No.590137

フェイタルルーラー 第十二話・落胤の証

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。死体表現、流血描写あり。18841字。

あらすじ・神殿遺跡内に捕らわれたノアは脱出を試みるが、再び捕まり女司教に仕立て上げられてしまう。
代行者『狂』の力を受け継いだソウは、エレナスとセレスを護るために一人で彼らを追い始めた。
第十一話http://www.tinami.com/view/585567

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2013-06-22 20:53:29 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:501   閲覧ユーザー数:501

一 ・ 落胤の証

 

 天を衝く巨木がそびえる大広間で、葉がこぼし散らす露にノアは目覚めた。

 

 室内であるために判別がつきにくいが早朝のようだ。ドーム型の天井は巨木が突き上げたために大半が崩壊し、そこから陽光が顔を覗かせている。

 見れば彼女の両腕は後ろ手に巨木へ縛りつけられ、身動きすら取れない。

 

 気取られぬように辺りを見回してみたが、彼女の他に誰かがその場にいる様子は無い。巨木を見上げると、頭上の枝に何か引っかかっているものがあった。

 風も無いのにぐらぐらと揺れるそれは、一見巨大なミノムシのように見える。赤茶けた布に包まれ、中ほどから縄によって吊るされているようだった。

 

 ノアはもう一度辺りを見回し誰もいないのを確認すると、靴底に仕込まれている小さなナイフを取り出そうともがいた。

 こんな場所で拘束されるのは、著しく国益を損ねる失態だ。

 何よりもカミオの立場を危うくしかねない。逃亡を図るのが難しければ、自刃するしか道はないだろう。

 

 十年前カミオによって拾われたあの日、王のために命と忠誠を捧げると彼女は誓った。

 まだ幼かったノアに、カミオはまるで父親のように接した。任務や報告の合間に彼女の近況を訊ねたり、或いは彼自身の話をぽつりと語った。

 カミオには生後間もなく死んだ妹姫がいて、何もしてやれなかったのだと聞いた時、ノアは力の限り王を護る決心をした。

 

 恐らく夭逝した妹姫をノアに重ねて見ているのだろう。

 乳兄弟である将軍とノア以外に心を開こうとしないカミオに、彼女は王の過去を垣間見た気がした。

 

 不意に足音が響き渡り、ノアは現実へ引き戻された。

 大広間一面に広がる白骨を踏みしめているのは、白い法衣の男だ。真っ白い世界の中、男の燃えるような赤い髪だけが視界を色付けた。

 

「お目覚めかね、レニレウスの姫君」

 

 アグラールは皮肉と侮蔑を込めた不気味な笑みをノアへ投げかけた。

 

「お前を捜し出すのに随分と時間がかかったよ。名も判らず、人間の父親に精霊人の母親を持つ娘。これだけの情報しかないのだから本当に苦労した」

 

 じろじろと眺め回すアグラールからノアはナイフを隠した。

 意図を悟られないよう、注意を逸らそうとする。

 

「バカね。カミオ様に妹君なんていないわ。そうとも知らずにあたしを攫うなんてご苦労様」

 

 不敵に笑うノアをアグラールは睨み付けた。

 

「ごまかしても無駄だ。本当は持っているのだろう? 落胤の証を。さっさと出してもらおうか」

「知らないわ、そんな物。あったとしても、シオンが焼かれた夜に灰になってるでしょうよ」

 

 物怖じしないノアの様子に、アグラールは苛立ちを募らせた。

 足早に巨木へ近付くと手を上げ彼女の頬を殴りつける。それでも睨み返すノアに激昂し怒鳴りつけた。

 

「黙れ! 罪の子の分際で私に逆らうんじゃない!」

 

 その時、睨み続けるノアの額にぽたぽたと滴るものがあった。

 視線を上にやると、先ほど見た吊るされた物から赤黒い液体がとめどなく落ちている。ノアの視線に気付いたアグラールも上を見つめ、嘲るように呟いた。

 

「あれが何なのか気になるか? あれはな、私の母親だったモノだ」

 

 アグラールは冷たい微笑を湛え言葉を続けた。

 

「あいつのせいで、私は誰でも送れるような普通の人生を歩めなかった。小さな幸せでよかったのに、あいつは下らない復讐に全てを費やしたんだ」

「……だから母親を手に掛けたって言うの? バカじゃないの。あんたの望む普通なんてどこにもないわ。幸せになりたかったなら、どうして母親を止めなかったのよ!」

「うるさい! 小娘が知ったような口を利くな!」

 

 怒りに震えるアグラールの目を見据え、ノアは後ろ手で素早く縄を切り解いた。

 驚く彼の背後へ回り込み、腕を捕らえて切っ先を喉元に当てる。大広間には誰もいないために、二人の立場は逆転した。

 

「さあ、外まで案内しなさい。逆らったら殺す」

 

 額を死体の血で汚しながら迫るノアに、アグラールは素直に従った。

 大広間から廊下へ繋がる扉へ来た時、彼はふと足を止めた。見れば扉の前には一人の老人がいる。苔むしたフードを目深に被り、青銅の杖を持つ姿は世捨て人さながらだ。

 

「タケハヤ。この娘を台座へ」

 

 老人がぽつりと呟くと、ノアの背後に近付く影が現れた。

 伸びる巨大な影を見上げると、そこには真っ赤な双眸を輝かせた人形がいた。身の丈は人の数倍はあり、戦槌を思わせる豪腕にぼろぼろの衣服、荒縄を帯にしている様は気の弱い者なら失神するほどの威圧感がある。

 

 タケハヤと呼ばれたそれはノアを無造作に掴み上げると祭壇へ向かった。

 碑文が祀られた祭壇には石造りの椅子がしつらえてあり、木製の枷まで置かれている。

 

「油断をしたようだな、アグラール」

 

 タケハヤを操る老人がそう呟くと、アグラールは畏まって膝をついた。

 

「クルゴス様。申し訳ございません」

「よいわ。だが二度目はないぞ。シェイルード様はお前を高く評価しておる。期待を裏切るでないぞ」

「心得ております」

 

