No.196148

真・恋姫無双 季流√ 第40話 董勢編 疑惑と露見と誘惑

雨傘さん

まずは月、詠、霞の拠点となります。
董卓勢編とはいっても、拠点1人分ずつですが、次の話と合わせて一話と見たほうがいいかもしれません。
蜀勢編、呉勢編があるのだから、董勢編、袁勢編があったっていいじゃない?
お楽しみ頂ければ幸いです。

2011-01-15 23:52:33 投稿 / 全16ページ    総閲覧数:13972   閲覧ユーザー数:7587

疑惑

 

 

 

「無理。

 ぜ~ったいに無理、無理すぎて無理」

 

「なぁ~そういわずに、4回も無理を重ねんでええから、ほんのちょっと……ちょっとでええねん。

 これは詠にしか出来へんのやから、ほんまに頼むわぁ!」

 

「報告書は全部うえへと上がるのよ、この意味わかるでしょ?

 僕よりも上は、今は実質2人しかいないのよ?」

 

「そこをなんとか! ちょっと誤魔化して、な? 詠は室長なんやから、なんとかなるやろ?

 うちら後組が不利なんちゅうことくらい、同志として理解してくれるやろ?」

 

「同志いうな! ほら、ここから先はあんた行けないんだから、さっさと離しなさい!」

 

「いややぁ! その眼鏡が縦に動かん限り、うちは離さへん!」

 

「だ~か~ら~、無理だっつってんでしょ!

 あんたが言ってるのはね、相手の力を使って相手を攻撃するようなもんよ!

 あんたは自分の獲物で自分傷つけられんの?! 自決でもするのか!?」

 

「いや、ハラキリは無理」

 

「キリッと言うな! だったら離せ! 自分でなんとかしろ」

 

「ウチじゃあ出来なかったんや~、なんとかしてーなー」

 

詠に縋りつく霞は、ズルズルと廊下を引きづられている。

 

本当に詠はめんどくさそうに、書類を抱えながら霞を蹴り飛ばしていた。

 

だが所詮文官である彼女の蹴りが、生粋の武官である霞に効くわけもなく、悲しいかな体力が減る一方であった。

 

もう少しで霞の立ち入り禁止区域だとわかっているため、標的をそちらへと絞り、無理矢理に引きずっていくと決める。

 

それを理解しているのか、霞も頑張って腰につかまるが、こちらもこちらで同僚の邪魔はしたくないという心情も相まって、本気をだすわけにもいかなかった。

 

しかしどうしても諦めたくない。

 

自分では頑張ったのだが、駄目だったのだ。

 

もう彼女の知恵を借りるしか、霞には光明が見えないのだ。

 

「ん? 何をやっているのだ詠……ずいぶんと大きな荷物を引き摺っているようだが」

 

「葉雄! ちょうど良かった! この馬鹿なんとかして!」

 

「まったく、何をやっているのだ霞。

 お前は昼から現場が待っているだろうが」

 

「はっ葉雄!?

 やーめーてーなー後ちょっとやねんから! 後ちっとで詠のツンも解けるはずやねんって」

 

「あり得るか!」

 

霞の発言に詠が突っ込む。

 

向かいの廊下から歩いてきた、華雄こと葉雄は首を捻りながら、霞の首根っこを掴んだ。

 

猫のような口元で引き上げられる霞は、葉雄の体に猫パンチを何発も入れている。

 

それを物ともせず、葉雄は詠に問いかけた。

 

「この化け猫は何を騒いでいるのだ詠」

 

「聞いてよこの馬鹿、こいつ僕の室長権限使って、あり得ないこと頼んできてんの」

 

「室長権限を?」

 

華雄は考えを巡らせる。

 

ああ、と頭に浮かんだ事柄に、若干悲しそうな顔になった。

 

「……辛いな、察するよ」

 

「別に……辛くもないわよ」

 

ぷいっと顔を背けた詠に、華雄は肩を竦めた。

 

この手元でにゃあにゃあ言いながら、結構本気の力でポカポカと殴りを入れてくる悪戯猫。

 

華雄はもう片方の腕で、重い一撃を霞の頭に叩き落とす。

 

岩のような硬さをもつ華雄の握り拳が、霞の頭頂部へと直撃した。

 

「ふぎゃっ!」

 

頭から煙をだして一気に静かになったので、このまま現場にでも放り込んでくるかと考え、葉雄は霞の首を掴みながら、そのまま廊下を後にした。

 

詠も詠で、ふんっと鼻息を1つ鳴らして、重い鍵のついた部屋へと入っていくのであった。

 

 

「そりゃあね、僕だってできるならそうしたいわよ。

 でもできないものはできないの。

 組織ぐるみでないと、絶対に無理よ、バレるに決まってる。

 そうなると……僕がやったんだって事になっちゃうじゃない」

 

仕事を終えた詠は、ハァと溜め息をついて中庭でお茶を飲んでいた。

 

その愚痴につきあわされる音々は、恋とともに動物を弄くりながら、はいはいと適当に言葉を濁している。

 

恋はというと、セキト達に餌をやるのが大変なので、詠の愚痴などろくに聞いていなかったし、何を言っているのかもわからなかった。

 

「音々には理解できないのですよ。

 なんでそこまでこだわる事なのですか」

 

「月がねぇ。

 僕に気を使って何も言わないんだけど、言いたいのを我慢してるのが僕にはわかるのよ。

 それが一番体に堪えるわ」

 

「それは月殿らしいですねぇ……ん? んんん?」

 

「何よ?」

 

「……詠は先程こういったですよね、組織ぐるみでないとバレるって」

 

「ええ、それが?」

 

片眉を上げた音々が、企んだ笑みをしている。

 

何か名案でもあるのかと、詠も首を突っ込んできた。

 

「組織ぐるみじゃないとバレるんなら、そうすればいいのではないですか?」

 

音々の案に、詠は呆れたように両手を挙げた。

 

まさしくお手上げだ。

 

「っは! それこそ不可能だわ」

 

「そうですかね?

 音々はちょっと離れている立場からかもしれないですが、可能性は有りと見てますが?」

 

「…………」

 

改めて問われ直して、詠は口に手を当てて考え込む。

 

「軍師がその様じゃ格好がつかないですよ。

 事物を客観的に見て、情報を分析し、判断は明確に。

これが音々の知っている賈駆文和なのです」

 

「……っさいわね」

 

不貞腐れて机に突っ伏す詠を音々は一瞥すると、一肌脱いであげようかと立ち上がった。

 

__まぁ利点がないわけでもないですし?

 

「仕方がないです。

 超絶気に入らない事案となるですが、なんだかんだお悲しみになられる恋殿のお姿は、音々も見たくはないですから、ちょっと協力してやるですよ。

 音々にも少しは収穫があることを願うです」

 

ふんっと無い胸を張って反り返るチビの音々に、詠は額を机にグリグリと押し付けていた。

 

駄目でもともとのような気しか、詠にはしなかった。

 

 

「いいわよ」

 

「そう、やっぱり駄……ええ? いいの?!」

 

「いいわよ、特例で認める。

 だから徹底的にやりなさい。

 この国で使えるあらゆる力をもって、やれるだけやってみなさいな。

報告書ならびに資料は”私達”で全部共有、隠し事一切無し……いいわね?」

 

「やった! やったでぇ! あんがとう華琳!」

 

霞が諸手を挙げて喜んでいる。

 

ふふっと笑う華琳は、傍にある何も書いていない空き書簡を手に取ると、ささっと令状を書き終えて詠へと手渡した。

 

呆然とする詠が機械的に受け取ると、隣の音々が華琳へ挑戦的な笑みを向けている。

 

やはり予想は当たった、音々はハナからわかっていたのだ、こうなるということを。

 

そもそも互いに見解の相違があったのだ。

 

付き合いがどれだけ長いからといって、それが利点となるわけでもない。

 

むしろ時間を経れば経るほど、謎を深めるという事態は往々にしてありうるのだ。

 

自分の大好きな人が、いつまでも、どこまでも謎めいた人だからこそわかる。

 

アイツは、恋殿と同じ型の人間だ。

 

「それでは”北郷一刀への調査権を魏王曹操の名において、第四級の権限として、賈文和の指示によってのみこれを認める”……これを拒否または保留できるのはこの魏でも、ほんのわずかな人だけよ。

 本人にバレないよう健闘を祈るわ」

 

「だ、第四級!? 一桁権限ですって! 本気なの?!」

 

詠が大声を上げる。

 

普段動じない詠が、目を見開いていた。

 

音々は軽く俯きながら、ニンマリと悪い笑みを浮かべている。

 

 

__さぁ、暴いてやろうじゃないか。

 

北郷一刀という、稀代の女泣かせの正体を。

 

 

「北郷様の調査……ですか?」

 

「そうよ、第零部隊の誇りを賭けて、北郷一刀を調査なさい」

 

「あの、私が言うのもなんですが……」

 

「何?」

 

「賈駆情報室長の直属上司である北郷様に、そのような事をしても?」

 

「ここに華琳様からの許可証があるわ」

 

詠が情報室の中央にある大机に、それを広げた。

 

「だ、第四級?! 許緒様と典韋様お2人と、同格の権限じゃないですか!」

 

第四級を拒否出来るのは魏で四名しかいない、春蘭、秋蘭、桂花、そして件の一刀。

 

同格の権限となる季衣と流琉は、回答の保留ができるだけだ。

 

この権限の意味の凄さが身に染みる。

 

「そうよ、この一件の意味を理解なさい。

 ……それだけ本気なのよ」

 

汗を額から流す詠の言葉の迫力に、第零部隊の者達が息を飲んだ。

 

隣に立つこの部隊の隊長、張郃こと悠も不敵に笑っている。

 

__面白くなってきたわ。

 

ここで不思議なのは、この調査の目的が一刀の造反かと思った者が、誰もいなかったという事だ。

 

ただむしろそれだったら、どんなに楽かと思ったのも事実だった。

 

「参ったな……おい、どうする?」

 

「どうするってお前、第四級なんて”しりあるなんばー”出されちゃあどうしようもねえだろ」

 

「いやいや、実際できると思うか? 北郷様だぞ? 俺達を鍛え上げたお方だぞ?」

 

「要するにこの目的は、北郷様の好みを知りたいって事だろ?

