No.602889

フェイタルルーラー 第十五話・大公の罠

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。殺人・流血・残酷描写あり。18343字。

あらすじ・深淵による侵食は進み続け、何をしでかすか分からない恐怖に、リザルは家を離れる。
父親を探そうと城内に迷い込んだセレスが見たものは、アレリア大公が殺人を犯す瞬間だった。

2013-07-29 20:53:04 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:423   閲覧ユーザー数:423

一 ・ 大公の罠

 

 アレリアの王都ノイエから遥か南の小さな村に、病に臥せる未亡人が住んでいた。

 夫を早くに亡くし、まだ成人していない息子と娘を抱える彼女には、定期的に長男から送られてくる仕送りが欠かせなかった。

 

 折しもその日は月に一度の定期配達があり、王国通信士が手紙と共に貨幣の入った包みを届けに来た。包みの重さはいつもの倍以上で、彼女は一抹の不安を感じる。

 息子の字で記された宛名書きを見ると、それだけで彼女の心は和らいだ。未亡人は部屋に戻ると静かに手紙を開き、ゆっくりと読み始めた。

 

 ――お母さん、ごめんなさい。

 

 謝罪の言葉から始まる手紙に、母親の手は震えた。

 

 ――僕は恐ろしい事をしてしまいました。お金のために、それも人違いで高貴な方の命を奪ってしまいました。きっと僕は捕らえられ、裁判に掛けられるでしょう。僕は罪を償わなければならない。しばらく手紙を出せないかも知れませんが、どうか心配しないで下さい。大公様が、悪いようにはしないとおっしゃってくれました。

 

 そこで文字はぷつりと途切れた。

 金のために息子が人殺しをしたなど到底信じられる訳もなく、母親は恐ろしくなって包みを納戸へ押し込んだ。手紙は焼いてしまおうかとも思ったが、思い直して懐へ仕舞い込んだ。

 

「どうか、嘘だと言って……。早く無事な姿を見せて」

 

 母親は誰もいない室内で独り涙を流した。

 その後の続報を母親は待ちわびたが、彼女の息子から手紙が届く事は二度となかった。

 

 

 

 奪還された王都ブラムが着々と復興していくさなか、アレリア大公レナルドの焦りは日に日に募る一方だった。

 シェイローエの暗殺に失敗した上に、代行者『執』は彼の前に現れる気配も無い。この上は、自らの身を守るために独りで画策する必要があった。

 

 レニレウス、ダルダンの王族たちは、それぞれ仮邸宅を拠点として、生活を送っている。アレリアはネリアの親戚筋として城内に仮邸宅を与えられており、他の王族とは微妙な温度差があった。

 それに伴い重臣や親衛隊がそれぞれの王たちに付き従う様は、小さな王国が乱立している状態とも言える。

 各々が閉鎖的集団を形成し、その内側で何が起ころうとも誰も知る者は無い。アレリア大公はそこに目をつけた。

 

 軍議があった翌日に、大公は暗殺を依頼した弓兵を仮邸宅に呼んだ。

 誰の目にも触れないよう細心の注意を払い、客間に通す。弓兵は生きた心地がしなかったのか、椅子の上で体をこわばらせ、目はしきりに辺りを見回していた。

 

「安心していい。今この邸宅には誰もいない。君の今後について意見を交換しておきたくてね」

 

 弓兵を安心させようと大公は柔らかく口を開いた。

 

「君は失敗してしまった。そのためにレニレウスのユーグレオル将軍が不審に思っているようだ。だが君は我がアレリアの大切な国民。彼らの思惑通りにはさせないよ」

 

 にこやかに微笑む大公に、弓兵は少しだけ気を緩ませた。

 

「大公様。僕はどうしたらいいんでしょうか……。上官から、二週間後に本隊をブラムへ移すと通達がありました。大公様と離れた地で拘束されたら、隠し通せる自信がありません」

「大丈夫だ。誰も君を責める事は出来ない。君を軍から解任し、故郷へ戻れるようにしよう。これなら問題はない」

 

 その言葉に弓兵はぱっと顔を輝かせた。

 

「本当ですか! ありがとうございます! これでようやく故郷に帰れる……」

 

 彼は思わず椅子から立ち上がり、大公にお辞儀をした。

 顔を上げた瞬間、腹部に違和感を覚え、彼は大公の顔を見た。冷たい微笑を浮かべる大公の口からは囁きが漏れたが、彼には聞き取れなかった。

 腹の熱さと痛みに弓兵はふらふらと後退し、そのまま後ろへ倒れる。そして自らの腹部に刺さる短剣を見やり、彼はどうして、と呟いた。

 

「悪いな。レニレウスに睨まれた以上、私にも火の粉が降りかかる。心配せずとも、遺体は故郷に帰してあげよう」

 

 不気味なほどに優しく微笑む大公を、彼は焦点の定まらない瞳で見上げた。

 程なく視界を暗闇が覆い、意識が混濁してゆく。おびただしく血が溢れる喉からは、小さく母親の名前だけが漏れた。

 弓兵が絶命したのを確認すると大公は笑い声を上げ、呼び鈴を鳴らして侍従を呼んだ。

 

 

 

 セトラ将軍の遺体が王都に戻ったその日、リザルとセレスは聖堂で無言の再会を果たした。

 棺の傍で力なく膝を折るリザルと泣きじゃくるセレスの姿は、その場にいる者たちの涙を誘った。

 翌日の国葬に際して、黒檀の棺は聖堂の祭壇に安置されている。棺の周囲は純白の花々で覆われ、辺りはむせ返る花の香りで包み込まれていた。

 

「おじいさま……。おじいさまっ……」

 

 棺にすがって泣くセレスの頭に、リザルはそっと手を置いた。

 最期まで和解出来なかった父親の姿に、リザルはうなだれながら黙祷をする。

 誰からも愛され、強く勇敢だった父。期待と血筋の重圧に耐え切れなかったリザルに対する思いは、ひたすら心残りだっただろう。

 

