No.33081

マンジャック #2

精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。

2008-09-28 11:48:31 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:374   閲覧ユーザー数:359

マンジャック

 

第二章 警察vs.ジャッカー

 

 

 警視庁本庁舎の七階、設置されてからさほど齢を重ねていないその部屋は、従来の様な無骨な刑事のたむろするイメージとは違って、レイアウトを凝らしたシステムデスクと、その上に置かれた無数のケーブルが繋がれた端末が占めていた。ネットワークによってOA化されたその部屋は、寧ろオフィスと言った方が的確なようだ。

 最新設備で整えられたこの部屋だが、この部屋の端末が地下の大型コンピュータにアクセスして調べる資料、セーブしておく事件のほとんどを占めるのは、最近とみに頻発する転移犯罪についてであった。

 そう。原尾マキと馳が所属している組織である対特殊犯罪捜査機構。その捜査課がこの部屋なのだ。

 

 もうすぐここに懸かってくる一本の電話が、この物語を押し進めることになるのだが、ここで読者には少しだけ、寄り道をしてもらおう。

 ”転移”なんて言葉を、もう少し身近に感じてもらうために...。

 

 もう二十年は前のことになるのだろうか。都内の某高校でのことだ。

 その高校に通う生徒の一人、仮にここではTとでもしておこうか、彼はそこで日々酷い虐待、いじめを受けていた。肉体的にせよ精神的にせよ、彼の受けるそれは酷なもので、集団がよってたかって成すそれは、リンチと言った方がいいほどだった。来る日も来る日も繰り返されるそれは、一向に改善される様子もなく、助けを請うべき友人には、巻き込まれたくないとそっぽを向かれ、教師も見て見ぬ振りをする。

 卑怯で陰鬱で、しかし悲しいことに、日本ではよくある光景。

 生き地獄の責め苦。Tはそのたびに、自分の心の中にある何かがはずれそうな気がしていた。具体的にそれが何かは彼にも分からなかったのだが、大脳の...いやもっと奥、脳幹の更に奥からの衝動のようなものが、彼には見えるような気がしていた。

 人生の多くを学生として過ごすしかない若者にとっては、日々は遅々として進まず、彼のストレスは蓄積するばかりだったろう。そして集団は迫害の中心に今日も彼を置く。彼のパーソナリティーが徐々に削られていく。彼の意識する壁が、昨日よりも脆く、薄くなっていく...。

 その日もTはいじめにあっていた。屋上の手すりの外側に彼はいた。五~六人の生徒が彼をはやし、急き立てる。手すりを離して屋上の周りを回って見せろと言うのだ。さぁやれ。今やれ。

 Tはもちろん手すりを離せるはずもない。だが生徒達はそれでは許さない。自分達の気分が高揚しない...つまらない。彼らの心の中心にはあくまで彼らしかなく、Tは彼らにとってストレス解消のサインを出すモノ以上にはなり得ない...。

 この時、彼らの脅しの言葉はTの耳には入っていなかった。Tはこの状況に於いてまたあの気分、漠然とした衝動...が見え隠れしていたのだ。

 今日のそれは今までにないくらい激しかった。それを覆い隠すには、あまりにも壁は薄くなりすぎていた。もはや透けて見えるほどのそれ、響いて伝わる音...。不意にTは、衝動は、絶対零度よりも冷酷な炎であると、感じた。と同時に、彼は気づいた。原始の深みより湧いてくるものと思っていたそれが、実は自分の周りにあるのだということを。個人、孤独、圧迫...。Tの中には既にその程度の感情が交錯するだけになった。

 ぷつんと切れた...。生徒の中の一人が、面白半分に彼をこづいたのだ。汗を握っていた手は、いともあっさりと手すりから離れる...。

 その時、大きく見開いたTの眼にもはっきりと見えた。割れた壁が崩れ落ちるのが。そして、その先に見えたのだ、衝動が...氷の炎が!!

 それは生徒達の心だった。自分を見ている者達の心の姿だった...。

 Tの中の最後の部分、生物としての何かが悲鳴を上げて止めようとしたが、無駄だった。落ちまいと必死にしがみついたある生徒の腕を通して、それは起こったのだ。

 Tはその新たな眼で、自分の落ちていくさま見た。コンクリート舗装された地面にたたきつけられ、見る間に鮮血を広げていくTの身体を見た。

 精神の転移が起こったのだ...人間の、いや、おそらくは全生命初の転移が!

