No.174046

虚界の叙事詩 Ep#.02「盗聴」

虚界の叙事詩の第2話になります。

前話で窮地に追いつめられた、太一と香奈を救い、任務を続行させるため、彼らの仲間である一博が動きだします。

2010-09-22 14:24:17 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:339   閲覧ユーザー数:301

 

帝国首都17区

11月10日

2:42 A.M.

 

 

 《帝国首都》の17区は、繁栄を続ける巨大国家、『ユリウス帝国』のいわばお荷物だった。荒

廃した無法地帯のスラム街であり、そのエリア内では犯罪と貧困が繰り返され、過去にも未来

にも希望がない。

 人工島側と大陸側に分かれている首都の大陸側、その外れの辺りの場所に位置し、政府の

監視もあまり行き届いていない。水道や電気が通じているかどうかも分からない。言わば大都

市の中の孤鳥で、大戦後の急速な都市開発の中にいながら、唯一その波についていかなかっ

た地帯がここである。

 今だに、57年前の大戦よりも昔の面影を残し、木造の建物や、背の低い雑居ビルなどが建

ち並ぶ。細い路地などは舗装されていないところが多く、至る所にゴミが散らかっていたりす

る。区内を流れているコンクリートで固められた河も、廃棄物で酷く汚染されている。

 首都の主要交通機関である地下鉄や大きな通りも通じておらず、行政機関からも見放され

たも同然で、警察すら存在していない、そんな場所だ。

 管理された都市の中で、唯一孤立した地帯であるこの区は、ただの無法地帯でもあれば、

様々な物が売買されているブラックマーケットでもあり、政府機関から身を隠す者達、凶悪犯

罪者や、『ユリウス帝国』の政策に反対する、テロ、ゲリラ、レジスタンス達の絶好の隠れ家で

もある。彼らはここを本拠地にし、他の場所ではできない犯罪行為の準備を、容易に行う事が

できた。

 そして、その17区を流れる川、といってもコンクリートで固められたドブ川だが、その水の音

だけがわずかに聞こえる、川沿いの古い建物の中。そこに、レイはいた。

 

 

 