 永遠の別れを告げた後、二人は重い足取りで聖堂を後にした。

 市街にある自宅に着いても親子は言葉すら交わさず、沈黙したままだった。作りおきしたスープを鍋で温め食卓に着くと、セレスがじっと俯いている事に気付いた。

 

「どうした? 食べないと冷めるぞ」

「うん……」

 

 食欲も出ないだろうと思ったリザルに対し、セレスは遠慮がちに口を開いた。

 

「……お父様は、いなくなったりしないよね? お父様がいなくなったら……ぼくは独りになるのかな」

 

 目を伏せ呟く息子に涙がこみ上げ、リザルも顔をそむけながら俯いた。

 

「父さんはいなくなったりしない。それにローゼル叔母様やエレナスもいるだろう。お前は独りじゃない」

「うん……。でも、お父様もいてくれないと、ぼくは嫌だ」

 

 まだ八歳の息子に、無理な話をしているとリザルは胸が苦しくなった。

 守れもしない約束をし、嘘をついている。王城の医療施設から自宅へ戻ったものの、深淵の侵食はとどまるところを知らず、ただ悪夢を繰り返し見るだけだった。

 エレナスは王城で医師たちの手伝いをしながら、侵食を食い止める方法を模索している。だがリザル自身、もう侵食を止める方法は無いものだと半ば諦めていた。

 

「ごめんな……父さんがんばるから」

 

 不意に口をついて出た言葉に、セレスは涙を浮かべた。

 涙のせいなのか、その日のスープはただ塩辛い味しかしなかった。

二 ・ まどろみの中

 

 たゆたう夢の中で、リザルは醒めたり眠ったりしていた。

 

 夢の中は心地よく、ともすれば流されてしまいそうになる。必死に自らを揺り起こし、瞼をこじ開けると朝陽の輝きは優しく彼を迎える。それすら疎ましく思いながら、いつ終わるとも知れない親子での生活に、リザルは不安と喜びを併せ感じた。

 王族であるセレスは、他の子供たちのように学校へ行く事はない。読み書きや計算はすでに同年代の子よりも長け、今は森番として王に仕える身だ。フラスニエルの計らいで森に戻るのはしばらく後に延期されているが、二人だけの生活は会話に困る事すらしばしばあった。

 そんな中でもたらされた訃報は、セレスの幼い心に激しく衝撃を与えた。あまり口を開かないセレスが益々無口になり、泣いたかと思えば無表情になる。感受性の強い子供に、親しい人の死を受け入れろと言うのは酷だ。

 

 ――こんな時、エレナスならどうしていたのだろう。

 

 朝食の支度をしながら不意にエレナスを思い出し、リザルはため息をついた。

 今まできちんと息子と向き合って来なかったために、壊れ物を扱うような自分の態度にすらいらつく。だがこれが親子にとって最後の機会だろう。

 深淵の侵食を遅らせる方法が無ければ、リザルの魂は消えゆくのみなのだ。

 考え事をしながらベーコンの塊を切り分けていると、慣れない包丁は手から滑り、左手の人差し指を深く切り裂いた。

 

「……痛っ」

 

 確かに痛みを感じた。ひどく出血しているだろうと傷口を確認すると、そこには多少の出血はあるが、切り裂かれた痕が見当たらない。

 急に空恐ろしくなり、台所を離れると彼は小さなナイフを探した。指に刃を当て、勢いよく引いてみる。

 痛みはある。それなのにリザルの指には傷が無い。切り裂かれた瞬間に出血を伴うが、傷は一瞬で塞がる。皮膚に多少の黒ずみは残るものの、何事も無かったように再生していた。

 

「何だこれは……」

 

 力なく緩んだ右手からナイフが滑り落ち、軽い金属音を立てて床を打つ。呆然と立ちすくむリザルの耳に、嘲笑う深淵の声が聞こえた気がした。

 

 

 

 親子はその後、三日間の服喪期間をローゼルのいる邸宅で過ごした。

 身内だけの葬儀で故人の魂を送り、ようやくリザルは一息ついた。風邪気味の息子を寝かせてから、彼は独り一族の墓に詣でた。緩やかな丘を登り切ると、父の墓の前で献花をしている少年の姿が目に入る。

 

「エレナス……。来てくれたのか」

 

 黒の喪服に身を包み、ゆっくり振り向くエレナスに、リザルは何故か安堵した。

 

「勇猛なる将軍にお別れをしようと思って。セレスがお祖父様が大好きだと言っていたから、一度はお会いしたかったけど、こんな形になるとは」

 

 墓碑の文字を目線でなぞりながら、エレナスは呟いた。

 

「素晴らしい方だったんだな。故人の意志と栄光を背負って人は生きていく。そうやって連綿と魂を受け継いでいくんだ」

「そうだな。……きっとそうだ」

 

 まるで自らに言い聞かせるかのように、リザルは答える。

 その資格が自分にあるのかどうかは分からない。それでも、進まなくてはならないのだろう。

 

「悩んでいる場合じゃないな。何があっても先に進まなくては。……エレナス、お前に見てもらいたいものがある」

 

 立ち上がり歩み寄るエレナスを前に、リザルは腰のベルトからナイフを抜き出した。

 それを逆手に握ると、彼は自らの左手に勢いよく突き立てる。深々と刺さる刃は血管を突き破り、筋肉を切り裂いた。

 

「何をするんだ、リザル!」

「いいから見てみろ、これを」

 

 肉に食い込んだ刃を引き抜くと、滴り落ちる血液はすぐに止まり、ざっくりと裂けた傷口は吸い付くように閉じていく。

 エレナスが目を見張る中、傷口は跡形も無く消え去った。そこには僅かな血液がこびりつき、黒ずんだ皮膚が残るだけだ。

 

「何だこれは……。いつからこんな症状が?」

「分からない。気付いたの四日前の朝だ。痛みはあるが、傷が勝手に塞がる」

「ここ最近、図書室を借りて調べてはいるけど、なかなか該当する文献が見つからないんだ。やはり姉さんに意見を訊くしかない……」

 

