No.33082

マンジャック #3

精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。

2008-09-28 11:52:21 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:327   閲覧ユーザー数:318

マンジャック

 

第三章 役者皆揃す

 

 アジア人、西洋人、アフリカ人。不況が起こっても朽ちること無き経済発展を続ける日本は、今やあらゆる人種が集って来る国となったが、その日本に入るルートで最も一般的なものは、新東京国際空港、成田空港からの入国である。日に数十万とも言われる人間たちを空に飛ばし、迎え入れるこの国内最大の空港は、正に日本の玄関口であると言うにふさわしい。

 その空港のロビーの中、今日も足の踏み場も無いほどにごった返しているその喧騒の中に、既に我々の知っている一人の女性の姿があった。彼女はそのスリムな身体を際だたせるウエストの締まったハーフグリーンのブレザーにタイトスカートという出で立ちで、搭乗を待つばかりという風にソファに腰掛けている。彼女、原尾マキは、もちろん実際に飛行機に乗るわけではない。彼女はノヴァが死ぬ直前に言い残してくれた科白、成田に成木なる男が来るという情報をもとに、対特の同僚十人と共に何かが起きるのを待っているのだ。

 随分と消極的な方法に思えるが、成木と言う男がいったいどういう人物なのか、また何を目的として成田に来るのかが解らない以上、辛抱強く待ち続ける以外に手段が無いのである。

 原尾はサングラスの奥から前を通る人間たちの表情を見比べていた。一口に探すと言ってもこの人数だ、課で手の空いている者たちを総動員して繰り出してきたものの、正直なところ何等かの手がかりが得られる見込みは少なかった。

 そろそろこの場所も替えなくては、と彼女は思う。同じ場所にずっと居続けては、注意深い者なら怪しむはずだ。そうしてちょくちょく場所を替えながら、もう三時間にもなる。

 彼女はソファから立ち上がり、ハイヒールの音を響かせながら歩き始めた。

 今度はどこにしようかしらと周囲を見回していた時だった。ロビーの一方の端にある売店などが連なる一角にある喫茶店の二階、ふっと彼女が視線を上げたその位置に、どこかで見た覚えのある顔が硝子越しに下を覗き込んでいた。ゆとりのある風で外を見ているという態度を装っているが、隠しきれないその厳しい視線は明らかに通行人たちを吟味している様子だ。

 自分達と同じようなことをしているこの男が、地下駐車場で操乱を倒した大野一色と名乗る人物だと思い出して、彼女は直感した。彼の狙っている獲物が我々と同じものだと。

 

 その歩を喫茶店の方に向けながら、原尾の心は時間を数日遡っていた。そうして去来するものは常に思い出したくない光景なのに...。その中心にはくっきりと女がいた。月光を背に黒く塗りつぶされた女。ノヴァを殺して逃げ去ったあの女。

 あの事件は、原尾の中で警察の権威を貶めるに充分だった。だってそうじゃない、原尾は自問する。あの時、我々はそれに対して出来得る限りの備えをしていたのだ。署内の人間を総動員し、対特のメンバーだって残っているものはかなりいた。なのに、なのに。あのジャッカー一人を停める事が出来なかったのだ。

 ジャッカーとはそれほど強大な敵なのだ。そんな奴らを相手にしていったい我々に何が出来るというの? 我々には決定的に欠けているものがあるのよ。それが何なのかを学ぶためにも、これ以上の犠牲者を出さないためにも、私はあの男に会わなければならない。そして...。

 

