されてしまうのが常であった。

「あれあれ? でもぉー、誰もいないよぉー」

「いいえ、彼らはそこにいますよ。いつでも、どんなときでも。私たちを見守ってくださっております」

 そうしていつものように、誰もいない虚空に向かって穏やかな表情を向けるのであった。曰く、先祖の言葉に耳を傾けることで先を見越す力が身につくのだということらしいが、その真意は誰にも理解できたためしはない。

「ふぅーん。よくわからなぁーい」

「さあ、ゴースさん。私達も向かいましょう」虚空からゴースの巨体に向き直る。「マイザーさんの応援に行くのです。もう誰も死なせてはなりません」

「はぁーい」

 ゴースは相も変わらず訳の分からなそうな顔をしていたが、諦めたようにしゃがみこんでフレイアを肩に乗せた。

 ずしりずしりと地響きを響かせながら、紫の国へと大人しく足を運んでいく。

 大司祭フレイアの力がどんなものであるのか、知る者は一人としていない。

 

 

 

プラネテューヌ――東部・黒の教団/野営地

 

「マイザー様! 大変でございます!」

 戦況の偵察に行かせていた兵士が慌てふためいた顔で、マイザーの元に駆け込んできた。

「どうしたのです?」

 即席で作ったイスに寄りかかっていたマイザーが気怠そうに身を起こした。

「そ、それが……私も何が大変なのかをどう説明すればいいのか分からないものでして」

「落ち着きなさい。儲け話を逃したくなければどんな想定外のアクションが起こっても決して取り乱してはいけません。風の流れを読むように、落ち着いて状況を明瞭に分析すること。これは全てのビジネスの基本です。慌てもいい事はない」

「あ、あれはあまりにも尋常ではありません。我らが率いる魔物部隊が足止めをくらっているのです」

「足止め?」

「はい。全軍、東門の真ん前に立ち止まってそこから進撃を開始しようとしないのです」

「魔物よけか? いや、たしか、プラネテューヌを取り囲んでいた《聖水(ホーリーボトル)》の木は効力を無くしていたのですよね?」

「はい、司祭ハザウェイの《滅火砲(メギド)》の余波を喰らい、丁度東門を覆っていた《聖水(ホーリーボトル)》の木は燃え散りました。我が軍が滞りなく進軍できる程の広さを確保出来たのですが……」

「なんだ、順調ではありませんか。それがどうしたというのです?」

「あ、あいつが現れたんです」

「あいつ? あいつだけじゃよく分かりません。もうちょっと分かるようにハッキリ言いなさい」

「あ、あいつが《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が出たんです!」

「……《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が?」

 マイザーは眉をひそめた。

「ぜ、前線は混乱し、たった一人の敵にかき乱されています。悪い夢でも見させられているかのような光景でした。あ、あれはもう戦争なんかじゃありません、一方的な虐殺です……っ!」

「ふむ……」

 マイザーが難しい顔つきで顎に手を当てた。

 彼はハザウェイとイヴによる戦いの一部始終を見届けていた。わざわざ自分が赴かなくとも、てっきり兵士をそこにぶつけさえすれば良いと思っていた。しかし戦うだけの力は残されていないと踏んでいた相手が、どういう訳か未だに生き残っている。どうやらあの身体でも動き回っているということ。

(少々、敵を過小評価していたようですね。目の前に利益に目がくらんで冷静な思考が取り戻せていなかったようだ)

 深い溜息を付いた後、マイザーは椅子に深くもたれかかった。

「どうやら、私が出るしかないですようね」

「マ、マイザー様!? 今、なんと」

「この私が自ら赴くと言ったのです」

「お、おやめください! あ、あなた様の身になにかあれば私は……」

「そこをお退きなさい。これは私が決めたことです。それに背くのであればお前をこの場で処刑するのもやぶさかではありませんよ」

「ぐ、ぐぐ……」

「それとも、あなたは黄金の山を前にして落ち着いていられるのですか? 私には無理です。野心なくして頂点に登り詰めるなど夢物語に過ぎない。ならば、掴み取ればいいだけだ。自分だけの《黄金(ゆめ)》を!」

「は……そ、それなら。せめて護衛をお付け下さい」

 マイザーは帽子を深くかぶり直しながら、側で待機していた《魔物使い(ビーストテイマー)》を二人呼びつけた。《魔物使い(ビーストテイマー)》がつれる二匹のワーウルフをちらりと一瞥してから、ふとその二匹の耳がぴんと立ち上がったことに気づいた。

 二匹が落ち着かない様子に《魔物使い(ビーストテイマー)》も気づいた。彼らは人間の数倍優れた聴覚と嗅覚を持っている。獣特有の感覚がなにか予兆めいたモノを感じ取ったのかもしれない。

 マイザーも目をつぶり神経を研ぎ澄ませた。彼は風の司祭。空気の流れを読み取ることにかけては人一倍自信を持っていると自負している。その勘がこれまでに幾度も美味しい儲け話を運んできているくらいだ。いつが引き際か、一気に勝負を仕掛ける時なのかを。

 わざわざ目的地にまで足を運ばなくとも、意識を宙に飛ばし、後は風の中に身を委ねるだけでいい。そうすれば風が自分に様々な情報をもたらしてくれる。先ほどの白い少女とハザウェイの戦いも目ではなく、こうして肌で感じ取っていたのだ。耳をこらしてみれば風の流れがわずかに淀み始めた気がする。粘りつくような血の匂いが鼻につくようにも思えてきた。

「どうやら、こちらから赴くまでもないみたいですね」

「は……?」

 部下が意味をつかみそこねたように聞き返した。《魔物使い(ビーストテイマー)》の二人は笑っている。

「これは死の臭いだ。それも一人じゃない。大量の死を、幾千もの屍の臭いを風が運んできました。まるで血の大河が雪崩込んでくるかのようだ」

 マイザーは楽しげに言った。正直なところ、ただの少女がハザウェイ率いる先遣隊を打倒しうるとは思わなかった。

 彼自身ハザウェイに対しては快い想いを抱いてはいなかったが、獰猛なまでの闘争心と高い戦闘能力は評価していた。案の定というべきか、ハザウェイは真っ先にプラネテューヌへ突撃した。マイザーに利用されているとも知らずに。戦場で一番最初におっ死ぬのはバカの役目であると相場は決まっている。彼は闘争の果てに死に絶えたが、その代償に敵の戦力をあらかた把握した。

 疲弊しきった相手には大軍をぶつけて踏み潰してしまえばいい。そう思っていた。だが少女はまだ生きている。ならばこの自分がじきじきに引導を渡してやる以外ない。

 相手はあのハザウェイと対等に渡り合った化物だ。本来ならば油断してかかるべきだが、所詮その程度なのだ。司祭一人でどうにかなってしまう相手なのだ。そんじょそこらの相手ならいざ知らず、四司祭の一角であるマイザーを相手取る余力はさすがに残されていないだろう。

(ハハハハっ、何が《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》か! 何が世界を滅ぼした一万年前の災厄か! 白い翼の怪物、なんのこともあらん!)

 そうだ。これはマイザーにとって素晴らしい利益をもたらしてくれるビジネスなのだ。

 奴隷や領地、巨万の富を掴める一攫千金のチャンス。

 そうして人生がときおりもたらしてくれる奇跡の到来に感謝を覚えながら、ほくほくとした表情でマイザーはただ待ち続けていた。

 部下だけが意味が分からず、マイザーの意味深な言葉と態度におろおろと不安と焦燥を抱えている。

「おやおや、情けないですね。臆病風に吹かれるとは」

 呆れたように漏らすマイザーに、部下がびくっと身を震わせた。

「あなたのことではありませんよ」

「え……?」

 じゃあ誰に向けての言葉なのか? という疑問の視線を《魔物使い(ビーストテイマー)》にふってみたが、彼らも今度ばかりは分からなそうに顔をしかめている。

「プラネテューヌの東門に進軍した彼らのことですよ」

 マイザーが肩をすくめたそのとき、外から悲鳴が響き渡った。何事かと、部下の男共が揃って周囲を見回している。

 奇声、怒声、金切り声――

 幾数もの兵士が雪崩のように溢れ出してきたのだ。そこには混乱しかなかった。皆、我先にと必死の形相で先を争い合っている。

 誰一人としてマイザーに気を留める者はいない。恐怖に顔を青ざめ眼球を飛び出させて、この場から逃れようと躍起になっている。

 まさに阿鼻叫喚の体であった。

「勝利だけが全てではない。身の危険を感じたら逃げることも戦術ではありますが……しかし」

 溜息をついた。

(たった一人の少女から、大の男共が逃げ惑っている。情けないにも程がありますね)

 それでもマイザーはハザウェイと違って衝動や怒りに任せて部下を殺そうとはしなかったが、代わりにある言葉を思い出していた。

 

”テメェらビビりすぎなんだよ。たかが女一人になにマジになってんだ。その白い女も、女神も、女も、国ごと食べつくしてしまえばいい。どうってことねぇだろ、あんな小さい国くらいよォ!”

 

 プラネテューヌへ攻め込む前日にあの男が、どよめき混乱する大衆に向けて放った言葉であった。

 知性がおよそ感じられない言葉の数々。闘争こそ己の生きがいであると心酔しきった男の暴言。実に粗雑で浅慮で、聞く価値すら伴わない野蛮人だと鼻で嘲笑っていた。

 だが、マイザーはこのとき彼に対して共感を感じていた。

(ええ、その通りですね。ハザウェイ)

 意識しなくとも知らず知らずの内に拳を握りしめていた。感動のあまり身が熱くなるどころか、敬意すら感じていたかもしれない。あの男――ハザウェイが死んだと知ったときと同じように。

 これは自分の夢を掴むための戦い。その成就を他の誰かに任せようと思ったのがそもそもの間違いなのかもしれない。

(大役。この私こそが適任だ)

 

 

 

 

 やがて人混みが引き始めたのか、外からのざわめきが収まり始めた頃、マイザーのいるテントの幕を開けて入る者があった。よろよろとした足取りで入ってきたのは一人の男――全身が血まみれの兵士であった。護衛たちがひっと怯えた息を漏らした。兵士の身体の損傷はひどく、意識を保っていられるのが不思議なくらいだったからだ。おそらくこの男はもう長くないだろう。

「に……げろ」死を目前にした者のメッセージ。「あれは……この世の地獄だ」

 ばしゃりと血を噴きながら倒れふした。《魔物使い(ビーストテイマー)》たちが近寄り、おそるおそる首に手を当てる。

「脈が途絶えている。もう、死んでます……」《魔物使い(ビーストテイマー)》の一人が異界でも見るかのような目で、プラネテューヌの方角を仰ぎ見た。「我が軍は……一体何を見たというのか」

「おかしい。これはいくらなんでも静かすぎる。なぜ誰も連絡を寄越さない。偵察部隊は何をやっているんだ」部下の男がいてもらってもいられないというふうにテントの出口へ歩き出した。「外の様子を伺ってきます」

 部下がテントの幕に手をかけたとき、マイザーがおもむろに言った。

「どうやらお出ましになったようです」

「え?」

 部下がなかばテントの外に顔を出しかけたまま振り返ったその瞬間――部下の上半身が吹き飛んだ。真っ赤な液体をホースのようにまき散らしながら、ねじが切れた人形のようにその場にひっくり返った。