 深刻な表情をするエレナスにリザルは笑ってみせた。

 

「今となっては、頼れるのはお前だけだ。オレも出来る限りの事はしてみる。頼んだぞ」

 

 リザルの微妙な変化にエレナスは僅かな違和感を覚えた。

 激しい突風が、捧げられた花たちを吹き散らす。ひらひらと青空に舞う白い花びらは、夏の雪のようにも見えた。

 

 

 

 邸宅に戻ったリザルは、セレスの様子を見に子供部屋へ行った。

 だがそこには眠っているはずのセレスの姿が無い。水を飲みに台所へ行ったのかと探しても、息子の姿はどこにも見当たらなかった。

 服喪が明けた今日の午後、軍議の警備に就くためにローゼルは出かけている。風邪気味のセレスを独りにしておくのが不安になり、リザルは屋敷の中を探し回った。

 

 地下の物置まで来て、不意に彼は懐かしさに捕らわれた。

 ここは子供の頃、両親に黙って調薬の実験をしていた場所だ。小さなカンテラと器材を人知れず持ち込み、手帳に薬草の種類や抽出方法、薬効などを記していく。

 子供がこっそりやっている事を親が知らない訳もなく、怒鳴られ殴られては薬瓶を割られ、捨てられた。それでも手帳だけは守り抜き、それはいつしかリザルにとって、なくてはならないものとなった。

 

「懐かしいな。この場所を忘れていた」

 

 隠し戸棚に並べられた薬瓶に触れ、リザルは懐かしそうに目を細める。

 この屋敷にある、たったひとつの思い出。両親の思い描く未来を強いられていた自分が、夢を見ていられた場所。

 自作の鎮痛剤や睡眠薬の並んでいる棚を眺めていたその時、強烈な頭痛が彼を襲った。がんがんと鳴り響く衝動にリザルは膝をつき、うめいた。視界がぐらぐらと揺れ、意識が朦朧としていく。

 

「まずい……。こんなところで」

 

 深淵の意識が奥底から現れるのを感じ、リザルはふらつきながら抵抗を試みた。だがそれも虚しく、彼の意識は昏い奥底へと追いやられていく。

 意識が真っ黒く塗り潰される直前に見えたものは、戸棚から転がり落ちる薬瓶と、必死に階段を這い上がろうと伸びる自分の右手だけだった。

 

 

 

 暖かく柔らかい右手の感触に、リザルはようやく意識を取り戻した。

 彼の体はいつの間にか、地下室からセレスの部屋へと移動している。窓の外を見ればすでに夜半を回っているようだ。雲ひとつ無い満月が室内を青白く照らしている。

 セレスは寝台で眠っているように見えた。そしてリザル自身は息子の喉に右手を掛け、今まさに絞め殺そうとしているところだった。

 

 声にならない悲鳴を上げて、リザルはおののき飛び退いた。

 もう少し意識を取り戻すの遅ければ、確実にセレスの細い首をへし折っていただろう。そうとも知らず、セレスは安心しきった表情で眠りに落ちている。

 窓際の机を見れば、そこには冷めた牛乳の残ったカップが置いてある。そして、その横には地下室にあった薬瓶が転がっていた。

 

 ――オレが、セレスを薬で眠らせて殺そうとした……?

 

 そう気付くのにさほど時間は掛からず、彼は深淵の所業に恐れおののいた。

 このままではいつしか、セレスやローゼルをその手に掛けてしまうだろう。クルゴスがアグラールを殺させたように、深淵もまた、彼に家族を殺させようとしているのだ。

 カップや薬瓶を手に取ると、リザルはそれを持ち出し誰にも分からないように廃棄した。そして書置きをして、彼は未明の闇の中へ飛び出した。

三 ・ 火蓋

 

「お父様……どこ……?」

 

 書置きだけを残し姿を消した父親を探して、セレスは城内を独り歩き回った。

 彼が目覚めたのは陽も高くなった昼頃で、風邪気味だったせいもあってか、すっかり熟睡していた。

 

 ――危ないから父さんに近付いてはいけない。何かあったら叔母様かエレナスに相談しなさい。

 

 そんな書置きを残されても、今のセレスには訳が分からなかった。ただ傍にいて欲しい。それすら叶わないというのだろうか。

 ぼんやりとした頭で闇雲に歩き回っていると、いつしかセレスも知らない場所へ足を踏み入れていた。子供の足では普段訪れない場所まで迷い込んでしまっていたのだ。

 

 誰もいない豪奢な廊下を、セレスはとぼとぼと歩いた。

 温かみのある王城とは裏腹に、この場所は不気味な冷たさがあった。埃ひとつ落ちてはいないものの、微妙な生臭さを感じるのは、普段使われていないからなのだろう。

 

 通り掛った部屋の中から、不意にうめき声と何かが倒れる音が聞こえた気がした。とても人がいるとは思えない場所での物音に、セレスは恐怖を感じて立ち止まる。

 誰かいるのだろうかと思ったが、声を出してはいけないと咄嗟に感じ、セレスは恐る恐る扉の鍵穴を覗き込んだ。

 そこに見えるのは床一面を浸す真っ赤な液体だ。その只中に男が一人倒れている。仰向けに倒れた男は左手を伸ばし、虚ろな瞳をセレスに向けて何かを呟いた。

 

 悲鳴を咄嗟に飲み込んで、セレスは転びながら後ずさった。人が死んでいる。廊下の端でがたがたと震えながら、彼は扉を見上げた。

 そこには――アレリア大公レナルドの名が綴られた、重厚な金属板が掲げられていた。

 

 逃げなくては。理由がどうであれ、ここにいては危険だ。

 その時、いきなり眼前の扉が開いた。俯くセレスの目に、上質な作りの室内履きが見える。絶望に身を竦ませながら、セレスはゆっくりと眼前の人物を見上げた。

 彼を見下ろす双眸は無感動でありながら、その奥にどす黒い感情を灯している。

 

