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フェイタルルーラー 第十一話・狂える神

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。流血描写あり。5446字。

あらすじ・教団が立て篭もる神殿遺跡に現れたシェイルードは、邪神降臨のために依り代を探していた。
その頃、クルゴスにそそのかされたアレリア大公レナルドは、フラスニエルを激しく憎悪し復讐を心に誓った。
第十話http://www.tinami.com/view/580055

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2013-06-09 20:57:17 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:470   閲覧ユーザー数:470

一 ・ 狂える神

 

 アレリア大公レナルドの許に書簡が届いたのは、夕刻を過ぎた頃だった。

 書状には四王国での会議を開催する旨が記されており、所々女王の容態を気にかける言葉や、ローゼルに関する一文があった。

 朝には出発しようと侍従に声を掛け、レナルドは自室へ向かった。薄暗い廊下には点々とランプが掛けられ、小さな炎を灯していた。

 

「アレリア大公レナルド様に、御注進申し上げまする……」

 

 まるで地の底から呻く亡者の嘆きのように、何者かの声が廊下に響いた。

 それと同時にランプの炎が激しく燃え上がり、大きく伸びたレナルドの影の中から一人の老人が姿を現す。

 とても人とは思えないその所作に、レナルドは剣を抜き放ち構えた。夜更けの城内で護衛は誰もおらず、彼は影に向かって誰何した。

 

「わたくしめは代行者『執』にございます。どうぞお見知りおきを」

 

 フードの奥でにんまりと笑う老人の顔に、レナルドは見覚えがある気がした。だが薄暗い中では判別がつく訳でもなく、切っ先を向けながら老人に言い放った。

 

「どこから侵入した。すぐにここを立ち去れ。アレリアの城内に踏み込むとは不届き千万」

「勿論でございまする。ひとつだけ、御忠告を」

 

 老人の不気味な微笑みにレナルドは立ちすくんだ。ちろちろと燃える青黒い双眸は、人とは言い難いおぞましさを放っている。

 

「アレリア大公レナルド様におかれましては、姉君の御病状が気がかりとお察し申し上げまする。王器を奪い、女王陛下をこのような目に遭わせた原因を知りたくはございませぬか」

「原因……だと」

「左様にございまする。アレリアは四王国でも風光明媚で外敵も無く、この世の楽園とまで謳われた地。元から恨まれるような所以もありませぬ」

 

 揺らめく二つの青黒い炎から、レナルドは目を離せなくなっていた。

 

「ならば何故アレリアがこんな目に遭うというのだ。知っているなら申してみよ」

「御意にございまする。王器を奪い、女王陛下を昏睡させたのはシェイルードという男。そしてその双子の姉はネリア王フラスニエルに取り入り、アレリアを滅亡させようと仕組んでおるのです。それが証拠にレニレウスからも王器を奪い去っておるのです」

「バカな……。そんなバカげた話を私が信じると思うのか! そもそも女王はネリア王と婚約までしていたのだぞ」

「では御自身の御眼にて確認されるがよろしかろう。フラスニエルに献身した大臣を追いやり、つまらぬ女を傍に置いている様を」

 

 すでに目前から青黒い炎は消え去り、廊下は再び静まり返っていた。進む事も戻る事も忘れ、レナルドはその場に呆然と立ち尽くした。

 

 

 

 東西に領土の広がるダルダンは、今や二分割されていると言える状況だった。東ではダルダン人が怯えながら息を潜め、西は異形の獣が闊歩している。

 生き残ったダルダンの民は皆ガルガロスへ避難し、ただひたすら篭城した。ダルダン王が西進した直後に食糧を補充出来たものの、難民を受け入れる余裕はほとんど無かった。

 

 以前は死人兵が徘徊していた荒野を、今や不気味な獣人が歩いている。

 城塞都市の周辺に現れて一匹二匹でうろつく程度だが、それでもダルダン人たちには耐え難い苦痛だ。いつ襲われるとも知れない緊張は彼らを苛立たせ、意味の無い仲間割れすら引き起こさせた。

 こうなると誰も王都へ様子を窺いに行く者も無く、ただ時間だけが過ぎ去っていった。

 

 その間にも王都と神殿は至高教団に侵食され続けていた。

 西ダルダンは完全に彼らの手に落ち、生きた人間が一人としていない魔の地へと変貌していたのだ。

 

「そろそろ贄を決めねばならんな」

 

 獣人たちがうろつく神殿内でシェイルードは呟いた。

 彼らがいるのは巨木そびえる祭壇の間だった。主の言葉にクルゴスはかしずきながら答える。

 

「畏れながら、何の贄にございますか。何でもよければそこらじゅうにおるではありませんか」

 

 肉薄い骸骨の顔で背後をぐるりと見やると、獣人たちは顔を見合わせ、恐れおののいた。

 

「深淵の神を降ろすのだから、何でもいいという訳ではない。教団内部から選ぼうかとも思ったが、適合する者がまるでいない」

「得心にございます。姿を持たぬ神、深淵の大帝。沈黙の黒太子、審判の先触れなどと、幾つもの異名を持つ邪神。現世に顕現するには、ヒトの肉体が必要という訳でございますな」

