No.277638

euphoric_field

ひのさん

TOGマリヒュでヒューバートが告白する話。Gfプレイ前に書いていたものを完成させたので少し食い違ってるところがあるかもしれません。糖度はたぶん低め。

2011-08-18 18:40:41 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:679   閲覧ユーザー数:675

 フェンデル特有の沈うつな暗さに沈む寒村ベラニックという場所に美しい夕暮れの情景などは見るべくもなく、ただ地の底まで凍てつくだろう重たい冷気が這い寄る闇のごとくただ大地を覆うだけだ。この土地で夜とは、闇の侵食を意味している。

 こんな場所を別れの地にする気はなかった。ほんとうは。重たい記憶が未だ根付く土地だ。だが、結局そうなった。生涯で、似たようなことを逆の立場で経験することになるというのはなかなかある経験ではない、そういう軽口すら叩ける余裕がない。では旧友も同じような気持ちだったのか。否、マリクは頭を振り拳を握り締めて、強く、心の中で否定した。

 そうではない。俺は、逃げたのだ。

 あいつは逃げなかった、俺は逃げた。

 

 あいつは逃げる俺の背を見つめた。だから違う。俺が、見詰めていたのでは、ない。

 

 本当に、違うのか?一方で誰かが囁く――それは過去の自分自身かもしれなく、現在の自分かもしれなかった。ささやき声は兎に角自分の声色をしていた。

 応じるように、腹の中で音にしない言葉で呟きを繰り返す。また逃げるのだ。囁きは甘くやさしげだ。ああそうだ。また、失うことを恐れて俺は逃げる。手に入れたところで失うのであれば、最初から手にしなければいい。ちくりと胸が痛んだ。

思い出したくなどない。二度とあんな思いはしたくない。二度と、あんな経験をしたくはない。

 重たい吐息が漏れる。気づけば力んでいた神経をふっと緩める。あれはもう過去の話だ。もう一度、自分に言い聞かせるように反芻する言葉。すべて終わったこと。もう、二度と同じ轍は踏まぬ、そう決めたのだ。

 強く裏唇をかみ締めると、鉄の味がした。

 国から、友から、理想から、すべてから逃げる時に、唯一決意した。徹底して、そう徹底してそれを避けることを。己は逃げ続けねばならないということを。心の弱さは酒に流し有耶無耶の中に溶け込ませ溜息とともに沈めるのだと決めた。そうしなければ、足は動かなかったのだ。あまりにも寒くて。

 

 挑むように向けられる、闇に落ちる灰色の景色の中、唯一色彩を放つ清涼な空色が、一度も逸れることなく自分を見ていることを知りながら、マリクは視線を伏せた。それだけで空気がわずかに揺らぐ。伏せつつも視界の端に認めていたのは、薄いその口元だけだ。眼は、その瞳は恐ろしかった。挑むようで、土足で踏みにじる傲慢さと酷く礼儀を気にするためらいが同居していて、心のざらつきが一気に表面化してしまう、二十余年も健気に封じ込めてきた惑いも何もかもをひっくるめて壊してしまう暴力を秘めた力のある視線だからだ。

 小さな呼気が吐かれ、躊躇うように何かを言いかけて、けれども言うべき言葉が見つからずに開かれた口は閉じられる。わだかまった言葉は表には出てこない。あえて確認せずともそれは理解していた――それ程にわかりやすい相手でもあった。

 

「わかっただろう。俺は只の臆病者だ。お前の嫌う卑怯な大人で、全てを捨てて逃げた。だが今は……今一度、逃げた過去を取り戻したいと思う。だから、お前の気持ちには応えられん」

 

 吐き出す言葉はひどく卑怯なものだ、ということを承知していた。

 こう言えば、彼は踏み込んではこれない。そういう確証もあった。その無謀さ、横暴さ、傲岸さは彼の生来のものではなくて、性根は理知的で穏やかだと知っていた。けれど、それでよいのだ。彼は年若い青年で地位が在る。自分は老いたとはいえぬものの将来があるという年齢なわけでなく、やはりなすべきことがある。

