No.607121

フェイタルルーラー 第十六話・弑神の剣

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。死表現・流血・残酷描写あり。死亡者あり。R-15。20067字。

あらすじ・エレナスは急ぎ屋敷に戻ったが、セレスは何者かに攫われた後だった。
リザルはセレスを取り戻すために単身で敵地へ乗り込むが、彼の肉体はすでに深淵と同化していた。

2013-08-09 20:53:29 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:522   閲覧ユーザー数:522

一 ・ 弑神の剣

 

 ――それでも、キミは選ばなくてはならないだろう。リザルを殺さずに世界の破滅を迎えるか、彼を殺し破滅から救うか。その日はもう、遠くないよ。

 

 これが答えなのだろうか。

 だがこれは、エレナス自身が出した答えではない。リザルが望んだ答えだ。深淵を取り除くどころか、侵食を遅らせる事すら出来なかった結末が今、エレナスの眼前にあった。

 月光を受け反射する森の木々が、不安を煽るようにざわめきを散らす。どす黒い空気が対峙するエレナスとリザルとの間で、冷たく張り詰めた。

 

「こうでもしないと、お前はその剣を持ち出さないだろうからな。城内で斬り合う訳にもいかないし、何よりもセレスにこんな姿を晒したくない。……それに」

 

 リザルは軍刀を右手で強く握り、その切っ先をエレナスへと向けた。

 

「お前だって自分の命が危うければ、相手を斬り殺す覚悟はあるだろ? オレの中に潜む深淵がずっと囁き続けているんだよ。……お前を殺せとな」

 

 

 

 日の傾きかけた王都ガレリオンの路地を歩く男がいた。

 大きな麻袋を肩に担ぎ、日よけの布を頭に巻いている様は、地方から出稼ぎに来た労働者のようにも見える。

 男は商人たちが利用する荷馬車の停留場へ入ると、そこに待機していた一台の荷馬車へ近付いた。肩の荷物を荷台に降ろし、御者から代金を受け取る。

 

「ご苦労さん」

 

 御者は麻袋を確認しようともせず、男に声を掛けた。

 

「悪いが念のために配送伝票も書いていってくれ。間違って届けると大事だからな」

 

 男は御者が差し出した伝票に木炭筆で『ネリア王城気付、レナルド・メリエ・アレリア・エルゾ大公様宛て』とだけ書いた。御者は伝票を受け取ると宛名を確認し頷いた。

 

「了解した。他の『影』たちにも伝えておいてくれ。『配送先』で大掛かりな『祝宴』を催すそうだ。『客』に気付かれぬよう、夜には警備のために必ず戻れと仰せだ」

 

 男は言葉も無く頷き、躍るように身を翻してその場から消えた。

 それを見送った御者は荷物を一瞥し、馬に鞭を入れると王城へ向けて馬車を走らせた。

 

 

 

 セレスの走り書きを見たエレナスは、一目散に屋敷へ向かった。

 反応の無い呼び鈴に焦り、扉を激しく叩くと中からは仲働きの女性が現れた。

 

「おや、エレナス様。お久しぶりですね。どうかなさったのですか」

 

 恰幅の良い中年女性はエレナスを覚えていたのか、丁寧に出迎えた。買い物から戻ったばかりなのか、薄い外套を羽織ったままだ。

 

「すみません、セレスは中にいるでしょうか」

「私も今戻ったばかりで、セレス様の姿はまだ見てませんね。多分お部屋においでだと思いますよ」

 

 女性が指すのは二階にあるセレスの自室だ。

 失礼しますと女性に声を掛け、エレナスは二階へ続く階段を駆け上った。部屋の扉を叩いても反応は無い。意を決してノブを回すとそれは軽い音を立てて内側へ開いた。

 がらんとした部屋の中、エレナスはセレスの姿を探した。争ったような形跡は無いが、何かが不自然だ。しばらく探してそれが開きっぱなしの窓のせいだと分かると、エレナスはそっと窓へ寄った。横目で窓の外を窺うと、何者かが庭から侵入したような形跡が残っている。

 

 机を見てもさすがに書置きのようなものは無く、侵入者が徹底的に痕跡を排除したのだろうと思い至った。セレスが普段使っている外套やカバンは部屋に残されており、屋敷中を探してもいなければ攫われたと考えるのが妥当だ。

 一階のホールへ戻ると、先ほどの女性が不安そうにエレナスを見つめていた。その表情を見るに、彼女なりにセレスを探したが見つけられなかったのだろう。

 

「あの、セレス様に何かあったのですか……?」

「大丈夫です、心配なさらないで下さい。ところで、最近新しく庭師や馬丁を雇ったりしましたか?」

「ええ、庭師なら一人、新しい人が来てましたね。秋の終わりまでの契約ですが」

 

 女性の言葉にエレナスは、ありがとうございます、とだけ答えた。

 その一方で疑惑が確信へと変わった。セレスの部屋から見える屋敷の石塀には、庭師が使う梯子が立てかけられていた。恐らくその梯子を使ってセレスの部屋へ忍び込み、彼を攫って塀を越えたのだろう。

 庭師であれば、庭から屋敷全体を監視するのもたやすい話だ。誰からも怪しまれず、業務をこなしながら監視を続ける。庭を囲むように建てられている、この屋敷ならではの手法だ。

 

 女性にいとまを告げ、エレナスは急いで庭師の痕跡を辿った。石塀の上に付着している土はまだ水気を含んでおり、そう時間は経っていない。

 しばらく土の着いた足跡を追ったものの、それは途中でぷつりと途絶えた。折しもそこは商業区の路地裏で、庭師がどこかの店へ入ったのか、もしくは靴を履き替えたのか、エレナスには判断がつきかねた。

 

「もう一息だったのに……!」

 

 エレナスは悔しさに唇を噛んだ。目印を失ってしまえば、痕跡を辿る事は不可能だ。

 辺りを見回しても、軒を連ねる店があまりにも多く、庭師の消息を追うのは困難を極めた。

 

 その時、誰もいないはずの路地に一陣の風が吹いた気がして、エレナスは振り向いた。

 そこには蒼い衣装を纏ったよく知る男が立っている。白の耳に白い髪、巨大な尾は、紛れも無い獣人族の証だ。

 

「ソウ! どうしてここに」

 

 エレナスは驚き、ソウに駆け寄った。神殿遺跡で別れて以来、お互い生きて再会出来た事をエレナスは嬉しく思ったが、以前と雰囲気の異なる彼に不安と疑念を抱いた。

 そんな彼の様子に気がついたのか、ソウは言葉少なに口を開く。

 

