No.191645

薫風(三国志創作小説)

司真澪さん

呉の小覇王孫策と、彼に命を救われた呂蒙の話。孫策の側仕えとなった呂蒙は、執務室から脱走した彼の主を連れ戻すよう兪河に命じられて――。

2010-12-25 12:00:06 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:834   閲覧ユーザー数:811

 

 

「あの野郎、また一人で出掛けやがってッ」

 

 背後に兪河の怒鳴り声を聞きながら、呂蒙は厩へと急いだ。

呂蒙が主である孫策の側近くに仕えるようになって、まだ数日。だが、孫策が館から抜け出したのは、既に三度目を数える。一昨日も日暮れまで帰らず、「戦の最中じゃないといっても無用心に過ぎる」と、兪河と呂範に絞られていた。それなのに懲りもせず、またふらりと何処かへ出かけてしまった様だ。

 館の出口から厩へと廻って行き、呂蒙は中を覗いてみた。案の定、孫策の乗馬である尾花栗毛の姿がなかった。

 厩番に聞いてみると、「殿は、少し出掛けてくるとだけ、おっしゃっていました」とのことである。さて今日は何処へ行ったのか。呂蒙は途方に暮れた。兪河に、「必ず引っ捕らえて、連れて帰って来いッ」と厳命されたからには、とにかく探さなくてはならない。

 自分用の馬を厩番に出してもらい、呂蒙は城市(まち)の盛り場の方へと馬首を向けた。

 

 市場につくと呂蒙は、顔見知りの店の親父や通りすがりの農夫をつかまえては孫策の姿を見かけなかったか、と聞いてまわった。孫策は、若いながらも卓抜した戦功を誇る武将として名を馳せている。それだけでなく、男らしく整った顔立ちや気さくな人柄も相まって、丹楊の民達によく知られている。その為、孫策が城市を歩き回っていれば、彼を見かけた人達は、彼のことをよく覚えていた。孫策という青年は、どうにも目を引く存在なのだ。

 酒家から路店から思いつく場所を片っ端に覗いてまわり、何人もに行方を尋ねた末、どうやら孫策は郊外の田園地帯の方へ向かったらしいとの目撃証言が得られたのは、探し初めてから一刻もたってからのことだった。

 城市を出た呂蒙は、水田を縫うように走る畦道を馬で駆けた。しばらくして、広がる田園地帯の中にポツンと浮かんだ小島のような丘が見えてきた。麓に繋がれているのは孫策の乗馬のようだ。丘の上を見上げると、頂上にそびえる大樹の木陰に目的の人の姿が認められた。安堵した呂蒙は肩に入っていた力を抜き、ホッと吐息をつく。 

手綱をゆるめて速度をおとし、そちらへと馬をゆっくり歩ませる。麓に立つ木に繋がれた孫策の馬の側に着くと、同じように自分の乗馬を繋いでから、急ぎ足で孫策のもとへ足を運んだ。

 

 孫策は、樹に背をもたせかけ、軽く片足を抱えるような格好で景色を眺めていた。その傍らまで呂蒙は歩を進め、あと二、三歩という所で足をとめた。呂蒙の影が孫策の足下に落ちる。孫策は呂蒙を振り仰ぎ、「よくここが解ったな」と目を細めて明るい声をかけてきた。

「あっちこっち、凄く、お探ししました。伯海どのが、怒っておられます。早く、館に戻れって…」

 馬を駆けさせて来た上に、こんな所まで登らされた呂蒙は、まだ息が荒い。それを整えつつ急かすように兪河からの言葉を伝える呂蒙に対して、孫策は慌てる素振りもない。呂蒙の言葉を軽く笑いとばして、「おまえもここに来て座れよ」と言ってくる。仕方なく呂蒙は孫策の側近くに腰を下ろし、孫策の様子を窺った。孫策はといえば、視線をまた前方に向け、広がる風景に見入っているようだ。彼の邪魔をしていいものか悩みつつ、呂蒙はおずおずと問いかけた。

「あの、ここで何をなさっているんですか」

 孫策は「うん、」と生返事をし、変わらずそのままの姿勢でいる。彼の横顔が見せる表情が、普段にくらべて穏やかで優しげに思え、思わず呂蒙は孫策を見つめていた。しばらくして孫策は手に持っていた草で前方をスイと指し示し、呂蒙に話しかけてきた。

「見ろよ、良い眺めだろう」

 促されて見やった先は、彼方まで水田が広がっている。初夏の日差しを浴びて良く育った稲は、一面を覆う緑の敷物のようだ。それは気まぐれに吹く風に揺られ、光の波を作りだしている。

 呂蒙は、綺麗だなとは思ったが、こんなものはそこいらの何処にでも見られる景色なのにと、首をかしげた。それを見やって孫策は、唇の端をちょっとゆがめる様にして笑った。

「おかしいか、こういうのが好きだというのは」

「い、いえ。べつに…」            

 呂蒙はどぎまぎと答える。孫策と二人きりで話すのは始めてで、どう受け答えをしたらいいのか戸惑ってしまう。

 

