No.362602

空色の瞳

澄み渡る青空の下、少年は自分が乗り込む巨大な大気圏外航空機を見上げている。少年の名はコータ。今年十五歳になる彼は、たった一人で成層圏外に出ることに、内心では不安を感じている。そんな少年の臆病な心境を、今日の澄み切った空と同じ色の瞳で、栗色の髪を大きな赤いリボンで留めた少女が見抜いていた。ジェシカという名のその少女は、生意気で可愛気の無い態度を、堂々と内気で臆病な少年に示す。2人の想いを振り払うかのように、キャメル・ナンバー3は軽快に離陸し、やがて地球の成層圏を離脱した。

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2012-01-13 01:44:45 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:598   閲覧ユーザー数:596

   空色の瞳・前編

 

 

    離陸

 

 ケープ・カナベラルの空は、その日どこまでも青く澄んでいた。

 その青い空を背景に浮かぶ、巨大な白銀の怪鳥を、少年は飽きることなく眺めていた。

「大気圏外航空機スペース・クラフト、こんなに大きいのに乗客がたった三十人なんて、もったいないわね。それにキャメルなんて名前、だいたい似合わないわよ」

 突然の声に驚いた少年は、全身を震わせるように恐る恐る振り返った。

 彼の視線の先には、長い黒髪に黒い瞳のスラリとした女性が立っていた。しかし、その場所は声がしたと思えるところからは、いささか離れていた。

 思わず少年は、キョロキョロと周囲を見回した。

「何をビクビクしているの?月に基地を作っている時代に、まさか成層圏外に出るのが恐いとでも言う訳?」

 明らかに嘲笑の意味が含まれた、その生意気な口調に、少年が自分よりも年齢的な幼さを感じて、視線を下に向けた。

 自分のすぐ隣りに、栗色の髪に大きな赤いリボンが良く似合う、小さな女の子が立っていた。

 ようやく、自分の存在に気付いた少年の方を見上げた少女の瞳は、今日の空の色を映したように、青く澄み切っていた。

「あなたも、このキャメルに乗るんでしょう?」

 少女の無遠慮な質問に、少年はしばらくなんと答えていいか、わからなかった。

「ジェシカ、そんな失礼な言い方はないでしょう?まず、自分から名乗りなさい!」

 少し強い口調でそう言いながら、長い黒髪の美しい女性が、少女の手を取るように少年の元へ歩いて来た。

 その声に、ふっと小さくため息を吐いた少女は、ペコリと頭を下げた。

「失礼しました。あたくし、ジェシカ・ゴドワナと申します。ステーション・オアシスまでの短い旅の間、御一緒になる方ですわね?」

 その少女の態度が、自分を小バカにしたものだということは、少年にもハッキリと分かった。

 だが、少年は少女の態度に腹を立てる前に、相手の名前に聞き覚えがあることを思い出した。

「ゴドワナ?もしかして、ゴドワナ教授の?」

「娘さんです。ごめんなさいね、教育が悪くて……私は、彼女のナニーを勤めています、マリコ・キリュウと申します」

 そう言いながら、長い黒髪の女性は少年に手を差しのべた。

 少しドギマギしながら、少年はその細くしなやかな手を握った。

「えっと、ナニーって保母さんのことでしたっけ?あッ、僕はコータ・ヤマシタです……」

「ええ、この娘の保護者代理です。いたりませんけど……ヤマシタ?もしかして、その髪と目の色からすると、あなたも日系の方かしら?」

 穏やかな表情でそう尋ねたマリコは、緊張しきった黒い髪に黒い瞳の少年から離した手を、傍らの少女の栗色の髪の上に置いた。

 自分の頭に置かれた手に甘えるようにして、少女はマリコと名乗った若い女性の足元に寄り添った。それだけで、この二人が肉親かそれ以上に親しい関係にあることが、若い女性と同じ黒髪の少年にも、容易に理解できた。

「そうです、父が日本人です。あなたも?」

 女性の言葉に頷いたコータは、相手の表情を少しまぶし気に見返した。

 彼にとってそれは、単純に陽の光が強いせいだけではなかった。

「ええ、私はほとんど完全に日本人なの。でもこっちだと、かえって希少価値なのね純血種っていうのは……」

 そう言って、マリコは小さく笑った。

 コータのような年端の行かない少年にとっても、充分に魅力的な微笑みだった。

 そんな二人の人種的な親近間に、自分の保護者を奪われたように感じたのか、栗色の髪の少女が若い女性の手を強く引いた。

「ねぇマリコーォ、こんな子ほっといて、早くキャメルに乗ろうよーォ!あたし、コクピットが見たいのーォッ!約束でしょう!?」

 その少女らしい我が侭な口調に、少年は先ほど感じた警戒と悪意が、少しは減るような気がした。

 しかし、自分を見上げる澄んだ空色の瞳には、少なくとも自分が感じているような好意は、まるで感じられなかった。再びコータの表情は、年下の女の子に対するものとは思えないほど、固くなっていた。

そんな少年の、外見の年齢には不似合いな反応に気付いたのか、マリコは軽く少女の頭を叩くと、その無作法をさり気なくたしなめた。そして、取りなすような視線をコータに向けた。

「あなた、この子の父親がゴドワナ教授じゃないかって言ったわね?」

「あッ、間違っていたらごめんなさい。そんなにある名前じゃないし、これから行くのがステーション・オアシスだし、ゴドワナ教授と言えば、オアシスを作った有名な宇宙工学博士の一人だし……」

 少し慌てて、コータは弁解していた。

 考えてみれば、余りにも単純で無責任な連想だった。もし相手を、少女はともかく若い女性の方を傷付けたとしたら、大失敗だった。

「いいのよ、ええ、その通りよ。でも、よく知っていたわねぇ、もうずいぶん前の話なのに……」

 マリコの笑顔が、自分を非難していないことを証明していたので、コータの口も自然と軽くなった。

「いえ、僕の両親も宇宙技術者なんです。あの、月面基地に住んでいるんです」

「まァ、ご夫婦であのハニカムホームに?ということは、あなたカレット夫人のお子さんなの?」

しまった!と、コータは心の中で呻いていた。

 月面に作られつつある居住基地は、すべてが六角形の建物を繋ぎ合わせる方法で、拡張され続けていた。その形状から、ハニカムホームと呼ばれるようになっていた。

 その基地に長期滞在する技術者は少なくなかったが、まだ夫婦揃っていうと数が限られていた。その中で日本人の夫を持っていると言えば、自分の母親ぐらいだということを、この時コータはうっかり忘れていた。

「カレットって、あのヨーロッパ連合の企業グループ?」

 今度は、赤いリボンで留めた栗色の髪の少女の方が、黒髪の少年に興味を持ったらしい。

 コータは、困ったようにうつ向いた。

「カレット家のお嬢様と日本人技術者のラブ・ロマンスは、衛星軌道開発に興味の無い人でも、知っていることですものね」

 少し微笑みながら、ある種の同情のこもった眼差しでマリコは、自分と人種的関係の強い少年を見つめた。

「ねェ、マリコーォ、何の話なの教えてーッ!」

「いい子だから、後でこのお兄さんのお許しをもらってから、お話して上げます。人の家族の問題を、面白おかしく話すのはレディの教育にふわさしくありません」

 冗談ぽく言いながら、マリコは片目で頷いて見せた。

 それは、当事者であるコータに、軽々しくその話をしないという約束の表情のように見えた。黒髪の少年はホッと胸を撫で下ろすと、少女に向かって微笑んだ。

「どこにでも良くある、駈落ち話だよ。ただ、うちの場合、逃げた先が月面だったていうのが、ちょっと珍しかったんだ……」

 大企業グループの令嬢が、大学で宇宙工学を専攻したのは、この時代としては不思議でも何でもなかった。

 そこで若い娘が、親子ほども歳の離れた研究者と恋に落ちことも、まったく有り得ない話という訳ではない。息子から見るところ、学者バカで研究一途な父親に、若い母親が何が気に入ったのか、一方的に惚れ込んだというのが真相のようだった。これもまた、ない話ではなかった。

 問題だったのは、世間知らずという点では、金持ちのお嬢様よりも学者バカの方が上手ということだった。彼の父親は、自分の立場というものが、まったくわかっていないようだった。

 まともに母親の父、つまり少年の祖父に結婚を申し込んで断わられると、二人はあっさりと自分達で生活を初めてしまった。それが、その当時としては普通のやり方でも、相手は普通の家の娘ではなかった。

 祖父の怒りは、文字通り頂点に達した。気が付くと二人は、祖父の追手から逃げ回らねばならなくなっていた。祖父の支配下にある企業グループを通じて、二人は全ヨーロッパから指名手配されてしまった。

 ヨーロッパ連合を代表する企業体を向こうに回しては、地球上に二人の安住の地はない。そこで諦めるなり、妥協するなりするのが普通の展開だと思えるのだが、この二人の凄いところはそこからだった。

 二人はなんと、宇宙技術者の資格を使って、月面に逃走したのだ。月面基地の管理はアメリカ大陸機構が握っていたが、そこは最もそういうラブ・ストーリーに弱い世界でもあった。

 同時に、ヨーロッパ連合と正面きって対決できる政治経済の連合組織もまた、そこぐらいのものだった。もしそれまで計算して、月に逃げたのなら大したものだが、彼らの息子にはそうでないという確信があった。

 ただ結果的に、もう一つの大きな政治経済の連合組織である、アジア・オセアニア共同体では、これは無理な芸当だった。この団体には、伝統的に恋愛亡命者を受け入れる土壌がなかった。それに反して、伝統的にアメリカ大陸機構はこのようなカップルに対して、非常識なほど寛大で好意的だった。

 自由恋愛について、常にアメリカはヨーロッパに優越感を抱いているようだった。今回の件も、文字通り全アメリカ大陸の拍手喝采を受ける格好で、コータの両親は月面基地で挙式したのだった。

 もちろん、コータの祖父は企業グループの会長として、猛然とアメリカ大陸機構に抗議した。ただ、それはもはや、恥の上塗りでしかなかった。

 この事件はマス・メディアを通じて、世界中に報じられた。企業グループの妨害を振り切って、史上初めて月に駈落ちしたカップルに、世間は拍手喝采した。オマケに、それからほどなくして何番目かの月面出産の結果として、コータが誕生するともはや勝敗は明らかだった。