 

 自分を突き落とした生徒達の一人に転移したTは失神し、自分の身体の後を追うように、落ちた。

 その日の夕刊には、『高校生二人転落死』と小さく報道されただけ、悪質ではあっても単なる不幸な事故と判断されたそれはすぐに忘れられたが...。

 現在の警視庁の大型コンピュータにすら記憶されなかったこの不幸な小事件が、他人の身体の中に己の精神を移動させる、転移行為が起こった最初の例なのであった。

 

 はじまりより悲劇をはらんだ異端者達とそれを取りまく者達の生き様が、これから語られてゆくのだ。

 

 その部屋の角の方、夕日の差し込んでいる机の上に置かれている端末の横の電話が鳴った。

 その、二回目のコールが鳴るか鳴らないかのうちに受話器を取った。原尾だ。

「はい、対特捜査課です。ご用件は何でしょうか。」

 少しの間を置いて、受話器の向こう側の相手はしゃべり始めた。

「わ...私、頼みがあるのですが...。」

 声の感じから四十代の男性、微妙にアクセントの違う発音と丁寧な話し方は外国人労働者か。原尾はそう判断した。

「おっしゃる意味が良く分からないのですが...」

「すみません。頼みと言うのは、身柄を保護してもらいたいのです。」

 原尾は訝って聞いた。

「どういう事なんでしょうか、あなたの現在の生活に関する不安ということでしたら、一般の警察の管轄ですからそちらに廻しましょうか? それともこの対特内でないと...」言いかけの原尾を男は遮った。

「ある男に追われているんです。その男は...普通の人間じゃないんですよ。」

「と言うとつまり、転移可能者だと?」

 そうですと相手は言った。だが原尾は本気で相手をしようとはしていない。ノイローゼ気味になった人が生活を続ける事に疲れ、疑心暗鬼から周りの人間をジャッカー扱いして電話してくる例は結構多いのだ。私の隣人は実は宇宙人じゃないだろうか。でなければ秘密結社の会員で世界征服しようとしている...。ジャッカーの社会に与えた影響力を思えば、そんなところに引き合いに出されるのも分からないでもないが、いちいち構ってはいられないというのが本音のところである。

「ジャッカー犯罪は重罪なんですよ。根拠もなく他人を転移可能者だと誹謗するのはいけない事ですよ。」

「私はそういう人間に多く接する機会を持っています。その手の人間の怖ろしさは、えーと、感覚で見分けられるのですよ。」

「そんな感覚を持っている人が何故その人から逃げられないのです?」

原尾はそら見た事かと思いつつ言った。そのうち辻褄が合わなくなるのだ。

「私はジャッカーが増えてきたからこそ成り立つ商売をしているんですよ。信じてもらえませんか...、操乱が束横線でジャック事件を起こすという情報を流したのが私だと言っても...。」

 原尾は思わず受話器を落としかけた。

 

 たといそれが誰にも気づかれなかったとしても、転移はもう起こってしまったのである。いったんそのたがが外れてしまえば、雪解けで流れだした春先の河の奔流が留まることを知らないように、転移可能な人間も、着実にその数を増やしていったのだった。

 

 どうしてそうなったか。そもそも、どうして転移などという不可思議な心理現象が起こるようになったのか、答えられる人間などいない。だが、軋みのできた世の中に、カオスとカタストロフの到来を告げる奇形が生まれて来るのはもはや必然とさえ思える。偶然にもこの確率に当たって奇形となってしまった不幸な者達が、予言者になり革命家になり、神になり悪魔になったのである。

 人が自らを育み、否応なく存在を強制されてきた社会という枠にさえ不協和音を軋み出すようになった時代。そんな現代にあってはこんな奇形すら、もはや当然生まれるべくして生まれたということなのだろうか...。

 

 社会という集団はしかし、それを認めない。昨日より確実に年老いている自分を認めない若者のように、それは常に永遠を求めているのだ。自分から目覚めさせたことを忘れて、夢を破壊したといっては弱者を責める。

 精神が自分の身体から抜け出し、他人の身体に移るという特殊能力を持つ者、つまり転移者達が最初に世に知られるようになった時、意外にも社会の反応は小さかった。いかがわしいゴールデンタイムの娯楽番組のネタとして、脳味噌の軽い女子大生を驚かす程度のトリックとしか思われなかったのである。今でもその風潮は残っているが、学問の追究のネタとして心理学者が転移を研究しようものなら、まるで変人扱いされたものであった。