「詳しい説明は今は出来ない。今言えるのは、セレスは大公の放った諜報員に拉致されたという事だけだ」

「やっぱりアレリア大公の仕業だったのか……。このままではセレスの身が危険だ」

 

 その言葉にソウは静かに頷いた。

 

「セレスとリザルの様子を、気付かれないように遠くから窺っていたせいで救出に間に合わなかった。先ほどそこの停留場から荷馬車が出発したが、どうやらそれに乗せられていたようだ。人の多い王城に入られては、私では手が出せない」

「王城の中にある大公の仮邸宅か。大丈夫、俺が行く。すぐに追いかけるよ」

 

 踵を返し走り出そうとして、エレナスはふと足を止めた。

 

「ありがとう、ソウ。神殿遺跡でも助けてくれた事、感謝してる」

 

 それだけ言うと、エレナスは一路王城へ向けて駆け出した。

 ソウはその後姿を見送りながら、再び穏やかな風の中へ溶け込み消えていった。

二 ・ 這い出る者

 

 アレリア大公の仮邸宅に荷馬車が到着したのは、日没直前だった。

 子供ほどもある大きな麻袋を荷台から降ろし、御者は仮邸宅に直結した裏口までそれを担いで行った。

 

 裏口には大公の衛兵がおり、御者は『影』から受け取った配送伝票を渡した。内容を確認すると衛兵は御者を通し、荷物を担ぎ入れる。

 荷物を一階奥の部屋まで運び込むとそこへ大公の侍従が現れ、麻袋を検分した。口紐を解き中をあらためると、そこには猿轡をされた黒髪の少年が眠らされている。

 

「ご苦労だった」

 

 侍従は御者に金の入った袋を渡し、再び裏口から帰した。

 猿轡をはずし、眠り続ける少年を侍従は寝台へ移した。そのまま窓の鎧戸を降ろし扉の鍵を掛けると、彼は二階にいる主の許へ向かった。

 

「殿下。セレス様をお連れ致しました。一階の客室でお休み頂いております」

 

 侍従の報告に、大公は満足そうに笑った。

 豪奢なソファに優雅に寝そべる姿は、一見美しい貴公子にも思える。だがその笑みは邪悪さを湛え、瞳には凍てついた意思だけが宿っていた。

 

「そうか。報告では、セレスに接触した少年がいるそうだな。不必要に知られてはまずい。接触した者は始末しろ。どんな手を使っても構わん」

「畏まりました、殿下」

「これ以上レニレウスに嗅ぎ回られても面倒だからな。セレスの身柄がこちらにあるうちは、あの子を使ってフラスニエルを従える方が得策だ。暗殺を企てるよりも安全で利用価値が高い」

 

 楽しげに笑い声を上げる大公に、侍従は一礼をした。そのまま部屋を退出しようとした矢先、大公は声を掛けた。

 

「そういえばトルド。『影』はまだ戻らんのか?」

「今しばらくお待ち下さいませ。王都ガレリオンに放った全ての『影』を呼び戻しております故、多少手間取っておるようです」

 

 壮年の侍従――トルド伯は表情ひとつ変えず主に奏上した。

 大公のもうよい、との声にトルド伯は退出し、月が昇り始めた廊下を静かに歩いた。中庭を見下ろすと、集まりつつある『影』が無数にうごめいている様が、月明かりの中はっきりと見てとれた。

 

 

 

 ソウの助言を受け、エレナスは急ぎ王城へ戻った。

 城内における仮邸宅の位置を正確に知らないのもあり、相談のために彼はリザルの許へ向かった。病室の扉をノックし静かに開けると、リザルはうとうとと眠っているところだった。

 最近のリザルは起きているよりも眠っている時間が長く、エレナスは深淵による侵食の限界が近い事を悟っていた。何も出来なかった無力さと後悔に苛まれ、エレナスはただその場に立ち尽くした。

 

「……どうした? 顔、真っ青だぞ」

 

 不意に声を掛けられ顔を上げると、目覚めたばかりのリザルがエレナスへ目を向けていた。

 少しやつれているようにも見えるが、そこには優しげな微笑がある。これが父親の顔なのだろうとエレナスはふと思った。

 廊下に誰もいないのを確かめ扉を閉めると、エレナスは静かに口を開いた。

 

「驚かずに聞いてほしい。……セレスがアレリア大公に拉致された」

「拉致……? 何でセレスが拉致されるんだ。ネリア王家とアレリア王家は古くから交流もあって、遠縁とも呼べる間柄だぞ」

「これを……見てくれ」

 

 戸惑うリザルに、エレナスはセレスの走り書きを見せた。

 走り書きに目を落とした瞬間リザルの表情はこわばった。勢いよく寝台から跳ね起きると、彼はそのまま部屋を飛び出した。

 

「リザル! 一人では危険だ!」

 

 エレナスの制止を振り切り、リザルは独り駆け出した。

 

「大丈夫だ。一人でやれる。オレが助けずに、誰があいつを助けるって言うんだ!」

 

 放たれた矢のように疾走するリザルを、エレナスは程なく見失った。

 日の落ちた廊下へ声の限りに問いかけても、返って来るのは茫洋とした木霊だけだった。

 

 

 

 エレナスの声を振り切り、リザルは独り王城を駆け抜けた。

 ネリアとアレリアは領土における位置的条件から、互いに友好的政策を執る事が多かった。アレリアは防衛や外貨獲得手段としてネリアを必要とし、ネリアは豊富な水資源と労働力を賄うためにアレリアを必要とした。より緊密な関係を保つために、両王家は婚姻関係を結びながらそれを保持していった。

 それは長い間に両国間の歴史として刻まれ、リザルは友好の事実であると信じていた。

 

 セレスが、大公に攫われるまでは。

 

 走り書きを見る限り、セレスは偶然大公の仮邸宅に入り込み、殺人現場を目撃してしまったのだろう。仮にも王族を手に掛ける事は無いだろうが、人質としての機能はある。内外にそれを知られれば、ネリア王家の威信は失墜する。

 こんな時まで王家の事を考えている自分に、リザルはふと苦笑した。これから向かうのは王族としてではない。息子を取り戻す一人の父親としてだ。

 

 自分が至らないばかりに、セレスを苦しめたのだろうと思うとリザルの胸はぎりぎりと痛んだ。だがそれも最後だろう。どす黒い蝶が羽化して漆黒の羽根を広げるように、深淵が完全に顕現するのは時間の問題だ。

 セレスを救出した後は、どこか人知れぬ場所へ赴いて自らの息の根を止める以外は無い。誰も巻き込みたくない。だがそれが許されるだろうかと、リザルは走りながらぼんやりと考えた。

 