「そうだ。ヒトの肉体に降臨させた上で従属の印を施せば、術者に必ず従う従順な化け物となる。そうなればこの大陸を生かすも殺すも思いのままよ」

 

 ひたすら平伏するクルゴスには目もくれず、シェイルードは語り続けた。

 

「邪神の魂を植えつけるには、それ相応の贄が必要なのだ。恨みや妬み、憎しみで凝り固まった魂の持ち主などが良いだろうな。例えば、人間よりも長く生きて心の闇深い、精霊人などが向いている」

 

 シェイルードの言葉にクルゴスは顔を上げなかった。同族を犠牲にする事すら厭わないシェイルードに恐怖心さえ抱いた。

 だが恐怖と同時に狂喜もしていた。彼にとっては強者こそが正義であり正統であり、崇高なのだ。

 

「畏れながらシェイルード様。それであれば良いエサを用意してございます」

 

 平伏しながら顔を上げ、クルゴスは不気味な笑みを見せた。

 

「じきにこの神殿へエサに釣られた魚が躍り込んで来ましょう。心ゆくまで吟味なさいませ」

 

 じりじりと灼け付く双眸が、暗い神殿内に青い光を放った。

二 ・ 死の覚悟

 

 レニレウス王カミオの仮邸宅から戻ったエレナスは、ノアを救出するために準備を始めた。

 今回はどれだけ厳しい戦いになるか分からないために、神殿遺跡へ一人で行こうと彼は心に決めていた。ブラムで辛い目に遭わせてしまった以上、セレスを連れて行く事は出来ない。

 ただ、その選択が実際に正しいのかどうか、彼は自問を繰り返した。自分がしている事は、姉が言っていた事と同じなのではないか。ではその時自分はどう答えたのか。それを思うと、振り切れない迷いが心に生じた。

 

 エレナスはセトラ邸へ戻ると荷物を整理し、置手紙をしたためた。

 たった一人で敵地に赴き、生きて帰れるかどうかなど誰にも分からない。よしんばノアを救出したとしても、彼女が無事でいるとも限らないのだ。

 

 出発に先駆けてソウの様子を看ようと、彼は病室へ足を運んだ。

 セレスがいるのではないかと思いそっと覗くと、そこには彼の代わりに一人の男が椅子に腰掛けていた。

 

 見舞いに来たのだろうか。エレナスにはまるで見覚えのない青年だ。

 髪の色や背格好は驚くほどリザルに似ている。兄弟だと言われても違和感は無い。腰よりも長く伸ばされた髪を丁寧に束ね、白絹に金糸をあしらった立派な衣装を纏っている様は、彼が高位の貴族である事を物語っている。

 扉の前で立ち尽くすエレナスに気付いたのか、青年は振り向きゆっくりと立ち上がった。その瞳はセレスやリザルと同じ、深いスミレ色だ。

 

「初めまして。君がエレナス君だね。私はフラスニエル・リシュト・ネリア・レクス。セレスが世話になったと聞いた。一族の当主として礼を言う」

 

 ネリア王と名乗った青年にエレナスは面食らった。成人から数年しか経っていない青年がネリアの王だとは思っていなかったからだ。

 カミオのような尊大さも無く、柔らかく微笑むフラスニエルはエレナスの中にあった貴族の印象を覆すほどだった。歩み寄る王に彼は慌てて跪こうとすると、フラスニエル自身がそれを止めた。

 

「跪かなくても良い。君は私の臣下ではないし、公式の場でもない。こんな事を言うとまた将軍から叱責を受けるだろうけどね」

 

 気さくに笑うフラスニエルに、王にもいろいろあるものだとエレナスは思った。彼の知る王は、民の理想ともいえるダルダン王、国益だけを追求するレニレウス王だけだったからだ。

 

「何故こちらにおいでになったのです? 得体も知れない負傷者など危険だと思いますが」

「そうだな。普通ならそう思うだろう。だが一国を治める王として、知らない事があってはいけないと思っているのだ。特にこの者がレニレウスと関わりあるようであれば」

 

 フラスニエルの一言にエレナスは身を硬くした。

 確かにソウと出会ったのはレニレウス領の黒森だったが、とてもかの王と関係があるとは思えない。

 

「君はレニレウス王に接触を図ったようだね。あの男はとても危険だ。利用出来るものは全て利用し、使い捨てる。何か言われたのであれば無視をする方が賢明だ」

「……何も言われていません」

 

 エレナスは心を覆い隠すように小さく呟いた。

 

「それよりもソウの容態を看に来たのですが、彼は目を覚ましましたか?」

 

 話を逸らそうとエレナスはソウを見た。

 彼らの間には一瞬の間が出来たが、フラスニエルは何事も無かったかのように答えた。

 

「先ほど一度目覚めて食事を摂ったようだ。それでセレスが君を呼びに行ったようだが、入れ違いになったのかも知れない」

 