 その気風を吹き飛ばし、転移が地球生命に及ぼした足跡はガガーリンを凌駕する程のものであると発表して一大センセーションを起こしたのが、当時束大医学部の名誉教授であった最土(もど)隆であった。

 彼はTVのショウなどで曖昧であった部分を徹底的にそぎ落とした実験に依って、ある情報を与えた転移者に転移行為をさせた後、被転移者の身体を用いて語られる情報が、本人の精神が移動したとしか説明のしようがないほどに正確である事を示した。そればかりか、従来の心理学では考えられない現象の多くを発見し、転移心理学といわれる一分野をさえ開拓したのである。

 サーカスの見せ物と大した違いはないという程度にしか考えていなかった世の耳目は一転ここに集まり、転移行為は社会の隅々にまで認識されるに至ったのである。

 しかし、転移可能者達の不幸は正にそれ故にこそ始まった。転移に対する知識が深まるにつれ、彼らが一様にひた隠しにしていたある事実をも、露呈してしまったからだ。

 転移行為が、転移した先の身体を支配するだけではなく、とり憑いた人物の思考も知る事ができるという事実を...。

 

 いつ、どこで身体を乗っ取られるか分からない、しかも自分の考えている事が知られてしまうという恐怖が人々の脳裏をよぎり、転移可能者達を見る際の偏見が固まってゆく。他人の考えを読むことができる山姥の昔話の例えを出すまでもなく、それは、人々をして彼らに対する警戒感を起こしむるには十分だったのである。

 しかも、このような機運を加速する事件が起こった。転移を利用した犯罪が起きたのだ。

 銀行の頭取をジャックしてその銀行の一部始終を知ったある男が、ガードマンをジャックして現金輸送車ごと遁走したのである。

 

 彼らに対する評価はこうして一変した。瞬くうちに彼らは阻害され、差別される存在となった。まるで中世の魔女狩りのごとく、それは陰湿で、執拗を極めた。転移可能者達は、その能力を持ってしまったばかりに、いわれのない迫害を受けるはめに陥ってしまったのだ。来るな、触るな。誹謗中傷が彼らを痛めつける。転移可能者という烙印を捺された日から、それは始まる。

 彼らが次第次第に社会の影に身を潜める事を余儀なくされ、少なくとも表向きその存在を消していったのも無理もないことだ。

一年もしないうちに転移行為は影もなくなった。異端者を追放したことで、街にはかりそめの平穏が再び訪れ、人々の口には再び偽善の数々が漂うようになった。

 

 だが傾いた太陽は再び天頂に昇る事はない、いかに隠そうと、彼らは見えなくなっただけで、いなくなった訳ではないのだ。

 生得の性質を攻撃され、根拠のない差別を受ける。そんな矛盾に憤らぬ人間はいるはずもない。

 社会に対する憎悪を持って、転移可能者の一部は再び世に現れた。

 復讐に舞い戻った者たち、それが、マンジャッカーである。

 

 とにかく電話では話にならないので、原尾は警視庁に来るように相手に言った。二時間後、午後8時を過ぎた頃に、警視庁庁舎の正門の前で待つ原尾と馳は、振り返り振り返りしながら二人のそばまで走って来た男に気づいた。時期からするともう暑いだろうに、皺のついたみすぼらしいコートを身につけ、アジア系で歳の頃40代と思われる顔立ちをしたその男は、原尾が声を掛けると、息咳ききって近寄ってきて、

「助けて、追われているんです。」

と言って、二人の前に倒れ込んだ。電話口で聞いた声からは信じられない程のおびえようだった。ここまで来るまでに余程怖い目にあったのだろう。

 

 すぐに二人は男を医務室に運び込んだ。医師の診断によると、特に外傷を受けた形跡はないので、ショックで気絶しているだけだろうとのことだった。彼らは男を寝かせておくことにした。

 

 午後も10時を回った頃、男は目覚めた。男は、ノヴァ・ラティンと名乗った。チラン人で、日本にはもう十五年いると言った。一種の情報屋のような仕事をしているらしい。経済発展の時に渡日して、バブル不況のこの国に放り出された末に、そんなものでしか喰いつないで行けなかった不法就労者の一人といったところだろう。

 そんな話をする中にも、彼はきょろきょろと怯えたように辺りを窺い、

「あいつはきっとここにも来るんですよ。その時はどうか助けて下さい。」

としきりに懇願するのだった。

 