「合席、よろしいかしら?」

言うなり、返事も聞かずに向かいに座ってしまった女性を、訝しげに見つめた大野だったが、それが誰だかを判断して驚いた。

「いやぁ。マキちゃんじゃないの! 久しぶりだねぇ元気だった?」

いきなり元気よくマキちゃんと言われて原尾は少し赤面したが、ひとまず自分の名前を覚えててくれてたのなら話は早い。

「大野さん...でしたよね、この間はどうもありがとう。おかげで長生きできそうよ。」

「そりゃ結構だね、あんたみたいな美人の手助けだったらいくらだってしちゃうよ。」

 この間もその傾向はあったが、随分と軽い性格の男らしい。商売柄ついつい人を見る目が厳しくなる。原尾はそんな評価をしながら会話を進めていた。

「ところで、今日はデートでもするの? 高そうな格好だけれど。」

 大野は先日のジャケットとはうって変わってセーターの上に軽く上着を羽織り、粗目のGパンをはいていた。

「きついねぇ。俺は今ちょっと野暮用でね、退屈な待ち時間ってわけさ。」

大野はそう言ってコーヒーをすすった。彼女はいたずらっぽく突っ込んだ。

「でも外から見た限りでは、私みたいにここまで会いに来てくれる相手を待っているようには見えなかったんだけど?」

 大野の微かな反応を彼女は見逃さなかった。

「あなたが待っている人って、今日ここで何かをしでかそうとしている人じゃない?」

 

 大野はこれまでより幾分声のトーンを下げて言った。

「それって、どういう意味なのかな?」

「図星の様ね。」

 彼女は少し身を乗り出し、思い切って本題を切り出した。

「私は今日ここである事件が起きるという情報を受けて来たの。あなたがここにいるのはそれと無関係の筈は無いわ。」

 大野は何の事だか、という表情をした。

「とぼけないで。」彼女は強い口調で続けた。

「地下駐車場と今、偶然にしては出来すぎているわ。」

 痛いところを突かれた。と彼は原尾から視線を外してしばし考え込んだが、いくら狭い日本とはいえ、転移犯罪に関係した現場に、二度もたまたま居合わせたと言う弁解には難があると悟ったか。

「君の言う通りだったとして、どうするっての。賞品のハワイ旅行目当てならTV局に行った方がいいよ。」

 開き直って冗談混じりの大野の言葉に対し、原尾の返答は真剣そのものだった。

「協力して欲しいの。」

 唖然として、大野は思わず飲みかけたコーヒーを落とすところだった。慌ててテーブルにカップを置いてから、たまらず彼は笑いだした。

「何がおかしいの?」

「おかしいかって?」憤った原尾の言葉を受けて大野は続ける。「この間も言っただろう。俺はハンターなんだよ。いくらお巡りさんの頼みだからって、商売敵にはいはいと小市民のように協力できると思ってるのかい。」

「つまり、ビジネスじゃなければ動かないっていう意味かしら。」

「その通り。しかもお駄賃程度じゃ眉毛だって動かないよ。」

 

 原尾とて、そのくらいの事は知っていた。認めたくない話ではあるが、転移犯罪に対して警察が決定的な抑止力を持ち得ない現在、情報の秘匿に絶対的な必要性を感じる人々にとって、十年は遊んで暮らせるとも囁かれる法外な金額の報酬を支払ってさえ、大野らジャッカーハンターを雇うという現状から目を背ける事は出来なかった。

 公僕にとってそんな大金を用意することなどできるはずもなかったが、だからといってここで引き下がるわけにはいかない。

「あなたを満足させる事は出来ないでしょうけれど、可能な限りの謝礼は用意するつもりよ。」

「いいっていいって無理しなくても。そんなお金があったらも少し高い化粧品に変えなさいよ。」

「なっ。」原尾は軽んじられている事に対する怒りと不意をつかれた恥しさで頬を赤くした。相手を分析しているのは自分ばかりではない様だ。大野に対する認識を油断できない人物と替えるのに一瞬の時間が必要だった。が、続けた口調は寂しげに響いていた。

「あなたも結局現代人と何等変わらないのね。常に自分中心で、自分の得にならない事はなに一つしない。」

 彼女は静かに立ち上がると、レシートを手に立ち去ろうとした。

「そんな程度でノヴァが残した情報を無にするのか?」

 

