No.188246

短編 信じぬ者も救われる

原稿用紙100枚程度を想定して書いたラブコメ作品です。ラブというよりほとんどがコメディー分ですが。
長編作品を書くための肩慣らし作品でもありますが、どうぞお読みください。

2010-12-06 06:37:40 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:1040   閲覧ユーザー数:841

総文字数約29,200字  原稿用紙表記 90枚

 

 当たるも八卦、当たらぬも八卦という言葉がある。

 占いは当たる場合もあれば外れる場合もあるという意味を示す言葉だ。

 つまり、占いの結果なんか気にしても仕方がないということを暗に示してもいる。

 俺も占いなんてもんは信じていない。そんなものに人生振り回されるのはご免だ。

 だけど、そうはいっても占いの全てを否定している訳じゃない。

 得になる部分、為になる部分はちゃんと活用している。

 例えば神社のおみくじ。

 大吉だとか凶だとか、そういう運勢の総合評価自体は正直どうでも良い。

 勿論、凶よりは大吉の方がちょっと得した気分になれるので良いけどな。

 それよりも大事なのはおみくじに書かれている文章の中身。

 落とし物に気をつけろだとか、勉学に励めだとか、他人と積極的に交流しろだとか。

 少し説教くさくはあるけれど、人が生きていく為に大切なことが率直に書かれている。

 特に正月なんていう冬休みの最中、しかもお年玉なんていう臨時収入をもらって気が緩みきっている時には大変ありがたいアドバイスになる。

 それに初詣に行ってみんなでおみくじでも引こうかとワイワイやっている時に、「俺はおみくじ信じない」と断固拒否するのは社交性に欠けた行為だろう。

 みんなが手軽に楽しめるイベントとしておみくじを活用するのは決して悪くない。

 そんな訳で俺は占いを信じてもいないし、その全てを否定している訳でもない。

 ……訳でもない筈だったんだけどなあ。

 

「若僧、お主今日何をしようととてつもない不幸に見舞われるぞ! 人生最悪の日じゃ!」

 正月の三が日があけた1月4日の午前10時。

 ちょっとコンビニに食料調達に出掛けた俺は突然変なよぼよぼなじいさんに絡まれた。

 そして断りもなく勝手に手相を調べ始め、大声で叫んだ占いの結果がこれ。

 まあ、じいさんの言うこともあながち間違ってはいない。見知らぬじじいに突如絡まれて不幸を語られるなんて不幸は人生でもそう滅多にない。

「だけどじいさん、俺は占いを信じてないんだ。それに、何をしようと不幸に見舞われるって……それじゃあ何のアドバイスにもなってないぜ」

 じじいの話から得られるものが何もない。だから相手にするだけ無駄と思った。

「何を言う! わしの占いは今まで百発百中。外れたことなど一度もないわ!」

 だけどじいさんはムキになって大声を出しながら襟首を掴んで来た。ほんと、不幸だ。

「放せよ、じいさん! 俺は残り少なくなって来た冬休みを満喫したいんだよ。じいさんの戯言にこれ以上付き合っていられないっての!」

「年寄りをないがしろにするんじゃない、この青二才がぁっ!」

 次の瞬間、アスファルトの地面が視界いっぱいに見えた。それから途切れ途切れの映像が断片的に脳に流れ込んで来て、最後にはドスンっという大きな音と共に青空が見えた。

 それから一瞬遅れて背中に急激な痛みが走り始めた。それで俺はじじいに投げられたのだと理解した。よぼよぼな体からは想像もできない体のキレで背負い投げされたのだと。

「じじいっ! いきなり一本背負いとはどういう了見だぁ! 痛ってぇなぁ~っ!」

「目上の者を敬わんから天罰じゃ!」

 じじいに関わってしまったことは、俺の不幸の始まりだった。

 

 

短編 信じぬ者も救われる

 

 

「という訳で、不幸の真っ只中に囚われている俺を匿ってくれ。佐奈(さな)ぁっ!」

 必勝と書かれたハチマキを締め、グルグルメガネにジャージ姿という幼馴染の少女に跪いて庇護を求める。もはや俺の安住の地はここしかない。

 だが、そんな俺の切迫感とは反対に佐奈のメガネの奥から見える瞳は冷たかった。

「あのさあ、翔(かける)。勉強の邪魔をしないでくれる? 私、受験生なんだけど」

 佐奈は面倒くさそうに自分の髪を触って弄っている。寝癖そのままにゴムバンドで束ねただけというワイルドすぎる胸元まで掛かる長い髪を、だ。

 それは確かに如何にも受験生という感じのスタイルではあると思う。グルグルメガネとジャージと合わせて最強装備。お洒落に気を使わず勉強一直線を体で表現している。

 でも逆に言えば、受験生でなければ15歳の少女がすべき身だしなみとはとても言えない。こいつだって、去年の正月は洋服や着物やバッグや小物がどうとか化粧にも気を使う普通の女の子をしていた。それが今年はこのザマだ。

 環境は人を変える。受験は佐奈を少女から受験戦士へと変えたのだ。佐奈は色気も女らしさも必要ない受験戦争を戦う為のウォーリアーへと変貌したのだっ!

 って、そんなことは今どうでもよいか。とりあえず佐奈の不満を解かなくては。

「佐奈が受験生だってことはよく知っている。3週間後に俺の高校を受験するんだろ?」

 入学試験の日は学校が休みになる。そして俺はもう既にその日の遊びの予定を入れている。だから忘れる筈がない。

 ついでに佐奈が俺と同じ高校を受験することも頭の片隅には入っている。

 佐奈は昔、高校はお嬢様学校に通うのだと盛んに息巻いていた。それが俺の通う何の取り柄もない平凡な公立を受けるというのだからその心中は複雑だろうなと思いながら。

「それじゃあ……追い込みで忙しいこの時期に勉強の邪魔しないでっ!」

 声と共に佐奈の右手から放たれる英単語カード帖。その軌跡は明らかに俺の頭を狙っていた。だが、その宣戦布告なしの奇襲攻撃にも俺は少しも動じなかった。

「甘いぜ。その程度の攻撃、今日1日不幸慣れした俺に今更効くかってぇのっ!」

 軌道を読んで上体を僅かに右に捻ってカード貼を避ける。所詮は小娘の浅はかな行動。フッ、勝った。

「甘いのは翔、あんたの方よっ!」

 声に反応し佐奈の左手に英和辞典が握られていることに気付いた時には既に遅かった。

「何っ!? しまったぁ!」

 1度捻ってしまった上体はすぐには動けない。跪いてしまっている下半身はすぐには動けない。即ち……回避不能。

「ぶはぁっ!?」

 500ページ超の辞典を顔面にぶつけられながら、相手の方が1枚上手だったと認めざるを得ない俺だった。

 

 

「それで、不幸に見舞われるとどうしてうちに来るのよ?」

 佐奈がメガネを外してレンズを拭きながら、ジトッとした目で俺を睨み込んで来る。

 目が悪いからなのか俺に不満があるからなのか知らないが、とにかく目つきが悪い。

 裸眼で普通にしていればそれなりに見れる顔なのに全く勿体無い話だ。

 ついでに話す態度が年上の幼馴染の素敵なお兄さんに対するものでないのも問題だ。じじいじゃないが、目上の者はそれなりの待遇で扱って欲しいと心の中で密かに抗議する。

「だから、如月家にいるのが一番安全だと判断したからここに来た。それだけだ」

「何よ、それ?」

 如月家は俺にとって非常に居心地が良い。隣家であるうちの大原家よりもだ。

 何といってもおじさんとおばさんが俺を温かく迎えてくれる。食事もおやつも大盤振る舞い。時々小遣いまでくれる。ぞんざいな扱いしかされない俺の家大原家とは大違い。

 おばさんなんか俺にうちの子になってとよく勧めてくれるし。今日だって

「おばさん、2時間ぐらいゆっくりと出掛けて来るから佐奈ちゃんと仲良くね」

 やけに2時間という部分を強調しながら栄養ドリンクをおやつに置いて出て行った。

 赤まむしの栄養ドリンクは腹の足しにはならないのでちょっと困る。しかし、何一つ食料を用意しないうちよりは遥かにましだ。

 それに大原家の住人はみなガサツで、家の中ではしょっちゅうバイオレンスの嵐が吹き荒れている。それに比べると如月家は平穏だ。佐奈の暴力を除いては……。

「だから外にいても、学校に逃げても、うちに戻っても不幸が止まらないんだ。俺に残された安住の地はもうここしかないんだ」

 拳をグッと握り締め溢れ出しそうになる涙を堪えながら不幸な境遇を語る。

 まさか、あのじじいの言ったとおりに次々と大きな災いが降り掛かって来ることになろうとは予想だにしなかった。あのじじい、余計な占いだけは当てやがる。疫病神め。

「翔がうちに来た理屈は少しも分からないけれど、どんな不幸に遭ったって言うの?」

 佐奈が額のしわを寄せ疑わしげな瞳で尋ねて来る。だが、その質問は俺にとっては願ったり叶ったりだった。深々と一礼しながら紳士らしく振舞う。

「よくぞ聞いてくれました。では本日、この俺がどんな不幸に遭って来たのかとくと聞かせてご覧にいれましょう」

「そんな作ったような馬鹿っぽい動作はどうでも良いから早く話してよね」

 この女、空気が読めねえなあ。まあ仕方がない。さくさくいくか。

「まず最初に変なじいさんに突然絡まれて今日が人生で最悪な日であると占われた」

「それは確かに嫌ね」

「それからそのじいさんに目上の者を敬ってないと背負い投げされた」

「自業自得じゃない」

 ……佐奈にだけは言われたくねえ。

「で、その後外を出歩いていたらクラスメイトに出会って、借りてたギャルゲーの取立てにあった。2kmも走って逃げたのにまだ追い掛けて来るもんだから本当に最悪だった」

「自業自得じゃない」

「……で、その後学校に逃げ込んだんだが、そうしたら化学の梅原にばったり出会ってしまってな。期末試験の点数のことで1時間も説教された。俺は文系だってのによ」

「自業自得じゃない」

「…………で、学校にいたんじゃ他の教師にも難癖つけられかねないと思って家に戻ったんだが、そうしたら親父と母さんが喧嘩の真っ最中でさ。いい年して怒鳴り散らすなんて幼稚なんじゃねえのと言ってやったら花瓶と包丁投げられて危うく死ぬ所だったぜ」

「自業自得じゃない」

「………………で、庭に緊急避難したんだが、今朝俺がエサをやり忘れたせいかゲンチャ丸の機嫌が無茶苦茶悪くてな。尻と手をガブリと噛まれた」

「自業自得じゃない」

「……………………で、もう1度外に出たんだが、慌てて飛び出したもんだからトラックにあやうく轢かれそうになってな」

「自業自得じゃない」

「…………………………で、如月家に逃げ込んでようやく安息の地に辿り着いたと思ったら、佐奈に英和辞典を投げつけられた」

「自業自得じゃない」

「お前には自業自得以外のボキャブラリーはないのか!?」

 「大変だったわね」とか「辛かったでしょ」とか「ここにいればもう安全よ」とか俺をいたわる言葉は出て来ないのか? それが長い付き合いの幼馴染ってもんじゃないのか?

