No.1193503

【哲学シリーズ32】コモン・センス~ドライブ(通常感覚からの欲動)、アルティメイト・センス~ドライブ(究極感覚からの欲動)【通常感覚4】

eye-elさん

一応、こちらの方が言いやすい為、宣言しておく

2026-09-20 10:49:31 投稿 / 全14ページ    総閲覧数:52   閲覧ユーザー数:52

「通常感覚からの欲動」は英語で、”コモン・センス~ドライブ”

「究極感覚からの欲動」は同じく英語で、”アルティメイト・センス~ドライブ”

 

「通常感覚からの感動」は英語で、”コモン・センス~ムーヴィング”

「究極感覚からの感動」は同じく英語で、”アルティメイト・センス~ムーヴィング”

 

 

…主に、上二つを覚えれば良いだろう

 

 

 

アルティメイト・センス~ドライブ

 

 究極感覚(アルティメイト・センス)と言うのは、最初ははっきりしない弱弱しいイメージだが、

 

…その感覚(センス)を叩きこんで行くうちに段々とはっきりして来る

 

 究極感覚と言えるのは、はっきりしていて、力強いイメージになった時こそ

 

 そのイメージが物語(ストーリー)の力となって周囲を巻き込んで行く…

 全て生物的なものは感覚から来たる

…四つに感覚道動を限定したが、要するに、「権力への意志」などのニーチェ哲学のような通常感覚哲学の前提になるもの、通常感覚哲学を前提とするものを除いて、少なくともヨーロッパの哲学は大まかに皆、偽物・まがい物だという事

 言語も感覚である

 

…「感覚」と言うものに形が見つからない場合、言語に探してみると良い

 

……その場合は、「〇〇と言う言語感覚」となる事だろう

「肉體からの精神」には続きがある 「肉體からの精神、精神からの行動(言動)」である

四重身體説

 

 本覚は感覚であり、四つあると言った(本能・理性・知性・感覚)が、からだはそれら四重であり、本能、理性、知性はたまに、身體(感覚)を離れている

 病的常識パッケージと言うものから、病気の知る常識と言うものを感覚は欲動(ドライブ)化するのである だから、病気の場合のコモンセンス~ドライブも知る常識が先頭に来るのだよ?

 コモンセンス~ムーヴィング 病気が発症する時や病気が進行する時、コモンセンス(通常感覚)に病気の方から働きかけがある その感覚を感動(ムーヴィング)化してしまうなら、病気が発症・進行してしまうのである 大事なのは、余計なものは背負い込まない事であり、これを拒絶する事によって、健康や小康を保てるわけだ

フロイト批判、それを信仰するラカン批判など

 

 実際の所、フロイトやラカンが注目するのは、人間の異常な所(精神病やフロイトの「欲動」、特定の人間の「他我」の否定思考)であって、それをごまかすなり、薬を使うなり、理性で抑えるなり、注目しないようにして、目立たなくしたものが、私たちの日常生活の「ありきたり」と言うものである

 

…はっきり言って、この「ありきたり」を軽視するフロイト、ラカンの姿勢は反社会的、異常者的であり、その傾向は「ニーチェ、フロイト、ラカン」の系列であるニーチェにも少しはあると見える

 

……これら、フロイトとラカンの姿勢に従い、「ありきたり」から外れた者を、私たち、良識派は「非常識的」と内心呼び、「「常識」の系譜」の「子供な人たち」に返射と言う形で、その「子供な人たち」とフロイト(異常者)系と言う結び付けるものである もちろん、ニーチェにも良心や良識はあるので、ニーチェ哲学者が目立っておかしいと言う事はない ニーチェと言う人物は魅力的だが、フロイトのようにカルト化してしまう事もあるし、ニーチェの著作を読むなら、隅々まで読んで、全體を読むのに欠かせないもの(『アンチクリスト』の「”自由疑義”」など)は把握しておく事

 