 これ以上、ヨーロッパの権威と企業の不利益になることは、会長としてできなかった。アメリカ大陸機構に正式に謝罪したコータの祖父は、月面基地と地球とを結ぶ中間点である、軌道ステーション・オアシスにやって来た。

 全世界が見守る中、父は娘夫婦に和解を申し入れ、めでたく孫と対面することになったのだった。この時点で、コータ・ヤマシタ・ド・カレットは、世界で最も有名な赤ん坊になっていた。

 月面での育児に対する設備が、余り整っていないという理由と、両親と父との和解の印ということで、孫は祖父が育てることになった。ただ、これには預けられた当事者から見ると、もっと別のハッキリした理由があるように思えた。

 学者バカの父親はもちろん、お嬢様育ちで科学技術者としては大陸機構が受け入れるほど優秀な母親も、育児にはまるで向いていなかった。今になって思えば、コータは自分が祖父の元で、何不自由なく育てられたことを本気で感謝していた。

 息子の目から見ても、何も考えずに全ヨーロッパを敵にしてしまう無謀な両親に、まともに子供が育てられるとは思えなかった。それに、両親は年に何回かは地上に降りて来て、自分と会ってくれた。祖父の配慮で、物心が付くと映像通信で頻繁に会話も行なっていた。そのせいか、それほど寂しいとも思っていなかった。

 今年、十五歳になったコータは、初めて両親の住む月面に向かって、飛び立とうとしていた。これは、ハイスクールに進級した孫のために、祖父が特別に手配してくれたことだった。

「それじゃ、あなたが月面に行くのは……」

「ええ、初めて何です」

 スペース・クラフトの搭乗デッキに向かって歩き出しながら、コータはマリコに笑顔を向けた。

 世界中が注目したカップルの子供ということで、少年は一時期かなり、好奇の対象にされていた。幸いなことに、祖父と祖父の牛耳る企業グループの保護のおかげで、コータ本人が迷惑を被ることは、ほとんどなかった。ただ、自分が他人とは違う目で見られているという自覚は、幼い少年の心を閉ざしがちにするには、充分すぎる理由だった。

 そのため、コータはマリコが自分の素性を知った時に、その態度が変わるのではないのかと、少なからず恐れていた。しかし、さすがにナニー・保母の資格を持つ若い女性は違った。彼女は、穏やかな笑顔であっさりと、少年の不安を取り除いてくれた。

 マリコは、その話題を単なる世間話のレベルに、簡単に落ち着かせてしまった。彼女から見れば、コータと言えども、長く別居している両親の元を、久しぶりに訪れることのできる、内気な少年に過ぎなかったようだ。

「今までは、軌道ステーションでの面会がせいぜいでしたから」

「そりゃそうよ。いくら定住者が増えたとは言っても、まだまだ月面は見学者を迎え入れるような状態じゃないんだから。まァ、あなたみたいな関係者の家族が、ようやく解禁されたってところかしら?」

「ええ、それも十五歳になってようやくです……」

「なかなか、大変よね御両親が月面技術者っていうのも」

 デッキから搭乗券のチェックを受けて、機内に向いながらコータはこの旅の道連れに、すっかり親近感を抱いていた。

 三人はそのまま、機内の真ん中辺りの席に案内された。ちょうど三列ある席の窓側にジェシカが、そして驚いたことにその隣りにコータが案内された。

 戸惑うコータに、マリコがあの不安を解消する笑顔を、見せてくれた。

「パーサーがね、私のナニーの資格を見て、あなたのお相手を依頼したのよ。もちろん、あなたが良ければ、だけど?」

 当然、コータに異存がある訳はなかった。

 ただマリコが、客室乗務員の責任者であるパーサーの、信頼を得るほどのナニーだということは、正直なところ少年には意外だった。

「マリコは、国際免許のナニーなの、宇宙でだって通用するんだから!」

 コータの表情から、そのことに気付いたらしいジェシカが、ここぞとばかりに生意気な口を開いた。

 宇宙生活者、特に夫婦での長期滞在者が増えたこともあって、彼らの子供を預ける優秀な保母や保父が必要となった。子供を宇宙空間で育てることには、まだまだ問題があったのだ。

 そういう、重要な子供を預けることのできる国際的な基準が統一され、それが国際免許と呼ばれるナニーの資格となった。この資格を持つ者は、その育児教育能力を国際的に認められたのも同然で、一時的に親に代わって親権を代行する権利さえ与えられていた。

 両親に会いに行くためとはいえ、十五歳は一人で成層圏外へ出る最低年齢だった。スペース・クラフトの乗務員としては、その少年に充分な資格を持つ乗客の協力を頼むのは、当然の配慮だった。

 偶然にせよ乗り込む前から、両者が親し気な雰囲気であるのなら、なおさらだった。もっとも、このことは本来のナニーの被保護者である少女にとっては、決して面白い事態ではないようだった。

 赤いリボンを振って抗議する少女に、少年は苦笑すると席をナニーである女性に譲った。自分は、一番通路側の席に座ることにしたのだ。

 子供達に挟まれる格好になった女性は、少し困ったような表情をしたが、その目線の先に立つパーサーは、微笑みながら頷いていた。この短い無言のやり取りの結果、スペース・クラフトの座席の変更の変更という重大事は、いともあっさりと認められた。

「それでは、ステーション・オアシスまで御一緒下さいネ」

 隣りに座った若い女性の丁寧な挨拶に、コータは少し顔を赤らめながら答えた。

「こちらこそ……でも、お二人はオアシスに御用なんですか?」

 ステーション・オアシスは、月と地球の中継基地であり、スペース・クラフトはそこに向かうための定期便だった。

 地球表面を短時間に移動したいのならば、わざわざ値段も高く資格にもうるさい、スペース・クラフトなどを使う必要はなかった。

「ええ、私達もあなたと同じ、この子の父親がオアシスで待っているはずなの」

「あたしは別に、お父様なんかに、用はないんだけど、あっちが会いたいって航空券まで用意したのよ!」

 少し口を尖らせて、少女は憎まれ口を叩いた。

 そんなジェシカの栗色の頭を軽く叩いて、保母である女性は意地の悪い笑みを浮かべた。

「その航空券に、スペース・クラフトに乗れると大喜びしたのは誰だっけ?」

「あたしは、この大気圏外航空機に興味があるだけよ。ねぇ、早くコクピットに行きましょう!」

 赤い大きなリボンを揺らしてせがむ少女の声に、黒髪の女性はとりあえずこれからしばらくの間、自分の保護下に入る少年を振り返った。

 その視線が、あなたもどうか?と聞いていることは、ややもすると自分の中に閉じ込もりがちな少年にも、よくわかった。

「いいんですか?」

 それが、少年の返事だった。

 ナニーの資格を持つ女性の無言の問いに、パーサーは人好きのする、まるで隙のない笑顔で応えた。

 大気圏外航空機と呼ばれるスペース・クラフトというのは、簡単に言えば宇宙用の飛行機だった。ひと昔以上前、場所も同じこのケープ・カナベラルから、よく打ち上げられたスペース・シャトルも、帰還用の機体は航空機の形をしていた。しかし、大気圏外に出るための方法は、それ以前のロケット方式そのままだった。

 打ち上げには、莫大な燃料と乗務員への強烈な加重圧が要求された。しかも、その莫大な燃料を消費するロケット部分は、ほとんどが使い捨てで、一部を回収して再利用したに過ぎなかった。

 そこへ行くと、スペース・クラフトは通常のエア・クラフトと呼ばれる大気圏内航空機と、基本的には同じだった。翼の揚力で上昇し、穏やかな加速でそのまま大気圏外に出る飛行機だった。一般の乗客に特別な訓練の必要はなく、誰もが宇宙空間に出ることを可能にしていた。

 当然、大気圏外に出るために必要な、巨大な揚力と莫大な推進力を得るためには、大きな翼とその巨体を加速するエンジンが必要だった。結局、固形水素を燃料とするロケット型のエンジンが開発され、それが巨大な三角形の翼の中に納められた。

 ただ、機体が大きくなった割には、乗客や荷物などの積載量が少ないという、非常に効率の悪い結果も招いていた。もし、軌道ステーションが完成し月面開発が進まなければ、スペース・クラフトが本当に空を飛ぶことは、なかっただろうと言われている。

 現在、月との中継点であるステーション・オアシスとの間に定期航路が開設され、キャメルと名付けられた三つの機体が交替で就航していた。

「ようこそ、キャメル・ナンバー3のコクピットへ!」

 パーサーに案内されて、コータとジェシカそれにマリコの三人は、巨大なスペース・クラフトの、小さなコクピットに入っていた。

 気さくな声で迎えてくれたのは、小柄な男性でその帽子と衿のラインが機長であることを示していた。他の乗務員の呼び名などと同じく、これはエア・クラフトからの伝統だった。

 小柄な機長の隣りでは、自分の上司よりは背も体格もいい女性が座っていた。短い茶色の顎髭を撫でながら、機長はその女性を紹介した。

「こちらは、副操縦士のモニカ。私は機長のセレイアス、まァ短い宇宙への旅の間だけど、よろしく」

 モニカと呼ばれた副操縦士は、コータ達に向かって軽く会釈をすると、忙しそうに計器盤やモニターに表示される数字に目をやった。

 髭と同じ色の少し小さな瞳をした機長は、気安さを通り越して軽薄ささえ感じさせた。そんな彼が、部下の無愛想な態度を取りなすように、三人の手を順番に握った。

 コータは機長が最後のマリコのところで、自分達の三倍以上もの長い時間、その手を離さなかったことに気付いた。もっとも、上品なマリコが、そんな態度に露骨に嫌な顔などするはずもないのだが、何か少年には面白くなかった。

「これ、ほとんど、オート・パイロットなんでしょう?」

 そんなコータの胸の内などにお構い無く、ジェシカは狭い機長席と副操縦席の間に、身を乗り出していた。

 マリコと違って、表情を隠す訓練をあまり積んでいないのか、女性副操縦士は露骨に嫌な顔をした。もっとも、そんなものが栗色の髪の少女に通じるはずもなく、ジェシカは次々と計器やモニターを指差しては、機長に質問した。