 レニレウス王の話に触れて欲しくなかったエレナスはほっとした。見ればソウの顔色は良好で、順調に回復しているようだった。

 しばらく様子を見ていると、不意にソウが瞼を開いた。金色の瞳は光を取り戻し、獣の瞳孔がぎらりと輝いた。驚くエレナスとフラスニエルを尻目にソウは身を起こし、立ち上がろうとした。

 

「だめです! せっかく傷が癒着を始めたのに、今動いたらまた開いてしまう」

「分かっている。でも行かなければ。あいつが来る。決着をつけなくては」

 

 ふらつきながら、なおも立ち上がろうとするソウをエレナスは座らせた。

 

「今度こそ、本当にあなたは命を落とすかも知れない。それでも行くというなら、せめて傷の縫合をさせて下さい」

 

 必死に説得をするエレナスに、ソウは一瞬戸惑ったが静かに俯き、承諾した。

 

「戦闘の妨げにならない程度なら。戦えなければ意味が無い」

「……無茶な人だ。自分の命がかかっているというのに。すぐに縫合の用意をしますから、少し待っていて下さい」

 

 ソウの無理難題に呆れながらエレナスは器具の準備を始めた。その間にソウとフラスニエルは何かを話していたようだったが、彼の耳には届かなかった。

 器具を揃え戻ると彼は懐から痛み止めの薬包を取り出した。ソウに手渡そうとしたが、彼は戦いに支障をきたしては困ると、それを頑なに拒んだ。

 

 エレナスが見る限り、彼が死闘で受けた傷は全身に及び、その数は二十を下らなかった。

 これだけの重傷で命があるのが不思議なほどだったが、強靭な精神力がその身を生かしたと言えるだろう。

 

 治りかけた傷口が開かないよう、エレナスは最低限の処置を施した。そのさなかでもソウは一言も発せず、終始無言のままだった。

 これから死地に赴く者は痛みすら感じる余裕も無いのだろうか。心の中で自らの死を意識しているエレナスにも、その気持ちは理解出来た。

 

「どうしてそんな表情をしている。何かあったのか」

 

 不意に発したソウの一言にエレナスは驚き顔を上げた。

 誰にも悟られたくなかった心の内を見透かされた気がして、動揺を隠し切れなかった。

 

「何でもありません。それよりも必ず生きて戻って下さい。死にに行く者に施す手当てなど、虚しいだけですから」

「やすやすと死ぬつもりは無いさ。『生きて勝利する』約束があるからな」

 

 エレナスがその言葉を理解する前に縫合は全て終わり、ソウは静かに立ち上がった。

 果たして病み上がりの体で戦えるのかとエレナスは案じたが、ソウは気にも留めず二振りの打刀を差し、太刀を手に取った。礼を述べそのまま出て行く背を見送りながら、エレナスも立ち上がる。

 少し離れた場所で二人を見ていたフラスニエルも、出て行くソウに声を掛ける事もなく、ただじっと思考を巡らせているようだった。

 

「俺の仕事は終わりました。それでは失礼します」

 

 器具を片付け、エレナスはそれだけ言うと挨拶をして病室を後にした。

 夕闇の中、独り残されたフラスニエルもやおら立ち上がり、何かを考え込んだまま執務室へと戻って行った。

三 ・ 四王国会議

 

 アレリア大公レナルドがネリアの王都ガレリオンに到着したのは数日後の早朝だった。

 フラスニエルの書簡によって、すでに三人の王が揃っているのは知っていたが彼には瑣末な事柄であり、ただフラスニエルに真実を問いただす事のみを心に秘めていた。

 

 真実を知らされないまま利用され、大切な姉を踏みにじられるのは彼にとって耐え難い屈辱でしかなかったからだ。

 女王である姉エリエルは未だ昏睡したままだ。国中から呼び寄せた全ての医者が匙を投げた今、エリエルが再び目を覚ます事はないだろう。どす黒い憎悪の炎がレナルドの体内で風も無く揺らめいていた。

 

 到着後早々に謁見の間へ通され、迎え出たフラスニエルにレナルドは丁寧に挨拶を返した。

 だがその目は冷たく鋭く、顔は微笑みを湛えていても鉄仮面のように冷酷だった。

 

「よく来てくれた。女王のお加減はどうだろうか」

「依然変わるところがありません。……それよりもお伺いしたい件があります」

 

 冷たい眼光を放ちながら見据えてくるレナルドに、フラスニエルは一瞬戸惑いを見せた。

 

「私が答えられる事であれば」

 

 勧めた椅子にレナルドが掛けるのを見て、自らも椅子に腰を下ろしながらフラスニエルは答えた。

 

「では単刀直入にお伺いします。我が王器を奪い、女王をあのような状態にした者を、あなたは知っておいでなのではないですか」

 

 人払いされ、二人の他には誰もいない部屋の空気が一瞬張り詰めた。

 じっと覗き込んで来るように見つめるレナルドの目から視線を逸らせず、フラスニエルは何も答えられなかった。

 否定も肯定もしない様子にレナルドは全てを悟った。悟りながら不気味なほど柔和な表情をして、彼に笑いかけた。

 