 確かに、ニーチェは正々堂々としていて、男らしく、正直な人だが、少し、アデノシン(反意識、幻覚、非理性)的なものを煽り過ぎる傾向があり、はっきり言って、アデノシン的でない栄養学的な私たちはむしろ、セロトニン的(意識、感覚、感情)であり、本来関係のないものなのであり、私たちはそれに巻き込まれる形で、ニーチェによって、反社会的なもの、異常者的なものに巻き込まれているのは確実なのである フロイトを信仰するラカン、ニーチェを信仰するフロイトも行き過ぎであり、フロイトもラカンも狂信的な人間に他ならず、彼らの母国、フランスもまた反社会的、異常者的である 所詮、宗教のないフランスも二流国、この前までキリスト教が支配していたドイツも二流国に過ぎない それに関係するイタリア、イギリス、アメリカなどもそうである 確かに、ドイツはアンチクリストが芽生えた地ではある しかし、これとそれとは話が別である

 

…一流国と言えば、日本と比べると大分、戦争的なアラビア諸国と日本、そのどちらもが、対峙する国があって、中々、軍隊や自衛隊を動かせないと言う事である …これでは、世界が平和になるわけがない アメリカやフランスの医者・心理学者・精神科医・神学者、ドイツの医者・哲学者・教育者・神学者、イギリスの実業家・看護士、イタリアの酒師(ソムリエ)、二流国から生まれた二流人間が働きやすくなっていると言う… 一流者は、スルーか、叩かれるか、馬鹿にされるか、の三つ、普通に考えたらおかしいだろう しかも、「地球温暖化」・「プレート」・「自由意志」・「ジェンダー」・「常識」・「ハッカー/クラッカー」などの概念は必ず、神学者の手によって病発的に公開されると言う感じで、神学者など、どう見ても三流なのに、話が聞かれるのは必ず、こう言った神学者、次に二流人間、中々、聞かれないのが、一流者なのだ はっきり言って、現代社会はそう言う点で、歪過ぎるし、所詮、実業家などの二流人間が作って来た、「近代」や「現代」と言う時代など、栄養学(それ繋がりで、医学的な所に、セロトニン・アデノシンなどがある)や筋学、スポーツ学以外に見るべき点はあるのか? 疑問である

「通常感覚からの欲動」批判への反論集2

 

「合理主義(理性主義)からの批判:理性を曇らせるもの」

 

・デカルトやカントに代表される合理主義哲学では、身體的な感覚やそれに基づく欲動は、不確実で曖昧なものとして厳しく批判されます

 

デカルトの「方法的懐疑」への反論:

 

 私、滝口が哲学内で扱っている「高き自由とすくう自然」の「高き自由」とは、「真理」がニーチェの『アンチクリスト』によって排された後に生まれた概念であり、上位互換的な意味合いを持っていて、ともに、出発点である

 

 

 

「存在論・現象学からの批判:主客二元論の罠」

 

・20世紀の現象学(ハイデガーやメルロ=ポンティなど)は、従来の哲学が「通常感覚」や「欲動」を単なる「主観的なデータ」や「客観的な身體のメカニズム」として切り離して(二元論的に)とらえて来た事を批判しました

 

「世界内存在」(ハイデガー)への反論:

 

 私たちが概念を作る時に使うとしている「本能」はニーチェにおいては「大感覚」、フロイトやユングにおいては「氷山の浸水部」、「個人的無意識」・「集団的無意識」とされる …要するに、私たちの存在が前提している「本能」は私たちのからだ、あるいは、世界の奥深い所にあり、その「本能」が肯定した概念として、一つに「通常感覚からの欲動」が表象されたのである

 

「身體性の哲学」(メルロ=ポンティ)への反論:

 

…それを言うなら、本能が感覚を沸き立たせる事、感覚が欲動を催す事、最初の本能に理性が含まれている事を全て、批判せねばならない

 

 

 

「精神分析・批判理論からの批判:社会的・文化的な抑圧」

 

・ニーチェ、フロイト、あるいは現代思想(フーコーやドゥルーズ=ガタリ)の文脈では、「通常感覚」や「まっとうな欲動」とされている自體が、社会システムや権力によって「作られた(飼い慣らされた)もの」ではないかという批判がなされます

 

ニーチェの「ルサンチマン」批判への反論:

 