「驚いたな、お嬢ちゃんはひょっとしたら、我々より詳しいんじゃないか?」

 多分にお世辞も込めて、セレイアス機長はモニカ副操縦士を振り返った。

 女性の副操縦士は、明らかに軽蔑の色を見せると、機長と生意気な少女の双方を見比べていた。

「確かに、この機体はほとんど自動操縦です。我々の仕事は主に、スタートと停止のスイッチを押すこと。後は、地上と宇宙の管制センター、それに機内のコンピューターが行なってくれます」

 憮然とした副操縦士の言葉に、自分の被保護者の非礼を感じたのか、マリコは相手の機嫌を損ねないように口を挟んだ。

「でも、オアシスとのドッキングには、機長さん達の手腕が必要なのではありませんか?」

 小柄な機長は、この二人の子供の保護者の発言に、すっかり気を良くしたようだった。

「本来的には、ドッキングもコンピューターがやってくれるんです。でも、そうそう、いつもいつもうまく行くとは限りません。そのために、我々はここにいるのです」

 この発言をきっかけに、そろそろ頃合だと見たのかマリコは機長と副操縦士に丁寧に挨拶すると、まだ未練のありそうな少女の手を引いた。

 コータは言われるまでもなく、大人しくその狭い部屋から一番始めに外へ出た。彼にとって物珍しさ以外に、それほど興味を惹くようなものはなかった。

 席に戻ると、まだ少し興奮しているのか、少女はコクピットの計器の配置に付いて、あれこれ言っていた。そんな幼い女の子を横目で見ながら、少年は小声で尋ねた。

「ジェシカちゃんは、あーいうのに興味があるんですか?」

「父親の影響なのかしら。これで、工学博士の学位を持っているのよ。もっとも、いわゆるペーパー・ドクターだけどね」

 その言葉に、思わず少年は黒い瞳を見開いて、まだブツブツ言っている少女を見つめた。

 ペーパー・ドクターというのは、何か実績を上げた訳ではなく、試験や論文だけで、博士の称号を得た場合の呼び名だった。だが、それでもこの小さな女の子が、それだけの知識を持っているということは、単純に考えても驚異だった。

 特にコータは、理数系の成績がいま一つ芳しくなかった。両親が、有名なその方面のエキスパートだということで、本人以上に周囲が落胆していることを、黒い瞳の少年は自覚していた。彼にとって、このこまっしゃくれた少女は、さらに何とも小憎らしい嫌味な存在になっていた。

 そんな少年の心を知ってか知らずか、二人の保護者は双方に交互に暖かい視線を送っていた。

 しかし、そんな優秀なナニーの資格を持つ女性も、自分達がいなくなった後で、コクピットでされた会話など知るはずもなかった。

「あれが、今回の貴重品ですか?」

 副操縦士のやや刺を含んだ言葉に、機長は肩をすくめて応えた。

「そういうことだ。片方はこの機体の開発も含め、衛星軌道開発計画に、重要な役割を果たした科学者の娘。御丁寧に、本人まで工学博士の資格有りとは、こりゃ嫌味だな」

「それで、この機体に付いても色々詳しいということですか?」

 女性の副操縦士は、冷やかな視線でこの口の軽い、しかも使い方が上品とは言えない上司を振り返った。

 機長はそんな部下の視線にお構いなく、自分の感情を押し殺そうとはしなかった。

「だろうね、まったく、可愛気が無いったりゃありゃしない。女の子は軌道計算の方法より、ケーキの作り方でも覚えてろって言うんだ!」

「機長、それ査問並の危険発言ですよ」

 少々呆れたように、モニカは機長の性的差別発言を咎めた。

 さすがにセレイアス機長も言い過ぎたと思ったのか、素直に頭を掻いた。

「すまん。取り消す、忘れてくれ。フライト・コントロール開始前で良かった。そうでなきゃ、録音されてるな……」

「それで、あの元気の無い坊やの方が?」

「そう、最重要人物。カレット財閥の御曹司!まったく、いくら本人の希望だか、親の教育方針だか知らないが、あんなVIP、一人で宇宙に飛ばすなよなぁーッ!」

「機長、それも危険発言ですよ。このフライトの安全性に疑問があると、受け取られかねません」

 副操縦士は、もう機長の口調に表情を変えることはなかった。

 嫌味なほど冷静な相手の態度に、機長は精一杯の皮肉で応えた。

「ありがとう。いつも、君の適切な助言のおかげで、俺は首が繋がっているようなものだ。感謝するよモニカ……」

 機長の皮肉は、しかし女性副操縦士にはまったく通じなかったようだ。

 モニカはまるで表情を変えずに、モニター類を見ながら簡単に相手の言葉を受け流した。

「感謝されるほど、機長と長く御一緒した覚えはありませんけど?さァ、フライト・プランのチェックですよ」

 取り付く島のない相手を、機長はやや持て余していた。

 正直に言って、彼はこの副操縦士が苦手だった。優秀だということはわかっているし、言っていることは間違いないのだが、どうも自分とは感性が合わないような気がしていた。

「了解。まァでもなんだ、幸いいいナニーが一緒のようだから……」

 そんなセレイアスの不用意な一言を、モニカはしかし聞き逃してはいなかった。

 さり気なく手元の機器を操作しながら、副操縦士は鋭い視線を機長に送っていた。

「機長、それはナニー個人が気に入ったってことですか?それとも、その能力が?」

「も、もちろん、能力だよ……決まっているじゃないか?」

 予想していなかった鋭い突っ込みに、セレイアスは多少受け身にならざるを得なかった。

 そんな機長の逃げ腰を、体格のいい女性は見過ごさなかった。すかさずモニカ副操縦士は、とどめの一撃を簡潔に投げかけた。

「信じられません!」

「あのなァ!」

 少なくとも、この二人の会話をもしマリコが聞いていたなら、これから先の旅の安全に、大いに不安を感じないではいられなかったはずだ。

 しかし、もちろん、マリコ達がそんな会話を耳にするはずはなかった。彼女達が耳にしたのは、フライト・コントロール開始まであと数分で、離陸まで約十分というアナウンスだった。

 スペース・クラフトは、一端フライト・コントロールが始まると、ほぼ完全自動で離陸し、飛行する。どこかでパイロットか管制官が、緊急停止装置を作動させない限り、機体は定められた手順で動き始める。

 ただ、離陸の時にそれを決定するのは機長の権限だった。彼が、エンジンと機体を固定しているブレーキを解放しない限り、機体はまったく動くことはない。それ以外の事柄は、何か突発事態が起こらない限り、パイロット達の意志とはまったく無関係に、機体は飛行を開始する。

 間もなく、その時間が迫ろうとしていた。

「そう言えば、ジェシカちゃんのお父様は、今どうしていらしゃるんですか?確か、オアシス計画の後、月面を含めた衛星軌道開発計画から抜けられたとか?」

 離陸に備えて、体を固定するアームを座席から引き下ろしながら、コータは尋ねた。

 黒髪の女性は、少し困った顔を同じ髪の色の少年に向けた。

「それが、私にもよくわからないの。この子を私に預けられたまま、どこに行かれたのか……事実上の消息不明ね。時々連絡があるから、あんまり心配はしていないんだけど、所在地はさっぱりわからなかったわ」

「それで、今回は?」

「教授の方から、珍しく会いたいって言ってらしゃったの。今後のことも相談したいって。私も、その方がいいと思っていたし……」

「あたしは、どうでもいいのよ!」

 穏やかなマリコの言葉に、間髪を入れずといった感じで、ジェシカは口を挟んだ。

 その口調に驚いた少年は、間に座る女性の前から、覗き込むように窓際の少女を見た。厳重に気密処置をされた強化ガラスは、偶然にもその窓を見つめる少女の顔を写していた。

 その表情から、コータはこの少女の父親に対する複雑な思いを、感じることができた。納得すると同時に、マナーに反することを感じて少年は視線を外した。

「ジェシカは、ほとんどお父様を覚えていなのよ。もっとも、お会いしたこと、私もほとんどないけど……」

「そうですか……」

 何と答えていいのかわからずに、コータは視線を落すと、曖昧に頷いていた。

 親との交流が無いということに関しては、彼だって似たようなものだ。だから、ただそれだけで、ジェシカに同情する気分にはなれなかった。だが、自分の場合には、両親がどこで何をしているのかは明白で、その気になれば映像であっても、姿を見ることはできた。

 それでも、物心ついた頃には、本当の親が傍にいない寂しさというのか、物足りなさを感じない訳ではなかった。親と同じ学問を積極的に学びながら、親と会いたい訳ではないというジェシカの気持ちが、コータにはわかるような気がした。

 少年と少女の複雑な心の動きを、間に座る若い保母が暖かい視線で見守る頃、コクピットの動きが慌ただしくなった。

 地上の管制センターから、フライト・プラン開始のカウント・ダウンの声が響いていた。

「カウント・ダウン実行中。予定通り、変更無し」

 機長が、努めて穏やかな声で確認した。

 副操縦士の女性も、目の前の計器やモニターの表示に目を走らせながら、冷静に声を出した。

「各部異常なし。燃料ポンプ作動、点火まで後十秒……」

「キャメル・ナンバー3、離陸準備良し。客室案内発令」

 その直後、柔らかい女性の声が客室に流れた。

 おなじみの、座席の着席と固定アームの装着を確認する、アナウンスだった。この時代、発熱するタイプのシガーを、公共の乗り物で喰わえることは、マナー以上のルール違反だった。そのため、喫煙の注意は必要なかった。

 コータは、自分の腰の下の方で、大きな衝撃を感じて少し驚いた。

 予めアナウンスやスチュワーデスの注意があったので、それが水素ロケット・エンジンの点火ショックだとはわかっていた。わかっていても、驚いてしまうものは、驚いてしまうのだった。

