No.334923

桂(けい)の花咲くはかなき夢に 後編・後

R.saradaさん

こちらは『真・恋姫†無双』の二次小説となります。

こんにちは、サラダです。
後編なのに後編とは……あれ? 普通ですね。

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2011-11-15 15:34:52 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:3603   閲覧ユーザー数:3079

 

 一人だった。

 

 “華琳さま”に気付かれるため、必死になって努力したあのときも。

 “華琳さま”に認められるため、相対し敵対し戦い抜いたあのときも。

 “華琳さま”に誉められるため、血反吐を吐いて建策を続けたあのときも。

 “華琳さま”の一番になるため、全てを捨てたあのときも――今も。

 

 嫌いだった。

 

 “華琳さま”に肩書きだけで何の努力もせず取り入った“あれ”が。

 “華琳さま”に気に入られ、もてはやされる“あれ”が。

 “華琳さま”に認められ、特別視される“あれ”が。

 

 いくら突き放してもへらへらした顔で近づいてくる、“あれ”が。

 

 嫌いだった。

 

 大嫌いだった。

 

 だから。

 

 私は。

 

 今。

 

 

 

 ――独りだった。

 

 

 

 気付けば、夜になっていた。

 気付けば、川辺にいた。

 気付けば、一人になっていた。

 

 また、独りになっていた。

 

 いつ、どこで、どのように三人と別れたのか、よく覚えていない。

 おぼろげな記憶をたどれば、浮かぶのは天和の笑顔。

 天真爛漫に話し続けた彼女は、最後まで花のような笑みを崩すことなく。

 張り詰めた空気を霧散させ、何かの拍子に彼女は――

 

 

『がんばって』

 

 

 小声で、呟いていた。

 私だけに聞こえるように向けられたそれに、どんな反応をしたのか、どんな反応ができたのか。

 覚えて、いない。

 

「…………」

 

 かさかさと、葉が擦れる。

 さらさらと、水が流れる。

 葉鳴りと、せせらぎと。

 闇に捕らわれたこの場所に、動物たちの声はない。

 ひどく静かに闇は帳を降ろし、飲み込む。

 一人で、ただ独りで。

 私はここに在り続ける。

 

「…………」

 

 月が、輝いていた。

 高く、(たか)く。

 吸い込まれ、取り込まれ、食い入るように見つめた先に、常に在り続ける月。

 誰の支えも必要とせず、たった一つ、寄り添う全てを寄せ付けず、自らを引き立てるために利用する。

 堂々と誇らしく、気高く美しい。

 数多ある星々の中心で、一際強い光を放ち続ける。

 

 ふと、高く輝いている月が、いつか見た――遠い記憶となりつつある場所で見た真円と、重なる。

 

 いつか、遠い記憶。

 重苦しい空気の天幕を抜けだし、凍えるほどの冷気に身をさらしながら月を見上げた私は、今と同じく、独りだった。

 眩しいほどに輝くそれを眺め、一人孤独に。

 あのとき漆黒に染まった空に浮かんでいた月も、眩しいほどの光を帯びていた。

 数え切れない輝きの中で、霞むことなく存在し続ける真円は、孤高と表現するのがしっくりと来る。

 孤高と孤独、似ているようで似ていない。

 月と私の間には、それこそ天と地ほどの差が存在する。

 天高くから見下ろすモノと、地に這いつくばって見上げるモノ。

 絶対にして唯一の、冷厳とした厳然の事実が、孤高と孤独の差。

 私は、孤高になりたかった。

 皆から、見上げられる存在でありたかった。見下ろす存在でありたかった。

 “華琳さま”の一番と自他共に認められ、敵うモノなき孤高の存在としてありたかった。

 だが、(ふた)を開けてみればどうだろう。

 孤高を目指して歩き続け高みへとたどり着いた私は、

 凪と真桜と沙和によって不安を覚え、

 風と稟によって現実を見せられ、

 秋蘭と春蘭によって足下を崩され、

 霞によって突き落とされ、

 季衣と流琉によって希望を見出し、

 人和と地和と天和によって希望が虚像だったと思い知る。

 私は孤高ではなく、孤独に堕ちた。

 ――違う、堕ちたんじゃない。

 

 堕ちていた、だ。

 

 私は最初から、高みになどたどり着いていない。

 それどころか、登り出してさえいない。

 私が、勝手に、そうだと思い込んでいただけだ。思い上がっていただけだ。

 ずるずると堕ちていく自身に目を向けず、気付いたときにはもう遅い。

 私はすでに底辺にまで堕ち、取り返しが付かなかった。

 孤高になど、なれるはずがなかった。

 

 

 

 

 

 私は、何がしたかったのだろう。

 

 皆に好かれる?

 

 馬鹿な、できるはずがない。

 今日に至るまで、あれほど理解させられてきたことだろう。

 “全て”を利用する私に、味方はいないのだと。

 

 私は、何を思っていたのだろう。

 私は、何を想っていたのだろう。

 私は、何のために必死になっていたのだろう。

 

 私を苛み続ける胸の痛みは、何なのだろう。

 

 

 

 何のために、独りになったのだろう。

 

 

 

「――っ!」

 じわりと、月が霞む。

 鮮明だった光が(かげ)り、ぼやけ、うつろう。

 弱々しい輝きが滲み、瞳が痛む。

「うっ、ぷ――」

 突如沸き上がる不快感に、胃が悲鳴を上げた。

 反射的に口を押さえ止めようと試みる、が一時凌ぎにしかならない。

 間もなく再び暴れ始めた吐き気は、唾液を飲み込むことで押さえ込み、

 

 瞬間、世界が揺れた。

 

「――あ、ぐっ」

 鈍痛が頭を襲い、吐き気が消える。

 揺れる。ぶれる。

 支えを失った足がふらつき、倒れ込むように腕を突く。

 起き上がろうとする意思は鈍痛によって飲み込まれた。

「あっづ、ぐぁっ――」

 頭に当てた手のひらは、見せかけ以上の意味をなさない。

 開け放たれた口から唾液が(こぼ)れ、地へと落ちていく。

 ついには思考が真っ黒に塗り潰され――

 

 

 

 ――『記憶』が全てを埋め尽くした。

 

 

 

 笑っていた。

 皆、楽しそうに笑っていた。

 ある者は頬を染めながら。

 ある者は静かに。

 ある者は呆れ気味に。

 ある者は不敵に。

 ある者は豪快に。

 ある者は快活に。

 ある者は心から。

 ある者は幸せそうに。

 ある者は――“あの方”は、微笑みを称えて。

 

 皆が笑う中心で、眩い光が輝いていた。

 惜しげもなく輝きを披露しながら、周囲を強く照らし出す。

 

 泣いていた。

 皆、悲しくて泣いていた。

 ある者は叫び。

 ある者は静かに。

 ある者は悄然と。

 ある者は冷静に。

 ある者は愕然と。

 ある者は呆然と。

 ある者は一緒に。

 ある者は支えを失って。

 “あの方”は、涙の跡を残しながら。

 

 悲しみに暮れる彼女たちの中心に、光はない。

 輝き続けた強い光は、消えてしまった。

 

 

 私は、外にいた。

 皆の笑みが咲いたときも、涙を流したそのときも、私は常に、外にいた。

 笑うこともなく、涙を流すこともなく、光を、もしくは光の在った場所を、はるか遠くから睨み続けた。

 たった一人で、たった独りで、蚊帳の外に居続けた。

 誰かによって選ばされたのではなく、自らの意思で選び続けた。

 

 

 

 ――『なぜ?』

 

 

 

「っ、くっ、ぁ、ぁああ――――――――――――――――――――――――ッ!」

 直後、意識が覚醒した。

 塗り潰された思考を意思の力が切り離し、頭の隅に押し込み扉を閉めて施錠する。

 霞む視界は目を閉じることで闇に封じ、(うずくま)り世界を全て遮断した。

 殴りつけられる感覚を叫びによって打ち消し、次いだ不快感でさえも生い茂る雑草を握り締めて押さえ込む。

 自身の叫びも、草の命を絶つ音も、どこか遠い。

 闇に覆われた世界に独り取り残されたまま、襲い来る『何か』に抗い続ける。

 

 

 ――このままで良い、と思う。

 

 ……ふざけないで。

 

 ――このままが良い、と思う。

 

 ……馬鹿を言わないで。

 

 ――もう少しだけ浸っていたい、そう思った。

 

 ……()に乗らないでよ。

 

 私は何を誇った。

 私は何を望んだ。

 

 ――私の全ては、“華琳さま”のために。

 それこそが私の、一番の誇りだったはずだろう。

 

『今なら“華琳さま”の、一番になれる』

 それこそが私の、一番の望みだったはずだろう。

 

 それが何。

 何なのよ、この有様(ありさま)は。

 無様、あまりにも無様。

 まさしく、愚の骨頂。

 それができないことだと。

 それがやってはいけないことだと。

 一番わかっていると。

 

「自分で言ったんでしょう、桂花っ!」

 

 何のために独りになった?