 涙を浮かべて原尾は振り向く。大野はわずかに口元を綻ばせた姿勢でリラックスしている。

 足早に近寄るハイヒールの音。店内に響く平手の音...。周囲のざわつきが停まる。

「下劣な。最低だわ。」

ソファに沈む大野を見てはいるが、原尾は頬を伝う涙と右手の痛みの方をはっきりと意識していた。

 振り向いて今度こそ毅然と決別しようとする彼女に、後ろから声が掛かった。

「そんな気合い、持ってるとはね。」

再び原尾が振り向くと、大野はまだソファに寝そべっていた。

「心の弱い人間は奴らにたやすく利用される。エリートお嬢様の浮ついた気持ちではとても相手にならん。」

「大野さん...。」

 

 いてて、と腫れた頬をさすりながら大野は身を起こしたが、ふと視線を外した窓外に注意を向けてその顔つきが変わった。獲物を見つけた狼だと、原尾は咄嗟に感じた。

「悪いけど人生相談はこのくらいにしよう。俺のお客が来たようだ。」

 席を立つ大野の前に原尾が立ちふさがる。

「待って。逃げるの?」

 大野は原尾を見つめた。そして一瞬の沈黙の後...

「客のもてなしは一人で充分だが、美人が横にいると喜んでもらえる。」

「そ、それじゃぁ。」

「ここの払いは持ってね。」

出てゆく大野の本心は既に仮面の下で、ふざけた言動から推し量る事は彼女にもできなかった。

 

 喫茶店を後にした大野は、尾いてくる原尾を気にも止めずにまっすぐ国際線のゲートの方に向かった。

 早足で急ぐ大野を見失わないようにしながらも、原尾は素早く発着時刻表に目を走らせる。どうやら彼は12番ゲートに着くワシントン発AAA便を目指しているようだ。彼女はすかさず近くにいた対特課の捜査員に合図を送り、捜査の包囲網を国際線発着場近辺に狭めるよう指示した。男は無言で了解すると、近づいてきた時と同様にさりげなく、しかし敏速に去って行った。

 

 一見、食物連鎖の頂点に立つと見えるライオンが無制限にその数を増やさないのは、餌の絶対量ばかりに依存しているのではない。驚いた事に、彼らにも天敵はいるのだ。ちっぽけな小型肉食哺乳類がそれなのだが、他の動物にとっては相手にもならないそいつらは、実はライオンの赤ん坊にとってはハイエナよりも厄介な殺人鬼なのだ。彼らは人知れず無垢な子獅子に近付き、喉笛を噛み切って即死させる。親ライオンが気付いたときには、可愛い我が子はまた一人消えているというわけだ。生態系のバランスを保つため、かくも巧妙に自然は百獣の王の間引きを成しているのである。

 有史以来かつて無い無敵の犯罪者マンジャッカー達、だが彼らといえども百獣の王と同様、その宿命から逃れる事は出来なかった。現代社会に於いてもはや超法規的存在となったかに見えた彼らの前に俄然と立ちはだかったのが、彼らを燻りだし、駆りたて、捕らえることの出来る唯一の存在。ジャッカーハンターだったのである。

 

 ジャッカーに対して物理的な遮蔽を持つ事は、馳が着ていた転移防止スーツからも推し量れるように、現在の科学では不可能に近い。それがジャッカー達をして人々を恐怖させしむる要因なのだが、そんな彼らに抗し得る手段は、意外にも科学のメスの届かぬところにあった。

 そもそもマンジャックとは、自身の身体の制御を他人に乗っ取られるというところから付けられた言葉である。ではジャックされないためにはどうすれば良いのか。制御を奪われなければ良いのである。