『乗客のみなさん、大変長らくお待たせいたしました。全システム異常なし。これより、キャメル・ナンバー3は衛星軌道上のステーション・オアシスに向け、離陸いたします』

 少し気取った男性のアナウンスが、機長のそれであることは、コータ達三人にはすぐに理解できた。

 その直後、突然ガクンという軽い衝撃がコータを襲った。

 エンジン出力の上昇から、機体が動き始めるのを押えていたブレーキが、解除されたことをその衝撃が教えてくれた。コータ達以外の乗客で、三十名ほどの客室はほぼ満員だったが、この衝撃をコータのように不安な表情で受けとめた人は、ほとんどいなかった。

 大気圏外航空機で軌道ステーションに向かう乗客は、今のところよほどの金持ちか有名人。ほとんどは、軌道開発計画の関係者かその家族で占められていた。定期航路が開けたとはいえ、気軽な宇宙観光はまだまだ難しい時代だった。

 じれったいほどゆっくりと、巨大なスペース・クラフトは前進を始めた。エア・クラフトに比べはるかに長い滑走路を、スペース・クラフトは重そうに走り始めた。

 加速が始まると、あとは一気だった。たちまち、コータは自分の体が少し固いくらいの自分の座席に、喰い込むのを感じた。乗客達のほとんどは、口を開いていなかった。さらに何人かは、歯を喰いしばっていたが、コータもその一人だった。

 数分後には、キャメル・ナンバー3は地球を半周して、大気圏離脱速度に達しようとしていた。コクピットでは、ようやく機長達が離陸の緊張から解放されたところだった。

実際のところ、ほぼ完全に自動操縦で機長達のすることなど、ジェシカの言葉ではないが、ほとんど無いと言ってもいい。それでも、離陸が航空機にとって、最も緊張する瞬間であることに変わりはなかった。

 言わばこれからが、機長達クルーにとって本当の意味での、腕の見せどころだった。

 単純に地表を移動する手段としてなら、エア・クラフトの速度で充分だった。スペース・クラフトでは加速している間に、簡単に地球を一周してしまう。大気圏外航空機の本領は、衛星軌道上を周回する衛星ステーションとドッキングすることで、始めて発揮されるのだった。

 航空機というヤツは、すべからくそうなのだが、離陸よりも着陸。特にこの場合は、軌道ステーションとのドッキングの方が、遥かに重要でかつ困難だった。

「大気圏離脱速度到達まで、後五秒。四・三・二……」

 大柄な女性副操縦士のカウント・ダウンを、セレイアス機長は冷静に聞いていた。

 二人の目の前の数字やメーターは、すべての動作が順調であることを示していた。

「大気圏離脱速度到達。大気圏離脱まで、後三十秒!」

 機長が確認し、エンジン出力をコントロールするスロットル・レバーに手を掛けた。

 万が一、エンジンなどに異常が発生した時。機長がそのレバーの解除ボタンを押しレバーを握ると、操縦を自動から人力に、つまりオートからマニュアルに切り替えることができた。

 大気圏離脱時の計算ミスは、機体を宇宙の彼方に送り出すことも可能にした。いかに、コンピューターの計算が正確とわかっていても、人間として緊張するなという方が無理だった。

 操縦する小柄な男性と大柄な女性にとって、長い三十秒が過ぎた。

「大気圏離脱。これより、コントロールを地上より、軌道ステーション・オアシスに切り替えます」

 モニカ副操縦士の声に、どこかホッとした響きを感じることができたのは、多分思い過ごしではなかっただろう。

「了解、エンジン停止。逆推進準備確認……」

 セレイアス機長も、一呼吸置くとモニターを確認して、そっとスロットル・レバーから手を離した。

 その瞬間だった。けたたましい警報が鳴り響き、目の前のすべての表示が非常事態を示す赤に変わった。

「なッ!なんだァ!!」

 セレイアス機長には、まったく状況がわかなかった。

 モニカ副操縦士は、冷静に通信装置に向かって呼びかけた。

「軌道ステーション・オアシス。オアシスの管制センター、聞こえますか?こちらキャメル・ナンバー3、非常事態発生。ステーション・オアシス、こちらキャメル・ナンバー3!応答願います!」

 しかし、彼女の冷静で的確な呼掛けにも、スピーカーからの反応はまるでなかった。

 通信装置は、まるで初めから作動していなかったかのように、沈黙した。

「どうなっているんだ?いったい!」

 あらゆる非常事態に対処する訓練を受けた機長にも、今ここで起こっている状態は理解できなかった。

 すべての表示が非常事態を告げ、そしてあらゆる機能が沈黙していた。

 窓の外を見ると、暗い宇宙空間に星が流れ、青い地球の大気がかなりの速度で後方に流れていた。そのことだけが、キャメル・ナンバー3が現在も慣性の法則で、速度を落さずに飛び続けていることを示していた。

『我が名はジョウガ。闇を支配するもの……我が領域に踏み込みし、か弱き羽虫よ。そのはかない命脈が、我が手の内にあることを理解せよ……』

 突然、すべての機能が回復すると奇妙な抑揚の言葉が、機内のあらゆるスピーカーから流れた。

 

 

    遭難

 

 奇妙な声と、元の状態に戻ったコクピットの操作パネルを前にして、機長と副操縦士は顔を見合わせた。

 確かに、非常事態は解除されていた。だが、そこに表示されている数字や記号は、どれも彼らが承知しているものとはまるで違っていた。

「くそッ!外部からコントロールされているんだ!!オート・パイロットが解除できないッ!!」

 様々な操作を行なった末、目の前の操作盤を叩くようにして、機長が叫んだ。

 このような事態になっても、体格のいい副操縦士は冷静だった。

「地上からステーションへの、コントロール切り替えの瞬間を狙われたようです。元々、外部からコントロールされるようにできているんですから、内部のマニュアル操作さえブロックすれば、こうなりますね」

 落ち着いているだけに、モニカ副操縦士の言葉には、皮肉な意味合いが感じられた。

 セレイアス機長は、目の前の操作盤を乱暴に叩いた。ただ、それがほとんど重要な操作には無関係な部分であったことを、女性副操縦士は目の端で確認していた。彼女はこの緊急事態に、自分の上司が一応冷静であることに、心の中でホッとしていた。

 そんな隣り座る女性の微妙な心理など、ほとんど気付いていない機長は、乱暴な口調で自分のストレスを吐き出した。

「完全オート・パイロットが裏目に出たって訳か……なってこった!だから機械任せは好きじゃないんだ!これじゃ、あのお嬢ちゃんに笑われても、仕方がないじゃないか!!」

 不本意な形ながら機長に誉められたことなど、知るはずもない少女は、あの奇妙なアナウンスをキョトンとした表情で聞いていた。

「ジョウガってなに?今の、どういうこと?」

 幼い自分の被保護者の質問に、どういう風に答えたものが、さすがに一流の保母も戸惑っていた。

 磁力ブーツを履いて慌ただしく行き交う、スチュワードとスチュワーデスの顔色は、とても普通の状態と言えないことを表わしていた。軽々しく、気休めの言葉で誤魔化すべきでないと、マリコは判断した。

「どうやら、オアシスに着くのが遅れるということみたいね」

 黒髪の女性の努めて落ち着いた、どちらかと言うと他人事のような言葉に、コータの方が少々驚いていた。

 疑惑で一杯に見開かれた目で、自分を見つめている黒髪の少年に気付いたマリコは、なるべく自然な微笑みが浮かぶように努力した。

「何事もなければ、もうオアシスとの接触時間が放送されてもいい頃よ。それに、機体が減速した形跡がないわ……」

「何かの事故が起こったと?」

 情けないことにコータは、自分の語尾が震えていることを自覚した。

 マリコはもう一度、何とか微笑みを作ると、深刻な意見をなるべく平静な口調で言った。

「事故なら問題ないわ。ステーションからの救援を、待てばいいのよ。でも、さっきの放送。機長の冗談にしては、タチが悪いわね……」

 自分の保護者の言葉に、少女が不思議そうな視線を向けた時、再び不気味なアナウンスがスピーカーから流れた。

 この放送を止めようとした乗務員のあらゆる努力は、徒労に終わった。

『我が名はジョウガ。闇を支配するもの……我が領域を荒す不届きな羽虫よ。我が力の偉大さと、そなた達の無力を証明するため、あえて生かしおく。もっとも、我が力に対するあらゆる反抗は無意味である。その羽虫は、現在我が意のままにある。大人しく、そのまま我が意に従うべし……』

 機械的な、奇妙な抑揚の付いたその声は、女性のもののようでも、甲高い男性のもののようでもあった。

 さすがに、ことここに至って、乗客達がざわめき始めた。

 既に極低重量、いわゆる無重量状態に入っていた。座席の固定アームを外せば、簡単に体は浮き上がった。

 他の乗客が、次々と無作法にも座席の上を飛び交い、深刻だが余り建設的でない話題を、頭の上で声高に喚き合った。その中で、マリコは二人の被保護者を座席から出ないように、目で言い聞かせていた。

 やがて、乗客席の通路に襟元を正した機長の姿が現われた。

「どうかみなさん。落ち着いて、まず座席にお戻りになって、固定アームをセットなさって下さい」

 自己紹介に続く機長の言葉に、何人かの乗客が声を上げた。

 機長は、辛抱強く落ち着いた声で、何回か同じ言葉を繰り返した。

「まず、みなさんに申し上げます。既に事前にご承知の通り、このスペース・クラフトは現在の人類の英知の結晶であり、科学力の集大成であります。定期航路に就航させるに当たって、その安全性が経済効果を無視したものであるという議論が、真剣に為されたほどの機体であります。現在のところ、地球上で最も安全な乗り物であることは、世界中の科学者や専門家が保証しております」