 何十年も前に立てられた建物。煉瓦作りの外壁と挨まみれの窓は、周囲の建物と全く同じ

だ。内部や外部の状態も同じく、むき出しになった鉄骨や床下、そして天井の照明には蜘蛛の

巣が張っていた。

 だがそんな建物の内部で、レイはとても不釣り合いな服装をしていた。その辺りの路地にうろ

つく者達とは違って、酒落たデザインの青色の上着を着ており、育ちの良さそうな顔は綺麗な

ままだった。この17区の住人とはとても思えない、1区の官僚街でも十分に通用するほどだ。

 しかし、実際は彼も17区の住人だった。正式に認められているわけではないが、彼もれっき

とした住人。荒廃したこのエリアで生活をしている。

 レイは若い、まだ23歳だ。それでも、『ユリウス帝国』の政策に反対する組織、『フューネラ

ル』のリーダーである。組織自体はそれほど大きい規模を持たないもので、メンバーは10人た

らず。彼はそれを指揮していた。

 『ユリウス帝国』側は近年、テロ、レジスタンス組織の対する取り締りを強化してきた。しかし、

『フューネラル』はその中でも生き残り、今だに活動を続けられている組織だった。大きい規模

ではないとはいえ、それだけ『フューネラル』は優秀、そして何よりも、冷静かつ慎重な組織だっ

た。

 他のテロ組織と違い、レイの組織は非暴力をモットーにしている。暴力を行使する事で、半分

ファシスト主義の『ユリウス帝国』(と、彼らは思っている)と同じ事をしてしまうと考え、その主義

を守り通していた。さらに闇雲に暴力的な行為に走りすぎ、目立ち過ぎると、組織自体を危険

にさらしてしまう可能性もあった。

 だから彼らは、頭脳勝負を『ユリウス帝国』に仕掛けている。情報技術能力により対立してい

た。全ての目的は、『ユリウス帝国』の悪事に関する決定的な証拠を、情報技術により盗み出

す事が目的だった。そして『フューネラル』にはその道のプロフェッショナル、天才的ハッカー達

が集結している。

 その優秀ぶりもあって、今までもレイ達の正体が『ユリウス帝国』にバレる事はなかった。だ

からこそ彼らは活動を続ける事ができていた。

 ところが2日前、事態は急変した。

 『フューネラル』のメンバーで、レイの3歳ほど歳上ながら、彼と大親友と言われる男、ビルが

ある情報を入手したと言い出した。彼は入手した情報をディスクに記録したと言い、それをレイ

に託した。

 何の情報が記録されているかは、レイにも分からなかった。ディスクに記録されている情報は

全て意味不明な暗号で現され、その文字の羅列は膨大な情報量に及ぶ。解読には時間を要

するが、最初の見出しの部分だけは、『ユリウス帝国最高機密文書 RM』と書かれている事が

判明していた。レイ達が、最も興味をそそわれるタイトルだった。

 ビルがどのようにしてそれを入手したのかは分からない。ただ最も重要なのは、彼が重大な

ミスを犯してしまったという事だ。

 彼は実に頭脳明蜥、とても頭が良かった。知能指数が常人の二倍を上回ると本人は言って

いたが、おそらく嘘ではないだろう。彼は特にコンピュータのハッキング技術に長けていた。『フ

ューネラル』にはうってつけの人材というわけだ。

 だが、彼の唯一の弱点はあまりに不用心すぎる所にあった。

 盗聴防止装置を作動させずに電話で重要な会話をしたり、バックアップシステムを作動させ

ずにハッキングしようとした時もあった。『フューネラル』の中では一番不用心な人間だろう。

 2日前もそうだった。下準備をしっかりとし、『ユリウス帝国』の機密に侵入し、情報を入手した

までは良かった。だがそれをレイに託した後、どこかに遊びに出かけてしまったのだけは愚か

な行為だった。いくら入念に下準備をし、ハッキングした事がバレないようにしたところで、入り

込んだのは『ユリウス帝国』の最高機密。その中の情報は一国の存続さえ危うくする(少なくとも

『フューネラル』のメンバーはそう考えている)という代物だ。それ故だろう、それを盗み出したビ

ルはそれ以来、行方不明になっている。

 レイ達は彼を探そうとしたが、ビルは見つかる事はなく、2日が経過する。何者か分からない

人物からの電話が、レイの携帯電話にかかってきたのは、ほんの一時間前の出来事だった。

「すぐに62番通り3106番地に来い、例の文書を持ってだ」

 電語はそれで切れた。

 最初は戸惑った。『ユリウス帝国』の張った罠かもしれない。だが、もしかしたらビルに関する

取引かもしれない、彼は親友だ。

 彼は3106番地に向かった。仲間には何も言わず、こっそりと『フューネラル』のアジトを抜け

出した。もし罠だったとして、仲間を巻き添えにするのはレイにとってはできない事だった。

 まだ誰も顔を見せていない。指定された住所の建物にいるのはレイだけだ。もしかしたら罠

かもしれないと思うと、少し息が荒くなる。思わず、ズボンのベルトに掛けた、青色の上着の影

に隠している短針銃に手を伸ばしたくなる。

 何者かがここに来る。しかし、もう30分も誰も姿を現さない。

 機密文書が保存されているディスクは、上着の内ポケットの中に入っている。これは意味の

取り方によっては、『ユリウス帝国』の命であり、ビルの命でもある。だが、レイは後者の方を優

先したい。

 とはいえ、そんな事でよくアナキストが勤まるものだ。自分の手には最大の武器が握られてい

るのかもしれない。ビルには悪いかもしれないが、これを使えば、秘密にされている『ユリウス

帝国』の悪事を暴く事ができるのかもしれない。だが。

 レイがそう考えた時だった。彼は、自分の前に誰かが立っているのに気が付いた。いつの間

に来たのか。レイが思考に耽った、ほんの数秒の間だった。

 彼の前にいる人間は、ちょうど影に隠れており、その顔を見る事はできなかった。ただ、わず

かに見える体から、身長が高く、頑丈な体つきをした男だという事だけは分かる。そして青い

『帝国軍』の軍服を着ているようだ。軍人という事らしい。もし取っ組み合いにでもなったら、間

違いなくレイは負けるだろう。しかし、彼は短針銃を隠し持っている。「待たせてくれたな」

 影に隠れていみ男の顔を見ながら、レイは喋り出す。

「私の仕事は忙しいのだ。そう急がされても困る」

 男の声は、実に低く、とても貫禄のある図太い声だった。それから察するに中年の男である

らしい。しかも、軍の中でもそれなりの階級に就いているように思われる。

「汚い仕事をしているくせによく言う」

 レイは少し声を荒立てた。

「フン、随分な挨拶だな。しかし、君達の仲間を預かっている事ぐらいは、よく分かっているんだ

ろう?」

 男がそう言うと、レイは自分の上着の内ポケットからディスクを取り出して、それを相手に見

せつけた。

「このディスクに入っているのは、あんたらの悪事を暴露できるもの。今囚われているはずの

我々の友人が盗み出したものだ」

 相手がどう出るか、レイは少し待つ。すると男は、

「それは全部暗号化されているはずだ。解読には時間がかかるぞ。そんなもので、我が国の

機密を暴露できるのか?」

「所詮は暗号だ。意味がある。コンピュータで解析すれば簡単に解読できるだろう」

 少し自信ありげに言ってみせるレイ。