「実は、そんな根も葉もない噂を吹聴して回る不逞の輩がおりまして。そんな事、あるはずも無いというのに」

 

 レナルドの素振りにフラスニエルはいくらか緊張を緩めたが、やはり何も答える事は無かった。

 

「私の到着が遅れたせいで会議の開催にも影響が出たようで申し訳ありません。少し疲れたので会議まで休ませて頂きます。では後ほど」

 

 柔和な笑顔を崩す事も無く、レナルドは静かに立ち上がり挨拶を交わして謁見の間を後にした。

 侍従に案内をされながら、彼の中にある揺らめく炎はどす黒く燃え盛った。

 

「……許さない。我々をたばかった事、必ず後悔させてやる」

 

 誰にも聞こえないほどの小さな呟きは喉の奥に飲み込まれ、彼の黒い瞳をぎらぎらと輝かせた。

 

 

 

 四王国の代表者が揃ったところで、大陸の命運を左右する会議が幕を開けた。

 主催者のネリア王フラスニエルを始め、各国の王族が一堂に会するのは五百余年の歴史の中でも稀だろう。

 

 主な議題は同盟と、各国共通の案件である至高教団についてだった。各国の王が盛んに意見を交換する中、アレリア大公だけは貝のように口をつぐみ、決に際して意志を表明する以外何もしようとはしなかった。

 四王国間での同盟が全会一致で締結され、各国の軍備に対する配分が行われる中でも彼が発言する事は無かった。それを不満に思うダルダン王やレニレウス王から、フラスニエルが大公を庇った。

 

「時に、王器の件ですが」

 

 それまで押し黙っていたアレリア大公が急に口を開いた。

 驚き視線を向ける三人を気にも留めず、大公は言葉を続けた。

 

「最近代行者たちの動きが活発になっていると聞き及んでおります。いつぞやもこの王都ガレリオンの北に、ネリアの守護神である代行者が現れたとか。もしや各国でそういった事例があるのではありませんか」

 

 大公の発言にその場は水を打ったように静まり返った。

 レニレウス王は冷ややかな笑みを浮かべるだけだったが、フラスニエルとダルダン王は半ば引きつり、青ざめてさえいた。

 

「その様な事があろうはずも無い。そもそも代行者など、神話やおとぎ話の中だけに存在する者。臣民を治め率いる者がそのような有様では、示しがつきませんぞ」

 

 笑みを湛え物静かに答えるレニレウス王をアレリア大公は睨み返した。

 

「ではレニレウス王カミオ殿。あなたの王器である銀盤はどこへおやりになったと言うのですか」

「あれは常日頃手許に置くものではない。今でも大切に保管し、国許で将軍が預かっている。我々レニレウス王家は、王器だけを頼りに執政している訳ではないのでね。王冠に依存している女王陛下とは違うのですよ」

 

 痛烈なレニレウス王の一言に大公は目を剥き、ぎりぎりと歯噛みした。

 一触即発な雰囲気の中、フラスニエルは仲裁する形で話を逸らす事に成功した。レニレウス王の助力であるとも言えるが、当の本人は鎌を掛ける事で、苦も無くアレリアの情報を引き出しているのだから性質が悪い。

 

「今は我々で争っている場合ではありません。黒森を焼き払い、西ダルダンを占領している至高教団を排除しなければ我々に未来は無い。しかも奴らは死人を操ったり、異形の獣人を戦力としているという。全力で戦わなければこちらが駆逐されるでしょう」

 

 フラスニエルの言葉に反対する者はいなかった。

 壊滅にまで陥ったダルダンはアレリア軍と共に後方支援へ回り、ネリア軍とレニレウス軍が騎馬と歩兵を半々で務める形となった。アレリアは後方支援と兵站の他、工兵や弓兵も務めた。

 

「糧食もある程度なら供出も可能ですが、民のための蓄えにはあまり手をつけたくありません。現状ネリアの軍は出撃準備態勢にしてありますが、カミオ殿の方はいかがですか」

「こちらもすでに臨戦態勢にしてある。移動に時間を要するが、一週間もあれば集結可能だ」

「了解致しました。ではレニレウス軍の到着を待ってから、まず王都ブラムへ進撃しましょう。この間に情報を収集しておきます」

 

 フラスニエルとレニレウス王の遣り取りを鬼のような形相で睨む大公に対して、ダルダン王は違和感を覚えた。

 この男は代行者に関して何かを知っているのだろうか。ただそれを探りたくても、下手を打てば彼自身が危うくなる。今は何も触れず監視をするべきだという結論に達し、ダルダン王は密かに大公を見張る事にした。

 

 夜も更け、その日の会議はつつがなく終了した。

 静まり返る城内にはすでに人影も無く、誰の目にも見えない赤い月だけが天空に浮かんでいた。

四 ・ 代行者の誕生

 

 王都ガレリオンを出て、ソウは再び北の森へと踏み入った。

 青々とした木々の間を当て所なく進んだが、それでも彼には分かっていた。

 