「お前なあ、不幸な目に遭った俺にもう少し優しく接しようとか思わないのか?」

「だって、全部自業自得じゃない」

 この女はあくまでも自業自得で押し切るつもりらしい。

「占い云々ではなく、全部あなたの粗忽さが原因で起きていることばかりだもの!」

 某メガネを掛けた少年名探偵ばりに指をビシッと突きつけられる。

「そして、本当に不幸に見舞われているのは私の方。受験直前で大変な時期に訳の分からない話で押しかけられて勉強の邪魔されているのだから!」

 佐奈の言い方は大げさだ。でも、その言っている内容は間違ってはいなかった。

「そうか。邪魔したな」

「えっ? ちょっと?」

 俺の不幸が自業自得かはさておいて、佐奈の受験勉強の邪魔になるのはまずい。今日俺に時間を割いたせいで今後の人生が大きく狂う結果になるのでは困る。

「悪い。どっか違う場所でひっそりと身を隠すことにするさ」

 佐奈に背を向けて部屋を出て行くことにする。とはいえ、行く宛てなどないので公園でサバイバル生活に入るしかないか。夕方になったら寒くて風邪引きそうだが。

「だからちょっと待ちなさいよ!」

 背後からちょっと切羽詰ったような、怒った様な声に呼び止められる。

「何だよ?」

 振り返るとやっぱり何だか怒ったような泣き出しそうな寂しそうな顔の佐奈がいた。

「えっと……そうよ。お母さんがお茶を淹れて持って来るまではせめて待っていなさいよ」

 邪魔するなと言ったり待てと言ったり佐奈の考えはよく分からない。それに、だ。

「おばさんならいないぞ。2時間ぐらい出掛けて来るってさっき家を出て行ったし」

「それじゃあ今この家、私と翔の2人っきりなの!?」

 何か知らないが佐奈の声と表情に警戒の色が加わった。本当に忙しい奴だな、こいつも。

「だから茶は出ねえよ」

「今はそんなことが問題じゃないでしょうが!」

「茶を待てと言ったのは佐奈の方だろうが」

 受験ストレスのせいだろうか。佐奈の言っていることは何かチグハグだ。だがこんな時こそ、幼馴染である俺が佐奈の疲れを癒してやらねば。

「あっ、そうだ。おばさんから受け取ったものがあるんだった」

 上着のポケットを漁って例の物を取り出す。

「これ、栄養ドリンク剤。おばさんがおやつ代わりに飲めってさ」

「何で若い男女が2人っきりの時に赤まむしドリンクなのよ!? うちの親は一体何を考えているのよ!」

 今度は顔を真っ赤にして怒り出す。本気で情緒不安定なのかもしれない。

「お母さん、他に変なことしてないでしょうね。翔、あんた、何か聞かれた?」

 キツイ視線で尋問が始まる。何か、ここまでコロコロとやることが変わると怖いというか哀れに見えて来る。本当に怖えな、受験ストレス。

 俺も2年前はこんなんだったか? そして来年は俺もこうなるのか?

「そう言えば出掛ける直前に、佐奈ちゃんは取っ付きにくく見えるけど本当は尽くすタイプだからずっと大事にしてあげてねとかよく分からないことを言っていたような?」

「何を血迷ったことを口走っているのよ、うちの母親はぁっ!」

 立ち上がり、活火山の噴火の様な勢いで両手を振り上げる佐奈。こいつのストレスは本気でやばいかもしれない。

「まあ、何だ。とりあえずこのドリンクでも飲んで元気出せ」

「そ、そのドリンクを私に飲ませて何をするつもりなのよ!?」

 佐奈は急に後づさって壁際に張り付いた。顔なんか真っ赤にして本当重症だぞ、こいつ。

「何をって。だから、疲れている佐奈に元気になってもらおうと思ってだな」

「嘘っ! 留守なのをいいことに私に変なことをするつもりなんでしょう!?」

「はっ?」

 まったく考えてもみなかったことが佐奈の口から発せられた。その奇妙奇天烈な意見を発した本人は酒に酔っ払った親父のように顔を真っ赤に染めあげている。

「大体、いくら幼馴染とはいえ、年頃の女の子の家に頻繁にやって来るのは、その、私のこと…………なんだからでしょ?」

「はっ? 何言ってんだ、お前?」

 佐奈は受験ストレスで情緒不安定なあまりに本気でどうかしてしまっているらしい。

「俺が如月家に来る理由、か。それはおばさんとおじさんがいるからさ。うまい飯は食えるし、お小遣いだってもらえる。ここは天国みたいな場所じゃないか」

 佐奈の肩がピクッと震えた。

「じゃあ、私は?」

 佐奈の肩がピクピクッと痙攣を続けている。

「暇つぶしの相手にはちょうど良いな。付き合い長いから気兼ねなく接することができるしさ。俺だって他の女の子といる時は結構気を使ってるんだぜ」

 佐奈が全身を激しく震わせ始めた。

「そうよね。昔はプロレスだってよくやったし……」

「お前、無茶苦茶強かったもんなぁ。俺も生傷が絶えなかったもんな。はっはっは」

 男と女、年上と年下というハンデをものともしないぐらいに佐奈は強かった。

 特にあの技。ベッドの上というプロレスのリングでよく食らっていたもの凄く痛い技。あの技、名前を何て言ったっけ? ど忘れして技名が思い出せないな。

「では、最後の質問よ。翔の好みの女性ってどんなタイプ?」

 佐奈の震えが止まらないのが少し気になる。が、答えるのは楽な問いだった。

「そりゃあ、優しくて綺麗でセクシーな年上のお姉さんタイプに決まっている!」

 親指をグッと突き立ててみせる。殺伐とした大原家で生きる俺にとって心のオアシスは欠かせない。そんな癒しをもたらしてくれる女神様のようなお姉さんが必要なのだ。

 ちなみに俺には大学生の姉がいる。が、あれは駄目だ。弟を奴隷か虫程度にしか考えていない。だからこそ理想の姉のような存在を俺は求めているのかもしれない。

「つまり、私とは正反対のタイプって訳ね?」

「ちょっと違うんだが……まあ、そういうことになるかな?」

 俺が念頭に置く対比物は実姉だ。だから佐奈は正反対のタイプとは言えない。でもまあ、佐奈は年下だし、少なくても今の格好には色気も華やかさも欠片も感じられない。その意味では正反対と言えなくもない。別に佐奈のことは嫌いじゃないけどな。

「そう……よく分かったわよ!」

 佐奈は俯いてすごく悲しそうな声で呟いた直後、突如俺の視界から姿を消した。

「何ぃっ?」

 佐奈の気配を察知した時、俺の腰は既に佐奈に背後からガッチリと掴まれていた。そして俺より身長が10cm以上も低い小さな体とは思えないほど強い力で、俺の体を体勢を捻りながら持ち上げてきやがった!? 

「久しぶりにお見舞いしてあげるわよ。地獄への片道切符を、ね!」

 腰の辺りから佐奈の不適な声が聞こえた。それを聞いて俺は全て思い出した。悪夢の必殺技の名を。悪夢の技の全貌を。

「おいっ、ちょっと待て! 床に叩きつけられたら流石に洒落にならねえぞ!?」

「大丈夫……頑張ってベッドまで投げてみせるから」

「それは大丈夫とは言わな……うぉおおおぉ!?」

 最後まで言葉を発することもできなかった。頭が後方に引っ張られるような感触と共に天井が視界いっぱいに映った。

 そうだ、この天井を俺は幼い頃よく見ていた。幼い頃、直後に待つ激痛と共にこの天井の流れ行く様を何度も見ていた。

「ちゃんと受身取らないと大怪我するわよ!」

「いきなり無茶言うなっ! 何年ぶりだと思っているんだ!?」

佐奈の体は既に綺麗なブリッジを描き始めており、もはや技の発動をとめるのは不可能。

 硬い床に叩きつけられない為にはベッドの上まで飛ばされるしかない。ならば、飛ばされた衝撃をどこまで緩和できるかは俺自身の防御術に掛かっている。

「喰らいなさいッ! 投げっ放しジャーマンスープレックスッ!」

 魂の叫びと共に発せられる佐奈の必殺技。原爆投げとも称せられる後方への反り投げ。

 ジャーマンスープレックスの数ある種類の中でも佐奈の場合はインパクトの直前にクラッチを解いて放り投げる、所謂投げっ放し型。しかもただ投げるのではなく、少しでも遠くに投げ飛ばそうと角度を調節しながら投げて来る心遣いが憎い一品でもある。

 俺は子供の頃にその技を何十回となく食らっていた。だが、だからこそ、逆から見ればその防御策だって俺は誰よりもよく熟知している筈だっ! うん? ……筈、だよな?