 しかし言うほどこれは容易ではない。本来人間の精神は肉体の状態によって左右されるものだ。身体が疲労すれば眠くなり、空腹になれば不機嫌になり易くなる。そしてジャッキング、つまり他の者の精神を転移させられたとき、被転移者の身体内の血中にはアセトアルデヒドに似た物質が分泌される事が知られている。その様はありていに言ってしまえば、酒を飲んだときと同じになるのである。結果大脳の働きは抑制され、被転移者の精神は泥酔時に近い陶酔に陥るのである。被転移者の精神活動がそれほど低下してしまうからこそ、身体状況に影響を受けない外来意志、つまりジャッカーは悠々と身体操作を成し遂げる事が出来るのだ。

 身体制御を奪われない方法、それはこれほど不利な精神状態にあってなお転移して来た精神よりも強く己を確かなものにしておくよりほかないのだ。こんなことができるのは強靭な精神を持つ人々の内でも更にごく少数の者しかない。

 そを支えるのは苛烈極まる修行の証か、はたまたジャッカーに対して消えること無く滾る憎悪か、いかなる肉体的ハンディさえをも跳ね返す鉄の心を持つ者達、ジャッカーハンターとはそういう人間達なのである。

 

 ハンターにはアウトロー的な粗野さを匂わせる者が多い。原尾も実際何人かのハンターに会ったが、とても普通の社会生活を営めるとは思えないという印象を持ったものだった。

 ところがこの大野はどうだ。端目にはジャッカーはおろか町のチンピラにさえやられてしまいそうなやさ男に見える。前を歩く男について考えれば考えるほど、原尾にはこの男がジャッカーハンターであることが信じられなくなるのだった。

 

 成田名物の大建築物であるビッグバードの数百mに及ぶロビーを10分も歩いただろうか、原尾の予想通りに大野は12番ゲート近くの壁の影に身を寄せた。彼女もその傍らで周囲を窺う。ゲートの部分には出迎えの人々が大勢いたが、とくに怪しいと思えるような人物がいるようには見えない。他の場所にももちろん大勢の客がいるが、同僚の姿がちらつく他は彼女の気を引くものはなかった。目的の便はそれから5分もしないうちに定刻通りの着陸を無事に遂げたらしく、税関の方が賑わしくなっていた。

 原尾はそれとなく切りだした。

「パシフィック氏?」

「よく判るね。」大野はあっさりと答える。

「芸能人のお出迎えじゃない事くらいは判るわ。」原尾は大野を見て続ける。

「あなたも彼が目当てなんじゃ無いの?」

「冗談でしょ。俺のお客はあくまでもジャッカーさ。」

 

 アララト・パシフィックと言えば、医薬品メーカー最大手のカタストロフ社の重役である。精神安定剤などで名高い同社が、日本の市場にも参入しようと画策している事は有名で、日米政府高官レベルでの実務協議の模様を流すニュースフィルムにもしばしば顔を出している。が、それほどの企業の重役、しかも米政府にすらその権限は及ぶとされる人物が、マスコミすら知らぬ程ひっそりと入国しようとしている...。今日の事件のキャストの一人として、大野が彼に的を絞ったとしても不思議はあるまい。

 

「来たぞ。」

表情を厳しくして大野が低い声で言った。原尾がその視線の先を追ってゆくと、遊歩道に乗って大勢の人々がこちら側にある出口に向かっているのが見えた。

 乗客の中程、中肉中背、派手な柄のシャツに白い半ズボンの男がパシフィックだ。隣にはパシフィックと同じ様な服装の男が同行していた。はげ上がった頭に丸い銀縁眼鏡を掛け、疲れたようにうつ向きがちに歩いている。観光を装いたいんだろうが、どう見ても無理がある。同行の男は向こうで飛行機に乗る十分前まで実験していた研究者という風に見える。やがて他の人波と同様、彼ら二人もゲートを抜け、ロビーに出てきた。

 すぐに彼らに近づいた男女がいた。事務屋特有の歩き方を見ると男は在日大使館の者だろう。女はその妻と言うところか。わざわざ自分達に会いに来てくれた親戚のおじさん方を迎えに来たと見せたいのだろうが、抱き合うどころか握手さえしないのはどう考えても不自然だ。荷物を待っているのだろうか、四人はその場で話し始めた。大野は腕時計か何か、腕のあたりをごそごそやりながら様子を窺っている。