「解読してどうしようと言うのだ? マスコミにでもバラすのか?」

「そうだろうな?」

「だが、君達にはできまい。何しろ、仲間が我々の手中にあるのだからな、バラしたりしたら大

変な事になる。それに、その文書だけで全てが公開できるわけでもない」

「そんな事より、ここに呼び出した理由を聞きたい」

 レイは本題に急ぐ。周りが気になった。

「その文書を持ってこさせたと言う事は…、もう分かるだろう?」

「取引…、か。そうなんだろう?」

 目の前の男はうなずいて答える。

「君たちの仲間と、その機密文書が入ったディスク…、と言うと思っているのだろう?」

 相手の言葉に反応したレイは相手を凝視し、

「じゃあ何だ?」

 目の前にいる男の顔は、影に隠れていてレイに見る事はできない。しかし、なぜか男は

 笑っているように思えた。

「安い物ではない」

「何だと聞いている!」

 レイは再び声を荒立てた。今度は、近所に響くくらいの声で。

「まあ、焦る事はない。それに関しては後日連絡を入れよう。今日と同じようにな」

「取引内容を教えてくれなければ、取引はできない」

 拳を握り締める。全身が緊張しているのがレイには感じられた。

「それは確かにそうだな。だが、私は君達の仲間が我々の手中にあると言いに来ただけだ。で

は、そのディスクは君達に預けておこう。それで納得か?」

「何!?」

「そのディスクと君の仲間に関する取引まで、そのディスクを預けておく、と私は言いたいのだ」

 そこで男はレイに背を向け、建物の外に出ていこうと歩きだした。

「待て、どういうつもりだ?」

 男は足を止め、

「言った通りさ」

「いいか、もし俺達の仲間に何かしてみろ、全てを公開してやる!」

 男は背を向けたままだ。しかし、また笑っているようにレイには思えた。その雰囲気が伝わっ

て来る。

「そんな事をしてみろ。自分を危険にさらす事になるぞ」

 そう言うと男はそのまま歩き出し、建物の外に出ていった。後にはレイだけが取り残され、彼

はしばらくそのまま立っていた。そして肩の力が抜けないまま、手に持っていたディスクを、大

事そうに上着の内ポケットの中にしまった。

 

エドモンセクター NK

11月16日

4:23 P.M.

 

 

 『NK』は『ユリウス帝国』よりも北、大洋を数1000キロ隔てた海上にある島国だ。国土面積

は『ユリウス帝国』に比べると遥かに狭いが、人口は同じぐらいであるため、人口密度は非常

に高い。周囲10キロほどの小さな島々が橋で結ばれ、その一つ一つが、整然された、天井部

が半球型や曲型という、独特の建物で出来上がった大都市になっている。

 その開放的で、言わば近未来的な街並みが示すように、『NK』は戦後の高度経済成長の波

に乗れた国の一つだ。安定した政治政策により、深刻な不景気というものが到来せず、諸外

国に対する外交も上々。大戦以後は戦争も紛争も起こらず、『NK』の国民は、世界の中でも高

水準の生活を送る事ができている。

 とは言えそれは、国を豊かにしようと言う理念を持ち、活躍する者達があっての事だが。

 

 

 

「なあ、言っちゃえよ。お前は誰が好みなんだ?」

『NK』の街中、とある交差点に建つビルの一階にある、レトロな造りのカフェ。そこの窓際にあ

る4人掛けテーブルの席に、2人の男が座っていた。

 2人とも頑丈な体つきをしている男だった。一人は頭に青い色のバンダナをしており、白いラ

ンニングシャツを着ている。彼の横にはサーフボードぐらいの大きさの、何かを入れるための

青いバッグが置かれていた。もう一人の男は短い金髪で、その髪の毛を逆立て、顔の頬の部

分に目立つ切り傷がある。彼はTシャツの上に上着を羽織っていた。

 2人とも無精髭を生やしており、露出の高い服からはみ出た筋肉がたくましい。両者ともこの

『NK』の人間だ。

「…言えない」

 バンダナの方の男は、その体躯に合わず、自信のなさそうな口調で答えた。

「頑固な野郎だな。本人には言わねえからよ、おとなしく答えなって」

 金髪の方の男はニヤニヤしながらしつこく迫る。彼の前のテーブルには、食べかけのチョコ

レートパフェが置いてあった。とても大きなパフェだ。

「沙恵かな…」

 少し驚いた様子で金髪の男は、

「何ィ! 駄目だ駄目。あの女はオレのモンだ」

 と言って、チョコレートパフェにスプーンを差し込み、それを食べ始める。

「いつから決まったんだよ」

「あん? ずっと前からだ。沙恵はオレにゾッコンなんだぜ」

 パフェを食べながら金髪の男は答えた。

「また見栄張りか…」

 バンダナの男は、自分の前に置かれていたジュースのコップを手に取り、聞こえるか聞こえ

ないかというくらいの声で言う。

「本当だってばよ。まあ、お前が沙恵に興味があるなんて知らなかったぜ。てっきり野原先輩だ

と思っていたが…」

「あの人? あの人、怖い。好きになれそうにないね、とても」

「だよなあ、あの先輩はどうせ隆文のモンだろうし。他にはフリーな女はいないもんな、残念だ

ったな」

 バンダナの男はジュースを飲みながら、

「そっちが聞いてきといて、勝手に判断しないでくれ」

 と言った。

「しかし、今からでも遅くはないぜ」

「まだ何か?」

 うっとうしそうなバンダナの男。

「一緒に仕事するチャンスを狙って、いいとこ見せてやるんだ。かっこいい姿ってやつを見れ

ば、誰でもお前を振り向くぜ」

「はいはい」

 バンダナの男はボソボソ声で答えた。

「ところでよ…」

「もう女の話はやめてくれ」

「いや違う違う、別の話」

「何だよ?」

 金髪の男は、その髪の毛を掻きながら話し始める。

「いやね、新しいコンピュータゲームのソフト買ったんだ。今日の夜、うちに来てやらないか? 

良かったら沙恵も呼んでやるぜ」

「冗談だろ?」

 あきれたようにバンダナの男は答える。

「わあーったよ。でも来るんだろ?」

「駄目だ」

「何で?」

「呼ばれてんだよ、今日の夕方」

 金髪の男は再びニヤニヤしながら、

「ああ、恋人にか?」

「違う。原長官にだよ、緊急の用事だって言ってさ」

「なんだ、お仕事か…、残念だな」

 金髪の男は、上着の胸ポケットから煙草を取り出し、それに火を点けて吸い始めた。

「どんな仕事だって?」

 金髪の男は尋ねる。

「まだ聞いていない。でも緊急だってから、かなり重要な事なんだろう」

 2人は窓の外から表に見える通りを眺めた。そこを行き交う人々は傘をさしている、小雨が

降っているようだ。

「雨だ。どうせだったら、オレの車で防衛庁まで送ってってやるぜ」

 煙草の煙を吐きながら金髪の男は言う。

「いや、遠慮しとくよ」

「遠慮すんなよ」、

 バンダナの男は席から立上がり、隣に置いてあった大きなバッグを手に持つ。

「また、女の話ばっかりされるのは嫌だ」

 そう言い残して、彼はカフェから、小雨の降る大都市の通りへと出て行くのだった。

 残された金髪の昇は、煙草の煙に包まれながら、

「はいはい、分かったよ。それよりも、金ぐらいは払ってから行け」

 と、不平を込めた独り言をボヤいていた。

 

 

 

防衛庁本部

メルセデスセクター

5:38 P.M.