 それを秘密裏に調べだせ、と。

 ……難しい、非常に難しいな」

 

他国の間諜に対し、絶大な対抗力を有する第零部隊の面々が、ひどい二日酔いに悩まされるような顔つきをしていた。

 

「張郃様だって、この手のは北郷様のお相手にならないんだぜ? 俺達が太刀打ちってのもなぁ」

 

「とにかくやるしかねえ、やれるかどうかだなんて関係ない、やるしかないんだ。

 ……皮肉になっちまうが、”諦めるな”が北郷様の教えだぞ。

だが面白いではないか、俺達の腕がはたしてどこまで通じるか……絶好の機会ともいえる」

 

腕を組んで会話を締めくくった者は、深く俯いた。

 

結論はでたと判断した詠は、すぐさま指令をくだす。

 

オウっという気合の入った掛け声とともに、この大規模作戦の幕が上がるのであった。

 

 

調査報告書。

 

・北郷様はかつて陳留に近い洩唐村にて、賊に襲われていた洩唐村を救出する。

 その後気を失うが、生き残っていた村人に保護され、その際に後の許緒、典韋将軍によって保護される。

 これ以前に、何をしていたのか、どこへいたのかの情報は完全に欠落している。

 足跡を辿ろうにも数年前のことであるので、ご本人からの証言が必要かと思われる。

 

・当時陳留の刺史をしておられた曹操様達に見出され、北郷一刀様並びに許緒、典韋将軍と曹操様達は合流。

 その時に何かしらの理由で、北郷様は客将として曹操様に迎えられる事となる。

 

・光輝く流星が落ちたとの目撃証言が前後にあるが、真偽のほどは未だに不明。

 また後に、”黄巾の乱”に機する太平要術の書がこの時期に、一時紛失された。

 これは後の戦中において、処分された事が確認されている。

 

・その後、汚職を隠匿していた韓居並びに文官複数名を逮捕、都へ護送される。

 しかし後の証言で韓居のみ、都の牢から逃走していた事が判明。

 後に北郷様によって討伐がなされた模様、しかし確定事項ではない。

 この韓居捕縛事件の前後、秘密裏に夏侯惇様との直接対決が行われた情報を夏侯淵様により入手。

 勝者は北郷様とされる、夏侯惇様からの情報の裏づけあり。

 

・黄巾党の張角以下2名の主犯との接触があったものの、当時は張角達の正体は判明していなかったため、見逃していたことが後に判明。

 その後夏侯淵様、並びに許緒将軍、後の楽進、李典、于禁将軍の危機を、北郷様が単身で敵地に乗り込むことで回避。

 黄巾党のなかに白装束なる、正体不明な仙道と見られる者達が関わっていることが示唆された。

 

・その頃から北郷様による、新たな市街計画案、並びに耕作機械をはじめとする多くの発明案が提出される。

 それは現在の洛陽復興の際に、大きく貢献することに繋がった。

 なお、この時点で北郷様の総資産はご本人の副業を合わせ、多大なものであったと推察されるが、当時の細かい収支計算書が紛失しているために、これ以上は判明せず、調査を終了する。

 

・黄巾党の一大攻勢が始まり、各地方の領主が討伐に参加。

 北郷様は楽進将軍とともに別行動をとり、利用されていたとみられる張角(以下、張三姉妹)を仙道より奪還、保護に成功する。

 その間、何故か当時袁紹軍の将軍、張郃様が北郷様とともに帰還し、曹操様を驚かせる。

 張郃様ご本人からの理由は、「面白そうだったから」

 これにて黄巾党の張三姉妹と張郃将軍が、北郷様をきっかけにして曹操様の元へと降る。

 

・皇帝崩御に端を発した董卓による王朝への造反とも言える行動に、反董卓連合が結成されるが、北郷様は固く否定。

 事実、洛陽での董卓以下将軍達による暴政は行われていなかった事が後に確認された。

 

・汜水関においては一時の間、北郷様は姿を陣営から消していた事が確認されたが、何処へいかれていたのかは不明。

 なおこの時の典韋様からの証言として、どこか普段の北郷様ではなかった、という事も証言から判ったが、詳細はやはり不明。

 しかしこの頃、曹操様の御機嫌が大変良かったという荀彧様の証言を確認。

 

・虎牢関において、呂布、張遼、華雄と戦い、北郷様は呂布に致命傷を負わせる。

 その後北郷様は単身洛陽城内へと侵入、行方不明となっていた張郃将軍と、董卓、賈駆、陳宮様と幼子を救出。

 この際、馬騰軍に所属する馬岱将軍とも接触が確認がされている。

 

・反董卓連合の解散直前、華佗と呼ばれる医者が曹操軍へと現れ、呂布以下三名の治療に成功。

 現在董卓軍の元将達は、董卓を含め全て曹操軍に帰属することとなる。

 華佗様はその後、北郷様とともに行動をとられているが委細が不明、引き続き調査の必要性があると思われる。

 貂蝉と卑弥呼なる者達も合わせ、北郷様との親交の確認はされている。

 

・反董卓連合以後、袁紹軍が動き出したのと前後し、曹操様が洛陽への上洛を決定。

 国号、魏が誕生。

 その行軍中に現在の郭嘉様、程昱様が北郷様の薦めもあり、臨時に採用されている。

 お2人については、かつて北郷様との接触があった事が示唆されているが、情報の裏づけはまだとれていない。

 

・袁紹、袁術軍が魏国への侵攻を開始。

 張勲、顔良将軍が魏国へと投降する。

 全面戦争ではなく、北郷様発案の”らいぶ”により、事態はわずかな損害で終結した。

 尚、この時に袁紹、袁術軍の大半を吸収することに成功。

 袁紹、文醜、顔良、袁術、張勲は魏へと投降、以後帰属する形となる。

 姿を消した紀霊将軍の捜索はなされたが、以前行方不明のまま、現在は死亡扱い。

 なおこの戦い終結の期間に、一時期北郷様と荀彧様、程昱様の行方が不明となる。

 後に判明した、主犯の十常侍張譲と段桂の身柄は、状況証拠のみが存在。

 公式では死亡扱いとされるが、これ以上の調査は曹操様の中止のご判断により、捜査継続を停止する。

 

・張勲、顔良将軍が魏国へ投降された際、白服を着た道士2名が複数の兵士により目撃されている。

 抵抗はなく、捕縛以後、北郷様との接触は認められているが、詳細が一切不明。

 現在その道士、左慈・干吉は牢から逃走していた事が判明する。

 目下の捜索を北郷様ご自身で続けられている様子、この件についての現況、詳細は一切不明。

 この件は曹操様から北郷様に全て一任されている事が確認されたが、これ以上は北郷様の第三級権限において、無理に調査を続ける事は相応しくないと判断、後は室長の指示を待つ。

 

・現在、確認された女性関係は無し。

 北郷隊による打ち合いの席で、李典隊の隊員が本人に直接問うた際、過去においても女性関係は否定されているのを確認。

 真偽のほどは不明だが、証言をとった隊員の口ぶりからして、恐らく間違いはないと判断される。

 

・魏軍において、北郷様と許緒様、典韋様とのご関係も不明。

 ご本人への聞き込みがなされたが、典韋将軍については笑顔で黙秘、回答を保留。

 許緒様については「大好き」という一言でこの調査は終了される。

 第四級の権限において、これ以上は踏み入れないと判断された。

 

 

「かんっぜんに、今までの一刀の来歴となったわね。

 だけど結構……ためになる資料だわ」

 

各諜報員が持ち帰った、資料をまとめた報告書の束に目を通し、詠は溜め息をついた。

 

だが逆を言えば、第零部隊の力をもってしても、ここらが限界だということだ。

 

「この……前半の華琳達が陳留にいる辺りの情報が、やたら曖昧なのは何故?」

 

「はっ! それが、当時の資料の多くが消失しておりまして、この報告書の作成については、夏侯両将軍に加え、陳留時代から所属していた兵士、並びに陳留へ直接部隊を派遣して、町民から話しを繋いでいるからであります」

 

「つまり確証でもないって事なのね」

 

「はい! ですが一度、夏侯淵将軍にご確認して頂きましたが、特に間違いは無いとおっしゃられました。

 大きく外れてはいないかと考えられます」

 

「そう、ご苦労様。

 引き続き、一刀の現在における調査を続けて頂戴」

 

「はい」

 

そういい残して、第零部隊の隊員は変装をして退出した。

 

本来存在しない第零部隊であるので、普段は様々な姿をしているからだ。

 

機密性の高い情報室に設置された、硬い椅子に寄りかかり、報告書をペラペラとめくる詠。

 

すると壁によりかかる、張郃こと悠が声を発した。

 

脚色の無い、そのままの心情が吐露された声色で。

 

「すごいわよねぇ……」

 

その通りだった。

 

「私達がこの軍に入る前から、こんなに不可思議であったのね。

 まるで人間じゃないみたい」

 

呆れた口調の悠は、どうしたものかと考える。

 

北郷一刀の時系列化された大量の資料。

 

それを1つずつ確かめて繋げていくと、神がかり過ぎて溜め息しかでないのだ。

 

一刀の好みを調べ始めただけなのに、とんでもない物が出来上がってしまった。

 

肝心の好みの部分は欠けているのだが……

 

とにかく、資料のまだ概略段階でため息ものなのに、これからどんどんと詳細な部分が埋まっていくだろう。

 

見る前から、悪寒の走る資料となりそうであった。

 

悠は落ち着けと心情に言い聞かせ、資料のまず始めの……そして最も根幹的で、大きな疑問を口にした。

 

「その始めの、華琳達の出会いのところ……本当なのかしら?」

 

「光る流星がどうこうってところ?」

 

「それ読んで、久々に思い出したわよ。

”光輝く流星とともに、天の御使いが舞い降りる。

 その者は白き衣を纏い、見えぬものさえ分かつ剣を振るう。

 彼の者は正され過ぎた、大陸の未来を救うであろう。

 星々に道を開き、示さぬ標となるであろう。

 誰1人逃れえなかった世界を、天から救うであろう”……こんな感じだっけ? どっかの占い師が言っていたのは」

 

「あったわねそんなのも。

 噂に尾ひれがつきすぎて、当時は各地で色々な形に変わってたけどね。

 私が聞いたのもそんなのだったわ。

 眉唾どころか、よくこんな頭の悪い話しができるもんだと当時は笑っていたけれど、この資料を読むといよいよもって笑えないわね」

 

「……北郷一刀は、天の御使い?」

 

「そもそも客将ってのが怪しすぎたのよ、あんまりにも馴染んでいるからか、彼と接しているとつい忘れちゃうけれど。

 第三級の権力をこの魏国で振るえる重要人物が、未だ客将なのよ?

 彼自身の資産だって莫大だし、尋常じゃないわ。

 しかも一刀が頼めば、夏侯将軍の一級どころか、華琳の国首権限だってすんなり通っちゃうんじゃない?

 一刀がそんなことするとは到底思えないけど、彼が本気で造反を考えれば、あっというまにこの魏がひっくり返って、大混乱もいいところよ……どうなってんの?」

 

互いの意見を述べた2人は、大きく頭を捻る。

 

「自分の主に、こんなこと言うのもなんだけどさ……」

 

「無礼承知で言うんだけど……」

 

 

 

「「曹操ってこんな人だったっけ?」」

 

 

 

2人の声が重なった。

 

やはり思い至るところはそこなのだ。

 

どうしてだろう、どうしても違和感がある。

 

辣腕で知られ、戒律に厳しく、信賞必罰、まさに覇王たらんとした人物が曹孟徳だ。

 

彼女が覇王を目指すのではなく、覇王という名が曹操を指すのだと言わんばかりの、あの凛々しい姿。

 

こうして報告書として字面に起こし、客観的に事実を並べるとよくわかる。

 

別に華琳の判断も姿勢も……甘くなったわけではないのに、でも何かが変だ。

 

何が変なのかはわからないが、違和感が拭えない。

 

それは、ここまでの彼女の道筋が順調すぎて粗が見えないからなのか、それとも華琳に接していると、ときおり発せられる眩しいほどの金色の覇気のせいなのか。

 

彼女は覇王だ、それに関しては間違いはないし、誰も文句などありようはずがない。

 

なのに何度報告書を見直しても、2人の心にはしこりが残る。

 

彼女の歩いてきた道は結果が覇王であるのだが、過程が常を超え、むしろ覇王からはほど遠く見える。

 

報告書に目を通す2人には、その因に1人しか思い当たりがない。

 

彼が、彼女にそこまでの影響を与えているというのか?