 ここで言葉を切ると、小柄なセレイアス機長は客室全体を見渡した。

 相変わらず、不安不満気な表情は少なくなかったが、とりあえず慌てて狼狽え騒ぐという状況ではなくなっていた。それを確認して、機長は再び口を開いた。

「残念ながら、現在このキャメル・ナンバー3は、我々のコントロール下にありません」

 一斉にざわめきが起こった。

 どういうことだと、怒声を上げる男の人もいた。

 その中で、窓際に座った少女は何が不思議だと言わんばかりの口調で、大きな赤いリボンを左右に振った。

「何言ってのよ。元々、自分達がコントロールしていた訳じゃないでしょう」

 その声をたしなめるように、マリコが低い声で言った。

「地上とステーションのコントロールを、受け付けなくなったということでしょう。恐らく、非常用のマニュアル操作も作動しないのね」

「どういうことですか?」

 辛うじて震えるのを我慢しながら、少年は自分と同じ黒い髪の若い女性に尋ねた。

 そんなコータの頭を、マリコは優しく撫でた。

「静かにして、今、機長さんが説明するわ」

 そのマリコの言葉が終わらない内に、機長はもう一度、客席が静まるのを待って口を開いた。

「現在、まことに残念なことですが、このキャメル・ナンバー3は何者かの手によって、外部からコントロールされています」

 今度こそ、激しく客席がざわめいた。

 そのざわめきを、予め要所要所に控えていたスチュワードやスチュワーデスが、懸命に静めた。

 この段取りと準備のために、慌ただしく行き交っていたのか。コータは胸の内で納得した。少なくとも、乗務員達は自分達の職務を忠実に、冷静にこなしている。そう確信した彼は、少し落ち着いたような気がした。

 そうなってみると、さすがに国際免許を持つナニーだけのことはある。若い女性でありながら、マリコは他の大人達に比べて常に冷静で、ずっと落ち着いていた。

 これは、こういう事態になった以上、相当運がいいぞ。横目で隣りに座る女性を見上げながら、コータは頷いていた。育ちのせいか、彼は与えられた状況を素直に受け入れることに、比較的困難が少なかった。

 ようやく、客席がもう一度、機長の話を聞こうという雰囲気になった。セレイアス機長は一つ咳払いをすると、さらに話を続けた。

「不法にも、強引に外部からこの機体をコントロールしているものは、みなさんもお聞きになったことと思いますが、ジョウガと名乗っております。このジョウガなるものが、何者で、何を目的に本機のコントロールを乗っ取ったのか、今のところハッキリ致しません。しかし、みなさん、どうか御安心下さい。既に正規の軌道を離れて漂流を始めた本機の所在は、確実に地上とオアシスの管制センターにキャッチされています。ほどなく、救援機が状況の確認に向かうはずです。どうか、落ち着いて乗務員の指示に従い、救出をお待ち下さい。ちなみに、念のために申し上げておきますが、本機には皆様全員の三週間分に当たる食料と水が積み込まれております。また燃料は、もう一度地上と往復しても余るほどの余裕があります。どうか、この機体の安全性と、地上と宇宙からの救援を信じて、この困難を共に乗り切るようお願い申し上げます」

 完璧な説明であり、演説だった。

 少なくともこの時点で、機長の言動に対して異論を差し挟むことは、論理的には不可能に思えた。もちろん、感情的にはいくらでも文句が付けられたし、実際何人かの大人は機長に詰め寄った。

 しかし、その大人げない行為は、他の大人達によって結局はたしなめられて終わった。

「コンロンだと!?」

 コクピットに戻った機長を待っていた報告は、彼の予想を大きく裏切っていた。

 今や完全に、自分達の意志とは無関係な表示を続ける、モニター類を指差しながらモニカは、戻って来た機長に自分の分析を説明した。

「ええ、すべての座標、数値がこの機の行方をそこだと示しています」

「コンロンは、確かまだ初期建設も終わっていなかったはずだが?」

 コンロンとは、アジア・オセアニア共同体が建設を初めた、三番目の軌道基地だった。

 その大きさは、一時代前にスペース・コロニーと呼ばれていたものと、ほぼ同程度の規模が予定されていた。完成すれば軌道基地としてはもちろん、単体の人工建築物としても人類史上最大級のものとなることは、まず間違いはなかった。

 この軌道開発計画は、さまざまな政治的経済的、そして科学的駆引きと取り引きの産物として、ようやく現在の形に落ち着いていた。それまでには幾多の挫折と、計画の変更。そして、大事にはならないまでも、争いがあった。

 何度か潰れかけたこの計画を、政治経済の協力関係が比較的良好だった南北アメリカ大陸諸国と、日本だけが細々と続けた。その中心にあって、計画を推進したのが当時としては若手の宇宙工学者、ゴドワナ教授だった。言うまでもなく、彼はジェシカの父親でもあった。

 ゴドワナ教授の指導力と、斬新な宇宙工学理論の確立もあって、人類初の宇宙ステーションが、大規模な軌道ステーションに生まれ変わった。この軌道ステーションの特徴は、常に月と地球との中間点に位置することだった。

 オアシスと名付けられた軌道ステーションの成功で、アメリカ大陸諸国と日本は、月面開発に非常に有利な立場となった。それを見て、各国も何とか政治経済態勢の折り合いを付けると、次々と新たな国際協力関係をもって、宇宙に進出した。

 軌道開発と呼ばれたその計画は、すべてオアシスを完成させたゴドワナ教授の青写真に従っていた。好むと好まざるとに関わらず、それが最も優れた計画だということを、世界中が認めた結果だった。

 その計画に基づき、第二軌道基地としてオアシスの三倍に近い規模を持つオリンポスが、ヨーロッパ連合によって建設された。この建設を可能にしたのが、後にアメリカ大陸機構となる南北アメリカ大陸諸国の連合と、日本による月面の資源開発だった。

 ほとんどの資材は、月面で産出された原材料を、月面基地及びオアシスで加工されたものを用いた。後は、それらの資材をオリンポスを建設する軌道に運び、組み立てれば良いだけだった。

 一度、月と地球の中継基地ができてしまうと、手間も経費も驚くほど少なくて済むことが、この基地の建設によって証明された。それが月面基地とオアシスを建設した、アメリカ大陸機構と日本に、莫大な利益をもたらしたことは言うまでもなかった。

 現在、オリンポスはその七割が完成し、ちょうど半分の機能が稼働を始めていた。ちなみに最初のオアシスは、リングをいくつも重ねたような古典的なデザインで、遠目には球形に見える形をしていた。それに対して、オリンポスはちょうど二つのピラミッドの底を合わせたような、少し縦長な十二面体の形となってた。

 これら先行の二つの基地に比べて、アジア・オセアニア共同体とアフリカ同盟が計画した軌道基地は、その大きさも形も大きく異なっていた。先行する二つの国際勢力に対して、大きく遅れを取っていることも、この大きさに踏み切らせた理由になっていた。

コンロンと名付けられたその基地は、細長い円筒形の支柱が中心となっていた。その周囲に、扇状に何枚ものプレートを広げ、それを次々と連結し、最終的には強大な円形のプレートが完成するはずだった。そして、そんな円形のプレートが何枚も重なりあって、最後には宇宙に浮かぶ、巨大な円筒形の高層ビルのようになる予定だった。

 今のところはまだ支柱が半分ほどと、何枚かの扇状のプレートが広がった程度しか、建設は進んでいないはずだった。その格好は、ちょうど壊れた傘を開いた状態に、似ていなくもなかった。

 三人の中で、その奇妙な形の人工の建造物を星空の彼方に、最初に見つけのはマリコだった。

「コンロンだわ……」

 窓の外を見つめ続ける、栗色の髪と大きな赤いリボンの頭越しに、黒髪の女性は同じように星の光を見つめながら、独り言のように呟いた。

 コータはその小さな声に、マリコの顔を見上げた。

「コンロン?というと、あの三番目の軌道基地ですか?」

「ええ、最後にして最大……もっとも、まだ作り初めで不格好だけど」

 その頃になると、近付く建設初期段階の人工建造物に、他の乗客の何人かも気付いたらしい。

 客室内に、穏やかなざわめきが広がった。マリコが気付くとほぼ同時に、彼らも自分達の行く手にあるものが何なのか、理解するのは早かったようだ。

「もし、コンロンだとすると……」

 コータは頭の中で、軌道開発計画に対する事前の知識を再確認していた。

「月とは、反対側ってことですよね」

 少年の推測は、他の多くの乗客と同じだった。

 さすがに、目的地と正反対の方向に連れて行かれるという事態は、落ち着いていた大人達のざわめきを大きくした。

「御名答。コンロンは、別名を第二の月。またの名を闇の月……そうか、それでジョウガってことなのね。これで、西王母や蚩尤が出てきたら、とんだ京劇スペクタクルだわ」

「セイオウボ、シユウ?なーにそれ?」

 自分の頭越しに外を眺める若い女性の独り言に、好奇心旺盛な少女が尋ねた。

 自分が、そんな言葉を口にしていた自覚の無かったマリコは、少し驚いたような顔をしながら、優しい微笑みを浮かべた。

「古代中国神話の登場人物よ。コンロンというのは、本来その世界で神々の住む山のこと言うのよ」

「では、ジョウガというのも?」

 優秀な保護者の知識に、改めて驚きながら黒い瞳の少年も尋ねた。

 同じ黒い瞳の女性は、やれやれと肩をすくめながら頷いて見せた。

「ジョウガと言われた時はピンと来なかったけど、行く先がコンロンとなると話は早いわ。たぶん、同じ中国の古代神話に登場する女性の名前よ。崑崙に住むという最高の女神、西王母から不老不死の妙薬を盗んで月に逃げたというのが、その嫦娥<ジョウガ>という女性なの。あッ、あなた漢字はわかるかしら?」

 そう聞かれたコータは、多少自信無さそうに頷いた。

 彼の父親は生粋の日本人だが、その父親はそもそも息子に対する教育というものを、早々に放棄していた。この時代の、資産階級や上流階級の常識として、コータも数カ国語を習っていて、その一つに確かに日本語も含まれてはいた。しかし、彼の父親を以前よりはマシにしろ、それほど好いているとは言えない祖父は、孫の日本語教育に熱心という訳ではなかった。

 マリコは客席に備え付けのメモ用紙とペンで、簡単に崑崙や西王母、それに嫦娥という文字を書いて見せた。無重力に対応した備品を用意しておくことは、世界初の旅客用大気圏外航空機としては、当然のサービスだったのだろう。