 アグラールは立ち上がり祭壇まで戻ると、椅子に固定されたノアに枷をはめた。その上で司祭よりも上質な法衣を被せ、声が出せないよう猿轡をかませる。

 何かの身代わりにされるのだとノアは気付き、必死に逃れようとした。

 

「暴れるな。お前はエサなんだよ。魚を食いつかせるためのな」

 

 狂気に支配されたアグラールの笑みに、ノアは恐怖を覚えた。囁きかけるような詠唱が耳に届き、彼女は次第にまどろみの底へと落ちていく。

 深い意識の底から一筋の光に手を伸ばすと、輝く白金の髪が振り返り湖底のような青い瞳を彼女へ向けた。

 名を呼ぼうとしても声が出ず、そのままノアは昏い泥の底へ沈んでいった。

 

 

 

 リザルが市街にある自宅へ戻ったのは、四王国会議の二日後だった。

 来たるブラム奪回戦に向けての一時帰宅だったが、出迎えてくれるはずのセレスの姿は無い。出かけているのかと部屋を探すと、机の上には一通の書置きがあった。

 

 記された内容にリザルの顔色はみるみるうちに青ざめた。日付は昨日になっており、今から追いかければ連れ戻せるかも知れないと彼は思った。

 だが今は進軍前の待機状態であり、ここで一人戦列を離れる訳にはいかない。

 

 仮にもネリアの王族であるリザルの軍規違反を知れば、他国の王や将軍が黙ってはいまい。それがフラスニエルとネリアにとってどれだけの損害になるか、彼は十分に理解していた。

 悩んだ末に、彼は意を決し王城を訪れた。

 フラスニエルが一人でいる時間帯に合わせ、執務室へ向かう。室内からの声に扉を開けると、そこには疲れた表情のフラスニエルがいた。あまり眠っていないのだろう。少し痩せたようにも見える。

 

「従兄上。どうされました青い顔をして」

 

 やつれた表情で笑うフラスニエルに、リザルは一瞬押し黙った。

 だがセレスを思い起こし、苦しそうに言葉を紡ぎだす。

 

「フラスニエル……。頼みがある」

「どうしたのです、急に」

「オレを一族から除籍してくれ。そうしなければネリアに火の粉が降りかかる」

 

 リザルの一言にフラスニエルは言葉を失った。

 

「何かあったのですか? 将軍から……叔父上から何か言われたのですか」

「違う。そうじゃない。どうやらセレスがダルダンへ向かったようだ。手紙にはエレナスも一緒だとあった。だがこれから戦場となる地に子供たちだけで向かうなど、あまりに危険すぎる」

「ダルダン? 何故ダルダンなどに……」

 

 フラスニエルは何かを思案したが、次の瞬間には顔を上げた。

 

「分かりました。ですが除籍は待って下さい。私の命で、斥候としてダルダンへ赴いたという形にしておきます」

 

 王の温情にリザルは俯いた。それと同時にネリアが被るであろう不都合をひどく恐れた。

 

「すまない。軍規違反の罰は後で受ける」

 

 一礼をするとリザルは足早に執務室を後にした。その姿を見送った後、フラスニエルは窓から遥か遠い北の空を眺め続けた。

二 ・ 密談

 

 王都ガレリオンの傍にある小高い丘でソウは街を眺めていた。

 じりじりと灼き付ける太陽を気にも留めず、吹き付ける柔らかい風は彼の蒼い衣装をはためかせる。

 

 獣人族は生来から五感に優れ、人間よりも感覚が研ぎ澄まされているが、代行者となった今はそれすら凌駕している。

 肉眼では確認出来ないほど遠くの様子さえつぶさに見え、目を閉じれば様々な声や音が届く。情報が入り乱れて脳に届くために、ある程度遮断をしなければ精神がもたないだろう。

 遥か北東にエレナスとセレスの声を聞き取ると、彼は丘を下るために立ち上がった。

 その時、向こうから歩いて来るマルファスの姿が映った。その表情を見れば、謁見の段取りが整って王都へ向かうつもりなのだと分かった。

 

「やあ。その体にはもう慣れたかい」

 

 まるで世間話でもしているかのようなマルファスの態度に、ソウは苛立った。

 

「慣れる訳ないだろう。まるで他人の体を動かしているようにすら思える」

「それもそうだね。代行者は人と違って食事も睡眠も必要としない。時折情報を遮断していればいい程度だ。だが『狂』は他の三人とは異なる特徴を持つから、そこは気をつけた方がいい」

「異なる特徴……?」

 

 マルファスの言葉に彼は怪訝な顔をした。

 

「ああ。他の三人は、肉体がどれだけ損傷してもすぐに再生する。損傷が再生能力を大幅に上回ると、眠りについてしばらく目覚めない。だが『狂』は損傷が致命的だとそのまま死に至る」

 

 その言葉にソウはコクとの死闘を思い出した。確かに心臓を貫いた事で彼は呪縛から放たれ、砂と化した。

 

「無理をすればすぐにあの世行きだ。その代わり『狂』に備わった戦闘力は代行者随一なのさ。王器も戦闘に特化している」

「王器か。だが私は慣れ親しんだ武器以外使うつもりは無い」

 

 ソウの言葉にマルファスは笑みを見せた。

 

「そうだろうね。四王国は今、導き手となる王が必要だ。だから『狂』の王器は、そのままネリア王フラスニエルの手に置いておくのが望ましいと僕は思っている。王器を所持しているだけで、人心を動かすための大義名分となるものだからね」

「話はもう終わりか? 何も無いなら私はこのまま子供たちを追うつもりだ」

 

 丘を下ろうと背を向けたソウに、マルファスは声を掛けた。

 

「ひとつだけ心に留めておいて欲しい。戦闘が長引くと、その体は『狂』そのものに支配される。一時的に自我が失われ、敵も味方も動くものは全て殺し続ける悪鬼へと変貌するのさ。大切なものをその手に掛けないよう、気をつけるんだね」

 

 ソウは振り向きもせずその言葉を聞いた。

 そのまま去って行く背をマルファスは見送り、丘に立つと術符を取り出して巨大なカラスを召喚した。

 

「ネリアの一族にはあまり姿を晒したくなかったが、仕方ない」

 

