「改めて……おかえり、エリアンナ」
家に入り、リビングのテーブルを三人で囲む。来客ではなく、家族として。娘と、そのまた娘と。
「ただいま。本当に、急に来てしまってごめんなさい」
「いや、全く問題ないよ。エリアンナ達が、いつ来ても問題ないように掃除は欠かさなかった。それに、あの頃の食器も残してある」
「このマグカップがまだ残っていたなんて、びっくりよ。懐かしいわ……」
エリアンナは、手の中のマグカップの縁を指でなぞりながら、懐かしいあの時を思い出していた。母と父と自分と、笑顔で囲んだ食卓。ラベンダーの咲く季節には、香りが窓から部屋中に吹き抜けた。あの時の香りを懐かしむかのように、小さく深呼吸をして思い出から戻ってくる。その瞬間、エリアンナの顔が少し哀しげな表情になったのを、ロアロは見逃さなかった。
「どうしたんだい、エリアンナ」
そう聞くと、エリアンナは少しだけうつむき、申し訳なさそうな顔になってしまった。
「気分が悪いのかい。長旅で疲れてしまったかい」
エリアンナの身を気遣うロアロだったが、彼女は特に体調が悪いわけではなかった。沈黙が少しだけ続いたが、やがてエリアンナはゆっくりと口を開いた。
「お母さんのこと…」
「エルメルのことが、どうかしたのかい」
体調の心配をしていたロアロには、意外な言葉だった。
苦しげに口を動かすエリアンナを、ロアロはじっと見つめる。その眼差しは、まるで親が我が子の犯した過ちの告白を優しく包みこむように。その眼差しを感じてか、エリアンナは小さく息を吸い込み、またゆっくりと口を開いた。
「その……お母さんの最期に立ち会えなくて……。本当にごめんなさい……」
「エリアンナ……」
そんな娘の告白を聞いたロアロは、一瞬どう返していいのかわからなくなった。確かにエリアンナは、エルメルの葬儀にも埋葬の日にも来なかった。当時、そのことについて葬儀の参加者からいくつか質問をされたが、ロアロはその度に言葉を濁した。また、当時は国内で小さな戦争がいくつも行われた年でもあったので、もしかしたらそのせいで来られないのではという話も、葬儀の参加者たちに話した。しかし、エリアンナが来なかった理由、来られなかった理由は他にあったのだ。ロアロはそれを、今にも両目からしずくが零れ落ちそうなエリアンナに伝えた。
「エリアンナ、いいのだよ。エリアンナが来なかったのは……いや、エリアンナが来ないように望んだのは、他ならぬエルメルなのだよ……」
「え……お母さんが?」
「うむ……。あの子には、私たちのことを忘れて幸せになってもらいたい。あの子に死に顔を見せたくない。そう言ってな……。私は反対したが、頑なだった。あそこまで頑ななエルメルを、私は見たことがなかった。だから私は……いや、私たちは、エリアンナに何も伝えなかったのだ。だから、これは私が謝らなければならない。すまなかった……エリアンナ。でも私は、妻の最後の望みを聞いてやりたくて……」
溢れてきた涙が、ロアロの言葉を詰まらせる。言葉が出なくなってしまったロアロは、最後にもう一度「すまなかった」と言って俯いてしまった。
「そうだったの……お母さんが」
ロアロの話を聞いたエリアンナは、ぽつりと呟いた。そして、少し間をあけて言葉を続けた。
「……お父さん、どうか顔を上げて。お父さんが謝ることないわ。だって、お父さんは、お母さんと私のためを思ってそうしてくれたんだもの。謝る必要なんてない。だから……ありがとう、お父さん」
「エリアンナ……」
ロアロはまた、目から大粒の涙を流して泣いてしまった。ただただ静かに、涙を流した。そして、エリアンナは俯いたまま泣き続ける父親を、母に似た優しい瞳でそっと見つめていた。
「すまないね、やはり、歳になると涙もろくなってしまってな……」
ひとしきり涙を流したロアロは、ふと、ある疑問が頭に浮かんだ。そのことを質問しようと、咳払いをひとつして、エリアンナに問いかけた。
「ところで、エリアンナ。ひとつ聞きたいことがあるのだが。一体……いつどこで、エルメルが死んでしまったことを知ったんだい?」
「あ……それは……」
その質問をされ、エリアンナは一瞬戸惑いの色を浮かべたように見えたが、その顔はすぐにかき消される。なぜなら、エリアンナの隣からゴトンという音が聞こえたからである。その音の正体は、エリアンナの娘が、飲み物の入ったカップを倒してしまった音だった。
「おおっとっと、これはいかん」
それに気づいたロアロは慌てて布を取り出すと、テーブルの上に広がった飲み物をすぐにふき取った。
「ふう、危ない危ない……エリアンナ、娘さんの服は汚れてないかい?」
「え、ええ。大丈夫よ。こっちにはこぼれてないみたい」
「そうかそうか、よかった」
ロアロは、テーブルの上に広がった水分をひとしきり拭き終えると、再び少女のカップに飲み物を注ぐため立ち上がる。突然のハプニングのためか、先程の疑問は、既に彼の頭の中には無かった。代わりに、もう一つの疑問が生まれてくる。台所で再び飲み物を注ぎ、少女の前にカップをそっと置くと、自分の席に座りながらその疑問を問いかけた。
「よっこらしょ……と。そういえば、肝心なことを聞き忘れてしまっていたよ」
「肝心なこと?」
と、エリアンナは小首を傾げる。
「そう、とっても肝心なこと。娘さんの名前だよ。尋ねなかった私が悪い。これでは、おじいちゃん失格だな」
ロアロはわざとらしくそう言うと「はっはっは」と小さく笑ってから、少女の方に向き直り言葉を続けた。
「だから、よろしければお名前をお尋ねしてもよろしいかな?」
「…………」
少女は恥ずかしそうに俯いてしまった。隣に座るエリアンナが、そっと少女の背中に手を置き、ぽんぽんと優しくたたいた。それから、少女は口をもごもごさせてから、ゆっくりと口を開いた。
「……ナンナ」
「ナンナ……素敵な名前だね。良い響きだ。教えてくれて有難う、ナンナ」
そんな言葉に、ナンナは俯いたまま少し頷いた。きっと、どういたしましてというサインなのだろう。ロアロは好々爺よろしくにっこりとした微笑みを、相変わらず俯いたままのナンナに向けた。すると、ナンナは顔をゆっくりと上げ、ロアロの顔をすっと見つめた。
「……?」
突然見つめられたので、ロアロもつられて見つめ返してしまう。ナンナの大きな瞳が、ロアロの瞳を見つめ返す。
海の青をそのまま水晶玉にしたかのように美しく透き通るような虹彩。その中心には、まるで吸い込まれそうな程、深い黒を湛えた瞳孔が開いている。月明かりも星明りもない夜のような黒。その黒に、ロアロの意識は完全に吸い込まれてしまった。
「……さん? ……お父さん?」
エリアンナの呼びかけで、ロアロは我に返った。
「お父さん、どうしたの? ナンナの顔に何か付いていたかしら?」
「ああ、いや……なんでもないよ」
ロアロは、もう一度ナンナの方を向いてみるが、彼女はコップに口をつけておりこちらを見ていなかった。
一体、何だったのだろうと、ロアロは先程のことを思い返す。ナンナの瞳は、まるで全てを吸い込むようだった。意識だけでなく、本当に全てが吸い込まれそうな不思議な瞳だった。
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「Lily of the valley」藤実 嵩
Ep2→http://www.tinami.com/view/516351