「のぉおおおおおぉおおおおぉっ!?」

 考えてみれば普段まともに運動もしていない人間が急に受身なんか取れる訳がない。

 俺はなす術もなく無様に放り投げられていた。天井と壁を視界に仰ぎつつ、まずベッドの上に叩きつけられた。更に反動で体は大きく跳ね上がり今度は壁へと叩きつけられた。

 後頭部と前頭部をもろ強打。衝撃と痛みによって俺の記憶はそこで途切れるのだった。

 このまま永遠に眠り続けることなくもう1度目が覚めてくれたら良いなと思いながら。

 

 

「本当に、今日の俺は不幸だ……」

「だからごめんさいって何度も謝っているじゃない」

 安住の地となる筈だった如月家を出てその玄関前に立つ。

 如月家には凶悪な魔獣が生息しており、俺の憩いのオアシスにはなり得なかった。

 首から後頭部に掛けてまだズキズキしている。おでこの辺りはヒリヒリと痛む。

「で、何でお前まで家の外に出ている? 受験勉強はどうした?」

「ちょっとした息抜きよ。気分転換は受験に必要でしょ。それに、不幸だ不幸だ騒いでいる人間を一方的に追い出したと思われたら私のイメージに傷が付くでしょうが」

 加害者なのに被害者ぶってるよ、この女。しかし、だ。

「それからお前、何でそんなにめかし込んでいるんだ?」

 女物の衣服の名前はよく分からんが、上は白い襟付きシャツに濃紺のカーディガン、下は赤のひだが多いミニスカートに黒のニーソックスという何か寒そうな格好。それを俺も名前なら知っている某有名海外ブランドの淡い茶色のコートで包んでいる。

 俺が如月家を去ろうと玄関に辿り着くと「ちょっと待ってなさいよ」という声が上から聞こえた。そして20分待たされて末に現れた佐奈の姿がこれだった。

 しかし、ちょっとした気分転換で外出するのに20分も掛けて服選ぶのか、普通?

「あのねぇ。私だって女の子なんだから外に出る時は気を使うに決まってるでしょ? それとも、もしかしてこの服装、翔の好みに合ってないとか?」

「お前、一体何を言ってるんだ?」

 佐奈は俺の問いを無視してひとりで悩みだした。

「もっと大人っぽい方が翔の好みだったのかしら。それともゴスロリ全開のロリチックの方が趣味だったとか? ああもぉ、そんな服、どっちも持ってないわよぉ。受験にかまけて事前のリサーチを怠るなんて私の馬鹿ぁっ!」

 ブツブツと俺には聞こえない小さな声で何かを呟いている。やっぱ、怖ぇな、受験ストレス。でも、今はもっと重要な問題が他にある。

「なあ、いつまで俺の袖を掴んでいるんだ?」

 佐奈はさっきから俺のボロコートの右手の袖口を両手で掴んで離さなかった。これじゃあまともに歩くこともできない。

「手を離されたら転んじゃうでしょ。今の私、メガネ掛けていないんだから、近距離の人の顔さえもろくに識別できない状態なのよ!」

 言葉通りに佐奈はメガネを掛けていなかった。そしてどうやって短時間で整えたのかは知らないが、束ねていた髪も解いて綺麗なストレートヘアをなびかせている。

 しかしこうして見るとやっぱりこいつ、結構可愛い顔をして……いや、何でもない。

 先ほどの「私のこと…………なんだからでしょ?」という言葉が何故か不意に浮かんだがそれも慌てて消去する。それよりも、だ。

「目が悪いならメガネを掛ければ良いだろうが」

「あの牛乳ビン底丸メガネを掛けて外を歩きたくないわよ」

「コンタクトはどうした?」

「学校の机の中。明日にならないと校内に入れないから取り出せない」

 佐奈が裸眼の理由は分かった。で、だ。先ほどから問題なのはこの掴まれた袖口。これが意味するものは……。

「もしかして、俺に付いて来るつもりなのか?」

「何も見えないに等しい私を見捨てて、ひとりで遊びに出かけるつもりだったの!?」

 佐奈から苦情とも驚きとも取れる声が聞こえる。が、その響きは俺にっては理不尽だ。

「俺は遊びに出掛けるんじゃない。不幸から逃げ回っているんだとこの家に来た時からずっと言っているだろうが!」

「だったら、私が一緒に出掛けて翔の不幸を断ち切ってあげるわよ!」

 佐奈がジトッとした恨みがましそうな瞳で俺を睨んで来る。

「だから……ほらっ……誘いなさいよ」

「何を、だよ?」

 本当に訳分からねえ、この女。俺に何を望んでいる?

「こういう時は、男が女を誘うのが礼儀でしょうがって言っているのよ!」

「佐奈さんが何を言いたいのかお兄さんには本気で分からんのだが?」

 まるで宇宙人と会話しているみたいだ。話がまるで読めねえ。

「はぁ~この鈍感男がっ。まあ、良いわ。とにかく一言、私と一緒にお出掛けしたいと言いなさい。今はそれで許す」

「何で俺がそんなことを言わないといけないんだよ?」

「言わないともう1度ジャーマンスープレックス。ここで、今すぐに、とっても痛く」

「O.K. 佐奈。俺と一緒に出掛けてくれないか?」

「翔がそこまで言うのなら仕方ないわね。お誘い、受けてあげるわ」

「あのなあ……」

 こうして、よく分からんまま俺は佐奈と出掛けることになった。

 

「それで、俺の不幸を断ち切るって何をどうすれば良いんだ?」

「フ~ンフ~ン♪」

「というか、腕を組むのをやめて頂けませんか? みんな、ジロジロ見てますので」

「フ~ンフ~ン♪」

 楽しそうに鼻歌なんか口ずさんでいる佐奈。俺の話なんか少しも聞いちゃいない。

 しかも腕なんか組んで来ておまけに肩に頭を乗せて体重を預けてくるものだから動き辛くてかなわない。今ここで辻斬りに襲われたら俺は真っ二つにされてしまうだろう。

 そして道行く人々にジロジロと見られて恥ずかしいったらありゃしない。

 本当に、不幸だ。俺。

「それで、俺たちはどこに行けば良いんだ?」

「翔の好きな所に連れて行ってよ」

 今度は返事が返ってきた。一応聞いているんだな、こいつ。……待てよ? ということは、さっきの話は意図的に無視しやがったな? ならば、せねばなるまい。お仕置きを!

「だけど、私の視界が利かないのをいいことにいきなりいかがわしい場所に連れて行ったら許さないからね。私にはまだ他にも47の殺人技があるんだから」

「連れていかねえよ、そんな場所」

 危なかったぁ。報復にレンタルビデオ屋のアダルトコーナーに置いてきて恥さらしの刑に処そうかと思ったが、実行しなくて良かった。

「だって、ほらっ、そういうのは私たちにはまだ早いと思うし、お互いの気持ちをちゃんと確かめ合ってからじゃないと。ちゃんとした手順と道のりを歩んで、それから、ねっ」

 何かまたブツブツ言い出した佐奈は放って置いてどこに向かうか考える。って、どこに向かおうと不幸に遭うのなら嫌だし、どこに行こうと不幸でないのなら構わない。

「って、それじゃあどこに行こうが何をしようが同じじゃねえか!」

「同じ訳がないじゃないのっ!」

 何ででしょうか? 俺の独り言に対して横から大きなクレームが入りました。

「いいっ? コース設定はこれからの私たちの一生を左右する大事な問題なのよ!?」

 佐奈さん、何でか知りませんがすごく怒ってます。でも、僕も負けられません。

「俺の不幸はお前の一生さえも左右するほどに強烈なものなのかよ!?」

 俺の不幸って、自分が思っている以上にやばいものなんじゃ?

「えっ? 不幸?」

「そう。不幸。どこに行けば俺が不幸な目に遭わないかって話だろ?」

 佐奈は沈黙した。

「そっ、そうよ! 不幸よ、不幸。私が横にいる限り、翔がどこに行こうが不幸にはならないって話をしていた所なのよ!」

 今度は急にはしゃぎ出すストレス多き受験生。何か話が噛み合っていない気もする。だけど佐奈の奴、今日はずっとこんな感じだし気にするだけ無駄だろう。って、会話の最中に向こうから近づいて来る、趣味が悪いほど真っ赤なコートに身を包んだあれは……。

「意気盛んな所を悪いが、早速不幸が近づいて来たぞ」

「えっ? どこよ?」

 佐奈にもよく分かる様に指を差して示す。指の先には生物学的には姉と呼ばれる、主観的には悪魔と呼びたい生物が接近してきていた。

「よぉ、愚弟。正月早々デートとはやるじゃないか。羨ましいねえ」

 その赤い悪魔は陽気な表情で右手で手を振りながら左手でボディーブローをくれました。

「いきなり何をするんだ、この鬼姉がぁっ!」

 反論したら更に連続でブローをお見舞いされました。無茶苦茶です、この悪魔。

「よぉ、佐奈ちゃん。受験勉強頑張ってるんだってね」

「こんにちは、翔子(しょうこ)さん。もうすぐ受験ですので一生懸命やってますよ」

 そして俺の話は完全に無視されてます。というかこの2人、俺への傷害事件をなかったことにして普通に会話しているのが許せません。俺の人権はどこにあるのでしょうか?