 そう呟くと彼は大カラスの背に乗り、王都ガレリオンにある王城を目指した。

 目立たないよう王城の中庭に降り立つと、すでにそこにはダルダン王ギゲルが待機している。

 

「お待ちしておりました。こちらへ」

 

 ギゲルは深々と礼をし、マルファスを城内へ案内した。石造りの廊下は静まり返り、この謁見をどれだけ秘匿してきたのかマルファスにもよく理解出来た。

 通されたのは一階に位置する商談室だった。御用商人と渉外官、会計官が談義する場なのだろう。物差しや秤、相場の書かれた黒板などが所狭しと置かれている。

 扉を開けられ入室すると、室内にはすでに二人の男女がいた。二人ともマルファスが姿を現すとさっと立ち上がり、深々と礼をした。

 

「お越し頂き心より御礼申し上げます。秘匿のために、このような場しか用意出来なかった非礼をご容赦下さい」

 

 そう言い顔を上げたフラスニエルは一瞬驚いた表情をした。隣にいたシェイローエは懐かしそうな顔をし、目を細めた。

 マルファスの後から入室したギゲルが椅子を勧め、四人は卓を挟んで席に着く。

 

 ギゲルが顛末を説明するためにフラスニエルとマルファスへ視線を向けた時、今まで気付かなかった違和感の正体を知った。

 二人は年齢もほぼ同じで、黒い髪にスミレ色の瞳をギゲルに向けている。容姿や顔が似ている訳ではないのに、彼らの雰囲気は驚くほど似通っていた。

 

 場の雰囲気を察したのか、マルファス自身が王城を訪れた経緯を話し始めた。

 自分がダルダンを守護する代行者であった事、現在はネリアの守護者である代行者が協力している話をした。

 そして教団とその影にいるシェイルードの話に及ぶとシェイローエの表情が曇った。

 

「その話は初耳です。シェイローエ殿に双子の弟がおり、それが教団を影から支配しているなど。これが知れたら大変な事になる」

「問題はそれだけではない。もう一人、代行者が教団側に与していると見ていいだろう」

「何ですと」

 

 思ってもみなかった話にギゲルはうめいた。

 

「シェイルード自身に問いただしたところ、その代行者はネリアの臣下であったクルゴスという男だ。そしてそのクルゴスこそが、アレリア大公レナルドをそそのかした張本人だと思われる」

 

 その言葉にフラスニエルは驚き目を見張った。

 死んだものだと思っていたクルゴスが生きており、しかも代行者となってネリアを陥れようとしている。

 

「クルゴスはレニレウスから王器の銀盤を奪い、それを歪曲させてアレリア大公に伝えたとみえる。恐らく四王国を内側から崩すつもりなのだろう。僕はそれを危険だと感じた。団結ほど強力なものは無いが、不協和音は簡単に信頼を壊す」

「何とか対処をしなくてはなりませんね。アレリアは我がネリアと縁の深い国。なるべく穏便にしたいところなのですが」

「レナルドに気取られぬように動くしかないだろう。つまりは泳がせておくという事だ。この件については、レニレウス王カミオも口を挟まないと僕は思う」

「何故そのようにお考えなのですか?」

 

 マルファスの意見にフラスニエルは疑問を投げかけた。

 

「カミオは知略に長けているが故に、決して本心を明かさない男だ。同盟に加わったのも、その実レニレウスにとっては負い目があるからなのさ。至高教団は先代レニレウス王の失策によって生まれた存在だ。その罪をカミオの代で贖おうとしている」

「至高教団がレニレウスで生まれた存在……。それでは、我がダルダンはレニレウスのとばっちりを受けたとおっしゃるのですか」

 

 呆然と呟いたギゲルに対し、マルファスは宥めるように声を掛ける。

 

「僕もあの状況を打開するために地下神殿に赴いた。お前はそれに応え上手くやってくれたが、僕の油断が王都ブラムでの惨事を引き起こしたと言っても過言ではない。本当にすまない事をした」

 

 ギゲルには余程衝撃的だったのか、呆然と黙り込んだままだった。

 

「ここまで本当の話をしてきたのは、今後隠し事があれば同盟が崩壊する可能性も大いにあるからだ。それだけは理解して欲しい。ではここから本題に移ろうと思う」

 

 マルファスの静かな声を三人は黙って聞いた。

 

「この戦いは教団を壊滅に追い込むだけでは終わらない。二人の代行者を倒すか、無力化する必要がある」

「神話における代行者は不死であり、傷を負ってもすぐに再生すると聞きます。それを倒すなど可能なのですか?」

「可能だ。代行者の弱点はただひとつ。代行者として転生した時に願った望みを叶えてやる事だ」

 

 思いも寄らない言葉に三人はざわめいた。

 

「代行者自身、自らの望みが弱点である事を理解しているから、それをさらけ出すような真似はしない。それに代行者と成り果てるほどの執念を持った者の望みなど、叶える方が難しい場合も多い」

「では無力化するのが最善という事ですね」

 

 フラスニエルの言葉にマルファスは静かに頷いた。

 

「無力化ならやれなくはない。代行者は肉体を損傷し、それが再生能力を遥かに上回ると休眠状態に入る。我々はそれを『眠り』と呼んでいる。損傷の程度にもよるが、一度眠りにつけばいつ目覚めるかは判らない。要は再生能力を上回る損傷を代行者に与えればいい」

「そのための神器、ですか」

 

 それまで意見を挟まなかったシェイローエが口を開いた。

 

「そうだよ、シェイローエ。キミは本当にがんばってくれた。シェイルードの事を独りで抱えるのも辛かったろう。だがそれもようやく終わりを告げる」

 

 俯くシェイローエの横で、フラスニエルは決意を表した。

 

「なるほど……。よく分かりました。数日後にはアレリアとレニレウスの軍が集結し、ブラム奪回作戦に入る予定です。まずはそこからやってみましょう」

 

 四人だけの密談を終わらせ、彼らは席を立った。

 マルファスも部屋を出ようと扉へ向かったが、ふと思い出したようにフラスニエルへ振り向く。

 

「そうだ。ネリア王フラスニエル。ひとつだけ欲しいものがあるんだ」

「何でしょう。出来る事なら何なりと承ります」

「軍属の者が着用している黒い軍服を一着用意してくれないか。僕もあれを身に着けたい」

 