 

 

 

 原防衛庁長官は、昨日とは違う高級なスーツに身を包んで赤いネクタイを締め、豪華な椅子

に座りながら、長官室の床にまで達する大きな窓から、『NK』の街並みを厳かなまなざしで眺

めていた。

 経済成長や開発の熱も冷めてきて、ただ平和な時が過ぎていく都市。この国の人間は平和

ボケだなどといわれるその国を、平和で安泰なままにしておく事が、彼の役目であり任務だっ

た。

 人々は、戦争や紛争は遠い所で起こっているものと思い込んでいる。もし、そう言えば、そん

な事は無いと民衆に反論されるだろうが、皆、本心はそうだろう。しかし、実際は違う。迫ってい

る危険を避け、防ごうと、原長官が裏の活動をさせている事を、民衆は誰も、何も知らなかっ

た。

 その為には、自国の法律はおろか、国際法さえも犯かし、隠し通さなければならない。しか

し、だからこそ平和な『NK』があるのだ。

「長官、井原さんがお見えになりましたが…」

 原長官のデスクの上のインターホンから、彼の女秘書が事を告げる。長官は窓の外を眺め

たまま、

「通してやってくれ」

 低い声でそう言った。

 直後、長官室の扉が開き、入って来たのは、サーフボードくらいの大きさのバッグを持った、

屈強な体つきの、青いバンダナをした男だった。彼は、大きな体を扉の中にくぐらせて入って来

て、後ろ手に扉を閉める。

「やあ一博、よく来てくれた。せっかくの休暇の所を悪かったな」

「いえいえ」

 一博、と呼ばれた男は、体の大きさに似合わず、少し自信のなさそうな、緊張した口調で答え

た。

「電話では何も話さなかったが、新しい任務が君に課せられる事になった。緊急な事態なので

な」

 原長官は椅子から立ち上がる。

「どんな任務ですか…?」

「それだ」

 と言って、長官は自分のデスクの机の上に置いてある、ホッチキスでとめられた、分厚い紙

の書類を指差した。

 一博は、手に持った大きな袋を絨毯の敷かれた床に置く。ずっしりと置かれたその袋は、中

に重くて大きな物が入っているようだった。

 彼は原長官の机から、その書類を大きな手に取って見た。

「《帝国首都》の《セントラルタワービル》における、不穏な動き及び活動の調査。…ですか?」

 書類から目を離して、一博は原長官に問う。

「いや、それが任務の内容ではない。それは一昨日、太一と香奈に与えた任務の書類だ。2人

はおそらく書類をシュレッダーにかけて処分しただろうが、私の所には保管用に同じ物を残し

ておいた」

 彼にそう言われ、一博は再び書類に目を落とす。

「太一に?」

 少し驚いたような一博。

「そう、それと香奈にもだ。2人が昨日からその任務に就いている事は?」

 一博は首を横に振り、

「いえ、知りませんでした」

「そうだろうな。知っていたのは我々3人だけ…、のはずだったからな」

 原長官は最後の部分を、少し強い口調で喋った。

「3人はその任務に就く事になり、昨日、偽造旅券を便って『ユリウス帝国』に入国し、《セントラ

ルタワービル》に向かった…」

 真面目な表情で、一博は長官の話を聞く。

「予定では、そのままその書類に書いてある内容の調査を行う予定だった。しかし、完壁に極

秘だったその情報が、どうやら『ユリウス帝国』側に漏れてしまったらしいのだ。こともあろうに」

 原長官は少し間を置く。

「今朝の新聞かニュースは見たか?」

「ええ、見ましたけど…、…まさか?」

 少し息を吐き出す原長官。

「そのまさかだ。《帝国首都》1区に潜入した2人は、待ち構えていた『帝国軍』に襲撃され、君

達の得意分野である事をせざるを得なくなった。ニュースではテロ事件扱いになっているが、あ

れは全て太一と香奈の仕業だ」

「それで…、どうなったんです? 2人は?」

 一博は少し慌てる。

「安心していい、『ユリウス帝国』側もまだ2人を探している。逮捕したとかいう情報は入ってい

ない。しかし、それも時間の問題と言うところだ。ニュースを見ているなら、分かるだろう?」

 唾を飲み込む一博。彼は一呼吸置いて質問に移る。

「おれの任務というのは?」

「2人を救出して、無事この国に帰還させる事だ。君の実力ならば可能だろう、ただしだ…」

「何です?」

 一博が言うと、原長官は彼の持つ書類を指で差す。

「2つほど追加の任務があるんだ。1つはそれに書いてある事、太一と香奈の任務の続行を手

助けして欲しい」

 そう言われた一博は、手に持つ書類に再び目を落とす。そこには細かい字がたくさん並んで

あった。

「私の本心としては2人が無事に帰還してくる事が、最大にして最良の望みなのだがな…。と言

ってもその任務はとても重要なのだ。太一と香奈には言わなかったが、実に重要なのだ」

「どのくらい重要なんですか?」

「そうだな…。今まで君達に与えてきた任務の中でもトップクラスとだけ言っておこう」

 原長官は穏やかな口調で言ったが、一博は黙り込んでしまった。そして2人の間に数秒間だ

け沈黙が流れた。

「出発は明日の朝の一番早い便でだ。私にしても、太一と香奈が《帝国首都》のどこに身を隠し

ているのかすら、分かっていない事は断っておく」

「…、えっと、さっき追加の任務は2つとおっしゃいましたが…」

「そうだったな。しかし、それは今ここで話せる事ではない。だから…」

 長官はそこで、少し何かを考えた様子だった。

「だから、今日の夜にでも電話を入れよう。いいね?」

「はい」

「では、この書類は保管用だから私が預かっておこう。航空便のチケットはちゃんと予約してお

くから安心しておいてくれ。それと、今『ユリウス帝国』国内は厳戒態勢が敷かれていて、外国

人はうかつに入国できない。いつものように外交ビザも発行する。テロリストなどと間違われな

いようにな。あとは早く帰って、明日からのために休んでおく事だ。それが一番いい」

「分かりました」

 一博はそう言い、自分の大きなバッグを手に取ると、そのまま長官室から外に出ていった。

後に残された原長官は、豪華な椅子に身を埋め、一博が机に上に残していった書類に目をや

ると、深いため息をついた。

 だが、ハッとしたように書類から目を上げると、再び防衛庁長官の忙しい仕事に戻ろうとする

のだった。

 

エドモンセクター

7:24 P.M.