 男は万事そんな調子で話しがいっこうに要領を得ないので、落ちつくまでもう暫く休ませる事にして、原尾と馳は医務室を出た。

 廊下に出ると、馳はここぞとばかりしゃべりだした。

「あいつ、信用できるんですか? なんだか怪しいですよ。ちぐはぐな事しか言わないし。」

 原尾は歩き始めつつ言った。

「確かに、信用できるかどうかは判らないけれど、操乱の事を知っていたとなると、少なくとも情報屋というのは本当なんだと思うわよ。」

「情報屋って言ったって、立ち入った事になるとすぐにはぐらかしてしまうんじゃ、たいした奴じゃ無いんじゃないですか。」

 その言葉にすぐには答えず、エレベーターの前に止まって少し考えてから原尾は言った。

「う~ん。でも、情報屋ってそういうものなんじゃないかしら。闇に生きる人ってのはしたたかさがいるものなのよ...。そう、私が気になるのはむしろそこ、したたかさの中味なの。」

「したたかさの中味? というと?」

 原尾はスイッチを押してエレベーターを呼んだ。

「例えば、操乱の事ね、情報屋なんてそれで商売しているんだから、我々に匿名電話を奉仕で掛けてきたとは考えられないでしょ。だったら、何故わざわざ我々に知らせたりしたのか。そこには何らかの損得勘定が働いていた筈よ。

「どう利用しようとしたのか。その辺のこと、あなたならどう考える?」

「操乱に命を狙われてた、ってわけじゃないですよね、操乱は今特別拘置所の一級独房の中なんだから、追われてるってのはおかしい。それなら何故なんでしょう。」

 馳はさっぱりだというように両手を上げた。

 原尾は指を一本立てて言った。

「一つ考えられるのは、我々を試したって事。」

 

「試した?」

 原尾は頷く。

「そう、試した...。考えてもごらんなさい。私たち対特ができて以来やってきた事を。」

 エレベーターが開き、二人は中に入って対特殊犯罪捜査機構の捜査課の部屋がある七階を押した。

「創設以来、私たちは確かに、ジャッカー事件に対して成果を上げてはいるわよ。」

 彼女は間を置いてからこう強調した。

「だけどそれはあくまで普通のジャッカーについてだったのよ。」

 普通の...。馳はハッとした。

「わかった? 彼はたぶん少なくとも操乱と同等かそれ以上のジャッカーから追われているのよ。そいつと対抗するだけの力を我々が持っているかどうかを彼は試したんだわ。」

 曲がりなりにも対特は操乱を捕まえることが出来た。だからノヴァは我々のところに来たというのか。だが、と馳は思う。操乱を倒したのは我々ではなかったではないか。我々は手も足も出なかったではないか。

「そんな...」

「わかったようね。だけど私たちは手を引くわけにはいかないわ。彼は我々に保護を求めてきたのだから。

「でもそれだけじゃない。彼を守り通すことは、我々が真のジャッカーに通用するかということの試験にもなるからなのよ。」

 決意を表明する原尾の言葉は、微かに震えていた。武者震いか、それとも。

 エレベーターが止まり、扉が開いた。

「戦力が足りない。明林課長たち出払っている対特の連中を呼び戻してちょうだい。私はすぐに庁舎内への出入りする者を厳重にチェックするように手配するわ。」

 そうだ、今こそ我々対特の真価が問われる時なのだと、原尾は思った。

 

 個人とは、意志を持った精神と身体が1対1で対応しているものだという原則が当たり前だった時代に培ったもののうち、転移術の登場によって甚大な影響を受けたものは数しれないが、その中で最もひどく、ほとんど再起不能と言える位に破壊され尽くしたのが司法による犯罪の追及力、つまり警察の犯罪捜査法だった。

 

 犯罪現場に例えば、明らかにその行動を起こした人間のものと思われる痕跡が残されているとしよう。その痕跡に依ってその人間を特定するのは現在の科学力と情報力を持ってすればたやすい事である。

 だが問題はその人物である。この人物は確かに犯罪行為を成したし、その証拠が揃っている場合もあるであろう。しかし警察はその人物を逮捕する事はできない。

 転移術が世に存在する以上、その人物の精神が犯行時において犯行を成す主体であったのか、それとも誰か別の人間の精神が転移していて、その精神が主体となって犯行を起こしたのかが断定できないからである。

 現行犯逮捕ならともかく、過去になされた行為がその身体の持ち主の行為であったのか、それとも転移者、つまりジャッカーの行為であったのかを特定する事はほぼ不可能に近い。とり憑かれている間、被転移者は余程の強靭な意志の持ち主でない限りその意識はなくしているからだ。ジャッカーはこの時、まさに被転移者の身体をジャックしているのである。