 マルファスの申し出にフラスニエルは驚いたが、すぐに用意させますと答えた。その言葉に満足したのか、マルファスは微笑むとゆっくりと部屋を後にした。

 次いでギゲルが廊下に出た時に彼の姿はすでに無く、傾き始めた太陽が廊下に落ちた黒い羽根を照らし出すだけだった。

三 ・ メトディウスの獣

 

 エレナスとセレスがダルダンへ入って五日が過ぎようとしていた。

 王都ブラムに向かうより近いとはいえ真夏の荒野は気温差が大きく、生物の活動を大幅に制限する。

 

 二人は用心を重ねながら神殿遺跡を目指した。昼は岩陰で休み、夜に行動する。一度ダルダンを横断したエレナスには慣れたものだが、年若いセレスには過酷な道のりだった。

 神殿遺跡に辿り着いた頃には夜半を回り、二人は突入する機会を窺った。

 

 幸い辺りには人影も無く、神殿遺跡は静まり返っている。

 それが不気味に思えた彼らは正面を避け、ぐるりと石塀を調べた。気の遠くなる年月を経ている遺跡は半ば崩れ落ち、昏い内部をさらけ出している。子供がようやく通れる小さな崩落を見つけ、二人はそこから侵入する事にした。

 

 遺跡北側に位置する崩落部は誰も気付いている様子が無く、壁伝いに進んでも人の気配を感じられない。

 薄暗い廊下を慎重に進む二人の疲労と緊張は限界に近かった。足音や影に注意を払い、聞き耳を立てながら神殿中心部にある祭壇のある大広間を目指す。

 神殿内にある部屋という部屋は崩れ、或いは調度すら無いもぬけの殻だ。そこに人がいた形跡もまるで無く、中央の一箇所に集められていると考えるのが妥当だった。

 

 廊下の先にはやがて大きな篝火が現れ、エレナスとセレスの姿を映し出す。

 篝火の右側には大きな扉があり、ここが祭壇の間である事をエレナスは思い出した。扉の中は静まり返っているが、微かな気配が感じ取れる。

 

 エレナスの表情を伺うように顔を上げたセレスに、彼は頷いてみせた。

 ゆっくりと扉を押し開き、二人は内部へ踏み込んだ。赤々と篝火が焚かれるその中で彼らの目に映ったのは、無数の獣人に囲まれた白い法衣の老人――メネルだ。

 左腕はどろどろに腐り落ち、エレナスに抉られた左目からは膿と共に蛆が滴っている。想像を絶する姿を目の当たりにして、二人は息を呑み立ち尽くした。

 

「待ちかねたぞ。お前をようやくこの手で殺す事が出来るわ」

 

 ぼろを纏った幽鬼のように佇みながら、メネルは凄絶な笑みを湛えた。

 

「ノアはどこだ。ノアを返せ!」

 

 エレナスの叫びにも耳を貸さず、メネルは言葉を続けた。

 

「あの小娘を返して欲しくば、わしを斃してみせい。お前に出来るか?」

 

 その言葉に、エレナスは青ざめながら剣を抜いた。

 大広間をざっと見渡してもノアらしき姿は無い。取り囲むように立ちはだかる獣人たちを躱しながら彼女を探すのは難しいだろう。ここで負ければ命は無い。それどころかたとえ勝利したとしても、獣人たちに勝てるかどうかすら分からない。

 セレスを背後に押しやるように、エレナスは前へ踏み出そうとした。

 

「お兄ちゃん」

 

 小さく囁くようなセレスの声が背後から届いた。

 

「あいつらの目がお兄ちゃんに向いているうちに、ぼくがお姉ちゃんを探してくる。見つけたら鈴で知らせるからね」

 

 その言葉に、エレナスは老人を睨みながら頷いた。そしてそれを合図に声を上げながら老人へ突進する。

 セレスが動きやすいように、メネルと獣人たちの注意を逸らすためだ。メネルもその様子を見て、愉悦の笑い声を上げる。

 

 片腕を腐り落としているメネルが、素早く動けるはずがないとエレナスは踏んでいた。それどころか化膿の炎症が脳に達していない訳が無い。

 恐らく立っているのもやっとだろう。そう自分を奮い立たせ、彼は刃を振るった。

 

 だがその思惑を外し、メネルは驚くほど俊敏な身のこなしで剣撃を躱した。

 次の瞬間にはナイフを手にエレナスへと迫る。

 

 常人なら死ぬほどの傷で動き回るメネルに異常な執念を感じ、エレナスは戦慄した。

 老人の目にはすでにエレナスしか映っていない。ただ殺す。それだけがメネルの望みなのだ。

 

 気後れすれば負ける。汗ばむ柄を握り締め、間合いを取って彼は冷静に相手の様子を見た。

 左腕がほぼ機能していないために重心が右側に傾いている。恐らく右を軸足としているのだろう。

 

 メネルが動き出す前に、エレナスは右側へと回り込んだ。左目の見えないメネルからは完全に死角になる位置だ。

 死角に回り込むのを予測していたのか、ナイフの切っ先を向けながらメネルは左を向こうとした。

 

 その一瞬をエレナスは見逃さなかった。

 突き出されたナイフをかいくぐり、メネルの足元へと滑り込む。剣を逆手に持ち替え、軸となっている右脚の腱を狙った。

 メネルがその意図に気付くよりも早く、エレナスは老人の右脚を斬り裂いた。老人が倒れる寸前にエレナスは素早くその場から跳び退り、剣を構え直す。

 

「小僧……貴様……、許さん、許さんぞ!」

 

 腱を削がれた痛みから、メネルは転げ回って絶叫した。

 軸足を殺されてはもう立つ事すら叶わない。右手から滑り落ちたナイフを拾い上げ、エレナスは剣の切っ先を老人の喉下に突きつけた。

 

「あんたの負けだ。死にたくなかったらノアを返せ」

 

 死人のような青白い顔で呟くエレナスをメネルは見上げた。

 苦しそうに歪めた口角を嘲りに変えながら、老人は喉の奥で小さく嗤う。

 

「お前は面白いなあ小僧。……本当は命を奪うのが怖いのだろう? 手が震えておるではないか」

 