 簡単だ、決まっている。

 答えなど、一つしか存在しない。

 

 

 “華琳さま”のために決まっている。

 

 

 歯を喰い縛り、耐え続け、どれだけ時間が経ったのか。認識すらも放棄した私は意識を内から外へと繋ぎなおす。

「…………」

 静かだった。

 ひどく静かだった。

 葉鳴りがする。

 せせらぎも聞こえる。

 混乱のただなかにいた私には、恐ろしいほど静かだった。

 まるで、鏡のように。

 凪いだ私の、心のように。

 ぶちぶちとまた草を絶ちながら手を地から離し、身を起こす。

 足の裏で自らを支え、地をしっかりと踏み締める。

 支えもなく、自らの力だけで立ち上がった私は、服に付いているであろう汚れを払うこともなく、闇の中に囚われたまま、空を見上げる。

 目を開いた。

 霞むこともなく、翳ることもなく、ぼやけることもなく、滲むこともなく。

 漆黒の闇に覆われた世界で、孤高で在り続ける満月を、鮮明に捕らえた。

 『記憶』に重なる真円を前に、私は、

 

 

「……………………」

 鼻を、鳴らした。

 

 

 ごうっ、と、強い風が吹き抜け間断なく頬を叩いていく。

 意識するでもなく、握り締めていた手を持ち上げて、指を上向けゆっくりと開いていく。

 千切り取った緑の草が、空を舞った。

 風に乗り、ふわりふらりと、くるりくるりと身を躍らせ、やがて流れる水面に波紋を作る。

 流されるまま川下へと滑り、見えなくなった。

 つい――と、再度空を見る。

 変わらず、淡い光で全てを照らす真円を収め、何の感想を抱くこともなく視線を切り、

 背を向けて、歩き出した。

 

 

 これで良い。

 私は、これで良い。

 私は“あの日”、誓ったのよ。

 

 ――私の全ては、“華琳さま”のために。

 

 他のことなど知ったことか。

 どうなろうと、私には一切関係ない。

 孤高になりたかった?

 皆から憧れ敬われる存在で在りたかった?

 馬鹿な。

 くだらない。意味がない。

 私は何を悩んでいた。

 どうしてこれほどまでにくだらないことに思考を向けた?

 どうしてこれほどまでに意味のないことに時間を要した?

 そのせいで、丸々一日無駄にしたじゃない。

 

『今なら“華琳さま”の、一番になれる』

 

 私の願いは、叶えられた。

 否、叶えた。

 私は今、名実ともに“華琳さま”の一番だろう。

 だからこれから私のすべきことは、願いを叶え続けること。

 “華琳さま”の一番で在り続けること。

 他の愚物が何と言おうと興味はない。

 騙し、蔑み、貶め、嗤う。

 そんな奴らに構っていられるほど、私は暇ではない。

 全てを使い捨ててでも、願いを叶えるために利用する。

 孤高だろうと、孤独だろうと、私のやるべきことは決まっている。

 私は月にはなれない。当たり前だ。

 なれるはずのないモノを見上げたところで、何も変わりはしないのだから。

 私はただ、前を見据え、踏み潰し、踏み砕いてでも、歩み続けるしかない。

 

 たとえどれほど困難が、この先に待っていたとしても。

 

 周りが全て、敵だったとしても。

 

 

 ずきずきと、じくじくと。

 『痛み』が胸を苛み続けていたとしても。

 

 

 

 

 

 それからのことを少し話そう。

 

 私は、“華琳さま”の一番で在り続けた。

 揺るぎなく、ぶれることなく頂点に居続けた。

 変わらない、変わることのない未来が、確定した。

 誰の反論も認めない。

 これが私の、私が選んだ選択肢の、最良の終わり。

 最高で、最上の、唯一無二の終わり方。

 そうして『物語』は幕を下ろす。

 終幕を迎え、終わりを迎えた『物語』。

 もう、この『物語』が紡がれることはない。

 なぜなら、『未来』が決まったから。

 終わりの見えてしまった『物語』ほど、退屈なモノはない。

 だから、終わり。

 この『物語』は、ここで終幕。

 あとはもう、私が“華琳さま”の一番で在り続ける『物語』が、紡がれることなく続いていくだけ――。

 

 

 

 

 

「――――なるほど、ね。では『学校』へ充てる予算の算出と運用方法を早急にまとめ、一月(ひとつき)で実行に移せるようになさい」

「……御意」

 淀みなく報告を終えて最後を締め括り、壇上からの期待に満ちたまなざしを深く下げた頭で受け止めた。

 ほう――と、誰かが息を吐く、そんな気配がした。

 切迫した雰囲気の僅かな緩みに対する安堵なのか、誰もが思いつかなかった案を策として構築し、実行まで漕ぎ着けた私への羨望と感嘆なのか。

 私は本当の意味でそれを理解することはできないだろうが、これだけは言える。

 

 前者でも、後者でも、私には関係ない。

 

 喩えどのようなモノであろうと、私が歩み続けていく道程(みち)に何の意味ももたらさない。

 それがもし、私へ好影響をもたらすなら存分に利用し、ぼろぼろになるまで使い続けて使えなくなればすぐに捨てるだけであり、

 逆に悪影響となるなら容赦なく踏み潰し、叩き潰し、もう二度と日を見ることができないようにしてやるだけだ。

 もちろん比喩的な表現だが、その程度のことができるくらいに、“華琳さま”の信頼を得ている。

 社会的地位を一瞬にして底辺にまで貶めることくらい、今の私にはあまりにも容易い。

 傲慢だとか、横暴だとか、低俗な議論に付き合うつもりは全くない。その程度のことで時間を浪費するなど、それこそ無駄。

 これは私自身に対しての、客観的な自己評価。

 揺らぐことなく、ぶれることなく、“華琳さま”の一番で在り続けているという、徹底的な一般論。

 誰もが認めざるを得ないほどに、私の地位は確立している。

 つまり紛れもない真実であり、常識であり、真実だ。

 

 壇上から向けられる三つの視線が二つへ、最後に一つになったところで身体を起こし、静かにイスへと腰掛ける。

 小さく息を吐く――こともなく、一度目を閉じ、どこまでも続く暗闇を眺めたあと、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 開けた視界の先には数多の目。

 全て私へと向けられた、悪意のこもった眼。

 いくつか例外はあれ、もはや差異と呼んでも間違いはないだろう。

 それほどまでに、私こと“荀彧”が、『魏』に敵を抱えているという証明に他ならないのだから。

 だから私は、それを意に介すことなく、『鼻を鳴らす』労力さえ使うことなく、再度瞼を下ろし、闇を見つめる。

 語るまでもないが、『眠る』という意味ではない。

 視覚を閉じることで聴覚へと意識を集中し、他の報告を聞き、まとめ、自らの理解を深めるため。

 だが澄まされた耳がまず捉えたのは、誰かが鳴らした歯ぎしりと。

「――稟、私は報告をなさいと言っているのだけど?」

「っ、は、はい!」

 そして壇上からの圧力を込めた断罪と、愚図の悲鳴。

 

 くだらない、と思う。

 つまらない、と思う。

 

 一時(いっとき)の感情に流され結果自らを貶める。

 なんてくだらない。なんてつまらない。

 なんて馬鹿なのだろう、そう思わずにはいられない。

 

 

 まるで“あの頃”の私のようだと、思わずにはいられない。

 

 

 夜の帷を下ろした闇の中、孤高に輝く真円の下で決意を新たにした私は、今まで以上に政務へと心血を注いだ。

 来る日も来る日も机に向かい、必死になって健策を続け、持てる力を全て用いて“華琳さま”に献上する。

 何かない限りは部屋を出ず、部屋を出て誰かとすれ違えば口も聞かず、ただただ政務だけに全力を尽くす。

 “華琳さま”の誘いも『“華琳さま”のため』と断り、部屋にこもる。

 はたから見れば、まさしく異常だっただろう。

 取り憑かれたように政務に取り組むその様を、凪、真桜、沙和の三人に何度指摘されただろうか。

 もちろん身体を酷使させ続けるわけにはいかない。

 食事も、睡眠も、健康には今まで以上に気を使った。

 故に病にかかることはなく、私の身体は健康そのものだった。

 強引に凪に机から引き剥がされ医者に連れられたこともあったが――数多の抵抗を試みたが、武人である彼女には通用しなかった――医者である華佗の判断も同じ。

 精神(こころ)を追い込みすぎだと指摘されたが、身体が健康ならそんなことはどうでも良い。

 診断の結果に凪は何度も不満を口にするも、政務に戻りたかった私の脅しにも似た説得により、以後このことへの言及を止めさせた。

 もちろん、(やまい)を患っていようと政務を止めるつもりは毛頭なかったが。

 