「おや君は? 迷い込んでしまったのかい」

 

 うわべだけの微笑を浮かべながら姿を現したのは、アレリア大公レナルドだ。大公は微笑みながら、気味の悪い猫なで声でセレスに話し掛けた。

 この男は危険だ。優しく微笑みながらも、背後に隠している右手がそう物語っている。セレスは何も知らないふりをしながら、大公の衣服を見た。

 本人は気付いていないのかも知れないが、明らかに返り血が付着している。先ほどの男を殺したのは大公その人だろう。

 

「ごめんなさい。ぼく、道に迷ってしまって。お父様を探していたら、ここに入ってしまいました」

「お父様? そうか、君は……ネリア王族の子だね」

 

 仮面を被ったような不気味な笑みのまま、大公は続けた。

 

「怖がる事はないよ。私の居室に物盗りが入っただけなんだ。もみ合っているうちに相手を傷つけてしまったけど、死んでいる訳じゃない。それにほら」

 

 大公が目をやった先には、彼の侍従が走り寄る姿が見えた。

 

「お呼びでございますか、殿下」

 

 壮年の侍従は若い大公に畏まった。

 

「ああ。私の居室に賊が押し入った。相手が剣で脅して来たが、抵抗しているうちに賊を傷つけてしまった。私は正当な防衛をしただけだ。そうだな?」

「仰せの通りでございます、殿下」

「この件に関しては、ここにいるこの子も証人だ。……そうだ。君の名を聞いておこうか」

 

 逃げられない。完全に囲い込まれたとセレスは感じた。ここで嘘を述べるのは得策ではないと彼は思い、仕方なく名を口にした。

 

「……セレス・ルベル・セトラと申します。大公殿下」

「そうか。お祖父様の件は本当に残念だったね。戦に事故はつきものだ。流れ矢で命を落とすなど、本当に惜しい方を亡くした」

 

 大公と侍従の遣り取りを耳にしながら、セレスは呆然と居室に倒れる男の死体を見た。

 すでに命が尽きているというのにその表情は悔しさを滲ませ、その双眸から血の涙を流し続けていた。

 

 

 

 夜明け直後の病棟に突如飛び込んで来たリザルに、エレナスは驚いた。

 何があったのかその顔は蒼白で、理由を訊ねても頑なに口を開こうとはしなかった。そしてただ、恐ろしい、とだけ彼は呟いた。

 

「もう自宅には戻れない。あいつが何をしでかすか分からない」

 

 あいつ、とは内にいる深淵の事なのだろうと察しはついたが、リザルがここまで怯えるには相当な事があったのだろう。

 

「やはり落ち着くまでここにいた方がいい。表向き入院加療中という形になっているし、俺も王城の一室を借りて寝泊りしているから、何かあっても対処出来る。昼には姉さんと会える事になっているから、もう少しだけの辛抱だ」

 

 ブラム奪回作戦で負傷した兵士たちを抱え、非常に忙しい身でありながら、エレナスは嫌な顔ひとつしなかった。

 それがリザルには心苦しく、全てを話してしまいたい心持ちになる。

 だが深淵に支配されていたとはいえ、実の息子を手に掛けようとしたなど、誰にも言える話ではなかった。

 

「すまない。いずれお前にも、迷惑を掛けてしまうかも知れない。その時は……」

 

 そこまで呟いて、リザルは後に続く言葉を飲み込んだ。

 

「……何でもない。急に来て悪かったな。宿直室が空いているなら、そこにしばらく泊まる事にするよ」

「本日中には空いている病室をこちらで用意しておく。王の面目を潰す訳にもいかないし、やはり安静にしていた方がいいと思うんだ」

 

 エレナスの心遣いに感謝をしながら、リザルは別れを告げてそのまま宿直室へと向かった。

 その後姿を見送りながら、エレナスは姉に面会するために自室へ戻り準備を始めた。

 

 その日エレナスが姉に会えたのは、正午になる少し前だった。

 いつになく冷静さを欠いている姉の様子に、彼は密かに驚いた。今では参謀として王のために働き、今回の作戦でも将軍の戦死を目の当たりにしてしまったのだから、無理もないのだろうとも彼は思った。

 

「姉さん。疲れているのかい。顔色が良くないよ」

 

 弟の言葉にシェイローエははっとした。

 先日の奪回作戦で命を狙われていたなどと、弟には言えない。ローゼルは王に報告をすると言っていたが固く口止めをし、誰にも知られないようにした。

 これが知られたら、次回の作戦時には参加を許されない可能性がある。それだけは避けたかったのだ。

 

「大丈夫。軍議の件がずっと気になっているだけよ。お前ともあまり話をしていないから、いろいろ話さなければね」

 

 以前よりも毒気が抜けたようになった姉を不思議に思いながら、エレナスはリザルの話をした。

 ヤドリギと深淵の話に差し掛かった時、彼女はふと険しい表情になった。

 

「お前はあれと……シェイルードと会ったのか。無事に戻って来れてよかった」

「姉さんの知っている事を、出来れば全て教えて欲しいんだ。ヤドリギは深淵の神を目覚めさせる術具だというのは分かったけど、あいつは何故そんな事をしているんだろう。あれだけの力を持っていれば、代行者だけで世界を滅ぼす事だって可能なはずなのに」

「……恐らく、代行者は完全な存在ではない。多少の傷では再生してしまうけれど、致命的な傷を与えれば眠りにつくと聞いた。自らの身に不測の事態が発生した時、確実に世界を破壊するために神降ろしをしたのだろう」

 

 姉の言葉にエレナスは、背中がじっとりと汗ばむのを感じた。

 それはシェイルードの狂った執念を見せ付けられた気がしたからだ。世界を確実に滅亡させる手段。そのためだけに、リザルは怯え苦しんでいるのだ。

 