 見透かすように震える切っ先を見つめ、メネルは声も上げず笑った。

 

「わしはまだ、死ぬ運命にはない。我ら至高教団には神々の加護があるのだからな」

 

 そう言うと老人は大声で何者かの名を呼ばわった。

 その瞬間、巨木の周囲に黒い雲が渦を巻いた。そこから落ちる強烈な稲光と共に現れた影は、さながら喪服を着せられた遺骸のように見えた。

 

「少々遊びが過ぎておるぞメネル」

 

 肉薄い骸骨は冷たい微笑を這いつくばる老人へ投げ掛けた。

 

「クルゴス様……。どうかわしに加護をお与え下され。この身を捧げ、必ずやお役に立ってみせましょうぞ」

 

 エレナスには言葉の意味がまるで分からなかったが、すたすたと歩み寄るクルゴスに警戒し彼は身構えた。

 

「ではメネル。お前に加護をくれてやろう。己が内にある醜い獣性を開放し、本性を現すが良いわ」

 

 クルゴスは身構えるエレナスに目もくれず、床に転がるメネルの傍に立った。クルゴスが一言何かを呟くと、突如メネルの体がぎしぎしと音を立ててひしぎ始めた。

 それはまるで、見えない力によって押さえつけられているように見える。メネルの体は衣服を裏返すように見えない手によってめくられ、次第に内部の異形を現していく。

 

 真っ暗な内側は刺々しい剛毛に覆われ、ずるずると這い出すように不気味な姿をエレナスに見せ始めた。

 全てがあらわになる頃にはメネルの姿は無く、そこには獣の容姿をした何かがいた。左前脚と左目は失われたまま、三本の脚で床に立つ様はまさに獣だ。その体躯は軽く人の倍以上はあり、赤く輝く目は血を流しているようにすら見えた。

 

「やはり闇の深い者は素晴らしい。他の者よりも一段と獣じみておるわ」

 

 クルゴスは獣を嬉しそうに見上げた。

 

「さあ行け、メトディウスの獣よ。心ゆくまで蹂躙するがいい。但し殺すでないぞ」

 

 獣と化したネメルには、すでに人としての自我も消えているのか、ただ獣の咆哮を上げてエレナスへ向き直った。俊敏な動きで迫り来る獣に、エレナスは剣を構える。

 見る限り獣の左側が攻撃を受けにくい。三本の脚で巨躯を支えている分安定性は増しているが、左目が失われているのはエレナスにとって幸いと言えた。

 

 剣を左手に持ち替え、右手に神器のナイフを隠し持ちながら、エレナスはゆっくりと間合いを測った。斃すためには接近し急所を突くしかないだろう。

 突如獣が唸りを上げて飛び掛って来た。その爪を剣でいなしながら、エレナスは機会を窺う。

 

 左前脚が失われている分、右前脚での攻撃は精彩に欠ける。着地を考慮しながら攻撃を加えているのだから、威力や速度が出るはずもない。

 恐らく獣は牙での接近戦を狙っている。その機会を向こうも窺っているのだろう。

 左側へ回り込めば、先ほどのように右目の視角に捉えようとしてくるはずだ。エレナスはその一瞬に勝負をかけた。

 

 一気に間合いを詰めると獣の死角に回り込む。

 予想通り死角を嫌がり、相手は跳ねるように跳び退る。その無防備な瞬間、エレナスは懐から術符を取り出し『隠匿』の詠唱を口にした。

 

 獣は三本の脚で着地し辺りを見回したが、エレナスの姿が見えず動揺した。

 必死に探し回る中、何かが右肩に張り付いている事に彼は気付いた。振り落とそうともがくと、耳にエレナスの声が届く。

 

「人である事を辞めたあんたの魂は、再びこの地には戻れないだろう。生命の環から逸脱し、消え去るがいい」

 

 獣はその目に青白い軌跡を見た。

 次の瞬間辺りは闇に包まれ、脳髄を抉る熱と痛みが彼を襲う。

 右目をナイフで貫かれたと気付いた時にはすでに意識も無く、体だけが断末魔に暴れ狂った。のた打ち回る獣から振り落とされ、エレナスは床に膝をついた。

 

 やがて獣は静かに痙攣を始め、脳漿と血液を床にぶちまけると次第に動きを緩め、いつしか事切れていた。

 エレナスは哀れなその獣から目を移すと、楽しげに観戦をしていたクルゴスへ怒りのまなざしを向ける。

 

「ほう、これはこれは。あの獣を斃すとは、依り代として素晴らしい適性ではないか。我が主も喜ばれようぞ」

「依り代? お前たちは何を企んでいるんだ。ノアはどこにいる? 言え!」

「それは出来ぬな。あの娘も依り代の適性がある故、おいそれと解放する訳にはいかぬ」

 

 辺りを囲んでいた獣人たちがじりじりと迫る中、エレナスの耳に微かな鈴の音が届いた。

 セレスがノアを発見した合図だ。大広間の奥から断続的に聞こえて来るが、他の者は誰も鈴の音に気付いていない。

 

「東アドナに伝わる蠱毒という呪法を知っておるか? この神殿はまさにそのための器よ。強者を食い合わせ、最後に残った者が邪神の依り代となる。素晴らしいだろう」

 

 クルゴスが右手を挙げると獣人の波がさっと割れ、その先には碑文が祀られた祭壇があった。

 そこには椅子に掛けた女司教がいる。気を失っているのか、ぐらりとうなだれる顔は鮮明ではない。

 

「あの女を殺せば娘は返してやろう。出来ぬとは言うまい?」

 

 嘲るように声を上げるクルゴスに、エレナスはぎりぎりと柄を握り締めた。

 蒼白な顔は更に血の気が失せ、ぼんやりと光る切っ先だけが震え続けていた。

四 ・ 絶望の底、希望の光

 

 エレナスとセレスの痕跡を辿り、リザルは独り神殿遺跡へ足を踏み入れた。

 不気味なほど静まり返っている神殿内を進むと、程なく以前訪れた祭壇の間へ至った。

 

 耳をすましてみても、傍にある篝火が爆ぜる音しか聞こえては来ない。

 中に入るかどうか思案していると、唐突にエレナスの話し声が耳に入った。そしてその会話の相手は紛れもなくクルゴスだ。

 