 

「相当の隠密の様ね、あれほどの人物がガードもつけないなんて。」

原尾は疑問を口にしつつ大野の方を見た。が、彼がさっきよりも緊張している事に戸惑った。

「廻りを見てみな。気づかないか。」

大野に言われて周囲を見回した彼女はハッとした。囲まれている...。

 

 ロビーの東側、ゲート出口から10mほどのところにパシフィック氏達、彼らを取りまくようにして原尾や大野らをはじめとした対特の面々が散見する。と言ったところが一分余り前の原尾の状況確認だったのであるが、彼女が再び周囲に目を向けたとき、それは一変していた。

 散らばった対特のメンバー達はそのままに、その近くに明らかに欧米人の平均より10cmは高い身長を持った筋肉質の男達が混じっていたのである。確かに彼らの人種構成は一見様々で、しかも装いも普段着からスーツ姿まで各種バラバラだ。だが原尾は、彼らが一様に利き腕を身体から僅かに離している事、つまり脇に拳銃を隠し持っている事を見て取った。そして決して緊張を解かない彼らの視線は臨戦体制そのものである事も。

「あそこ見てみな。」

大野がわずかに顎を動かして示した先では、馳がキョロキョロとあからさまにそれと判る見張りを続けていて、原尾は思わず額に手を当てた。馳は自分のすぐ後ろに白系の大男が自分を監視している事に気づきもしないようだ。

 

「あいつらみんなパシフィックさんとやらの護衛だぜ。しかもあの殺気、ボディガードなんてもんじゃない...シークレットサービス...いや、むしろ軍隊か。」

大野の分析は当たらずとも遠からずと言ったところだろう。原尾は新たな状況の分析にやっきになっていた。これほどの警戒をするという事は、彼らが極秘裏に入国しようとしていた情報が洩れた事に、彼ら自身気付いていると言う事だろう。これだけの組織を動かすに足る事が起きるという事なのか。

 『成木がここに現れる』 ノヴァの遺した最後の言葉が彼女の脳裏をよぎる。

 

「成木が狙っているのは彼なの?」

ズバリと原尾は聞いた。彼女の口から簡単に成木の文字が出た事に大野は少し驚いたが、やがてあっさり首肯した。

「成木黄泉(よみ)。これだけの警戒の中、お前はどう出る。」

 

 警察が成木のことをどの程度の人物として捉えているかなど大野にはどうでも良かったが、少なくともジャッカーハンター達の間では成木の名前は知らぬ者などいなかった。転移に対して屈強な精神力を持ってその攻撃に耐える筈のハンター達が、もう何人も成木に命を奪われたとされるからだ。一夜にして三人のハンターが絶命した半年前の未解決事件は、決して成木と無関係ではないというのが専らの噂なのだ。

『黄泉への案内人』 成木という名さえ本名かどうか判らないが、彼をして巷間に黄泉と名されたのはここからだった。

 これまでにない強敵が来る。言い知れぬ昂揚感が大野を包んでゆくのが彼には感じられた。

 

「あそこ見えるか。違う、あのポスターの向こう。」

原尾が視線を移した先には一人の女性が立っていた。ブロンドの髪からしなやかなボディに流れるラインはくっきりとその服に写され、出で立ちは秘書風だが全身から妖艶な美しさを漂わせていた。髪の色にも関わらず顔立ちは日本人の趣だ。その瞳は静かに手にしたブーケに注がれている。

「ああゆう人が好み?」

原尾の冗談に大野は取り合わず話す。

「あの女に見覚えはないかい?」

「いいえ。」

「そうかい。じゃヒントだ。彼女は人間離れした体力を持っている。」

「...!!」

「警視庁前の噴水の中に潜み、ノヴァにとどめを刺した女、それが彼女さ。」

 