 コクは子供の頃からこだわりが強く、頑固とも取れるほどひとつの事柄に執着した。

 彼が戦場と認めた場所に着けば、おのずと姿を現すだろう。そしてそれが決着の時となる。

 

 辺りを覆い尽す下草を踏みしめながら、ソウは無心のまま進んだ。雑念を振り払い、ひたすら森の奥へと分け入る。

 いつしか小鳥のさえずりすら耳に届かなくなり、彼はふと足を止めた。周囲は大きく開けていながら薄暗く、重苦しい空気だけが充満していた。

 

「ようやく来たのか」

 

 よく知る声が響き、ソウは顔を上げた。声の主を確かめもせずに太刀を引き抜き、目線の高さに構える。闇の中から現れたその姿は黒く大きく、金色の眼だけが爛々と輝いている。

 

「ああ、来たさ。終わらせなくてはいけない。何もかも終わらせて、故郷へ帰る」

 

 焼かれ奪われた故郷。今はもう亡きその場所をソウは思い描いた。

 我々は滅ぼされるほどの罪を犯したのだろうか。代行者につけ入れられるほどの罪深い存在だったのか。

 だがその思いすら今のソウには瑣末な事柄だった。勝つ。生きる。そうして独り長らえたその先に、意味があるのかどうかは知らない。ただ今はそれしか頭に無かった。

 

「そうだ。早くやろう。さっさと終わらせよう。全てを」

 

 轟音を上げる空圧がソウへと迫った。

 切り裂く鋼鉄の爪が彼を捉えようと唸りを上げて襲い掛かる。紙一重で躱していては、また肉を持っていかれるだろう。

 

 病み上がりでふらつきながらもソウは素早く爪を避けた。コクの筋肉は重厚な鎧のように硬く、とても刃を通せる状態ではない。勝機があるとすれば、それは筋肉で保護されていない部分を突く事だ。

 だがそれには限界まで接近し、肉と肉の間に刃を突き立てなくてはならない。

 コクが両腕にはめている鉤爪手甲は攻撃範囲が広いものの、懐へ飛び込んでしまえば機能しなくなる。力任せに殴りつける戦い方は隙が大きく、予備動作も察知されやすい。

 

 間合いを測りながら、ソウは好機を窺った。左右の爪の軌道を計算しながら急所へ飛び込む隙を探す。

 狙いやすいのは喉元だが、首周りには見た事も無い黒鉄製の環がはめこまれている。果たしてその戦法が通用するかどうか分からなかったが、左腕の軌道を確認し、一息に間合いを詰めるべく飛び込んだ。

 

 その瞬間、まるで待ち構えていたかのように横薙ぎの爪がソウを捉えた。

 直撃を免れようと無理な体勢から跳躍し、爪の一撃を避けた。元いた場所には右腕が爪ごとめり込み、木々が根こそぎなぎ倒されている。

 

「その傷じゃあ、本来の半分も力を出せんだろう。なのに何故諦めない」

 

 大地にめり込んだ爪を引き抜きながらコクは呟いた。

 

「俺たちは滅びるべきなのさ。村に代行者が来て、俺に目をつけた。その時すでに村は滅びを受け入れたんだ。白狐族は滅亡の運命を選択した。それだけの話だ」

「……運命? お前は天運だったら、抗いもせず何でも受け入れるのか? 与えられたものが死なら、生を放棄してでも受け入れるというのか。可能性を否定するのは死んでいるのと同じだ!」

 

 ソウの言葉にコクはただ笑うだけだった。

 

「昔のお前は、あの頃のお前はそんな奴じゃなかった。代行者の魂とやらがお前をそこまで歪めたのか」

「俺を歪めたものがあるとしたら、それは俺自身さ。俺の弱さがそうさせた。自分自身の影に勝てなかったんだよ」

 

 爪を振り上げながらコクは突進した。

 まるでそれぞれに意思を持っているような両腕の動きに、ソウはひたすら隙を探した。一撃を避けても着地を狙われ、未だ回復しきっていない彼には太刀を振るう余裕すら無くなっていく。

 太刀はソウの身の丈よりも更に長く、馬上では扱いやすいが接近戦には向かないのだ。

 

 わずかな逡巡の後、ソウは両手から太刀を放り投げた。

 傍から見れば諦めたようにも思える。それを見ていたコクもそう感じたのか、止めを刺そうと右腕を振り上げ打ち下ろす。

 

 その瞬間、ソウはコクの懐へと踏み込んだ。打刀の一振りを抜き放ち、跳躍して喉元を狙う。すでにその攻撃も織り込み済みだったのか、コクは鬱陶しげに左腕を上げると体勢を変えられないソウに向かって振り下ろそうとした。

 

「さらばだソウ。我が友にして我が影」

 

 逃げ場の無いソウは手にした刀を、力一杯コクの腹部へと突き刺した。だが厚い筋肉に阻まれ通る訳もない。わずかに刺さった刃を見てコクは嘲るように笑った。

 爪がソウを捕らえる刹那、突如その姿はコクの視界から掻き消えた。

 