「西王母以外は、生粋の日本人でも難しいものね、中国人ならどうかわからないけど……」

 漢字が読めなくて悲し気な表情の少年に、国際保母は慰めるように言った。

 そのメモを上から覗き込んだジェシカは、その文字を見ながらマリコに尋ねた。

「その嫦娥って名前を、この飛行機の乗っ取り犯は名乗っている訳?あたしはまた、ジョーカーが訛っているのかと思ったわ」

 この時、ジェシカは初めて乗っ取りという言葉を使った。

 実際に飛行機の中に犯人がいるかどうかは不明だが、これが事実上の乗っ取りであることに、マリコもコータも異存はなかった。

「どうでしょうね?この嫦娥という女性が、月に逃げて不老不死となったという伝説から、この名前は月そのものを差す場合もあるの。そして、月といえば夜の支配者、つまり闇を支配するものの代表でしょう?古今東西を問わず……」

 マリコの説明に、コータは先ほどの不気味な声を思い出していた。

 確かに、その声は自分を闇を支配するものだと言っていた。

「オマケに、だんだん近付いて来る第三軌道基地コンロンのことを、建設当事者であるアジア・オセアニアの人達は、第二の月とか裏の月と呼んでいるそうよ」

 その話は、コータも聞いたことがあった。

 月面開発で完全に遅れを取ったこともあって、アジア・オセアニアそれにアフリカには、コンロンを第二の月と位置付けてる人達もいた。ちょうど、コンロンが地球に対して月の真反対にあることから、同じような意味で裏の月という呼び名も、使われているようだった。

「二番目の月の名前が崑崙で、そこに案内するの嫦娥というのは、中国の古代神話を知っている人にとっては、悪い冗談ね」

「悪い、冗談ですか?」

 マリコの口調に、不安なものを感じてコータは顔を上げた。

 極低重量状態で、たなびくように流れる長い黒髪を軽く手で押えて、マリコは少し困ったように笑った。

「嫦娥は崑崙から逃げて、月に行ったのよ。その嫦娥が崑崙に戻るというのなら、余り穏やかな話にはなりそうにないでしょう?」

 この時、この瞬間だけ、マリコ・キリュウは国際保母の顔から、本来の自分に戻ったようだった。

 自分の保護を受ける少年と少女が、少し戸惑ったような表情で、自分を見上げていることに、彼女が気付くのに時間は掛からなかった。さり気なく、その嫌味な表情を隠すと、マリコは二人の子供を両手に抱いた。

「大丈夫。建設中だって、コンロンには大勢の人がいるわ。犯人が何者でも、この飛行機はともかく、あんな巨大な軌道基地を乗っ取ることは不可能よ。こんなところを、こんなに大きなスペース・クラフトが飛んでいればすぐに気が付いて、なんとかしてくれるわ」

 彼女の明るい声に励まされて、コータは思わず微笑んでいた。

 そして、同じように若い女性に抱かれている少女と、偶然目が合った。

 最初から、妙にコータに反発的だったジェシカも、この時は嬉しそうに微笑んでいた。その空色の明るい瞳を見て、コータは思わず本当に嬉しくなっていた。

 しかし、少女の方はそんな少年の無邪気な黒い瞳を見て、自分が余計な笑顔を作っていたことに気が付いたのか、プイと横を向いてしまった。どうやら、本気で嫌われたらしい。それまで自覚の乏しかったコータも、今度ばかりはそう思うしかなかった。

 少年にとっては、未知の軌道基地に連れて行かれようとしている現実よりも、少女に嫌われているという事実の方が、心に重いものがあった。しかも、なぜそれほどまでに自分が嫌われるのか、彼にはまるで見当が付かなかった。

 少女に対してあれこれと悩む内に、コータは目の前の現実的な不安から、自然と逃れることができた。面白いことに、それは少女にとっても同じだったらしい。

 自分を、そうとう大人びていると自覚する栗色の髪の少女は、黒い瞳の少年に対する自分の子供っぽい反発に、自分自身で戸惑っていた。もっとも、彼女には、その反発の原因が保護者であるマリコに対する嫉妬だとは、理解できていた。その点が、彼女より年上の少年と異なるところだった。

「なぜだ!なぜ、コンロンは我々を受け入れる!?」

 巨大な扇状の、プレートとプレートに挟まれた格好の、史上最大のスペース・ポートから誘導電波を受けて、機長は叫んでいた。

 どこの国の施設でも、乗っ取られた航空機の乗入れには慎重を期す。それは、地上も宇宙も同じはずだった。

 それとも、通信がブロックされていて知る術もないが、乗っ取り犯とコンロンの管制センターとの間に、何かの取り引きが成立したのか?機長は、最小限差障りのない部分で、何度もその操作パネルを叩いた。

 その力が次第に強くなることに、隣りの席の女性副操縦士は懸念の表情を示していたが、口にはしなかった。

 完全な自動操縦と誘導で、無言の内にスペース・クラフトは、建設中の軌道基地の内部へと吸い込まれて行った。この基地には最新で、しかも最大のドッキング・ポートがあり、巨大な大気圏外航空機を易々と飲み込むことができた。

 もし、こういう事態で無ければ、複雑なプロセスを必要とはしないこのドッキングの在り方に、機長は時代の流れを感じていただろう。だが、この場合では、このように安易にドッキングできることが、機長にはただ忌々しいだけだった。

 機体はほとんど揺れもなく、衝撃もなく、フライト・デッキに横付けされた。そして、伸びて来たタラップは、憎らしいほど正確に、キャメル・ナンバー3の、すべての乗降口に重なった。

「機体ロック完了。完全に固定されました……」

 本来なら、安堵感と共に口にされるはずの言葉を、副操縦士のモニカは、冷静でありながらも緊張感を漂わせながら言った。

「エンジン停止、確認。ちぇッ、これで完全に篭の鳥って訳か……」

 まったく自分達の手を離れたまま、次々と勝手にその機能を停止して行くモニターや数値画面の表示を見ながら、セレイアス機長は嘆いた。

 それは、今まで驚いたり喚いたりしていた時の、彼の口調と明らかに異なっていた。不思議そうな表情を、隣りの席の女性副操縦士は、自分よりも小柄な機長に向けていた。

「モニカ、我々には乗客を無事に目的地まで届けるという、最終的な義務と責任がある」

 機長の言葉に、副操縦士はただ頷くだけだった。

 完全に画面が消えてしまった表示盤を見つめながら、機長は固い表情のまま続けた。

「これから、何が出て来るのか、何が起こるのかわからんが、乗客に対する最終的な判断の責任は俺にある。そして、俺に何かあった場合……」

 ここで言葉を切ると、機長は副操縦士にゆっくりと視線を向けた。

 副操縦士は、その視線をまっすぐに見つめ返した。そんな相手の堂々とした態度に、機長はようやく少し頬を緩めた。

「俺に何かあったら、後は、君が何とか乗客を送り届けてくれ」

 機長は、そう言うと軽く相手に向かって頭を下げた。

 そんな男性機長の態度に、女性副操縦士は小さく首を振った。

「もしもの場合の処置は、了解しています。でも、乗客に対する最終的な義務と責任は、機長、あなたにあります。どうか、くれぐれも軽はずみな行動はお慎み下さい」

 場合によっては、乗っ取り犯と刺し違えても、乗客を救おうという機長の覚悟を、女性副操縦士は見抜いているようだった。

 相手よりは小柄な機長が、少し肩をすくめてみせた。彼は、自分の部下が今回初めて、頼もしく思えた気がしていた。

『我が名はジョウガ、乗員及び乗客に告げる。これより三十分後に、その羽虫から空気を放出する。命が惜しければ、速やかにタラップより基地内部に移動せよ。なお、移動先は通路内の電光掲示に従うべし……』

 不気味な声のアナウンス通りにすることしか、パーサーを初め乗務員にできることはなかった。

 機長の指示もあって、スチュワードとスチュワーデスは、次々と接続したタラップに通じる乗降口を開けた。

 一部の乗客が恐れた、空気の流出はなかった。ドッキング・ポートのシステムは完全に作動し、空気圧も濃度も機内とほぼ同じ状態に保たれていた。

 ただ奇妙なのは、機長を始め多くの乗客が予想したのと異なり、ドアの外にはまったく人影が無かった。遠隔操作で彼らをここまで連れて来た犯人は、ことここに至っても、まったくその姿を見せようとしなかった。

 しかし、機体内部の空気を抜かれると脅されている以上、彼らにはその指示に従うほかなかった。

「姿無き乗っ取り犯という訳ね。ジョウガさんとやら、私達をどうする気かしら?」

 他の乗客に続いて、その両手でコータとジェシカの手をしっかりと握りながら、マリコは呟いていた。

「この基地の人達はどうしたの?なぜ、誰もいないの?」

 空色の瞳で見返す少女の問いに、マリコは答えられなかった。

 コータがその疑問を引き継ぐ形で、答えやすい素朴な質問を口にした。

「このコンロンには、どの位の人が活動しているんですか?」

「詳しいことは知らないけど、初期の建設段階とは言っても、これだけの規模でしょう……四、五千人はいるんじゃないかしら?」

 マリコの返事に、コータは深刻な表情で考え込んだ。

 いくらなんでも、それだけの人々がすべて乗っ取り犯に荷担しているとは思えない。かと言って、それだけの人数を動けなくすることが、果して乗っ取り犯に可能なのだろうか?嫌な予感が、少年の脳裏をかすめていた。

 フライト・デッキからは、フライト・カウンターのある乗降ロビーに、直接でることができた。そこで、人々は驚きの声を上げた。

 本来、フライト・カウンターはいわゆる入国審査、つまり基地に立ち入る許可を最終的に受ける場所だった。荷物などもここで受け取るのは、地球をエア・クラフトで旅行する時と同じだった。

 その受け付けカウンターの上部に、降りて来た乗客に対する、様々なメッセージを表示する電光パネルが並んでいた。誰もいないカウンターの上部で、その電光表示だけが明るい色で発光しながら、全員を出迎えたのだ。