「だけど佐奈ちゃん、せっかくのお正月デートの相手がこれで良いの?」

「居場所がない不幸な俺とデートしてくれって熱心に頼まれちゃいましたから。女の子に相手にされなくて寂しい男をケアするのも幼馴染の義務ですよ」

 話を部分部分繋ぎ合わせ全体としてはすごい捏造話が目の前で語られています。俺の記憶が確かなら、一緒に出掛けることを脅迫してきたのは佐奈さんの筈です。しかも俺の口からデートなんて単語が出た覚えはありません。

「じゃあ、愚弟のことは佐奈ちゃんに全部任せた。煮ても焼いても好きにして良いから」

 任せたと言いつつ、悪魔は俺の顔面にワンパンくれてます。この暴力にどんな意味が?

「はいっ。ありがとうございます」

 俺の処刑の権利まで勝手に譲渡成立しました。法治国家はどこに行ったのでしょう?

「翔子さんって、本当に良い人よね♪」

 背中を向けて去っていく悪魔に向けて佐奈が言う。瞳をキラキラに輝かせて。

「どこが、だよ?」

 俺はジト目を向けながらそう答えるしかなかった。

 本当、不幸だ。

 

 

 

「ねえねえ、翔っ。映画見に行こうよ」

「目がすごく悪いくせに映画館行って何を見るんだ?」

 悪魔と遭遇した後、何故だか知らないが佐奈は妙に浮かれている。あの悪魔との会話のどこに浮かれる要素があったのか俺にはまるで分からないのだが。

「映画館はね、雰囲気だけでも楽しいものなのよ」

 佐奈は俺の腕をしっかり両手で掴みながら走り出した。本当に楽しそうな表情を浮かべながら。……まっ、いいか。佐奈の受験ストレスの解消になるのなら。

「じゃあ、今日の映画代は翔のおごりでね♪」

「何で、俺が?」

「デートなのだから、女の子に奢るぐらいの甲斐性は持ってて罰は当たらないわよ」

「いつデートになったんだよ?」

 あれ? 捏造話がいつの間にか真実にされてしまっていませんか?

 だが、まあ、仕方ない。

 実は今日、おばさんにお正月ということでお年玉をもらってしまった。佐奈にも還元しないとおばさんに申し訳がない。

「……だったらせめて見る映画は俺が選ぶぞ。正月なんだし、こう、不幸を忘れるべく痛快コメディーでも」

「ラブロマンス以外は嫌よ」

 俺の意見は何の躊躇もなく一刀両断される。とりつくシマまるでなし。まるであの悪魔が佐奈に乗り移ったかの様だ。本当に不幸だよ、今日の俺。

 

「そういや、映画館に来るのは随分久しぶりだな」

 映画館という場所はあまりひとりで来る場所じゃない。作品を楽しみたいだけならDVDやBDで見れば良い。でも、映画館は違う。映画館は暗くて幻想的な世界という場所自体を楽しむ装置でもある。だからこそ、その装置の生み出す魔術を分かち合える誰かが必要になる。

「嫌になるぐらい、カップルばっかりだな」

 右手を見ても左手を見てもカップルカップルカップルで館内はいっぱいだった。これじゃあ映画を見に来たのかカップル見物に来たのか分からない。

 けれど、そのカップルを個別に見れば自分たちだけの世界に没入している。周りに大勢の人間がいることなどまるで気にもしていない。そんな不思議な光景が広がっている。

「手を離すなよ」

「うっ、うん」

 はぐれない様に佐奈の手をしっかりと掴みながら空いている席へと移動する。佐奈もこのカップルたちが放つ空気にやられたのか、館内に着いてからは静かだ。

「その、私たちも、この人たちと同じように見えているのかな? カップルに……」

「よしっ、ようやく席ゲットだぜ」

 席に座ってようやく安心。このラブラブした空間を見続けているとどうも疲れる。

「そういやさっき、何か言っていなかったか?」

「何でもないわよ」

 佐奈は機嫌悪そうに頬を膨らませていた。女って本当に訳が分からない。

 

<北条っ! どうすれば、僕のこの溢れんばかりの想いが君に伝わるんだっ!?>

<諦めなよ。この恋は富田くんにはハードルが高すぎるんだよ>

 特に期待しないで見始めた恋愛物映画だったが、始まってみると意外と面白い。

 自称インテリのメガネを掛けた主人公が、いたずらっ子な美少女のハートを掴もうと努力奮闘する。そんな割とありふれたストーリーだが、要所要所で意表をつかれて面白い。

 映画が始まって既に1時間が過ぎているのに、主人公とヒロインがくっ付く気配がまるでない。主人公がヒロインの眼中にまるでないというのはかなり斬新な演出だと思う。

 で、俺としては話の意外性に結構満足しているのだが、佐奈の方はどうもお気に召していいないようだ。

 しょっちゅう俺の顔をチラチラと見て映画に集中していない。おまけに行儀悪く手を伸ばして来て、拳が俺の席のテリトリーを侵している。

 目が悪いせいで映画を楽しめないのかもしれない。しかし子供ではないのだから鑑賞中のマナーには気を付けて欲しいものだ。

 そうこうしている内に映画は衝撃のラストシーンを迎えた。

<北条っ! 僕は、君のことが好きなんだぁ!>

<あの、名前も知らない方にいきなり告白されましても困りますわ。ごめんなさい>

 主人公はついに意を決してヒロインに告白。だが、ヒロインは主人公の名前さえも知らないでいた。全ては主人公の独り相撲。哀れなピエロ。呆然と立ち尽くす主人公の横を年上の彼氏と並んで去っていくヒロイン。

 ラブロマンスの概念を根本から覆してしまいそうな衝撃的な作品だった。

 

「意外と面白い映画だったな、佐奈」

 席を立ちながら佐奈に感想を述べてみる。

「そう、かしら?」

 答える佐奈は素っ気無い。やはり趣味には合わなかったらしい。映画の最中ずっと気が散っていたしな。

「せっかくの暗闇なのだからキスしろとまでは言わないけれど、せめて手ぐらい握りなさいよ。せっかく握り易い状況まで作ったのに……」

 その佐奈はまた何かをブツブツと呟き始めた。映画の不満についてだろうか?

「翔、ジュース買って! 後、パンフレットと携帯ストラップも」

「何で俺が?」

 急に大声を出したかと思ったら、いきなりのおねだり。何なんだ、こいつは?

「せっかくの映画なのだから記念よ。奢るぐらいの甲斐性は持ちなさいよ」

「断ったら?」

「私、サブミッション(関節技)も得意なの」

 俺に選択の余地はなかった。

 映画館での出費の合計4900円。正月早々の予想外に大きな出費。

 不幸だ、俺。

 

 

「で、公園でボートに乗っているとどう不幸が回避できるんだ? 俺には嫌な予感しかしないのだが?」

「少し黙って漕いでなさいよ。本当に、情緒の欠片もない男ね」

 手を頬に当てて物思いに耽る佐奈を正面に見ながら一定リズムで腕を動かす。

 ゆっくりとオールを漕ぎながら人工池の上にボートを走らせる。ボートを漕ぐのは中学以来3年ぶりのことだったが、漕ぎ方は体が覚えていた。意外とまっすぐ進んでいる。

 で、心に余裕が出て来たのでどうしてこんな状況になったのか思い出してみる。

 映画館を出た後、佐奈に「どこに行きたいの?」と尋ねられたので俺は「金の掛からない所」と答えた。これ以上の散在はごめんだった。これは至極まっとうな答えだった筈。

 そんな訳で近所では一番大きなこの公園に来たのだが、園内をしばらく散歩していると佐奈が「ボートに乗りたい」と言い出した。

 金は掛かるし無防備な水上なんて嫌な予感しかしないので俺としては嫌だった。しかし佐奈の「ジャーマンスープレックスとサブミッション」の一言で俺たちはボート乗り場に向かった。この流れ自体が非常に不幸じゃないかと思うんだ、俺としては。

「ねえ、翔はあの映画どうだった?」

「黙れと言ったり質問したり忙しい奴だな」

 オールを漕ぐ手を休めずに考える。

「予想より面白かったと思うぞ。あの、常識を覆す斬新なラストはラブロマンスっていうよりもコメディーだったけどな」

 今思うと、あれはコメディー映画だったようにしか思えない。恋愛要素がまるでない。ロマンスなんてなかった。あったのは悲劇と喜劇。

「そうじゃなくて。主人公があれだけ想いを募らせていたのに相手には全然伝わらなかった。徒労に終わってしまった点についてよっ!」

「うぉっ! っとっと。ボートの上で立ち上がろうとしたら危ねえぞ」

 佐奈が興奮して立ち上がろうとした為にボートのバランスが崩れた。危うく2人とも冬の池にダイビングする所だった。この寒さで水の中は絶対に御免蒙りたい。

「ごめん。で、どうなの?」

 佐奈はしつこく聞いてくる。そんなに重要な質問なのか、これ?

「そうだな。幾ら影ながら頑張っても想いが伝わらないなんてのは現実じゃ割と日常茶飯事なんじゃないか? ドラマみたいな事件なんて早々起きないのだし」

「そう、よね……」

 俺の返答を聞いて佐奈は顔を暗くし伏せてしまった。俺、何かまずいことを言ったか?