 一瞬で起こった凶行に、空気が凍りついた。身も凍るような恐慌に支配され、理解がとても追いつかない。

 そんな《魔物使い(ビーストテイマー)》たちの反応をよそに、マイザーは悠々と椅子から立ち上がった。重い腰を、今ようやく持ち上げたというふうに。 

「マ、マイザー様!」

「危険です、お止めください!」

 部下の制止の声に耳を貸すこともなく、それどころか余裕たっぷりに笑みすら浮かべている。

(私は《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の正体を知っている。乳くさいただのメスガキだってことを。そのタネも仕掛けも、全て暴いてご覧にいれましょう)

 このテントの向こう側に栄光があると信じて、マイザーは勢いよく幕を蹴り開けた。

 露わになった光景に、《魔物使い(ビーストテイマー)》達が驚きにくぐもった息を吐いた。

 一面に転がるありとあらゆる死体を前にして。人間も魔物もごちゃ混ぜになっており、損傷がひどくそれが元は何なのかも判別がいまいちつきにくかった。ただはっきりとしているのは皆一様に、恨めしそうな表情を貼り付けていることだった。護衛のつれたワーウルフが唸り声を上げている。自分たちの同胞の死体を前にして人族も魔物も穏やかではいられないらしい。

 積み重なった死体の中心――そこには、この惨状を作り出した元凶がいた。

 白い肌をした少女が振り返る――身の毛もよだつようなおぞましき白。彼らに語り継がれている神話にもある通り、いかにも異様な風体をしている。

 いや、本来ならば白色であったであろう肌が、今では頭から足まで鮮血に染められていた。この戦争が始まって数時間。一体、何人の血を浴びてきたのだろう。その数は誰にも知れない。

 この世の全てを憎んでいるかのような憎悪にとりつかれた眼がこちらを捉える。

「……」

 にぃ、と血走った眼が細められた。処理すべき新たなゴミが降って落ちてきたのをそこに認めたように。

「……っ!」

 そうして一言も人語を発することなく、無造作に銃をこちらに向けてきたのだ。怪物のように馬鹿でかい銃を。

 数々の肉片に取り囲まれたその姿は、まるで神話のように天空から死天使が舞い降りてきたかのような光景を連想させた。

「よくもまあ、その状態でここまで動けたものですね。その執念だけは褒めてつかわしましょう。《白き災厄の翼(ホワイトウイング》)

 マイザーは物怖じするどころか挑発するように《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》に近づいていく。

 護衛達はひどく慌てた。だが、誰もその場から動こうとしなかった。最初の犠牲になることを恐れて。自分たちが帯びた使命は司祭マイザーの護衛。しかし守らなければ、という思いに反して全く身体が動かなかった。いや、アレが本当に自分たちに止められるものなのかどうかを謀りかねているのだ。

 あの目は普通ではない。狂気にとりつかれた者がする眼だ。

 途端、身体の芯を射抜かれるような重圧にわけもなく全身が震えた。アレは人間ではない。理性を失ったケダモノ――いや、正真正銘の怪物だ。

 何があの少女に、あそこまでの憎悪と憤怒を抱かせる原因となったのだろうか。

 マイザーは気づいていないのか。あの白い少女が孕むどす黒い狂気に。鈍感なのか器がでかいのか。それともその正体を知っていて煽っているのだろうか。けれど、いくら司祭といえどもあの強大な存在の前では――

「ああ、名乗り遅れました。私は四司祭の一人、マイザー・ウインドブレイクと申します。以後、お見知りおきを」

 帽子を取って一礼。律儀に45度で礼儀正しく腰を曲げている。

「あなた様とお会いしたのはこれが初めてのことですが、私達はあなた様のことをよく存じ上げています。なんでも、一万年前に世界を滅ぼした存在だとか。それが嘘か真かは私には判断がつきません」

 帽子を頭にかぶり直した。その表情は帽子の影でよくは窺えない。

「残念ながら、私が生まれたのは40年前かそこいらです。一万年前などという遥か昔のことなど、私には(よう)として知れません。なにせ、大昔のことなど私にはとても考えられない。あるいは単に私には想像力というものが人より乏しいからかもしれない。思考の放棄とは、すなわち想像力が欠如していることを意味していると私は危惧しているのですが、こればかりはどうしようもありません。いかんせん歴史には興味を持てない性分でございまして。だから、私は自分の目で見たものしか信じない。私達の祖先があなた様をなんと呼称しているかは関係ない。この眼こそが真偽を審議する。そう決めているのです。あなたが本当に一万年前の怪物かどうかも」

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は顔をこちらに向けたまま微動だにしない。飛びかかるどころか、身動き一つする素振りすら未だに見せなかった。

 恐ろしいまでの静けさ――あれがマイザーの話にしっかり耳を傾けているのかどうかすら疑わしい。

「ところで、あなたはフロンティア精神というものをご存知だろうか?」

「……」

「大昔、この大陸が荒地であった頃。ここに移民してきた人々は、様々な苦難を乗り越えて、荒地であったこの場所を開拓していったといいます。たとえそこにどのような苦難が待ち受けていても、人が人である限りその道を切り開いていかなければならない。実に夢のある言葉だと思いませんか。個人に秘められた才能は限られているかもしれませんが、人々に秘められた可能性は無限大です。歴史は嫌いですが、偉人は尊敬しております。彼らはいつの時代でも素晴らしい可能性を提示し続けてきた。これは賞賛に値します。私たちの祖先はあなた様を倒すべき邪悪の根源であると教えきかせました。正直に告白させてもらうならば、私個人としてはあなたになんの恨みもありません。祖先があなたに怨恨を抱いていようと、一万年前のことなどどうでもいいとさえ思っている。出来ればあなた様とは争い会いたくはありません。しかし、あなた様が私の王道を阻む敵として立ちはだかるならば話は別だ」

 マイザーが帽子の影から真っ直ぐな視線を向けた。

「問おう。あなたは私の敵であるか、否か?」

「……」

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は答えない。剣のような殺意を瞳に宿したまま、マイザーの前から一歩たりとも動く気配はない。

 そもそもこの相手に言語が通じているかどうかさえ疑わしい。

 さて、とマイザーが言った。

「知り合って早々にこのようなことを申し上げるのは非常に心苦しいのですが……」マイザーの顔半分が鈍色にきらめいた。機械化した顔――彼の《遺失物(ロストメモリー)》は顔半分だったのだ。「ここは一つ。私の夢のために大人しく死んでもらえませんか?」

 そのとき、マイザーの姿がふっと幻のように消えた。比喩でもなく文字通り忽然と消えてしまったのだ。

 彼の姿が消えたとその場にいた者達が認識した刹那――《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の目の前にマイザーがいきなり現れた。

 

「懐が隙だらけでございます」

 

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》がはっとなったときには遅かった。すでに目と鼻の先に接近したマイザーが拳を突き上げてきた。

 棒立ちの《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の腹部めがけて鋭いアッパーが炸裂。

 しかしさしもの《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》といったところか。反射神経だけでかろうじてアッパーを銃で防いでのけた。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が銃を剣に変形――

 羅刹のように血走った眼で睨みつけながら、マイザーの肩口めがけて斬りかかった。

 斜めから振り下ろされた刃は、しかしマイザーには届かず、何もいない虚空を切っていた。

「今度は背中がガラ空きでございます」

 突然、背後から声が聞こえた。《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》がはっとして振り返ったとき、そこにはニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべるマイザーがいた。

「《竜巻旋風拳(エア)》!」

 マイザーの腕から目にも止まらぬ速さで拳が繰り出された。マッハの速度に到達した拳が風を切り裂きながら、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の頭部に向かって放たれていく。

 すんでのところで身をよじる。直撃こそ免れたものの、それでも全てを避けきれず、頬をギリギリ掠めた。拳によって生み出された風圧が大地を巻き上げ、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の身体が吹き飛ばされた。

 地面を転げまわりながらも受身を取る。身を起こしたそのとき、やはり《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の背後でマイザーが待ち構えているのを感じていた。同じ轍を踏むほど、彼女は甘くない。

 マイザーが必殺の一撃を振り下ろすよりも速く、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が横なぎの剣閃を放った。

 マイザーはちょっと驚いたように眉をひそめたが、持ち前の冷静さで大地を蹴った。宙へジャンプすることで斬撃を難なく回避している。

 低い怨嗟の呼気を発しながら、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が斬りかかっていく。

 相手に休む暇を与えることなく、色々な角度から切り込みを入れているが、その全てをマイザーは紙一重のところでかわされてしまう。

 空を斬る感触に《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が恨めしげに四肢を痙攣させる。彼女は、ただ闇雲に剣を振り回しているわけではない。《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の剣技には哲学があった。簡単に太刀筋を読み解けぬように様々な方角からの流れるような剣舞。にも関わらず、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の剣圧はマイザーに届かない。《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の斬撃が飛んでくるよりも先に、マイザーがそれを遥かに上回る速度で避けているという、目を疑うような展開が繰り広げられていた。とても人間業ではない。それはさながら剣と空気が対峙しているかのような光景だった。

 護衛の、《魔物使い(ビーストテイマー)》達は司祭マイザーの力の正体を知っている。

 あの二人が戦い始めてからというものの、今この戦場にはものすごい勢いの風が吹き荒れている。特にマイザーが動き出してからというものの、風の乱れはよりはっきりと顕著になっている。それこそがマイザーの力の源であり、司祭として《遺失物(ロストメモリー)》から得た恩恵であった。マイザーの身体の周りを分厚い大気の膜が覆っているのだ。さながら意思を持った台風のようだ。彼がいる場所はさながら台風の目のような無風地帯であるため、その周囲を包み込むようにして風が展開されている。風のベールがマイザーの身を守ったり、常人にはありえぬ高速移動を可能としている。そのため目にも止まらぬ速度で大雨の中を走り抜けても、彼を包み込んでいる風の壁のおかげで、雨粒に全身を貫かれるようなことはない。

 文字通り風を味方につけているその戦闘スタイルは、まさしく神風の如き男であった。

「マ、マイザー様が交戦状態に入った……」

 《魔物使い(ビーストテイマー)》の一人がぽつりと漏らした。まるで夢から今しがた覚めたかのような声で。

「い、いかん! マイザー様の身をお守りしなければ!」

 二人の戦いに見惚れるあまり、初めてそれが何を意味するか遅れて気づいた。もし間違ってもここで司祭を死なせてしまうような事態に陥れば、護衛としての面目は完全に丸つぶれである。すぐに援護しなければならない。しかしあの激しい戦いに巻き込まれればどうなるものか。護衛達にもまるで判別がつかなかった。。

 相も変わらず両者は一歩も譲らない。互いに紙一重の攻防を繰り返しているようにみえた。しかし傍から見ればそれは表面上のことに過ぎない。《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》には決定打を与える必殺の技がなければ、この戦局を覆す大技がなかった。

「あなた様の戦い方は把握しています。失礼を承知の上で白状させてもらいますが、先ほどのハザウェイとの戦いの一部始終をこっそり見させてもらっておりました。あなた様の武器――銃剣は、近距離も遠距離にも柔軟に対応できる万能型の武装だ。攻守共に弱点がないように見える。だが、どれだけ優秀でもどれほどの破壊力を誇っていようとそんなものは当たらなければどうということはない。近くにいようと遠くにいようとも。それだけだ。その程度でしかないのだ!」

 帽子のつばを掴み、機を伺うかのように静かに佇んでいる。そこへ《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の刃がすかさず迫る。

「あなた様の敗因はただ一つ。たったの一つだ。風の力を操るこの私と対峙したことだ!」

 マイザーがそう宣言し終わったとき、あるいは《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が刃を振り下ろしたとき――すでに誰の姿も見えない。

 そこには嘲笑うように置かれた、真っ二つに切り裂かれているマイザーの帽子だけだった。

 見回してもマイザーの姿は見えない。一体、どこに身を隠したというのだろうか。

「風向きはすでにこちらに向いている! さあ、私を導いてくれ!」

 どこかから勝どきの声が上がった。同時に、周囲の気圧が乱れていくのを感じた。

 

「《暴風領域(クラウズ)》!」

 

 互いに自己主張し合い、バラバラだった無数の風の流れがひとつに収束。絡み合い、もつれあった糸の束を手で手繰り寄せるかのように。支流が合流し合い、抗いようのないくらい強大な、やがて大きな本流へと肥大化していく。

 瞬間、ごうごうと音を立て、立っているのも困難なほどの暴風が荒れ狂った。驚くべきことに、竜巻をこの場に作りだしたのだ。小規模であるとはいえ、それは人体を容易に引きちぎり、ひき肉のようにバラバラにせしめる程の力を持っている。

 闇の中で、マイザーは勝利を確信していた。《暴風領域(クラウズ)》が発動した以上、これでもう《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》に一切の勝機はない。竜巻の維持にかなりの集中力と神経を要するのがネックだが、マイザーが知る限りあの領域に飲まれた者は生きて帰れない。自分は木の陰に身を潜め、勝利を座して待てばいい。

(栄光! 名誉! 全てがこの私の手に!)