 王城の中央広間を抜け、王城と離れを連結する廊下の一階に彼は進んだ。

 仮邸宅に繋がる扉の前まで来ると、普段は配備されていないはずの衛兵がおり、リザルを押し留めた。構わず押し入ろうとすると号令がかかり、内部から兵たちがどっと押し寄せる。

 

 軍服の上着を羽織らず白いシャツに黒ズボンだけのリザルを、アレリアの兵は酔っ払いだと勘違いをしていた。

 兵たちは彼を囲むと捕まえ、玄関前から引きずり出そうとした。

 

「やめろ! オレに触るな!」

 

 五人もの兵がリザルを捕らえる中、彼は突如、人とは思えない力でそれを振り払い、突き倒した。

 

「どけ!」

 

 前方に群がる幾人もの兵を押しのけ、リザルは仮邸宅に足を踏み入れる。ホールのそこかしこで召集が掛かり、アレリア兵たちが彼の行く手を阻んだ。

 

「捕らえろ!」

 

 警備隊長と思しき兵が二階階段上から命令を下した。その瞬間、リザルは体の奥底から忌まわしい何かが這い出て来る気配を感じ、震え上がった。

三 ・ 原罪の痛苦

 

 外の喧騒にいち早く気がついたのは、侍従のトルド伯だった。

 二階の自室から覗けば、一人の男を捕らえようと兵たちが悪戦苦闘している様がありありと分かる。

 

 彼は身支度を整えると、急ぎ主人の許へと向かった。

 すでにアレリア大公もリザルの侵入に勘付き、不敵な笑みを浮かべながら侍従に告げた。

 

「どうやら虫が迷い込んだようだな。『影』からの情報では、その身に神を内包しているなどとあったが……。それが事実であれば、利用しない手はないな」

 

 端正な顔に下卑た表情を滲ませながら、大公は笑った。

 

「なるべく生かして捕らえるように。それが無理なら殺しても構わん。押し入ったのだから、それ相応の罰を与えてもネリアは何も言うまい」

 

 傲慢な主に異を唱える事も無く、トルド伯はただ、仰せのままにとだけ言葉を発した。

 

 

 

 灯りも無い真っ暗な部屋にセレスはいた。

 普段ならすぐ目が暗闇に慣れるのに、目隠しをされているかのような暗さは尋常ではない。恐らく窓に鎧戸を下ろされているか、元から窓の無い部屋なのだろう。

 手足にそっと触れてみれば、そこに枷の類は無かった。寝台から慎重に降りると、壁を伝うように辺りを探り始める。

 

 寝台からすぐ右手にある窓には、予想通り鎧戸が下ろされていた。音を立てないよう少しだけ上げ、月明かりを室内に引き込む。僅かに欠け始めた月は、薄い光でセレスを照らし出した。

 光差す窓の反対側には扉があった。そっと近付きノブを回すが鍵が掛かっている。辺りの様子を窺おうとセレスは扉に耳を当てた。激しく動き回る革靴の足音、時折上がる怒号、そしてセレスの名を呼ぶ声。

 

「お父様……」

 

 リザルが来ている事実にセレスは泣き出しそうになった。

 大公の見張りにいきなり麻袋に詰め込まれてからの記憶は無い。恐らくこの場所は大公の仮邸宅なのだろうが、そんな敵地へ乗り込んで来た父親に嬉しいと思う反面、申し訳ない気持ちで胸が締め付けられた。

 

 リザルは明らかに危険を冒している。

 大公は恐ろしい男だ。いざとなれば命を奪うなど造作も無いだろう。大公の兵たちがあれだけ騒ぎ立てているという事は、恐らく正面切ってここへ来たのだ。

 冷静なように見えて直情的な父の姿は、何故かエレナスにも被る。どうしてなのかは分からない。ただ、あの二人は何かが似ているのだ。

 

「ぼくが何とかしなくては」

 

 部屋を見回し、隅に執務机を見つけ出すとセレスは引き出しの中を探し始めた。

 火口箱や銅のピンセット、反古紙とランプの油をかき集めると、セレスはまずピンセットを中から二つに折った。それらを器用に折り曲げると鍵穴へ差し込み、解錠を試みる。

 

 かちりと軽い音を立てて、すぐに鍵は外れた。

 用心をしながら扉を開けてもそこには一人の兵もいない。怒声が聞こえて来るのは廊下左手の奥からで、そちらは正面玄関に近いのだろう。右手には人の気配もなく、角を曲がった先からは夜風の流入を感じる。

 

「これならいけるかも知れない」

 

 セレスは部屋に戻ると、鎧戸を完全に引き上げ、窓を全開にした。寝台にあったシーツを手に取り、先ほど集めた物と共に持ち出すと、廊下の右手へ忍び寄る。

 

「上手くいけば、お父様と合流出来るはず」

 

 夜風の流れ込む廊下の突き当りで布に油をしみ込ませ、火をおこしながらセレスは呟いた。

 廊下の端に積んである薪に布を被せ、火のついた紙を置くとそれは真っ赤な炎を上げて天井を舐め尽くした。

 

 

 

 尋常では無いリザルの腕力に、アレリア兵たちはたじろいだ。

 数人掛かりで押さえつけようとしても跳ね飛ばされ、兵士の波をなぎ倒しながら先へと進む。時折息子の名を叫びながら突き進む姿は、まるで異形の怪物だ。

 体の奥底から湧き上がる深淵の力はリザルをどす黒く満たし、手加減をしなければ人さえ殺しかねなかった。

 

 その時、一階の奥から火の手が上がった。

 二階の階段上から指揮をしていた警備隊長は仕方なく、兵の三割を消火に割り当てた。消火に向かった班から隊長に伝令が届くと、彼の顔色はさっと青ざめた。

 

「子供が逃げただと!」

「はっ。客室の扉が内側に開いた状態で部屋には誰もおらず、窓が開けられていました。恐らく窓から脱出したものと思われます」

「……仕方ない。侵入して来た男は放っておけ! 誰にも気付かれぬうちに子供を捜し出すのだ! 他の王族の仮邸宅にでも入られたら大事になる」

 

 その騒ぎに乗じ、リザルは消火活動の行われている客室へと向かった。二階にちらりと目をやると、そこには大公と侍従が現れたのが分かる。

 構わず奥の廊下へ飛び込むと、セレスの名を叫びながら捜し回った。

 

 客室のひとつへ足を踏み入れると、その床には壊れたピンセットが落ちていた。恐らく扉を破るためにセレスが内側から解錠したのだ。ただ窓から逃げるだけなら、解錠などする必要が無い。そしてあのボヤ騒ぎ。火事で陽動し、さらに開け放った窓へ注目させる。そこから導き出される答えはひとつしかない。