 ここへ来て再びクルゴスに相見えるなどと、リザルは夢にも思っていなかった。

 躊躇う事無く扉を押し開け、リザルは大広間へ踏み込んだ。ずらりと居並ぶ異形に囲まれた中央に二人の姿を見つけ、リザルは歩み寄る。

 エレナスは突如現れたリザルに驚き、またクルゴスは知っていたのか驚きもせず、ただリザル様とだけ呟いた。

 

「クルゴス……。これはどういう事なんだ? お前はこんなところで、何をしようとしている」

 

 リザルの問いかけにクルゴスは同じ問いを返した。

 

「それはこちらの言葉にございます、リザル様。貴方様は斯様な場にいるべきではございませぬ。今すぐお戻り下され」

「そうはいかない。セレスを連れ戻しに来たんだ。いるんだろう? セレスはどこだ」

 

 その言葉にクルゴスはふと顔をしかめた。

 

「セレス様がおいでなのか……? なるほど、そういう事か。小僧が随分と時間稼ぎをするから、おかしいと思っておったわ。だが小細工を弄したところで何も変わらぬ」

 

 不気味なほど嬉しそうに微笑みながら、クルゴスはエレナスへ視線を戻した。

 

「さあ祭壇の女を殺せ。まさか出来ぬとは言うまいな。女司教を倒さねば娘は戻ってこぬぞ」

 

 エレナスが祭壇に目を移すと、そこには女司教の他にもうひとつ、別の影があった。

 それは誰かの影法師なのではないかと思うほど黒く濃く、ゆらりと佇んでいる。エレナスが驚いたのは、その影がぐったりとした子供を抱えている事だった。

 

「セレス!」

 

 同時に叫ぶエレナスとリザルに、影はずるずると前へ進み出た。その様子にクルゴスは膝をつき畏まった。

 月明かりの下で見てみれば、それが黒衣を纏った黒髪の男だと分かる。刺々しい銀の冠は月光を反射し、鋭く輝いた。男は腕にセレスを抱え、王冠を戴いた黒髪を引きずりながら祭壇を降りる。

 

「面白い事を考えたものだな、精霊人よ。この子供に神器の鈴を持たせ、合図を送らせるなど大胆不敵。だがその音が聞こえるのはお前だけではない」

 

 男は感情も抑揚もない声でエレナスに言った。

 身震いするほど不気味な声色と姿に、エレナスは目を見張り立ちすくんだ。

 

「その肌とその目。異形種なのか。しかも精霊人じゃないか……」

「そうだ。精霊人だった、という方が正しいだろうな。今や私は代行者となり、王冠の力によって全てを知る存在となった。ヒトの心の中だろうが、記憶だろうが、瞬時に読み取れる」

 

 気を失ったままのセレスを無造作に放り出しながら、男は冷酷な視線をクルゴスに向ける。

 

「クルゴスよ。依り代に邪神の魂を植え付ける。ヤドリギの杖を持て」

「御意にございまする。して、どれを依り代になさるのでございますか」

「そこにいる人間の子供でよい。たった数年しか生きておらぬ分際で、身の丈に合わぬ闇を抱えている。母親はすでに亡く、たった一人の父親は祖父と諍いを続ける。誰にも言えぬ孤独の闇ほど、ヒトの心を黒く染め上げるものもあるまい」

 

 その言葉にリザルは愕然とし膝をついた。

 分かっていた事だった。全ては自分のせいだ。仕事のためにセレスを実家に預け、忙しさにかまけて会う事すらあまりなかった。

 その間セレスがどれだけ孤独で、どれだけ泣いていたか。父親として何もしてやれなかったこれまでの償いをリザルは密かに決意した。

 

 クルゴスは姿を消したがすぐさま戻り、ヤドリギの石突が付けられた杖を主に捧げ渡した。それは石突と言うには先端が尖っており、槍の穂先か矢尻のようにすら見える。

 男は杖を握り締めるとセレスの傍に立った。何をするつもりなのか勘付いたリザルは立ち上がり駆け出した。

 

「深淵なる海に棲まう末神よ。審判の日はここに定まれり。汝、死蝋の松明を捧げ持ち、烽火によって審判の先触れと成る者。いざ器に宿りて終末の篝火を灯さん」

 

 耳障りな詠唱が神殿内に響き渡り、エレナスは恐怖を覚えた。

 古代語の節々に神の名で構成された韻律を聴き取り、それが神降ろしの儀式であると彼は悟った。

 

「やめろ!」

 

 セレスの心臓に振り下ろされる杖を止めようと、エレナスは叫んだ。彼が駆け寄るよりも早く、杖が鈍い音を立てて肉を貫く。詠唱の波動による衝撃で舞い上がる砂塵が彼らの視界を遮った。

 必死に砂塵を振り払い、エレナスはセレスの許へ走った。もうもうと翳る塵の中、薄く映り込む姿に彼は衝撃を受けた。

 

 背に杖の一撃を受け、血を流しながらセレスを抱き締めているのはリザルだ。

 庇うように重なっているせいか、セレス自身に怪我はない。ただ杖をその身に受けたリザルは苦悶の表情を滲ませている。

 男がゆっくり杖を引き抜くと出血は収まり、大きな傷が開いているように見えたそれは音もなく閉じていく。

 

「何をしている貴様。つまらぬ真似をしおって」

 

 冷たい呟きと共に男は苦しむリザルを蹴り倒した。

 逆らう力さえ奪われたリザルは、ひたすら苦痛を堪えるように歯を食いしばり男を睨み付けている。

 

「貴様が今更何をしようと、この子供が無意識に貴様を恨んでいる事実には変わりが無い。身を投げ出せば罪滅ぼしが出来るとでも思ったか? 本当にヒトとは理解し難い生き物だな」

「……そうじゃない。罪滅ぼしが出来るなどと思ってもいないさ。ただ大切だから、助けたい。息子のためなら、オレの命などいらない」

「大切? そんな感情は自己満足でしかないぞ人間。大切なもの、愛するものなど自己防衛のためにヒトが作り出した概念だ。価値があると思い込み、それを他者に押し付けてるだけだと解らないのか」