 だから、現実論者の彼が言う夢想的な言葉に賛同することは出来なかった。例えそれが一時の感情の産物であろうと、決して首を縦には振れない理由を、マリクはやはり深く考えることは出来なかった。

 かわりにきつく目を閉じた。もういいのだ、見なくてもよいものを見なくて済むように、見えるはずのものから逃れるように。

 

 例え彼の言葉が、沢山の感情と沢山の言葉の中からようやく見出されたものであったとしても、否、であればなおのこと。

 決して、諾と応えるわけにはいかない。きつく瞑ったはずの瞼の裏に、今にも感情を決壊させてしまいかねないヒューバートの表情が鮮明に浮かび上がるようで、マリクはきつく唇を噛みながらこめかみを押さえた。呪いにも似た、とても強いもの。

 けれど、マリクを罵る言葉も、拒絶を否定する叫びも、慟哭すら、いつまで経っても聞こえてはこない。だがそれでも、拒絶し続けなければならなかった。拒絶しなければならない決定的な理由など、いつまでも見つからない。ただ怖いというだけだ。漠然とした恐怖感が思考を停止させて、だが恐怖自体をどこか淡いものとしてしまって、明確にはならない。過去の経験を振り返ること、当時の記憶、そういうものは漸く思い出せるようになっても、それを恐怖と結びつけるまでは至ってはいなかった。

 実際、この若者のことはかけがえのない仲間であり、或いはそれ以上であるかもしれないという自覚はあった。彼の言葉は旧友カーツのように良く心に響き、そもそも二十年も逃げ続けていた祖国と改めて対面することに戸惑うマリクに、暗に逃げるなと言い在るべき態度を示せと言ったのは、他ならぬヒューバートだ。それがマリクのためのものではないことを知りながら、それでも内心で感謝していた。演じることで過去と対面する恐怖を隠すという手段を教えてくれたことに。逃げ続けてきたものと対峙し、かつて捨てたものを再び別の形で得るきっかけを、与えてくれたことに。

 

 ならば尚更だ。

 もう、失いたくはないのだ。必死に伸ばしながらも掴めなかった手など、二度まででいい。この手をすり抜けてゆくぞっとした感触。心の臓が冷えた心地など。もう、この手のひらは誰かの手のひらを握ることはないだろう臆病で卑怯なものなのだ。最早これ以上は望むまい。自分自身の中に、曖昧な感情が在ることを自覚していた、だからこそ逃げに転じる己の不甲斐なさと脆弱さに、マリクは自らを胸中で罵るが、それだけだった。

 

 やがて雪交じりの泥を混ぜる音に、胸を撫で下ろしながらマリクはため息をつく。これで、機会を失ったのだ。だがそれでいい。もう一度、自分に言い聞かせた。

 

「そういう言い訳をするのでしたら、ぼくは、諦めません」

 

 マリクは顔を上げることができなかった。

 ヒューバートの声は、震えていた。ひどくか細かった。滲んでいる感情が、手に取るように理解できてその声が耳に届き音を理解してゆくまえにマリクは胸の奥に鈍痛を覚える。けれど確かに、彼は、言ったのだ。

 諦めない。物覚えの悪い子供のように、必死な声で、怒りを押し殺して、きっぱりと告げた。

 そして、その言葉通りに、行動しただけなのだ。

 

 

 *  *  *  

 

 

 月日は流れてゆく。何もかもを過去のものにするように。けれど、未来へと向かう時の流れは過去を否定することはない。否定も肯定もせず、ただ、流れてゆくだけなのだ。

 

「何か、おかしな所がありますか」

 

 やや精悍さを増したものの早急な変化というわけではない仏頂面で、すっと上がった目尻の鋭さは年月を経て一筋縄ではゆかぬというような傲慢さや強かさを秘め、成る程ストラタ随一の出世頭であると他国に噂されるだけあるといった面持ちをしていた。これではオズウェル家嫡男であるというような言い方の方が相応しいなどという些かの皮肉と悪意を秘めたフェンデル政府高官の物言いとて許されるだろうという言い訳が、胸中にわずかに浮かぶ。