 これから来たるであろう輝かしい未来に夢を馳せると、胸が高鳴った。しかしその絶対なる自信が命取りとなった。一時とはいえ、あの《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》を凌駕せしめていた。だからこそ彼は敵の戦力を侮り、己の力を過信した。

 いきなり、大砲のような超ド級の一撃が飛来した。横殴りの衝撃が、マイザーを包んでいた風を貫通。ぱちんっと左腕がかんしゃく玉のような音を上げながら破裂した。

 芋虫のように地面をうねりながら甲高い絶叫を上げた。

 マイザーが痛みに悶え苦しむ奇妙な苦痛のダンスを、銃口から煙をくゆらせながら、白い少女が笑顔を浮かべてこちらを見ている。その圧倒的な破壊の痕を、一発の弾丸が生み出したものであると気づいたとき、

(な……に?)

 何故自分の位置が分かったのか。いや、そんなことよりも――私の風が1丁の拳銃よりも劣ったというのか。分からない。分からない。

 だが、彼の頭を最も占めていたものは、

(あいつ、嗤っているのか……)

 耐え難い恐怖だった。もう少し弾丸の軌道がそれていたら心臟に風穴が穿たれていたことだろう。頭蓋を抉られ、脳を破壊され、物言わぬ冷たい死体へと変わり果てていたかもしれない。

 その途端、全身が総毛立った。頭の中に思い描いていた華々しき栄光と名誉は彼方に吹き飛んでいった。死への恐怖で頭のが真っ黒に塗りつぶされるようだった。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の戦法は見切っていたし見極めていたし、当然全てを知り尽くしていたつもりでいた。あの銃剣を封じる戦い方をすればいい。そう思っていた。

 他でもない――彼女を支援する、姿なき協力者がいたことをマイザーは知らなかった。彼女が心を失う前から、必死に呼びかけ続けていた良心の声に。アイリスハートに仕える人工妖精――その存在に最後まで気づけなかったことが、マイザーの取り返しのつかないミスとなった。彼が勝ち誇ったような大声を発した途端――その方角から位置を特定され、隠れ潜んでいる場所をいともたやすく割り出されてしまったのだ。

 彼女の放った弾丸は、マイザーの精神に十分に致命傷を与えていた。混乱で《暴風領域(クラウズ)》を維持するだけの集中力が糸のようにぷっりと途切れ、あれだけ荒れ狂っていた暴風域が霧散していった。

「くっ……」

 マイザーが左腕を押さえながら後ずさった。心が恐怖と痛みでかき乱され、もう自分を守護する風を練るだけの集中力もない。《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の剣技を翻弄し続けた神風はもう封じられてしまった。

「マ、マイザー様!」

 異変に気づいた護衛達が慌ててワーウルフを放った。

「お前達、あいつを止めろ! 司祭様から意識を逸らさせるんだ!」

 二頭のワーウルフが吠え声を上げながら弾かれたように野を駆けた。人語を介さない魔物を指先一つで使役するのは、人ならざる者と自由自在に意思を疎通できる《魔物使い(ビーストテイマー)》ならではの特権だ。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》がつまらないモノを見るような目でそちらを一瞥すると、冷たい瞳で銃を構えた。

 発砲――先頭を走っていた一頭が弾丸で頭を吹き飛ばされ、血を流しながら倒れた。

 同胞が途中で斃れても脚を止めはしない。仲間の屍を乗り越えて、主の使命を忠実に守り通すだけ。

 強靭な四肢をバネのように弾ませ、鋭利な牙をぎらつかせながら、後続にいたワーウルフがマイザーに負けず劣らずの速度で飛びかかった。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が銃から剣へと変形。鬱陶しそうな目で、ハエを払いのけるかのように切り伏せた。頭から股間を真っ二つに両断され、壊れた噴水のように血しぶきがあたりに舞った。

「そんな……一瞬だと!?」

 《魔物使い(ビーストテイマー)》は放心したのか力尽きたように尻餅をついた。自分たちが手塩にかけて調教した下僕をあっさりと殺害され、すっかりと戦意を喪失したのだろう。

 白い少女はそんな無抵抗な相手にも容赦しなかった。興冷めだと言わんばかりに目を細め、しかしどこか楽しげな冷酷な微笑を浮かべながら銃の照準を定めている。たとえ戦意という名の牙を叩き折ろうとも、一度自分に牙を向けた者達には憎しみを込めた眼差しをお見舞いするのだった。そして耳をつんざく轟音と共に、戦う意志のなくなった二人は物言わぬ肉塊へと変わり果てていた。

 ふいに背中から刺すような殺気を感じ、振り返りながら勢いよく銃口を突き出した。

 マイザーが憤怒の叫びを上げながらまさに飛びかからんとしていた。突き出された銃口の下をかいくぐりながら、今にもはち切れてしまいそうな神経を気力だけで張り巡らし、残った右腕で超至近距離からの《竜巻旋風拳(エア)》を試みる。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》の瞳がギラついた。これこそが彼女の狙いだった。相手をあえて自分の懐に誘い込むことで逃走経路を完全に断ち、必殺の一撃を与える。そして突き出した銃はフェイントに過ぎない。本命は勢いよく放たれた神速の膝蹴り。

 果たしてそれは的中した。竹槍のように鋭い一撃がマイザーの腹を見事に抉った。

 臓腑を揺さぶられるような鈍い痛みと共に吐瀉物が腹の底から迫り上がってくる。鈍痛に悶え、腹部を抱え込むようにしてうずくまろうとするマイザーに《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は相手が嘔吐する慈悲さえ与えなかった。大きく開かれた相手の口腔に銃口を力づくで突き入れてやった。

 マイザーは慈悲を求めるかのように眼球を震わせながら白い少女を見上げた。全身からは滂沱のような脂汗が噴き出し、嫌な臭いが鼻腔を否応なしに刺激してきた。

 それでも《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は目の色を変えなかった。必死に生にすがりつこうとする男を前にしても、どこか冷め切った瞳のまま、やはり虫けらを踏み潰すのが楽しいと言わんばかりにその口元は愉悦で歪められていた。

「え――う、ぁ」

 マイザーは何か言葉を発しようと懸命に口をもごつかせているが、混乱と恐慌のどん底に陥っているため上手く言葉を紡げなかった。

(嘘、だ。嘘だこんなのは――)

 私が望んだ終わりを迎えるには程遠い。まだ私は何も成し得ていない。まだ夢の先端にすら乗り出せていない。まだ充実した人生が何であるか分からない。いずれ来たるビッグチャンスの到来を信じてあんな狭苦しい僻地で四十年も耐え凌ぎ、いつの日か苦難が報われると信じ続けていたのにこんな結果だなんてユルセナイ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘に決まっている! 

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》はすっかり暖められた引き金に力を込めた。いつまでも往生際の悪いこの男に、むしろ死こそが慈悲であり、一番の救済であるかを教えてやろうとしているかのように。

 撃った――マイザーの身体は竜巻のように荒れ狂いながら激しい血しぶきをあげて爆散した。

 彼に力を供給し続けていた《遺失物(ロストメモリー)》は砕け散り、粉々になった微細の粒たちは風に流れ、いつしか消えていった。

 

 

 

 

 

 黒の教団――野営地

 

 

「どうやら手遅れだったようですね……」

 フレイアとゴースが丘を下って現場にたどり着いたとき、そこには地獄が広がっていた。

 歩けども歩けども血の河がどこまでも流れており、死体がどこもかしこにも打ち捨てられている。刃物のようなモノで両断された死体や、何かの飛び道具らしきモノで大穴を開けられたような死体もある。

 声にこそ出していないが、さきほど大司祭は喪失感をまたしても感じ取った。自分の身体の一部がなくなっていくような途方もない寂しさを。おそらくマイザーも無事ではないだろう。

 流石に全滅ということはないと思うが、運良く魔の手から逃れた兵士達は恐慌状態に陥って逃げ出してしまったのだろう。大司祭フレイアとしては、彼らを咎めようとも卑怯者だと罵る気もない。せめて無事であってほしいと彼らの安否を願うばかりである。

「みんな、死んでる」

 ゴースがぽかんとした顔であたりをきょろきょろと見回している。常人と比べて知能が退行しているといえどもこの惨劇が意味するモノはしっかりと伝わっているのだろう。

 そのとき、前方から物凄い唸り声が響いた。地の底から響くような何かの唸り声を。

 否――断じてそれは唸り声などではなかった。大剣を地面に引きずる摩擦によって生じた異音――軋らせる音であった。

 そいつは血糊のついた武器を携えてやってきた。どこか楽しげな薄ら笑いを浮かべて、血のついた刃を舐めている。新しい玩具を与えられた子供のように。フレイア達を見る目におよそ理性や知性はない。自分の前を動く標的の息の根を止めることだけを目的とした殺戮マシーン――さながら狂戦士の如き様相を漂わせている。この相手におよそ人の話うる言語は通じそうにないのは火を見るよりも明らかである。しかし最早言葉を介さずとも、この地獄を作り出した張本人なのは一目瞭然であった。

「この邪悪な波動……まさか《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》? いや、まさかこんな子供が?」

 ここに来る前にマジェコンヌから見せられた一枚の写真を思い出してみても、この少女が標的であることは間違いない。隠しようもない殺気はまさしく只者でないと告げている。だが、奇妙な違和感を感じた。

(いや、違います。はっきりと口に出して説明はできませんが、この子は……何かが違っています)

 見た目こそおぞましい怪物そのもの。身にまとう雰囲気こそ抑えようのない邪悪が溢れ出ているものの、放つ波動の質が異なる気がしたのだ。

(この子は本当に《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》なのでしょうか? 一万年前、私達の祖先が統べていた世界を滅ぼした元凶の一つなのでしょうか?)

 そこで引っかかるものがあるのを思考に感じた。

(そういえば私たちが仇なす《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》とは何なのでしょうか?)