 原尾は驚愕して叫びそうになるのを慌ててこらえた。あそこに見える女がノヴァを殺した女なのか。我々警察をいとも簡単に出し抜いた女なのか。

 しかし落ちつくにつれ、どうにも原尾には解しかねてきた。月をバックにシルエットとなったあの時の女のイメージ。顔の輪郭などは確かに似ていなくも無いが、あの時女は2mは跳躍したではないか。拳銃の狙いすらつかぬ程の脚力を見せたではないか。原尾が見ているその女性からは、美しさを感じこそすれ、超人的な運動力を持っているようにはとても見えなかったのだ。ジャッキングされている間はジャッカーの意志によってその能力を引き出されるとはいえ、せいぜいそれは女性が男性並の力が出せるといった程度である。比するに警視庁前でのあれは、とても人間技とは思えなかった。

 

「信じられない…。」

「成木について判っている事はほとんど無いが、一つだけ判っている事は、奴は事を起こす時は必ず自分でやるが、奴は犯行現場には必ず依童(よりわら)の身体で来るということだ。」

 神道などでは神のお告げを聞くような時、神を子供などに"憑かせて"その口を通して語らせるという方法を取る。このように"憑く者"が宿る媒体を依代と言い、それが童のときに依童という。転移心理学においては転移者が転移するのは人間なので、被転移者の事を便宜的に依童と呼んでいる。

「彼女は日系ロシア人で名をソーニャ河合という。成木のパートナーにしてもっとも信頼されているとされる人物だ。」

 大野は断言した。

「彼女が出てきたからには間違いない。成木はここに来ている。そして彼女の中にいる!」

 

 たまりかねて原尾が言う。

「で、では何とか彼女の身柄を拘束しないと。」

「正気か? こんなに一般人の多いところで事を起こして、マンジャッカーがいると知れようもんなら大パニックだぞ。それに...」

 大野は廻りを促した。

「この状況を忘れたわけではあるまい。下手に動けばこっちが危ない。」

「じ、じゃあどうすればいいの。このまま手をこまねいて見ていろと?」

「婚期を逃しているわけじゃなし、そう慌てなさんな。窮しているのはあちらも同じだ。」

 そう原尾には言ってみたものの、実際大野にも成木の次の手が読めずにいた。

 既に言及したように、パシフィックの廻りには軍族らしき連中が取りまいており、河合が妙な事をすればたとえ女であろうと撃たれかねない。原尾ら対特も、警視庁では手玉に取ったとは言え、なればこそ背水の陣の気迫で自分に向かってくるであろう事くらい、成木とて分かっているはずだ。

 転移犯罪を為そうとするジャッカーにとって困難な時は一般的に言ってジャッキングの前後、つまりジャックする時と自分の身体に戻る時なのだ。現在の状況はジャッキングするにはどう見ても不利な状態ではないか。

 なのにあそこにいる河合の落ちつきようはどうだ。河合の中にいるはずの成木の落ちつきようはどうだ...。

 

 ちょうどその時、大野らと反対側の端の壁際にあるトイレから、白人の男の子がひとり走り出てきた。ヤンキースの帽子をかぶった半袖半ズボンのその少年は元気な足どりでこちらに向かってきて、ヨボヨボと歩く老婆の脇を軽く躱しながら河合の前を走り抜けた。そしてそのまま我々の緊張の輪の中に飛び込み、パシフィックの方へと向かった。

 周囲のボディガードの連中はさしてこの少年に注意を向けていないようであった。してみると、彼は大使館夫妻の子供なのだろうか? 大野もこのかわいい陳入者への興味を無くし、彼から視線を外そうとしたが、大野は彼が何か手に持っている事に気付いた。

 トイレからでてきたときは手ぶらだったような気がするんだが、大野が何気なく少年の持ち物に目を凝らすと、それは美しいブーケであった。

 !!。大野はすぐに視線を河合に戻した。彼女はさっきと違い放心したように虚空を見つめ、しかも手にしていた筈のブーケが無い!!