 目標の消失にコクは一瞬怯んだ。

 左腕を振り上げたまま動きの止まった彼の耳に、空中からソウの呟きが届く。

 

「いつかまた会おう、兄弟」

 

 コクが振り向こうとする直前、ソウは腰に残っていた最後の一振りを抜刀すると、コクの左腋下から心臓目掛けて打ち下ろした。

 筋肉の薄い腋下は鍛え抜かれた刃をやすやすと通し、心臓を貫く。

 

「ソウ……お前、いつの間に」

 

 言いかけてコクは膝をついた。肺を貫通し心臓まで達した刃は、気管と喉からおびただしい量の血液を溢れさせる。流れ出る異物に彼は激しく咳き込み、酸素を求めた。

 

「腹に打ち込んだ刀を足場にして跳んだ。このくらいやらないと、お前の目を眩ませられない」

 

 二振りの刀を震える手で引き抜くと、コクは草の上へ倒れ込んだ。苦しそうな息の下からは、どす黒い血溜りだけが広がった。

 

「やっぱりお前には敵わないな。昔からそうだ。何をやっても勝てなかった。最期の最期までな」

 

 呟くコクの傍に屈み込み、ソウは友の姿を見送ろうとした。

 

「俺は自分が白狐族であるという事実を消し去りたかったのかも知れないな。だから『狂』を受け入れ、お前も葬り去ろうとした。だけどそれはお前に呪いを残しただけに過ぎなかった」

「……どういう意味だ」

「代行者『狂』は魂の集合体だと言ったよな。あれはな、呪いそのものなんだ。代行者を倒した者が、新たなる代行者として誕生する。だからお前も」

 

 思ってもみなかった言葉にソウは驚き目を見開いた。

 

「俺の命が尽きた瞬間、幾百もの『狂』たちの魂がお前を支配する。他の三人の代行者とは違って『こいつら』はそうやって呪いを受け継いできたのさ。何百とある記憶と狂気を抱えて、お前はいつまで狂わずにいられるかな」

「呪い……。では勝ち残るというのは」

「新しい代行者が生まれるって意味さ。俺はもう疲れたからお前の中で眠る事にする。お前も面倒になったら、誰かに命をくれてやればいい」

「そんな真似、出来る訳がないだろう……。私を斃した者が新しい『狂』になる。記憶と狂気を抱えて生きるなど、そんな事させられるものか」

 

 ソウの言葉にコクはふと笑みを見せた。

 

「お前はここまで来て、まだそんな甘い事を言ってるのか。本当に……バカは、死んでも治らないんだな」

 

 その時一陣の風が吹き、コクの言葉を吹き散らした。

 舞い上がる言葉と共に彼の巨躯は崩れ落ち、砂塵となってうねりを上げる。

 

 驚き見上げるソウを砂塵は飲み込み、目や爪の間、耳や口などありとあらゆる箇所から、不快な音を立てて内部へ侵入していく。呼吸さえ出来ないほどの激痛に彼は絶叫した。

 全ての砂粒が消え失せる頃には、そこに人はいなくなっていた。その場に立ち尽くすのは新たなる代行者『狂』だ。

 体中の傷はみるみるうちに再生していき、痕ひとつ残らない。視界は明瞭になり、地の果てまで見通せる気さえした。狂気と引き換えに体の底から湧き上がる活力は、あまつさえ大地そのものから吸い上げているように思えた。

 

 無数の魂を飲み込んだソウの内部には、吐き気を催すほどの無数の感情が渦巻いている。

 怒りや悲しみ、憎悪に狂気。誰かの呟きや悲鳴、怒号が頭に響き、彼は膝をついた。コクが抱えていたそれらに押し潰されそうになりながら、ソウはその場に踏み止まろうと必死に耐えた。

 

 その時、微かに足音が聞こえた気がした。

 下草を踏む柔らかい音がソウの傍へと近付いて来ている。黒い人影は逆光となり、誰なのか判別すらつかない。

 

「見せてもらったよ。新たなる代行者の誕生を」

 

 聞き覚えのある声で影は言葉を発した。

 ソウがゆっくりと顔を上げると、そこには大きなカラスを思わせる男がいた。いつの間にかソウの喉元にはコクと同じ鉄環がはめられており、鈍く月の色を反射している。

 

「マルファス……貴様っ」

 

 ふらつきながら立ち上がり、ソウはマルファスを睨み付けた。

 

「こうなる事を知っていて、私にコクを倒させたのか」

「そうだ」

 

 表情ひとつ変えずに即答するマルファスに、ソウは怒りをぶつけた。

 

「何故こんな真似を……人を弄ぶような真似をした! 答えろ!」

「ひとつはキミが彼を探し、斃す事を望んだからだ。二つ目には、僕にはキミの手助けが必要だった」

 

 悪びれも無くつらつらと答える様に、ソウは更に怒りを募らせた。

 

「キミが激怒するのも無理はない。何も知らされないまま友を手に掛け、更にはその呪いまで受け継いだ。望むならこの場でキミと戦ってもいい。だが事態は急を要する」

 