 

「…………ふっ」

「ぐっ――」

 自嘲を込めた笑みが、どうやら他者には違う何かに聞こえたらしい。

 気色ばむ雰囲気を誰かが纏い、だがすぐに自らの置かれた状況を思い出したのか報告へと戻る。

 私への敵意は変わらないまま、目の前の問題の解決へと尽力する。

 かといって、失ってしまったモノを取り戻すには、尽力程度では済まないだろうが。

 私のように“天の知識”をもって(めぐまれて)いなければ、それ相応のことを――それこそ血を吐くような――しなければならないだろう。

 まぁ、私には露程も関係ないが。

 

 私の紡ぐ『物語』に、“華琳さま”と私以外の登場人物などいらない。

 “華琳さま”と、“華琳さま”の一番である私以外は、背景に等しい。

 背景で何をしようと知ったことではないし、興味も無い。さっきも言ったが、私の邪魔立てをするのであれば問答無用で叩き潰してやるだけ。

 意味の無いことをそれなりに頭の回る彼女たちがやるとは思えないが、それでも幾重もの予防線を張っておくことは常識だろう。

 そのための工作など、政務の片手間でも容易い。

 ――否、容易かった。

 準備は万端。対策は万全。

 私へ逆らう愚者がいつ現れたとしても、行動を開始するどころか企てようとした瞬間に叩き潰すことができるだろう。

 その程度の……その辺りに転がっている石ころのような存在に目をくれてやる暇など、私にはない。

 だから、『物語』に、“華琳さま”と私以外は必要ない。

 

 

 

 

 

 “華琳さま”と私以外は、

 『誰も』、必要ない。

 

 

 

 

 

 次々と行われていく数々の報告を聞き、噛み砕き、吸収し、次の健策のための足掛かりとしつつ、自らの組み上げた策――『学校』についてを同時進行でまとめ始める。

 一月でと命令されたものの、愚直にそれを守るほど私は馬鹿ではない。

 “一月かけてより良いモノを”など、意味が無い。

 できる限り早く策を献上すること、特に今回のように『学校』という実行に移したことのない……どころか“誰も”知らないモノを実行する場合には、それが何よりも大切だ。

 ある程度の質が保たれていることが前提条件だが、早ければ早いほど、先への見通しが立ち、実行する上での指針も見えてくる。

 故に私は二十日……いや、十五日でまとめ上げ、実行に移す。

 献上する策の質を落とすという選択肢は存在しない。一月で成し得る質を半月で造り上げる、それだけのことだ。

 そのための同時進行など、私にとっては造作もないこと。

 時間は有限、いくらあっても足りはしない。

 少しでも時間が欲しいなら……などと言って睡眠時間等を減らすことは、さっきも言ったがありえない。

 体調を崩すなど、自らの体調管理もまともにできない馬鹿のすることだ。

 だからこそ私は、これまで一度も体調を崩すことなく、身体を壊すことなく、“華琳さま”のことだけを考えここまで来ることができた。

 

 全ての報告を聞き、噛み砕いてまとめ上げる。

 私の中ですでに当たり前となっているその一連の作業を続けていると、凪の――“警備隊隊長”の報告が始まる。

 相変わらず緊張状態の続く三国間。

 しかしながら緊張状態だからこそ安定している大陸の様相。

 “あの日”の報告と変わらない始まり方で、賊が数を減らしているという繋ぎまで同じ。

 特に変わったことは何もない。変わったとすれば、このあと。

 結末と、まとめ。

 区画整理をし、警備隊の詰め所を各地に置いたことで、城下での暴漢の数が目に見えて減少している。

 『割れ窓理論』を用いた警備案も成功し、犯罪を起こしにくい街作りも進んでいます。

 まだまだ問題は残っていますが、それでも減少の一途を辿るでしょう。

 どこか弾むように続けられた報告は、最後に添えられた“あの言葉”によって、笑顔とともに締められる。

 

『全て、“桂花さま”のおかげです』と。

 

 私は逆に、そのおかげで悪意に満ちた嫉妬のまなざしを向けられることになったものの、“華琳さま”にとっての私の評価を上げたという行為は褒めてあげても良い。

 まぁ、対して変わりの無い、差異と言っても良い程度のモノだけど。

 

 一通りの報告が終わり、滞りなく朝議も終わりを迎える。

 あとは“華琳さま”の宣言を聞いて、解散となる。

 今日も今日とて相変わらずとしか言いようのない目にあったが、それでも得られた収穫から鑑みれば捨て置いて問題ないだろう。

 終わり次第取りかからなくてはならないことも数多くあるが、解散後すぐに部屋に籠もればなんとかなるだろう……いや、なんとかする。

 とりあえずは朝議終了後、いつもの通りかけられる“華琳さま”のお声を、心苦しいことだが断らなくてはならない。

 私にはやるべき事が多すぎる。だからこそ、現状に満足しないためにも自らを追い込み、政務に取り組む必要がある。

 

 

 

「皆、ご苦労だったわ。――」

 

 

 

 そう、そうだ。何もかも、何もかもが“華琳さま”のため。

 

 ――私の全ては、“華琳さま”のために。

 

 “あの日”の誓いは、今、忠実に守られていることを確信し、

 

『今なら“華琳さま”の、一番になれる』

 

 “あの日”の願いは、今、自らの手で叶え、叶え続けていることを実感した。

 

 

 

 自己満足、と言うほど満足しておらず、

 自己陶酔、と言うほど酔っているわけでもなく、

 あえて言うなら自己欺瞞と表現するべきそれを持て余しながら、私は、このとき、

 思考を停止していた。

 現実逃避と言い換えても良い。

 言い訳をするなら、それがほんの一瞬だったこと。(まばた)き程度にも満たない時間だったこと。

 だが、『物語』は、待ってなどくれなかった。

 ほんの一瞬、瞬き程度の時間、現実逃避(ゆだん)しただけで、紡ぐ『物語』を加速させた。

 

 

 結果から言う。

 

 

 『物語』は、終わってなどいなかった。

 私が本当に紡ぐべき『物語』は、まだ終わっていない。

 今まで紡がれてきたのは全て、壮大な前置きに過ぎなかった。

 真に紡がれるべきはこの後で、私は気付いていなかった。

 ……いや。

 正直に言えば、気付いていた。

 いずれこうなるだろうと、判っていた。

 もっと言うなら、こうなることが決まっていた。

 『元の世界』でも、『もう一つの世界』でも変わらない。

 たとえ私が“天の知識”を用いたとしても、変えることのできない未来。

 これは誰にもねじ曲げることができない、起きるべくして起きたこと。

 解決不能な問題提起に、私は気付かないふりをした。

 内心では判っていながら、政務に無理矢理集中することで考えることを放棄し、問題を先送りにした。

 もっと早く、この問題に向き合う覚悟ができていれば、こんなことにはならなかった。

 ……いや、覚悟ができたところで、解決に至ることはできない。

 どう足掻いたところで、無駄にしかならない。

 それでも、きっと、『何か』は変わっただろう。変わることができただろう。

 だが、遅かった。

 何もかも、何もかもが遅かった。

 無様、あまりにも無様。

 まさしく、愚の骨頂。

 

 ――このままで良い、と思う。

 ――このままが良い、と思う。

 ――もう少しだけ浸っていたい、そう思った。

 

 自らが選んだ選択の意味を、真に理解していなかった。

 馬鹿だった。私は馬鹿だった。

 少女三人を相手に過ちを犯したあの瞬間だけではなく、あの日――いや、

 選択し、意を決したあの時から、私はすでに馬鹿だったのだ。

 全てが終わった今なら判る。

 私は、“甘えていた”のだと。

 

 これより、『物語』は再開する。

 一度下ろした幕を上げ、次の章――最終章を紡ぎ出す。

 ひどく滑稽な『私』の、ひどく滑稽な『物語』が、今、

 長かった“夢”が、今、

 終わりを迎える。

 

 もう一度言っておこう。

 この先で提起される問題は、私には解決することができない。

 いくら想っていようとも、いくら声を荒らげようとも、いくら泣き叫ぼうとも、

 世界の理を変えられないのと同じように、変えることのできない、確定している未来の話。

 