 

それとも他に要因が……駄目だ、答えはでそうにない。

 

「一刀が天の御使いなら、大陸は救われる?」

 

「んなわけないでしょう?

 悠、貴方だって一刀と付き合いがあるんだから、わかるでしょうに。

 一刀は………………平凡だわ、極めて……誰かを救える力も」

 

「そうなのよねぇ、平凡なのよ。

 でも私達がこれだけ追いかけている男が、平凡であるのよ?」

 

悠の返答ももっともであり、ここでも納得がいかなかった。

 

「仮にね、あくまで仮によ?

 一刀が天の御使いで、華琳がそれを隠していると、そうしましょう。

 それならば初めに客将であることにしたのも、どうにか説明できるわ。

 まだ王朝も存命だったしね、天の御使いを大っぴらにしない配慮もわかる。

 でも今の状況は違うわ。

 漢王朝は天子を失い、魏国が建国された今、いつまでも華琳がそれを続けておく?

 一刀だって……華琳が求めれば応じるでしょう?

 それをしないのは何故?

 一刀を臣下にしたくない、もしくはしない理由があるというの?」

 

詠の確認するような問いに、悠は頭を振った。

 

「私が華琳の立場なら一刀は絶対欲しいわよねぇ、わざわざ客将のままでいさせる利点は見当たらないわ。

 まさか彼のことが好きだから、とか?

 だとしたら可愛らしいけど」

 

「そんな些事、それこそ華琳ならあっさりと踏み超えるでしょう。

 臣下との情愛が倫理にどうだとか、そういう領域の話しじゃないわ。

 彼を客将のままにしておく意味があるのよ」

 

「一体何があるのか。

 ふぅ……謎というよりも、不明瞭な点が多すぎるわ。

 私の部隊をもってして、ここまで”不明”という文字を使われるのはちょっと腹立たしいわねぇ。

 他の将達から、もっと個別の情報も集められるように働きかけてみるわ」

 

「ええ、お願い。

 ……華琳が第四級の権限までだして調べさせたのは、このためだったのかも。

 僕達に一刀という人物の片鱗を掴ませ、その上で一刀に注意しろという事なのか……

 資料は全員で共有ってのも納得できるわ、捉え方はそれぞれでしょうけど」

 

「董卓軍きっての軍師たる貴方のご意見は?」

 

「まだ頭の中でろくに纏まらないけど、報告書を見る限り、一刀が敵にならないことを祈りたい気分だわ。

 まるで勝てる気がしないもの。

 例え今からでも一刀が他国へいったら、多分……本当にやばいわよ。

 それに…………疑うのはあまりに寂しいし」

 

「どーうかん、ね。

 ま! 今は考えても、まだ答えなんて出ないでしょ。

 これは後で一刀以外には閲覧できるように、私が纏めておくわね。

 あはは! 皆どんな顔をするのか・し・ら?」

 

悠が笑いながら、情報室を後にしていく。

 

1人部屋に残された詠は資料の束を机に投げて、浅く倒れるように椅子の背に寄りかかった。

 

__僕達はこれで、北郷一刀の一端を掴むことが出来たのだろうか?

 

瞳を閉じて考える詠。

 

一刀がこんなに危険人物だとは思ってもいなかった。

 

彼は……危険だ。

 

そして詠は思考を外へと向けた。

 

他国は魏国をどのように感じているのだろう、と。

 

敵対国という事実はあるにしろ、羨むほど磐石な魏の状況に、妬ましいくらいなのではないだろうか。

 

__それでさえ……表面的にしか知らないのに!

 

董卓軍も、袁紹軍も、袁術軍も、張角達も……それに皇帝陛下までが魏にいるのを、他国は知らない。

 

それなのに、少なくとも自分が他国の軍師であれば、表面的な魏の国力だけで、いつでも月をつれて逃げれる準備くらいはしているに違いないのだ。

 

これでさらに、魏が隠している秘密などを知ることができたら、途端に裸足で逃げだすだろう。

 

ふうっと詠は息をついた。

 

華琳と一刀が私に言った、この部隊を僕に任せてくれる理由。

 

”他領に洛陽の情報だけは一切漏らすな”

 

僕のただ1つの至上命令。

 

この意味がズシリと重く感じた。

 

どれだけの切り札を抱えようと言うのか、あの2人は。

 

表向きの情報だけでも、周瑜や諸葛亮、陶謙に馬騰という大陸で名だたる者達の苦悩が我が身のようにわかる。

 

兵力、政治力、国力で圧倒する魏に対して、日々対策の論議を尽きることなく交わしているのだろう。

 

まず交戦はできまい、しかしただ指を銜えて日々を無為に過ごすわ……け、にも……?

 

ここで詠は起き上がって、顎に手を当てた。

 

 

__待って……もし月がまだ領主として残っていて、華琳も一刀のことも、表面上でしか知ることが出来なかったとしましょう。 魏の秘密を知らない軍師の僕……それだと僕は……

 

 

 

僕は一体、どういう行動をとるというの?

 

 

「お? いつもご苦労様。

 悪いね、俺が自分で出来ればいいんだけどさ」

 

「へう……一刀さん、お気になさらないで下さい。

 私は好きでやっているのですから」

 

扉が開くと同時に、お気楽な声が聞こえた。

 

ああ、陽が当たるような温かさがあるのに、誰にも触れぬ影のよう。

 

そういうどうでもいい言葉が突如頭を過ぎり、一度頭を振ってから声の主へと僕は振り返った。

 

「何よ、一刀。

 ……さりげなく、こっちにくんな」

 

この魏において、もっとも不可思議な男が笑いながら、僕の酷い言葉を受けても近寄ってきた。

 

僕達2人に近づいた一刀は、まるで子供を扱うように頭を撫でてくる。

 

最近ではすっかり、僕達の人生においても珍しいこの感触も、一日に一度もやられれば慣れてくるというものだ。

 

優しく撫でてくる一刀に、月はとても幸せそうに微笑み返し、良い感じの空気が精製されていく。

 

複雑な心境の僕はふんっと拗ねたように鼻をならし、子供扱いすんなとその空気を、いちいち壊す。

 

今にも噛みつかんばかりの僕の剣幕に、一刀が苦笑して私達から離れていく。

 

隣で月が少し悲しそうに僕と一刀を交互にみやり、ごめんなさいと一刀に謝った。

 

別に月が謝ることじゃないのに、僕は何も言えない。

 

これではいけない、もっと素直にならなければと毎度のように思うが、少しも前進しない。

 

2人に見えないように背中を向けながら、深呼吸か溜め息がわからない長い息が漏れた。

 

董卓軍にこの人ありと呼ばれた賈文和が、男たった1人にこうまで対処ができないとは。

 

自分の不器用さが身に染みる。

 

というよりも、この男はなんなのだ?

 

今の姿はそこいらの町民……いや、それ以上に普通だ。

 

優男の極地に見えて、時折みせる寒気のする刃物のような姿が誰よりも頼もしい。

 

あの天と地のような落差の源はなんだ?

 

__っ!? だ、駄目、駄目よ……彼は疑わない……そう決めたでしょう?

 

もはや骨肉といっても変わりない、体に流れる軍師の血が彼を嫌がおうにも疑わせる。

 

彼への好意、彼への疑念、彼への信頼、彼への嫉妬……彼への恐怖。

 

どうすればいいというのか、僕は。

 

「……はぁ」

 

「お、どうした? 疲れたのか詠?」

 

「詠ちゃん、後は私がやるよ?」

 

しまった。

 

2人に気づかれてしまった。

 

僕は慌てて振り返ると、なんでもないわよと言い返す。

 

掃除が終えれば、情報室室長としての仕事が待っている。

 

この時間だけなのだ。

 

月と一刀、この大切な2人といられるのは。

 

調子を無理に取り戻した僕は、手早く掃除を始める。

 

もともと綺麗好きなせいか、掃除は好きなほうだった。

 

ただ、月みたいに丁寧にというか、気配りが行き届いた片付けができない。

 

どうしても粗が出てしまう。

 

一刀の傍には、給仕というか、使用人というか、彼曰く”めいど”といわれる世話役が5人いる。

 

月以外は他の仕事を掛け持ちでしているが、その中で僕はどちらかというとできない方だ。

 

特に一刀の部屋数は多く、1人で大部屋を何部屋も所有しているからか、掃除人が多い。

 

地和に月に僕。

 

この中でもやはり一番下手なのは僕だろう。

 

それは仕方がない。

 

だからこそ彼の迷惑にならないくらいには頑張りたいのだ。

 

ようやく本棚の整理に目処がついてきた。

 

数日に1度とはいえ、彼の部屋に来るたびに本が散らばっている。

 

たった数日で、けっこうな量の本を彼は散らかしていた。

 

「……ん?」

 

ふと、気にかかった。

 

今まで僕は本を片付けるのに一生懸命で、内容には目を通した事はない。

 

彼が発案した、背表紙に印と番号をつけることで管理のしやすさをする”たぐ”なるものばかりに目がいっていて、内容にまで気が回らなかったのだ。

 

これでも僕はかつて、軍師でそれなりに名を馳せた者だ。

 

大概の書物には目を通したし、軍略、政略、経済学、そのほとんどは網羅しているはず。

 

チラリと後ろを見れば、床の掃除をしている月と、机について書簡に筆を走らせている一刀。

 

一度気になってしまえば、彼が一体普段どのような本を読んでいるのかが気になる。

 

僕はまだ手に残っている書物を、ためしにパラパラと捲ってみた。

 

__ふむ、六韜……か。

 

背表紙に書いてある書名と、内容は一致していた。

 

その後もいくつか開いてみたが、特に変わった内容のものはなく、全て僕がかつて読んだ事のある本ばかりだった。

 

特に変なものもない……艶本なんかがあったら、鼻先に突きつけてやろうかと思ったけど。

 

期待半分であっただけに、残念と思う気持ちも半分位の大きさだった。

 

僕はもういいかと見切りをつけ、本を棚へと戻す。

 

これでいいかと凝りを解すように軽く首を揺すると、ふと、変な感じがした。

 

なんだろう。

 

この本棚、何かが変だ。

 

僕はあの報告書に目を通した時と同じような、微妙な違和感を覚えた。

 

特に問題はないはず、つまり”問題”じゃないんだ。

 

落ちていた本も、背表紙も、その内容も。

 

なのになんだ?