 

 

 

 一博は『NK』の街並みを、自宅の方向に向かって歩いていた。曲線型の建物の間を走る通り

は人の波こそ絶えず、車線の多い道路を車が何台も行き交っているが、それほどの過密さを

感じさせない。並木のある歩道の道幅は十分なほど広いし、交通規制と、念入りな都市計画に

よって出来上がった道路網は、滅多な事では渋滞など起こらないからだ。

 『NK』は、その大地を含み、完全に人間の手が作り出した大都市である。しかも、比較的新し

い都市であり、世界中のどこよりも、清潔で整然としている。美観の面からすれば素晴らしかっ

た。

 一博の歩いている通りは、防衛庁本部や、国会議事堂などのある『NK』の中心をなす区域、

《メルセデスセクター》から3キロほど離れた場所だ。ここは繁華街の区域、《エドモンセクター》

にあり、『NK』の中心部から少し離れた場所に行くのに便利な通りである。休日ならばもっと賑

やかだっただろう。

 彼は自分の住むマンションヘと向かっている。今いる所からは、徒歩だとまだ距離がある。高

層マンションの22階、2LDKの部屋に彼は住んでいた。そこが安息の場だ。原長官に言われ

た通り、明日からの任務に備えて今日はゆっくりと休む必要がある。『ユリウス帝国』行きの航

空便は、とても早い時刻に出ると長官は言っていた。

 太一と香奈が昨日から任務に就いていたという事は、一博自身、何も知らなかった。同じ組

織内でも、お互いの顔さえも知らないという組織もある。しかし、『SVO』はそうではない。場合

によっては組織内で、色々な組み合わせの2人か3人程度での行動をする事があり、よって、

一博も、太一や香奈とは友人同士のようなものだ。

 二人からは何も聞かされなかったが、『SVO』が扱うようなデリケートな諜報活動では、仲間

からすらも情報が漏れる危険性がある。任務内容は、仲間にさえ秘密と言う任務も珍しくはな

い。しかし、その任務の為に仲間が危機に瀕しているとなれば、話は違った。

 一博は太一の事を仕事仲間というよりも、むしろ友人として見ている。彼は太一と同い年で、

仲間内で食事をするような事もある。太一は一博に対しても無口だったが、一博は彼の事を友

好的に思っていたし、適格な判断力には一目を置き、尊敬をしていた。

 一方の香奈の方だが、一博は異性と話すのが苦手だったので、あまり親しいというわけでも

ない。香奈の方は友好的に話してきたりするのだが、一博は得意ではなかった。

 一博の足は、大通りから一つ曲がった狭い裏通りに入った。サーフボード程の大きさの青い

バッグは、巨大な体のたくましい腕に持たれている。シャツから露出した腕の筋肉の緊張のし

かたからも、それが相当の重さがある事が見て取れる。

 大通りに比べると、裏通りは人通りが少なく静かであった。5、6階建ての高さの建物に囲ま

れた狭い通りは、昼間に降った雨で路面が濡れており、建物から漏れる光を反射させて輝く。

 この狭い通りは、表通りとは雰囲気が大きく異なる。いかがわしい雰囲気と、薄暗い通り。表

通りこそ美観にあふれる姿だが、裏通りは違った。『NK』の路上で犯罪行為が行われるのな

ら、それは裏通りで起こる。

 この、美しい絵を虫眼鏡で見た時に細かいあらが見つかったかのような狭い通りは、一博の

住むアパートヘの近道であったが、体つきが頑丈な一博ならばまだしも、か弱い女性が不用意

に、しかも夜に歩くような道ではない。

 狭い道を通って一博は右に曲がった。少し開けた路地に出る。開けたといっても、雰囲気は

変わらない。表通りからの光が余計に届かなくなっている分、その不気味さが増している。

 一博はこの辺りで、以前ごろつきにからまれた事があった。相手は何人もいて凶器を持って

いたが、武装した軍隊とも対等に戦える実力があった故、怪我を負わされるような事もなく、彼

が一方的に打ち倒してしまった。

 そして、その時同様今夜も、裏通りを歩く一博の前に、5人の男達が立ち塞がった。建

 物の影、5箇所から突然姿を現して、まるで計画されていたかのように一博を取り囲んだの

だった。

 全員、目付きが危険だった。服装も浮浪者同然で、まるでボロ布を着ているかのよう。酒の

入っているように足取りはおぼつかず、風呂に入っていないらしい顔はとても汚い。おかげで

年寄りのようにも、若者のようにも見えた。

「何だ? 何か用事でも?」

 5人のごろつきを前にし、一博は涼しい口調で喋る。原長官と話していた時の方が、遥かに

緊張していた。

「ああ、そうだともよお」

 ごろつきの一人が、汚い顔の中にある、震える口から声を出す。目の焦点が正確に合ってい

なかった。

「へえ、でもおれは金持ちじゃあないし、ドラッグなんて、イカれた奴の使う物なんか、持ち合わ

せちゃあいないぜ」

 一博は自身満々だった。

「ごちゃごちゃうるせえ、てめえのその顔がむかつく、だけなんだよお」

 そう言ったそのごろつきは、凶器を懐から取り出す。他の者も同様にして、ある者は小形の

ナイフを、ある者は鉄パイプを取り出した。どれも汚く錆びており、手入れはしていないようだ。

「今日はゆっくり休みたいんだ。喧嘩がしたいんだったら、他を当たってくれ。おれはごめんだ」

 と言いながらも一博は、5人のごろつき達に向かって身構える。大きなバッグはしっかりと持

ったままだ。

「うるせええ!」

 5人の男達が一斉に飛び掛かった。汚い顔を狂気にゆがませ、ただ武器を激しく振り回し、

一博に襲いかかろうとする。

「やれやれ」

 一博は呟き、青いバッグを持つ手の力を強めた。そして、少しだけ息を吐き出して呼吸を整

えると、バッグの中に入ったままの何かを、正面に向けて構えた。

 前にいる男が、錆び付いた鉄パイプを一博に向け振り下ろしてくる。しかし一博はその弾を、

袋の中に入った何かを降り下ろして弾いた。袋の中に入っているものは相当に硬く、逆に相手

の鉄パイプを折ってしまった。

 続いて来たのは左横からのナイフだった。錆びて今にも折れそうなナイフだったが、凶器は

凶器だ、斬りつけられれば怪我になる。

 とはいえ一博は、いともたやすく、バッグの中に入ったものを使い、寸分の時間もかけずに、

流れるような動きで、ナイフで突いてこようとする男のみぞおちを一突きした。

 鈍い痛みが流れた事だろう。彼はその場に倒れる。

 そして、一博はそのまま青い袋に入れたままの何かを、スイングするように振り回し、残った

男達に攻撃を与える。遠心力により破壊力が増大し、大きなハンマーのごとく、彼の周囲を取

り囲むごろつき達全員の体に、激しい衝撃を加えた。

 彼らは一気に吹き飛ばされ、倒されるしかなかった。

 一博は、バッグをスイングした状態から、その体勢を元に戻し、体をリラックスさせ、ため息を

ついた。

「なるほどぉ、街のごろつきなんて、ただの雑魚ってわけかぁ」

 突然、裏通りに聞こえる男の声。一博はそれに反応して辺りを見回すが、その声の持ち主ら

しき人間はいない。

「どこ見てんだぁ? こっちだぜ」

 一博は声の聞こえた自分の後ろを振り返る。そこには夜の闇に上半身が半分隠れて、一人

の男が立っていた。今見た時は、誰もいなかったはずだ。辺りが暗かったとはいえ、一博はし

っかりと見ていたはずだ。

「誰だッ?」

 一博の声に警戒がこもった。

「お前の敵だぜ」

 そう言う男の声は、実に人を挑発するようなものだった。彼は声からして若い男のようだが、

語調が伸びていて、笑いながら喋っているようにも思えた。

「ずいぶん簡単に言ってくれるな」

 男の声に比べると、一博のものは緊張している。

「悪いかぁ? オレはお前の為を思って、敵だって教えてやったんだ」

「よく言う」

 一博は讐戒していた。さっきのようなごろつき相手ならば、恐れる必要は何もない。しかし、こ

の男は何かが違っていた。人を挑発し、噺笑うような態度の中に、何か異様なところがある。

体が半分暗闇に隠れていて、顔が見えないとはいえ、それはどんな人間にもよく分かる感じの

ものだ。

「オレの名前はなあ、ブルーってんだ」

 そう言いながら男は近付いてくる。青い色のズボンから、緑色のフードが付いた、スーツのよ

うな、そうでないような服が見えて来て、さらに同じ色に染め上げた髪、焦点が合っていない挑

発的な目が見えてくるまで、一博は黙って見ていた。

 相手は特に目付きが悪かった。一博を見ていないようだ。それは目を合わせて話す事ができ

ない小心者というわけではなく、相手を見下しているからこそ、そのような態度をとっているか

のようだった。そして、とても崩した着こなし方で服を着こなし、顔には、口と鼻と耳に大きなピ

アスを開けた上、青い色の髪。とても普通の人間とは思えない。

 さらにそんな服装の中でも一番不思議なのは、とても分厚そうな深緑色の手袋をしているとこ

ろだ。『NK』は寒い国ではない。むしろその逆といっていい。なのにこの男は手袋をしている。

 そして、『ユリウス帝国』の人間であるようだ。瞳の色が青で、背が高い。180センチほどは

あり、肌の色は白かった。しかし、このブルーと名乗る男の喋る言葉は、完全な『NK』の言葉で

ある。とても外国人とは思えない。少しも訛る事無く、しかも喋り方で挑発する事まで心得てい

る。

「まあ、ナリから見りゃあ分かんだろうが、俺は『帝国軍』のモンだ。『レッド部隊』っつう、あんま

人に知られていない部隊のな」

 そのブルーの言葉に、一博は少し驚かされた様子で、

「なんでだ? なぜ『ユリウス帝国』の人間がおれの所に来るんだ?」

 ブルーは何も態度を変えず、

「別に何もやましい事はしていないのに、って言いてえのか? そいつあよお、どうかなぁ? オ

レはお前が、今日早く家に帰って休みたい気分だろうって事も知ってんだ」

「それは、さっきおれが言った」

「じゃあ、こう言えばいいか? お前が早く休みたい理由はなぁ、明日の朝っぱらから任務があ

っからだろう、防衛庁の原長官直々のなぁ」

 一博は再び緊張した表情になる。

「どんな任務かも知っているのか? お前…」

「ああ…よく知ってるぜ。昨日うちの国に入り込んだタイチだとかいう奴と、カナとかいう女を助

け出す。他にもあったなあ、たしか…、一昨日その2人に与えられた任務を手助けするって事

に、残りの一つは今日の夜に電話が行くとか言っていたなあ、だからそれは俺にも分からね

え」

 ブルーは自信満々に言った。

「まるで、あの場にいたくらいに知ってやがる…」

「盗聴さ」

 一博はブルーを凝視し、

「そんなはずはない。あの長官の部屋には、完全な盗聴防止装置が設置されているんだ。盗