「影ながら努力したって相手には伝わらない、ものよね……」

 佐奈は悲しみに耐えるかのようにギュッと拳を握り締めていた。

「だけどさ、あの主人公が最初からヒロインに好きだって告白していたら結果は違っていたかもしれないぜ」

「えっ?」

 佐奈が驚きの声と共に顔を上げる。

「だってさ、あの主人公の敗因は自分の恋心をアピールできなかったことだろ? ヒロインだって、自分を好きな男だって最初から知っていれば接し方も少しは変わっていた筈だ」

「それはそうかもしれないわ。好きになるかはともかく、気にはなるでしょうからね」

「だろ? だから、あの主人公は胸に秘めた想いとか、遠回しの愛情表現とかまどろっこしいやり方をするのではなく、正面から全力でぶつかっていくべきだったんだよ」

「正面から、全力で……」

 佐奈は俺の顔をジッと真剣な表情で見ている。その真剣さに俺は、「最初に告白しても結果は同じだっただろうな」という話のオチの部分を言うことができなかった。それは絶対に言ってはいけない気がした。

「そうね。翔の言うことは正しいわ」

 佐奈はゆっくりと俺から視線を外し夕日がかった茜色の空を見上げた。

「でも、それができないから回りくどいやり方を採るんじゃないかしら?」

 佐奈の声には、切なさと悲しさ、やるせなさが混ざり合ったような響きがあった。

「ねえ、翔はどうして私があなたの通う学校を受けようとしているのか知ってる?」

 佐奈が目線を下ろして、再び俺の顔を覗き込んだ。その瞳はとても哀しげで何かを訴えかけているようでもあった。

 俺は、その雰囲気にどうにも耐えられなかった。

「何でって、そりゃあ、第一志望にうちの学校を選んだからじゃない、かな?」

「やっぱり、影ながらじゃ伝わらないよね……」

 佐奈の今にも泣き出しそうな笑顔を見て強い罪悪感に駆られた。けれど、俺は気の利いたことをひとつも言うことができなかった。多分あいつの望む台詞がわかっていながら。

 

「キャァアアアァっ! 助けてぇ~っ!」

 俺たちの重い雰囲気を吹き飛ばすような少女の悲鳴が響き渡った。慌てて周囲を振り返ると、10mほど離れた岸付近で10歳ぐらいの少女が池に落ちても溺れていた。

「た、大変よっ!」

 少女は泳げないのか、それとも池に落ちたショックでパニック状態なのかその場でもがき続けている。この辺は水深が2m以上あるし、真冬の水温は体に有害だ。一刻も早く助けないと少女の命が危ない。

 だけど周囲には人影がなく、一番近くにいる人間はボートに乗った俺たちとなっている。……となれば、選択の余地はなかった。

「佐奈、お前、ボート漕いで戻れるか?」

「多分、大丈夫だと思うけど? どうして?」

 邪魔になりそうなコートと靴は脱いでおく。

「じゃあ、衝撃に備えてしっかり捕まっていろよ」

「ちょっ? まさかっ、翔っ!?」

 ボートのバランスを崩さない様にできるだけ低い姿勢から素早く池の中へと飛び込む。

「こんな寒い水中にいきなり飛び込んだら翔の身が危ないじゃない! 馬鹿ぁ!」

 佐奈のごもっともな心配兼お怒りの言葉を背に聞きながら、俺は少女の元を目指して全力でクロールを始めた。

 

 

「寒いぃっ。指が凍るぅ。震えが止まらないぃ。今日の俺の不幸は無限大ぃぃっ」

「いきなり真冬の池の中に飛び込んだりするからでしょ。自業自得よ」

 公園の片隅のベンチでパンツ一丁にコートというちょっとアレな格好でガタガタと音を立てながら体育座りの姿勢で震えている俺がいる。

 そんな俺を佐奈は濡れた衣服を絞りながら眉を吊り上げながら見下ろしている。どう見てもマジで怒ってる。

 少女を岸に引き上げたのは良かった。我ながら迅速な救助だったと思う。その甲斐あって少女も割と元気そうだった。

 それから佐奈が呼んでやって来た救急車に少女を乗せて念の為検査に向かわせたまでは良かった。問題はここからだ。

 俺も救急車に乗れば良かったのだ。そうすればずぶ濡れの体のまま屋外に放置されることはなかった。救急隊員の人につい見栄を張って「大丈夫です。何ともありません」と答えてしまったのは大失敗だった。水の中より、水を出た後の方が命の危機だった。

 暖を取ろうにも公園の管理人は不在で何も借りられず、帰ろうにもびしょびしょの衣服では人前にも出られずおまけに無茶苦茶体が冷える。

 そんな訳で服を脱いでとりあえず乾かしている最中なのだった。

「さ、ささささささささささ、寒いぃ。今のこの震えなら、伝説の1秒間50連打ピンポンダッシュも夢じゃないかも……」

「そんなはた迷惑な夢や伝説は捨てなさいよ」

 佐奈は俺が池に飛び込んで以来怒りっ放しだ。それが、何か、イラッと来た。

「何をそんなに怒っているんだよ? 女の子は助かったし、お前が怒ることはないだろ?」

「怒るに決まっているじゃないの!」

 佐奈は大きく目を見開いた。

「翔、あなた下手すると心臓麻痺でも起こして死ぬ所だったのよ? 分かってるの?」

「そりゃあ、危険なことをしたってことぐらいは分かってるよ」

 今の俺は母親に叱られている子供状態だろう。けど、子供は反論するものだ。

「けど、俺が命の危機にあったということは、あの子だって命の危機だったってことだろ? 助けに行くのは当然のことだろうが」

 俺よりも体が小さく体力もなく泳げないあの子の方が命に危機にあったのは確かな筈。

「救助方法をもう少し考えなさいって言ってるのよ! ボートを接岸させてから手を伸ばせば水の中に入らなくても助けられたかもしれないでしょ」

「そりゃあそうかもしれないけどよぉ……」

 あの時の俺は目の前の事態に必死で複雑な思考回路を働かせる余裕がなかった。

「翔まで溺れて死んじゃうじゃないかって、私、ずっと心配したんだからね……」

 そして怒り模様から一転、佐奈は涙を流し始めた。佐奈が右手で拭っても拭っても涙は止まらない。その様を見て俺は再び罪悪感に駆られるのだった。

「ああ、その、なんだ。すまん……」

 昼間、佐奈のボキャブラリーの貧しさを馬鹿にしたが、俺はそれ以上だったようだ。

 何と言えば良いのか分からなくて、気まずい時が流れる。

 

 そんな沈黙を先に破ったのは佐奈の方だった。

「…………だけど、さっきの翔、すごく格好良かった」

 顔を上げた佐奈は俺を見て泣きながら笑った。その笑みは、何だかキラキラと光り輝いているみたいで思わずドキッとしてしまった。

「それに、私が述べた救助法は可能性を述べただけに過ぎないわ。ボートを寄せても助けられなかったかもしれないし、2人とも池に落ちた可能性もある。それに、実際の私は当惑するだけで何の行動も起こせなかった」

 佐奈は僅かに眉を下げて俯いた。

「だから翔の判断は正しかったの。だけど、その正しい判断が私には怖かった。翔まで死んじゃうんじゃないかって怖かった。私には女の子の命より翔の方が心配だった」

 佐奈の喋り方はまるで神様に向かって懺悔しているかの様だった。そしてベンチの上で体育座りの姿勢を取って身を小さくしている。自己嫌悪と外界への拒絶を示すような姿勢。

「まあ、そのなんだ。2人とも無事だったのだし、結果オーライということで……」

「全然良くないわよっ!」

 首を横に振りながら硬く目を瞑って俯く佐奈。

「女の子の命の危険のことを実際には考えていなかった。私、最低……」

 う~ん。参った。ここはひとつ、幼馴染のお兄さんとしてひどく自己嫌悪に陥っている少女を元気付けてやらねば。え~と……あっ、そうだ。

「救急車呼んでくれたのは佐奈だっただろ?」

「そう、だけど?」

 佐奈はキョトンとした顔で俺を見ている。

「今、俺は見ての通り水に入った寒さでガタガタと震えている。あの子だって、救急車に乗って病院に行っていなかったら俺と同じように今頃震えていたかもしれない」

 佐奈の肩に手を置いて俺の全身の震えを伝えてやる。

「ほらっ。だから、佐奈がいてくれてあの子にとっても良かった訳、だろ?」

 無茶苦茶寒い状況には変わりがないが、精一杯の笑顔を見せる。

「翔っ、翔~っ!」

 佐奈が抱きついて来た。コートが脱げてしまい背中は寒かったが、佐奈の体温を感じて胸の方は温かかった。

こういうのも、悪くねえな。

 寒中水泳する羽目になったのはどうしようもなく不幸だったけど、な。

 

 

「若僧っ、貴様、公共の場所で何を破廉恥な真似をしくさっておるのかぁっ!?」

 佐奈というとても心地よい人間カイロにより暖を取っていると、落雷のような激しい叱責を受けた。

 佐奈にどいてもらい、振り返るとそこに立っていたのは……

「あんたは、今朝俺の不幸を占ったじいさんっ!」

「えっ? この人が?」

 俺の今日1日の不幸の源とも言えるじじいが立っていた。

「若僧っ、貴様は不幸を楯におなごに縋り、あわよくばその子の体を弄ばんとしていたなぁっ! わしがこの世に正を受けて82年。1度も触れたことがないおなごの体にぃっ!」

 じじいは何だかよく分からない理屈で怒っていた。しかも、だ……。

「俺が佐奈のことを弄ぼうとしただって? とんでもない誤解だぜ。こいつに付き合わされて酷い目に遭ったのは俺の方だっ!」

 真実はきちんと伝えておかないとな。

「確かにおじいさんの言う通り、私は不幸を楯に翔に縋られ、誰も助けに来ない暗闇やボートの中に連れ込まれたわ。そしてさっき翔は無防備な私に裸で荒々しく抱きついて来た」

 あれっ? 俺の知っている今日1日とはだいぶ違う物語が語られたような?