 私には見えていた事だが、「高き自由」と私は言ったが、他にも高度に社会学的な「汎(ひろ)き自由」と言うものもあると思う それが、知る常識と合わさって、ニーチェ哲学的には、「妥協した」と見える動きをするのだろう… しかし、飽くまで、出来るだけ、利便を良くするものに過ぎず、「ルサンチマン」とは関係がない また、「汎き自由」は女性が本能的に持っているものである …まあ、つまり、私は女性であると言う事だが…

 

 

 

 

「精神分析・構造主義的批判:欲動の「不自然さ」と社会的構築」

 

・20世紀の思想(フロイト、ラカン、フーコーなど)は、「通常の感覚や欲動」そのものが、実は純粋で自然なものではなく、社会や言語によって事後的に形作られたもの(構築されたもの)であると批判しました

 

「欲動の変性」(フロイト・ラカン)への反論:

 

 「汎き自由」と言うものは、汎く、世界に通用する自由の事で、日本人女性が持ちやすいとされる 要は、「歪められ」とは書いているが、「汎き自由」によって、その問題点は解決される なぜなら、「”当てはまりづらい”」と言うフロイト・ラカンの挙げた問題点はそれによって解決しているからである

 

「権力による生政治」(フーコー)への反論:

 

 「通常感覚」哲学はニーチェ主義である ニーチェと言う基準があり、「通常感覚」と言ってもニーチェ基準なのである …たとえば、彼は病気だったから、それが「通常」であった、よって、「通常感覚」に病的な感覚は含まれると言うわけであり、ルサンチマンと言う犯罪的な状態を「何ら、特別な状態ではない」とニーチェは言ったから、「通常感覚」に犯罪的な感覚が含まれるようになったなどである …そうすると、批判者としては、ニーチェを権力者、権威者として認めるか? と言う問題が出て来ると思われる

 

 

 

フッサールとハイデガーによる批判(現象学)

 

「自然的態度」の批判への反論:

 

 私、アイイルの哲学では、あらゆる無為的な感情の背後にある、アイイルの「哀」を超える超人となる為に、この超人=一知一能の存在の”一知”に当たる「通常感覚からの欲動」・「究極感覚からの欲動」と言う認識は必要とされる

 

…と言うのも、「通常感覚」を疑う事で、あらゆる無為的な感情(無為的な発想)と向き合わなければいけなくなるからだ

 

 

 

フロイトとニーチェによる批判(猜疑の精神)

 

フリードリヒ・ニーチェへの反論と批判

 

(反論)むしろ、私は無為的な感情(ルサンチマン感情など)にフタ(封印)をして、その上で時も忘れてやって行こうと思ったまでなのである つまり、忘れるべきもの、”それ”から自由になるべきものとして、無為的な感情(ルサンチマン感情など)はアイイル哲学としては定義されている

 

(批判)ニーチェが「ルサンチマン」だなんだと批判する事は「通常感覚」哲学を拒否する怠慢をさらすとともに、通常感覚の奥底にある「知る常識」と言うもの、たとえば、「水筒は水(やお茶)を入れて飲むもの」・「ペンは書物類に筆を入れて書いたり、描いたりするもの」と言う否定しようがない大人な常識の権威とも呼べるものを否定しにかかっていると言える(和の常識の権威、しかも、高貴な常識の権威への反逆)

 

 

 

「この世界は病気である」への反論と批判

 

 常道として、「通常感覚からの欲動」を思考するのは、欲動に完全な犯罪性や病質を求められないと言う事である …そもそも、通常感覚に犯罪性や病質があるのか? と言うと、まず、その見分けは経験則によるものであり、そう言う感覚を出さないように、私益の倫理・公益の倫理があるのであり、しょせん、「通常感覚」哲学を「病気」と考える事は、「正しさ」が「ない」と考える事であり、すなわち、「この世界は病気である」とは倫理性がないのである と言う事は、「この世界は病気である」は正しくない

 

 

 

「フリードリヒ・ニーチェ:権力への意志と感覚の肯定」への批判:

 