「深淵の神を取り除く方法は無いのかな。このままでは大変な事になる」

「残念だけど、わたしが今まで読んだ文献や古文書にもその方法は無かった。たったひとつあるとすれば……完全な神になる前に、命を絶つしかない」

 

 一瞬聞き取れず、エレナスは聞き返した。だがシェイローエは押し黙り、そのまま口をつぐんだ。

 

「今……。何て……」

「それしかない。完全な神に近付くにつれ、普通の剣や槍では傷を負わなくなるらしい。そうなる前に、殺すしか……」

 

 その言葉にエレナスは愕然とした。

 王家の墓所で会った時、すでにリザルは傷を負わなくなっていた。それはもう手遅れだという事なのか。

 

「すまないエレナス、力になれなくて。弟に何もしてやれないなど、わたしは本当に……無力だ」

「そんな事ない。俺は姉さんがいてくれるだけで、それだけで充分なんだ。だからもう、出来れば危ない真似はしないで欲しい。でもきっと、また前線へ赴くんだろうね」

 

 エレナスの言葉にシェイローエは一瞬の迷いを見せた。

 目を逸らし俯くと、ぽつりと言葉を吐き出した。

 

「次の軍議で、ブラム北にあるエルナ峡谷への進軍を具申しようと思っている。教団がほぼ潰えた今、この案が通るかは分からない。けれどわたしは行かなくては」

「あいつを……止めに行くんだね」

 

 エレナスの問いに、シェイローエは静かに頷いた。

 

「わたしの血の繋がった弟は死んだ。だけど、生きる屍となって怨念のまま動いているのを、見過ごす訳にはいかない……」

 

 もう姉を止めるすべはないだろうとエレナスは感じた。

 

「姉さんなら、そう言うと思っていた。だからもう止めない。でもあいつを止めるなら、俺も一緒に行くから」

 

 覚悟を決めた弟の表情に、シェイローエは思わず涙をこぼしそうになった。

 慌てて顔を逸らし、それと分からないように目元を拭った。

 

「ありがとう。……共に行こう。最後まで」

 

 柔らかい姉の微笑みに、エレナスは胸が熱くなるのを感じた。そしてそれと同時にリザルに対する不安がより大きくなるのが分かった。

四 ・ 顔の無い神

 

 姉と別れた後、エレナスは勤務している病棟へ戻った。

 兵士たちの定期回診を手早く終え、空いていた病室を確保するとリザルをその部屋に移した。

 

 午後の勤務は通いの医師が担当してくれたために、エレナスは夜間の巡回を受け持った。

 病床の数は何とか足りているが、医師と看護師の不足だけはどうしても賄いきれず、エレナスが夜間巡回をする日はたびたびあった。

 それでも彼は出来る限りの事はしようと、なるべくその役目を買って出た。

 

 夜半の病棟は薄暗く、廊下に備え付けてあるランプは仄かに周囲を照らすだけだ。人間の目では捉え切れない暗闇の中でも、エレナスの目には昼間と同じように辺りが窺えた。

 ほぼ全ての病室を確認し自室へ戻ろうとした時、廊下の先に黒い人影が見えた気がした。人間であれば手探りでしか歩けないような暗闇を、それは燭台すら持たずにふらふらと歩いている。

 

 何かに操られているかのように歩くその姿に、エレナスは警戒した。

 剣は自室にあり、丸腰の今は徒手で切り抜けるしかないだろう。ただ相手はかなり大柄で、成長途中のエレナスの体格では取り押さえる事すら難しい。

 影を遠目から睨んでいると、それは不意に廊下の角を曲がり姿を消した。エレナスも急いで角まで忍び寄り、気付かれないよう静かに廊下の奥を覗き込んだ。

 

 その刹那、闇の中から腕が伸び、エレナスの胸倉をがっしりと捕らえた。影はそのままエレナスを壁に叩きつけ、肘と腕で彼を押さえ込む。

 もがけばもがくほど相手の腕が胸を圧迫し、苦しさに意識が朦朧とする。見上げれば男は赤い瞳を爛々と輝かせ、エレナスを覗き込んで不敵に笑った。

 

「何だお前は。命ある者は眠る時間だろう」

 

 男の声はまるで、地の底から這い上がってくる亡者のうめきのようだ。だがその顔には見覚えがある。邪悪な笑みに歪んではいるが、それは紛れもないリザルの顔だ。

 

「ぐっ……。貴様は一体……」

 

 エレナスを押さえ込む力は強く、とても人間とは思えない。これがヤドリギ、そして深淵の意識なのかと彼は気付いた。

 

「私に名など無い。故に姿も持たぬ。お前たちヒトが好きに呼び習わし、私を形作る。この世の全てであり、ひとつでもある存在。それがこの私、深淵の大帝と呼ばれる者」

「やはり……深淵の……」

 

 呼吸を阻害され、息も切れ切れにエレナスは呟いた。深淵の大帝はその手を緩める事も無く、エレナスを覗き込み笑った。

 

「そうだな。ここでお前をくびり殺すのも一興。今、私の器となっているこの男は本当に興味深い存在だ。息子を殺すお膳立てをしてやったら、ひどく怯え絶望していた。お前をこの手で殺めたら、どのような顔をするだろうな」

「貴様……! リザルとセレスにそんな事を!」

 

 逃れようともがいても、深淵はそれを許さなかった。あまつさえ空いている左手をエレナスの喉に掛け、圧迫してくる。

 

「ここで私に出会ってしまった事を後悔するがいい。聖銀製の封具でもあれば私を封じられたかも知れないが、それすら手遅れだ。もう誰も、私を止められはしない」

 

 エレナスの喉はすでに呼吸を止め、両腕は力なく滑り落ちる。

 その様子を見て深淵は哄笑を上げた。次の瞬間、瞳に宿っていた血の色は消え失せ、そこにはスミレ色の意思が戻った。

 

「……エレナス?」

 

 深淵の意識から解放されたリザルは、自らの左手がエレナスの喉を絞め上げている事に気付き、腕を放した。

 ずるりと床へ崩れ落ちたエレナスの体は、拘束を解かれた事で呼吸を取り戻し、激しく咳き込んだ。

 