(殿はおれの恩人だから――)

 

 数日前、呂蒙は同じ部隊にいた役人と揉めて、相手を斬り殺してしまった。

 軍令からすれば死罪になって当然である。だが、その出来事を聞いた孫策により刑を免除され、さらには自分の側仕えにしてくれた。

 事の経緯はこうである。呂蒙が殺した男は、常日頃から呂蒙を「こわっぱ」呼ばわりし、何かと馬鹿にしていた。男の振る舞いに自尊心を傷つけられたが、呂蒙は辛抱強く耐えていた。確かに彼はまだ十六歳で、ほんの子供だった。部隊では最年少である。貧農の出身で、満足に飯も食えずに成長したせいか、身体も年の割に小さかった。だが、よく気が回る質(たち)なのと、なんでも苦にせず働くので、他の兵達は呂蒙を気に入って、何くれとなく面倒をみてくれた。また呂蒙のいた部隊の長は姉の夫である鄧当だったので、何か問題を起こして義兄や部隊の皆に迷惑をかけるのは嫌だった。しかしあの日、酔った男の嘲笑は限度を越えており、呂蒙はついカッとなって剣を抜くと相手に斬りかかった。殺すつもりだったのではない。自分も他の兵と同じように戦えることを見せてやりたかったのだ。

 だが、未熟な呂蒙は加減がわからず、力一杯に振るった剣が男の命を奪ってしまった。

 我に返って呂蒙は青ざめた。上官を殺したのだ。軍の規律に照らせば死罪である。

 呂蒙は、思わずその場から逃げた。

 

 山の中に分け入り、あまり人の来ない所を選んで腰を落ち着けると、呂蒙はどうすればいいかを考えた。だが、逃げ隠れをする卑怯者になって生きていくのは、嫌だった。男なら自分のした事に責任をもたないといけない。自分が逃げてしまえば、義兄や姉にも迷惑がかかるかもしれない。軍に戻れば、待っているのは死だ。死ぬのは怖いし、母を残して逝くのも悲しくて辛い。呂蒙は膝をかかえて泣いた。

 日暮れまでそうしていたが、呂蒙は覚悟を決めると、鄭長という同じ邑出身の者の家に行った。そして校尉の袁雄に取り次いで貰い、自首した。

 軍営に連れ戻された呂蒙は、牢の中でひとり処分を待っている間、母や姉、まだ小さな弟妹達のことを想って泣いた。自分が死んだら、皆はどうするのだろう。死は覚悟したけど、やっぱり家族ともう会えないと想うと哀しい。ごめん、と告げることすら出来ない。

そうして呂蒙が悲嘆にくれている間に、事件のいきさつを孫策に伝え、弁明してくれる者がいた。話を聞いた孫策は呂蒙に興味を持ち、牢から引き出して連れてくるよう部隊の者に命じた。

 牢から出され、孫策の室に連れてた呂蒙は、初めて孫策を間近に見た。

 孫軍に入ったばかりの頃、遠くにいる孫策を指さして、「あれが亡き破虜将軍の嫡子の孫伯符様だ」と義兄が教えてくれた。まだ若いが、武将らしく鍛え込まれた体駆。男らしい精悍な容姿をしており、見ていて惹き込まれるような自信に溢れた明るい笑顔を浮かべていた。なんだかお天道さまみたいな人だな、とそのとき呂蒙は思った。

呂蒙より三つか、四つ年上というから二十歳前である筈なのに、袁術のもとで一人前の武将として抜群の働きをみせているという事も噂で聞いていた。

 

(生まれも育ちも違うけど、いつか俺もあんな風に立派な武将になりたい――)

 

 孫策を見て、呂蒙はそう強く願った。

その人が、牢に入れられていた呂蒙を呼び出して話を聞いてくれ、罪を許してくれた。それだけでも嬉しかったのに、「お前はみどころがある」と言い、こうして側に置いてくれることになったのだ。

 

――あの時、決めたんだ。俺はこの先、この人の為なら何でもしようって。

 

 

 命をかけて仕えようと心に誓った孫策と、二人で丘の上から緑に輝く田園風景をながめる。稲の手入れをしている農夫達や、水牛を引いた童子らの姿が遠くに見える。なんとも長閑なものだ。

気持ちのいい風に頬をなぶられ、呂蒙はやっと心が落ち着いてきた。それで先ほどの孫策の問いに対して首をかしげながら、  

「別におかしいってわけじゃ、ないですけど…。珍しい景色でもないのに、見ていて面白いのかな、とは思います」

 躊躇いながらも思ったままを、口に出して言ってみた。

「珍しくもない、か」

 苦く笑い、孫策は空を仰ぎ見る。

「どこでも、あたりまえの様にこうだと良いのだけどな」

 その呟きを耳にして、はっと身がすくんだ。

 山越族に田畑を荒らされた上に収穫を略奪された邑がある事や、逆に山越討伐の軍に同様のことをされた邑がある事を、呂蒙は耳にしたのを思いだした。襲われた邑は食べる物に事欠き、飢えて酷い有様だという事を。孫策の軍は軍令が厳しくゆきとどいているので、兵がそんなことをすることは無かった。だが、そういうことを許している将は世の中に多いのだという。