 改めて、根本的な疑問の壁に突き当たった。黒の教団の歴史として残されている昔話にその怪物が何を引き起こしたかは語られているものの、そいつがどんな見た目だとか特徴であるかは詳しく語られていない。白い翼だとか美しい天使だとか、そんな曖昧な言葉ばかりで具体的な情報は何一つとして開示されていない。

 この少女は肌こそ真っ白ではあるものの、神話で語り継がれているような白い翼や美しい天使の装甲という目立った特徴があるようには思えない。

(《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》とは何のか? その正体が何なのかは皆目見当がつきませんが……はっきりとしているのはこの白い少女が、自分たちに仇なす敵であるということ、ですね)

 決意と共に、拳に力が込められるのがわかった。倒すべき敵を前にして。

「ねえ、ママ。こいつ、殺してもいい?」

 すいっとゴースがフレイアの前に滑りでた。

「ゴースさん?」

 フレイアが目を見張った。ゴースの行動に。

 自分と対峙する者を食べるではなく、殺すとはっきり断言した。理性や知性とは無縁な彼が、食い意地がいつも優先されるゴースがそう言ったのである。この惨状を目の当たりにして、怒りを抑えきれずにはいられないらしい。

 おそらくこの白い少女がたった一人でこの光景を作り上げたのだろう。信じられないことだが、主力であった四司祭の内、三人も。ハザウェイ、マイザー、おそらくスタークも。

 戦力的に考えてみてもゴース一人ではどう足掻いても太刀打ちできないのは明白である。

 だが、それは一対一を想定した場合の話である。自分が加勢して二対一ともなれば……打倒しうる可能性は十分にある。自分の力は司祭のそれを遥かに凌駕せしめている。けれども仮に二人掛りであっても、自分達の力があの白い少女に及ばなかったとき――万が一のことを考慮するならば白兵戦は共倒れの危険性がある。そうなってしまえば全てが水の泡だ。過去の英霊達が切り開いて来た道が無に帰する。

 ここは万全を期するため、一撃の下に相手を確実に葬り去る必要がある。事は慎重に運ばなければならない。そう判断したフレイアの頭にとある作戦が閃いた。その作戦を実行に移すためにも、心苦しいがゴースには時間を稼いでもらう以外にない。

「お願いします、ゴースさん。あの少女の意識をしばらく引きつけておいてください。私も攻撃の準備が整い次第、すぐに加勢しますのでそれまではどうか持ちこたえてください」

「はぁーい」

 ゴースがニヤリと口を引き結んだ。いま彼を突き動かしているものは食への渇望と、闘争へ身を投じることの喜びである。普段は稚拙な言動と底知れぬ大食漢から、司祭の中でもどこか軽視されがちなゴースだが、ひとたび戦いとなれば、彼もまた目の前の少女に引けを取らぬ頼もしい狂戦士であることをフレイアは思い出した。

 

 

 

 身の丈が白い少女の三倍はあろうかという巨漢の男が獣のような咆哮を上げながら走り出した。

 その姿はすでに人にあらず、まさに猪突猛進。闘牛を思わせる荒々しさ。大地がぐらぐらと揺れ動く。大男の足が大地を踏みしめるたびに、それは地震でも起こっているのかと錯覚してしまう程だ。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》が引き金を引いた。突っ込んでくるしか脳のないこの相手はまさに格好の的。外す道理はない。真正面から銃撃の雨を浴びせてやった。

 目論見通りゴースは避けなかった。それどころか今までの司祭たちと違って銃弾など何食わぬ顔で、馬鹿の一つ覚えのように突っ込んできた。否――避けないのではなく、すでに避けられないのだ。猪が急に曲がることができないのと同じように、すでに軌道を制御できないほど加速しつつあった。

 銃弾がゴースに到達し、全身の皮膚を抉りながら五体がバラバラに引き裂かれるビジョンを思い浮かんだ。

 だが驚くべきことに、ゴースの進撃は止まらない。まるでダンプカーが真正面から迫ってくるような恐怖。少女の身の丈を三倍も超えようかという巨体が更なる加速をつけて走っている。このままだと衝突は免れない。

 少女は身体を投げ出すようにして横っ飛びに飛び退いた。そうするしかなかった。それ以外にどうしたらいいか分からなかった。

 耳を劈くような轟音。巨体は周囲の木を何本も巻き込みながら、ようやくその勢いを停止した。

 立ち止まったゴースはきょとんとした顔で、

「なぁぁぁにこれぇぇぇぇ?」

 かゆくてたまらないとでもいいたげに銃弾が直撃した場所や木が突き刺さっている箇所をぽりぽりと掻き出し、指で銃弾をころころと弄びながらいともたやすくスクラップにしてみせた。

 ぶあつい肉厚に阻まれて銃弾が届かない――脂肪が外部からの衝撃を殺すクッションになっていたのだ。大木をへし折る一撃をモノともしない肉体を誇るこの大男。あんなものを相手取るというのは、砲弾に銃弾で立ち向かうのと同じくらい土台から馬鹿げた話だった。

 銃を獲物とする者にとっては悪夢を見させられているような気分だろう。撃っても撃っても銃が効かない。全く効いていない。無傷そのものである。

 そして彼の《遺失物(ロストメモリー)》は両足。おそらくアレが高速移動に耐えうる尋常ならぬ脚力の正体だろう。すさまじい捨て身の一撃を可能とさせている。さながら歩く要塞のような男である。

 《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は戦意を喪失するどころか、銃を剣へと変形させている。楽しめる獲物がようやく現れたとばかりに、歓喜に胸を膨らませているようだった。

 そして、より一層狂的な笑みを浮かべながら、一太刀の下に切り伏せると宣言するかのように剣先をゴースに向けた。

 巨体が再び動き出した。殺意を込めて睨みを利かせながら、再びその巨体から地割れを響かせる。

 対して、《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は動かない。長い瞑想に耽るかのように目を閉じて静かに佇んでいる。先ほどマイザーがそうして見せたように。ただ勝利の機を窺っている。

 巨体とすれ違いざまに剣が閃いた。必殺の間合いからの居合い斬り。肉に食い込むわずかな手ごたえ――それを頼りに、そのまま切り抜けた。

 鮮血が飛び散った。はたして倒れたのは巨体だった。丸太のような右腕が吹き飛び、血液が洪水のように溢れたゴースが悲鳴を上げながらもんどりうって倒れ込み、地面に打ち上げられた魚のようにじたばたと激しくのた打ち回っている。

 トドメを刺しに《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》は跳躍した。ゴースの苦痛を終わらせてやるべく、剣先を真っ逆さまに構えて急降下。巨漢の喉もとに鋭い刺突を突き立てようとしたその瞬間――巨体の左腕が伸びた。

 空中では思うように身動きが取れず、されるがままにがっしりと巨大な腕に拘束されてしまった。内蔵を握りつぶされるような圧力に、うめき声を漏らしながら身をよじって抵抗するも、すさまじい膂力で自由を封じられ身動き一つ出来やしない。そのとき、

 

「――そこまで、なのです」

 

 凛とした少女の声が張り詰めた狂乱の空気をかき消した。 

 気づけば、無数の気配が周囲を取り囲んでいた。そう――総勢数百もの軍勢が、この戦場に大挙して押し寄せていたのである。

 驚くのも無理はない。まるで、霞のように大気中から忽然と湧き出てきたのである。気配も足音も全くどれ一つとして感じさせなかった。

 敵はいつの間にこれほどの数を展開させていただのろうか。その見事な技量、こればかりはさしもの《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》もまったくもって予想の外にあった。

 彼らは、それは知る人ぞ知る今は亡き黒の教団の過去の英霊達である。しかし摩訶不思議なことに、既に逝去したはずの彼らがどういうわけか生けとし生ける者として現界――どころか受肉しているのである。

 その秘密こそが黒の教団の中でも謎に包まれた彼女の能力――大司祭の持つ力なのだろう。

 圧倒的な光景だった。大男に押さえつけられた一人の少女を、幾数の軍勢が取り囲んでいるという一方的な光景は見る者にはとても異様に映るだろう。

 どこかからこの戦場を見下ろしているであろう大司祭が静かに一声を放った。

「ゴースさん。感謝します。あなたのおかげで、ひとまずこの戦に幕は下りそうです」

 憎しみと、憐れみをほんのり滲ませて、命じた。

「――あの者に、裁きを」

 囁きが零れたその刹那――兵士達が喝采の雄叫びを上げながら剣を天上に掲げた。

 裁きの時が訪れた。

 大地を割らんばかりの頼もしき行軍。勇ましいまでの剣閃の鼓舞。

 彼らの存在意義は唯一つ。

 命令を忠実に果たすこと。主君に立ち向かうあらゆる障害を取り除くこと。

 それこそが彼らの生きる理由であり、至上の喜びだった。

 大司祭に仇なす敵を討ち滅ぼさんと、太古の亡霊達が白い少女めがけて押し寄せた。

 白い少女はやはり動けない。それほどまでにゴースの執念は強かった。いや、これまで動けていたのが不思議なくらいだ。首魁を二人も討ち果たし、ここまで戦場を駆け抜けた修羅であっても、精も根もその身の悪運が尽きたのだろう。

 大司祭の視界の片隅で、なすすべもなく少女は兵士の軍勢の中へと飲み込まれていった――。

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 死んだほうがいい――白い少女は虚ろな瞳でありのままの世界を見つめていた。

 四方から敵が迫ってくる。ご丁寧なまでに逃げ道を塞がれている。そんなことをしなくても自分は逃げも隠れもしないのに。

 ああ、と少女は心の中でひとりごちた。

 これから自分は死ぬのだ。

 ここから逃げ出そうにも逃げ出せない。もし動けたとしても一人でこの数を相手取るのは絶望的だろう。身体の自由を根こそぎ奪われたまま自分は虫けらのように踏み潰されるのだと。

 何故、自分は死ぬのだろう。今さらのようにその疑問の壁にぶち当たった。

 血、硝煙、鉄血――

 悲しく錆び付いた、鼻をつんざくような鉄と血の臭い。

 そうだ、戦いだ。戦争の臭いだ。

 今は戦いの真っ最中だからだ。

 生きるか死ぬか。生きるために殺し、死ぬために生きる。戦場とはそういうものだ。

 これもその一つの自然現象に過ぎない。

 この身は戦争という現象の一つとして塵の中に埋もれていく運命にある。

 名も無き一個の物体として処理されるのだから。

 虫のように踏まれ、虫のように蔑まれ、虫ケラのように死ぬ――虫の人生。

 

 自分は死ぬのだ。

 

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 死にたくない――少女の中でひときわ強い感情がはじけた。

 身体を衝き動かすような躍動感。心が天上に浮かび上がっていくような衝動。

 それは諦観や絶望とは無縁の感情だった。

 何を怖れる必要があるのか。

 自分は怯えたりなんかしない。恐怖したりなんかしない。

 滅び、嘆き、絶望――

 歓喜に満ちた自由への進撃。全身が解き放たれるような昂る臭い。

 そうだ、戦いだ。戦争の臭いだ。

 これがずっと自分の待ち望んでいたものだという理解がきた。

 戦いは最高だ。敗残者共の阿鼻叫喚の叫び。地面に這い蹲り、助けを求める惨めで情けない命乞いの姿。

 それを生み出したのは自分だ。他ならぬ自分の手なのだ。

 それを聞かせているのは自分だ。自分なのだ。

 冷たい刃で、温かな鮮血の温もりを浴びることにこの上ない歓びがあった。

 そこに命を感じる。命が流れ出ているのだと感じられる。

 このまま死ぬくらいなら殺してやる。殺して殺して生き延びてやる。

 そう考えただけでも心が躍った。胸がゾクゾクした。

 生きるとは――素晴らしい。

 その思考に至った瞬間、少女の中で異変が起こった。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。大人しく殺されてたまるものか。

 殺されるくらいなら、貴様らを殺し尽くしてやる。

 白い少女の中に巣食う悪魔が微笑んだ。

(それでいい)

 長年、禁忌として封じていた力が解き放たれていくという予感がきた。

 一万年前――過ちを犯したあのときから、少女が枷として己を律していた封印が崩壊していく。爆発的な力の奔流が全身の隅々にまで流れ込んでいく。

 理性が叫んだ。ああ、気持ちいい! なんて気持ちいいのだろう。何故それを自分も感じてはいけないのか。これからもっともっと気持ちよくなろう!