 僅かに近くなった顔には、確かに野心だとか酷薄さとかいうようなものも垣間見えていた。

 

「おかしいといえばおかしい。そうではないといえば、そうではないな」

 

 マリクの曖昧すぎる物言いや形容しがたい表情を一瞥して、ヒューバートは部下達に的確に指示を与えだした。再選を果たしたダヴィド大統領がまず成したことは、三国による協定をきっちりと結ぶこと、及び各国の技術格差をなくすべく互いに「協力」すること、などというどこか非現実的な目的を掲げたものであったが、戦争を行ったわけでもないのに国力を疲弊させすぎていた三カ国は、お互いの益をむさぼるよりもまずは、というような打算的な理由からかのその同盟を締結することとなった。何よりもリチャード国王が強く賛成をしていたのだ。あの、再びエフィネアを襲いかけていた危機から全てを取り戻した青年王は、驚くほどに威厳に満ちながら堂々とその決意の強さを見せ付けたのだ。

 即ち、ウィンドルからは豊富な資源を他国へ流通させ、ストラタからは優れた技術を提供し、フェンデルからは他二カ国へ門戸を開き秘められた室を空けることを(即ち、他二カ国より大分豊富である地下資源の解放とでも言おうか)掲げた、大々的な同盟であった。

 その締結のために奔走していたのが今や大統領補佐官の地位も近いのではないかと噂される「神童」ヒューバート・オズウェルであり、ウィンドル国王やフェンデル政府高官にすら人脈を持つとなれば成る程、彼がこうして当然のように大勢の技術師団を引き連れてザヴェートへと乗り込んできても不思議ではない。

 

「フェンデルでも特に重要であろう大輝石開発の重責者であるはずのあなたが、どうしてそのような事が言えるのですか」

 

 取り付く島もなく眼鏡の位置をくい、と直すその無表情に、私的な思惑などは全く垣間見えない。引き連れていた技術師団に指示を与えながら自らはざっとザヴェートの様子を伺ったのであろう。かつて緊張感を露にこの国を訪れていた青年は、今や傲然と鉄と石の街を眺めその脳裏に様々な計算をはじき出すストラタ軍人として、もう一度マリクの前に姿を現した。

 

 実際に会うのは、数年来である。書簡のやりとりであったり間接的に関わったり或いは同じ場に居合わせたということはあれども、言葉を交わすことはなかった。それを寂しいものだと感じるよりもどこかで都合が良いと考えていたのは他ならぬマリク自身であり、或いは逃げるようにして最低限しか関わってこなかったのも自らそう仕向けていたからだ。

 

「俺は確かに、そういう立場だがな、……」

「現場の事はパスカルさんとフーリエさんが取り仕切り、総統との最終的な交渉はアンマルチアの新しい族長殿がしてくれれば、あなたは名ばかりの責任者とでも言いたいのですか」

 

 数年来の、辛辣な物言いは以前よりも鋭さが増していた。すぼめられた眉や瞳はまるで切っ先のようにマリクに向けられていて、決して逃げを許さない。

 ぐっと声を詰まらせたマリクに、ヒューバートは靴音を鳴らし、尚も言い募る。その様は、かつて感情を飽和させ爆発させたかの日の彼の姿を唐突に思い起こさせて、マリクの胸中に急速な荒波を立てだした。思わず逃れるように、マリクは一歩、後ずさってしまう。が、間髪入れず「ならば、カーツ・ベッセルの願いを託されたマリク・シザースという男は一体何処に行けば会えるのか、教えていただきたいものですが」そう鋭く言い放つ気迫と揺れる眦に、マリクはその場に留まらざるを得なかった。