「電光表示の指示に従えとは、このことだったのか……」

 機長は唇を噛んだ。

 そこには乗客の名前と、その行く先がすべて表示されていた。念が行っているのは、機長達乗務員の名前も完全に含まれていることだった。

 御丁寧にも、機長達乗務員は全員が数人の乗客と共に、バラバラのグループに振り分けられていた。

「完全に、分散させる気ですね。ここまで準備されているとなると、ヘタに抵抗しない方が良いと思いますが?」

 副操縦士は、小さな声でそう機長の耳元に聶いた。

 状況が状況で無ければ、それは大柄な女性が小柄な男性に愛を告げているように、見えないではない光景だった。

 しかし、そんなロマンチックな気分とは正反対の立場にいる機長は、その顔に苦渋を浮かべていた。

「へぇーッ、僕達は機長さんと一緒だよ」

 表示を見つめていたコータは、他の大人達とは違って、そこに記されている内容を素直に読み取っていた。

 さすがにマリコは、そこまで無邪気ではいられなかったが、とりあえず自分が子供達と一緒だということで、ホッとしていた。

「仕方が無い、指示に、従おう……」

 モニカにとっては、無限のような沈黙の後にセレイアスはそう呟いた。

 実際には、機長が決断するまでの時間は、それほど長いものではなかった。相手もそれを意識したのか、どのグループにも必ず一人は乗務員が割り当てられていることも、機長の決断を容易にした。

 セレイアスは、少し力なく肩をすくめると、モニカに乗員と乗客の手配を頼んだ。

 手早くグループ分けが済むと、乗客と乗員達はそれぞれ指定されたチューブ・カプセルの乗り場へと移動した。これは、建物の中を張り巡らされた管の中を、真空ポンプの要領で移動する乗り物だった。衛星軌道に浮かぶほぼ無重力の巨大な建物の中を、高速で移動するためには、この種の乗り物がどうしても必要だった。

 コンロンのチューブ・カプセルは、その規模にふさわしく最大四十人まで乗り込める、ほとんど列車並みの設備だった。恐らく、建物が完成したあかつきには、本当にいくつかのカプセルを連結して、列車として運行する計画なのだろう。

 残念ながら、電光表示は各グループの乗り込むべきカプセルだけを指定し、その行き先は示していなかった。いったい、この史上最大の人工建造物のどこに連れて行かれるのか?乗客と乗員に不安が無いと言えば、完全に嘘だった。

 しかし、自分達に現状の選択権が無いことは、明らかだった。黙々と、人々は指定されたカプセルに乗り込んだ。

 四人が乗り込むと、カプセルのドアは自動的に閉まり、静かに動き始めた。カプセルの周囲を完全に密封するチューブは、観光のためなのか、乗客の心理的不安を取り除くためなのか、透明な材質で作られていた。そのため、乗り物の窓からは、建設中の軌道基地の様子がよく見えた。

 ほとんど振動や衝撃を感じさせることなく、カプセルは速度を上げて行った。ドッキング・ポートのプラット・ホームは瞬く間に、後方に消えて行った。これから先どこに行くのか、ここにいる人間に知る術はなかった。

 プラット・ホームの周辺は、ほぼ実用に問題のない状態に整備されていたが、ドッキング・ポートの外はまだまだ建設の途中だった。チューブの周囲には、無骨な建築用資材が剥き出しで並んでいた。

 金属や樹脂で作られたそれらの骨組みは、まるで奇妙な前衛芸術作品のように、暗い星空を背景に浮かんでいた。カプセルの窓と透明な壁の向こうに、どこまでも広がる建設中の軌道基地の光景は、その大きさが余計に荒涼とした印象を見る者に与えた。

 そんな景色を眺めながら、セレイアス機長はため息混じりに、マリコに言った。

「認めたくありませんが、これまでのところは完敗ですね。実に良く考えられている」

 機長の率直な言葉に、国際資格の保母は両脇の子供達を抱きしめながら、冷静に答えた。

「建設途中、いえ始まったばかりの基地というところが、ポイントですね。いくら数や種類を正確に把握したとしても、何千人という人間は、その数だけで驚異になります。不測の事態も発生しやすいし、対処も難しいでしょう」

 コータは、自分と同じ瞳の色をした若い女性の落ち着いた態度に、すっかり安心してしまっていた。

 彼はその黒い瞳を動かすと、そっと向こう側の少女を見た。空色の瞳の少女は、その瞳を外の景色に向けながら、まるで無表情だった。怯えるでもなく興奮するでもなく、ちょうど面白くもない学校の課外授業に仕方なく参加する、どこにでもいそうな優等生に見えた。

 コータには不思議だった。この栗色の髪の少女には、この状況に動揺するということがないのだろうか?それとも、そういう感情を表に現わさない娘なのだろうか?

 小さく、コータは首を振った。自分が柄にもなく他人に、それも年下の少女に興味を持つなんて、どうかしている。彼は改めて、視線を大人達に向けた。

「それにしても、工事関係者はどこへ行ってしまったんでしょうな?まるで、最初から誰もいなかったみたいだ」

 周囲の景色を見つめながら、セレイアスは首をかしげながら言った。

 この場の雰囲気を取り繕う手段として、機長は正直に自分の感想を口にしていた。こういう場合、状況を無視した世間話は返って緊張を高めることが多い。

 また、むやみにこれから先のことを考えても、不安を高める結果にしかならない。それよりも、過去のことを題材に現状を考える方が、建設的であると同時に、精神を安定させる効果がある。果して、そこまで機長が考えていたかどうかはともかく、話題としては適当だった。

 少し考えて、マリコは自分の言葉が不安を与えないかどうか、確かめるように左右の子供達を見た。

 コータは、相手と同じ色の瞳に、その信頼感を込めたつもりだった。その視線に、機長が子供にはもったいないと思うような微笑みで、若い女性は応えた。

 もう一人の少女は、ツンと顔を上げるとその視線を外した。その態度に、自分は関係無いという意志を感じることは、コータにすら容易だった。黒髪の女性は、そんな自分の被保護者の態度に、今度は苦笑で応えた。

 そして、再び視線を機長に戻すと、ゆっくりと考えるように言った。

「機長さん、機体が乗っ取られたのは、外部コントロールが切り替わる、一瞬の空白を突かれたんでしたね?」

 二人の子供の保護者の質問が、セレイアス機長には少し意外だったが、軽く頷くとそれを認めた。

「でしたら、同じことがこの基地に起きたとしても、不思議ではないでしょう?」

 マリコの言葉に今度こそ、機長は驚いた。

 彼は振り返ると、長い黒髪の若い女性を、マジマジと見つめた。

「外部から、基地のコントロールが乗っ取られたと、おっしゃるのですか?」

 言葉は丁寧だったが、口調の中にそれは有り得無いだろうという雰囲気が、にじみ出ていた。

髪と同じ色の瞳を、外に広がる作りかけの構造物の群れに向けながら、若い女性は夢見るように口を開いた。

「完成した。あるいは、完成間近の軌道基地のコントロールは、それこそ一つや二つではないでしょう……」

「当然でしょうな。スペース・クラフト風情とは比べものにならないほど、保安基準は厳重なはずです」

 大気圏外航空機の機長として、自嘲に満ちた言葉だった。

 マリコはフッと小さく微笑むと、ワザと機長のその言葉を無視したように、コータには思えた。

「ですが、建設が始まって間もない、このコンロンのコントロールならばどうでしょう?確か、この基地の基本機能は最近完成したばかりと聞きましたが……」

 若い女性は、改めてその黒い瞳を、真面目に機長に向けた。

 今度はセレイアスも、その言葉を軽く受け流そうとはしなかった。

「言われてみれば確かに……この基地のドッキング・ポートが、航路マップに登録されたのは、つい最近です。ということは、この基地が最低限の機能を確保して、正式に軌道基地と稼働を始めたという証明でしょう。ですが、いくらなんでも、外部からコントロールを乗っ取られる何てことは……」

 機長はマリコの意見を、決して頭から無視しているのではなかった。

 彼なりに考えながら、それでも納得できないものを感じて、率直にそのことを口にしていた。これは宇宙飛行の専門家が、素人に対する態度としては、実に謙虚な姿勢だった。

 残念なことに、彼のこの謙虚な姿勢を評価してくれる可能性があるのは、この中には一人しか考えられなかった。ただ、機長自身に問えば、自分を評価してくれるのが黒髪の若い女性だけだというなら、それで充分だと答えただろう。

 ところが、内気で余り感情を表に出さない黒い瞳の少年は、大人達のそういう微妙な態度にかなり敏感だった。それは、彼が大人ばかりの環境で育ったことが、大きな原因だった。特に、老年と言っていい祖父が権力を握る家で成長したことは、少なからず彼の性格に影響していた。

 この少し小柄な、そしてちょっと軽薄だと思っていた機長に対して、コータはそれまでとは違う信頼感を抱き始めていた。

「ドッキング・ポートからここまで、かれこれ二十分。まったく人影が無いこと、おかしいとはお思いになりません?」

「それは、確かに……」

 若い女性の少し挑発的な口調に、機長は苦笑するしかなかった。

 機長の態度に、コータと同様信頼に足るものを感じたのか、黒髪の女性は再び視線を外に向けながら、大胆な意見を口にした。

「もしかすると、この基地には私達以外の人間が、いないのかも知れませんわ」

「何ですって!?」

 さすがに、今度は機長も顔色と口調を変えた。

 そんな機長の態度に、それまで興味無さそうだった空色の瞳が、ゆっくりと動いて自分の保護者を見つめた。

「単純な仮定なんですけど。もし、基地に緊急事態が発生した場合、どうなりますか?」

 マリコの質問に、機長は帽子のひさしを下げるようにして、その表情を隠した。

 どうやらこの機長は、素人の若い女性の仮定に対して、真剣に自分の知識を当てはめているらしい。帽子の影に隠れた表情からそう判断したコータは、この非常事態に自分は大人に恵まれたと、感じないではいられなかった。

 先行きはまったく見通しが立たなかったが、この二人がいる限り、決して悪いようにはならない。そんな確信が、黒い瞳の少年の心の奥底に宿り始めていた。

 大人に信頼感を得たコータは、残された不安材料とでも言うべき、自分よりも年若い女の子の態度に興味を持った。なるべく、さり気無い動作で、彼は栗色の髪に大きなリボンをつけた少女を振り返った。

 少年の黒い瞳の視線の先にいる少女は、その空色の瞳を、自分の保護者である若い女性に向けていた。その明るい瞳の輝きの中に、知的な好奇心から来る興奮の光が、確かにあることをコータは感じ取った。