 虫のように踏み潰し、虫のように蔑み、虫ケラのように殺す――虫共の人生。

 少女はつぶやいた。自分が幸福になるための魔法の言葉を。

「――……プロセッサ・ユニット装着」

 世界が白い瞬きに包まれていった。

 

 

 白い少女が兵士達の渦に飲み込まれていくのを見下ろしながら、大司祭フレイアがぼそりとつぶやいた。

「……これにて終幕」

 それは喜色とは程遠いつぶやきだった。

 たったひとりの少女に残虐ともいえる仕打ちに後悔の念がフレイアの中で湧き上がっていたからだ。

 少しやりすぎたかもしれない。

 けれどあの少女は司祭を二人も討ち倒し、甚大なる被害を生み出した存在。二人が抜けた喪失は大きい。これはある種当然の報いなのだろう。

 これから自分は女神の手から世界を取り戻さなければならない。それは世界と戦うことと同義である。北の大国ルウィーとの前哨戦。プラネテューヌはその第一歩の狼煙に過ぎない。

(あとは紫の女神だけですね)

 ふっと瞳を閉じて、気持ちを結論付けようとしたそのときだった。

 周囲をまばゆい光の粒子が包みこんだ。莫大な力の奔流が白い少女の中に流れ込み、身体の一部そのものへと同化していく。

「――……何事ですのっ!?」

 光の氾濫とでも言うべき現象に、視界を焼かれ、後ずさった。

 フレイアの視力が回復しきった頃、少女は地上から忽然と姿を消していた。

 気づけば、その姿は空に浮かび上がっていた。

 光の粒子が装甲に形成されていき、白い少女の身体を覆っていく。

 あまりの輝きように少女の形をした宝石が、天空に浮かび上がっているのだと錯覚した。

「あの光は……?」

 美しい装甲だった。

 その場にいた誰もが、戦いを忘れ、しばし息を呑んだ。

 少女の華奢な肢体を申し分程度に包む装甲と、小さな背中から伸びる白い両翼――

 その翼が羽ばたくたびに、天地にあるもの悉くが押し返されていく。過去の英霊達が虫けらのように弄ばれていく。ゴースが悲鳴を上げながら宙に巻き上げられていく。

 知らず知らずのうちにフレイアは地面にへたり込んでいた。天地の逆転という馬鹿げた超常現象を目の当たりにして。

 だが、それは翼をはためかせることで風を起こしているわけでもない。一帯は一切の風が吹かない無風空間。

 にも関わらず、見えざる力によって阻まれているかのように、地にある物が全てが天空の彼方へと吹き飛ばされていく。

 馬鹿げている。全く馬鹿げている。私達はあんな途方のないモノと戦おうとしていたのか。あれは人のなせる技ではない。怪物だ。人を捨てた者にのみ許される領域だ。

 勝てるわけがない。あんな怪物相手にどう立ち向かえばいいというのだろうか。

 まさか、まさかアレの正体は――

「――女神?」

 混沌が理解に至った瞬間、ひときわ強い光が弾け、フレイアの立っている場所が一瞬にしてかき消えた。

 これこそが《白き災厄の翼(ホワイトウイング)》と呼称された、一万年前の災厄が再びこの世に覚醒した瞬間であった。

 

 

 

「イヴさん、やめてください! イヴさん、やめてください!」

 イストワールは叫んでいた。

「もう彼らはとっくに戦意を喪失しています! 武器を捨てた無抵抗な人まで危害を加えてはなりません!」

 声が掠れて、喉が枯れ果てるまで。イヴがイヴじゃなくなる前からずっと。ひたすら彼女の心に呼びかけていた。自分の訴えが心に響くのだと信じて。

 そうする以外どうしていいのか分からなかった。

 この殺戮を止めさせる手段は他にないのか。イストワールにも分からなかった。最早叫び続ける以外にどうすればいいのか分からない。途方にくれていたそのときだった。

(無駄よ)

 ふいに、イストワールの頭に声が響いた。

(あなたはこの子と直接心を繋ぎ合わせているから叫び続ければいずれは声が届くと信じている。でもね、いくら叫ぼうが今更なの。今の彼女には何も聞こえない。無駄なのよ) 

 そこには白い少女がいた。ここは二人だけの精神空間。イヴとイストワールだけしか共有していないはずの空間に突如として現れたのである。

(あなたは……イヴさん?)

 イヴとうり二つの白い少女が首をふった。

(残念。私はイヴじゃない。まあ、私が誰かなんて些細なことよりもっと大事なことがあるでしょう)

 それほどまでに目の前の少女はイヴに酷似していたのだ。

(私は別にこのままでもいいけれど、あなたはこの子の意識を取り戻したいのでしょう? こちらにいらっしゃい)

 彼女がそう言い放ったとき、霞のように通路が映ったのだ。

(ここは彼女の心の中。考え方次第で想像はいくらでも現実を凌駕する。いつだってそういうものでしょう?)

 驚き慌てふためくイストワールを見て、白い少女はクスリと微笑んだ。

(……)

 彼女に言われるがままについていくと、通路の奥に扉が見えた。案の定、彼女はそこに立ち止まって意味ありげな微笑を浮かべている。

(一体、何をするつもりですか?)

(彼女の心を揺さぶることで眠っている彼女を呼び起こすのよ)

(心を揺さぶる?)

 悪い予感がした。

(彼女のトラウマを刺激することで、彼女を現実世界に覚醒させるのよ。人には誰も知られたくない秘密がある。それを知ることにこそ意味と意義はある)

(……)

 正直、人の心を覗き見するような真似は好きではない。ずけずけと他人の中に土足で入り込むのは気が進まないのは誰だって同じだ。

(でも彼女が何なのか、気になってはいたんでしょう? これは必要な通過儀礼なのよ。彼女を目覚めさせるための儀式なの。あなただって彼女を目覚めさせたいのでしょう?)

(……)

 人の脳はいまだ解明されていない未知の領域。誰にもその人が考えている事が分からないのと同じように。心が何なのかイストワールにも分からなかった。下手をすれば精神崩壊に繋がりかねない。強い共感意識を起こすのは心が同化して溶け合い、一つの身体に二つの人格が入り乱れ、最悪の場合は両方が廃人に成り果ててしまう。

 どういうわけか、そんなイストワールの内心の心配を読み透かしたかのように、彼女は微笑んだ。

(あなたがしっかりしていれば大丈夫よ。たとえ真実を前にしても、意識を保ち続けなさい)

 それだけを言い残して、扉が開け放たれた。

 その瞬間、扉の向こうから光が流れ込んだ。光の洪水とでもいうべき奔流に世界が包みこまれ、反射的に思わず目を覆った。

 異変が起こったのはそのときだった。新鮮な空気が肺腑を満たし、身体の中に染み渡っていく。

 空気が美味しいと感じた。まるで山の中にいるかのように。

 光で痛む目をおそるおそる開けてみれば、世界が一変していた。

 そこは森の中だった。

(これは……一体?)

 どうして自分はこんなところに飛ばされたのだろう。これがイヴを目覚めさせることと何の関係があるのだろうか。

 周囲を見渡してみれば、大きな建造物が人里離れた森の中に雄大にそびえている。あれは誰かの家――いや、別荘だろうか。あれほど大規模なお屋敷を建てる財力を有しているということは結構な資産家か、相当な地位を築いた者だろう。

 あれは誰の家なのだろう。イストワールが記憶する限り、この建造物はプラネテューヌのどこにもない。山のふもとの方を見てみれば、町らしき建造物の群れが見えた。

(ここはどこなのでしょうか?)

 色々と思索を巡らせていると、

「こらー、待ちなさーい! 今度こそ逃がさないわよ」

 ふいに、屋敷の方角から甲高い声が聞こえてきた。

「逃げろー! 幽霊だー! 幽霊屋敷の娘が出たぞー!」

 五、六人の少年達が笑いながら駆け出してきた。対して、一人の少女が複数の少年達を追い掛け回している。

「誰が幽霊ですってー! そんな訳ないでしょう! ここはパパが建てた家よ! パパはあなた達の町を治めているリョーシュ様だってことくらいは知っているでしょう!」

「急げー、あいつの言葉に耳をかすな! 捕まったら呪い殺されるぞー!」

 子供たちが塀を器用によじ登り、屋敷の外に逃亡を図ろうとする。

「あなた達なんかフホーシンニュウザイでシケーよ! パパは偉いんだから! パパに頼んでそうしてもらうんだからね!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ少女の声は、イストワールにとって馴染みのある声だった。

「イヴ……さん?」

 一瞬、別人かと思った。決定的なのは外見だった。

(肌が……白くない?)

 肌は今のように白くない。どこにでもいるような普通の少女そのものである。だけどこの少女がイヴであると――いや、彼女は領主シュートリッヒ家の次女として生を受けた双子の妹であると瞬間的に理解した。

(本名はリリアーヌ・シュートリッヒ・ウイングナイツ。イヴは偽名……)

 ここはイヴの記憶の世界。彼女の記憶の中にある情報がイストワールの頭に流れ込んできたのだ。彼女の記憶がもたらす様々な信号や情報の渦が、彼女こそイヴであると告げている。

「イヴさん! イヴさん! 私が見えますか?」

 いくら呼びかけてみても反応はなかった。塀の向こう側に無事逃走してのけた悪ガキ達の背中を恨めしげに睨みつけている。こちらの姿など最初からそこにないかのような振る舞いだった。

 そんなものは当たり前だという認識がきた。何故ならこれは既に起こった事象なのだ。

 ここはイヴの過去。彼女の記憶を再構築した世界。いわばこれは彼女の記憶の追体験といったところか。その為、これは今しがた本当に行われている出来事ではない。だから一切こちら側からは干渉できないし、向こうからもこちらを認識することはない。起こってしまった出来事はもう変えることなど出来ない。

「これが……イヴさんの過去」

 雨の中、ボロ雑巾のようになっていた身元不明の少女をプルルートが拾ってきたことを思い出した。

 最初は敵意を剥き出しにして誰にも寄り付こうとしなかったこと。全身が真っ白だということ。プルルートいわくプラネテューヌの外れで見つけたということ。そして少女は自らをイヴと名乗った。

 それ以外は全てが謎に包まれていた。

「あいつら~、許せないんだからー! もう堪忍袋の緒が切れたわ! 今すぐにでも首ねっこを掴んでとっちめてやるんだから!」

 少女が荒々しい息で、お屋敷の塀をよじ登ろうとしたそのとき、

「リリー。そこで何をしているんだい」

 三十過ぎの見た目をした身なりの良い男が立っていた。

「パパ!」

 リリーと呼ばれた少女が嬉しそうな笑顔をふりまきながら振り返った。

 この紳士こそ領主ウイングナイツその人だった。リリーにとって一番頼れる人物であり、最も安心感を与えてくれる存在だった。

(この人が……イヴさんの父親?)