 ただこれには、一つだけ、抜け道がある。

 問題自体を“なかった”ことにできる、詰められる寸前の象棋板をひっくり返すような、呆れた所行を平然と行うことのできる抜け道が。

 えっと、こんなのをなんと言うんだったか……。

 どんな不条理も、理不尽も、容易くねじ曲げ、“なかった”ことにできる卑怯と言われても仕方のない所行……。

 それでも、誰もが一度は求めずにはいられないモノ……ああ、そうだ。

 

 

 たしか、『ちーと』だ。

 

 

 私でも、“天の知識”でも解決できないこの問題を、“なかった”ことにできる最強の切り札、

 『ちーと』は……、そう――

 

 

 

 

 

 ――“あの男”一人だけ。

 

 

 

 

 

「――――え?」

 耳を、疑った。

「えっ?」

 次いで、頭を疑った。

 思考が停止した。

 現状が、飲み込めない。

 状況が、判らない。

 時間が足りないと同時進行していた『理解と健策』を全て放棄して、押し付けられた情報を整理しようと試みても、なんの成果も上がらない。

 

「どうしたの、桂花」

 

 判別することに全てを注ぎ、認識のために労力を割くことができず、壇上から聞こえる言葉の意味を理解することができない。

「華琳、さま……? 聞き逃してしまったのですが……、今、なんと……?」

 確認、ではない。

 理解できていないことを問うことを、確認とは言わない。

 これは、そう。相手に自らの思考を委ねる思考放棄。

 軍師としてあるまじき行為。

 自らが背負うべき責任から目をそらし、逃れるための現実逃避。

 

「桂花、それを本気で言っているのなら、少し失望するわよ」

 

 逃げ切れる、はずがない。

 

「でも、最近そっけなかった貴女がそれほど狼狽えるなんてよっぽどだろうから、いいわ。今回だけは見なかったことにしてあげる」

 

 喩えどれほど思弁を広げようと辿り着くことのできないそれを、どう躱し、どう逃げようというのか。

 一度で受け入れること叶わず、無理だと判っていながら逃げるという選択肢を選んだ私が、どうやって。

 

「ふふっ、久しぶりに見たわ。嫉妬している貴女」

 

 嫉妬? 私が?

 何に? 誰に?

 

 嫉妬は、私が向けられるべきモノで、

 私が向けるモノではない。

 

「貴女の自己主張、折角だから聞いてあげる」

 

 何を言っておられるのだろう。

 何を考えておられるのだろう。

 

「だから桂花、その代わり……」

 

 何を言っておられるのだろう。

 何を考えておられるのだろう。

 

 

 何を、『愉快げ』にしておられるのだろう。

 

 

 何も、頭に入らない。

 何も、考えられない。

 

 ほんの一瞬、瞬きほどの間、思考を停止してしまった己の油断を私は恨む。

 あの瞬間、それさえ無ければ、こんなことにはなっていなかった。

 事態はもっと、好転していたはず。

 それが、何で、こんなことになっているのか。

 

 ――なぜ?

 

「くっ、っ――!」

 また、まただ。

 この感覚、この感触。

 もうずいぶんの間経験していなかったのに、今になって。

 “あの時”と同じ、吐き気を催すその直前。

 

 こみ上げる『何か』を、押さえきれないと確信させられたあの感覚。

 否応なく内へと引き込まれる、不快で、抗いようのないあの感触。

 

 変わらない――否、“あの時”以上の、比べものにならないそれが、私を襲う。

 足がふらつきそうになるのを踏ん張ることで避けたものの……まだ終わらない。終わってなどくれない。

 これは、予兆。

 “あの時”もそうだった。

 押さえきれないと、抗いようのない不快な感覚に襲われながら確信した“あの瞬間”、

 抵抗の意思を示す間もなく、呑み込まれた。

 駄目だ、駄目だ。

 こんなところで、無様に膝を付くわけにはいかない。醜態をさらすわけにはいかない。

 予兆。そう、予兆だ。

 (きざ)し。前兆。前触れ。

 やるべきことは決まっている。

 親切にも、『何か』が起こると教えてくれているのだ。利用してやらない手はない。

 

 ――覚悟を、決めろ。

 

 流されるだけだった“あの時”とは違う。

 “あの時”の私とは、もう、違う。

 流されることしかできなかった“あの時”とは、何もかも。

 

 

 どれほど困難が、この先に待っていたとしても。

 

 周りが全て、敵だったとしても。

 

 じくじくと、ずきずきと、

 『痛み』が胸を苛み続けていたとしても。

 

 立ちはだかる全てを踏み潰し、踏み砕いてでも、前を見据え、歩み続ける。

 

 

 『決意』は、今なお揺らぐことなく私の中に息づいている。

 意思が折れることのないようにと、常に支え続けている。

 だから、私は、こんなところで、膝を付くわけにはいかない。

 いくら願っても、いくら祈っても、避けようがないと言うのなら、

 歯を喰い縛り、拳を握り、苦しみを欠片も表に表すことなく堪え続ける覚悟を、

 

 今、決めろ。

 

 聞こえてくる。

 予兆の通り、前触れの通り、

 徐々に近づいてくる、『何か』の足音が。

 “あの時”と同じ速さで、“あの時”とは格の違う『何か』が。

 

 来る。

 

 来る。

 

 来る。

 

 

 

 来た――。

 

 

 

 

 

「私の後継者についてよ、桂花」

 

 世界が、停止した。

 

 

 

 

 

 吐き気も、予兆も、足音も、全てを押しのけて衝き込まれた氷柱が、背筋どころか世界を凍らせた。

 足の裏が床に貼り付き、噛み合わぬ歯ががたがたと鳴る。

 腕を掻き抱き押さえつけても、震える身体は止まらない。

「…………桂花?」

 凍りついた世界の中、聞こえる声もどこか遠い。

 頭は回らず、たった一つの言葉だけがぐるぐると(めぐ)る。

 

『ワタシノコウケイシャニツイテヨ、ケイファ』

 

 何を言っているの?

 何を考えているの?

 

 “あの人”は、何を思って口元を歪めているの?

 

 判らない。わからない。(わか)らない。

 “あの人”の考えが、理解できない。

 

 『コウケイシャ』とは、おそらく『後継者』のことだろう。

 読んで字のごとく、後を継ぐ者を指す。

 

 いや、そんなことはどうでも良い。

 そんな当たり前のことはどうでも良い。

 私が判らないのは、そんな常識的な知識では断じてない。

 この状況で、この現状で

 

『ワタシノ後継者ニツイテヨ、ケイファ』

 

 そう言ってのけた“あの人”がだ。

 

 何を、言っているの?

 何を、考えているの?

 

 『後継者』?

 何の?

 いえ、誰の?

 

『ワタシノ後継者ニツイテヨ、ケイファ』

 

 『ワタシノ』?

 『私の』?

 『私の後継者』?

 私の? 『なぜ』?

 

『私の後継者についてよ、ケイファ』

 

 違う。違う。

 そうじゃない。

 思い出せ。ついさっき、“あの人”は何と言った?

 忘れる、なんてありえない。

 問う。“あの人”は何と言った?

 答えなさい。貴女は軍師でしょう。

 答えられない、なんてことがあるものか。

 思い出しなさい。ついさっき、“あの人”が述べた言葉を。

 

『久しぶりに見たわ。嫉妬している貴女』

 

 そう、『嫉妬』だ。

 私が向けられるべきそれを、私が見せることになる理由。

 

「ふふっ、残念だわ。久しぶりに見た嫉妬に狂う貴女の期待を、裏切らないといけないなんて」

 

 “あの人”の声が空気を震わす度、私の背筋が震え、霜を張る。

 理解できない。

 受け入れることを拒否するかのごとく、私の頭は理解してくれない。

 考えても考えても、“答え”を導き出すことができない。

 それでも、止まってなるものか。

 考えろ、考え続けろ。思考を止めるな。

 『荀文若』たる私が、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。止まってやるわけにはいかない。

 止まってしまえば、停滞してしまえば、どうなってしまうのか。

 『判っている』はずでしょう、桂花――

 

 誰かが言っていた。

 ――私は、“視て”いない、と。

 激情に呑まれたあのとき、私は何を思っていただろう。

 流されるままに言い返したあのとき、私は何を想っていただろう。

 ここに来て、それを思い出す。

 私は、あのとき――

 

 

 

「早く私の“後継”を、生まないといけないのだから」

 

 ――何も、“想って”などいなかったことを。

 

 

 