 久方ぶりに聞いた様な、だが毎日のように聞いている旧友の名を脳裏に焼きついた声で言われれば、己の情けなさが露見されているようなひどい惨めさと相まって、マリクは視線を床に落とす。旧友カーツの遺志を引き継ぐべくこの国に残ると言った。彼が二十年という月日で勝ち取ったものは決して生半可なものではなく、フェンデル生まれとはいえ二十年も祖国を離れていたマリクがそれを取り戻し尚も推し進めるには言葉には出来ぬほどの努力が必要だった。とうに四十を越えた肉体の限界をどこかで感じつつも、だが決してこれだけは諦められないのだと自らに言い聞かせ、そうして、自分の生きるべき道はこれなのだと自分自身に言い聞かせていた、だから他の事になど意識を傾ける余裕とてなく、年月の果てにそれらの感情を押し流したとしても誰かにそれを責められる謂れなどはないのだ――なかったのだ。

 

「………ぼくは、諦めるとかいうことは嫌いなんです」

 

 数年前よりも鋭さが増した声は、鋭くマリクの過去を抉った。傷口から夥しい血が流れている、と、どこか他人事のように思う。が、その痛みを何故か知覚できない。じくじくと疼く痛みがあまりに大きすぎるからなのか。痛みから逃れよう、などと、思ったことなどはなかったのにだ。眩暈を覚えながらも、マリクはなんとか無様に地面に倒れるということはなかった。

 

「過去を否定しながら逃げ続けることも、大嫌いです。過去を理由に目の前の事から逃げ続けるようなことも、気付かぬ振りをすることも、大人の言い訳で納得することも」

 

 が、気迫と共に吐き出される言葉が、次々と容赦なく襲い掛かってくる。逃げを打つその姿勢そのものを阻むように。

 随分年下で、随分と小柄な、この、ただの青年でしかないヒューバート・オズウェルは、けれどもマリクが逃げようと腰を浮かせた瞬間に、その行く手を阻むのだ。言葉と、眼差しに込めた強情さと、強引さと、傲岸さでもって。

 

「会いたかったんです」

 

 ふと言葉が刃を失ったように聞こえて、マリクは固唾を呑んだ。

 それまでの勢いをそっくり失って、ぽつりと空中に浮かんだ言葉は、とてもか細くて弱い。

 それは何故、ひどく希薄な音をしていたのだろう。

 強烈な殴打を何度も食らったように感じていたものが、そっくり失われた瞬間の心細さを、気分が悪いものだとマリクは思った。そして、一瞬だけ勢いを失った青年を、その所在を確かめんと、顔と目を上げてみた。

「聞こえませんでしたか?」

 そこにあるのは、やはりとても傲慢で、揺ぎ無くて、怒りに満ちた空色の双眸。

 ぎらぎらと光る鋭利な一対のナイフ。或いは剣。痛みを伴うもの。

「ならば、何度でも言います。あなたのそのよく聞こえない耳に、物事を理解しようとしない頭が理解するまで何度だって言います」

 震える声は、けれども彼にそっくり根差した強い言葉だった。胸の奥のしこりが、ひとつ痛みを伴いながら抉り取られる感覚に、マリクは顔を顰める。やめろ、と、呻くように呟いた。

「会いたかったんです」

「よせ」

「悔しいけれど、ぼくはあなたに会いたくて、会いたくて」

「止せ、ヒューバート」

「感情を殺すことをやめる辛さを何年も味わって、それでもあなたという人に会いたかった…!」

「……止めてくれ…」

 

 腹の底から絞り出すような声でもって無様に懇願してもなお、ヒューバートの気概が挫ける気配は微塵もなかった。

 

「仕方ないじゃないですか、どうにもならないくらいにぼくは、忘れられなかった、何をしている時でも、それがどんな場面であっても、一秒だって、決して」

 

 彼自身がその苦悩を、その感情を言葉として吐き出すことがひどく難儀なのだというふうに頭を振りながら、けれども絶対に目を反らすことなく、自らも傷を刻みながらヒューバートは叫ぶ。