 催眠による記憶の引き出しも、現段階では不確実とみなされ証拠にはならない。加うるにアリバイも成立しない、何故なら、たといつきっきりでいたとしても、街中を歩いていてすれ違いざまに手を触れた一瞬でジャッキングされる事もあり得るからだ。

 ジャッカー達が存在する事によって、警察の個人特定の技術は全て他の鑑識法と同程度のものになってしまったのであり、個人を特定できたとしてもそれは、犯行現場近くに乗り捨てられた盗難車と同程度の扱いに成り下がってしまったのだ。

 それは犯罪者への訴求力そのものに対するパラダイムシフトなのである。

 

 ジャッカー犯罪には既存のあらゆる捜査のノウハウは通用しない。となればもはや残された方法はただ一つ、ゼロから出発するしかない。何もないところから始め、この新しい世紀末犯罪に対抗する方法を生み出すしかない。

 柔軟な発想と臨機に応変した適応力を持つ者だけがその可能性を秘めている。

 警視庁がその内部にジャッカー犯罪を中心とした特殊犯罪に専門に対処する捜査機関を設置し、その人選を端からは異常なまでに若いと思える構成メンバーで統一したのはこのためである。

 こうして警視庁対特殊犯罪捜査機構、通称対特と呼ばれる機関は編成された。

 頭脳、運動全てにおいて卓越した能力を示す平均二十五歳の若者達五十余名で構成されるこの機関は、警察内はおろか司法局内でもその権限は大きく、捜査に基づく人選、設備の使用などかなりの点で無理を効かせる事ができる。だがそれも、転移犯罪の持つ社会への影響力の大きさが既存の犯罪とは比較にならない事を考えれば、至極当然の事であろう。

 

 これまで対特が成した具体的成果は、多く現行犯逮捕に依っている。このことは、現行犯逮捕がマンジャッカーを有罪と断定できる数少ない方法であることを示しており、操乱の逮捕においてより確実を帰するため、操乱の本体が現れることが確実視された束横線地下駐車場での逮捕劇という作戦を取ったのも頷ける。しかし、これは皮肉を込めて言えば彼らがまだジャッカー犯罪に対する有効な手段を持ち得ていないことをも示すものだ。

 

 ここで留意しなければならないのは、現行犯である以上、逮捕の際には多くのシチュエーションにおいて犯人はまだ被転移者の中に存在していることである。そう言う場合、逮捕に際してはやむなしとは言え被転移者の身体を拘束しなくてはならないのである。

 現在の人権尊重の風潮に照らせば、この拘束を成す際に被転移者の被害を最小限に食い止める(逮捕時の怪我について、被転移者が警察を訴えた裁判が大阪地裁にあったが、絶対に怪我をさせない事は不可能であるとの判断がなされ、損害賠償額は低いが出る代わりに、刑事裁判の審理請求については却下された。以降この判決が判例とされることが多い。)という意志は必要不可欠のものとされるのは当然である。

 実際の逮捕において問題なのはまさしくこの点である。原尾の所属する対特殊犯罪捜査機構がそれに対処する方法として考え出したものに、包囲法とか催眠法とかあるが、アクティブな犯罪に対してこれらの方法を取れる訳もなく、結局馳の着ている転移防止スーツか、スタンガンによって犯人の行動をくい止める程度しか、実用的な方法として見出せないでいるのが現状だ。

 しかしそれも、操乱を前にしてはあまりにも非力に過ぎた。しかも、今度彼女らの闘おうとしている敵は、少なくとも操乱と同等の能力を持っていると予想されるのだ。対特の真価を試すには、敵はあまりにも大きく、あまりにも危険だ。

 

 ノヴァが医務室から姿を消したと言う通報が対特にあったのは、それから一時間後の午後11時だった。

「最後に彼を見たのはいつ? 何か残していったものはない?」

二分もしないうちに原尾は医務室に飛び込み、矢継ぎ早に質問した。

「ほんの十分ほど前です。ちょっと目を離した隙に...」

医師の言葉を聴くうちにも医務室内を見回した。ノヴァの残した痕跡が無いと判ると、原尾はすっとんで医師の机の上の電話を取り、内線をアナウンスにすると全庁舎内に呼びかけた。

「緊急事態です。庁舎内に男が逃げだしました。ノヴァと名乗るチラン人で黒髪で鷲鼻の顔、170センチの身長で古びた栗色のコートを着ているのですぐに判別可能です。同男性は精神的に追いつめられていることが考えられるので見つけても刺激しないように。保護することを優先させてください。」