「あっ――――」

 止まった。

 全てが、止まった。

 止まって、しまった。

 気付き、理解した瞬間。思考の中にできた小さな空白。

 一瞬で(すべ)てを呑み込み白へと変え、触れることさえ叶わない。

 暗がりにある世界の総てを、『なかった』ことにするかの如く。

 

「ぐっ、つぁ――」

 

 空白によって染め上げられた世界に、小さな光が(とも)る。

 滑るように広がる光が思考の全てを埋め尽くし――

 輝きとともに、“映像”が流れ始める。

 それは、“決意を新たにしたあの日”に見たモノと同じで――

 

 

 ――在りし日の記憶。

 

 

 もう二度と戻ることのない、戻ることのできない日々の、ほんの小さな一欠片。

 皆が笑顔で、皆が幸せだった。

 私以外の全てが上手くかみ合い、(まわ)っていた。

 一時期、たった一つの、それでいて大きな歯車が消え、止まってしまったこともあったが、それでも。

 徐々に、ゆっくりと、再び動き始めていた。

 私は、何をしていただろう。

 皆が笑顔で、幸せだったあのとき。

 皆が悲しみ、絶望の直中(ただなか)にあったあのとき。

 皆が想い、ようやく動き出したあのとき。

 そして何より、今、私は、何をしているのだろう。

 判っている。そんなこと、考えるまでもなく判っている。

 私は常に一人だった。一人で、独りだった。

 皆が笑顔で、幸せだったあのときも。

 皆が悲しみ、絶望の直中にあったあのときも。

 皆が想い、ようやく動き出したあのときも。

 そして、今も。

 判っている。思考することに労力を割くまでもなく、判っている。

 今も昔も、私は、独りで。

 誰ともかみ合うことなく。

 

 『空回り』を続けている。

 

「桂花。あなたもしかして、身体の調子でも――――」

 気付けば、背を向けて走り出していた。

 私の突然の奇行に驚き――もしくは喜び――の悲鳴が上がる。

 呆然とする者たちの間をすり抜け、躱せない者ははじき飛ばして、部屋の出口に向かって全力で駆けていく。

 なりふり構わず走り続け、逃げるように――否、逃げていた。逃げ続けていた。

 押し退け、払い除け、出口に向かってひたすらに。

 あと少し、あと少しで辿り着く、そんなとき、銀色に輝く短髪が視界の端に映った――。

 

 

 

 

 

 雨が降っていた。

 ざあざあと、ざあざあと、耳障りな音を立てながら。

 そんな中、私は、無心に、独りで、廊下を駆け抜けていく。

 考えることを放棄し、どこまでも続く暗がりの中を、ただただ、ひたすらに。

 締めつけられたように痛む胸を無視し、必死になって走り続ける。

 駆けて、駈けて、(かけ)続けて、ようやく私は脚を止めた。

 

「ごほっ、ごほっ、ごほっ……く、っ……」

 

 同時、膝が折れ、腕を付く。

 込み上げる吐き気を押さえつけ、止まぬ動悸を聞き続ける。

 肺が空気を求め、引きつった咳を繰り返す。

 噴き出した汗が額を伝い、頬を伝い、顎を伝い、床へと落ちていく。

 ぽたぽたと幾つもの染みが作り出されては、新たな水滴が塗り潰す。

 

「はっ、はっ、はぁ……ごほっ……」

 

 それを眺めているうちに、気付けば動悸が収まっていた。

 吐き気も消え、咳も止まっている。

 そう言えば前にもこんなことがあったと、今更ながらに気付く。

 あれはいつだったか……、と考えてすぐ、ああ、あの日か……と思い出した。

 はっ、と、笑いが洩れる。

 ほんの一瞬、短い時間だったけれど、それでも忘れてしまうほどに必死だったのか。そう、気付かされて。

 あまりに滑稽。ただの、道化。

 

「あ、つっ……ぐぅ、ぁぁ……」

 

 うだるように重い身体に鞭を打ち、歯を喰い縛って四肢に力を込める。悲鳴を上げる腕を、脚を、無理矢理動かして、有無を言わさず、立ち上がる。

 床を踏み締め、折れ曲がりかける膝を腕で支え、起き上がる。

 たったこれだけの動作で再び締めつけられる肺に、多量の空気を送り込む。

 束の間、毛の先ほどの痛みが収まったことを弾みに、顔を、上げた。

 

 正面にあるのは、一枚の扉。

 

 何の変哲のない、何も変わりもない、ただの扉。

 この扉の向こうにあるのは、何の変哲のない、何の変わりもない、ただの客間。

 それでいて“あの日”から何も変わっていない、在りし日のままそこに在り続ける、ただの扉。

 強いて言うなら、あのときより少し埃っぽく感じる。

 しかし、あの時の精神状態からすれば、埃っぽさなど感じる事もできなかっただろうから、おそらく何も変わっていない。

 

 何も、何も。

 全て、変わることなく。

 “あの日”のまま。

 ずっと、ずっと。

 そこに在り続けた扉。

 それが、今。

 もうここに用はないと“あの日”に断じた私の、目の前に在る。

 

「…………」

 

 自然、背筋が伸びた。

 呼吸に乱れはなく、締め付けられるような痛みもなく、噴き出た汗もすでに引いている。

 腕の力を使うこともなく、足の裏でしっかりと、自分を支える。

 自らの力だけで、強く、強く。

 掌に、力がこもる。

 ぎしりと、喰い縛る歯と歯が擦れ合う。

 正面に在る、一枚の扉。

 私は、それを、睨みつける。

 持てる力を全て()ぎ込み、眼前のそれを、無くなってしまえとばかりに。

 支えとなる足を、前へと踏み出す。

 一歩分、扉が近くなった。

 それでも、まだ、遠い。

 手を伸ばしても、届かない。

 踏み出す。

 一歩近づく。遠い。

 踏み出す。

 近づく。まだまだ。

 踏み出す。

 近づく。届かない。

 踏み出す。

 近づく。届かない。

 踏み出す。

 近づく。まだ、足りない。

 踏み出す。

 近づく。もう少し。

 踏み出す。

 近づく。あと、少し。

 踏み出す

 近づく。中指の先が、少し触れる。

 踏み出す。

 近づいた。この距離なら、もう、届く――

 

 

 

「――――――桂花さまっ!」

 

 ――とってに手が触れた瞬間、私は動きを止めた。

 

 

 

「……何?」

 

 息を切らし、肩で呼吸を繰り返す『彼女』に、私は視界に入れることすらせず問いかける。

 あれからどれほどの時間が経ったのか私には判らないが、きっと相当な距離を走り回っていたのだろう。

 この場所に“来ると決めて”走り続けていた私とは違って、許可を得てから見失ってしまった私を探し始めたであろう『彼女』との間には、決定的で大きな違いがある。

 そうでなければ、武官である『彼女』が呼吸を乱し、膝を腕で支えるはずがない。

 

 ――なぜ?

 

 思わず、笑みがこぼれる。

 どうして『彼女』がここにいるのか、本当のところは判らない。それでも。

 『彼女』が走り回っていた理由が、私にあると判ったから。

 それほどまでに“恵まれていた”と判ったから。

 それほどまでに、『彼女』は――

 

「突然、どうされたのです……か。まだ朝議の……途中、ですよ?」

 

 絶え絶えの呼吸で必死に伝えようと努力する『彼女』の姿が見るまでもなく判り、笑みが深まる。

 ただこれは、どちらかというと“苦笑”の方が強かったが。

「どうもしないわよ」

「ですが……っ!」

「ただ、あの場所から逃げ出したかった、それだけよ」

 “あの日”と同じ。紛れもない、私の真実。

 

『おまえ、変わったな』

 

 冗談じゃない。私は“あの日”から、何も変わってなどいない。

 変われてなど、いない。

 

「み、皆が戸惑っておられます。早く戻られたほうが……」

「言ったでしょう。逃げ出したかったって」

「っ、なんで――」

「私に味方は誰もいない、そう、確信したからよ」

 

 稟も。

 風も。

 秋蘭も。

 春蘭も。

 霞も。

 季衣も。

 流琉も。

 人和も。

 地和も。

 天和も。

 

 そして、“華琳さま”も。

 