「すまない、オレは何て事を……」

 

 肺に酸素を巡らせ、肩で呼吸をしながらエレナスは顔を上げた。

 

「あいつが、深淵が全てやった事なんだ。だから気に病む事なんてない……」

 

 ふらつきながらエレナスは立ち上がった。壁掛けのランプに反射する青い彼の瞳には、悲壮が宿っている。

 

「だけどもう、あいつを止める手立てが無いかも知れない。侵食が進み過ぎているんだ。傷を負わなくなったらもう手遅れなんだと、姉さんが言っていた」

 

 その言葉に、リザルは唇を噛み俯いた。傷すら負わない身となった今では、自刃すら叶わないだろう。そしてこのまま魂を食らい尽くされるのを待つのみなのだ。

 

「エレナス。お前に頼みがある」

 

 リザルがそう言い掛けた時、急にエレナスが廊下の奥に目をやった。リザルもそちらに目を向けたが何も見えず、ただ混沌とした暗闇が広がっているばかりだ。

 

「誰だ! そこにいるのは」

 

 エレナスの誰何に、そこにいた『何か』は身を翻して走り去った。

 二人の遣り取りを聞かれただろうか。だが仮にそうであったとしても、第三者に利する情報など何も無い。

 言い掛けた言葉を再び飲み込み、リザルは黙り込んだ。不安を抱える中、窓からは薄明かりが漏れる。巡り来る朝陽だけが唯一の救いだった。

 

 

 

 リザルを病室に戻し仮眠を取ってから、エレナスは図書館に篭る事にした。

 藁にもすがる思いで、深淵が口にしていた聖銀の封具に関する文献を探したが、どこにもそれらしき記述は無い。限られた中で確認が出来たものは、聖銀の産出や精製のような、比較的知られている情報だけだった。

 

 ――聖銀製の封具でもあれば私を封じられたかも知れないが、それすら手遅れだ。もう誰も、私を止められはしない。

 

 不気味に笑う深淵の言葉を思い出し、エレナスは戦慄した。

 事実、もう侵食を止める手立ては無いのかも知れない。それでも最後の一瞬まで、諦める気にはなれなかった。

 卓の上に書籍を山と積み上げながら、エレナスは古書を漁り続けた。夢中で目を走らせる視界の隅に、ふと人影がよぎったように見えた。だが彼は、誰かが知らないうちに入室したのだろうと気にも留めていなかった。

 

「……封具の作製方法は、今ではもう失われた古代の技術だよ。ここで文献を探しても無駄というものだ」

 

 背後から声を掛けられ、エレナスは驚いて振り返った。

 そこにはネリアの軍服を纏った黒髪の男がいる。長めの髪を編んで垂らし、リザルやフラスニエルによく似たスミレ色の瞳で彼を見下ろしていた。

 

「あなたは誰です? 何故封具の事を知っているんですか」

 

 ネリア王族の一人なのかと思い、椅子から立ち上がりながらエレナスは静かに訊いた。

 男はその問いに事も無げに微笑みながら答えた。

 

「キミと会うのは初めてだったね、エレナス。僕の名はマルファスという。キミの姉シェイローエや、ソウの友人だと言えば分かってもらえるだろうか」

 

 年の頃はフラスニエルとそう変わりないのに、ひどく老成した瞳をマルファスは向けた。

 

「キミも知っている通り、聖銀や魔銀を精製する鉱石は今でも産出がある。それを装飾品や武器に加工する技術も現存する。だけど封具については、もう誰も知らないんだよ。僕以外は」

「あなたはご存知なのですか? ならば教えて下さい! 封具という名から察するに、神やその眷属を封印する術具なのですよね」

「そうだね。役割としては、ヤドリギの対極に位置するものだ。聖銀で造られた装飾品に護りの術を与え、肌身離さず身につけていればいい。だが、今から聖銀の装飾品を造っていては間に合わないだろうね」

「間に合わない……? どういう事なのですか」

 

 エレナスの問いに、マルファスは困ったように黙り込んだ。

 

「リザルの侵食は思いのほか進んでいる。あれではもう、命を奪う以外に食い止める方法がない」

 

 その言葉に、エレナスは呆然と立ち尽くした。

 

「リザルを殺す……? そんな……。そもそも、彼の体はもう、並の武器では傷すらつかないんですよ」

「知っているさ。だが神器ならそれが可能だ。そうだろう? 剣の主エレナス」

 

 感情の無いマルファスの瞳に射すくめられ、エレナスは視線を外す事が出来なかった。

 リザルと同じスミレ色の視線は、ただ冷たく彼を捉えた。

 

「神器は人の手に余る器物だ。手にした者の運命を捻じ曲げ、破滅へ導く。覚悟のある者だけが、本来は所持を許される。神が人を断罪するように、キミはリザルの命を奪う覚悟があるかい」

「……俺は神じゃない。そんな事、出来る訳がない!」

 

 声を荒げて詰め寄るエレナスをマルファスは静かに見た。

 

「それでも、キミは選ばなくてはならないだろう。リザルを殺さずに世界の破滅を迎えるか、彼を殺し破滅から救うか。その日はもう、遠くないよ」

 

 リザルを殺す。それはセレスやローゼルの家族を殺すという事だ。そして何よりも、エレナス自身の友人をその手に掛けるという意味だ。

 押し黙ったまま呆然と立ち尽くすエレナスを残し、マルファスは言葉も無くその場から掻き消えた。

 後には床へ崩れ落ちるエレナスと、山のように積み重なった本だけが残され、いたずらにページだけが風に舞い踊った。

五 ・ 護りの絆

 

 同盟軍の本隊が王都ブラムに移動する一週間前、緊急の軍議が開かれた。

 今回は先週の顔ぶれに加え、ローゼルも出席している。本来であれば教団が潰えた事で、同盟の意味は終了していると言えるが、各国の結束が緩みかかっている事をシェイローエは危惧していた。