 瞬く間に庁舎内は緊張し、全職員がノヴァの探索にかかった。原尾もきびすを返すとあっという間に医務室を出た。各階の状況に対処するようにコンピューター制御室に向かう途中、馳が近寄ってきて言った。

「庁舎の出入口は全て封鎖して、指揮系統は対特に直属させました。課はほとんどの者がまだ戻りませんので臨時に先輩が捜索の指揮を取ってください。」

 そして原尾にタバコケース程度の箱を手渡した。対特が外で仕事をする際に携帯する無線機だ。街中で使用するくらいなら全く不便を感じない程の出力を持ち、遮蔽物の多い室内でもPHSによって電話回線とのアクセスが可能で、しかもプリンタも内蔵している。指揮系統がアクティブに動けるので格段に機動性が増すのだ。馳は言う。

「いったいどうしたんでしょう。逃げ出すような事でもあったのでしょうか。」

「恐らくはね。そしてそれが物語るのは十中八,九...」少し躊躇って彼女は続ける。「十中八,九もう建物内に彼を追っていた者が入り込んでいるわ。この一時間に庁舎内に入った者はいないけど、敵は何らかの方法で我々の監視の目をかい潜ったと見るべきね。」

「!!」

 馳は硬直した。早い、早すぎる。準備どころか、対抗するめどすら立たないのに、いったい...。その心の動揺を見透かして原尾は言った。

「あなたが弱気になってどうするの。我々の相手はそんな心の隙を突くマンジャッカーなのよ!」

 

 原尾にとって息すらも忘れてしまいそうな張り詰めた時が過ぎ、ノヴァはようやく見つかった。見つけたのは地下の階の捜索を担当していた職員で、巨大で重いために地下に設置されたスーパーコンピューターを冷やすための空調設備の裏に隠れていたとのことだ。ノヴァの怯え方たるや酷いもので、動こうとしないからとにかく来てくれとその職員は原尾に要求した。

 

 原尾は地下一階でエレベータから降りると、待っていた職員に刺激しないように自分だけで行くと指示し、コンクリーの地肌の見える狭い階段から薄暗い階下に降りて行った。

 地下二階という言葉さえ定着しないほど普段あまり寄る人もいないその階には、コンピュータの基部が天井ぶち抜きで設置されている部屋や、ボイラー設備などがあるが、それらの反対側にある空調機器の大きなファンの下、丁度階段を降りたところにある蛍光灯の光が隠される部分の暗闇に彼、ノヴァはいた。

 彼はこちらの一挙手一投足を見逃すまいとして、ひどく落ちくぼんだ目をいっぱいに見開き、暗黒の中にぼうっと浮き出ていた。膝を抱え、少しでも奥に隠れようと小さくなって震えているさまは、対特を利用しようとしている当人とは思えないほど哀れな姿であった。

「ラティンさん。大丈夫ですか?」

静かに原尾は呼びかけた。途端、ノヴァはビクリと身体を動かした。

彼女は手を差し伸べて更に近づく。

「安心してください。私は敵ではありません。わかりませんか? 先ほどあなたにいろいろと伺った原尾です。」

「信じるもんか! さっきベッドの前にいた男と同じように、奴がジャックしているに決まってるよ。」

ノヴァは叫んだ。やはりこの男を狙うジャッカーは既に入り込んでいたらしい。だが反応があっただけめっけものだ。自制心がまだあるということだ。

「男? 当直の医師の事じゃないの? あなたの思い違いということではなくって?」

「そんなことはないよ! あの男、あの男の目はどんな人間に入り込んでも変わらない。あの男の昏く殺意に満ちた眼差しは、一度向けられたら見間違えようがないんだ!!」

 

「あなたはあの男っていうけど、その男の事を話してくれない? あなたの情報次第では捕まえることができるかもしれないわ。」

 原尾の呼掛けを、ノヴァは鼻でせせら笑った。

「信じられないよ。一時間も経たないうちにあいつを建物の中に入れてしまったのに、捕まえるなんてできるわけがない!」

 大分こちらの話に乗ってきた、この分ならここから出すのはそんなに難しくないわね。彼女はそう考えながら続けた。

「言ってくれるわね、これでも私たちは操乱を捕まえたのよ。あなたはそれを知ったからこそここに来たんじゃんくって?」

 ノヴァは幽かに反応した。

「見抜いていたんですか...。確かに私は操乱をあなた方に捕まえさせることであなた方の力を試しました。」ノヴァは俯いて続ける。

「でも、あいつはそんな甘いジャッカーじゃなかったんです。あいつの能力は測りしれない、あいつの悪には底が無い。あぁ、あんなやつに出会ったりしなければ...。あいつは、あいつのやろうとしている事は世の中をひっくり返しかねないんですよ!!」