「やはり貴様は、不幸を出汁に甘い蜜を吸おうとする最低クズ男のようじゃったな!」

「んな訳がないだろうがぁっ! 人を鬼畜みたいない言うなぁっ!」

「確かに翔は、受験勉強を邪魔して嫌がる私を強引に外に連れ出した。この後だってきっと服が乾かないからとか言って私を破廉恥な建物に連れ込み、携帯している赤マムシドリンクを使っていかがわしい真似をしようにしたに違いない最低男よ」

「もしも~し? 俺の話を聞いて下さいませんかぁ?」

 孤独を、とても強く感じます。コートを着直しても寒いです。特に、心が。

「でもね、私がいる限り翔は不幸にはならないわ!」

「何じゃと!?」

 焼き芋、食べたいな……。心まで温かくなれたら、いいな……。

「だって、私が翔を守るから。だから翔は絶対に不幸になんかならないのよっ!」

「何とぉおおおおぉ~っ!」

「今日の俺は佐奈さんに連れ回されたおかげですごく不幸な目に遭ってますよぉ~」

 もう、分かりきっていたことだけれど、俺のツッコミは2人には届かない。

「それに私はおじいさんの占い的中率100%の謎を既に見切っているわ」

「ぐぅぬぅううううぅっ!」

 いいや、もう。地面に‘の’の字でも書いて習字の練習をしよう。

「おじいさんは、占いをする時に不幸になるとしか言わない。どう、違ってる?」

「クッ。その通りじゃ」

 俺はこう見えても中学生に上がるまで書道を習っていた。段だって持っている。字にはそれなりのこだわりは持っている。

「そして占う相手は翔みたいな冴えない駄目男に限定。どう?」

「そ、それも当たってる」

「俺は書道の大ぃ~天~才」

 結構楽しいな。地面に字を書くのって。

「つまり、何はなくても不幸になりそうな人間に、殊更不幸を強調することで情緒不安定にさせて不幸を拡大させるのがおじいさんの占いの正体なのでしょう!」

「くぅうううぅ。まさか、お主のような小娘にそこまで見破られておったとはっ」

 おっ、上手く書けた。今度、ちゃんと書いて市の展覧会に書を出展してみようかな?

「だけど、残念だったわね。しっかり者の私がいる限り、翔は絶対に不幸にはならないわ。おじいさん、あなたの占い的中100%伝説は今日ここに崩れるのよ!」

「ぬぅぬぅうぅぅぅううぅうっ! 小娘の分際でわしの的中伝説に終止符を打つだと?」

 意外な所で新たな生きがいをみつけてしまった。人生、何が起こるか分からないものだな。こういうのを人間万事塞翁が馬と言うのだろうな。

「さあ、おじいさん、負けを認めて占いを撤回してよね!」

「占いを撤回じゃと? クックックックック。あっはっはっはっはっは」

 そう言えば今日の俺ってどうなんだろう? 

不幸なのには違いないが……不幸だったってだけで片付けて良いのか?

「何がそんなにおかしいのよ?」

「いや、なに。かつてお嬢ちゃんと同じ推理に辿り着いた者は他にもいた。じゃが、わしの占いは今日まで100%の的中率を誇っておる。この意味が、分かるか?」

 何ていうのか、俺はこう、何か大事なことを見過ごしていないか?

「おじいさんっ、あなたは、まさかっ!?」

「そうじゃ。占った者が不幸に陥らぬなら、わしがこの手で自ら不幸に叩き落してやるまでよぉっ! うぉおおぉおおおぉおぉっ!」

 一体、俺は、何に気付いていない?

「ちょっと、翔っ! いつまでも自分の世界に浸っている場合じゃないわよっ!」

「うん? 何だよ、一体?」

 やっとお呼びが掛かった。で、立ち上がって顔を上げてみると……

「何なんだよ、この筋肉の塊は一体っ!?」

 そこには、全長2mを遥かに超す筋肉の塊が聳えていた。全裸で、だ。全てが清々しいほどにモロ出しだった。

「その人はさっきの占いのおじいさんよ!」

 佐奈が頬を真っ赤にして顔を筋肉の塊から背けながら叫ぶ。

「こんなデカいじじいがいるかっ!」

 俺も負けじと大声で叫ぶ。

 だって、あのじじいは骨と皮ばかりのヨボヨボな体型で、身長だって佐奈と同じぐらいだったから160cm前後だった筈。こんなマッスルな巨人の訳がない。

「その筋肉の顔をよく見てみなさいよ!」

 佐奈に言われ、筋肉の塊の頂上部をよく見てみる。そこにははげ頭にVの字に顎から垂れた髭というもう見慣れたじじいの顔があった。

「じいさん、何であんたは巨大化してんだよ!? 特撮戦隊物の怪人なのかよ!?」

 じじいは俺を見下ろしながらニヤリと笑った。

 

「我が兄、偉大なる長兄裸王(らおう)は裸(ら)の道を究めんと究極の肉体を手に入れ、先日、覗き、住居不法侵入、器物破損、その他諸々の罪で警察に捕まった」

「もしも~し? 話の前半部と後半部に何の繋がりもないよな?」

 どうして究極の肉体を手に入れると覗きで捕まるんだ?

「裸王にはわしの覗き、住居不法侵入、器物破損、その他諸々の罪も被ってもらったので結局懲役20年の実刑判決を受けた。兄が生きて出所してくることはあるまい」

「あんた、自分の兄に罪を着せたって最低な弟だなっ!」

「じゃが、兄が極めし裸(ら)がこのまま世の中から忘れ去られてしまうのは惜しい。という訳でわしが二代目裸王となったのじゃ」

 マッスルポージングを取るじじい。その顔はどこまでも誇らしげだった。

「なったのじゃって、そんな簡単になれるのかよ!?」

「どんな夢も、強く願えば叶うんじゃあぁあああぁっ!」

「急に少年漫画っぽくまとめようとしてんじゃねえよ!」

 結論、じじいの言うことはまるでわからない。でも、巨大筋肉化したことだけは事実。

「そういう訳で若僧っ、貴様にはわしの占い的中率100%伝説の為に消えてもらうぞ」

 じじいの手が俺に向かって伸ばされる。熊を想像させる巨大な掌が迫り来る。

「何がそういう訳なのかは少しもわからねえ。けど、やられてなんかたまるかよ!」

 素早く身をかわしながらじじいを睨み返す。けど、やばい。あんな巨大で強そうな腕に捕まれたら1発で終わりだ。こうなったら……用心棒の先生を呼ぶしかねえ。

「佐奈先生、お願いします」

 派手な投げ技から関節技まで万能の佐奈ならあの筋肉に勝てるかもしれない。

「やだ」

 だが、俺の要請を佐奈は一言の下に拒絶した。

「何でだよ?」

「私、メガネもコンタクトもしていないのよ。それに裸の男の人になんて触りたくない」

「何を乙女チックな寝言をほぞいてんだよ! 俺の命の危機なんだぞ!」

「私はキスだってまだしたことない純情可憐な乙女だっての!」

 佐奈は顔を真っ赤にしながら叫んでいる。

 確かに、幾ら佐奈がプロレスを得意といっても、あんな筋肉の塊でかつ全裸なじじいの相手をしたのでは一生もののトラウマになりかねない。

 でも、だったら、俺とプロレスするのは平気なのか? 

 佐奈は俺に触れるのは平気なのか? 佐奈にとって俺って何なんだ?

 じゃあ、反対に、俺にとって佐奈って何なんだ? 

 …………チッ。何かイライラする。

「若僧っ、女を楯にしようとは見下げ果てた根性じゃなっ!」

 じじいが吼える。その声が、無性に腹が立った。

「気が、変わった」

 佐奈から目を離してじじいを睨みつける。

「じいさん、あんたとは俺がやるっ!」

 着ていたコートを脱ぎ捨て、トランクスパンツ一丁の姿を晒す。

 先ほどまではこの格好に対して寒いとしか思わなかった。けれど今は違う。リング上のボクサーやプロレスラーのような高揚した気分に包まれる。心が、燃え上がってくる。

「ほぉ、それはわしの占い100%的中伝説に新たな1章を加えるということだな?」

「違うな。じいさん、あんたの的中伝説を今日俺が終わらせてやるってことだよ!」

 右手拳を硬く握り締める。

 俺とじじいの不幸を賭けた最後の決戦の幕がこうして下ろされた。

 

 

 

 ……とはいえ、困った。

 格好付けて啖呵を切ったものの、俺は喧嘩なんてほとんどしたことがない。

 格闘技だってやったことがあるのは佐奈とのプロレスごっこだけ。しかも一方的に技を掛けられる役に徹していたから攻撃方法なんてまるで分からない。

「どうした、若僧っ! 威勢が良いのは啖呵だけかっ!」

 じじいの突進を直前で体を捻りながら避ける。幸いなのはじじいの動きも素人なこと。今なんかも背中が丸見えだったりする。

「うるせぇっ! 後ろがガラ空きなんだよ、じいさんっ!」

 じじいの背後から踏みつけるような感じで所謂ヤクザ蹴りをお見舞いする。しかし……

「今何かしたのかのぉ?」

 余裕の表情を浮かべながらゆっくりと振り返るじじい。

 まるで効いてねえ。これは、ちょっとヤバいかもしれない。

「フッフッフ。これから貴様に、真の不幸を味あわせてやるぞっ!」

「うるせぇっ! あんたに出会った瞬間から俺は不幸の真っ只中だよっ!」

 じじいの緩慢な蹴りを飛び退いて避ける。鈍足攻撃だが、一撃でも食らえば危ない。

「貴様が不幸の真っ只中にいるだとぉっ? 笑わせるな、裸王わき毛ストームっ!」

 じじいの意図に気付いた時には遅かった。

「遠距離攻撃かよっ!?」

 爆発と呼んで良いほどの激しく揺れる胸筋の圧力により前方の空気が押し出される。そして引き抜かれたわき毛を含んだ気流が嵐を巻き起こしながら襲い掛かって来た。

 俺は無我夢中で後方にジャンプして回避を試みた。しかし、わき毛と空気の奔流が右足のすねに直撃する。

 他人のわき毛が自分の体に突き刺さって生える体験をしたのは長い人類史上でも俺以外にはそうはいないだろう。わき毛を移植された箇所からダラダラと血が流れる。

「若僧っ、これでもうちょこまかと逃げ回れまいっ!」

 悔しいがじじいの言う通りだった。俺は右足を自由に動かせなくなっていた。立った姿勢を保っているものの、むしろその姿勢を変えることができない。

 気合を込めて本気で動かせばある程度は動くだろうが、俊敏な動きはもう不可能だ。

「どうやら勝負あったようだな。これで貴様を消せばわしの的中伝説も安泰だ」

 優位に立ったじじいは余裕の笑みを浮かべている。

「だがその前に、貴様というアホに真の不幸とはなんたるかを教えてやろう」

「ご高説を垂れようたあ、随分余裕じゃねえか」

 強がってみるものの、圧倒的不利な状況は変わらない。何とか、手を考えないと……。

「貴様も、幸せの青い鳥の話は知っていよう?」

「幸せは自分のすぐ側にあるのになかなか気付かないっていう教訓の話だろ」

 どうすれば、この状況を抜け出せる? 一発逆転の秘策はどこにある?