 とうに方針の終了している案件を蒸し返されるのが面倒なのか、レニレウス王カミオは非常に機嫌が悪かった。彼から見れば、今回の顔合わせは非合理にしか感じないのだろう。

 

「皆様にお集まり頂いたのは、重大な案件が発生したからです」

 

 諸王を見渡し、シェイローエは立ち上がった。

 壁に寄り、貼られた地形図の一部を指示棒で示す。そこには緑のピンが留められ、さらに北には赤のピンが留められている箇所があった。

 

「これは……エルナ峡谷ですか」

 

 赤のピンを見咎めたカミオが不意に口を開いた。

 

「左様にございます。二日ほど前にブラムの駐屯部隊から連絡があり、峡谷を異形の兵団が占拠しているとの情報を受けました」

 

 シェイローエの言葉に場はざわめいた。

 中でもカミオは一段と渋い顔をし、シェイローエに疑問を投げかけた。

 

「そのような情報、私の許には入っていませんね。何かの間違いではありませんか」

「いいえ、まず間違いはありません。わたしとしましては、この情報を元にエルナ峡谷を奪取し、北の山中にある山岳遺跡への進軍を具申致します」

 

 その言葉にカミオは驚き立ち上がった。卓を平手で叩き、怒声を上げる。

 

「何だと! 気でも違ったのかカイエ参謀。あんな細く狭い地形を攻めるなど、正気の沙汰ではない。山岳遺跡に至っては、断崖の頂上にある。どれだけの兵を失うと思っているのだ」

 

 いつになく感情的にカミオは叫んだ。

 エルナ峡谷は、高い崖に阻まれた谷底のような地形をしている。要塞を固守する城壁にも似たその形状は、守るに易しく、攻めるには難い。

 そのような地形を攻め落とすには、防衛側の倍以上にあたる戦力が必要になるだろう。策も無しに突入するのは自殺行為だ。

 

「冗談ではない。我がレニレウスの兵は一兵たりとも出す気はない。むざむざ失うと分かっていて、そんな真似が出来るか!」

 

 カミオの剣幕に室内は水を打ったかのように静まり返った。

 誰もがシェイローエとカミオの顔を見た。二人はどちらも蒼白なおもてに口角を引き結び、一触即発の様相を呈している。

 静かな対峙のさなか、廊下で揉め合う喧騒が会議室に届いた。室内にいた衛兵が様子を窺うために扉を開けると、そこには衛兵を掻き分けるように進む伝令たちがいる。

 

「何事だ!」

 

 入り口に最も近かったダルダン王ギゲルが振り向くと、伝令たちは扉前で平伏しながら報告をした。

 

「申し上げます! 王都ブラムからの早馬で、エルナ峡谷南付近に異形の兵が現れたとの事。内、一個中隊程度の数が南進しているようです」

「敵全体の数は把握出来ているか?」

「峡谷を探った斥候によれば、おおよそ一万との報告がありました。増援の有無については不明との事」

 

 その報告にその場にいた者は顔を見合わせた。

 シェイローエとカミオは変わらず険しい表情をしていたが、場を取り繕うようにギゲルが口を開く。

 

「私個人としては、後顧の憂いを断つためにも叩くべきかと思います。国も民も護れなかった王が述べるのは筋違いかも知れませぬが、そのような兵団がいるという事は、我らに仇なす者がまだ残っている証拠。一万程度なら、我らにもまだ勝機はある」

 

 その言葉にはカミオも理解を示さずにはいられなかった。確かに敵意ある者がまだ残っている。だが教団を操り崩壊させた者が誰なのか。レニレウス王家にとって、それは未知の暗闇を素手で探るにも等しかった。

 

「仕方ありませんね。今回だけは兵を出しましょう。ですが今回の討伐作戦以降は参加するつもりはありません。ご留意を」

 

 主の言葉にユーグレオル将軍は腰を上げ、会議室を後にした。続いてローゼルがその後を追い、退出する。

 王族たちも次々に席を立ち、会議室を離れた。最後にカミオが退出する際、彼は未だ残っていたシェイローエに声を掛けた。

 

「あなたは何を考えておられるのです。こんなやり方では無理がありすぎて、いずれ誰もついて来なくなる。分かっているのですか?」

「……お気遣い痛み入ります。ですが、一連の作戦にわたしは自らの命を賭しております。差し出せとおっしゃるなら、この首も差し出して御覧に入れます」

 

 シェイローエの力強い視線を見据え、カミオはそれ以上何も言わず会議室を後にした。

 それぞれのやりきれない思いは、彼らの心中を駆け巡ったが、誰も大局の流れには逆らえなかった。ゆるゆると渦巻く世界の災禍。その渦中に大陸の全てが身を投じる結果となった。

 

 

 

 深淵の顕現があった夜から、エレナスはあまり睡眠も取らずに働き続けた。

 昼は患者を診て、夜は封具について調べた。だが顕現の夜から深淵はなりを潜め、一週間近く何事も無く過ぎていった。

 聖銀の装飾品を手に入れられれば、リザルを救える可能性もある。そう思い、エレナスは連日に渡って王都中を探し回った。だが今では貴重な鉱石となった聖銀は、加工品はおろか、原石すら無い。

 

 いたずらに日々が過ぎていく中、うたた寝にエレナスは夢を見た。

 広大な草原を乗り合い馬車で行く。セレスと二人で青い空を見上げながら、顔を見合わせて笑う夢。懐かしい、とエレナスは呟いた。ほんの数ヶ月前の事なのに、今ではそれすら遠い昔に思える。涙で濡れる頬の冷たさに目を覚まし、彼は身を起こした。

 思えば服喪期間が過ぎてから、一度もセレスに会っていない。祖父が亡くなり、父親からも離れている今、セレスはどうしているのだろうか。

 恐らくローゼルの屋敷で過ごしているのだろうが、彼女も重要な役目に就き、忙しくなったと姉から聞いている。

 