 誰もが、私の敵。

 “あの男”を知らない誰もが、全て。

 周囲を敵に囲まれたまま、気を張り詰め続ける。

 そんな中に身をおき続けることは、もう、限界だった。

「そん、な……」

「…………安心しなさい。あなたは、あなたたちだけは、違うから」

 私の言葉に、私の慰めに、顔を跳ね上げ輝かせる『彼女』。

 見るまでもなく理解できた情景。微笑(ほほえ)みが洩れる。

 だが、『彼女』は知らない。

 そんな『彼女』が、そんな『彼女』の行動が、一番、私を傷付けていることを。

「あなたたちには感謝しているわ」

「えっ……?」

「私がここまで来られたのも、ひとえにあなたたちがいてくれたから。あなたが私に付きまとってくれたから」

「…………あまり感謝しているようには聞こえないのですが」

『冗談よ』と顔を見せることなく私は笑い、続ける。

 ……それにしても、『付きまとっている』という自覚はあったのね。

「あなたの言葉が、あなたの行動が、あなたの何もかもが、全て、私の支えだった」

「――っ」

「明確な好意を寄せてくれるあなたの存在が、どれほど心強かったことか」

「桂花、さま……」

 どのような想いがあってか、声を弱々しく震わせる『彼女』。

 感動が主のように感じるが、どうだろう。

 どちらにしても、好意的なものであることは間違いないだろうけれど。

「ホント、あなたには感謝しているわ」

 だからこそ、心苦しく思う。

 ……いえ、違うわね。

 『心苦しい』なんて、そんな甘いモノじゃない。

 

 吐き気がする。

 

 私自身の、不甲斐なさに。

 

 嗤えてくる。

 

 私自身の、くだらなさに。

 

 私は、落ちぶれた。

 どこまでも、どこまでも、気付けば底辺にまで堕ちていた。

 目先の利益に囚われ、自分のためだけに行動していた私は、周りを見ることができなかった。

 

 『好意を向けてくれる人間がいる』

 

 そのありがたみに、心強さに、気付くことができなかった。

 知らないうちに、気付かないうちに、目を逸らしているうちに、私はどれほど助けられていたのだろう。

 きっと私は、『彼女』にいくら感謝しても足りることはない。

 今の私の、胸が満たされているようなこの感覚は、一生掛かっても返すことはできない恩だろう。

 だからこそ――

 

 

 ――胸が、痛む。

 

 

 『彼女』のおかげで、『彼女』の気遣いのおかげで、大分(だいぶ)楽にはなってはいる。

 しかしこの痛みは、私が受けるべき罰の一つ。

 犯してしまった間違いへの、最低限の贖罪。

 私にとっての嫉妬とは、向けられるには分不相応にも程があるモノで。

 皆の心から、“華琳さま”の心からいつまでも消えない、“あの男”へと向けるべきモノで。

 

「――――でも、違うのよ」

「え…………?」

 

 私はこれから、『彼女』を傷付けないといけない。

 傷付けると判っていて、それ以外の選択肢を選べない。

 私はもう、ここにはいられない。

 これ以上、道化を続けることはできない。

 “気付いてしまった”が故に、私は戻らなくてはならない。

 『元の場所』へ。『在るべき場所』へ。

 帰らなくてはならない。

 

「全部、違う」

 

 これが逃避以外の何物でもないことは、私自身が一番判っている。

 目を逸らし、常に逃げ続けていた私が、一番。

 

「あなたの言葉が、あなたの行動が、そしてなによりあなたの好意そのものが、全部」

 

 だから、私は罰を受ける。

 『彼女』の全てを、私に向けてくれる全てのモノを切り離し、向けられるべき痛みを、在るべき痛みを、心に刻みつける。

 抗うことなく、ただただ、ひたすらに。

 

「あなたの言葉も、あなたの行動も、あなたの好意も――あなたの、何もかもが」

 

 もう二度と馬鹿な真似はしないという、誓いのために。

 もう二度と目を背けないという、証を立てるために。

 

 

 

「――“向けるべき相手(ひと)”を、間違えているのよ」

 

 

 

 今にして思えば、私のしてきたことは全て、

 “あの男”の“影”を追うことだったように思う。

 『学校』の健策然り、警備の強化案然り。

 全て“あの男”が関わった、“あの男”の軌跡。

 “天の知識”などと大仰に評していたのも、全ては“あの男”から目を逸らすため。

 一つ気付けばまた気付く。繋がっていく。無くなってしまった歯車が埋まり、連鎖するように噛み合わさっていくかのように。

 そうだ、そうだった。

 私は、やはり――。

 

「――――桂花さま、私は、私はっ!」

「言わないでっ!」

「――っ!」

 

 意を決し、それでも震える『彼女』の叫びを私の悲鳴が遮った。

 暗い廊下に静寂が広がり、降りしきる雨の土を叩く音だけが響いていく。

 

「お願いだから……言わないで……」

「けいふぁ、さま……」

 

 掠れ震える、絞り出した私の声は、雨に掻き消され暗がりの中に溶けていく。

 『彼女』にそれは届いたのか、私にはわからない。 

 しかし、私の心の慟哭は、止まらない。

 

「…………私は馬鹿じゃないわ。あなたがどんな想いを抱えているのか、私なりに判っているつもり」

「…………」

「嬉しかったわ。幸せだったわ。くだらない想いに縋り付いて逃げることしかできない滑稽な私に、好意を向けてくれる人がいる。あなたのおかげで、私はどれほど救われていたか」

「っ、それなら――」

「――――でも、違うのよ。

 あなたの好意は、私に向けるべきモノじゃない。私は、“あの男”の居場所に醜く居座っているだけ。あなたの言葉も、あなたの行動も、あなたの好意も――――“あの男”の代わりでしかない」

「あの、男……?」

「“知らない”のも無理はない……いえ、知っているはずがないわ。“あの男”は、ここにはいないんだから」

 “この世界”に、“あの男”はいない。

 いないからこそ、私は“影”を追った。

 無論、見つかるはずもなかったけれど。

「“あの男”の周りは、皆笑顔だった。“あの男”が無自覚に放つ輝きで、皆を笑顔にした。全て不幸にした私とは、真逆にいるような奴だったわ」

「不幸だなんて、そんな――」

「慰めはいらない。これは紛れも無い事実。逃げ続けた私が犯した大きな過ち」

「っ…………」

 『彼女』が黙り込んでしまったことで、廊下に再度静寂が満ちる。

 土を叩く数多の雨。人の気配の無い廊下は、凍えるほどに冷え込んでいる。

 扉のとってを握ったままの指が、かすかに震える。

 だけど、

「私は、背負わないといけない。犯してしまった過ちの、責任を。喩えそれがどれほど重くても、辛くても、苦しくても」

 緩む指に力を込めて、とってを握り治す。

「前を見て、胸を張って、歩みを止めず」

 震えが止まる、ことはない。

 止まってなど、くれない。

「どんなときも――」

 正直に言えば、怖い。

 言ってしまえば、言い直すことはできない。

 この世界で学んだ、教訓。

 それでも、私は言う。

 もう、決めたことだ。

 逃げることしか、縋ることしかできなかった私が、

 逃げることをせず、縋ることをせず、

「どんなときも、私は――」

 これから、変わるのだから。

 変わらなくてはならないのだから。

 

『おまえ、変わったな』

 

 馬鹿を言うな。私は、何も変わっていない。

 “あのとき”から、

 “あの日”から、

 何も、変われてなどいない。

 変わっていれば、こんな無様な真似はしていない。

 だから、変わる。変わってみせる。

 辛くても、苦しくても、変わらなくてはならない。

 今すぐ、は無理でも、

 いつか、ならできるはず。

 前を見て、胸を張って、歩みを止めなければ、きっと。

 

「――笑っていなきゃいけないのよ」

 

 だから、私は告げることにする。

 切なげに胸を押さえる『彼女』に、

 滑稽な私にいつまでも好意を寄せ続けてくれた『彼女』に、

 精一杯の笑顔で、

 たった、一言だけ。

 

 

 

 

 

「今までありがとう、『凪』――」

 

 このときの私が、本当の意味で笑うことができていたのか。

 それは“今”になっても、判っていない。

 

 

 

 

 