「貴様こそが、その幸せの青い鳥状態にあると気付かぬ愚か者めがぁっ!」

「うるせぇ~っ!」

 考えがまとまらねえ。というか、じじいの言葉がやけに脳に障った。

「うるせぇっ、うるせぇっ、うるせぇ~っ! 俺が真の不幸じゃねえってのかよぉっ!」

 怒りを拳に乗せて奴のどてっ腹に風穴を開けるつもりで大きく拳を振りかぶる。

「ぐわぁあああああぁあああぁっ!?」

 だが、動こうとした瞬間、右足が急激な痛みを訴え始めた。

「そのような足で殴り掛かれる筈がなかろう。だから貴様はアホなのだぁっ!」

 じじいが俺を見ながら嘲笑する。

「貴様が真の不幸だと? 一緒にいてくれるおなごがおるくせに笑わせるな!」

 じじいは佐奈をチラリと横目で眺め、それから再び俺を見た。

「生まれてこの方82年、わしは1度もおなごにモテたことがないわぁっ!」

「えばって言うなぁっ!」

 じじいの言葉は実に滑稽だ。だが、その瞳は俺に対する憎悪の炎に満ちていた。

「貴様のように可愛いおなごをはべらせておきながらその幸せを自覚しないギャルゲーアニメの主人公の如き男がわしは一番嫌いなのじゃ。死ねぇっ!」

「………………っ!」

 じじいのストームが左足に直撃する。痛すぎて、悲鳴さえ上げられない。

 気力で何とか立っているものの、それが俺の限界になっていた。

「気概だけは思ったよりもあるようじゃな。だが、その体ではもう動けまい」

 じじいがゆっくりと近付いて来る。

「最後の一撃はこの新裸王の豪拳で葬ってくれようぞ」

 じじいが目の前で止まり、拳を振り上げるのを俺は黙って見ているしかなかった。

 倒れてやるつもりはない。泣き言をいうつもりもない。だが、何もできないでいるのもまた事実だった。睨むしかできない。自分の無力さが、妬ましい。

「さらばだ! モテない漢達の敵よぉっ!」

 ゆっくりとゆっくりと豪拳が俺に向かって振り下ろされて来る。

 俺の脳みそが映像をスローモーションで捉えているというのもあるだろう。しかし、このじじいはわざとゆっくり拳を下ろしてやがる。多分、俺に恐怖を与える時間を作る為に。

 けど、怖がってなんかやるものか。泣き言なんか言ってやるものか!

「もう、いい加減にやめてよっ!」

 って、佐奈? 何でお前がこっちに来る? 何で俺の前に立つ?

 そんな位置に立っていたら、俺じゃなくてお前が……。

 何で、そんな泣き出しそうな顔をしながら手を広げて立ってるんだよ?

 お前、本当に馬鹿か?

 何で俺みたいなどうしようもない男の為にそこまで頑張るんだよ?

 何で俺なんかの為に本気で泣いたり、命張ったりできるんだよ?

 ………………ああ。本当はその訳、俺にだってもう分かっているんだよ!

「舐めてんじゃねえぞっ、このぉ、クソじじぃッ!」

 足の痛みなんか無視して佐奈の前へ出て拳を防ぐ。今成すべきことはそれだけ。

「若僧っ、貴様…………っ!」

「じじいっ、ベクトルって知ってるか? そんなハエが止まりそうなパンチ、防ぐのぐらい訳ないんだぜ」

 俺達に向けて真っ直ぐに向かって来る拳を横から殴れば軌道は簡単に変わる。タイミングさえ合わせれば力だっていらない。

「佐奈が怪我でもしたら俺は本当の不幸になっちまう」

 もう、不幸の意味を取り違えたりはしない。

「それからじじい、さっき俺のことをモテない漢達の敵って言ったよな?」

「ああ、言った。事実じゃからの」

 じじいの言葉を聞いて、斜め後ろにいる佐奈の腰に手を回し自分の元へと引き寄せる。

「えっ? ちょっと? 翔っ? 何っ? どうしちゃったのっ?」

 佐奈が俺の腕の中で大声で騒ぐが無視する。

「じじい、だったら良いことを教えてやるぜ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえってなっ!」

「ふぇっ?」

 俺の咆哮を聞いて瞳を丸くしながら黙ってしまった佐奈。

「俺の女に手を出そうとした落とし前、きっちり付けさせてもらうぜ。じじいっ!」

 じじいに見せ付けるように更にきつく佐奈を抱き寄せる。

 両足は相変わらず痛い。けれど、それが気にならないぐらい脳からアドレナリンが駄々漏れまくっているのが自分でもわかった。

 この勝負、もう絶対に負けられねえっ!

 

 

 

 対峙する俺とじじい。俺の方は満身創痍なのに対して、じじいは傷1つ負っちゃいない。おまけに筋肉という名の鎧は強固な防御力を誇っている。

 けど、それが何だと言うのだ。相手は所詮人間。しかも戦いの素人。先ほどの攻撃を防いだ様にやり方次第で幾らでも戦うことはできる。後は、それを思い付けるかどうかだ。

「翔……っ」

 ずっと黙り込んでいた佐奈が初めて話し掛けて来た。

「俺の女って部分に関しては、後で必ずちゃんと説明してもらうわよ」

 わかったと目線で返す。

 正直、あの宣言に関しては俺もわからないことが多い。ただ、ひとつのことを除いては。

「だから……勝って」

「わかった」

 今度は短く口で答える。

「それと、どんなに筋肉を鍛えたって、鍛えられない箇所が人間には多く存在するわ」

「ありがとうな」

 ゆっくりと戦いの場から遠ざかっていく佐奈。その背中に心の中で頭を下げる。

 じじい打倒の筋道が、佐奈のおかげでようやく見えて来たぜっ!

「行くぞぉ、小僧ッ!」

 痺れを切らしたじじいが先に動き出す。だが、その鈍足単調な攻撃はもう俺には通じない。向かってくる拳を、足を、己の拳と足でベクトルを逸らす。

 更に、わき毛ストームを発動させる隙を与えないように距離を詰める。そして、隙だらけでガラ空きになっているボディー……ではなく、足の小指を痛む足を我慢して思い切り踏み付けるっ!

「ぎにゃぁあああああああぁっ!」

 それは、初めて聞いたじじいの悲鳴だった。

「筋肉の鎧をまとえない場所はどうやら普通の人間と防御力が大差ないようだな」

 つまりこいつは、筋肉を付けられない場所への攻撃に弱い。

「ガキが舐めた真似ぉおぉおぉおぉっ!」

 じじいの遠吠えが心地良い。

「じいさんっ、ついでだから言っておく」

「今更になって降伏宣言でもするつもりか?」

「そうじゃねえ。じいさんの占いは、もう既に大外れだってことをだよ」

「何じゃと!」

 じじいの顔が険しくなる。その苛立ちの様が今の俺には心地良い。

「ちょっと前までの俺は今日の自分のことを限りなく不幸だと思ってた。けどよ、考え直してみると別にそんなに不幸でもなかった。じいさん、あんたの言う通りだったぜ」

 今日1日に起きた出来事を思い返してみる。

「確かに今日の俺は行く先々でトラブルに見舞われた。でもそれは、みんなが俺にきちんと構ってくれた結果のことだ。無視され放置されるよりはよっぽど良い。それにじいさんの占いのおかげで佐奈とデートもできたし、溺れかけていた女の子も助けられた。これってすごいラッキーじゃねえか」

「翔……っ!」

「それに、俺は今日、とても大事なことに気付くことができた。それは何よりも大きな収穫。だからじいさん、あんたの占いは…………大外れだっ!」

「ガキがぁっ、減らず口を叩きおってぇ。貴様の不幸はこの新裸王が完遂してくれるわ!」

 じじいが怒りに我を忘れ豪腕を振り下ろす。

「じいさん、俺は格闘技は実際にやったことないが、ヒール役のプロレスラーの行動なら佐奈と一緒に何度も見て来たんだよっ!」

 拳でじじいの拳を弾くと同時に、体を回しながら左足で相手の膝を後ろから蹴る。所謂膝カックン状態となった所ですかさずわきの付け根に右のアッパーカットを叩き込む。そして手を開いて力任せにわき毛を引きちぎる。

「ぎゃあぁああ!」

 じじいが苦痛に顔を歪め前屈みになった所で、顎に向かって飛び上がり式アッパーカットをお見舞いする!