 空色が潤み、不明瞭になり、荒い呼吸と震えた拳が混ざって彼の感情の揺らぎを余す所なく伝えてきていた。それでも、彼は決して目を反らしてはくれない。痛みは、決して逃れを許してはくれない。

「あなたというとても無様で、とても、身勝手な、ひどく臆病で、卑怯な、あなたという、……過去から逃げ続けて、今からも逃げ続けて未来永劫逃げることだけを選びたがる、マリク・シザースという男に、ぼくは…」

 ふるりと震えた素振りがまるで幼子のそれだ――アスベルがよく話していた「頭がよくて気遣いの上手な、気弱な弟」がそこにいる、と思った。

「何故だか、そんなこと何度だって考えました。考えたって答えが出ないことを知ってるのに考えた、考えても仕方がないことを…埒もなくてただただ苦しみだけが、痛みだけが増すようなそんな、ばかなことを」

 自嘲気味に吐かれる言葉とくしゃくしゃに歪んでしまった顔は、まっすぐな潤んだ双眸は、それでも尚、マリクの逃げを封じるべく頑なだ。

「ぼくは兄さんとは違います、だから、優しいことなんか言えません、言いたくだってありません」

 言葉には、感情が溢れていた。この青年には珍しく、ひどく直接的でわかりやすく、だのにまどろっこしい物言いは、けれどもとても彼らしい正直さに裏打ちされていた。そうなのだ。そこにあるものが何であるか、マリクはよくわかっていた。知っていた。が、その純真さが怖かった。過去にひどく憧れたきらめきは、唐突に喪われてしまい――その時の圧倒的な喪失感を、二度と経験したくはないという自分の中に在るあまりにも大きな感情が、マリクという男の意気地をなくしていた。苦味を散々味あわせてくるこのヒューバートの言葉は圧倒的に、正しいのだ。

「だから、ぼくはぼくが感じただけの痛みも苦しみも嘆きも、……少しだけ得た充足感も、あなたの事を考えたときの感覚も、あなたに触れたときの喜びも、全部、……あなたが逃げようとしている、怯えているなにもかもを、あなたに知らしめる、つもり、です」

 

 会いたいと願う率直な感情と、そう願うからこそ逃げるなと叱咤する言葉。その正しさと幼さ、そして瞳に射竦められた――マリクが、その水色にすっかりとつかまった瞬間に、視界は空と海に覆われる。

 

 息を呑もうにも、呼吸すべき手段を失われておかしな音が漏れた。

 反射的に、逃げようと思った。が――二の腕にしがみつく、相変わらずどこか頼りない両手が、心細げに震えていることに、マリクは気付いてしまった。

 

 息が詰まった。

 ただ一人、そう、きっと死ぬまで誰にも明かさぬであろうひっそりと記憶の奥底に蓋をした過去。もう、それは過去のものとして輪郭を失った筈であった過去。一度失い、二度目は封じ、三度目はそれを過去と認めた。だがそれは理性が認めただけの話であったのだ。

 

 それは、結局は、三度逃げたというだけのことだったのだ。

 

 

―――私、こうして、あなたに……

 

 最後まで紡がれることのなかった言葉。『彼女』らしからぬ弱弱しい声。

 最後まで、伝えられることのなかった想い。『彼女』らしからぬ告白。

 最後まで、掴めなかったか細い手首とつめたいてのひら。『彼女』には決して相応しくはない、姿。

 

 しがみつく指先に力が込められる。逃しはしないというような傲慢さではなく、どうか離れないでという不安がそこにはあるように思えて、マリクは僅かに力を抜いた。

 自分よりもずっと年下なのだ。

 自分より、経験だって浅い。縋れるものがない。けれども、彼は何もない場所からここまでを、勝ち取ってきていた。自分の居場所を奪われながら自らそれを勝ち取り、そして尚こちら側に強引に手を伸ばしてくる。一度はつかめるかもしれないと思ったそれを、マリクが躊躇った後に手放しても尚、掴もうと手を伸ばす。その手の届く場所から逃れれば、当たり前のように追いかけてきて逃げ道をふさいで、手を伸ばす。決して優しい顔などはせず、笑顔も見せずに、がむしゃらに感情に任せた酷い顔をしながら、脅迫染みた言葉で感情をぶつけながら、涙を流しながら、それでも。