 また、袁術が治めている寿春の辺りでは、徴税が厳しいあまり土地を捨てて逃げ出す農民もいて、打ち捨てられた田畑は荒れ放題になっているとか。

「すみません。俺、考えなしで――」

「ばか、子明があやまることじゃないだろう」

 うなだれる呂蒙の頭を、孫策が軽く小突いた。

「ただ、俺はさ。こういうのを見てると、ここでは民がちゃんと生きて、生活しているんだなぁと思えて嬉しいだけだ」

 温かな声を耳にして、

(殿は、ちゃんと民の、俺たちの事を、見てくれてるんだ…)

 そう思うと、じんわりと目頭が熱くなった。

 それに気づいた孫策が、呂蒙の頭をぽんぽんとあやすように叩くので、あわてて下を向いて目尻をぬぐった。

「子明は、孫軍に入る前はどうしていたんだ」

 ことさら明るい調子で聞いてくる孫策に、うつむいていた顔を上げる。

「父ちゃんが生きてるうちは、富陂の方で小作人やってて米作ってたんですけど。父ちゃんが流行り病で死んじゃったから…。姉ちゃんの嫁ぎ先がこっちだったんで、それを頼ってこっちに母ちゃんと弟妹達と一緒に来たんです。でも、母ちゃん一人の稼ぎじゃ食ってけないし…」

「それで軍に」

「孫軍は論功行賞がしっかりしてるって、聞いたんです。義兄ちゃんの部隊が殿の配下だったから。俺、最初は勝手に義兄ちゃんの隊に付いていって。義兄ちゃんに怒られたけど、ちゃんとやるならいいって最後は言ってくれて。母ちゃんは心配したけど『虎穴に入らずんば虎子を得ず』だし。俺こう見えても器用ですばしっこいし」

少し口早に、呂蒙は生い立ちと軍に入った経緯を説明した。

「そうか、えらいな子明は」

 微笑みかけられ、今度は頬が熱くなる。

孫策は大きく伸びをしてから頭の後ろで手を組むと、そのまま木の幹にもたれかかった。

「子明の家は米を作っていたのか。俺のじいさんは、呉郡の富春に畑を持ってて、瓜を作ってたって話だな」

「殿のおじいさんが、ですか」

 目をまるくする呂蒙に、おかしそうに笑いながら孫策がうなずき返す。

「ああ。俺が生まれる前に親父の任地に家族そろって移ったから、俺は見たことがないがな。親父が、じいさんの作った瓜はそりゃあ甘くて旨かった、と言ってたな」

 俺も食ってみたかったんだがなぁ、と懐かしげに笑う孫策をみて、ああ、と思う。この人も父親を亡くしていたのだ。今更ながらに思いだした。

「まあ、そのせいってわけでもないが、土をいじって生きてる奴らが国の基本だって思うわけだ。だから、こうして時々抜け出して『巡察』するのが俺の楽しみのひとつなんでな。伯海は角を出して『立場をわきまえろ』などと言うが、まあお前は大目に見てくれよな」

 茶目っ気たっぷりに兪河の口真似をする孫策に、思わず呂蒙も笑ってしまった。       

「子衡どのも、じゃないですか」

 兪河と同様に孫策個人に仕えている呂範を引き合いに出す呂蒙に、

「あいつもなぁ…。俺ももう子供じゃねぇんだから心配すんなって言ってんのに」       

と孫策はにがり顔になった。年上である二人の部下の小言には、そうそう逆らえないらしい。

「じゃあ、今度からは俺がお供をしますから。一人で出かけるのはやめて下さいね」     

 呂蒙は目を輝かせて宣言した。

(俺が守るんだ。俺の命を救ってくれたこの人を、今度は俺が助けるんだ。)

 孫策が、いや天が自分を生かした意義をそこに見たように思え、高揚感に呂蒙の瞳がいきいきと輝いた。

 そんな呂蒙の様子に孫策は目をみはり、それから「お日さまのような笑顔」を向け、

「なら俺に付いて来られるように腕を磨けよ、子明」と笑った。

 

「はい、まかせて下さい」

 

――この人に認められる武将になろう。

――この人を守れるくらい大きな人間になろう。

 

 呂蒙は自分が歩む新しい道を前にして、心が浮き立つのを感じる。

 とりあえず戻ったら兪河には怒られるだろうけど、この人が好きだというこの景色を、今は好きなだけ見させて差し上げよう、と思った。

 

 

 

 

 

<了>

 

 

初出 2001.7.15 (2010.11.14 大幅改稿)

水華文庫発行『晴風江南路』掲載作品です。

 

 
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