「ぐぅううぅう」

 俺の渾身の一撃を受けてじじいは、新裸王は地面に膝をついた。

「佐奈の言う通りだ。幾ら筋肉の鎧をまとおうと人間には鍛えられない場所があるってな。パワーはでかくても、お前の負けだぜ。じいさん」

 一番無防備なはげ頭にとどめの張り手を加えるべく大きく振りかぶって……

「おじいさんはまだ動ける。油断しないで、翔っ!」

 佐奈の声が聞こえて反射的に後方に飛び退くとじじいの腕が伸びて来るのはほぼ同時だった。

「じじい豪翔波っ!」

 じじいの腕の直撃は避けた。しかし、じじいの掌から生じた突風により俺は大きく後方へと吹き飛ばされた。

「うわぁああああああぁっ!」

 5mほど飛ばされて地面に叩きつけられながら2度3度と後方へ転がっていく。

 それでも何とか踏ん張って立ち上がる。佐奈の直前のアドバイスと、今日ジャーマンスープレックスを食らった時に思った受身の大切さを思い出さなかったら今の一撃で確実に俺は終わっていただろう。

「クッ。仕留めきれなんだか」

 技を発したじじいの顔色も悪い。よくはわからないが、じじいの体にも相当な負担が掛かっているらしい。やはり、あのマッスルボディー化には何らかの無理があるようだ。

 とはいえ、俺の方ももう限界なのは間違いない。正直、立っているのも辛い。

「うぬぬっ。たとえこの身が朽ち果てようとも、貴様のようなモテ男を生かしておいては新裸王の名が泣くッ!」

 立ち上がったじじいは目は虚ろ、体はフラフラだった。やはり無理が来ている。だが、その闘志だけはいささかも衰えていない。モテ男は許せないという鉄の意志の下に。

「じいさん、人類の子孫繁栄の為にもじいさん、あんたのような存在は邪魔なんだよ!」

 俺も絶対に負けられない。自分の為にも。そして、佐奈の為にも。

「次の一撃が我らの死闘の最後の一撃になろうぞ」

「だったら、とっとと終わりにしようぜ」

「「ならば、勝負っ!」」

 じじいが野獣のような雄叫びを上げながら一直線に向かって来た。その気迫、今までで最高なのは間違いない。

 対する俺だって気迫なら負けない。

 だが、右足、左足はもうまともに動きゃしねえ。1回ずつ動かすのが精々だろう。右手、左手もだ。さっきの衝撃波を喰らったせいか肩がまともに上がらない。手足を使った打撃系攻撃は不可能。

 しかし、どうせ半端に蹴ったり殴ったりした所で効きはしないのだから問題はない。

 代わりに俺にはまだこの体自体という武器が残っている。そして俺が成すべきはこの全身を弾丸と変えた、全身全霊の一撃を喰らわすのみ。

 だが、その特攻を実行すれば俺は無事では済まないだろう。佐奈が茫然自失となる事態に陥るかもしれない。約束した説明はできなくなるかもしれない。

 だが、それでも、じじいに負けて俺が朽ち果て佐奈が泣くような事態だけは絶対に避けないといけない。

 それが、今日好きだって気付いちまった女の子への最低限の礼儀ってもんだろうッ!

「死ねぇっ、若僧っ!」

 じじいが拳を天高く振り上げ、俺に向かって振り下ろして来る。

「死ぬのはテメエだ、じじいっ!」

 全身を屈ませて、1歩しか動かせない両足で、これで2度と動けなくなっても構わないとばかりに思い切り地を蹴る。

 頭を弾頭にみたて、照準が狂わないように頭から飛び込むっ!

 

 

 …………じじいの、股間に向かって。

 

「ノォオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオォっ!?」

 

 こうして俺は、何かとても大切なものと引き換えにじじいに勝利した。

 

 

 

 

「じいさん、大丈夫か?」

 戦いが終わり、じいさんの体は元のヨボヨボのシワシワに戻っていた。

「わしは、兄者とは違い偽りのマッスルの持ち主じゃ。特殊な秘孔を突いて一時的にマッスルボディーと化したものの、反動でもう体はガタガタじゃ」

 あれだけムカついたクソじじいだったが、こうして戦いが終わると憎しみの情を掻き立てることができない。冷たい地面に横たわるじいさんからは強い哀愁が漂ってきていた。

「わしはな、元々占い師になどなりたくはなかった。不確実なことを述べるのは性格上どうしても性に合わなかった。じゃが、それは昔の時代。大恩ある方に占い師になることを勧められては断ることなぞできんかった」

 星が浮かび上がり始めた空をじいさんは懐かしい目をして見上げている。

「わしは嘘かもしれんことを言いたくない。じゃが、占い師とて生きねばならん。そこで考え付いたのが的中率100%の不幸占いじゃった」

 じいさんの見上げた空を見る。人生17年しか生きていない俺にはじいさんと同じものをまばらな星の中に見ることはできない。

「じゃが、わしの的中率100%も今日で終わりのようじゃ。占い稼業もそろそろ廃業して良いだろう」

 じいさんはゆっくりと立ち上がる。

「わしもまた天に還ろう。お主はこの地であの娘と仲良く暮らすが良い」

「あ、ああ」

 場の雰囲気に従ってとりあえず返事をしたものの、肝心の佐奈がいない。

 そういやあいつ、決闘が終わった後、どこに消えたんだ? まったく姿が見えないが。

「お巡りさん。こっちです!」

 暗闇の中から佐奈の声が聞こえた。

「お前たちっ、こんな寒い中に裸で何をやっているんだ!」

 そして現れたのは佐奈、ではなく制服姿の警官だった。えっ?

「あの2人、さっきから全裸でずっと騒ぎ合っているんです」

「それは本当かね? 2人とも、ちょっと警察署の方まで来なさい!」

 あれ? あれっ? あれれっ?

「あの、2人って、もしかして、俺も、ですか?」

「当然だ。君も全裸じゃないか!」

 言われてみて自分の下半身を見る。スッポンポンになっていた。いつの間にかトランクスのゴムが切れて脱げ落ちていたらしい。

「とにかくその裸の2人、さっさと捕まえちゃって下さい!」

 佐奈が暗闇の中から出てこない理由もそれか。って、ちょっと待て!?

「それが死闘を終えたデート相手にすることかぁっ!?」

 通報、しかも自分で警官連れて来たりするか、普通?

「うるさいっ! おじいさんの股間に頭から突っ込んでいくような全裸馬鹿のことなんて知らないわよっ! 最低っ、最低っ、最低っ!」

 佐奈は俺の放ったファイナル・アタックがえらくご不満らしい。いや、佐奈があの攻撃を見れば大きな衝撃を受けることは予想していた。しかし、通報するか? そこまで?

「それじゃあお前は俺がじいさんに倒されてれば良かったって言うのかよ!?」

「うるさいっ、うるさい、うるさ~いっ! この変態がぁ~っ!」

 佐奈はまったく聞き耳を持とうとしない。ひでぇ……。

「何か込み入った事情があるようだが、話は署で聞こう。近くにパトカーを呼んでいるから来なさい」

 警官が俺の背中を押す。って、このままじゃ本気で警察に連行されちまうっ!

「じいさんはこんな結末で平気なのかよ!?」

「伝説は終わり、占い師も廃業した。わしの人生に一片の悔いなしじゃ」

 じいさんはやけに素直に従って警官に誘導されるまま歩いている。

「いやっ、じいさん。あんたの占いは当たっている! 俺は今、こんなにも不幸に満ち満ちているってば!」

「そんな慰めの言葉を掛けてくれんでも大丈夫じゃ」

「慰めじゃなくて、俺は本当に不幸なんだってばぁっ!」

 警官にどんどん背中を押され、遂にパトカーの前まで来てしまう。

 そのパトカーには膨れっ面をしてそっぽを向いた佐奈が立っていた。

「さあ、お前たち。さっさと車に乗りなさい」

 じいさんと2人してパトカーの後部座席に押し込められる。

そして扉を閉める直前

「出所するまでは待っててあげる。そして、出てきたら……あの時の言葉の意味、聞かせてもらうわよ」

 そんな言葉が聞こえた。

「モテモテじゃの」

「どこが、だよ?」

 その日俺は生まれて初めて警察署で1晩を過ごした。

 こうして俺の不幸な1日は終わりを遂げた。

 

 

 あれから、1週間が過ぎた。

 学校も3学期が始まり、また忙しい日々が戻って来た。

 結局俺は一晩で解放された。決闘のことは黙っていたので咎められなかった。

 じいさんは、覗きや住居不法侵入、器物破損、その他諸々の余罪が発覚し、おそらく生きては出て来られないという。

 家に帰ったら、両親には無茶苦茶怒られるし、姉には思い切り馬鹿にされた。

 俺がこんな不幸な目に遭ったのも、佐奈が警察に通報したからに他ならない。

 で、その佐奈だが……。

「で、翔? この問題はどう解くの?」

「知らねえよ、そんなこと」

 無断で俺の部屋に入り込んで勝手に受験勉強をやっていたりする。俺のコタツはこいつにずっと占領されっ放しだ。

 佐奈の奴はあの日以来、俺の部屋にやって来ては受験勉強をする日々を過ごしている。

 通報したことに対する一言の謝罪もなしに、だ。

「どうしてお前は毎日ここに来るんだ? 自分の部屋で勉強しろ」

「別にどこで勉強したって私の勝手でしょ。翔子さんの許可も取ってるし」

「ここは俺の部屋なんだから、あの悪魔じゃなくて俺の許可を取れっ!」

「うるさいなあ。勉強の邪魔をしないでよ」

 俺の叫びも佐奈にはどこ吹く風だった。

 いや、じいさんの占いがなくても本気で不幸だ、俺の日常。

「それに、私はまだ聞かせてもらってないわよ」

「何を、だよ?」

「俺の女って件について」

 微妙な沈黙が走る。

「…………知らん。少なくても今のお前に話すことは何もない」

「そう。じゃあ、話してくれるまで私は毎日ここで勉強するわ。たとえ受験が終わろうと、春休みが来ようと、高校に入学しようとも、高校を卒業しようとも、よ」

「じゃあ、勝手にしろ」

 こうして俺の日常は、幼馴染の少女が我が物顔で部屋に居座るという不幸に彩られることになった。もっとも俺は、この不幸が本当は幸福であることを既に知っているのだが。

 

 俺は占いを信じていない。

 けど、信じぬ者も救われるってな。

 

 了

 

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
3
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択