 そう言うとマルファスは北の空を指し示した。そこには黒い暗雲が垂れ込め、空を覆い尽くさんばかりに広がっている。

 

「代行者たちが動き始めたのさ。この大陸を破滅に追い込むためにね。黒森で会った子供たちがいただろう。彼らが危険に晒されている」

「まさか。あの子たちは王城で保護されているはずだ」

 

 そこまで言ってソウはエレナスを思い出した。

 何も告げていなかったが、あれは死すら覚悟した顔だ。

 

「四人の代行者はそれぞれ独立した存在だ。実力の差はあるが、誰かに与したり従うといった事は無い。だがそれを承知の上で僕はキミに頼む。大陸を人の手に取り戻すために、どうか力を貸して欲しい」

 

 マルファスの深いスミレ色を湛える瞳を、ソウはどこかで見た気がした。思い出せないまま目を閉じ、呟いた。

 

「私はあの子供たちに命の借りがある。だから彼らのためだけにこの力を使う。それでいいなら協力する」

 

 その言葉にマルファスは静かに頷いた。

 

「ありがとう。ではまずネリアの王城へ出向こう。やらなければならない事がある」

 

 見上げれば天空には、巨大な赤い月が顔を出し始めている。

 

「血月……」

 

 ソウが初めて見る赤黒い月を、マルファスはそう呼んだ。鮮血にも似た月はどろりとした月光を放ち、二人の代行者を睨め付けた。

五 ・ 均衡の天秤

 

 会議も終幕し、ダルダン王ギゲルは独り中庭にいた。

 王たちの遣り取りを終始観察していたが、彼の目にもアレリア大公レナルドは危険な存在でしかなかった。

 何かある。経験豊富なギゲルの勘はそう告げていた。レニレウス軍とアレリア軍が到着するまでには一週間ほどの猶予があったが、その間にアレリア大公の真意を探らなければならないだろう。

 

 あの口調から推察するには、アレリア大公は銀盤の喪失をすでに知っている。レニレウス王家の機密を探れるほどアレリアの諜報能力は優れていない。残された可能性から察すると、誰かから告げられたとしか考えられない。

 だがレニレウスの銀盤をつついていたものの、ダルダンの王器については何も口にしなかった。それはダルダンから王器が接収された事実を知らないのではないだろうか。

 

 机上の空論にも近い思考を巡らせながら、ギゲルはベンチに腰を下ろした。ネリア王フラスニエルか、レニレウス王カミオに相談するべきなのだろうか。

 決めあぐねて彼は逡巡した。もし間違った選択をすれば、たちどころに四王国は内部から崩壊するだろう。

 

 落とした目線の先に二つの影が映り、ギゲルは驚き顔を上げた。

 そこには見知らぬ銀髪の男と共に彼の守護者――マルファスが佇んでいる。

 

 ギゲルは弾かれたように立ち上がり、次の瞬間には膝をついた。

 思えば彼はすでに王ではなく、またマルファスも守護神ではない。それでもギゲルの中にある信仰心が彼を跪かせたのだ。

 

「ギゲルよ。今日はお前に頼みがあって来た。これは王都と神殿を取り戻すためにも必要な事だ」

 

 マルファスの言葉にギゲルは顔を上げた。

 

「私に出来る事であれば何なりと」

「ネリア王フラスニエルと話がしたい。戦況次第では僕自身が陣営に加わり、協力するつもりだ」

 

 協力という言葉にギゲルは驚き目を見張った。それと同時に堪えがたい喜びが溢れ出した。やはり彼はダルダンを見捨てた訳ではなかった。王都で失われた無数の命を思い、ギゲルは密かに涙した。

 

「では早急に席を用意致します。時にひとつだけよろしいでしょうか」

「言ってみるといい」

「はい。アレリア大公レナルドについてですが、誰も知らぬはずである銀盤の喪失を承知していた節がありました。何者かの差し金としか思えません」

「……そうか。差し金か」

 

 一瞬の間の後に、マルファスは口を開いた。

 

「もはや一刻の猶予も無いようだ。ネリア王の同席者にシェイローエという娘を指名する。僕の名を伝えればあちらから申し出て来るはずだ」

「かしこまりました」

「本来であれば代行者が人に関与するなど、摂理に反していると思っていた。だが奴らが本気ならこちらも迎え撃つしかない」

 

 マルファスの言葉をギゲルは少しだけ理解出来た気がした。

 建国より数百年、どんな文献を調べても守護者が現れたなどという記述は無い。見た事も無い神など、空想の産物だと誰もが言うだろう。たとえ存在していなかったとしても良いと、ギゲルは守護者を信じ続けた。

 果たして彼らの守護者は存在していた。子を見守る親のように、独りで立ち上がり歩く様を、永劫の中に垣間見ていたのだ。

 

「代行者が人に与してはならない理由でもあるのですか?」

「力ある者が天秤に触れれば均衡が崩れる。崩された均衡が限界まで傾いた先には滅びの道しかない。僕はこの世界を存続させたいと思っている。それだけだよ」

 