 

「…………ぁ?」

 

僕は気づいた。

 

落ちている本が、いつも同じ本だという事に。

 

いや、正確に言えば、いくつか落ちる種類はあるが、この本棚の中で落ちていないものがある気がする。

 

よく思い出せ、賈文和。

 

貴方がいつも片付けている本、それを全て思い出しなさい。

 

この中に、拾っていない本を探りなさい。

 

どれ?

 

「っ!」

 

これだ。

 

間違いない、他の本は何回か落ちているのに、この本だけは落ちたことがない。

 

しかもよく思い返せば、そこはなんとなくだが、周りの本も残っている場所だ。

 

残る密度が高い……気がする。

 

何かを守るように落ちていない、しかし僕たちの意識から外すには絶妙な位置だ。

 

この本棚に触れるであろう私を含め、月に地和……この身長差を考えても、この位置は高さ的に見落としやすい2段目の少し手前。

 

さっき、僕は肩の凝りを解すために首を一回りさせた。

 

その時僕の顔が下を向いて、なおかつ気が抜けていないと気づけなかった。

 

僕はドクンドクンと高鳴る動悸を抑え、気づかれないようにそっと屈む。

 

薄汚れた黒い背表紙の書物だ。

 

僕はその書へ、何気なく手を伸ばそうとする。

 

__大丈夫、大丈夫よ、これは疑ってるとかじゃなっ……

 

「詠、何してんの?」

 

「っ!」

 

心臓が飛び出るかと思った。

 

「詠ちゃん、どうしたの?

 何度呼んでも返事がないから」

 

「え? えぇ、ごめんなさい。

 ちょっとボーっとしてたわ」

 

後ろへと軽く首だけで振り返ると、月と一刀が並んで僕を見ていた。

 

「やっぱり疲れたんだろ?

 どうだ、こっちにきてお茶にしなよ」

 

「ぁ、」

 

本を……

 

しかし一刀の目線は、明らかに僕の背中へと向いている。

 

上手く背中で、僕の手元は隠れているとは思う。

 

だけど間が悪いことに、僕の人差し指は黒い本の背表紙にすでにかかっていた。

 

まさに取り出す寸前。

 

指先には本の背の硬さと冷たさ、鉛のような重さまでもが伝わってくる。

 

このまま引き抜けば一刀にわかるだろう。

 

僕にやましい気持ちがあるからか、それとも本当にそうなのか。

 

お茶を勧めてくる彼の笑顔が自然すぎて、息を飲んでしまう。

 

別に読んだっていいはずだ。

 

__この本、見たことがないみたいだから見てもいい?

 

このたった……一言だけなのに!

 

上下の唇が粘りつくようにくっつき、中では歯が震えている。

 

舌根が喉の奥にまで引っ込み、視線が外せない。

 

彼は今の僕を見たら何を思うか?

 

たまたまこの本に手をかけた?

 

それとも僕が意図して、確信したのを気づかれた?

 

でも、それはつまり…………

 

 

僕は……彼を、疑っている事になるのだ。

 

 

「お茶飲むだろ? 月が淹れてくれてんだぜ?」

 

「ぁ、ええ。

 もちろんよ」

 

ぎりぎり平静、かな。

 

止まって、固まった瞬間が少しはあったと思うんだけれど、気づかれていなさそうだ。

 

僕は触れていた指先をそっと離し、弾くように爪で軽く叩くと、傾いた黒い本を元へと戻した。

 

こういう偽る行為が上手くて、自己嫌悪したくなる。

 

軍師の頃はそれが誇りだった。

 

敵を欺くことは、軍師としての手柄であり誇りであったのだ。

 

なのに、このズキリと胸を抉るような痛み。

 

どうしてよ……

 

僕はそのまま用意された席へと座ると、月が用意してくれたお茶へと手を伸ばす。

 

温かい。

 

美味くお茶を抽出した後、飲みやすい温度へと合わせている。

 

風味が口から鼻へと抜け、用意された甘味が控えめのお菓子の口当たりもいい。

 

__ふぅ、少し……落ち着けたかな。

 

かつての僕は、月のおかげでどこまでも強くなれた。

 

月に対して保護欲の一面があるとしても否定はしない。

 

ただそれ以上に、月自身のことが大切だ。

 

きっと今でさえ、月の身にわずかでも危険が及ぶならば、何もかもを捨てれるほどに。

 

それぐらいの覚悟はとうの昔についている。

 

だけど……

 

僕はどうすればいいのだろうか?

 

どうするのが正しい?

 

この月と一緒に、暢気に笑いながらお菓子を摘む男。

 

彼は僕達の恩人で、それを抜きにしても大切な人で。

 

__でも……危険人物なんだ。

 

「はぁ、美味し」

 

「良かったぁ、詠ちゃんにそう言って貰えて」

 

月が微笑んでいる。

 

「そりゃあ月の淹れる茶は一品だからねぇ」

 

「そうよ、あんたには本来もったいないものなのよ一刀?」

 

「もう詠ちゃん」

 

「あはははは、そりゃそうだ。

 ありがとう月」

 

「へうう」

 

困ったように恥ずかしく笑う月。

 

本当に感謝を述べて、月の頭に手をのせて撫でている一刀。

 

__もしかして、僕が少し……ほんのちょっとだけ僕が、ただ我慢をすれば……全部丸く納まるのかな。

 

「詠、そろそろあっちの時間じゃないか?」

 

一刀が窓から空を見上げる。

 

陽の上がり方からして、確かにそろそろ情報室へと向かう時間だ。

 

仕方がない、もう月もここで仕事は無いだろうし。

 

「そうね、じゃあ月も行こう?」

 

「あ、詠ちゃん。

 私はもうちょっと、一刀さんとお話していってもいいかな?」

 

「え? 月?」

 

これは困った。

 

月の頼みは聞いてあげたい。

 

けれど男と密室で2人っきりにしていいものか?

 

いや、こんな僕が言うのもわかっているし、なんなんだけど……一刀は信用している。

 

何より数多の女性達に囲まれた上に、あれだけの好意を寄せられておいてなお、誰にも手を出していないのは確認しているのだ。

 

しかもその女性達は無念ながら、僕も羨む美人揃いだ。

 

でぶ専とかいう趣向者でもなければ、はっきりいって異常だ。

 

むしろあえてその好意を避けている節さえある。

 

でも万が一という事も、ないわけでは。

 

困った僕は、恐らくジト目で一刀を睨んでいたのだろう。

 

引きつった笑みを一刀が浮かべていて、月からは責められるというより、悲しい瞳を向けられていた。

 

「う”……わかったわよ、月ぇ気をつけてね?

 一刀も! 何かあったら直ぐにでも張っ倒すからね!」

 

「はいはい」

 

「もぅ詠ちゃんったら」

 

一刀からは軽く手を振られ、月は僕の言った事がわかったのか、頬を赤くしながら笑っている。

 

 

__だ、大丈夫だわよね? むしろ……月の方からってことはないわよ、ね。

 

一抹の不安を残したまま、僕は一刀の部屋を後にしたのだった。

 

 

「ははっ、詠には参ったなぁ。

 まぁ男だから仕方ないっちゃ仕方ないけどさ」

 

締りのない笑いで話しかけた一刀だが、月の様子が浮かない。

 

どこか思いつめて、堪えているようにも見える。

 

__それに俺に話がって言ってたよな、それに関係があるのか? とにかく話しを聞きだしたほうがいいのか……

 

「そういえばさ月、俺に話しがあるっていってたよね?」

 

「あ、はい……その、詠ちゃんの事なんですけど」

 

「詠? 彼女の前では言えないこと?」

 

月はわずかに見上げるように一刀へ視線を移して、もう一度俯いた。

 

そしてもう一度視線を上げると、意を決して口を開き始めた。

 

「あ、あの!

 詠ちゃんちょっと最近、様子がおかしいっていうか、いつもと違うんです」

 

苦しそうな月の表情に、一刀はどこがおかしいのかを聞いてみる事にした。

 

少なくとも一刀には、おかしいところはなかったように思える。

 

「違うって、どこらへんなのかな?」

 

「あの、これって一刀さんにお伝えしてもいいのか、私……皆さんみたいに頭がよくないので、わからないんですけど……」

 

一刀は月から話しを聞いていくうちに、何度納得した声を上げただろう。

 

霞が詠に縋りついて、何かを聞き出そうとしていたとかの話を聞くにつれ、一刀はなるほどなと何度も思った。

 

「ふーん、そうか。

 あの詠がね」

 

「はい、あの、私一刀さんを、そのぅ」

 

「ん?」

 

話している途中から徐々に俯いてしまっていたが、月はさきほどのようにバッと顔を上げた。

 

「一刀さんを信じてますから!」

 

「…………ぁ……」

 

思わず声がこぼれてしまった。

 

月の必死な言葉に、一刀が気おされる。

 

そして本気で迫るように体を前に押し出す月に、一刀は目を見開いた。

 

一度ついた勢いは止まらないのか、月はそのまま一刀の肩を両手で掴むようにと進む。

 

「詠ちゃんもきっと! いいえ! 絶対に一刀さんの事がっ! ぅあっ!?」

 

大切な人を大切な人に誤解されたくない。

 

理由にもならない言い訳なのかもしれないけど、一刀にそんな気持ちは持って欲しくないのだ。

 

月にとってこの行動は、ほとんど反射的だった。

 

勇気をだす暇さえなかった。

 

必死な表情で一刀を説得しようと迫る月だったが、一刀にも動揺があった。

 

前のめりに倒れた月を危ないと判断した一刀が、月を支えようと両腕をだしたら、彼女の片腕に当たってしまったのだ。

 

一刀の肩へつっかえるように手を置こうとした月だったのに、一刀の腕に弾かれて片腕が目標を外れてしまう。

 

そしてそのまま……

 

「っと、大丈夫か月?」

 

半ば飛びこんだような勢いだった。

 

一刀の胸にめがけて飛び込んだ月は、一刀に支えられるというよりも抱きしめられる形で、その勢いを止めることとなった。

 

月の困惑と必死さを秘めた瞳と、一刀の純粋な驚きの瞳がぶつからない。

 

一刀の胸板に月の耳が当たり、ドクッドクッと心臓の音が聞こえる。

 

ただこれで、月の気勢は見る間に削がれた。

 

息遣いが聞こえるほど静かになった室内。

 

自分達がどのような体制で、どうなっているのかを理解するのさえ難しい。

 

ただ月はそのままの体勢を保つことができないので、一刀へ体を沿わせるようにゆっくりと倒れる。

 

完全に一刀に体重を預け、その温かさを全身で感じている。

 

一刀もそれに逆らわず、むしろ月を優しく抱き寄せた。

 

「……詠はとても頭のいい子だ」

 

しばらく身を寄せ合っていた2人だったが、一刀が口を開いた。

 

「え?」

 

「だからこそ、俺の事を信じられない」

 

「っ、でも詠ちゃんは!」

 

「わかってる、わかってるんだ」

 

不安そうな月を強く抱きしめた一刀は、そっと本棚へと視線を向けた。

 

__さっきのは……それでか。

 