 開け放たれた扉をゆっくりと閉めると、それまで扉の陰だった場所からセレスの姿が現れた。

 

「お父様……」

 

 しゃがみ込んでいたセレスは顔を上げ、立ち上がるとリザルに抱きついた。

 

「ごめんなさい、お父様……。ぼくのせいで、こんな危ない事を」

「大丈夫だ。父さんが悪かった。父さんが自分自身から逃げたせいで、この事態を招いたんだ……。もうオレは逃げない」

 

 リザルは息子をしっかりと抱き締めた。

 ここから脱出を図らなくてはならない。幸いにも敵の目はあらかた火事と中庭に向いている。今なら正面から逃げる事も可能だ。

 セレスを腕の中に抱き上げると、リザルは元来た廊下を走り始めた。

 

「頭を低くするんだ。父さんが護る」

 

 廊下が終わりホールが見えてくると、リザルは横目で階段の上を確認した。そこには大公と侍従、そして二階廊下の手摺ごしに、ずらりと並んだ弓兵たちが見える。

 

「殺せ」

 

 大公の号令で、弓兵たちは引き絞った矢を次々に放った。

 その全てがリザルへ向かい、半数以上が彼に命中する。だがリザルは倒れる事も膝をつく事も無く、ひたすらホールを駆け抜けた。

 

「セレス、大丈夫か? 痛いところはないか」

 

 肩や背中、脇腹に矢を受けながら、リザルは息子の身を案じた。その姿にセレスは泣き出しそうなのを堪えながら返した。

 

「ぼくは平気だよ。でも、お父様が……」

 

 見れば白いシャツには鮮血が滲み、走るたびに矢尻が食い込んで傷を更に深くする。

 強烈な痛みが全身を走るが、それでも内に潜む深淵のせいで傷は塞がり続け、死ぬ事は無い。リザルはただひたすら走り、ネリア王城のホール近くまで到達した。

 

「父さんは死なない。誰も父さんを殺せない。……だからもう、お前とは一緒にいられなくなった」

 

 その言葉に、セレスは父親の顔を見た。

 血を流しながらも寂しそうに笑うその姿に、彼は子供心に何かを悟った。

 

「お前をローゼル叔母様に預けたら、父さんは遠い所へ行く。きっともう会えないだろう。でも、お前なら強い男として生きていけると、信じている」

「どうして? どうしてそんな……」

「神殿遺跡で傷を受けた時、父さんは人じゃない『何か』になった。今もこうやって、傷が勝手に塞がっていっている。いずれ父さんの魂は食い尽くされて、化け物の意思がこの体を使って皆を不幸にするだろう。父さんもエレナスも、それを止める事が出来なかった」

 

 辺りを見れば、二人はすでに王城の中央部に入っていた。

 背後を振り返っても、大公の兵が追いかけて来る気配は無い。ようやく一息つき、リザルはセレスを床へ降ろした。

 今や白のシャツは赤黒く染まり、床には点々と血痕が続いている。肩や脇腹に刺さった矢を引き抜くと傷は瞬く間に塞がり、どす黒い痕だけを残した。

 

「父さんがいなくなった後、多くの人が都合の良い話ばかりをするだろう。だけどお前は自分の目で真実を探して、自分の意思で道を選ぶんだ。そうすれば、真実がお前を導いてくれる。エレナスはいい奴だ。何かあったら相談をして、二人で助け合いをしなさい」

「お父様……」

 

 痛みを堪えながら歩く父の姿に、セレスはもう何も言わなかった。ただ手をぎゅっと握り、二人は黙ったまま先を急いだ。

 王城の中央階段を昇り、将校たちの執務室がある三階まで来ると、リザルはひとつの扉の前で足を止めた。そこにはローゼルの名が刻まれた金属板が掲げられている。

 ノックをすると程なくローゼルが顔を見せる。突如現れた血まみれの兄の姿に彼女は悲鳴を上げ、その声に呼応するかのように、別室からユーグレオル将軍も姿を見せた。

 

「何事です」

 

 剣を携えて現れたユーグレオルも、リザルの姿を見て一瞬たじろいだ。その背には未だ矢が何本も刺さり、体に張り付くシャツは鮮血に染まっていたからだ。

 

「お兄様、どうしたの? 血だらけよ。それにその背中……。その矢に見覚えがあるわ」

「驚かせてしまってすまない。行かなくてはならない所があって、お前にセレスを預かって欲しいんだ。……セレスを頼んだぞ」

 

 そのまま去ろうとするリザルを押し留めたのは、後から来たユーグレオルだった。

 

「お待ち下さい。故セトラ将軍の御嫡子ですね? 私はリオネル・アリシェ・ユーグレオルと申します。事情がおありと推測致しますが、その矢傷はどちらで受けたものですか」

 

 将軍が指す背中の矢を見て、リザルはそれを引き抜き投げ捨てた。

 

「全て右斜め上から、しかもざっと見て十箇所以上受けている。それなりの広さがある高い位置より、二個分隊程度の弓兵から攻撃を受けたと推察します」

 

 リザルが投げ捨てた矢を拾い上げ、ユーグレオルは言葉を続けた。

 

「矢の仕様は国ごとに異なります。白の矢羽根はアレリア弓兵隊のもの。そうですね?」

 

 ユーグレオルの指摘に、リザルは何も答えなかった。

 将軍はレニレウス人であり、ネリアやアレリアとは何ら関係の無い第三者だ。ここで口を滑らせれば、猛禽のような目をしたレニレウス王に睨まれる可能性もある。息子や国のためにも、迂闊な真似は出来なかった。

 

「申し訳ありません将軍。私の口からは何も申し上げる事が出来ない。……将軍の御武運をお祈り申し上げます」

 

 リザルはそれだけ言うと、もう一度セレスに屈み込み、そっと頭を撫でた。すぐに立ち上がると後ろも振り返らず、彼は闇の中へと消えて行った。

 血まみれで現れ、すぐに姿を消した兄にローゼルは戸惑った。セレスも黙りこくったままで、彼女は柄にも無くうろたえた。

 

「セトラ中尉、落ち着いて下さい。今やあなたは連合の軍を束ねる指揮官なのですよ。状況を精査し、冷静に判断するのです」

「……はい、将軍。心得ております。国と軍を預かる私が動揺しては、士気に関わりますから」

 

 ユーグレオルの言葉にローゼルはようやく落ち着きを取り戻した。

 だが胸騒ぎだけは消せず、彼女はセレスの冷え切った手を握り締め続けた。

四 ・ 希望の光

 