 もう少しだ。そう思いながら、原尾は宥めるようにゆっくりと近づいていった。

「あなたの敵の怖ろしさは充分に判ったわ。でも、あなたの判断で私たちを選んだのは正しいわ。そいつにどこまで対抗できるかは分からないけれど、少なくとも私たちはあなたの味方よ。」

 彼女はゆっくり手を差し伸べた。

「さぁ。顔を上げて、一緒に上に行きましょう。」

 

 地階に降りる階段の所で待つ職員の所に二人が上がってきたのはそれから間もなくだった。安心したように胸をなで下ろしている彼に原尾は成功のウインクをすると、肩を貸しているノヴァに語りかけた。

「もう安心よ。朝まで多人数であなたを見ていてあげるわ。敵は一人なんだもの、そうしていれば襲おうにも襲えないわ。」

 ノヴァは力無く微笑んだ。早速職員も肩を貸し、二人でノヴァをエレベータまで連れて行った。エレベータが開く。

「上で安心して話してちょうだい。」

 そして三人はエレベータに乗った。

 

「:+@ ̄#$!!」

突然ノヴァが奇妙な言葉を叫んだ。どうも母国語であるチラン語であるようなのだが、いったいどうしたのかとノヴァの視線の方向に原尾も視線を合わせた。

 地下一階には食堂などがあるために、エレベータ前の通路には使い古して廃棄処分にするテーブルなどが壁に立て架けてあるのだが、彼女にはテーブルの陰に隠れるように置いてある黒い塊のような物が見て取れた。

 判断の遅れが致命的だった。見えていたのは人間の脚、その先に隠されている身体は、良く見ると医務室にいるはずの医師だったのだ!!

「!?」

 原尾は突き飛ばされた。壁に叩きつけられて、彼女は床に倒れた。

「そうさ。大勢いたんじゃ仕事はやり難いからね。」

突き飛ばしたのは職員だった。そして、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えた彼が、そう言った...。

「きあぁぁあぁ」

甲高い声でノヴァは悲鳴をあげる。彼の身体はしかし、あまりの恐怖のために動かない。原尾はすぐに走り寄るが、エレベータの扉は空しく閉じる。

 

 原尾は内ポケットから無線機を取り出すと、その出力範囲をMAXにして叫んだ。

「緊急事態発生!! 行方を眩ましていたノヴァが彼を狙う侵入者と一緒に西側エレベータに乗って地下から上がっています。一階で絶対に食い止めて保護して下さい。全職員は非常体制、警視庁内に入り込んだジャッカーをなんとしてでも取り押さえるのよ!!」

 

 転がり込むようにしてノヴァはエレベータから跳び出た。全身血塗れで、腕やGパンには穴が開いている。その奥から、職員が出てきた。彼はそのスーツの所々に返り血であろう血痕を付け、手には38口径を持っていた。男は気の毒そうに呟いている。

「おやおやこの職員、事務屋なせいか射撃は下手なのかな? ひと思いに殺してあげようと思ったのに...。」

 この男、落ち着き方からして銃を持ったのは初めてではあるまい、はずれたんじゃなく、はずしたのだ。なぶり殺しにするつもりだ。

 半狂乱になりながらノヴァは一階ロビーを逃げ出す。放送を聴いて駆けつけた職員達はノヴァを取り押さえようとするが、疑心暗鬼になったノヴァにはもう誰彼の区別などつかない。死にもの狂いで振り払い、入口の自動ドアに向かう。拳銃を持った男は、職員達には当てず、ノヴァの手足の肉を弾が抉るように撃つ。

 そんな行為はこれ以上させじと男が一人とびかかり、拳銃を奪った。雪崩をうったように周りの男達も次々にとびかかり、にこやかに銃を乱射していた男は瞬く間に取り押さえられた。

 階段で上がってきた原尾がこの光景を見て息を止めた。なんということだ。取り押さえる様に指示したとはいえ、これで犯人が誰だか判らなくなった...。

 