本棚の下から2段目、左から3つ目の黒い背表紙の本。

 

さきほどまでそこに屈んでいた、後ろ姿の詠の残像が半分透けて見えた。

 

思い返せば、ほんのわずかに、か。

 

__なんていえばいいか、俺ごときじゃ限界があるということかな。

 

まさか一番早いのが詠とは考えてもいなかった。

 

これは稟か風だと考えていただけに、一刀としても思案のしどころだ。

 

偶然か……偶然であって欲しい。

 

一刀は月をそっと離すと、さっきはごめんねといって謝った。

 

月は頬を赤くしながら、顔を横に振り笑っている。

 

立ち上がると一刀は、そっと月の頭を撫でた。

 

心配する必要はないと語りかけているような、温かい優しさがあった。

 

 

「へぅううう」

 

倒れる寸前になるほどまで赤くなった月はぼうっと立ちつくし、一刀は心中でどうしようかと思案していた。

 

 

「ったく、月は大丈夫なんでしょうね」

 

「何をぶつくさぼやきながら仕事してんの、ほら、他の皆が不安がるでしょう?」

 

呆れた声をだす張郃こと悠。

 

「うっさ……ごめんなさい」

 

思わず言い返そうかと思ったが、周りの部下達も流石にという目線を向けているので、自分が悪いと謝った。

 

「ふぅ、貴方が月のこと大切なのはわかっているけど、そうまで心配なら部屋から連れ出せば良かったじゃない」

 

「だって、月が一刀に話しがあるっていって聞きそうになかったんだもの……仕方ないじゃない」

 

目線を報告書へと落とし考え込む悠だったが、優雅に口元に手を当てると、彼女らしくもなくややぼやかして言った。

 

「へぇ、あの月がねぇ……」

 

「何よ」

 

「ん~ん、別に。

 でもね詠、自分の大切な人って特別って思わない?」

 

「そりゃ思うわよ、当たり前じゃない」

 

「当たり前なくらい大切なものほど、なかなか見えないって相場は決まっているものよね」

 

「何よその、いかにも私は悟っていますって感じの言葉は。

 ふん、この僕に限ってあり得ないわね」

 

詠はむんつけるように唇を尖らせると、いい加減集中して書簡へと手を伸ばした。

 

__さて、これはどうなるのか・し・ら? 変にこじれなければいいけど……せっかく華琳達がこれだけいい雰囲気なだけに。

 

ちらりと目線を移せば、詠がようやく集中しだしたのか、バリバリと指示を出しながら鮮やかに筆を走らせている。

 

報告書へ目を通しているようでまったく通していない悠は、う~んと迷いながら、こういうのはどうしたらいいのかを考えていた。

 

基本的にお節介焼きな悠ではあるが、実をいうと直接的な手助けは嫌うほうだ。

 

というよりも、自分より適任がいるのなら、その人に任せるというのが方針であった。

 

それじゃあ今回は誰が適任か?

 

一刀と詠の問題だ。

 

つまり2人ともこの魏軍でも少数となる、常識人兼頭脳派といえる。

 

この2人にも機転が効くぐらいの水準を満たす人は、非常に限られる。

 

2人と同じくらいでは余計ややこしくなるだけだ。

 

となると、すぐさま頭に思い浮かぶのは華琳だが、彼女は忙しい。

 

さらにここ最近の不安定そうな心情も考慮すると、上手くいくかはわからないだろう。

 

下手をすれば、飛び火してしまうかもしれない。

 

となると次に出るのが秋蘭となるのだが、一刀はともかく詠とそこまで接点があるわけではない。

 

桂花ならびに春蘭は大却下。

 

__うん、困ったわね。

 

近年で加入した新しい仲間の顔ぶれを次々と思い浮かべるが、適任がいない気がしてきた。

 

__え? 私?!

 

自分で自分の心情に突っ込んだ悠だったが、ハッと気がついたように手と手をついた。

 

ポンッ

 

そういえば、あいつがいたじゃないか。

 

悠はあの、底抜けに明るく笑う女性の顔を思い浮かべると、仕事の書簡を脇において、すぐさま面子を揃える準備に取り掛かるのであった。

 

 

「………………何?」

 

「なんなのです悠?

 こんなところに呼び出して、私や恋殿はそこまで暇でもないのですよ」

 

ブーたれた顔で拗ねる音々と、どうでもいいのか足元にじゃれつくセキトを構う恋。

 

それにその傍には、元・董卓軍の顔ぶれが勢揃いしていた。

 

「それで、どうしたというのだ悠?

 この顔ぶれを揃えたという事は、月に関係があることか?」

 

華雄が腕を組んで話し始めるが、悠は違うと軽く腕を振って、代わりに書類を机に放った。

 

机にバサリと乗った紙が、これが重要書類の一部だという事を意味している。

 

「これ、は?」

 

手に取った華雄が中を見て軽く目を通すと、わずかに片眉が上がった。

 

この書類の意味がわかったのだろう。

 

「悠?! 貴方まだこれは……」

 

詠が焦って書類を集めなおそうとするが、もう遅い。

 

華雄から詠が奪えるわけがないのだ。

 

腕を上げて詠の手が届かないように、空に照らしながら読む華雄に、悠はニヤリと笑って一言付け足した。

 

「一刀のちょ・う・さ・しょ」

 

この言葉に、机でだれていた霞がガバッと起き上がった。

 

食い下がる詠を押しのけて、華雄の脇へ神速と呼べる早さで近づく。

 

「もうできたんか?!」

 

「私達、第零部隊を舐めてもらっちゃ困るわね。

 まぁまだ足りないところもたくさんあるけど、一刀のことを知りたがってた貴方が、満足できるものだと思うわよ」

 

「なんやて!? ……どれどれ」

 

本格的に読み出した華雄と霞。

 

恋も気になるようで後ろから覗こうとするが、難しい字が多いので諦めた。

 

音々は1人離れて、計算どおりとほくそえんでいる。

 

恋が報告書を読まない事くらいお見通し。

 

その上であの男の情報を手にし、弱みを事前に握っておいて、これからの上下関係をはっきりとさせてやるのだ。

 

そうやって音々が、早く読み終わらないかなと思っていると、華雄と霞が顔を上げた。

 

詠ももう諦めたのか、椅子に座って悠を睨み上げている。

 

まだこの書類は不完全だ。

 

閲覧許可だって詠から貰っていない。

 

詠からの視線に気づいた悠は、腕を組んで余裕な笑みを浮かべる。

 

その笑みを受けた詠が、喉から出かかった声をむっと飲み込み、仕方がないと開き直ることにしたようだ。

 

何を企んでいるかは知らないが、そうそう上手くいかないわよ、という気持ちがありありと見てとれる。

 

__確かに企んではいるけれど、もう企みは終ってるんだけどね。

 

すでに悠は心の中で勝利宣言をあげていた。

 

報告書を音々に手渡した華雄は腕を組み、考え込むように深く俯いた。

 

それに対照的なのは霞のほうであった。

 

楽しそうに声と鼻歌を合わせながら、歌い上げている。

 

「どうだったか・し・ら?」

 

悠の言葉に、華雄は俯いたまま声だけを発した。

 

「予想以上、というべきだろうな。

 ……あいつは本当に人か?」

 

なんとも言いにくいという華雄の言葉に、詠がすぐさま同調した。

 

「そうよね、一刀のこと……疑うわけじゃないけど。

 ちょっと普通じゃないわよね」

 

詠の言葉に、月がすぐに悲しそうな表情へと変わる。

 

きっと反論したいのだろう。

 

だがそれでも言わないのは、さては一刀と何かあったか?

 

彼女達のやり取りを見ながら悠はそう考えるが、彼女の望んだ答えはまだ出ていない。

 

一刀は怪しい、これは間違いない事実だ。

 

それを無視して彼を信じる、彼を信じたいがために疑いを深める……これでは駄目なのだ。

 

それでは一刀を信用することはできても、信頼ができない。

 

彼女達も、もう魏の一員だ。

 

華琳達の気持ちを理解してもらわなければならない。

 

だからこういう事の機転が利き、わかりやすい自然体で、そして一番正直に答えられる人間が必要だ。

 

だからこその……

 

「僕もまだ可能性の段階だけど、もしかして一刀って天の御使いで、僕た”そんなの別にいいやん”……霞?」

 

彼女だ。

 

悠がそんなことを考えていると、霞が暢気な声を続けた。

 

「別にいいやん、一刀が怪しくたって。

 なんやその資料を見とると、一刀が天の御使いっぽい感じはウチもするけど、そんなの関係ないやん」

 

「ちょ、霞! 関係ないことはな”ないやろう?”……っ!?」

 

気楽に笑いながら霞が言い放つ。

 

どうやら一刀の事を知ることができたので満足したのだろう、非常にご機嫌だった。

 

「なんもかんけーあらへん。

 せやろ?

 一刀が天の御使いやっても、魏の警邏隊総隊長でやっても、すけこましでも、空前の種馬でも、な~んも関係あらへん。

 うちは一刀が好きやもん」

 

全くの戸惑いのない答えに、詠が愕然としていた。

 

「ふっ……はっはっはっはっは! その通りだな霞!」

 

あっけらかんと笑う霞に応じるように、華雄も快活に笑った。

 

「確かに怪しいな、その報告書は。

 怪しいことこの上ない!

 だが詠よ、疑ったところであまりに無駄というものだぞ?」

 

「ど、どうしてよ?」

 

「よくよく考えてもみろ。

 私達が初めて洛陽で出会ったその時から、一刀は不思議の塊ではないか。

 どうして私達はあのたった一夜という短き間で、一刀を信じられたのか?

 虎牢関において何故、私達は一刀を信じて命を賭けられたのか?

 そして何より……」

 

「…………」

 

「どうして一刀は、私達を信じてくれるのか?」

 

華雄に言われた言葉の意味に気づき、詠は一度瞳を大きくしてから俯いた。

 

また大きく華雄が笑った。

 

「ははははっ! 確かに一刀が何者であろうと関係ないな! 私は一刀が好きなのだ!」

 

華雄の人目をはばからない大声に、恋も反応した。

 

「恋も一刀、大好き」

 

「はあぁ……まあ音々も、嫌いではないくらいにしておきましょうか」

 

つまらなそうに音々も報告書へと目を通している。

 

何か一刀の粗でもないかと探しているのだろうが、なかなか見つからないのだろう。

 

「私も、愛しています」

 

月は皆の宣言を聞き、心から笑顔になった。

 

後は……

 

「おや? どうしたのだ詠?