 セレスの手を放し、リザルは再び城内をひた走った。

 まだぎりぎり意識は保っているものの、もうあまり時間が残されていない事に彼自身気がついていた。

 

 大公の仮邸宅で兵たちをなぎ倒したあの力は、到底人間のものではなかった。

 肉体自体は、すでに深淵に乗っ取られているのかも知れない。それでも最後に敵の手中から息子を取り戻せた事を、彼は密かに感謝した。

 

 血まみれのまま、リザルは医療施設へ続く廊下を渡った。傷が塞がった事で血も止まり、もう床に落ちる血痕も無い。意識のあるうちに出来る限りの事をしようと彼はエレナスの姿を探した。

 日が落ちた今頃は病室の巡回をしているか、自室にいるだろう。ふらつきながら医療施設へ入ると、夜とは思えない喧騒に辺りは包まれていた。

 

 傷病兵たちの間を兵たちが走り回り、顔と氏名を検分している。

 驚き立ち尽くすリザルの傍へ駆け寄る影が見え、それはリザルの名を呼びながら何かを叫んでいた。

 

「リザル! 無事だったのか! セレスは、セレスは無事なのか?」

 

 いつにない慌てようにリザルは何かが起こっていると察知した。実際自分がアレリア大公の仮邸宅内部に侵入しているのだから、大事になっていたとしても何らおかしくはない。

 

「セレスはローゼルに預けてきた。だが何があった? 何でこんなに騒がしいんだ」

「王城内に侵入者があったと通達が来た。アレリア大公の兵が、王城の内部や他の仮邸宅を捜索しようとしているそうだ。本気でセレスをどうにかするつもりなのかも知れない」

 

 エレナスの言葉にリザルは大丈夫だとだけ答えた。

 

「連中の狙いは多分オレだ。セレスを連れて脱出する際に、弓兵に射掛けさせて来た。本気で殺すつもりだったんだろうさ」

 

 リザルの姿を見てエレナスは得心した。矢傷そのものはもう無いものの、血まみれのシャツがそれを物語っている。体の右側と後方にそれは集中し、降り注ぐ矢の中をかいくぐって来た様がありありと見て取れた。

 

「エレナス。今は説明している暇が無いが、どうしてもやらなければならない事があるんだ。剣を持って北の森へ来てくれ。妻の墓がある、あの森だ。あそこなら誰も分からない」

 

 リザルはそう言い残すと、辺りを窺うように身を翻し走り去った。

 エレナスには言葉の意味が理解出来なかったが、喧騒に乗じて剣を帯びると王城を密かに後にした。

 

 

 

 月を見上げればすでに天高く、黒い茂みを掻き分けながらエレナスは夜の森を進んだ。

 人間の目であれば真っ暗で一寸先すら見えないだろうに、リザルがいるはずの森の奥からはカンテラの灯りひとつ見えては来ない。城内での不穏な動きといい、不安だけがエレナスの心を占めた。

 

 記憶を頼りに進み続けると、突然開けた場所に出た。奥には小屋と墓標があり、そこには一人の男が佇んでいる。

 エレナスの目には遠くからでもそれがリザルだと分かった。月明かりの中、抜き身を下げて立ち尽くすリザルは、真っ黒い影を宿した幽鬼のようにすら見える。

 

「リザル……?」

 

 ふと不安がよぎり、エレナスは影に問うた。

 次の瞬間、影は言葉も無く、一気に間合いを詰めた。軍刀を手に迫る姿はリザルそのものだ。だがエレナスの呼びかけに応える事も無く、彼はぎらりと輝く刃を振り下ろした。

 

「くっ」

 

 エレナスも咄嗟に剣を抜き、重い一撃を受け止めた。

 両手がびりびりと痺れて青白い火花が散る。ともすれば弾き飛ばされる程の強烈な剣撃に、彼は恐怖を覚えた。それは人間の腕力では成し得ない、深淵が顕現した夜を思い出したからだ。

 

「エレナス。来てくれた事に感謝する」

 

 ようやく口を開いたリザルは、俯きながらぽつりと口にした。

 

「もう時間がない。自分でも分かるよ。夜の森なのに、明かりが無くても見えるんだ。辺りが全部見渡せて、お前が何をしようとしているかも分かる。多分もう、人ではないんだ、この体は」

 

 顔を上げたリザルの目を見て、エレナスは一瞬たじろいだ。

 そこにあるのはリザルでありながら、リザルではない瞳だ。右目はスミレ色のままだが、左目は血のような赤い色を発している。闇の中でぎらぎらと輝く赤黒い瞳は、リザルの中からこちら側を覗き込む、深淵の目を思わせた。

 

「通常の武器では誰もオレを殺せない。でも神器ならどうだろうか。そう考えてしまったら、答えがひとつしかなかった」

 

 その呟きにエレナスは答えられなかった。そして同時に図書室でのマルファスの言葉が脳裏に甦る。

 

 ――それでも、キミは選ばなくてはならないだろう。リザルを殺さずに世界の破滅を迎えるか、彼を殺し破滅から救うか。その日はもう、遠くないよ。

 

 これが答えなのだろうか。

 だがこれは、エレナス自身が出した答えではない。リザルが望んだ答えだ。深淵を取り除くどころか、侵食を遅らせる事すら出来なかった結末が今、エレナスの眼前にあった。

 月光を受け反射する森の木々が、不安を煽るようにざわめきを散らす。どす黒い空気が対峙するエレナスとリザルとの間で、冷たく張り詰めた。

 

「こうでもしないと、お前はその剣を持ち出さないだろうからな。城内で斬り合う訳にもいかないし、何よりもセレスにこんな姿を晒したくない。……それに」

 

 リザルは軍刀を右手で強く握り、その切っ先をエレナスへと向けた。

 

「お前だって自分の命が危うければ、相手を斬り殺す覚悟はあるだろ? オレの中に潜む深淵がずっと囁き続けているんだよ。……お前を殺せとな」

 

 その言葉が終わるや否や、リザルは刃を振りかざしエレナスへ迫った。エレナスは鋭い切っ先を寸前で躱し、汗ばむ手で剣の柄を握り締める。

 幼い頃から剣術や格闘術を叩き込まれているリザルの動きは、恐ろしい程洗練されていた。無駄な動きなどひとつも無く、ただ相手の急所を見抜き、的確な攻撃を仕掛けてくる。

 剣の動きだけに注目してしまえば、時折混ぜてくる足技に絡め取られてしまうだろう。そして今は暗闇ですら、エレナスの味方ではない。

 