「ああ、解らないね。解りたくもない。オレは勝手な人間だからな」

 

 眠ったままのセレスの呼吸を確認し、リザルは痛みを堪えて身を起こした。

 セレスを抱き上げるとよろめきながら立ち上がり、ふらふらとエレナスの方へ歩き出す。

 

「儀式のために用意したヤドリギの矢尻を、こんなところで無駄にするとはな。クルゴス。矢尻はあれひとつか?」

「左様にございます、シェイルード様」

「そうか。人間に直接植え付ける術式は制限が多くて困る。更に効率的な術式を考案するべきだな」

 

 姉に似た名前を聞いた気がして、エレナスはふと男の顔を見た。

 長い黒髪で顔の半分は隠れているが、目元や鼻など細部が恐ろしく姉に似ている。あれが姉の言っていた双子の弟なのかも知れない。だがエレナスは他人の空似だと心の中で否定した。

 認める訳にはいかない。認めてしまえば、姉と自分との関係が、かりそめの家族だったと思い知るはめになる。姉と暮らした十年の歳月は、エレナスにとってかけがえのない思い出なのだ。

 

 リザルはエレナスの傍まで来ると、抱えていたセレスをそっと下ろし膝をついた。エレナスは慌ててセレスの様子を看たが、術で眠らされているだけのように感じた。

 

「セレスは大丈夫です。眠らされているだけだ。あなたの傷はどうなんですか」

「オレは平気だ。それよりも、何とかしてここを脱出しなければ」

 

 見渡しても前後左右には獣人たちがひしめき合い、脱出口すら見当たらない。そして目の前には不死の代行者が二人、女司教が一人いる。

 ノアを救出していない今、絶体絶命としか言いようがない。

 

 その時、祭壇から誰かの呼び声がした。

 見れば赤髪の司祭が女司教の横に立ち、彼女の髪を掴み喉元に刃を突きつけている。

 司祭に名を呼ばれたシェイルードはぞんざいに振り向いた。クルゴスも祭壇に視線を移したが、程なく主を振り返り無視を決め込んだ。

 赤髪の司祭アグラールは冷たい視線を向けるシェイルードに対し、更に声高に叫んだ。

 

「シェイルード様! 依り代として何故私を選んでは頂けなかったのですか! 私に期待を寄せておられたのではないのですか? 私はあなた様のためなら、何でもするつもりでしたのに」

「黙れ。他者に期待を掛けるなど、愚者の行いよ。貴様を選ばなかったのは、魂を入れる器としての容量がまるで足りないからだ。幸福を感じた魂が絶望を味わう時、そこには昏い闇の底が出来上がるのだ。深い絶望の暗闇こそが、神の魂を受ける器となる」

 

 アグラールの問いに、シェイルードは物憂げに答えた。

 言葉を発するのも億劫なのか、それだけ答えると振り向きもせず彼は捨て置かれた。

 

「シェイルード様……。私はあなた様に認められたくて、実の母まで殺したというのに……」

 

 アグラールはがくりと膝をつき、床に突っ伏した。

 その拍子に女司祭に掛けられていた法衣が滑り落ち、少女の姿があらわになった。

 

「ノア!」

 

 椅子に座らされ、四肢を枷で拘束された少女の姿にエレナスは叫んだ。

 猿轡で声も出せない状態に、エレナスは急いで祭壇へ駆け寄る。猿轡をはずすとノアはうっすらと目を開けた。

 

「エレナス……。来てくれたの……」

「平気か? 今はずすから待ってろ」

 

 ノアの四肢を封じる枷をはずそうとしたが、分厚い木製の枷は鋲で打ち付けられ、簡単にははずれそうにない。

 エレナスはナイフを取り出すと枷から鋲を切りはがした。枷をはずしノアを抱えると、急ぎ足でその場から離れる。彼女の容態は悪くはなかったが、意識が朦朧としている。逃げるにしてもリザルやノアの足では追いつかれるだろう。

 

「……何もかも、お前のせいだ」

 

 不意に祭壇から、怨嗟に満ちた声が響いた。

 見れば突っ伏していたアグラールが、恨みのこもったまなざしでこちらを睨んでいる。その視線の先には未だ苦しそうな呼吸を繰り返すリザルの姿があった。

 

「死にゆく者よ。お前さえいなければ、こんな事にはならなかった。お前のせいで神器を失い、神の寵愛を失った。何もかも、お前のせいなんだ!」

 

 狂気に支配された目をぎらつかせながら、アグラールはリザルへと歩き出した。その手には神器のナイフが握られている。

 その様を見てリザルも立ち上がった。傷を庇い呼吸を乱しながら、彼はエレナスに囁いた。

 

「エレナス。あいつはオレが相手をする。お前は二人を連れて後退するんだ。扉の傍にいる奴らを倒せば、逃げ切れるかも知れない。……セレスを頼んだぞ」

「バカな。無茶だ。あいつを倒したとしても、代行者が二人もいるんだぞ。生きて帰れる訳が……」

 

 そこまで口にして、エレナスは言葉を継げなくなった。

 リザルはもう、生きて帰る事など考えていない。仲間が、そして息子が生き残る道だけを模索しているのだ。

 

「お前のおかげで、オレは大切なものを見出すきっかけが出来たんだ。そうでなければ今でも自分だけを哀れんで、身勝手な生き方をしていただろう。だから、お前たちには生きていて欲しい。これも勝手な思いだろうけどな」

 

 リザルの決意にエレナスはもう何も言う事が出来なかった。セレスを抱え上げ、ノアの手を取るとゆっくりと立ち上がる。

 

「二人を安全な場所に隠したらすぐ戻る。だからそれまで持ちこたえてくれ」

「……バカ野郎。いいから早く行け。お前が生きていれば、希望を持てる。お前は希望の光なんだよ」

 

 吹っ切れたように笑うリザルの表情に、エレナスは目を閉じ顔を伏せた。

 

「必ず、戻って来る」

 

 ノアが歩けるのを確認すると、エレナスは剣を抜いた。

 リザルがアグラールに斬り掛かるのと同時に、エレナスは扉近くにいる獣人へ剣を向ける。

 

「絶対に生きて帰る。みんなで王都に戻る」

 