 髭は綺麗に整えられており、スーツがとても似合っているせいか、この男から年齢以上の貫禄を際立たせることに成功させている。

「外に出てはいけないよ。この近辺に魔物が棲みつくようになってからなにかと物騒だからね」

「またあいつらが来たのよ。勝手に人の家の中に入り込んで、幽霊を探してるーだなんて言って。ここは私の家なのに、幽霊屋敷だなんてシツレイしちゃうわ」

 ぷっくりと頬を膨らませる娘を見て、領主ウイングナイツは微笑ましいものみるように微笑を浮かべた。

「成程な。たしかに陽が落ちてくるとここはとても雰囲気が出る。子供たちの目にも幽霊屋敷のように映るのは仕方ないことかもしれないな」

「あいつらシケーよね? シケーだよね? 全裸で吊るし上げよね?」

「こらこら、パパがそんなことするわけないだろう。しかし、イタズラ好きの子供達には困ったものだな。……さっき話した魔物の話だが、隣町では行方不明者が出ているらしいし、まだ被害が出ていないとはいえ、私達の町とて人事ではない。半月ほど前、女神様に魔物の主の討伐をお頼みしたのだが、ここ最近は生憎ご多忙の身だ」

「そんなにメガミさまは忙しいの?」

「ああ、そうだ。元々あの御方は多忙の極みに身を置いていたが、ここ近年は反乱勢力の活動が激化して、そちらの対応に追われてばかりいる。女神様の治世を疑うなど嘆かわしいことだが、文句を垂れていても仕方ない。ここは領主としての腕の振るいどころだろう。行動しなければ。街に注意を促し、早急に対策を打ち立てなければ。特に、あの子達の親には私から言っておこう。だからリリーは何も心配しなくていいよ。――ほら、家族の決まりごとを思い出してご覧」

ウイングナイツの唇が不気味な動きを見せたことを、イストワールは見逃さなかった。

「与えられたモノに疑問を持ってはいけない、でしょ」

 その娘であるリリアーヌは屈託の無い笑顔で答えている。少女らしい無邪気さたっぷりに。何の汚れも知らず疑うことさえしない純粋無垢なモノにのみ許された表情。

「そうだ。それは醜いモノのすること。反乱勢力共も同じだ。女神様から与えられた平穏を疑うなど、人として最低の堕落。我々は人で有り続ける限り、与えられたモノに疑いを持ってはならないからだ。それはリリーのためにもならないし、私のためにもならない。分かっているね?」

「うん!」

 ぞくり、とイストワールの背中が震えた。

(何でしょうか。この親子から漂う得体の知れないモノは)

 一見すると温かい家庭の一時に見えなくもないが、この紳士が子供に語り聞かせている仕来りとやらは、病的なまでの熱っぽさというか、何か歪みのような奇妙な感覚がある。

 いや、そんなことよりも――

(女神? 反乱勢力とは?)

 思い当たる節といえば七賢人。

 いや、厳密にはそうだと言い切れない。彼らは女神を快くは思っていないのは確かだが、あくまで規制団体であって反乱勢力というほど過激ではない。そもそもここはイヴの記憶が映し出した過去の世界だ。七賢人がまだ活動を開始していない可能性もある。けれどもイストワールには七賢人以外の団体の名前は見たことも聞いたこともない。

 ますますここはどこだろうという疑問がイストワールの中で膨れ上がった。領主ウイングナイツ。やはり見たことも聞いたこともない名前だった。

 ここはさもなればプラネテューヌ国外にある場所なのだろうか。

 色々と想像を巡らしていたそのとき、ふいに森の中のお屋敷の風景が遠ざかった――暗い個室。ウイングナイツ邸のお屋敷にある地下牢。地獄の底に繋がっているかのような階段の底。

 そこには幽霊が――いや、真っ白な肌をした女の子が幽閉されていた。

(イヴさん!?)

 いや、よく似た別人だ。本物のイヴは鉄格子の前にちゃんと座っているし、肌の色は白くもなんともない。

(彼女はルールローゼ・シュートリッヒ・ウイングナイツ)

 イヴの記憶を介して、領主ウイングナイツの長女として生を受けた双子の姉であると理解が訪れた。しかしその存在は一族の禁忌として秘匿され、姉の存在そのものがなかったように扱われている。イヴはあるとき彼女の存在に偶然気づいてしまったのだった。

 見た目と容姿こそイヴとうり二つだが、身にまとっている雰囲気が違う。この少女には華がある。ボロ布をまとっているにも関わらず、一国の姫君を連想させる優雅さがあった。

「私ね、生まれ変わったら鳥になりたい。あの抜けるような広い世界を自由に駆け巡りたい。白い翼をはためかせながら、広大で果てのない世界をいつまでも旅し続けるのよ」 

 姉は目を輝かせながら誇らしげに自分の夢を語り聞かせている。

「それ、すごく楽しそう!」

 楽しそうな姉を見るだけでリリーまで嬉しくなってくる。

「まあ、リリーも分かってくれるのね」

「お姉ちゃんの考えることは、私にとっても楽しいことだから。だから、私たちって似た者同士なのかしらね」

「わ、私達は姉妹なんだから当然でしょう」

 姉はちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。そんな姉の様子に私もついついつられて笑ってしまう。

「空を飛びながら世界を回るだなんて素敵。そんな素敵な思いが出来るなんて、鳥は贅沢な生き物よね。私も大きくなったらいつかお姉ちゃんと旅がしたいなぁ」

 他人を気にせず、自由気ままに生きていく。それはどんなに気持ちの良いことなのだろう。だけどそんなリリーの喜ばしそうな様子を見て、姉はいつも申し訳なさそうな顔になる。

「ここから出られたら――の話だけどね。……情けないことだけど」 

 自分の五体を戒めている手錠を煩わしそうに鳴らした。妹の期待を裏切ってしまう自分が不甲斐ないとばかりに。

 

 

(それは美しくない。醜い事だ。愛とはとても美しいモノ。それが与えられない姉はきっと醜いのだろう。私は恐ろしかった。パパとママが別の生き物に見えて。みんなと家族でいるためには、お姉ちゃんのことを家の中で口に出してはいけない。私は幼いながらも理解した。そのことを口にするということは、みんなを怪物へと変えてしまう魔の囁きなのだと。家族の輪から遠ざけられる行為なのだと。そうしないためにはどうすればいいか。答えは明瞭である。ただ、それをいないものと思えばいいのだ。目を塞いで、仮面をつけて、醜いものを見なければいい。姉のことなんて知らない顔をすればいい)

 

 

 どうしてだろう。イヴ――リリアーヌはひどく葛藤していた。何かが間違っていると思った。けれども考えても考えても何が間違いかはハッキリとわからなかった。パパとママは悪くない。だってパパとママの言うことは絶対なのだから。姉は満足に食事を与えられていないし、お洋服を着る楽しみもない。自分だけが何故自由でいられるのだろう。

 姉は悪い子には思えない。パパの言いつけを破る嘘つきとは思えない。姉は美しい。自分なんかよりしっかりしていて頭がとても良い。そんな子が醜いはずがない。なのになんで自分ばかりが楽しい思いをしていられるのだろう。姉はなんであんな狭苦しい場所に閉じ込められているのだろう。

 

「どうして? どうして私なの?」

 

「これはあなたにしか果たせない務めなのです」

 ふと、疑問に答える声が――いかめしい老紳士の声が上から降ってきた。その老紳士はウイングナイツ家に仕える執事であった。

 パパとママの前に連れ出されるかもしれない。そう身構えるリリーに、執事長は地下牢の鍵をそっと手渡した。

「あなたが、あの方の妹だからです」

 執事長は疑っていなかった。自分が姉を助けるのだと信じて疑おうともしなかった。

 あなたは美しい――姉にそう言ったときのことを思い出した。喜びに打ちひしがれる姉の顔を。子供のようにぼろぼろと涙を流していたときのことを。

 あのとき、何かを与えられる喜びを、始めて知ることが出来たように思えた。

 他ならぬ自分の手で。

 それはなんて心地よくて、気持ちの良い事なんだろう。

 きっとパパとママが、私に“アイ”を与えているときも、同じ気持ちなのだと思った。

 だから信じてみたいとリリーは思った。

 パパとママが、姉のことを本当に愛しているかどうかを。

「ねえ、リリー」

 ふいに、姉が言った。その声は不思議なくらい穏やかだった。

 それは運命のあの日。

 リリーは執事長から渡された鍵で、姉を戒める封印を解いてやった。今の彼女はボロ布ではなく、真っ黒なドレスを身にまとっており、さながら天国に続くかのような長い階段を二人して登り続けている最中だった。二人で自由を掴み取るために。

(ついに来た。イヴさんのトラウマにたどり着いた――)

「何が美しくて、何が醜いのか――あなたは分かった?」

 リリーはかぶりを振った。その答えは未だに分からなかった。もしかすると質問の意味さえ理解しかねているのかもしれない。

「私ね。今、その答えがようやく解かった気がするの」

 ゆっくりと姉が顔を上げた。そこには、少女のように無邪気さそのものの笑顔があった。宝石のように曇り一つない、透き通った笑みが浮かべられていた。

「リリー。今なら、あなただけに、特別に教えてあげる」

「本当に!?」

 リリーは大いに喜んだ。相も変わらず、意味の分からない謎かけだったが、その答えが聞けるというのなら聞くに越したことはないだろう。

 それは秘密を共有する者同士の笑み。

「だから、さ」

 ――死んでくれる?