 深淵の能力をその身に宿すリザルは、今まで戦ったどんな敵よりも強大で恐ろしい存在だった。

 人間離れした筋力、闇を見通し瞬時に見切る動体視力。加えてリザル自身の技術がそれを倍加している。攻撃を躱しながら隙を探そうとしても、エレナスの目には何も捉える事が出来なかった。

 

「どうしたエレナス。お前の実力はそんなものじゃないだろう。お前と初めて戦った時、オレの心は震えた。こんな奴がいるんだと、心の底から喜んだ。だから最後くらい、オレを失望させないでくれ」

 

 闇の中を青白い軌跡が舞う。

 エレナスは剣で攻撃を弾きながら、ひたすら思考を巡らせた。どうすればいいのか。リザルをこの手で殺さなくてはいけないのか。

 

 剣撃を躱しながら冷静に見れば、リザルの右手は精彩さを欠いているようにも思える。

 矢傷は塞がっていても、痛みはその体に残っているのかも知れない。それでもリザルは右手で軍刀を握るのをやめようとはしなかった。振り下ろす刃は大地を叩き割り、その薙ぎは巨木をも切り倒した。

 

 リザルに対する最も有効な戦法は右側を狙う事だろう。

 矢傷は右肩や背中、右脇腹にまで及んでいる。だが無闇に接近をすれば、肘や膝が飛んで来るのは明らかだ。

 

 ――なら肘や膝を使わせなければいい。

 

 いきなり攻勢に出たエレナスに、リザルは一瞬気を取られた。

 右側を狙って懐に飛び込もうとするエレナスを見て、リザルは待っていたとばかりに腰を落とす。

 

 リザルが左脚を軸にするのを見た刹那、エレナスも左脚で大地を蹴った。

 大きく反対側へ跳躍するエレナスの姿にリザルは怯んだ。咄嗟には重心を変えられず、左脚に重心を掛けたまま無理な体勢で軍刀を振り下ろそうとする。

 その一撃を紙一重で躱し、彼は剣を振り下ろした。青白い刃はリザルの左脇腹を正確に捉え、大きく開いた傷口からおびただしい量の血液を溢れさせる。

 

 膝をついたリザルを警戒し、エレナスは一度離れた。

 流れ続ける血は留まるところを知らず、神器で斬り裂かれた傷は塞がる気配もない。

 

「思った通りだ」

 

 右手に脇腹の血を捕らえ、どこか嬉しそうにリザルは呟いた。

 

「その剣なら、この体にも傷を負わせられる。希望の光って奴だな」

 

 そう笑いながら彼は神器の青白い輝きに目を細めた。

 侵食は進み続けているのか、リザルの左手はすでにどす黒い色に染まっている。

 出血のせいか、恐らく立っているのもやっとなのだろう。ふらふらと立ち上がりながら構える姿に、エレナスは息苦しさを覚えた。

 

 これは罪であり罰であり、そして最後の機会なのだ。

 友を深淵から救えなかった罪を、自らの手を汚す事であがなおうとしている。何もかも忘れ去って魂が消えてしまう前に、リザルはエレナスの手に掛かる事を望んだ。

 剣を握り締め構えるエレナスを見て、リザルはふと微笑んだ。

 

「深淵がオレに成り代われば、この大陸を滅ぼすなど簡単な事だ。お前も見ただろう? ほんの一薙ぎで立木すらなぎ倒すあの力を。神器以外では倒せない奴が、衝動のままに破壊をし尽くせばどうなるか。考えるまでもない」

 

 迷ってはいけない。思い悩んでしまったら、先へ進めなくなる。震える右手を押さえ、エレナスは心を決めた。然るべき道筋を自らが決めなくてはならない。

 剣を手に、エレナスはリザルへ向かった。

 神殿遺跡にセレスを連れていかなければ、もっと早く封具を知っていれば、こんな事にはならなかったのかも知れない。だが全てが遅すぎた。

 

 エレナスの剣撃をリザルは避けた。

 さすがに軍刀で受け流すのは危険だと判断したのだろう。軌道をじっと見定め、的確に躱してくる。反撃に移るでもなく、ただその太刀筋を見つめている。それは眩しい太陽を見上げている表情にも似ていた。

 闇の中、ぼんやりと輝く青白い刃は、まばゆい光の軌跡を穿つ。刃と刃が交差するたびに火花が散り、互いの顔をちらちらと映し出した。

 

 エレナスの剣を打ち払い、リザルは一瞬後退した。次の瞬間彼は跳躍し、振り上げた軍刀を叩き降ろす。

 深淵の力を得ているリザルは、その筋力に頼る大味な攻撃が多かった。それを散々躱してきたエレナスには、この一撃が勝敗を決する事が分かっていた。

 恐らくこの一撃を避けるだろうとリザルは踏んでいる。避けた先に刃を返されれば、勝機は無い。

 

 エレナスはその剣撃を避けようとはしなかった。

 きつく口角を引き結び、祈りを捧げるように剣を両手で握る。大地をも割る一撃を、彼はその細身の剣で受け止めようとした。

 

 刃と刃がせめぎ合った瞬間、耳をつんざく金属音が森中に響き渡り、網膜を灼く白光がほとばしる。

 渾身の一撃を受けきったエレナスに、リザルは目を見張った。神器の力とはいえ、エレナスはその細い体で凌いだのだ。

 リザルが気を緩めた一瞬、大きな隙が生まれた。その機を逃さず、エレナスは懐に飛び込んだ。

 

 エレナスの剣に突き倒され、リザルは背中から倒れ込んだ。神器の刃は彼の左胸を捉え、飛び散る鮮血はエレナスの白金に輝く髪を赤く染め上げる。

 返り血を浴び柄を握り締めながら、エレナスは苦しそうに俯き唇を噛んだ。滴る生ぬるい血液と共に、青の双眸から流れ落ちるものがあった。

 

「……エレナス。こんなんじゃ、ウサギも殺せないぞ。……心臓に届いてないじゃないか」

 

 咳き込みとめどなく血を吐き出しながら、リザルはそう呟いた。刃は僅かに心臓を逸れ、肺を損傷していた。

 破れた血管から流れ込む血液が肺を満たし、気管からごぼごぼと音を立てて溢れ出る。剣を突き立てたまま膝を折るエレナスに、リザルは左手を伸ばした。

 

「剣を貸せ。やっぱりオレがやる。……自分の始末は、自分で着けなきゃな」

 

 屈み込んだままのエレナスを押しのけると、リザルは身を起こし神器の柄を握った。血を吐きながら膝をつくと懐から小さな手帳が転げ落ち、彼は苦しそうに喘いだ。

 左手で柄を握り締めながら、彼は空いている右手で手帳を拾い上げた。書き込まれたページをひとしきり眺めると、震える指でそれをエレナスに渡した。

 