 お前が諦めるのならば、強力な”らいばる”が1人減って、私のようながさつ者には嬉しいのだがなぁ」

 

華雄の焚きつけているのが丸わかりの言葉に、俯いていた詠がガバッと勢いよく顔を上げた。

 

真赤だった。

 

__ほんと世話が焼ける……でも助かったわ、霞。

 

すでにもう蚊帳の外になっている悠は席を立ち、軽く手を振っておいた。

 

 

「僕だって……僕だって一刀のことが好きに決まってるでしょ!!!」

 

__もう少し静かにしないと、本人にまで聞こえちゃうわよ?

 

 

「ふう、参ったな……まだこれは書き途中なんだけど」

 

寝床に転がった俺は、困った顔でヒラヒラと黒い表紙の本を手で振っていた。

 

「うーん、隠し場所……あの部屋に入れておければいいんだけど。

 仕事の合間に書いてるからなぁ、なるべく手元に近いところがいいんだけど、こりゃあもう無理かな」

 

本棚のトリックが見破られてしまっては、他に上手い隠し場所が思いつかない。

 

木を隠すなら森。

 

さらにそれを応用までした心理トリックだったのだが、敏い詠には気づかれてしまった。

 

「流石は董卓軍きっての筆頭軍師ってところか、いや……疑われる俺に問題か?」

 

泣きそうな月の話しを聞くぶんまでだったが、どうやら俺のことを詠達が探っているらしい。

 

詠がそんな単独で勝手をするとは思えないから、きっと華琳の許可付きだろう。

 

「ミスはないと思うんだけど……ドジってのは自分でそうそううまく気づけないしなぁ。

 デス○ートのライ○君みたいに、机に仕掛けでもつくるか? 二重底とか」

 

もはや懐かしささえ感じるほどの漫画を記憶から掘り出した俺は、今までの行いを振り返ってみることにした。

 

目を瞑れば、あの日部活から帰ってきてシャワーを浴びていた寮の部屋が映る。

 

__そういや及川といい、不動先輩といい大丈夫だったのか? ……動けてるといいんだけど。

 

博物館での思い出が蘇る、そして触れられなかった無力感も。

 

きっとあれは、俺が空間的にズレていたとかなんだろうな、多分。

 

それから俺の記憶の引き出しは、貂蝉の声とのやり取りの後、綺麗な暁の光景へと移った。

 

__それであの村の光景、か。

 

それからのことを1つ1つ思い返していく。

 

「……うん! 読み間違っていなければ、ちょうどいいくらいのはずだ。

 じっさいに華琳の状況は俺の想定な……ん?」

 

コンコン

 

誰だろう、こんな夜更けに……季衣かな?

 

俺は立ち上がって机まで歩くと、机に備え付けられている隠しボタンを押す。

 

それに反応して扉の鍵が外れた。

 

いい仕事するよなぁ真桜。

 

「はーい、空いたんでどうぞ?」

 

俺の声に応じて、扉が少しずつ開いていく。

 

「どうした季衣? お化けでも恐……って、え”?」

 

俺は自分の目を疑った。

 

開いていく扉のそこにいたのは……

 

 

「季衣じゃなくて、悪かったわね」

 

拗ねたように上目で睨む、寝巻き姿の詠だったからだ。

 

 

「夜分に悪いわね」

 

とりあえず詠を部屋に入れると、彼女は俺が勧めた椅子ではなくて寝床へと座った。

 

まぁいいけどさ。

 

俺はそのまま俯いている詠の隣へと腰を落とすと、気まずい沈黙が場を支配していた。

 

どうすればいいのかな? 昼間のことかな? でもこうやって黙られても……正直わからん。

 

話し始める気配のない詠に、俺から声をかけることにした。

 

「あの、詠? どうしたのかっ」

 

俺が話し始めるのを待っていたのだろうか?

 

詠は俺が話し始めたのと同時に、腕を上げた。

 

そしてその小さめな指がさしていた先は……

 

あ、やっぱり?

 

そう思ってしまった。

 

「本……無くなってるわね」

 

本棚の下のほうを指す詠に、きっと俺は苦笑していたのだと思う。

 

視線を降ろすと、じっと様子を伺っていたのであろう詠がいた。

 

あっちゃあ、と心中で自身に呆れた俺は、なんでもないよと誤魔化そうとしたが、詠の方が早かった。

 

「僕、貴方を疑ってるわ」

 

「っ……え、ああ、そうか」

 

なんて生返事、かなり間抜けているな。

 

しっかりしろ俺よ。

 

「ごめんなさい」

 

謝られたよ。

 

詠のせいなんて、これっぽっちもないんだけどな。

 

「いやぁ別に仕方ないんじゃないかな?

 ほら、俺ってザ・不審人物って感じ満載だろ?

 疑うなって方が無っ……て?」

 

ええええええええええっ?!

 

どうしよう? どうすればいいですか!?

 

なんか詠に抱きつかれているんですけど俺!

 

何が起きてるの?!

 

詠の髪から、甘い良い匂いが……

 

「ごめんなさい」

 

オッケーオッケー、ええっとだな、一辺整理しようか。

 

夜遅くになって詠が俺の布団の上で抱きついて、俺、彫刻の如く固まっている。

 

ハハッ……到底人に見せらんねぇ。

 

どうしちゃったんだよ詠、そんなにしおらしいのはマジ困るんだけど!

 

自制しろよ俺! 絶対だぞ!

 

そんな俺の心の決意とは別に、詠の言葉が続いた。

 

「今夜は、一緒に寝てくれない?」

 

あああああ、どちっくしょおおおおおお!!!

 

頬の肉を噛め! 噛み千切るんだ!

 

くっそ痛えなコレ! 血の味が!

 

だが彼女達を傷つけるな! 大切に思うなら手だけは出すな!

 

ああでも詠が小刻みに震えてる、どうすっか。

 

いつもより小さく見えるぞ、ちくしょうめ。

 

……………………………………

 

「あの、詠?

 寝るのはいいけど、寝るだけだからな?

 それだけならいいよ」

 

俺の言葉に詠がコクッと頷いてくれた。

 

よし! 頑張ったよな俺、紳士だよな、気持ちが悪いほどに!

 

もう頭に血が上ってよくわからねえよ。

 

俺は詠を寝床に入れると、背中を向けてなるべく端に寄るようにした。

 

しばらく沈黙が続いてくれたおかげで、俺も少し冷静になれたようだ。

 

昼間のこと、月の言葉、詠の性格……

 

1つ思い当たった俺は、寝床の下へと手を入れた。

 

まるでエロ本隠している中学生みたいだな、なんて下らないことを考え気を紛らわしながら、自分の手に触れたものを取り出した。

 

そしてそっと、後ろへと声をかける。

 

「……詠、起きてる?」

 

「ええ」

 

すぐに返事がきたということは、心の準備は万全って事か。

 

俺は180度ひっくり返ってみたら、詠は眼鏡をつけたまま、こちらをしっかりと見ていた。

 

いつの間にか、窓に取り付けていたカーテンが、風で煽られている。

 

まるで手で掴んでいるかのように布がズレていき、窓枠が露になっていく。

 

半分に輝く天空の月がユラリと覗き、必要以上に明るく感じる月光が、詠の背中から俺の顔を照らしていた。

 

チッ。

 

思わず内心で舌打ちをした俺は、落ち着けと、ふうっと溜め息をした後、手に持った黒い本を布団の中から取り出した。

 

本の背表紙を穴が開くくらい、じっと真剣な瞳で見つめる詠の姿に、俺も覚悟を決めた。

 

稟か風にかと思っていたが、詠に頼もうと俺は決意した。

 

「詠、君は俺のことを調べているな?」

 

「っどうしてそれを?」

 

詠の目が見開いた。

 

なるほど、それは意外だったか。

 

「俺を甘く見るなよ、第零部隊は俺が育てた特殊部隊だぜ?

 この手のじゃあ悠だって俺の相手にならないんだからさ」

 

真赤な嘘です、ごめんなーみんな。

 

詠が俺になんかしているはずって、昼間に月が言ってくれなかったら、普通に気づかなかったよ。

 

みんな腕上げたよなぁ。

 

「詠達が俺を調べるのは別に構わない。

 俺は誰の目からみても怪しいさ」

 

「ち……が…………ぅの」

 

否定しきれず、か。

 

俺は俯いて表情の見えない詠を、そっと抱きしめようとした、だけど腕を払われた。

 

「僕は……一刀に優しくされる資格なんてないわ」

 

すぐに手が届く距離にいる。

 

そこで俺の大切な女性が、今にも泣きそうなくらい苦しんでいる。

 

俺への疑惑に対する、己に科した罰だとでも考えているのだろう。

 

詠らしいと思うと同時に、彼女には自分を責めて欲しくはない。

 

むしろ俺を責めて欲しいとさえ思う、特にこれから俺が彼女にすることに対して。

 

将来、俺を恨んでくれても構わない。

 

だが俺は、俺で苦しんでくれる彼女に託すことをさっき……決めたんだ。

 

俺は半ば力ずくで詠を抱き寄せると、腕のなかで詠が必死に抵抗する。

 

嗚咽を砕いた残滓が彼女の喉から漏れる。

 

俺の腕の中で彼女が泣くのを我慢しているのがわかった。

 

俺は詠を無理矢理ひっくり返すと、布団の中で彼女を背中から抱きしめるようにぎゅっと、強く強く抱きしめた。

 

抵抗なんて許さない、俺の言葉をよく聞いて欲しかった。

 

腕をこじ開けようとする詠の耳元に口を寄せて、俺はこういった。

 

「詠、聞いて欲しい事がある」

 

「は、はなして! お願いっ! 離してくれればなんでも聞くから!」

 

足の方でも詠が暴れるので、俺は自らの足を絡みつかせてさらに動きを封じた。

 

落ち着いて欲しかった。

 

詠の、はぁはぁという息遣いと、ドクドクと勢いよく流れる心拍、そして彼女の髪から立ち上がる彼女の香り。

 

布団の中でがんじがらめのようにされた詠は、荒れた息を漏らすだけとなった。

 

俺は詠の手をとって、握っていた本を詠の顔の前へと運ぶ。

 

「詠、よく聞いて欲しい」

 

「…………なによ」

 

「俺は皆に隠し事をしている。

 とんでもなく大きな隠し事だ。

 きっと……皆がそれを知ったとき、許しはしないだろう。

 もしかしたら誰も信じないかもしれない」

 

「だったら……だったら皆にすぐにでも言えばいいじゃない! 隠さないでよ!」

 

詠の悲鳴じみた叫びが、胸にものすごく痛い。

 

俺の胸を深く穿つような言葉だった。

 

でも、今は言えないんだ……ごめん。

 

俺は震える詠をもう一度抱きしめると、本の背表紙を窓へと向けて、逆光になるよう詠の前に本を用意した。

 

「だから俺は詠に頼みたい。

 俺なんかのために苦しんでくれる、君にこそ頼みたいんだ」

 

詠はよくわからないのか、返事が無い。

 

「これを開ければ、詠はきっと理解ができないだろう。

 だがこれがなんなのか、その意味は伝わるはずだ」

 

「僕が、理解できない?」

 

「俺は……詠ならいつかできると思っている。

 理不尽なお願いなのもわかってる……だが、黙って引き受けてくれ」

 

詠は少し俯くと、俺の腕をぎゅっと掴んできた。

 

もう、抵抗はしてこなかった。

 

「…………わかった、僕に任せて」

 

俺はとことん、幸せ者なんだな。

 

そう感じた俺は……ついに黒い本をそっと開いた。

 

詠がその内容を見ている。

 

今の詠に理解はできないだろう、だが意味はわかるはずだ。

 

心臓が3度跳ねた辺りだろうか、詠が驚きからか身を乗り出した。

 

俺の腕の中から顔を突き出し、黒い本へと迫る。

 

「っ!? 一刀、貴方! これってもしかしっ!」

 

詠が大声を上げたので、俺はすぐさま詠の口を手で塞いだ。

 

「な、理解はできないだろ?」

 

俺の言葉に、詠はコクンと頷く。

 

「でも意味はわかるだろ?