「……ここは」

 見渡す限りの闇の中心に、私は一人で立っていた。

 ――来たことがある。

 真っ先に浮かんだのは自身の居場所に対する疑問、ではなく、霞みつつある記憶の一片。忘れようにも忘れられない、忘れたいのに忘れられない――

『ようやく来たわけ? どれだけ待たせれば気が済むのよ。やはり“あなた”は馬鹿なのね。無能を付けてもいいわ』

 ――罵詈雑言の数々。

「アンタよくそこまで人を罵倒できるわね」

『間違いなく“あなた”に言われることではないわ』

 どこから聞こえてくるのかわからない、遠いような近いような、はっきりしない場所から届く声は、ひどく神経を逆撫でする。

 鼓膜を震わす数々の罵倒は、腹立たしいことこの上ない。

『だから“あなた”に言われることではないわ』

「お願いだから心を読まないで。寒気がするから」

 あまりにも自然すぎて一瞬流しそうになったじゃない。

『今更何を言っているの』

 見下し小馬鹿にしたような物言いに、頬が引き攣る。

 どうしてここまで人を馬鹿にできるのか、全く持ってわからない。

『…………』

「何よ」

『…………何でもないわよ。面倒なことにしかならないことが判ったから』

 ホント何なのよ、こいつ。

 あれだけ人を馬鹿にしておいて何事もなく平然としているなんて性根が腐っているとしか思えないわね。人間は人それぞれで十人十色なんて言葉があるくらい違うものだけどあそこまでひどいと呆れを通り越して哀れに思えてくるわ。さっき私は底辺にまで堕ちたと言ったけれどさすがにあれには勝てないわよ。何だかんだ言っても下には下がいるとそういうことね。

『………………』

「で、アンタ。いつまで隠れているつもり? さっさと出てきて私の前に姿を晒しなさいよ」

『……………………』

「なに黙ってるの。言いたいことがあるならさっさと言いなさい。アンタの口は何のためにあるのかしら? 飾り?」

 返ってきたのは、大きな大きなため息だった。

『別に何でもないと言ったでしょう。それとも“あなた”の耳は腐り落ちて付け替えられた模造品なの? それとも頭自体が腐りきって理解力が著しく欠如しているのかどっちなの? 不快なことに言語力だけは健在なみたいだけど』

「それはアンタのことでしょう? まぁアンタの場合は理解力以前に思考力が欠如しているから本能のままに言っているのと変わらないわね。もしかしてアンタの頭には豆板醤でも詰まっているの?」

『どこかで聞いたような台詞だけれど、そのまま返してあげるわ。“あなた”の頭にはおがくずでも詰まっているの?』

 止まることなき罵倒の応酬は、流れ続ける川の如く滑るように続いていく。

 こっちが言えばあっちが返し、あっちが言えばこっちが返す。

 貶め合いの蔑み合い。己の誇りと存亡を賭けた、崇高なる舌戦。

 はたしてどれほどの時間が経過したのか互いに判らなくなったとき、その時点で『崇高なる舌戦(意地と意地の張り合い)』は泥仕合の様相を呈していた……泥仕合以外の様相を呈すことなんて最初からなかったんだけど。

「…………ねぇ、一つ提案があるんだけど」

『…………言ってみなさい』

 ようやくできた小さな空白に、疲れ切った声が響き渡る。

 闇で覆われたこの場所に、ため息が二つ、落とされた。

「…………そろそろ辞めない? 正直、面倒になってきたわ……」

『……………………“あなた”が煽って始めたくせに、自分でそれを言うのはどうかと思うけど、まぁ良いわ。面倒なことには心から同意するから』

 再度二つ、落とされたため息。

 漆黒に染まったこの空間そのものが、私たちの心を表すかのように重苦しく感じられる。

 前に来たときもそうだったが、この場所は私の心の在りようがどうしても下向くようだった。

「で、さっきも言ったけど、さっさと出てきなさいよ。見えない相手に罵倒を続ける虚しさ、アンタに判る?」

『知らないわよそんなこと……』

 仕方ないわね、とあからさまに嫌そうな声音で告げ、もはや数えることすら面倒になったため息までおまけに付けてから。

 

 “彼女”は、姿を現した。

 

『元々隠すつもりもなかったんだけど』

 まず見えたのは小さな革靴。白く細い脚。

『気付いたらこんなことになっていたのよね。『なぜ』かしら』

「それこそ知らないわよ」

『それもそうね』

 膝上の短いズボン、浅緑(あさみどり)の肌着に落ち着いた色合いの上着を重ねる、全体的にゆったりとした服装は、“彼女”の特徴と言って良いだろう。

『本当なら一回目のときに姿を見せても良かったんだけど……あまりにも“あなた”が哀れで、そんな気にならなかっただけだから』

「…………」

 もっとも、(しん)に“彼女”の特徴と言えば浅緑の猫耳――もとい、猫耳を模した帽子を指すだろうが。

『別に責めているわけじゃないわよ?』

 顔に掛かった癖のある茶色髪を、透けるように白い手で払い“彼女”は吐き捨てる。

『見下しているだけ。蔑んでいるだけ。貶めているだけ。哀れんでいるだけ』

 皮肉で口元を歪め、瞳を“憎々しげに濁らせる”少女――――否。

 

 

 

『そんな選択をすることしかできない、“私”自身を』

 

 

 

 毎日、毎朝、鏡の向こうに“視る”ことのできる“私”の姿。

 鏡などないこの場所に、寸分たりとも違うことのない“私”自身が目の前に立っている。

『くだらないわよね』

 唯一違うとすれば、“彼女”の顔が笑いに――嗤いに満ちていることか。

『いつまで逃げて、いつまで縋り付いているんだか』

 “彼女”は私に向かって、いつも以上にいつも通りの声で、吐き出す。

 怒りを、不満を、不安を、焦燥を、苦悩を、落胆を。

『ホンット、くだらないったらないわ』

 “やり場のない”苛立ちを、想いに乗せて。

「…………」

 “彼女”の苛立ちは、想いは、闇に呑まれて、消えた。

 

 

 

 

 

『それで、“あなた”はここに何をしに来たわけ? “私”だって暇じゃないんだけど……あれだけ無駄なことを続けてようやくここに来たんだから、きっとそれ相応の用があるのよね?』

 “彼女”が作り出した静寂は、“彼女”自身が斬り裂いた。まさしく棘――刃のような鋭さで。

 今の今まで流されていただけに、全ての感情が抜け落ちた無表情が心底恐ろしい。あれほどの感情にどう収まりをつけたのか。いったいどこにしまい込んだのか。

 それとも、収まりなど“つけていない”のか。しまい込んでなど“いない”のか。

 判断することはできない、が。

 考えるまでもなく、“判る”。

『…………』

 表情のない“彼女”の視線は、興味なさげに私へと(そそ)がれている。『なさげ』と言うには瞳の色が強すぎていたが。

 私は、色の強い視線に晒されながらも、“彼女”を眺め続けていた。居心地の悪さにそわそわと肩を揺らす、こともなく、圧倒されて息を呑む、こともなく、見返していた。

 どこか、冷めた気持ちで。

 『なるほど』と思う。

 “彼女”を見て、改めて思う。

 だが、私は、それを口に出すことなく、顔に出すこともなく。

 思ったことを、想ったことを後回しにして。

 問いへの答えを返すことにした。

 

「ないわよ、そんなもの」

 

 はっきりと、言った。言い切った。

 それは私の宣言に等しい。

『……へぇ』

 細められた目。濃密な敵意。害意と言っても良かったかもしれない。

 それでも私は怯むことなく、正面を見据えて言い放つ。

「私は帰るためにここに来ただけ。通り過ぎるだけのこの場所に、用なんてないわよ」

『…………』

 表情の無い“彼女”からは、どのような感情が渦巻いているのかを察することはできない、が。

 そんなことに興味など無い。どうでも良い。

 私は、口元を歪めた。

 ついさっきまでの“彼女のように”。

「だから、どいてくれる? 通れないんだけど」

 全てを闇に覆われたこの場所に、“道”など無い。

 道が無ければ、“通れない”ことなどありえない。

 “通れない”なら、“彼女(それ)”を避けて歩けば良い。

 だが、そんなことは知ったことではない。

 目の前に立つ“彼女”に、“道”を譲らせるまで、私は動かない。

 “私たち”は、動かない。

『…………』

「…………」

 どうでも良いと言い切って、知ったことではないと決め付けて。

 私の“やるべきこと”を(まっと)うする。

 ただ、それだけのために。

『…………』

「…………」

 睨み合い、探り合う。

 腹の内を、がさがさと、ぞんざいに。

 隠そうとも、隠れようともせず。

 時間が止まったかのように、私と“彼女”が動かない。

 私は、胸を張り受け止める。

 歪んだ口の端は、嗤いを形作る。

 多少“大袈裟”に視えるのは、まぁ、仕方ない。

 

『…………そう』

 