聴などできるはずがない」

「そいつあどうかなあ? てめえらは自分達の能力を過信しているようだぜ。盗聴防止装置に

完全なんてものは、存在しねえんだ。そっちが防御を完壁にしようとすんなら、こっちの攻撃だ

って、それを上回ろうとするモンでな。でなかったら、とっくの昔に盗聴なんてものは出来なくな

ってる」

 だんだんと、自分の大きなバッグを持つ手が緊張してきている事を、一博は自覚していた。そ

の青いバッグからは、ごろつき達の赤い血が、特殊繊維に弾かれて滴っている。

「おれ達の事は、何もかもお見通しだったってわけか…」

「まあ、そう言うわけだな」

 そして思い空気が流れる。二人は少しの間沈黙し、一博は腕と肩の力が抜けなかった。

 一方のブルーはリラックスしているらしい。だが、先に口を開いたのは一博の方だった。

「それで、何でおれの所に来たんだ?」

「分からないか? てめえの任務内容をオレらの軍は知ってんだぜ、それで、また昨日みたい

にてめえらに派手にやられちゃあ困るから…」

 ブルーはそこで言葉を切り、彼の腰の辺りに吊されていた棒状の物を取り出して、それを左

手に持った。それは50センチぐらいの長さのある、軽く握れる太さの、青い色をした棒だった。

彼は緑色の分厚い手袋の上からそれを握る。握られたその棒からは白い蒸気が上がってい

た。

「たまたまこっちに来ていたオレが、始末してこいって言われたのさ」

 今まで合っていなかったブルーの目の焦点が、突然一博に対して向けられる。自信満々の

目付きだった。

「やるって事か?」

 一博は身構え、青いバッグを持つ手の力がさらに強まった。

「そうよ」

 白い蒸気の出る棒を振り、ブルーが突進して来る。勢いよく、道路の水溜まりから水玉を弾

かせ、何の迷いも無い様子で迫ってきた。そして彼は一博の側まで来ると、ジャンプをし、一気

にその棒を振り下ろそうとする。

 しかし、それは阻まれた。一博は青いバッグの中身を素早く取り出す。それは瞬時に取り出

せるようになっていた。

 彼は、彼自身の身長ほどもある、幅広の片刃の剣を取り出していた。ナイフを巨大にしたよう

な形で、柄などの部分がボルトやナットで繋ぎ止められているその姿はとても重厚だ。

 相当な重さがあるであろうその剣を、一博はたくましい両腕で持ち、ブルーの棒による攻撃を

防御した。

 ブルーは一博のその剣を見て、

「へえー、なかなか面白れぇ物持ってんじゃん」

 と、『ユリウス帝国』の言葉で言っていた。

「『帝国軍』の人間と分かった以上、本気で戦わせてもらう。さっきのイカれた連中みたいに手

加減はしない」

 剣でブルーの棒を防御した状態のまま、一博は強い口調で言う。彼の眼は鋭く相手の眼へと

向けられていた。

「だからその馬鹿でかい剣で叩っ斬るってのか? 怖いねえ。だけどよぉ、持っているブツがデ

カけりゃあいいってもんじゃあ、ないんだぜ」

 ブルーは依然として口調が変わらない。人を挑発するような態度のままだ。そして表情は自

信満々、巨大な剣の刃を目の前にしても、まるで動じる様子はない。

 そして一博は異変に気がついていた。ブルーの攻撃を自分の剣で防ぐ事はできたが、とても

奇妙な事態になっている。それに気付くと一博は呼吸が荒くなり、剣を持つ手に必要以上の力

が入ってしまった。

「気付いたか? ただ棒で殴るだけじゃあねえんだぜ」

 ブルーは優越している。だがそれも一博には納得できた。

 一博の巨大な剣は、ブルーの棒によって完全に固定されていた。良く見れば、溶接でもした

かのように、剣と棒との接触部がくっついており、むしろ融合しているといってもいいようだっ

た。だがそれは、決して棒が溶け出してくっついているわけではない。

 ブルーの棒はとても冷たいのだ。その事は、彼に接近してみて一博には良く分かった。自分

の体に、ひんやりとした冷気が漂ってきている。間違いなくそれは、相手の武器から発せられ

ていた。

 マイナス数℃ などというものではない、剣が一瞬にして張り付いてしまった事から、マイナス1

00℃くらいには達しているだろう。白い蒸気が吐き出されているのはそのためだ。そして、ブ

ルーはそれを握っている手を、分厚い手袋で冷気から守らなければならないのだ。

 しかし、ブルーのような細身の男が、いくらそのような武器を持っていようとも、一博の巨大な

剣を固定してしまうのは異常だった。棒は、一博がいくらカを入れても剥がれる様子はなく、さ

らに一センチたりとも剣を動かす事もできない。

「どうだ? 理解できたかデカブツさんよぉ。ブツがでかくたって、かさばっちまうだけだってな

ぁ」

 一博は歯ぎしりをし、無理矢理に剣を棒から引き剥がそうとする。しかし、反応は無い。ブル

ー程度の体格の男ならば、軽く持ち上がってしまいそうな力を込めたが、彼は寸分たりとも動く

様子がない。しかも相手は、一博の剣に張り付けた棒を、片腕だけで支えてしまっている。

「そしてぇ!」

 ブルーの左足による足蹴りが、一博の右足の太腿辺りに入る。見事なローキックだ。上手い

具合に左脚がめり込み、鋭い痛みを一博は感じた。

「まだ終わりじゃあねえぜ」

 そのブルーの言葉に反応し、少しだけ痛みに歪んだ顔を元に戻すと、一博は再び寒々しい

冷気を感じた。相手の持つ武器の放っている冷気とは違う、また別のものだった。それはブル

ーの方に向かって動いている。

「ほれほれ、どうなっても知らねえぜ」

 一博が感じた冷気は、ブルーの棒を持っていない右手に集結していく。それが続くにつれ、彼

の、手袋がされた右手の周りには、青白い気体のようなものが浮かび始める。

 そしてその大きさが直径30センチほどにもなると、ブルーは、その右手の平を身動きができ

ない一博の方向に向けた。同時に、青白く集結した気体はブルーの手から放たれ、一博に向

かって直進する。

 一博はうなり、続いて来るであろう衝撃に備えようとする。

 左肩に走る衝撃。今までに感じたこともないくらいに冷たい感覚と、肩を一気に押し潰すくら

いの圧力を彼は感じた。プルーから放たれた冷気は、直径50センチほどの氷塊を一博の左

肩で作り出し、それは彼の肩の感覚を失わせるほどの圧力で締め上げる。

「思い知ったかぁ?」

 ブルーが自身満々に言う、一博は痛そうな顔をしたが、

「そいつはどうかな…」

 と強がり、まだまだ大丈夫だという表情に変えた。

「おう、そうかい。だがよぉ、後で泣き言を言われちゃあ困るからなぁ」

 そう相手を挑発しつつも、ブルーの右手には再び次の冷気が集結し始めていた。さっきと同

じく、寒々しい冷気を一博は感じる。

「連射ってわけかい」

 冷静さを装う一博。

「そういう事さ」

 さらにブルーから放たれた冷気は、一博の左脚に氷塊を作り上げる。剣を固定されたままの

一博は、なす術もなくそれを許してしまった。冷たく、締め上げられた脚。彼はその場に尻餅を

つきそうになるが、それをこらえている。

「武器を手放さない限りは、どうしようもないって事だ。それともその脚じゃあもう無理かぁ?」

 しかし一博は、焦る様子も、緊張した様子も見せず、

「いや、もっといい方法があるぜ」

 淡々とした口調で言った。

 ブルーは、自信に満ちた顔を少しだけ変化させると、その口を開き、

「何言ってやがる」

 そして彼は、彼の手や武器から放たれている冷気とは違うものを感じる。冷気とは合い反す

る、燃えるように熱い空気が、一博の手元に集中しているのをブルーは知った。

 続いてブルーは、一博の剣を滴る水滴に気が付く。それが何を意味しているのかは、彼にも

すぐ分かったのだろう。

「ちッ、何て事しやがる」

 とっさにブルーは、自分の武器である低温の棒を一博の剣から離し、後方に身を引き、3メー

トルほどの距離をとった。彼のいた場所では小さな爆発が起き、その爆発が収まるのよりも早

く、一博の剣が一気に振り下ろされる。そして剣の先端部が地面のアスファルトと接触すると、

剣からは瞬間だけ、炎のようなものが地面に散った。

 わずかな間の爆発が収まると、そこには左肩と左脚に氷塊がついたままの、巨大な剣を降り

下ろした一博が立っていた。

「避けるのよりも爆発の方が先だと思っていたが…、なかなか素早いな」

「危ねえ事しやがるぜ。そんな側で爆発を起こしたら、てめえも危険だってのによ…。避けなか

ったら、爆発にやられた上に、その馬鹿みたいにでかい剣で叩っ斬られてたところだぜ」

 そう言い。ブルーは自分の棒を2、3回振り、グリップ部ついていたスイッチのようなものを押

す。すると、彼の棒から吐き出されていた白い気体は途端に止んだ。

「まさかオレとは逆の、熱や火の『力』を使えたとはな…。金属は熱をよく伝えるそうだから、オ

レの固定戦法を破れるわけだ。ただ剣ばっかり振り回している奴じゃあないようだなあ、てめえ

は。しかも、お前の剣にうっかり触るのは危なそうだな」

「何の事かな?」

 一博の言葉に、ブルーは顔をしかめ、

「しらばっくれんじゃねえ。てめえは剣を振り回すだけじゃあねえし、ただ単に熱の『力』を扱うわ

けでもないらしいな。多分、てめえの剣攻撃は特殊な力を秘めてんだ。実際に斬られてみなき

ゃあ分からねえが、何かだな」

「さすが『ユリウス帝国』の特殊部隊だけあって、読みが鋭いな」

 そう言葉を投げかけると、一博は自分の肩と脚についている氷塊を、自分の発する熱エネル

ギーで溶かし始めた。氷の表面から水滴が流れだし、その大きさがだんだんと小さくなってい

く。

「それで、認めてくれたか? おれの実力ってやつをよ」

 少し自信のある声で言った一博だったが、

「さあ、どうかなあ、てめえの剣攻撃に付加する『力』は、相当のパワーがないと空気中を走っ

て相手に届くこたあないんだろ? 今のは地面に散っちまったからなあ。つまり近付かなきゃぁ

安全って事だ」

 ブルーは冷静に言い放つ。

 さらに彼は、今度は離れた位置から一博に右手の掌を向けた。

「また来るのか?」

 自分の体に張り付いた氷を溶かし切らないうちに、一博は再び剣を構え、身構える。そして

彼は、先ほどよりも遥かに多い量の冷気がブルーに流れて行くのを感じた。北風のように冷た

い冷気が、体の周囲を通過していく。

 ブルーは微笑している。彼の右手の掌には、さっきのものよりも濃縮され、さらに青みを増し

た冷気が、今にも弾けそうなくらいに固まっていた。

「おい、妙な真似をするんじゃあないぜ」

 一博は少し慌てている。少しの間冷静だった彼の声が、緊張し、少しだけ震え出していた。

「ほれほれ、避けねえと危ねえぜ」

 