「なあエレナス。お前の手は、やっぱり命を救うためにあるんだ。奪うためじゃない。……オレはそう思う」

 

 細かく薬草についての知識や効能が書き込まれている手帳を見て、エレナスは言葉を継げなかった。

 

「人は死んだら生命の環に還るっていうよな。季節のようにぐるぐる巡って、いつかまた……生まれる日もあるのかも知れないな」

 

 血まみれの両手で剣の柄を握り、苦痛を堪えながら、リザルは自ら切っ先を進めた。肉体が神と同化しているせいなのか、常人ならすでに死亡している傷でも、彼の肉体はその魂を手放そうとはしない。

 体内の血液を流し尽くしたのかその顔は青ざめ、今わの際の痛苦だけが長引いているように見えた。辺りの下草は深紅に濡れ、葉の間からざわめく月光を照り返す。

 声すら掛けれず言葉も浮かばず、エレナスはただ彼の傍にいるしか出来なかった。目を逸らさず命の終わりを見届ける事が、彼に科せられた罰なのかも知れなかった。

 

「リザル……。お前は、兄貴のような、父親のような、俺にとってはそんな存在だった。それなのに俺は、お前のために何も出来なかった」

 

 ようやく搾り出せた言葉を、懺悔のようだとエレナスは感じた。

 許されたい訳ではない。なじられたいのかも知れない。死に逝く者に、何という残酷な真似をしているのだろうとも思った。こんな時、どんな言葉を掛けていいのか、彼にはまるで思いつかなかったのだ。

 

「お前は誰よりも頑張ってた。……オレは全部覚えているよ。何もかも、忘れてしまう前に終わらせられたのは、お前のお陰だ……」

 

 その呟きを最後に呼吸が徐々に浅くなり、大きな吐息をつくと、その双眸は光を映す事をやめた。深紅の瞳もスミレ色に戻り、リザルは静かにその体を地に横たえる。

 エレナスの傍にいてくれた友はもういない。ただそこにあるのは、灯火の消えた抜け殻だ。命の終わりを感じ取り、エレナスは地面に崩れ落ちた。血の臭いが染み付く下草に顔をうずめ、唇を噛みながら嗚咽を漏らす。

 

 草を踏む足音が背後にあったが、うずくまるエレナスの耳には届かなかった。人影はゆっくりとリザルの亡骸に歩み寄り、音も無くしゃがみ込んだ。

 リザルの髪を撫でている気配に気付き顔を上げると、そこには屈み込むマルファスがいた。子を失った親のような表情のマルファスに、エレナス辛くなり顔をそむけた。

 

「おやすみ、可哀想な子。深淵に魅入られてしまっては、僕の力でもどうにもならなかった」

 

 涙さえ浮かばない乾いた瞳をリザルに向け、マルファスは呟いた。その様があまりにも痛々しく、エレナスは顔を上げる事が出来なかった。

 マルファスはひとしきり別れを告げると、やおら立ち上がりエレナスを見た。スミレ色の鋭い眼光は心の中を探っているようにも、案じているようにも受け取れた。

 

「……深淵はね、僕ら代行者でも手に余る存在なんだ。肉体を持たずとも神性であり、人の心あるところには誰にでも生まれ得る存在。王器では倒せず、神器のみがそれを可能にする」

 

 マルファスの言葉をエレナスは俯きながら聞いていた。

 

「ネリアの王族は、僕の子孫たちにあたる。子供たちの一人であるリザルを救ってくれて、ありがとう。後はシェイルードを葬れば、深淵の神を生み出す者はいなくなるはずだ」

 

 その言葉にエレナスはふと顔を上げた。髪から滴り落ちる返り血は白い肌にこびりつき、異様な風体を醸し出している。

 

「これが正しかったんでしょうか。リザルを死なせるしか、方法がなかったんでしょうか。……俺には一体何が出来たんでしょうか」

 

 手帳を握り締めながら、エレナスはぽつりと呟いた。

 激しい後悔の中、自問を繰り返す少年を宥めるように、マルファスは口を開いた。

 

「リザルから託された思いを継ぐ事が、キミに出来る手向けだと僕は思うよ。……だが今はそれよりも、キミ自身に降りかかる火の粉を振り払わなくてはならない」

 

 マルファスの言葉にエレナスは目を向けた。

 

「この状況では、キミがネリア王族を殺害したようにしか映らないだろう。そしてこれを利用しようとする者が現れないとも限らない。僕はそれを危惧している」

 

 言葉が終わるや否や、マルファスは掌中にあった黒い尾羽をあらぬ方向へ投げつけた。

 尾羽は空を切り、鋭い音と共に木の幹へ突き刺さる。木陰にいた何者かは身を翻すと一目散に逃げ去った。

 

「誰だ、今のは……」

「恐らく王城を抜け出したキミたちを尾けて来た者だろう。今頃は主の許へ逃げ帰っているはずだ。ここで起こった事を報告するためにね」

 

 喪失感に満ちた心を引きずりながら、エレナスも立ち上がった。

 リザルの傍に寄り、ぬくもりの消え始めた手から剣の柄を離した。彼の体内から刃を抜くと、それは血に濡れながら変わらない姿で月に輝いた。

 不意に目の前にある潅木の茂みが揺れた気がして、エレナスはそちらへ目をやった。

 

「何者だ!」

 

 先ほどの影を思い出し、エレナスは誰何した。

 ざわざわとざわめく茂みは、灯りを掲げた小さな人影を吐き出し、それは俯きながら月光の下へと姿を見せる。

 

「セレス……。どうしてここへ」

 

 カンテラに照らされた小さな影は無言のまま、スミレ色の瞳でエレナスをじっと見上げていた。

五 ・ 危惧

 

 任務も無く、ただ過ぎてゆく日々にノアは鬱々としていた。

 神殿遺跡の件以来、カミオは彼女に待機だけを命じた。不用意に敵の手に落ちた事が響いたのだろうと、ノアはひたすら自省した。

 彼女に許された行動範囲は仮邸宅とその中庭だけで、壁を越えて市街へ行く事も、王城へ出る事も叶わなかった。

 

 そんな中、ふと脳裏によぎるのはエレナスの姿だった。

 どうしているだろうか。忙しいのだろうか。仮邸宅から出る事すら出来ないノアを、ただ思い出だけが慰めた。

 

 神殿遺跡から戻って十日以上経ったある夕方、カミオから召呼が届いた。

 用意していた軍服に身を包み、ノアは王の執務室へ赴いた。謹慎が長かった分、どんな沙汰があるか不安を拭い切れなかったが、彼女はどんな処罰でも受けるつもりでいた。

 