 エレナスは向かって来る獣人に吼えた。

五 ・ 共謀

 

 マルファスとの顔合わせが終わった数日後、王都ガレリオンにアレリアとレニレウスの部隊が集結した。

 ネリア王フラスニエルは、ブラム奪回戦の最高指揮官にセトラ将軍を任命した。副指揮官にはレニレウスのユーグレオル将軍が奉ぜられ、二人の将軍が現場を取り仕切る形になった。

 諸王公は王都ガレリオンにて待機と決められていたが、ダルダン王ギゲルとアレリア大公レナルドは随行を願い出、聞き入れられた。

 

 出発の前日、フラスニエルはシェイローエの居室を訪れた。彼女はセトラ将軍の参謀として随行が決定しており、出撃に際しては命を賭ける覚悟でいたのだ。

 急に訪れた王に驚き、シェイローエは用件を訊ねた。

 王は何も言わず、懐から銀に輝く指輪をひとつ取り出し彼女の掌に置いた。

 

「どうかこれをお持ち下さい。いつ終わるとも知れない戦いですが、全てが終わり平和になったら……私の妻になって頂けませんか」

 

 思いもかけないフラスニエルの言葉に、シェイローエは彼の目を見つめた。

 そしてすぐに俯き手を取ると、指輪をそっと戻した。

 

「これは、今は受け取れません。わたしにはやるべき事があります。全てが終わり、王のお心変わりが無ければ、その時お受け致します」

「心変わりなどしません。私にはあなたしかいない。何不自由なく育ち、欲しいものなどないと思って生きて来た私が、ただひとつ欲しいと願ったのは……あなたの心なのです」

 

 フラスニエルの言葉に、シェイローエは目を閉じた。

 その顔には悲哀と苦悩が混じり、今にも泣き出しそうに見えた。

 シェイローエの表情に、フラスニエルは思わず彼女を抱き寄せ唇を重ねた。手から滑り落ちた指輪が澄んだ音を立てて床に転がり、立ち尽くす二人の姿を映し出した。

 

 

 

 王都ガレリオンを出発した同盟軍は、およそ四日の行程を経てダルダンの王都ブラムへと到着した。

 懐かしい都の惨状を目の当たりにしたギゲルは独り静かに涙し、英霊たちに祈りを捧げた。

 同盟軍は目視で確認不可能な位置に本陣を構え、斥候を放って全軍を休ませた。見張りは細かく交代させ、注意深く斥候の帰還を待つ事にした。

 

 その夜、アレリア大公の天幕を訪れる者がいた。

 護衛が誰何しようとすると大公自身が止め、人払いをさせた。天幕の外からおずおずと姿を現したのは一人の弓兵だ。おどおどしている弓兵を天幕へ招き入れると大公は口を開いた。

 

「待っていたよ。君にはやってもらいたい事がある」

「何でございましょう。御命令とあらば全力を尽くします」

 

 それほど身分の高くない者なのか、彼の口調は硬く体も強張っている。

 兵の緊張をほぐそうと大公はグラスを二つ取り、ワインを開けて上品に注いだ。グラスのひとつを彼に差し出し、耳元で小さく囁いた。

 

「君だから話そう。ネリア王家はアレリアを我が物にしようとしているのだ。こんな事は断じて許されるものではない。だからこそ頼む。アレリアのために、セトラ将軍付きの参謀を背後から仕留めて欲しい。流れ矢を装ってな」

 

 物騒な依頼に若い弓兵はたじろいだ。

 

「そ、そんな大それた事、自分にはとても……」

「大丈夫だ、君になら出来る。それに病気の御母堂や小さな弟妹が、君の帰りを待っていると聞く。任務を果たした暁には、報奨も思いのままだ」

 

 ひどく狼狽する兵を大公は優しく宥めた。

 

「君なら出来る。私はそう信じているよ」

 

 弓兵は震える手で敬礼をすると、拝命致しましたと小さく呟いて天幕を後にした。

 誰もいなくなった天幕でレナルドは不気味に微笑み、グラスを一息に空けた。

 

「随行がフラスニエルであればこの手で殺したものを。手始めにあの女から殺してやる。大切なものを奪われる苦しみを思い知るがいい」

 

 唇を噛み笑い声を押し殺しながら、レナルドは空になったグラスを床に投げつけた。軽い音を立てて粉々になった破片を更に踏みにじり、彼は天幕の外を悠々と眺めた。

 

 

 

 リザルがエレナスたちを逃がし、アグラールと対決する姿勢を見せた事で、クルゴスは主の顔色を窺った。

 シェイルード自身は特に興味も無いのか、ただじっとリザルの様子を見ているだけだった。

 

「どうなさいますかシェイルード様。このままだと子供たちが逃げてしまいますが」

「捨て置け。それよりもヤドリギの洗礼を受けたあの男……。実に興味深い。選び抜いた適合者でも大半はその場で死に至るというのに、稀に見る逸材だ」

 

 主の言葉にクルゴスは顔を伏せ押し黙った。

 

「不満そうだなクルゴス。あれに何か思い入れでもあったか」

「……何も、ございませぬ。ヒトであった頃の記憶など、とうに捨て去りました故」

 

 再び顔を上げたクルゴスの双眸からは、すでに迷いが消えていた。

 

「計画を多少変更して、あの男を使う事にしましょうぞ。体内に植え付けられた深淵が魂を食い尽くし、完全に覚醒するまでにはまだ時間がございましょうが」

「未だに意識と自我がはっきりしている所を見ると、完全体になるには猶予があるな。アグラールを手に掛ければ侵食も早まるかも知れないが」

「承知致しました。では更に侵食を進める事に致しまする」

 

 冷たく微笑むクルゴスをシェイルードは見やった。

 

「クルゴス。お前に任せる。好きにするがいい。私は王都ブラムへ向かう」

「御意にございます。必ずや深淵の神を目覚めさせて御覧に入れましょう。その時こそ、このつまらぬ世界が終焉を迎える日」

 

 シェイルードは現れた時と同じように影の中へ溶け込むように消えていった。

 残されたクルゴスは対峙するリザルとアグラールに目をやり、ぞっとする冷たい笑みを浮かべた。


 
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