 濃縮された冷気は、ブルーの右手の掌から一気に放たれた。一博はとっさにそれをかわそう

とする。放たれた冷気は先ほどまでのものとは違い、槍のような形の、大きな円錐形となって

向かってきた。先端は鋭く尖り、円錐は白い冷気を放っていた。

 血の赤い色が飛ぶ。一博は左腕に痛みを感じた。円錐の先端部で斬りつけられた。彼は少

しだけうめき声を出し、鋭い痛みに顔を歪ませた。

 ブルーの微笑によって出た声が、一博の耳に届く。同時に、放たれた氷の円錐は一瞬にし

て、これ以上バラバラになれないというほど細かく砕け散った。それは夜の闇に輝く細かい粒と

なり、路面に落ちてガラスのような光を放つ。

「けッ、避けやがったか」

 不満を口にしているらしいが、ブルーの表情は自信に満ち、勝利を確信しているようだ。

 一博は、痛みを感じる自分の左腕を見てみる。氷塊の溶けきらない、筋肉質でたくましい左

腕には、30センチほどの長さの切り傷がついていた。

 傷口はそれほど深くはないようだが、赤い色に染まっており、その斬りつけられた傷口の周

辺が、一瞬にして完全に凍っていた事は、一博にとって驚異だった。左腕が凍り始めていて、

思うように動かない。

「やるな…」

 一博は肩の力を込めて言う。大きな顔は少し引きつれ、睨むような表情になっていた。実際

には、体の至る所に鋭く走る痛みをこらえているのだが。

「まあ、本気を出せばてめえなんぞ、いつでも簡単にオレが倒せるって事は、理解できたと思う

ぜ」

 自信満々のままブルーは、左手に持つ自分の武器のスイッチを入れた。再びその棒からは

白い冷気が放出され始め、武器は温度を低下するのを開始し、その作業は一瞬の内に終わ

った。

 一博は斬りつけられた上に、凍り始めている左腕をそのままにしておき、巨大な自分の剣を

構えて、ブルーの方に向かおうとする。彼は攻撃をする事に全てを集中しようとした。そうすれ

ば活路が開かれるかもしれない。

「甘めえんだよ」

 一博が自分の方に向かって来るのを見たブルーは、彼に聞こえるくらいの声でそう言い、相

手が剣を振るうのよりも速く、分厚い手袋のされた自分の右手を彼の方向に向ける。すると、

青く冷たい冷気が空気を突き破って、彼目掛けて飛んだ。

 顔をしかめる一博。ブルーに向けて振るおうとした、剣を支える両腕に冷気は飛んで来る。彼

はそれを巨大な剣で粉砕し、同時に防御しようとしたが、破ったはずの青い冷気は、真っ二つ

に粉砕されても再び固まってしまい、結局は彼の体に付着した。

 火傷のような凍傷の痛みが一博を襲い、彼は少しだけうめき声を上げる。今度は右腕だっ

た。右腕に氷塊を作らせてしまった。

 だが彼は、持っていた剣を構えたまま痛みをこらえつつ、氷結し始めた腕に無理矢理力を入

れて、離れた位置にいるブルーの方へと脚を動かそうとした。

「ほらよ」

 調子に乗った声、ブルーは切羽詰まっている一博とは違い、勝利のリズムに乗っている。そ

れ故か、一博よりも遥かに素早い動きで再び冷気を飛ばしていた。

 ひんやりとした冷気が再び一博を襲う。彼はまだ痛みにこらえなければならず、ブルーの方

には一歩たりとも足を伸ばす事ができない。動こうとすればそこに冷気を飛ばされ、氷結させら

れた。

「手も足も出ないってわけだぁ」

 ブルーは次々に冷気を飛ばし続ける。一博にはほんの余裕もあらず、ただ自分の体に次々

と氷塊を作らせてしまっていた。

 状況は一博にとって圧倒的に不利だった。剣の届く事のない位置にいるブルーには攻撃を

加えることができず、逆に遠距離から冷気を飛ばせるブルーは、余裕があるほどに有利だっ

た。

 剣から発せる事のできる『力』さえ当てる事ができれば…。

「フン、やっぱりてめえは、剣ばっかり振り回している、ただの能無しのデカブツだったってわけ

だぁ。近付かなきゃあ何もできないってことよぉ」

 挑発をしてくるプルー。反論をしたいところの一博ではあったが、次々と飛んできて、自分の

体に付着しては氷の塊を作ってしまう冷気には、何を言っても無駄。ブルーの言うように手も足

も出ない。剣を地面に落としそうになっている、やっとの思いでそれを支えているだけだ。

「しかし、さすがは体がでかいだけあるな。普通じゃあとっくにブッ倒れているが…、このままじ

ゃあこっちが持たねぇ」

 一博に聞こえるか聞こえないかの声で、ブルーは言っていた。彼の言う通り、一博はブルー

の攻撃を受けて、その場から動けないでいるものの、今までに受けた氷塊のダメージを何とか

耐えている。

 そして特殊『能力』の過度使用は、使用者の精神力や体力を極度に疲労させてしまう。『力』

を発動させるには、常人には不可能な程の集中力が必要となるからだ。

「とどめは直接刺させてもらうぜ。そろそろお前も、身動きが取れなくなってきたようだしよお」

 ブルーは一博に向かってそう言いながら、同時に自分の武器をも彼に向けた。さらに冷気に

よる攻撃も止めたが、幾つもの氷塊を自分の体につけられた一博は、ほとんど身動きが取れ

ない様子だ。

 息をつく間もなく、ブルーは一博に向かって走り出す。とどめを刺そうと、冷気を放つ棒は彼

の急所を狙う。

 だが勝負は、ブルーが一博の側、1メートルほどの位置に近付いた瞬間に決した。

「何だと…!」

 激しいうめき声を上げたのは一博ではない。ブルーの方だった。

 彼は冷気を放つ棒を持ったまま、一博に攻撃を加えようとしたまま、体中からうっすらと煙を

出し、その場に立ち尽くしていた。

「何だ? てめえ、何をしやがった?」

 今まで自信に満ちていたブルーの声が震え、驚惜に満ちている。そして彼は持っていた武器

を地面に落としてしまう。煙の上がる、焼け焦げたような左腕を、同じく焦げた右手で押さえ、

彼はそれを驚いたように見つめていた。

「畜生ォッ! オレとした事が、手がイカれていやがる…火にあぶられた見てぇだ…、武器を持

っていられねぇ、腕と脚に力が入らねぇ!」

 ブルーは声を漏らしながら、一博の方を見ると同時に、彼の足元を見る事ができた。そこを

見る事により、なぜ自分が火にあぶられたような感覚に襲われ、四肢に力が入らず、武器を地

面に落としてしまったのかが、彼にはよく理解できた。

 一博の足元には、半径が1メートルほどの水溜まりが広がっていた。それは紛れもなく、ブル

ーが放った三角錐の氷柱が粉々になって地面に落ちて溶け、彼の知らないうちに作り出した

水溜まりだった。しかもその水溜まりは湯が沸騰したように煮立っている。

 ブルーは理解する。一博は自分の体から発せられるエネルギーを、武器を通じてでしか伝え

る事ができない。それは彼の力が、物体を伝わる熱や電気のようなものだからであり、金属に

は伝わっても、パワーが無ければ空気中を伝わる事はない。だからその『力』は、相手に武器

を接触させる事により、初めて効果が現れるというものだ。

 しかしブルーは、一博に触れるという事はしなかった。少なくとも氷の柱による攻撃をするま

では。

 だが彼は、直接的に一博の剣に触れる事はなかったにしても、間接的には触れざるを得な

かった。ブルーは濡れた路面の水溜まりを通して、一博に触れる事になった。

 エネルギーは、一博の足元から熟のように発生して、水溜まり、それもブルーは自ら作り出し

た路面の水を沸騰させながら伝わって、プルーの体に流れた。そこに込められたエネルギー

は結果として彼の四肢を麻痒させ、攻撃能力を失わせた。

 それが一博の隠された『力』だった。

「今度こそおれの力を認めてくれたとは思うが」

 緊張している口調でなければ、自信を持った口調でもない。全身の至る所に白い氷が張り付

いたままで、左腕に切り傷がある姿は、少しばかり痛々しい姿だったが、あくまで冷静に一博

は言った。

 ブルーは、焦げ付いた腕と脚を気遣いながら、一博の方を睨むように見ていた。剣で叩き斬

られる事はなかったにしても、一博の『能力』により、彼はほとんど戦えない状態にある。しか

し、

「こんなんで、オレを倒したつもりでいるのか?」

 そう言うと、両脚が焦げ付いたようになっているのにもかかわらず、ブルーはその場から一気

に三、四階はある裏路地の建物の屋上まで飛び上がり、彼はその位置に移動してしまった。

一博はとっさにブルーの方に目をやる。彼とブルーの距離は一〇メートル以上は離れ、自分の

能力を受けたのにもかかわらず、常人以上の芸当をやってしまう彼には驚愕するしかなかっ

た。

 そして一博を屋上から見下ろしながらブルーは言う。

「いいか、今日の所はこれで見逃してやる。今日の所はだ。だがよお、てめえらの行動は、い

つだってオレ達に筒抜けだって事を忘れんじゃあねえぜ!」

 まるで吐き捨てるように、しかも離れたところからでも聞こえるような大きい声でブルーは捨て

台詞を残す。さらにそのまま彼は一博から見えない位置に姿を消し、完全に逃げてしまった。

「待て!」

 一博は言うが、ブルーはすでに遠いところへ行ってしまったようだ。全身に氷が張り付いてい

る状態の一博では、ブルーを追う事は到底できなかった。

 

8:23 P.M.

 

 

 