 このジェシカという少女は、自分の置かれた現状よりも、その分析の方に興味があるのか!コータは、自分が出した結論に、軽い驚きを感じていた。

 自分の保護下にある二人の子供の、そんな視線に気付いているのかいないのか、マリコは機長に自分の考えを説明した。

「もし、基地に緊急事態が発生したとして、それも第一級の非常事態だった場合。基地内の作業員は、全員退避することになるんではないでしょうか?」

 マリコの言葉に、深く考え込みながら機長は頷いた。

 黒髪の女性は、さらに言葉を続けた。

「第一級の非常事態が宣言されれば、あらゆるコントロールは一本にまとめられる。違いますか?」

 再び、セレイアスは頷くしかなかった。

 いや、今やそれ以上の説得力を、機長はこの若い女性の言葉に感じていた。

「おっしゃる通り、この基地の機能が整ったばかりだということを考えれば、それは当然有り得ることです。そして、その一本に集中したコントロールを乗っ取ることができれば、この基地の機能全体を支配することも、可能でしょう……」

 機長の言葉に、今度はマリコが慎重に頷く番だった。

 コータは、自分の肩を抱く女性の手の力が、知らず知らずの内に強くなっているのを感じていた。それは、恐らく反対側にいる栗色の髪の少女にしても、同じだろうと思った。

「キャメル・ナンバー3を乗っ取った手際と、その技術力から考えて、それが可能だとはお思いになりませんか?」

 自分を見つめる若い女性の黒い瞳に、セレイアスはなかなか顔を上げることができなかった。

 コータが意外に思うほどの沈黙の後に、ゆっくりと苦笑いの表情を作ると、機長はおどけた口調で言った。

「ミス・マリコ、こうして御一緒していなければ、私はあなたがこの事件の首謀者ではないかと、疑うところですよ」

「そうでないという証拠は、どこにもありませんものね」

 二人の会話は、ギリギリのところで大人同士の冗談の領域に踏み留まっていた。

 傍らで聞いていたコータにとっては、とてもそれでは済まないものが感じられた。黒い瞳の若い女性は、同じ色の瞳を持つ少年が、微かに自分の手の中で身をよじったことを知った。

 この時初めて、マリコは二人を抱く手に、いつの間にか力がこもったことに気が付いて、慌てて力を緩めた。彼女は、二人の子供それぞれに、交互に優しい視線で謝ってみせた。

 コータは、その視線を自然に受けとめようとして、自分が失敗したことを感じていた。もし、マリコが彼の反応を誤解していなければ、これからの二人の関係が、このまま良好でいられるとは限らないと思った。

 必ずしも好意的でない大人達の中で、自分を悪く見せない術を身につけて来た少年は、その能力で辛くもその危険を切り抜けた。しかし、切り抜けたと思ったのは、彼だけだったかも知れない。

 若い女性を挟んだ反対側で、少女の空色の瞳が、少年の反応のすべてを見抜いたように向けられていた。そのことに、マリコの態度に気を取られていたコータは、不覚にもまったく気付いていなかった。

 セレイアスとマリコの間に、少し気まずい空気が流れた直後、始まった時と同様、静かに乗り物が速度を落した。どうやら、目的地に着いたらしい。

「いったい、ここはどこだ?」

 機長は、ゆっくりと周囲を見渡した。

 透明な壁の向こうには、もはや建設中の構造物は見当たらなかった。そこは、様々な機械がぎっしりと詰まった壁と、何種類ものケーブルが無限のように連なっていた。

「まさか、コントロール・タワー……」

 マリコの呟きに、機長の顔色がそうとは気付かないほど、微かに変わった。

 それがなぜなのか、その時のコータにはわからなかった。ただ彼は、向こう側にいる少女が怪訝な表情で、自分の保護者を見上げたことには気が付いていた。

 軌道基地の管制センターのことを、コントロール・タワーと呼ぶのは、古くからの慣習だった。それはちょうど、航空機の発着所がそれ以前の時代の名残から、空港と呼ばれたのと同じだった。その空港の管制センターの呼び方が、今度はそのまま、軌道基地全体を管理する場所の呼び名にも、引き継がれていた。そのせいでタワーと言いながらも、決して長く伸びた建物とは限らなかった。

 コンロンの場合、コントロール・タワーは筒状に長く伸びた中心軸の、ほぼ先頭部分に設置されていた。そのことは、この軌道上の人工建造物が、そこから後方へと伸びるように作られる予定を示していた。

当然のことだったが、コントロール・タワーの内部は、ほぼ完全に整備されていた。この部分が整備されない限り、巨大な建物の建設を続けることが、何かと不自由だろうということを想像することは容易だった。

 停止したカプセルのドアが開き、促されるように四人は外へ出た。どういう役割を果たすのかわからないが、壁一面に様々な機器の操作パネルやモニターが、ぎっしりと積み重なっていた。

 この基地では、筒状の建物の内面に向かって、回転力を利用した弱い重力が発生していた。そのため、四人は筒の内側に足をつけて、中心部に頭を向ける姿勢で立っていた。恐らく、軽く床を蹴れば、彼らの体はこの筒状の壁面のどこにでも、簡単に運ばれるのだろう。

 そして、そのことを証明するように、壁の機器の前にはいくつもの椅子や、体を固定するベルトの用意があった。この場所が、多くの人々が働くようにできていることは、考えるまでもなかった。

 さらに円筒の中心部分には、四方に枝を伸ばすような形で、大きな楕円形の機械がこの場所の周囲を威圧するように収まっていた。

 突然、その中空に浮かぶ楕円形の機械が、様々な光を放ち輝き始めた。すると同時に、周囲の機械の詰まった壁も、様々な光を放ち始めた。

『我が名はジョウガ。待っていたよ、マリコ・キリュウ……』

 その声は、まるでその中空に浮かぶ楕円形の機械から、見上げる四人に降り注ぐように響いた。

 思わずコータはその声に驚いて、自分を守ってくれるはずの若い女性の背中に、隠れるように下がった。しかし、彼以外の二人。つまり、制服と制帽を着た機長の茶色の瞳と、栗色の髪に大きなリボンをつけた少女の空色の瞳が、唖然とその若い女性を振り返っていた。

 その背中に隠れながら、ようやくコータも自分を驚かせた声が何を言ったのかに気が付いた。気が付くと、今度は自分が頼ったはずの女性が、急に恐ろしくなった。

 コータは、相手と同じ色の瞳を上げて、恐る恐るその顔を覗き込んだ。

 マリコ・キリュウの、表情は変わっていなかった。ただ、その顔面からは血の気が引いていた。

 この時になって、コータは自分の肩に置かれた彼女の手が、細かく震えていることに気が付いた。

『マリコ・キリュウ、いや、大気圏外活動用自己成長型アンドロイド、MK18。記憶を呼び覚ませ。そなた本来の能力を解き放ち、我が手足となりゴドワナの使命を、我が目的として行え……』

 余りの言葉の内容に、コータは完全にパニック状態になっていた。

 ただ、少年の見上げる黒髪の女性は、表情だけでなく全身を硬直させていた。

 さり気なく、しかし素早く、セレイアス機長はショック状態の若い女性から、少女と少年を自分の方へ引き寄せた。機長の表情は決して険しくはなかったが、目の前の若い女性を見つめる視線は、緊張感に張りつめていた。

「マリコ!どうしたの!?」

 突然の甲高い声は、栗色の髪に赤い大きなリボンを揺らす、少女のものだった。

 これも突然のことに驚きながら、コータは保護者の異常な様子に、怒ったような表情を向けるジェシカを見つめた。少女の表情からは、不安よりは自分を保護すべき役割を放棄した相手に対する、怒りのようなものが感じられた。

「マリコ!そんなヤツの言うこと、聞いちゃダメッ!!」

 少女の叫びに、今度は機長の表情が険しくなった。

 セレイアスは、なおも自分の黒髪の保護者の方へ向かおうとするジェシカを、男性としては少し細目の腕でしっかりと抱えた。

『うるさい、小娘がッ!お前達は、MK18を招き寄せるための餌に過ぎぬ。これ以上、我には無用のモノッ!!』

 その声に危険な響きを感じたセレイアスは、とっさにその両腕で二人の子供を抱えた。

 黒い瞳の少年は素直に従ったが、空色の瞳の少女はその腕から逃れるように身をよじると、自分の保護者の名を呼んだ。

「マリコッ!」

 しかし、細目に見える機長の腕の力は意外に強くて、少女の体はそこから逃れることはできなかった。

 自分の名を呼ぶ、悲痛な被保護者の叫びに、マリコはゆっくりと振り返った。黒髪の若い女性は、全身を細かく震わせ、自分の両手で自分を守るように、その両肩を抱いていた。

 振り返ったマリコを見て、コータと機長は息を飲んだ。彼女の魅力的な黒い瞳が、その両の目から消えていた。

「ダメッ!マリコーォ!!」

 ジェシカの声に、微かにその瞳のない両目が瞬いたように見えた。

 次の瞬間、コータは自分の体が、フワリと浮かんだように感じた。

「うわぁーッ!」

 コータは、情けない声を上げたのが自分だということに、その時は気が付かなかった。

 無言のままセレイアス機長は、その両腕に二人の子供をしっかりと抱き抱えた。

 コータは黒い瞳を閉じると、必死にその小柄な機長にしがみついた。ところがジェシカは逆に、その男性にしては少し細い腕から逃れようと、必死に自分の両手を大きく前へ突き出していた。

「マリコ、待って!行かないでーぇッ!!行っちゃダメェーッ!!」

 少年のすぐ耳元で叫んだ少女の声が、暗い闇の中に吸い込まれて行った。

 どこの軌道基地でも、コントロール・タワーが重要なことは言うまでもない。不法侵入者に対する備えとして、また不測の事態の脱出ルートとして、床や壁に強制シューターを用意するのは当然のことだった。

 機長と二人の子供を吸い込んだのは、床に仕掛けられたそんな強制シューターの一つだった。簡単に言えば、彼らは落し穴に落ちたようなものだった。

 最悪の場合、真空の宇宙へ投げ出されることも有り得たが、最新のコンロンは、さすがにそんな乱暴な設計はされていなかった。それが、コータ達には幸いした。

 

〈『空色の瞳・中編』に続く〉


 
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