 女性に多いと言ったが、男性も女性を含み込む事があり(結婚や同棲)、汎き自由と言うのは、一つの感覚である(六本感覚説(本能と理性を別々とするなら、七本感覚説)) …と言うのも、ニーチェと言う人物はそれとは反対の「狭き自由」を元にしており、「権力への意志」なるものを狭き自由から生んでいるのである ……はっきり言って、本来の自由と言うのは、「汎い事」が大前提であり、ニーチェはそれにいまだ、至っていないので、「権力への意志」などと言えているのだ …だから、「通常感覚」哲学を拒否する 男性は女性を包摂する事でしか、この汎き自由を得られない ニーチェが童貞とは言わないが、はっきり言って、ニーチェはあまり、「女性の価値」と言うものを、知らないと見える イスラム教は男性を前提とするらしいが、実は、「通常感覚」哲学は汎き自由、つまり、女性を前提とする 「通常感覚」は女性の日常的感覚を前提としている為、「通常感覚」を批判する事は、女性を攻撃するのと同じだ 女性を虐める人間を男性だとか、女性だとか、何か、性別あるものと出来るだろうか???

 

 

 

ニーチェへの批判:

 

 ニーチェは「馬鹿」

 

…具體的には、知性以前の「馬鹿」である

 

 こいつは取りあえず、感覚の事を良く分かっていないのに、感覚を批判している門外漢なのだよ?

女性の「知性以前」・男性の「知性以後」(知性以後の生物である男はしょせん、根本的な「馬鹿」に過ぎず、男性家の女も同レベルである)

 

(世界は男と女であると言う前提からなり立つ)

 

 女性の「知性以前」を挙げると、

 

「感覚」・「生活」

 

 男性の「知性以後」を挙げると、

 

「知性」・「理性」

 

 男と言うものをはっきり表現すると、知性以前の「馬鹿」である

 

…男性家の女もそうだが、彼らは知性以前の事を全然分かっていないから、「多様性」などと言い始めるのだ

 

……普通に女性的に考えると知性以前では、男女を区別する女のおっぱいやお尻が極めて重要で、そう言う大事な識別子による境界線を犯すような異物(多様性)はない方が良いに決まっている

 

 つまり、反対にそれら以外はあまり厳密でなくて良く、そんなに重要ではないのだ

 

 

 

…結論として、女のおっぱいやお尻のような際立った形質性は生活に欠かせないものであり、多様性はむしろ、邪魔になるだけなのである そして、多様性など、日常生活の異物に過ぎない

 

…そして、バトラー以下、男は「馬鹿」、具體的には、知性以前において、男は「馬鹿」なのである

 

……そもそも、知性以前(日常生活)を具體的にイメージ出来ない男に感覚を本当の意味で、肯定出来るのか??

 男が根本的な「馬鹿」とされるのは、自分たちを支えているはずの家事が女に任せられる事であり、その女への理解と言うものが全く欠けているからなのである

 

…その本質は「通常感覚からの欲動」(コモンセンス~ドライブ)の「通常感覚」(コモンセンス)と言うものであり、ノウ・コモンセンス=「知る常識」と言う権威化された高貴な常識を日常生活に活かす事が”それ”である これが女が男と違って、汎き自由(家事そのもの)・高貴な常識(感覚化された家事)を持つ為に、主婦(母なる人)と言うものは、子供にとって”神聖”とされるのである 現代社会の堕落化の問題は、この”神聖なるもの”を好んで捨てると言う暴挙から来る

「生物学的・認知科学的な根拠の不在」への概念の提示と大まかなデータの提示

 

「知性以前」と言う概念は元来、女性の世界とされた「生活・感覚」の事であり、「生活」は元より、「感覚」も「女性は感情的(感覚と感情を結び付けやすく、その感覚と言うのが「生活」の役に立つ為の「感覚」に集中していた事)」だから、生活=感覚と言う「知性以前」と言う世界観があって、それは女性のものであった

 

…男性も「知性以前」に進出しているが、そう言う男性も女性的なセンスは息子にも娘にも教えられない

 

 息子はまず、最初に母親のからだに興味を持つものであった 娘もまず、自分の目標に母親を置いた

 