 

 温かいな、と、気の抜けたようなことをふとマリクは思った。

 

 こうして触れられている。触れ合っていることが、ぼんやりとではあるが漸く認識された。触れていただけの唇が離れると、マリクの視界には俯いたヒューバートの旋毛がある。相変わらず掴まれている二の腕に爪が食い込み小さな痛みを伴うが、大きな痛みほどではなかった。

 逃げ続けることで逃れていた痛みは、こんなものではなかったのだのだ。心に大穴が空き、常に鈍痛を伴い時折痛みで身体が内側から砕けそうだと感じたこともある、その痛みがひどく恐ろしく、その記憶がひどくいたたまれず、胸の奥を切り裂く鋭利な刃は悉く過去をいびつなものに変化させ、逃れた結果失った多くを今更のようにマリクに思い起こさせるのだ。

 だから、やはり逃げた。逃げないと決めた、けれども逃げたのだ。

 それを臆病だと罵り、馬鹿だと言い切った青年は、けれど一度も拒絶などはしなかった。

 何故だろう。何故、彼は、ここまでして、こんなことをするのだろう――今の今まで、理解することも考えることも拒絶していたことを、ふと考えてみた。考えれば痛みが蘇りその苦渋の記憶が心を縛り苛むことを知っていたから逃れていたことを、マリクは考えた。

 

「ヒューバート」

 

 名を呼ぶことで恐怖から逃れるつもりなのか、それすらわからず、ただ溺れている人間が藁を掴むにも似た心境で、マリクは青年の名を呼んだ。口からもれるはあまりに苦々しく、切実な音だ。

 が、ぴくりと不安げに見える肩が震えただけで、それ以上の反応を彼はしてはくれなかった。二の腕を掴んでいる爪先の力も、変わらなかった。

 

「ヒューバート、すまない」

「何がですか…ッ、今更…!」

 

 きつと上げられた双眸にある揺らぎと真っ赤になっている目元は、数年前の面影をそっくり残していた。そこにいるのは、マリクが出会った頃の17歳のヒューバート・オズウェルだ。自分に疑いの眼差しを向け、けれどもその性根はひどく優しくて他人を気遣う不器用で意地っ張りの青年だった、あの、過去という積み重ねの中に決して埋もれることなく、そこにあるだけで輝いていた記憶の一部だ。

 かけがえのない存在。例えばそれは、仕事仲間であり相棒でもあるパスカルがそうだ。くすぶり死に場所を求めていた自分に手を差し伸べたアスベルがそうだ。家族と呼べるわけではない、けれど、かけがえのない大切な仲間たち、そう、呼べる幾人かの人間。そのうちの一人であって、それだけではない。恐らく、無意識に旧友カーツを重ねていた。だからこそ、親子ほど年が離れているという事実を忘れ、まるでカーツに話しかけるように声をかけていた。それを、当たり前のように受け止めてカーツのものではない声で、カーツのような事を言う。だから、なお、かけがえのない、失えない存在だった。

 二度と、失いたくはなかった。

 二度と、この手を、このぬくもりを失う経験など、したくはなかった。

 

「……すまない」

 

 目を思わず逸らしたい衝動に駆られたが、見上げる双眸がやはりそれを許してはくれなかった。17歳のヒューバートにはない強さでもって、記憶よりもずっと精悍さを増していたはずの幼い表情は、この瞬間に誰でもない、マリクだけを見ていた。

 右腕を動かし、後頭部に手を伸ばして触れた髪質はやはり変わらない産毛のような柔らかな感触だ。無骨な指先が愛撫するにはどこか相応しくないような、切りそろえられた髪の毛を混ぜるように、ゆっくりと撫でた。ヒューバートが息を呑むと同時に僅かに鼻をならして、切れ長の双眸が見開かれる。グレイル湖の湖面が王都よりいずる風に揺らぐように、光があちこちに散漫して不安定だ。自ら得たのだと豪語するすべての傲慢さを失った、そこにいるのは記憶に焼きついたままの子供と大人の中間地点に居たかつてのヒューバートに見える。