 時間をかけてようやく返ってきた言葉は短かった。

 あれほど強い“意”を宿していた目を呆気なく瞑り、興味を失った“ように”息を吐き出す。

『いいわ、さっさと行きなさい』

 これまた呆気なく、潔く横に身を引き、“彼女”は私の通る“道”を作った。

 先ほどまでの対応からは考えられない“彼女”の行動に、私は上ずった声を上げる……なんてこともなく。

 自然と浮かぶ笑みを抑えることもせずに、瞼を下ろしたままの“彼女”を眺め続ける。

「随分簡単に通してくれるのね」

『言ったでしょう、私は暇じゃないの。“あなた”と違って』

「何よそれ、嫌み?」

『“あなた”がそう聞こえるならそうなんでしょうね』

 どうでも良いと言外に告げる素っ気ない返答。

 視線を合わそうともしない“彼女”が、私の“発言”を気にした様子は無い。

『“あなた”みたいに無駄なことに割く時間なんて、“私”にはないの』

「…………」

『行きなさい。早く、早急に、この場所から消えなさい』

「言われなくても判ってるわよ」

『なら良いわ。二度と戻ってこないことね、迷惑だわ』

「……ええ、そうね」

 早口で言い切る“彼女”につい“噴き出しそうに”なりながら、それでも顔には出さず――これにはかなりの苦労を要した――一歩、踏み出した。

 顔も上げず微動だにしない“彼女”の横をすれ違い、一歩一歩、確実に。

 止まること無く、果てまで続く闇に向かって歩み続け、

 

 

 

『…………一つ、聞いておきたいんだけど』

 

 数歩歩いたところで、足を止めた。

 

 

 

「…………」

 独り言の“ように”聞こえるそれで動きを止め、

 前を向いたまま、“彼女”を視界に入れることも無く、

 在ると“判っている”続きに耳を澄ませる。

『……………………』

 が、“彼女”は“先の言葉”をなかなか口にしなかった。

 それはおそらく、“躊躇い”なのだろう。

「…………何よ」

 だから、“彼女”の背を押すことにした。

 思いの外、声音が不機嫌になってしまったが。

 返ってきたのは、小さな舌打ち。

『……“あなた”はいったい、これからどうするのかしら』

 そして問いかけ。

 吐き捨てたように聞こえるが、“彼女”の心情を鑑みれば、仕方ないと言える、のだろうか。

「……私」

『…………そう。“私”は、“あなた”に、たずねているのよ』

「私、“私”ね……」

「答えなさい、桂花。“あなた”はいったい、これからどうするのかしら?」

 徐々に力強くなったことに苦笑を洩らしていると、ふと、この一連のやりとりに既視感を覚えた――が、

 すぐに“それ”を思い出して、苦笑が深まる。

「帰るに決まっているじゃない」

 淀みなく、“あのとき”とは違う答えを返す。

 悩むことも無く返せたのは、私の中に変化があったからと思って良いのだろうか。

 ……いや、それは思い上がりが過ぎる。

 この程度で変われるなら、苦労はしない。

 これは所詮、“視点の違い”によるものだろう。

 

『――なぜ?』

 

「なぜ……」

 視線を変えないまま、ため息混じりに呟いてみる。

 見ていないため、“彼女”がどんな顔をしているのか判らず、何を考えているのかを窺い知ることはもちろんできない。

 ……のだが。

 

「――――もう、アンタの“茶番”に付き合うつもりは無いわよ」

 

 これほど無駄な問いも無い。

 私には、“彼女”の考えが“全て”理解できる。

 問いかけるまでもなく、私は、判る。

「“判っている”ことを聞くことに何の意味があるのよ」

 『なぜ』なら、

「アンタ、これまでのこと全部、“判っていて”言っていたでしょう」

 私は、“彼女”の心を読めるから。 

 とすれば、“彼女”にとっても同じはず。

 姿形も、考え方も、全てが同じ“彼女”なら、当然だろう。

 

『――何よ、バレてたの』

 

「バレるも何も、隠そうともしてないでしょ、アンタ」

 暗闇に響く再度の舌打ち。が、先のモノとは随分と意味合いが違っている。

『つまらないわね……もう少しの間見苦しく右往左往していればよかったのに』

「何の話をしているの。誰が、いつ、どこで、そんな真似をしたっていうのよ」

『“あなた”が、

 “この前”、

 “ここで”、

 “無様に”、

 “滑稽に”、

 “喚き散らしていた”

 ――ってところかしら』

「…………」

『黙ってないで何か言いなさいよ。それとも最後まで残っていた“言語力”さえ失ってしまったのかしら。あまりの可笑しさに思わず笑ってしまうわね、鼻で』

「…………」

 見下した物言いに、呆れながら振り返る。

 すると、さっきまで閉じられていた眼で私を見下ろす――背丈が変わらないのでこの表現は間違い――“彼女”と視線が交わった。

「楽しそう――愉しそうね、アンタ」

『馬鹿言わないでよ。嫌々“あなた”に付き合ってあげているって言うのにそんなわけないでしょう?』

「口元を思いっきり歪ませて言っても、何の説得力もないわ」

 にやけ、では済みそうにないそれが、“彼女”の表情に出ている。よほど喜びに――悦びに満ちているのか、治まるどころか抑えるそぶりすら見せない。

 無表情だったついさっきまでからは到底考えられない変貌に、自然とため息が洩れた。

 

『――で、それはどうでも良いからさっさと答えなさいよ』

 

「自分で煽っておいて、どうでも良いってなんなのよ……」

 意趣返しのつもりかしら。

 私がやっておいてあれだけれど、理不尽に思えてならない。

「……それに私、もう“茶番”に付き合うつもりは無いっていったはずだけれど」

『だから、それがどうでも良いのよ。いるだけで迷惑な“あなた”は“私”の問いに答えて今すぐここから消えれば良いの』

「…………」

 そんなに迷惑なら何も聞かずに帰らせなさいと思ったが、清々しいほどの勝ち誇った笑みを前にため息しか出ない。

 それにしても、『この世界』に来てからため息をどれくらい吐いたかしら。ため息を吐くと幸せが逃げるとかどこかで聞いたような気がするけれど…………もし事実なら私の幸せは底を付いているどころかさらに下へと掘り進めて悲惨なことになっている気がするのだけど。

「…………なぜ、ね」

 どうして私が、答えなくてはならないのか。

 言に従わなくてはならないのか。

 不条理、滅茶、荒唐無稽。

 言い方は何でも良い。私の心に(わだかま)る暗い感情を上辺だけでも理解してくれればそれで。

 だが、“彼女”は私のこの感情を判った上で、

 『なぜ』帰ろうとするのか判った上で、

 それらが全て私に“バレている”ことまで判った上で、問うてきている。

 腹が立ち、頭に来る。

「――――決まっているでしょう」

 しかし、本気で怒ることができないのはなぜだろう。

 知らないうちに、微笑んでいるのはなぜだろう。

「遠回りしてしまったけれど、回り道をしてしまったけれど」

 ……なんて、自分でも全部判っている。

 “彼女”に私の心が読めるのなら。

 私に“彼女”の心が読めるのなら。

 お互い、考えるまでも無く理解していることだろう。

「ようやく、気付けたんだから」

 本当は、問いに答える必要なんて無い。

 いくら“彼女”が引き留めようとも、答える義務なんて初めからない。

 そんなに迷惑(腹が立つ)なら、口も開かずさっさと帰ってしまえば良かった。

 そもそも、立ち止まらなければこんなことにはなっていない。

 だが、私は、立ち止まった。

 立ち止まって、口を開いた。

 いつだって引き返せる。やろうと思えば、今、この瞬間だって。

 答えることを放棄して、考えることを放棄して、“彼女”背を向けることだってできる。

 でも、それをしないのは、

 

 それが、逃げることに等しいから。

 

 逃げて、逃げて、逃げ続けて、縋り続けてきた私が、もし、

 答えることを放棄して、考えることを放棄して、“彼女”背を向けてしまったとしたら、

 もう二度と、前を向くことも、胸を張ることも、歩き続けることも、できなくなってしまうだろう。

 私は、変わると誓った。

 だと言うのに、私はまた逃げるのか。

 逃げて、思考を止めて、また縋るのか。

「“あの男”の……いえ――」

 否、断じて否。

 そんな馬鹿なことがあってたまるか。

 “無様に”、

 “滑稽に”、

 “喚き散らしていた”私であっても、

 それだけは許されない。認められない。

 私は、変わる。

 もう二度と、逃げること無く、

 もう二度と、縋ること無く、

 前を見て、胸を張って、歩みを止めず、

 一歩一歩、確実に、

 今すぐ、は無理でも、

 いつか、なら、

 ひどく滑稽な私でも、

 変わることができる。

 だから、これは、

 とても小さな、

 それでいて大きい、

 力強くこれからを支えてくれる、

 

 

 

 

 

『――■■のところへ、帰るためよ』

 

 私自身の、一歩目だ――。

 

 

 

 

 

 

 

 ――桂の花咲くはかなき夢に、後編・後【終】

 


 
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