 ちなみにこれは、全部俺の手書きだ」

 

一拍遅れて、詠は再び頭を下げた。

 

頷きというよりも、愕然という感じであった。

 

詠の唇からそっと手を離すと、呆然とした声で言葉を漏らした。

 

「……まだ、これに似たようなものが、他にもあるというの?」

 

「ああ、いくつも用意しているし完成しているのもある。

 これはまだ書き途中の一冊なんだ……今、急ぎで書いてるのさ、それであの本棚にね」

 

「僕の役割は、理解しろ、そういう事なのね」

 

「ああ、絶対にできると思うぜ」

 

「じゃ、じゃあ貴方は……まさか」

 

これで詠には、俺の正体の半分を知ってもらった。

 

詠はもう涙が止まらないようだ。

 

ボロボロと涙が溢れ、下唇をかみ締めているのがわかる。

 

「もしもの時は頼んだ。

 これは詠にしか頼めない……俺が詠に頼むと決めたんだ」

 

泣き出して嗚咽も我慢できなく、肩を震わす詠に、俺は彼女の小さな頭ごと抱きしめた。

 

詠は黒い本を投げ出して、俺へと向き直って自分からも抱きしめてくれた。

 

震える詠に、俺はこれが最後だと思った。

 

「詠にとって、月のことが一番大切なのはわかる。

 俺みたいな正体不明の人間がいつ彼女に、どんな災厄を巻き込まないかと、不安で仕方がないんだろう。

 それを否定だってしない、俺はいつでも危険人物なんだ……この世界にきてからずっとな」

 

俺の腕の中でうんうんと、何度も頷いてくれる詠。

 

「でも俺は、詠を大切に思っている」

 

詠は泣きっぱなしの顔を上げると、瞳を大きく開けて、目の前にいる一刀に伝えるために声を上げた。

 

大きな声だった。

 

 

「僕も! 一刀が好き! 本当にごめんなさい! 僕を……信じてくれてありがとう!」

 

 

そして俺達は抱きついたまま、沈むようにして眠りに落ちた。

 

詠の寝顔は、今はとても幸せそうであったのを、俺は覚えている。

 

 

「ふんふんふ~ん」

 

霞はとても上機嫌だった。

 

一刀の過去がわかり、これで華琳に初めからついていた人達と互角とまではいかないが、大きく前進したことは間違いないのだから。

 

報告書の一刀に驚きはしたが、それでも大して動揺はしていなかった。

 

__ええやんええやん、謎が多い男なんて珍しいで! それに一刀はウチが好きな男なんやから文句は無い……っていいたいとこやけど、ちーっとはあるな。

 

一刀はあれだけ女性達から迫られているのに、あまり積極的ではない。

 

女性が苦手なのだろうか?

 

いや、それでは普段の行動とは矛盾している。

 

一緒にはいる、けれど一線は必ず越えない。

 

男の意地なのか、それとも天の国ではそういう戒律というか、常識があったのだろうか?

 

霞の中で、一刀はすでに天の御使いであった。

 

その方がしっくりとくる。

 

凡人よりもよっぽど説得力があった。

 

ただ困ったことといえば、霞は天の国の事情を何も知らないという事だ。

 

__天の国ってのはどんなところやったんやろか? うちらの大陸とは全然違うんやろな~。 人が空を飛べるとか? いや、でも一刀が空を飛んだなんて話も聞かないしなぁ~。 じゃあ念力とか?

 

漠然と天の国を想像する霞は1つ、どうしてもこれだけは知りたいと思った。

 

「天の国の婚姻関係ってどないなっとんのやろ?」

 

こちらの大陸では、王室、権力者、お金持ちが複数の女性を娶ることに不自然さはない。

 

だけど一刀の倫理観が、そういうのを受け付けなかったとしたらどうなのだろうか。

 

そう思える節もある。

 

あれだけ華琳や春蘭秋蘭達がいて、一刀の反応は恋愛という意味ではイマイチに見える。

 

唯一特別な関係と言えば、季衣と流琉が頭に浮かぶが、これでさえ疑わしいものだ。

 

だがもし、この2人のどちらかで迷っているとかだったら……

 

__これは意外と不味いんとちゃうか? 一刀は全員を養うくらいのお金はあるし、ウチらだって将として働いてけるから金銭は全くもって大丈夫や。 後は世間体やけど、それは一刀が魏の重鎮やからこれもだいじょぶ……ただ肝心の一刀が、正妻しかもたんとか言い出したら、ウチらむっちゃ不利やないんか?

 

腕を組み、唇を指で摘むようにして右斜め上を睨む霞は、こめかみから一粒の汗がつつーっと落ちるのを感じた。

 

__どないしよ……一刀、側室無し派なんやろか。 生真面目そうやし、むっちゃ奥さん大事にしそう……いっそのこと寝込みを襲えばええんか?

 

さらに首まで捻る霞だったが、それではむしろ一刀に避けられそうだなと思った。

 

はしたない女だと思われたくはない。

 

好きな人には、自分を好きになって欲しいのだ。

 

それに一刀が相手では力ずくが成功するか、そこからして怪しいものだ。

 

__こういうのは恋愛経験値の高いご婦人に、助言を賜りたいとこやけど……

 

「誰も既婚者がおらんやんけ! 全員して色恋沙汰が疎そうやー!!!」

 

霞の叫びは廊下に響き、たまたま傍を歩いていた侍女がビクリと震えた。

 

__もっとこう、年増がおっ

 

ビーン

 

何故か、霞の目の前では矢が刺さっていた。

 

鼻先わずか指一本分のところで、壁に真っ直ぐに突き刺さる矢。

 

矢についた鴨の羽が、そよそよと頬をくすぐっている。

 

ゴクリッ

 

なにかこの世界の、触れてはいけないものに触れてしまったと判断した霞は、目の前の矢を見なかったことにして、考え直すことにした。

 

コ、コホン。

 

__ええっと……参ったなー、お手上げだなー。

 

恋愛経験者の名を上げてみたら、対象が全員同性相手ではないか。

 

__夏侯姉妹に桂花に詠に音々に猪々子に……皆、異性にもちっとは興味もとうや。

 

心中で泣きながらツッコミをいれる霞だったが、自分も一刀以外の異性に、興味の興の字も沸かないので、人のことをとやかくいえるわけでもない。

 

はぁと溜め息をついた霞は、新たな策がないかと頭を回した。

 

__相談者としてなら、華琳や秋蘭、悠、あと斗詩と七乃あたりならいい知恵をもってそうや。 張三姉妹も上手く自分が助言を噛み砕ければ、悪い結果にはならんやろう。

 

ただ、それでいいのかという疑問も過ぎる。

 

__ウチらしくないのもなんだかなー、無理したってどうせそのうちボロがでるやろうし。

 

朝っぱらからうんうんと、難事件を前にした探偵の如く悩む霞だったが、気づけばある扉の前にたどり着いていた。

 

足が自然に、ここへと向いていたのだ。

 

__ウチは今日休みもろたけど……一刀は仕事やろなぁ。

 

断られるのも嫌だなぁと思いながら、扉の前に立つ。

 

__っうし! ウチは神速と謳われた、かの張文遠や! 武勇で誰にも引けはとらんし、前進がウチの生き様や! 例えここで玉砕しても、とりあえず悔いはないで! 根性入れていっちょいったろうやないか!

 

くわっと気合を入れた霞は、扉をコンコンと叩く。

 

しかし何も反応がかえってこなかった。

 

出かけている。

 

先程までの闘志はどこへ飛び去ってしまったのか、ガクッと首を落とす霞だったが、何気なく扉の取っ手に手をかけてみた。

 

__あり? 開いとる。 いつも厳重な鍵がかかっとんのに……変やな。

 

もしや一刀の身に何か?

 

そう思った霞はそっと扉を開けて、中へと入った。

 

__血臭は無いけど毒物ってことも否定できん……未遂であってくれや。

 

戦闘態勢に入った霞が息を殺し、周囲の気配に万全の気を張りながら暗い部屋の中を進む。

 

緊張の汗が霞の頬を伝わり、手元に獲物がないので体術しかないのをしまったと思った。

 

鋭い瞳でわずかな変化も見逃さないようにとしていた霞だったが、進むにつれて小さな音が耳をついた。

 

よく耳を澄ますと、寝床からはスゥースゥーと寝息が聞こえている。

 

ふぅっと心底から安堵の息を漏らした霞は、辺りを探っても侵入者の形跡は見当たらなかった。

 

__なんや、鍵の閉め忘れかい……ったく。 頼むでぇ一刀、あんま心配かけさんとい……?

 

おかしい。

 

霞はそう思った。

 

スゥースゥーと規則正しく聞こえる寝息なのだが、どこかおかしいのだ。

 

ススゥーススゥー、そう、まさにこんな感じ。

 

1つ…………”ス”が多くないか?

 

再び緊張を促された霞は、そろりそろりと一刀の寝床へと近づく。

 

暗がりの中でよくみえないが、窓の”かーてん”なる布が半分ほど開いていた。

 

そこから差し込む朝日が、こちらへ背中を向けている一刀の顔を照らしているようだ。

 

__だ、大丈夫や、さっき自分でも言うたやろう? 一刀はこの手の浮いた話しは無いって……

 

しかし近づけば近づくほど、はっきりと2人分の寝息が聞こえてくる。

 

__あっああ! き、季衣か! なるほどな! 流琉でもええ! あのちびっ子2人なら許されるねん。

 

前からかかる朝日を眩しいなと思いながら、霞は一刀の体の上から向こう側を覗こうと、そろりそろりと身を乗り出した。

 

__桃色や! もしくは緑色! そうであって、く、れたあ!

 

緑色の髪だった。

 

思わず歓喜の声を上げようとした霞だったが、すぐに気づいた強烈な違和感に目を見開いた。

 

__いや、いやいやいやいやいや! 眼鏡はおかしないか!? 流琉はいつの間に目が悪うなったっけ? んなわけないやん!

 

「ぅ……ぅ~ん…………かず、と」

 

緑色の髪をもった頭が、こちらへと振り向いた。

 

きっと朝日が眩しかったのだろう。

 

寝床の上で、変な形で固まる霞。

 

一刀か宝譿が見れば、シェーに似ていると言っただろう……どうやら霞は、あまりの驚きに時代を先んじてしまったようだ。

 

冷酷な現実を目の当たりにした霞は、2人が寝ている横の床下で、両手をついて四つん這いになった。

 

深い絶望に襲われ、四肢を屈した人間の姿がそこにはあった。

 

__は、ははは……やられた。 なんや昨日詠の様子がどっかおかしかってんけど、まさか昨日の今日かい……これからは神速の名を詠に返上するしかないな。

 