 もう一度、ゆっくりと髪を混ぜる。 温かい、そして、温かさの先にある感情を心の中でようやく認め、マリクはぎこちない笑みを作って見せた。胸の奥に静かに甘さを伴う痛みが走る。 笑えばよい、ということを覚えたのは何時だったのだろう。そういう生き方はいつの間にか覚えていた気がする。

 

「俺は、お前が言う通りの男だ。……だからこそ、お前にそういわれる資格はない。お前にそこまで望まれるような……」

 

 どん、という衝撃音が先に聞こえた。気が付くと、床に自分は無様に転がっていた。

 左の頬が奇妙に熱を持ち痛みを伴う――それは、現実的な実感できる、痛みだった。ゆっくりとそこに触れることと口の中にじわりと鉄の味が滲む。ああ、懐かしいな。何年ぶりだろうか。そんなことを考えながら、今の衝撃と音は自分が殴られたためのものだと、マリクは理解した。

 

「……何がですか、今更、そんなふざけた言葉……」ああ、まただ。この声だ。感情を抑え切れずに揺れ動いて追い詰めてくる声。俺はこいつのこんな声を聞くのは何年ぶりだろう。そして何度目だろう。胸の奥に杭みたいにひっかかっている青臭い感情を抱えたままだから、いつもこんな顔ばかりさせているのだ。

「あぁ……そう、だな……本当にふざけた言葉だ……」殴られた頬がずきずきと痛みを伝えてきて、同じリズムで胸の奥が痛んでいる。頬を押さえることも無く、尻を冷たい床の上に投げ出したまま、視線を落としてマリクは自嘲気味に唇をゆがめていた。

「今更、ぼくが、はいそうです、だなんて…聞き入れるとでも?」

「……そう、だな…俺は、お前が言うとおり卑怯だ…」

「ついでに最低です。趣味も悪い。性格も悪い。臆病で卑怯で身勝手で馬鹿でろくでなしで狡い大人の振りばかりする、嘘吐きだ」

「ああ、まったく」

「だから、嫌いなんですよ、そういう、大人の男の人は!」

 

 強がりのように殊更に侮蔑的な言葉を、ヒューバートはわざと投げつけている。そんなことも、よくわかる。よくわかるほど、親子程に年が離れている青年のことを見ていた。見つめ続けていたのだ。焦がれていた。好意を抱く、一人の人間としてだけではなく別の意味も―甘さも苦さも含んだ感情も孕んでいる好意だ。自覚は薄々としていて、ただ認めたくはなかっただけなのだ。同性で年が離れているというだけの理由だけではなく、認めたくなかった。

 

「ああ、……知っていたよ、ヒューバート」

 

 観念したように弱った目を上に向ければ、怒りに紅潮した青年の顔がある。迸る感情がそこにはありありと見えている。その様を見て、マリクはただ、目の前の青年を抱き寄せたい、と思った。

 徐に立ち上がり、尻と頬の痛みを引きずりながら目の前の存在に手を伸ばす。びくりと、その身体が震え僅かに後ずさりをした。

 だが構わず、マリクは歩み寄る。手を伸ばす。手を伸ばして、触れると威嚇するように緊張しきっていた身体がふと緩んだ。

 

「知っている。だが、謝らんぞ、俺は」

 

 そのまま腕の中に、抱き締める。細くも無く柔らかくも無く、可愛げもない。けれどもとても愛しくて、温かい。

 

「……本当に、…そういう、ところが…っ!」

 

 ぐ、っと胸元に頭が寄せられた。それ以上の言葉が、ヒューバートの口から告げられることはなかった。子供のように高いその体温を、ようやく腕の中に得たぬくもりを、マリクはきつく、抱き締めた。


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