 執務室へ入ると、そこには神妙な面持ちのカミオがいる。

 普段からあまり感情を表に出さない王だが、この日はいつにも増して仮面のような表情をしていた。

 

「特務機関第三班ノエル准尉、参りました」

 

 書き物をしていたカミオは敬礼したままのノアをちらりと見やり、すぐに視線を戻した。不意に手を止め筆を戻すと、彼は顔を上げて指を組み、ノアを見つめた。

 

「ノエル准尉。此度の騒動につき協議をした結果、准尉を役職から解任する方針となった」

 

 王の思わぬ言葉にノアは身を固くした。

 軽い処罰で済むとは思っていなかったが、まさか解任にまで発展するとは考えていなかったのだ。

 

「……もう私がカミオ様のお力になる事は出来ないのでしょうか」

「お前はよく働いてくれた。だが今回の神殿遺跡の件で、解任が適していると判断しただけだ」

 

 カミオの真意が図りかね、ノアは俯いた。主の命は絶対であるが故に、彼女は反論すら出来ず、ただその場へ立ち尽くした。

 

「明日からお前は自由だ、ノア。何処へでも好きな所へ行くといい。ここに留まりたいというならそれも構わない。自分で道を選べ。お前にはその権利がある」

 

 ノアはうなだれ、失礼しますとだけ言葉を発すると、そのまま執務室を後にした。

 入れ替わるように入室したユーグレオルが驚き振り向いたが、ノアは逃げるようにその場から走り去った。

 

「やれやれ、ようやくひとつ整理がついた」

 

 ため息をつきながら呟くカミオに、ユーグレオルは心配そうに声を掛けた。

 

「よろしいのですか? ノア様は随分と憔悴されていたようですが」

「仕方あるまい。本当の話は出来ないのだからな。あれは芯の強い娘だ。多少の事では参ったりもしないだろう」

 

 言葉とは裏腹に、不安を隠しきれていない主にユーグレオルはふと微笑んだ。

 

「ところで何の用だ? 三日後にはブラムへ移動を開始するのではないのか」

「はい。ですが、ひとつ問題が発生しました」

 

 ユーグレオルは手にしていた布包みをカミオの前に置いた。その手でゆっくりと布を開くと、中から現れたのは血液の付着した白羽の矢だった。

 

「ほう。これはまた面白いものを手に入れたな」

 

 組んだ指を弄びながら、カミオは密かに笑った。

 

「ご存知の通り、白の矢羽根はアレリア軍のものです。先日の奪回戦においても流れ矢は白矢羽根でした。ですがこれは、本日城内で拾ったものです」

「アレリアか。あの大公は余興を欠かさぬ男だな。先ほども王城の中庭で何やら騒いでいたが、ネリアの王城内で弓引いたとなると、益々面白い話になる」

「しかもこの矢を受けたのは、故セトラ将軍の嫡子。自らの子息をセトラ中尉に預け行方をくらましましたが、現在諜報員に探らせております」

 

 カミオはふと黙り込み、血まみれの矢を見た。

 

「親子揃ってアレリアの矢に倒れる羽目になろうとはな。悲惨な因果もあったものだ」

「……いえ、それが」

 

 言いよどむユーグレオルに、カミオは眉をひそめた。

 

「どうした。何かあったのか?」

「十箇所以上矢を受けた形跡がありましたが、何事も無かったかのように振舞っていたもので。通常であれば、それだけ矢を受ければ死に至ります。まるであれは……」

 

 ユーグレオルは再び言葉を切り、呟いた。

 

「まるであれは、死人のようでした」

「死人か。倒してもいずれは甦り、人々に恐怖を与える代行者にも似ているな。その男もすでに、人間ではないのかも知れん」

 

 室内を照らすランプは仄かに燃え、蒼白な二人の表情を映し出す。日はすでに落ち、未だ外からは喧騒が響いているが、カミオは気にも留めなかった。

 

「アレリア大公は危険な男だな。あれだけネリア王に目こぼしをもらいながら、己の怨念をぶつけ続けている。城内で弓引いたのも、ネリア王が咎めないと思っての事だろう。傲慢な奴だ。この私以上に」

 

 楽しげに笑うカミオに、ユーグレオルは伺いを立てた。

 

「やはり危険な奴は潰しておくべきだな。この戦が終われば、アレリアはネリアを盾にして手出しをしにくくなる。アレリアの若造にレニレウスのやり方を見せてやろう」

「では私は、エルナ峡谷攻略の会議に戻ります」

「あの峡谷は不可侵領域だ。ぬかるなよ。一度に兵を失うという事は、ひいては国力を落とすという事だ。兵站しか担わないアレリアの兵力は丸ごと残る算段になる。本当に気に食わん」

 

 いつになく不満をぶちまける主に、ユーグレオルは珍しい事もあるものだと思った。

 古代より文献が存在している大陸の歴史上、エルナ峡谷を戦場に選んだ者は一人もいない。それは攻め落とす価値が無ければ、意味も理由も無いからだ。

 四王国全体の兵力をそぎ落とす事が目的なのか、もしくは他に理由があるのか。シェイローエの思考はカミオやユーグレオルにも理解出来なかったが、ただひとつ言えるのは、下手を打てば壊滅すらあり得る博打であるという事だけだ。

 

 ユーグレオルが会議室へ戻ろうと敬礼をし踵を返した時、突如窓の外から一際大きな喧騒が上がった。

 それと同時に執務室の扉を激しく叩く音が響き、将軍は何事だと一喝した。

 

「申し上げます! 故セトラ将軍の嫡男リザル・ネリア・セトラ様が刺殺された由にございます。容疑者はすでに拘束されておりますが、頑なに口を開かぬ様子」

 

 入り口で跪きながら奏上する衛兵に、カミオは苦々しい表情を向けた。

 

「王族を刺殺しただと? アレリアも随分大それた真似をするものだな」

「いえ、それが……」

 

 衛兵は口ごもりながら続ける。

 

「容疑者として拘束されたのは、エレナス・ファス=レティ・カイエという名の精霊人の少年で……。ネリアに属するカイエ参謀の弟御との情報です」

 

 思いも寄らぬ報告に、カミオは驚き立ち上がった。

 主の驚きようにユーグレオルも目を見張ったが、カミオはすぐに平静を取り戻し指示を出した。

 

「すぐに詳細な情報を収集しろ。半日以内だ」

 

 王の剣幕に衛兵たちはただちに走り去り、辺りには静寂が戻った。

 後には窓の外を睨みながら考え込むカミオと、懸念を隠し切れないユーグレオルだけが残った。


 
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