グルグルと回る気持ちが抑えきれない。

 

霞の頭の中では、詠と一刀が満面の笑顔で結婚式をあげるという場面が、克明に映しだされていた。

 

「「俺(僕)達、必ず幸せになります!!」」

 

幸せ一杯の笑顔で宣言する2人を前に、固まる自分ら。

 

そして霞は頭をガクッと地面へとぶつけるくらいにまで落とすと、心中でだが絶叫した。

 

__詠、恐ろしい子!!!!!

 

一通り落ち着いた霞はフラリと幽霊のように立ち上がると、部屋を後にしようとした。

 

__お邪魔虫は、はよう退散せななぁ、2番目の神速として……

 

魂があるのならば、きっと彼女の口からヒョロヒョロと抜け出してしまっているのであろう。

 

膝に力が入らない。

 

フラリフラリと千鳥足のように進む霞。

 

当然、部屋の物へと体があたった。

 

しかも間が悪いことに、それは連鎖的に慣性の力を物から物へと伝え、一刀の机にある山積みの書簡が崩れ落ちた。

 

ガン、ゴン、バラバラバラッバラ

 

あーなんや盛大に落ちたなぁ、と生気のない考えをしていた霞だったが、物音が伝える意味に思い至った時、ぐわっと瞳を開いた。

 

恐る恐る後ろへ振り返ると、一刀と詠が上体を起こしてこちらを見ている。

 

……………………………………

 

奇妙な間であった。

 

ちゅんちゅんと雀の鳴き声は聞こえるから空気はあるのだろう、なのに時間だけがすっぽりと抜け落ちたような感覚。

 

寝ぼけているのか、口を半開きのまま霞を見つめる2人。

 

霞は自分の行いに硬直して、満面のひきつり笑顔を炸裂していた。

 

互いに石像のように硬直した一同であったが、動き出したのは同時であった。

 

 

「「「あああああああああああああ!!!!!!!!!」」」

 

 

 

「ん~! ん~! 嘘や嘘やあ! あんな2人っきりで同じ寝床で寝よってからに!

 そないな慰めはいらんねん! よけい惨めになるだけやぁ!」

 

「だから違うのよ霞! 誤解なの!」

 

「そうだよ! 俺達ほんと何もしてないんだって!」

 

「ん~んっ! ん~~!」

 

泣き声を我慢しているのか、唸り声を上げているのかわからないが、逃げようとする霞を2人は必死に引き留める。

 

このまま誤解が外へと流れ広まったら、本気で自分達の命が危ない。

 

それからは大変だった。

 

一刀と詠が自分達はちゃんと服を着ているでしょうと言っても信じて貰えず、一刀が頭を撫でたり、詠がこんこんと事情を説明したりしてどうにか納得してもらえた。

 

黒い本のことを誤魔化すのは一苦労だったが、これが一刀がいつも味わう大変さかと思うと、詠もその気苦労が身に染みた。

 

__よくやるわ。

 

心が大分軽くなった詠は、一刀へ改めて心中で礼を述べる。

 

__きっと、あんたはこれからもっと辛くなるんでしょうね。

 

詠は軽く頭を振るうと、霞の説得へと乗り出す。

 

直情的なところもある霞だが、基本的に馬鹿ではない。

 

ちゃんと状況を理屈で話し、筋を通せばわかってくれるのを詠は知っていた。

 

それでも中々時間がかかったのは、それだけ一刀のことが好きなのだろう。

 

猫が拗ねるようにジトッとした横目で睨む霞に、流石の詠もてこずった。

 

どうにか誤解は解け、朝から騒いですまんと霞が謝ってくれた。

 

「いや、俺が悪かったんだ。

 むしろ霞ごめんな?」

 

一刀の謝罪に、霞は拗ねていた顔を元に戻すと、キッと引き締めた。

 

「事情はわかった。

 でもいい年した男女が1つの床で寝るのは、それだけでも意味は軽うない。

 一刀は……詠が好きなんか?」

 

唐突な切り返しのように詠は感じた。

 

だが一刀は笑顔ですぐに答えた。

 

「ああ、好きだ」

 

「ほうか……じゃあウチは行くわ」

 

後ろを向いて歩き出そうとした霞の腕を、一刀が掴む。

 

ん、とよくわからないと振り向き直した霞に、一刀は笑顔のままであった。

 

「霞のことも好きだぞ」

 

その言葉に、見る間に明るくなる霞。

 

__天然の上、生粋の種馬ね……タチの悪いのにひっかかったわ……僕達全員。

 

苦笑を漏らした詠は、一刀へ軽く手を振って部屋を後にした。

 

後はあんたがなんとかしなさい、と言っているようであった。

 

一刀も手を振り返すと、霞へと向きなおす。

 

「今日は俺休みなんだけどさ、霞は何かある?」

 

猫じゃらしを目の前で振ったように、霞の顔が元気よく上下した。

 

「うん! 空いてるで!」

 

「そか、じゃあ今日は一緒に過ごさない?」

 

「ウチでもええの?!」

 

「ああ、朝から大変な目にあわしちゃったからな。

 俺にできることなら……」

 

「じゃあじゃあ外に行こうで! 今日はいい天気になりそうやし!」

 

「おう、じゃあそうするか」

 

一刀と霞は手を繋いで外へと飛び出す。

 

食卓へいけば、流琉が朝食を用意してくれており、2人で舌鼓を打った。

 

一刀と霞の様子をみて流琉も察したのか、食べ終わると季衣を連れてどこかへいってしまった。

 

霞も心中で感謝して中庭へと一刀を連れ出す。

 

その際、一刀と腕を組んでいる姿を春蘭に見られたりして大変だったが、なんとか振り切り、見晴らしのいい芝生にまでこれた。

 

染めたように一色の青い空。

 

霞は一刀を木陰に座るよう促すと、そのまま自分は寝転がった。

 

「あ、あの~霞さん? こういうのってさ、普通男がやってもらうもんじゃない?」

 

「ええのええの! ウチは一刀に膝枕してほしいんやも~ん」

 

「いやでも、俺じゃあ固くないか?」

 

「ええーの! なんかこうしてるだけで、うち……めっちゃ幸せやもん」

 

朝のことを根に持っているのか?

 

そんなことをチラと考えた一刀だったが、霞はもっとさっぱりしているなと考え直して、おでこをそっと撫でた。

 

それがよほど嬉しかったのか、ゴロニャーンと猫のように甘えてくる霞。

 

しばらくお互いの静かな時間が続いた。

 

さらりと流れる風が気持ちよくて、思わず眠くなる。

 

だから一刀にとって、これは本当に偶然であった。

 

もはや薄目の霞が、すぅすぅと寝息を漏らし始めようかというところ。

 

一刀もウトウトとしてきていたので、だから偶然なのだ。

 

サラシに巻かれた霞の大きな胸が、気になってしまったのは。

 

__すっげぇ柔らかそうだなぁ、ああぁ、天然安眠枕……テンピュ~ルゥ……

 

しかしいくら一刀とて、揉んだら気持ちいいんだろうなぁとか、枕にしたら絶対良い夢が見れるんだろうなぁとか思っても、実行に移すほど愚かではない。

 

許してくれるかもしれんが、自分がそこで止まれなくなるので当然アウトだ。

 

ウトウトとした目つきで霞の胸を見ていた一刀だったが、んっと気づくと、霞が瞳をギンギンにして一刀を見つめていた。

 

__げっ。

 

「今、うちの胸をじ~~~っと見てたよな?」

 

「……見てないよ」

 

「嘘や、見てたやろ?」

 

「見てない」

 

「う~そ~や~!」

 

「嘘じゃありません」

 

「じゃあどこ見てたん? どう考えても顔やないやろ?」

 

「……首」

 

「もっと下やろう?」

 

「じゃあ……へそ」

 

「そういう趣味なん?」

 

「いう……ああ、うん。

 綺麗なおヘソだなぁって」

 

「一刀、いい医者紹介したろか?」

 

「気持ちだけは受け取っておきます」

 

「~~~! あーもう! 正直にいってえ~やんか! うちの……こ・こ・を・見てたんやろ?」

 

上体を起こした霞が一刀に擦り寄って、サラシで巻いた大きな胸を押し付けてくる。

 

むにゅうっと伝わる柔らかい感触が、人肌で心地よい温かさだ。

 

例えようのない強烈な誘惑であった。

 

霞は一刀の耳元へ唇を寄せると、洗脳するように空気を吹きつけながら、小さく小さくささやいた。

 

「かずとなら……かずとだけやでぇ?

 ウチを好きなようにしてくれて……ええんよ?」

 

ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぃ!

 

脳の中で様々な線が、次々とぶち切れていくような音がした。

 

廃人となる一歩手前な気分を一刀は味わう。

 

これでとどめだと判断した霞は、さらに追い討ちをかけるように続けようとしたが、最後の理性をフル稼働させた一刀がグイッと霞の肩を掴んで離した。

 

俯いている一刀が、何を考えているのか霞にはわからない。

 

どうしようかと思った霞だったが、一刀から言葉をだしてくれた。

 

「霞!」

 

「は、はぃ?」

 

「俺は凄い! 霞が好きだ!」

 

「お、おおう?

 そりゃあ嬉しいなぁ」

 

正直なところ霞の返答には、嬉しいというよりも、動揺の方が声に乗っていた。

 

一刀が大声で何を伝えようとしているのかが、まだわからないから。

 

「だから俺は! 霞を傷つけるかもしれないことは安易に出来ない!」

 

「………………」

 

「大切な人だから! その……そういうことはちゃんとしたいと思ってるんだ!

 だから……」

 

正直に心情を吐露してくれる一刀に、霞は心の底から震えるように感動していた。

 

凄く嬉しかった。

 

「だか”ええよ”……」

 

「ウチだって一刀を苦しめてまで、そういうことしたいとは思わへんもん」

 

「霞……」

 

「でもいつか、時期がきたら期待してもええんやろ?」

 

「ああ」

 

「じゃあそん時まで待っといたる!

 だから早うしてな」

 

「ああ、任せろ」

 

「でも……」

 

「ん?」

 

「こんくらい……先にしとっても、あかん?」

 

クッと唇を押しだす霞。

 

__断る理由はないな。

 

 

一刀に寄り添うように瞳を閉じた霞に、一刀もそっと唇を近づけるのであった。

 

 

「なぁ、華佗君」

 

「なんだ? 一刀」

 

薬を精製するために薬草をすり潰し続ける華佗の背中に、筆を動かしながら一刀は問いかけた。

 

ゴリゴリと鳴るすり鉢が、部屋の中で響いている。

 

「脳細胞ってさぁ、切れたら治せるかな?」

 

「無理」

 

「でっすよねー、ハハッ」

 

「? ……変な奴だ」

 

 

どうもamagasaです。

 

皆様、いつもたくさん応援して下さり、誠にありがとうございます!!!

 

今回、あとがきに使える字数の余裕がないので、次の話に纏めてという事でお願いします。

 

 

 

 

 

では、また。

 


 
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