 

 そして、二つの手が、わたしの喉をぎゅっと締めつけた。

 いきなり姉に首を絞められたとき気づいたときには手遅れだった。ありったけの力を込めて、喉元へと徐々に食い込んでいく。

 朦朧と薄れゆく意識のなか、この嘘つき、という声が聞こえた気がした。

(違う。本当はこうじゃなかった)

 これは正しくない情報であると告げている。人の持つ記憶は曖昧で不確かだ。だからこそ形は自在に変化する。それが必ずしも正しい情報をもたらしてくれるとは限らない。誤った記憶も紛れ込んでいるだろう。おそらく激しいパニックに陥ったことで記憶の混濁が起こっているのかもしれない。

 人は自分を美化したり、都合の悪い部分を切り捨てたり排除しようとしたりする。意識してようと無意識下であろうとも。精神の安定を保つために、不要な記憶は抹消してしまう。自分を守るために。

「お願い……それだけはやめて!」

 突然、映像が切り替わり、姉の切迫した叫び声が響き渡った。

(これが本当の記憶――)

 ここはイヴの記憶の中で、どこまでも切実で、やりきれない悲哀に満ちていた。

 それはイヴのトラウマの輝き――

「パパとママには会いたくないの!」

 姉が声を大にして叫んだ。しかし痛々しいまでの懇願の声を、リリーは切り捨てた。

「パパは許してくれないわ! 外に出ることを許してくれない! そうしないと私達は閉じ込められたままなんだよ!」

「この嘘つき! 私と二人だけで外に出るっていったじゃない! あれは嘘だったの?」

「それじゃあ、意味がないんだよ。パパとママにあなたの存在を認めてもらわないと私達は前に進めない。今も、これからだってずっと!」

「いいえ、違うわ。この家の家族である限り、永遠に囚われたままなのよ! 私も、あなたも!」

「私達は同じ家族なんだよ。話し合えればきっと分かってくれるわ!」

「いや! いやよ! そんなの上手くいくわけがない!」 

「お願い、お姉ちゃん! 私の言う事を聞いて!」

 激しい口論の果てに、リリーの口からずっと今まで秘密にしていた言葉が弾丸のように放たれた。

 

「ルールローゼ!」

 

 姉は衝撃を受けたように固まった。始めて姉を名前で呼んだ瞬間であった。

 それは姉にとって、紛れもない家族の証でもあり、ボロ布と暴力以外で――唯一与えられたモノだった。

「ねえ、リリー」

 ふいに、姉の声が聞こえた。不思議なくらい穏やかで、どこか吹っ切れたような声に、リリーはなぜか悪寒で背筋が震え上がっていた。

「何が美しくて、何が醜いのか――あなたは分かった?」

 私は静かにかぶりを振った。何故このタイミングでそんなことを言い出すのだろうか。

「私ね。今、その答えがようやく解かった気がするの」

 ゆっくりと姉が顔を上げた。姉の貼り付けられた表情に、恐ろしさのあまり私は凍りついた。姉が初めて見せる表情に――否、むき出しの殺意というものに心の底から戦慄を覚えていたのだ。生まれて初めて向けられる殺意に、心が、身体が、ひどく怯えきっていた。

 ソレは気配を感じさせないほど、あまりにも自然な動作で近づいてきている。

「リリー。今なら、あなただけに、特別に教えてあげる」

 気づいたときには姉の腕が息もかかるほどすぐそばに伸ばされていて、私の首を絞め上げてきた。

 かはっと苦しげな息が漏れた。ものすごい力で肺腑が圧迫され、体に残る空気が残らず搾り取られていき、思考が真っ白に塗りつぶされていく。

 ――お、お姉ちゃん……な、何を!?

 束縛から抜け出そうと身体をばたつかせるが抜け出そうにも抜け出せない。姉の腕の力は想像以上に強かった。細い身体のどこにそんな力があるのだろう。それほどまでに姉は本気だというのか。

「私、みんなを殺すわ。こんな家なんて最初からなかったことにするの。それ以外にもう道はない」

 姉の目が真っ向から突き刺さる。冷たい殺意のようなそれは――まるで心臓に剣を突きつけられているのと同義だった。

「こ、殺すって、なん、で」

 そう聞くだけでやっとだった。遠のく意識の中、姉の優しい笑顔ばかりが脳裏に浮かび上がっていた。違う。これは姉ではない。姉に似た誰かなんだ。だって姉はこんなことしない。こんな怖い顔をしない。誰かに暴力を振るえるような子ではない。誰よりも童話が大好きで、誰よりも夢見がちなところがあって――リリーにとって唯一の優しいお姉さんなのだから。

「あなたを信じたいと思ってる。それは本当よ。だけどね、パパとママだけはなにがあっても信じられない! あの人達が、私に何をしてきたか分かる?」

「パ、パパは前にこう言ったわ」リリーは苦しげに、でも懸命に声を振り絞っていく。「お、親と子であり続ける限り、愛とは無条件に与えられるモノだって。私はその言葉を信じてる。だから、だから、私は家族を信じたい!」 

「そう。あの人たち、あなたにはそう言ったのね。……本当におめでたいことだわ」

 姉は静かに顔を伏せた。手痛い裏切りを受けたかのように、その瞳は凄烈なる憎しみの炎で燃え盛っていた。

「10年」

 ぽつり、と姉が喉を震わせた。

「この数字が何を意味するか……あなたには分かる?」

「……」

 首を動かそうにも動かせなかった。視界が、意識が霞んで何もかもが遠ざかっていく。

「そう、分からないのね。ここまで言ってピンとこないだなんて。あなたにとって、あの人たちは尊敬すべき立派な両親なのかもしれない。でもね、私には違う。あの人たちの本当の顔を私は知っている! 何も知らない子供のあなたと違うのよ! 安寧と毎日の衣食住を約束され、暖かい布団の中でぬくぬくと育ってきたあなたには想像がつかないことかもしれない。この世界は”アイ”に満ち溢れていると何の疑いもなく信じているのかもしれない。だけどね、そんなものは全てまやかしに過ぎないのよ。あなたが温室で10年間ぬくぬくしている間、私はずっと冷たい地下牢に10年間も囚われ続けていた!」

 ぎりぎりと姉の爪が食い込んでいく。

「あの人たちが私をどういう目で見ていたか分かる? 実の娘としての愛情どころか、対等な人間として見てくれることすら叶わなかった。仮面のように無機質で、まるで壁を隔てた向こう側から醜い生き物を見るかのような目だった。あの人たちが今まで私に強いてきた行為を思い返すたびに、恥辱と屈辱の記憶が私を蝕んでいくようだわ!」

「あ、諦めるのはまだ早いよ。ちゃんと話し合ってみようよ……」

「無理よ! 無理なのよ! そんなものは……私には最初から無理なのよ。生まれたことすら望まれていなかったのよ……っ!」

「私がついてるから……だから、もう一度だけ、パパとママを信じてみようよ」

「親と子であり続ける限り、愛とは無条件に与えられるモノ、か。随分と美しい言葉じゃない。だけど、だけど……私には――そんな言葉すら与えられなかった! 私を家族として見てくれたことなんて一度もなかった!」

 姉がより一層の力を込めて首を握りしめる。爪が皮膚を破り、熱を持った赤い液体がじわじわと滲み出てくるのを感じた。私はたまらず喉を振り絞った。

「ルールローゼ! ――お願いっ、私を信じて!」

「――その名前で呼ぶなっ!」

 悲嘆と悲痛が入り混じった叫びが上がった。何か大切なモノを守ろうとするかのように。

 それを傷つけられたら、もう二度と立ち直れなくなるような、そんな恐れに震えていた。

「ねえ、知ってる? 私ね、あなたの存在を初めて聞かされたとき、殺してやろうかと思っていたのよ」

 姉はゆっくりと顔を上げた。

「――……私はね、あなたが羨ましかった。パパとママから”アイ”されるあなたに嫉妬していた。あなたは私にないモノばかり持っている。いつかその全てを奪ってやろうと思っていた。でもね、あなたと会ってから、自分の気持ちが分からなくなってきた。私は両親にちやほやされてるあなたのことが憎くて憎くてたまらないのに、あなたに優しくされるたびに心が揺らいだ。あなたに”アイ”してると言われたときはもう夢みたいだった。こんなろくでもない掃き溜めのような人生にも、幸せがあるんだって信じられた。けれどその一方で、あなたへの憎しみは捨てきれなかった。恵まれているあなたを見て、私の中に孕んでいた憎しみの炎は猛り狂い、勢いを増していくばかりだった」

 これまで姉は何度も楽しそうに色々なお話を語り聞かせてくれた。しかし、リリーの前では楽しそうな笑顔を浮かべていながらも、その内心は黒々とした憎悪や嫉妬が渦巻いていたのだろうか。

 どれが本当で、どれが虚構なのか。

 姉の本当は何だったのか。

 リリーには分からない。

 人の仮面の奥底など誰にも覗けやしないのだから。

「笑っちゃうわよね。一番美しいのはあなたで、一番醜いのは……この私よね」

 姉の頬に一筋の光がきらめいた気がした。泣いていたのだろうか。それすらも分からない。視界が朦朧としていてはっきりとは見えなかった。

「優しくされたり、ひどいことをされたり……もう訳がわからない。勝手に生んで、勝手に捨てて……みんなは私をどうしたいの――私はどうすればいいの?」

「一緒に……考えよう」

 姉が腹の底で何を考えようともどうでもよかった。暗闇の底からすくい上げたかった。姉をここまで追い詰めさせた何もかもから、深い絶望の淵から助け出してあげたかった。

 外の世界に連れ出してあげたかった。

「あおい……空を、一緒に、見ようよ」

 どうにか絞り出した言葉に、しかし姉はうつむきながら、妹の言葉を否定するかのように首を振った。

 刹那、首をしめつける腕の力が弱まった。私は息苦しさから開放されたいあまり取り返しのつかない過ちを犯した。咳き込みながら肺腑に雪崩込んでくる新鮮な空気に耐え切れず、ほんの弾みで姉の身体を、渾身の力を振り絞って突き飛ばしてしまった。

 ここが階段だということも忘れて。

 その途端――姉の身体がふわりと空中に浮かんだ。

 一瞬、自分の身軽さに驚くような顔をしたあと、曇り一つない透き通った笑みを姉は浮かべた。そこには、少女のように無邪気さそのものの笑顔があった。

「こんな気持ちになるくらいなら……私なんて生まれてこなければよかった」

 姉の身体は、そのまま真っ逆さまに転落し――深い深い奈落の底へと吸い込まれていった。

 深い暗闇に、取り残された妹の絶叫が木霊した。

 

 地の底に続くかのような階段の果てに、白い少女がいた。どこか哀れみを感じさせるその姿は、神様の罰を受けたことで翼をもがれてしまった堕天使を連想させた。

「ごめん、なさい。ごめんなさい……」

 傍らに寄り添っていた少女が、声にならない謝罪の言葉を繰り返した。呪文のように、こわごわと。それは繰り返される。

 こんなつもりじゃなかった。こんなことをするつもりなんてなかった。どうしてこんなことになったのか。全てが今更だった。そこにどんな意思や思惑が介在しようと、しなかろうと全てが終わってしまった。もう取り返しのつかない悪夢として横たわっていた。

 姉が横たわったまま手を伸ばし、暗闇の中から何かを探し求めるかのように宙をさまよわせている。意識は朦朧とし、目は霞み、どこに何があるかも分からないのだろう。かと思うと、姉が弱々しく唇を震わせた。

「くら……い」ごぼっと血を吐いた。「なにもみえ……ない」

 姉の身体からとめどなく流れ落ちるものがあった。魂だ。姉の身体から魂が流れ落ちているのだと感じた。姉のやせ細った身体から、これほどの血がどこに隠されていたのだろうか。

 その音を止めさせたい一心で、妹は姉の口から零れ出る血を無我夢中ですくい上げた。これ以上、姉から奪い続けようとする何かを止めるために。

 これまで姉は耐え続けてきた。自分の人生や自由を奪われ、死にたいと思いながらも懸命に生き続けてきた。その姉から命すら奪うのか。

 自分が何をすればいいのか分からなかった。それ以外にどうしようもなかった。自分がどうしたらいいのか誰かに教えて欲しかった。

 ふとリリーの前で、姉の手が宙に真っ直ぐ伸ばされた。

 何かを探し求めるようにふらふらと虚空をさまよい、ひどく掠れきった声が漏れた。

「あおい、そらが……みたいよぉ」

 そして、探すことにすら疲れきったように、ぐったりと力なく手が滑り落ちた。それは世にも恐ろしい音だった。旅の途中で力尽きた鳥が、地に墜落するかのように、とても悲しく恐ろしい音だった。

 それを最後に、姉は目を閉じたまま身動き一つしなかった。

「おねえ……ちゃん?」

 おそるおそる、姉に呼びかけた。返事はなかった。

「ねえ、おねえちゃん。返事、してよ」

 返事はなかった。身体を揺さぶっても、ぴくりとも身動きしなかった。

 こんなことをするつもりなんてなかった。自分はただ姉にとって良かれと思って行動したつもりだった。全てが手遅れだった。

「そんな……いやだよ。嘘だと言ってよ。ねえ、おねえちゃん……ねえったらぁ……っ!」

 堰を切ったように、魂を揺さぶる慟哭が響き渡った。

 その日から天使はもう愛や希望を歌ってくれはしなかった。取り返しのつかない過ちとして、翼をもがれた滑稽な姿がそこには打ち捨てられていた。

 

 

 

 黒の教団――元・野営地

 

 ――イヴさんっ!