 

 ブーケ…子供…ブードゥー

頭の中に単語が飛び交う中、思わず大野は飛び出していた。聴覚のどこかで原尾の制止の声を聞いたような気がしたが、もはや彼を止める枷にはならなかった。

 なんて奴だ。老婆の死角になったあの一瞬に、河合がブーケを少年の前に差し出し、思わず受け取った一瞬で成木は転移したのだ。そして子供に憑依した訳も知れた。転移犯罪が日本ほど日常的でないアメリカでは、子供をジャックする事はできないというブードゥーの根拠のない迷信が流布しているのだ。ボディガード達が事実を教育されたとしてもこういう迷信は頭から簡単には消せないものだ。油断は一瞬でもジャッカーには絶好の隙になる。

 少年は父親である大使官員の脇に走り寄ると、ブーケをパシフィックに差し出す。花を受け取り、慣例的にパシフィックは男の子に手をさしのべる...。

 

 突然の大野の行動に対して影のボディガード達が静観するわけもなく、大野には数人の男達が向かってきた。殺気を含んで繰り出される男達の拳を大野が難なく交わす様は、呆然と立ち尽くす原尾を驚かせた。しかしもっと彼女を驚かせたのは、男達のうちの幾人かは密かにナイフを手にしているのに、大野はそれを左腕で主に受けている事だ。

 あの時と同じだわ。原尾は大野と初めて出会ったときの事を思い出した。束横線東川駅の地下駐車場での操乱逮捕劇のときだ。馳をジャックした操乱が銃を使ったあのときも、大野は今と同様左腕でブロックした。いったいあの左腕はどうなっているのか。周囲の一般客の誰かが悲鳴を上げている。ガードの男達が人々を突き飛ばしながら近づいてくるのだ。また一人立ちふさがった彼らの一人を、大野は風のようにすり抜ける。

 

「やめろー!!」

大野は叫んだ。しかし、思わず日本語を使ったことが災いした。自分の事とは思いもせず、パシフィックは握手を交わしてしまったのだ。少年の顔が一瞬放心するのが見えた。

「!」 その瞬間、大野は自分の身体が浮き上がるのを感じていた。そしてすぐにそれは、ロビーの床に叩き付けられたときの激痛にかき消された。

「頭がおかしいのか? ジャップ!」

軽い脳震盪に襲われている大野の耳に、米語特有の悪態が届く。彼はすぐに自分の状況を確認する。サンボか何かか、大野の右腕はがっしりと関節技にきめられている。恐らくはドイツ系であろうこの男に、今の大野は手も足も出ない。

 

 ここでちょっと余談。当然この男は英語で話しているのだが、エリートという設定の原尾は論外として、大野も仕事がら他国語に接する機会が多いため、この小説の中では英語等異言語間のコミュニケーションに於ける不都合は無いものとしている。因って以降どの言語で話しているかという事については必要時以外特に記さない。筆者の英語力をこの程度の事で推し量ってはいけない。

 

 はがい締めにされながらも大野は視線をパシフィックと子供に向けた。二人は何事かという表情でこちらを見ている。少年の方は乗っ取られていた事にも気付かないようだ。面倒な事になりそうだ。だが、まずは上の奴を何とかしなくては。

「このでかぶつ、俺は漬物じゃないぞ。さっさとどけ。」

「嫌だね、お前にはピクルスになってもらう。」

 

 今やロビー内は騒然となっていた。突然起こったこの出来事に対してパニックになりかかっているのである。これ以上騒ぎを大きくしてもしジャッカー関係の事件だと判ったら最後だ。原尾はそう判断して警察手帳を高々とかざした。