 様々な雑誌、車などの専門誌が至る所に散乱し、ドライバーや、六角レンチなどの色々な工

具、その他にも訳の分からない物や、機械が置かれている。汚く、片付いていない部屋。その

中に埋もれながらも突き出た青いソファーの上に、一博は座っていた。

 ここは 2LDKのマンション、建物の六階。一博が住んでいるマンションだ。彼の部屋には男の

一人暮らしの生活観が現れ、とてもむさい匂いが漂っている。何週間も掃除をしていない様子

で、空気は挨っぽく、一博以外に何かがひそんでいても不思議ではないようでもある。

 一博はリビングルームにあるソファーの上で、自分の腕に包帯を巻きつけていた。先程のブ

ルーとの戦いで、彼は全身の至る所に、火傷のような痛みを伴う凍傷を負っていた。たくましい

腕は赤く腫れ上がってかゆみが伴い、新しい傷を見つける度に、彼は嫌そうな顔をした。

 中でも、氷の槍のようなものに切り裂かれた左腕の傷は、今だに痛みと、氷が張り付いた時

の炎症が残っている。一博には薬品で消毒し、出血を包帯で何とか止める程度の事しかでき

なかった。

 彼は傷を癒すという『能力』があまり得意でなかったから、傷の処置には手間取った。完全に

傷が癒えるには少し時間がかかるだろう。明日からの任務の差支えにならない事を危慎する

ばかりだった。

 そもそも、全ての情報が筒抜けな状態で、原長官より与えられた任務を遂行できるのかどう

か怪しいものだ。傷の処置を終えた一博は、青いソファーに座ったまま深いため息をつく。

 そして、ソファーの前に置かれたテーブルの上にある雑誌を読もうと、一博が手を伸ばした

時、静寂を破り、電話のコール音が部屋に響いた。沈黙の中での突然の呼び出し音は、一博

の心臓をどきりとさせた。

 電話は、一博の座るソファーから、ものの一メートルも離れていない位置に置かれてあった。

ソファーにさえ座っていれば、何でもする事ができるという寸法だ。ヘタをすれば食事を作る事

もできるかもしれない。

 黒い色の電話機。その通話スイッチを押し、一博はスピーカーに耳を傾ける。昼間に会った

彼の仲間の金髪男は、夜に自分の家に集まらないかと誘いをかけてきた。もしかしたら彼から

の電話か。しかし、電話機の側の空間には、テレビ電話用の画面が現れなかった。それに、番

号は非通知になっている。

「もしもし…」

 一博の声は、彼が思っている以上にやつれていた。まるで自分の声とは思えない。電話の先

からは雑音が聞こえて来る。はじめに彼は、音声のみの通話な事から、いたずら電話かと考え

たが、雑音の先から声が聞こえてきた時に、それが防衛庁の原長官からの電話である事が理

解できた。

「一博か?」

 原長官の声は雑音に妨げられ、うまく聞き取りにくいものだった。ノイズ音のような砂嵐が聞

こえてくる。

「ええ、そうです」

 一博が答えると、原長官は何かを言ってきたようだが、それは雑音に妨げられ、うまく聞き取

れなかった。

「な…、何か言いましたか? うまく聞き取れません」

 少し慌てて一博は言った。すると雑音はわずかに弱まり、遠くの方から原長官の声が聞こえ

てきた。

「大丈夫かと聞いたのだ。この雑音は、すまんな、今はこうするしかないのだ。まさかとは思っ

ていたが、私と君との会話は盗聴されていた。電話も何もかも全てだ」

 原長官はため息をついたようだった。

「この雑音は、盗聴防止装置によるものだ。以前に使っていたものではどうやら対応できなか

ったらしい。あれでは仕掛けられていた盗聴機に対して不十分だった。つまり、私と君が数時

間前に交わした会話、あれは全て聞かれていたと思っていい。相手はおそらく『ユリウス帝国』

の人間だ」

 相手には聞こえないように、小さく舌打ちをする一博。

「はい、どうやらそのようです」

「と言うと?」

 一博は雑音の向こうにいる原長官に事を告げようとする。聞こえにくい長官の声に、彼の声

は無意識に大きくなっていた。

「さっき、襲われました。相手は『帝国軍』の人間です」.

「それは確かか?」

 という原長官の声は、半ば雑音に紛れて聞こえにくい。

「ええ、間違いなく『ユリウス帝国』の人間でしたし、自分で部隊の名を名乗っていましたから」

「それで、君は大丈夫なのか?」

「はい、明日からの任務に差し支えるほどではありません」

 と言って自分の左腕を見てみる一博。巻き付けてある包帯にはい赤いしみが染まってきてい

た。

「無理はするな。盗聴に気付かなかったのは私の責任なのだ」

「長官が自分を責める事はないですよ。まあ自分は、こうピンピンしているから何の問題もない

ですし。それよりも、この電話が盗聴されている危険性は?」

「その心配はない。盗聴機は外しておいたし、万が一複数仕掛けられていたとしても、今使って

いるアダプターなら大丈夫だろう。保証するよ」

「それを聞いて安心しました」

 これで堂々と会話ができる。そう思った一博の声は、少しばかり緊張が和らいだ。今までは

喋る言葉を、一度考えてから口に出す必要があったからだ。喋って良い事と悪い事がある。

「しかし、今までずっと安心できていたはずなのに、なぜここ最近になって、こうも『ユリウス帝

国』側に情報が漏れるのか、疑問には思わないか? 太一と香奈に与えた任務が漏れた。盗聴

だってされた事は、今回を除いても無いし、諜報活動も順調だった」

 というのは、雑音を挟んで届く原長官の声だ。

「確かに」

「私が思うに、最近『ユリウス帝国』は、何者かと手を組んだのだろう。外国から入ってくるスパ

イなんかの摘発とかをより効率的にするためにな。しかもその相手とは、随分と非公式なルー

トで取り引きをしているはずだ」

 一博は何も答えない。

「うちの国の最高機密にまで侵入して来ているのだ、相手は相当な知識と経験を持つのだろ

う、少なくとも情報機関に関してはな」

「そうですか…」

「だが、足跡は残して行ってくれたようだ」

「と、言いますと?」

 雑音の先の原長官の声が、少しばかり自信な口調になり、

「逆探知ができたのだ。情報が漏れた時に警報装置が作動したので、即座に専門家が探知し

たところ、上手くいったのだ。夕方に君が来た時はまだ調査中だったから何も言わなかった

が、とにかく逆探知ができた」

 と、リズミカルに述べた。しかし電話の先にいる一博は、無反応なままソファーに横になって

身を埋め、だらしない格好になる。

「それで…」

 疲労している様子の一博の声。

「逆探知の結果、相手の住所は番地まで分かっている。場所は《帝国首都》の17区、66番通

りの2704番地だ」

「自分にそんな事を言って、どうしろと言うんです?」

 そう言いながら一博は、ソファーの側に立て掛けてある、自分の剣を見ていた。

「それを調査して来て欲しいのだ。タ方に会った時、任務はまだあると言ったはずだが?あの

時は調査中だったから何とも言えなかったのだ。明日の明け方に告げると言ったが、非常事

態を伝えるついでに今言っておく。つまり今回君に与えたのは、《帝国首都》に潜伏中の太一と

香奈、二人の任務である、《セントラルタワービル》における不穏な動きの

 調査を手助けする事、それと…」

「逆探知先を探って来て、それを摘発する…」

「そうだ。今、『ユリウス帝国』との関係を考えれば、彼らに摘発を頼んでも無意味だろう。君に

任せるしかないのだ」

 原長官は冷静に答えた。

「たとえ、『ユリウス帝国』側にその任務内容がバレていても…、ですか」

「それだけ重要な事なのだ」

 どうして重要なのか教えてくれない原長官に、一博は不平を覚えたが、それは心の中で押さ

えた。

 今回の任務は命懸けになるかもしれない。一博は口に出さずに思う。すでに危険な戦いを一

度しているし、それは自分の住む国での出来事だった。明日からはさらに危険な場所に乗り込

む事になる。

「分かりました」

 自信の無い声で一博は言った。

「そうか、ならばいい。航空チケットは予約しておいたから、明日の明け方、『ユリウス帝国』行

きの便に乗れば問題はない。それから、たとえ自分の部屋だからといって気を抜くんじゃあな

いぞ、どこから奴らが迫ってきているか分からないからな」

 一博は自分の汚い部屋の中を見回しながら、

「はい」

 と答えた。

「では、もう電話は切らせてもらう。盗聴には細心の注意を入れたい。それから、もうしぱらくの

間、一切の連絡は取れないからな。気をつけてくれ」

「はい」

「それでは、無事に任務が成功する事を祈るよ」

 原長官は電話を切った。途端にスビーカーからの雑音は止み、一博の耳は少しだけ妙な感

覚に襲われた。

 通話ボタンをオフにする一博。彼は原長官の言っていた、奴らがどこから迫ってくるか分から

ないという言葉が気に掛かっていた。雑音の中で聞こえていたその声が、妙に気に触ってい

た。

 思わず一博は、誰が潜んでいてもおかしくないくらいに散らかった、自分の部屋を見回してみ

る。だが、見た限りでは、自分以外に誰かがいる様子はない。

 戦いの時と同じような緊張感がやってくる、もっとよく部屋の中を調べて見ようかと思った。

 だが、その激しい突然の緊張感は、休息を求める疲労に負け、数分後には薄らいでいた。


 
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