 警視庁の施設は庁舎を中心にその手前は駐車場と植え込み、噴水の揃った広場になっているのだが、その円形の噴水を背にしてノヴァが立っていた。彼は手足の数カ所を弾で打ち抜かれ、立っているのもやっとの有様だった。遠巻きにして、職員、警官達が取り囲む。原尾が一歩前に出て言った。

「ノヴァ・ラティンさん! 落ち着いてください。すぐに手当しないと出血多量であなたは死んでしまいます!!」

「うるさい! もう騙されないぞ。何が保護するだ。どうせ初めからそんな気は無かったんだろう! 日本人はいつも俺達の事なんかゴミ以下にしか思ってないのさ!!」

「そんなことはありません。そんな風に思わないで! 確かにあなた方は不幸な境遇に置かれたかも知れませんが、それは決して私たちの本意ではないのです。」彼女は必死で叫んだ。

「信じてください! 微力かもしれない...、ですが少なくとも私たちは、懸命にあなたを守ろうとしているのです。」

 

 彼女の懸命の叫びは、誰も信じなくなった男に微かな笑みを浮かばせたが、それきりだった。ノヴァの影が実態化したのかと錯覚するほどに怪しく、噴水の落ちる水の中から静かに現れた人影が、彼の背中からナイフを突き刺したのである。

「目を掛けてやろうとしたものを...。言ったろう? 裏切り者を私は許さないのだよ。」

声質は女のものだ。しかしそのしゃべり方は男のそれだ。

 口を小さく開けて崩れていくノヴァの後ろに現れた全身像は、月光を背負ってはいるが確かに女のものだった。全身を黒いボディスーツで固め、マスクの中で唯一窺えるその女の目は、昏く殺意に満ちた眼差しを湛えていた。

 しかし、この女はいったいこの後どうするつもりなのか。警官がぐるりを取りまくこの状況で。

 だが、女は常識で考えた状況判断をあっさりと打ち砕いた。

 数十人が取り囲む中、突然女はジャンプした。

 その跳躍力たるや、オリンピック選手でさえかくやと思えるほどで、一跳びであっという間に水面から出てしまった。そしてこれまた常人離れしたスピードで包囲の一点に近づくと、その場所にいる警官達が拳銃の照準を合わせる間もなく彼らの上を跳び越えた。

 警官達から優に3mはあろう場所に着地した女は、振り返ってこう言った。

「束縛の多い君達では、ジャッカーを捕まえることはできない。」

 成すすべもなく立ち尽くす原尾達を後目に、女は獣のような速さで遠ざかり、低いとはいえ2mを越えるフェンスをジャンプで乗り越え、夜の闇の中に消えていった...。

 

 原尾は我に返った、ノヴァを助けねば。駆け寄って彼を抱き起こす。しかし一目見て、既に彼女はノヴァがもう助からないことを悟った。やつはノヴァに致命傷を負わせたからこそ、我々の前から姿を消したのだ。

 彼は自分の鮮血で衣服を染めながら言った。

「あいつと知り合ったばっかりに、こんなことになるなんて...。ぐふっ。」

ノヴァは口から血を吐き出した。思わず原尾は制止する。

「ラティンさん、もういいんです。もうしゃべらないで。」

 ノヴァは構わずしゃべり続ける。

「あいつを、成木を捕まえてください。あいつは今週の金曜...、成...成田に現れる。その時に、捕まえることができなければ...もう、あいつを止められる者は、いない...。」

 たまらず原尾は叫んだ。

「もういいわ。傷口が開いてしまう。」

 

 原尾の願いもノヴァにはもう通じていなかった、彼は体内を巡る血流の不足のために既に日本語を解することもできなくなっていたのだ。

「>#&%)*@0&”`|+...。」

 こう言って彼は原尾の腕の中でこと切れた...。臨終の言葉すら理解してもらえないほどの遠い国で孤独に死を向かえる...。原尾の頬を涙がつたった。

「可哀想に...、これじゃぁまるで僕らの所に死にに来たようなもんじゃないか...。」

傍らに来ていた馳は呟いた。その通りだ。原尾は思った。これだけの組織を持ちながら、我々は助けを求めて来たたった一人の人間さえ救うことができなかったのだ。噴水の脇にある時計塔がカチリと音を立て、日が改まったことを知らせた。

 

「非力だ...。」

断腸の思いで彼女は呟いた。今の我々の力ではやつらには勝てない。科学力だけではジャッカーには勝てない。彼らと対抗するにはもっと、もっと別な力が必要なのだ。

 あの男のような力が...。

 

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第三章へ続く

 

 


 
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