「皆さん落ちついて下さい。何でもありません。ここは警察に任せて下さい。」

すかさず大野も口裏を合わせる。

「酷いよ刑事さん。訓練だからってここまでやるこた無いじゃないですか。俺こんなバイトもう嫌っすよ。」

 情けない言い方だったが、この一言は効果があった。全体の緊張が解け、ゆっくりと一般客は平生に戻っていった。

 パシフィック側の他のガード達も周囲に集まっていたが、対特の面々が警察である事を公言し、その場を取り繕いにかかったのでその殺気を消した。

 

 ガードの一人が突き飛ばした中年女性にさんざん文句を言われている馳の横をすりぬけて、大野の元に原尾が走り寄ってきた。そして大野を組み伏せている男に呼びかけた。

「待って下さい。我々は警察です。怪しい者じゃありません。」

 原尾は男に警察手帳を見せたようだった。対特という文字に納得したのか、男は大野の襟首をつかんで立ち上がらせた。

 

 大野はあらためて眼前の男を観察した。190cmを軽く越える大男で、彫りの深い眼窟の奥に潜む青い瞳は炎を上げてこちらを見ている。着こなしたダークスーツの中は鍛え上げられた身体が納まっている。この男、ただ者ではない。大野のスピードとパワーに勝り、なおかつ受け身すら許さなかったのだ。

 もはや他人の振りをする事は無意味と判断したのか、こちらの顛末が一段落ついた事を見て取ったパシフィックが、男に声を掛けた。

「済んだのか。クール。」

クールと呼ばれたこの男は、パシフィックにOKのサインを送ると原尾に言った。

「この国ではいきなり乱闘を始めるのが礼儀なのか。」

「なに言ってやがる。お前らが先に手を出してきたんだろうが。」

「いい加減にして。」大野を制して原尾は続ける。「突発的な行動に対してはお詫びします。しかし、彼にはそれなりの理由があった事でしょうから。」

「馬鹿を言え。こんな奴に理由などあるものか。」

「あんたらのボスがジャッキングされたんだよ。」

大野は周囲に聞かれない程度の小声で苛ついて言った。原尾は一瞬驚愕の表情を見せたが、肝心のクールは全く動じていない。信じられんな、と取りつくしまがないといった感じだ。

 表層違和(後述)が無いから無理もないか。しかしそうは言っても、転移犯罪に対するアメリカの認識は予想以上に甘い、大野は心の中で舌うちした。パシフィックは自身の来日情報の漏洩に対して、テロリズムか何かによる攻撃を想定してボディガード達を布陣していたらしい。厄介な事になっちまった。

「よろしければパシフィックさんを調べさせてもらいたいのですが。」

原尾が機転を利かせて申し出た。

「ボスは秒単位のスケジュールをこなさなくてはならない。そんな暇があるはずがない。」

「では身辺警護に我々警察も同行してよろしいでしょうか。」

うまい。大野は思った。彼らがおおっぴらに動けない以上、こちらの要請を固辞することは彼らにとって不利な筈だ。

「勝手にしろ。」クールは吐き捨てるように言うと、パシフィックの方に歩み去った。あれほど周囲を取りまいていたガード達もいつのまにかかき消えていた。

 

「いいぞマキちゃん。助かったぜ。」

大野は原尾の肩に手を置くと、彼女はその手を払いのけた。

「あの少年から?」

 大野は無言でうなずく。

「そうだったの...。それにしても、いきなり飛び出したのはどうかしてるわ。切迫した状況で無茶するなって言ったのはあなたの方でしょ?」

「すまん。ちょっとカッとなっちまったよ。」

あっさり非を認めた大野に、原尾は拍子抜けしてしまった。

「もういいわ。それより、チャンスはあと一回ってことよ。」

「ああ。」大野の厳しい表情の視線の先には去っていくパシフィックがいた。大野には見えなかったが、その口元には微かに笑みが浮かんでいたのだ。

 

 大野、クール、そして成木。三人のライバルの死闘はこうして始まったのである。

 

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第四章へ続く

 

 


 
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