 リザルの様子も気になったが、エレナスはセレスに会うために屋敷を訪れた。

 門を抜け呼び鈴を鳴らすと、中からは青白い顔のセレスが現れた。あまり食べていないのか、小さな体は更に細くなり、何かに怯えているようにすら見える。

 

「……お兄ちゃん? どうしたの、急に」

 

 力なく笑う表情は、とても八歳の子供には見えない。セレスの様子にエレナスは異常を感じた。

 

「近くまで来たから寄ったんだ。入ってもいいかな」

 

 一瞬の戸惑いを見せたものの、セレスは彼を招き入れた。邸内に人影はなく、使用人も出払っているようだった。

 ちょうど正午を過ぎたばかりで、買い物や馬の手入れなどをしている頃なのだろう。セレスは客間にエレナスを通すと、自分で茶の用意をして戻って来た。

 

「大丈夫なのか? 顔色が悪いようだけど」

「うん……大丈夫。この前まで軽く風邪をひいていたけど、もう治ったから」

 

 エレナスの目には、風邪だけの問題ではないように思えた。

 

「今はリザルも医療施設にいるし、ローゼルも多忙だって聞いてる。俺にだってきっと出来る事があると思うから、何かあるなら力になる。セレスがいつも支えてくれていたように、俺も出来る事をしたいんだ」

 

 その言葉にセレスは、はっと顔を上げた。

 

「お父様、そんな所にいたんだ……。よかった。置手紙だけしていなくなっちゃうから、本当に心配したんだ……」

「……行き先も告げていなかったのか? 困った人だな。家族が心配するというのに」

 

 父親の所在を知ったセレスは、ようやく嬉しそうな表情を見せた。その様子に安堵し、エレナスは王城に戻ろうと立ち上がる。

 

「また時間を見て来るよ。今日は急だったし、気に掛かる事もあるから」

 

 帰ろうとするエレナスを呼び止め、セレスは掌に乗る程度の小さな包みを持って来た。中身を問うと、お菓子だよとセレスは笑いながら渡した。

 

「叔母様が焼いてくれたんだ。お兄ちゃんにもあげる」

 

 小さな心遣いに感謝して、エレナスは王城へ戻った。自室に戻り包みを解くと、中からは小さな焼き菓子と共に、折り畳まれた走り書きが入っている。

 不審に思ったエレナスは手紙を開いた。そこにはセレスの書いた文字が踊っている。

 よほど急いでいたのか、単語を繋ぎ合わせたような奇妙な文章は、見る者に恐怖と焦燥を感じさせた。

 

 ――助けて。監視されてる。庭から不気味な顔が覗くんだ。ぼくが見てしまったから。大公様が人を殺すところを。

 

 羅列された文字と単語に、エレナスは目を見張った。

 走り書きを握り締め懐に突っ込むと、エレナスは再び王城を飛び出した。

 

 

 

 エルナ峡谷の討伐作戦を受け、シェイローエはフラスニエルの執務室を訪れた。

 日も暮れかけた頃に突然訪れた事を咎める様子も無く、フラスニエルは嬉しそうに机から顔を上げた。

 

「どうされたのです? 今回の作戦について、何か問題でもありましたか」

 

 王の隠そうとしない笑顔に、シェイローエは心が苦しくなった。

 この人は自分が傍にいる事で喜んでくれている。だが彼女の中に、フラスニエルと生きる未来は見えない。どれだけ夢見ようとも、その日は永遠に訪れない。

 

 代行者となった弟など放っておけばいい。そんな言葉が何度もシェイローエの頭を駆け巡った。

 愛する人と共に生きたいという望みは、彼女にとって叶えてはいけない未来だ。そしてそれを運命という言葉で片付けてしまいたくないとも、シェイローエは思った。

 王の左手をふと見やると、そこにはシェイローエに与えられた指輪と同じものが光っていた。黒銀のようにも見えるそれは、恐らく魔銀製なのだろう。

 

「それは……。わたしが頂くはずだった指輪と対になっているのですね」

 

 シェイローエの目線が左手の薬指にあるのに気付き、フラスニエルは微笑んだ。

 

「はい。せめて自分だけでもはめておきたくて。気が早すぎるでしょうか」

「いいえ。とても嬉しく思います。……フラスニエル様。わたしにも指輪を見せて頂けるでしょうか」

「あれはあなたの指輪なのですから、あなたが持っていていいのですよ」

 

 フラスニエルは言われるまま、鍵付きの引き出しから小箱を取り出した。静かに蓋を開けると、そこには白く光る銀の指輪が載っている。

 王はシェイローエの左手を取ると、銀の指輪をその薬指へはめる。白銀の指輪は真の主の指で誇らしげに輝いた。

 シェイローエは左手を彼の指輪へ重ねると、右手でそっと二つの指輪に触れた。小さく何かを呟きしばらく撫でていたが、傷がつかないように優しくはずすと、指輪をフラスニエルの手に戻した。

 

「ありがとうございます。本当に美しい指輪。聖銀の指輪など、初めて見ました」

「……きっとあなたには聖銀が似合うだろうと思い、かねてから取り寄せて鋳造したのです。やはり思った通りでした」

 

 お持ち頂いてもいいのに、とフラスニエルは残念そうに笑った。

 ふと目を落とし、薬指にある魔銀の指輪が輝きを増しているのを目にすると、フラスニエルはシェイローエに訊ねた。

 

「これは? 先ほどよりも、輝いて見えますが」

「はい。護りの言葉を、二つの指輪に込めておきました。何があっても、その絆を護れるように」

 

 その言葉に、フラスニエルは彼女の両手を強く握り締めた。

 

「あなたは私が必ず護ります。何があっても、必ず」

 

 真っ直ぐに射る王の視線を、シェイローエは微笑みながら柔らかく受け止めた。

 黄昏の紅い陽が二人の影を長く伸ばしていく。その輝きは二人を深紅に染め上げた。


 
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