 

 イストワールの声が頭の中にひときわ強く響く。心を揺さぶる悲痛な叫びにはっと意識が引き戻されていく。

 イヴが我に返ったとき、そこには信じられないような光景が広がっていた。

 一面、血だらけの地獄絵図が広がっていた。

 わなわなと震える手で頭を抱え込んだ。血と硝煙の臭いが鼻ざわりだった。

 これまでの記憶が全くない。殺戮の記憶が。殺人の感触が。頭の中から綺麗さっぱり欠落している。

 だが、誰の仕業かは一目瞭然であった。

「いつからだ……いつから私はおかしくなった」

(は……)

 世界は、どこもかしこも死の臭いに満ちていた。

 屍の山が――イヴ達の目の前で積み重ねられていた。

 それは人間だったり、犬や猫などありとあらゆる生き物が混ざっていて統一性がない。その顔はみな恨めしそうに白目を剥いた。死者は何も語らない。されども、みな陰惨な表情がやり場のない無念の思いを物語っていた。

 訳も分からず、身体が震えてきた。寒さではない。その震えが身のすくむような恐怖からなのか、歓喜の感情からなのか、正体は分からなかった。

 この者達は人間のクズだった。自分勝手な都合で人々の安寧を脅かそうとする心無き侵略者共。

 人を捨てた畜生として、これは当然の末路といえた。

 だけど、それでもイヴは無我夢中で叫んでいた。

「いつから私はこうなったと訊いている!」

(リンダさんが、あの男――ハザウェイに殺されてからです……)

「リンダが……死んだ?」

 走馬灯のように戦いの記憶が頭の中を駆け巡っていく。

 無意識の内に殺戮を繰り広げ、この惨劇の世界を作り上げていたというのか。

「うそだ……」

 這い上がる無力感に、ひざから崩れ落ちた。

「うそだ……こんなの、うそだ。こんなはずではなかった。こんなこと、するつもりもなかった」

 誰も殺そうとは思っていなかった。誰も死なせるつもりなんてなかった。

 またしても自分は、この手で同じ過ちを繰り返してしまったというのか。

 身体から力が抜けきって、とても立ち上がれそうにない。

「私は……私、は」

 誰も守れなかった。誰も助けられなかった。何一つとして成し遂げられなかった。

 かつて、奈落の底に囚われた姉を救い出すことが出来なかったように。

 血に塗れた自分の手が物語っていた。お前が掴み取ったのはそんなものなのだ。それが結果なのだ。

 自分は今どんな顔をしているのだろう。

 あの獣のような男が言ったように、殺すことに快楽を感じているのだろうか。――殺人を楽しんでいるもう一人の顔が。

 分からない、分からない。

 きっとひどい顔をしているに違いない。

 戦いにこそ生への喜びを見出す獰猛なケダモノの顔――

 そっと手を顔に伸ばしてみた。

 笑っていた。楽しそうに、可笑しそうに、愉快そうに。

 それでも自分が信じられなかった。

 今の自分がどんな表情をしているのか、イストワールに聞いてみたかった。

 自分は泣いているのかと思った。涙は流れていなかった。

 絶望感に打ちのめされ、全身が押し潰されそうになったそのとき、

「ちょっとちょっとぉ、戦いの最中に何してるんですかぁ?」

 どこかから声が降りかかった。

「ダメじゃないですかぁ。殺すのが楽しくなっちゃう気持ちは分かりますが、まだ敵は生きているんですよぉ。そいつらをみすみす逃がすだなんて。たとえそいつが背中を向けていようと、自分に一度歯向かった者に情けをかける余裕があるだなんてどうかしてますよぉ。そいつは新たな武器を手にまたあなたの前に立ちはだかってくるかもしれないんですよぉ。早いうちに芽は摘み取っておかないとね」

 声のする方に顔を向けると、そこには女がいた。

 ただの女ではない。とてつもない気配をともなった存在がそこにはいたのだ。

 この惨状に気を取られていたというのも要因の一つではある。しかし、こんな強大な存在にここまで接近を許しておいて尚、その存在に気づかなかった。

 この女、只者ではない。

「生きて、いたのか……!」

 イヴがかつてない驚きに目を見開いた。

「生きていたとは、とんだご挨拶ですねぇ」

 両者を共に知っているかのような口ぶりにイストワールは首をかしげた。

(知り合いなんですか?)

(……)

 イヴは肯定も否定もせずに黙り込んでいる。

 そんなことを考えていると、

「あら、そちらの人工妖精さんは何も聞かされていないんですかぁ?」

 女が見透かしたように高らかな嘲笑をあげた。

 驚愕した。この女――イストワールとイヴが精神で繋がっていることを一目で見破ったというのか。

「教えてあげてもいいけどぉ、普通に教えてあげてもつまらないんでぇ、ヒントをあげましょう! あたし達は女神メモリーによって作られた、一万年前の女神でぇーす!」

(一万年前……?)

 イストワールのぽかんとした声を見破ったのか、女がおかしそうにケタケタと笑っている。

「あははははっ、ほんとに何も聞かされていなかったんですかぁ! これは傑作ですね。それってつまり、そこの白い人はあなた達プラネテューヌの住人を信用してないということじゃないですかぁ!」

「……っ」

 当のイヴは否定も肯定もしない。険しい顔つきで下を向いて押し黙っている。白く美しい装甲。宝石のような光を放つ翼こそ隠しきれぬ証。イヴが女神であることの何よりの証明だった。

 あれは一万年前の出来事だったというのか。とんでもない驚愕の事実である。さしものイストワールも首に手を当てて難しそうな顔でうなっている。

 にわかには耳を疑うような数字だが、しかし成程。この女の言質を真と捉えるならば、女神は永遠の時を生き永らえる存在。不死にして不老。それだけは今も昔も変わらぬ不動の摂理である。一万年もの時を何食わぬ顔で平然と過ごしているのも頷ける。

 そもそも女神になる前提として、女神メモリーに触れる必要がある。

 そこで、イストワールは気づいた。先ほどのイヴの過去には、イヴが女神になった記憶が欠落していることに。

 そうなると、あのとき見たイヴの記憶は全て、一万年前の出来事なのか? イヴが生きた時代も、あの惨劇も。

 あの記憶はあくまでも断片。時系列的に考えるならば、イヴが姉を殺してしまった後に、何らかの事件があって女神になってしまったと考えるべきだが……けれども腑に落ちないのは何故、彼女は女神になってしまったのか。何が彼女を女神にさせる道を選択させたのか。

(少なくとも現時点でハッキリしているのはイヴさんの過去に、この女の人は登場しませんでした。そうなると時系列的に考えるならば、あの惨劇の後に知り合うことになる人物でしょう)

「いやー、なんていうの? ぶっちゃけると、あたし元々は一国を治めていた女神だったんですよぉ。で、あるとき自国の民があたしの政策に文句つけてくるから気に入らないやつらを片っ端からぶっ殺していたんですよぉ。そしたらぁ、迷惑なことに、そこにいる白いお嬢ちゃんがなんかいきなり邪魔してきたってわけなんですよねぇ。いやー、マジウザイっすよねー。あのときは急に邪魔が入るとは思わなかったですよぉ。まさかお前みたいなクソガキのせいでクソ家畜共を処刑する予定が狂わされるとは思いもよりませんでしたよぉ。でもでも笑いどころなのがぁ、あたし達が争ってたら、なんかいつの間にか国が吹き飛んでいたってわけ! 結果として国がまるまる吹っ飛んだから処刑の手間も省けて結果オーライってやつ? 結局あんたがあたしと戦った意味ないっていうね! アハハハハハハッ、ちょーウケる! 昔のことだからあんま覚えてないけどぉ、まあ、大体こんな感じ?」

「今更……何をしに来た」

「何をしに来たかですってぇー? これまた心外で辛辣なお言葉ですねぇ! てか何コレ? むしろこれ笑いどころ? 笑いどころっしょ! つか、笑うしかなくね?」

 女の険しい双眸がぎょろりとこちらを向いた。

「そんなもの――戦争の続きに決まってるだろうがクソボケェッ!!」

 いきなり腹の底からひねり出したような嬌声を放った。人が変わったような嬌声に、思わず二人はひるんだ。

「人が大人しくしてればふざけたことを抜かしやがって! まだ寝ぼけてるのかよぉ? それなら周りを見回してみろっ! 今、まさにテメェがやっていたことだろうがよぉっ!」

 人を食ったようなおちゃらけた態度から一転。それは悪鬼羅刹のように凄絶な形相だった。

 イヴも負けじと言い返す。

「お前も黒の教団も同じだ! お前たちは、終わったはずの戦争を自分の中で続けている! 一万年というカビの生えた昔話を蒸し返しているだけだ!」

「違うねぇ! 戦争はまだまだ終わってすらいないのよぉ。現に、こうして一万年の時を経た今、お前とアタシがこうして相対している! 私達は生きている! それが何よりの証明じゃないですかぁ?」

「お前はまた、あのTARI(タリ)ショックの惨劇を繰り返すというのか……!」

「はぁ? まだふざけたこと抜かすのかテメェは。これを作り出したのはあたしだけじゃない! テメェも、だろうがぁ!!」

 何もかもがお前のせいだと言われた気がした。

 国が滅んだのも、名も知らぬ兵士たちが倒れているのも、リンダが殺されたのも――ルールローゼ()が死んだのも。

「テメェとあたしは同類だ! 黒の教団はあたし達に捧げられた生贄に過ぎない。神々の戦いに、人間どもの犠牲は必然。この巡り合いのための代償なんですよぉ」

「……」

「あぁ、ごめんなさぁい。……昔のことを思い出してきたらまたムカムカしてきちゃいましたぁ。一万年も休戦していたんです。御託はいい加減止めて――そろそろお互いに決着をつける時だと思いませんかぁ?」

 女が虚空から杖を取り出した。あれこそあの女が得意とする獲物だ。一万年前の民にとっては畏怖の対象でもあり、恐怖の象徴として心に刻みつけられていた。多くの者たちを虫ケラのように屠り捨てた殺戮の要。実際、あれを見たものは誰一人として生きて帰ってくることはなかった。イヴ唯一人を除いては。

 それは実際、生きる希望を失いかねないほどの恐怖だった。死んだと思っていた相手とこうして再び合間見えることは。イヴの人生の中で、最大最悪の敵が。間違いなくこれまで遭遇した中で一番――いや、二番目に。最強で最凶の覇者であると嫌という程、脳裏に刻みつけられていた。

「あたしは七賢人のリーダーを務めるキセイジョウ・レイっていいます。それでは――」

 始めて聞いた女の名前。イヴは身が引き締まる思いと共に、その重圧をただ受け止めた。生き残るために。

 レイの青い瞳に、凍てつく殺意が濃縮されていく。

「さ・よ・う・な・らァ――ッ!」

 

 

 ~続く~

 


 
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