 マルファスの言う『奴ら』が誰なのかギゲルには分からなかったが、恐らく彼に敵対する者たちなのだろう。

 相手が均衡の天秤を揺らすなら、それを戻す。そのために数百年もの沈黙を破って姿を現したのだ。

 

「用意が出来次第また来る事にしよう」

 

 言葉と共に、二つの影は現れた時と同じようにいきなり姿を消した。

 ギゲルが空を仰ぐと、月の陰に大きなカラスの翼が飛び去って行くのが見えた気がした。

 

 

 

 荷物をまとめると、エレナスは誰にも悟られないよう王都ガレリオンを出発した。

 ソウの病室を出た後もセレスには会えなかったが、それでよかったのだと彼は自分に言い聞かせた。

 

 もし顔を合わせてしまったら、ごまかす自信が無いのもあった。今頃は屋敷で書置きを読んでいるかも知れない。怒っているだろうか。それとも失望しているだろうか。

 後ろ髪を引かれる思いを必死に振り払いながら、エレナスは王都を北へ進んだ。城内の慌しさを見ると、ダルダンへの国境は封鎖されている可能性があったが、いざとなれば大空洞近くの森を越えるつもりでいた。

 

 一人旅など初めてだったが、気を抜かなければ何とかなるのではないかと彼は思っていた。

 思えば姉に出会うまでは独りだった。あの頃に戻ったのだと考えれば造作無い事だ。

 

 数日後エレナスは苦も無く国境へ辿り着いたが、西ダルダンが教団に占拠されているためかネリア側から封鎖されていた。

 仕方なく当初の予定通り、大空洞側の森へ迂回する事にした。危険な道のりではあるが、神殿遺跡へ行くには近道とも言える。

 

 一歩足を踏み入れると、そこは獣道すら無い未開の森だった。

 午前中だというのに薄暗く、ランタンが必要になりそうなほどだ。時折耳に届く奇怪な鳴き声は、幾度も彼の頭上を飛び交った。

 いつでも剣を抜けるよう身構えながら、エレナスは慎重に森を進んだ。

 

 藪を掻き分け進むうちに、エレナスは背後に何者かの気配を感じた。それはぴったり張り付いて彼の後を尾けて来ている。

 まさかネリアの領内で教団員がいる訳もないだろうが、振り向いてもまるで姿を現そうとしない事が、不気味さを更に募らせた。

 

 膝まで草が生い茂る森では走って撒く事も出来ず、背後に注意を向けながらエレナスは先を急いだ。

 右手から轟々と鳴る滝の音は、大空洞に落ちる水流なのだろう。アレリア湖から流れ出る水はベリル山脈の地下水路を抜け、大空洞から更に各河川の支流へと通じている。

 遠目からでも霧が舞い上がる様は、大空洞がいかに巨大であるかを窺わせる。足を滑らせればまさに一巻の終わりだ。

 

 もう少しで越境出来るところまで来たというのに、追跡者は未だ背後にいた。彼の前には地下から現れた水路がうねりを上げ、音を立てて大空洞へ飲み込まれていく。ここを越えてしまえば追跡者も追っては来ないだろう。

 一見、水路の幅は広くはない。流れの中にいくつか点在する岩を足場にすれば、難なく越えて行けるはずだ。

 

 背後を気にしながらも、エレナスは水路を進み始めた。濡れた足場はひどく不安定で、ともすれば滑り落ちてしまいそうになる。

 ようやく渡りきり後ろを振り向くと、そこには外套を羽織った小さな影が立ち尽くしている。影は助走をつけると器用に岩を踏みしめ、エレナスのいるダルダン側岸へと飛び移った。

 

「ひどいなあ。ぼくを置いて行こうとするなんて」

 

 外套の中からよく知る声が聞こえ、エレナスは目を見張った。

 フードを下ろしたその顔は確かにセレスだ。よく見ると彼が肩から提げているカバンには、はち切れそうなほど荷物が詰め込まれている。

 

「セレス……どうしてここに」

「お兄ちゃんの手紙を読んで、お見送りだけでもしようかなって思ったんだ。でもやっぱりついてく。一人じゃ危ないもん。何かあっても二人ならきっと切り抜けられる。そうでしょ?」

 

 無邪気な笑顔を見せるセレスにつられて、エレナスもふと笑った。

 一人だけで背負い込んでいた肩が軽くなった気がして、彼は空を仰いだ。

 

「こんな真似をして。帰ったらきっとリザルに怒られるな」

「その前にお父様が追いかけて来るかも知れないよ。ぼくも手紙を置いて来たから、きっと今頃驚いていると思う」

 

 ダルダン側の森は水路の傍で途切れ、その向こうには荒涼とした大地が横たわっている。

 遥か地平線の果て、陽炎のように漂う神殿遺跡の姿に二人は心を決めた。

 

「行こう。お姉ちゃんを助け出して、三人で王都へ帰ろう」

 

 セレスの言葉にエレナスは静かに頷いた。

 吹き荒れる風ははたと止んで、彼らの進むべき道を指し示した。


 
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