…しかし、新代にはそれが薄く、女性の社会進出を浅く見て、25年前が契機だったとしても、35~26歳の未婚男性と未婚女性を第1世代とする(第0世代である45~36歳は更年期障害が既に始まっている為、以下のデータには関わりは薄いと考えられる) 女性のからだを直接、見ないで育った、あるいは少なく見て育った「蒙昧の世代」の始まりは1991年生まれで、2000年生まれまでだった 10年=1世代として見た計算だ

 

 今の25~16歳、15~6歳ぐらいの女性のおっぱいに興味を持って生活しやすい第2世代と第3世代もあるが、実際の所、天然由来の私のおっぱいを「巨乳」とはっきり認識出来る人とは、母親のおっぱいを1度以上見て育っている為、その大まかな割合としては7%未満と言う結果に終わった、私が散歩や通院などに使う徒歩の道のり行き帰り30分程度を行く時、男性が5人(寄ったコンビニ内、子供含む)、女性が2人、気付く程度で、100人以上にすれ違った上での結果であり(E~Gカップの頃)、バストアップして、GからHカップになると、それらの人々は皆無になった(それだけ大きくて、ウエストが細いと、「間違いなくニセモノ」だと思うのであろう)

 

(全體の人数のデータとしては正確ではないが、1ケタと言う「蒙昧の世代」が多分に関わる「おっぱい視力」(目がいい=目がキラキラしている、目がわるい=目が腐っている)の低水準と言うデータは、「おっぱいは正義」と言われる新代では「ホンモノ」と感じたら、反応する事は礼儀のようなものとして重んじられているので、ほとんど正確のように思える)

 

 これらを総合すると、知性以前の「馬鹿」とは、

男性の「おっぱい視力」が非常に低い=男性が女性のホンモノ・ニセモノを見破る力が非常に低い=女性的なセンスを教えられなかった世代=「蒙昧の世代」=「馬鹿」=知性以前の「馬鹿」

…と言う方程式になる

社会のマイナス要素は大半が知性以前の「馬鹿」で片付いてしまう

 

 男性は上で話したように、本能的に弱い事、女性は知性以前に”前提”がおかしい事によって、大半のマイナス要素は説明出来る

 

 男性の「本能が弱い」とは、異性のパートナーを見つけるのが非常に下手、すぐだまされる、人生において勝ち残れない、これらによってどうなるのか?

 

…まず、少子化・晩婚化などの民族の堕落化が進む(異性のパートナーを見つけるのが非常に下手)、それがGDPランクが下がる事、世界での論文数競争、科学的進歩への消極化に繋がる

 

……詐欺や犯罪組織による犯罪の増加・情報格差(デジタル・ディバイド)・論理的強姦による周囲への迷惑が存在する(すぐだまされる)、それが治安の悪化・個人の人間不信の深化・警察権力の形骸化、情報難民の増加・世代間交流の困難性、老人の論理処理能力の低下によるボケ・世代交代の困難性・いわゆる「ドパガキ」が形を変えて広い世代に広がる、などに繋がる

 

………車で言うAランク、または特Aランクの人間の減少・権力的な人間の高齢化などの上の問題がある(人生において勝ち残れない)、それが社会を引率するリーダーの全體数と質の低下による知性領域の縮小、最悪、権力の後継者が見当たらないと言う問題に繋がる

 

 

 

 女性の「知性以前に”前提”がおかしい」とは、たとえば、「「豊胸」であり得ない程の大きさと形を得られるのだから、「豊尻」でも同じような事は出来る」と言う前提だが、まず、「豊胸」でやる事は脂肪の量を増やす事であって、形を人工的に整える、「整形」はまた、別の技術と料金であると言う事、そもそも、「豊尻」と言うのは、最近やり始めた飽くまで私的な手術であり、技術も料金も「豊胸」よりも明らかにかかるものである しかも、「豊尻」とは、お尻を支える筋肉を増やすものではなく、飽くまで、お尻の脂肪を増やすか、それとも減らすか、と言うものだ お尻の整形手術は歴史が浅い、したがって、技術も「豊胸」よりも低くて、高価なものである と言う事は、女性體術並のヒップアップの技術に対して、「豊尻」は恐らく試行錯誤の段階である

 

…まあ、と言うわけだから、女性體術並のヒップアップを遂げるには、後、2,30年くらいは待たなければならないわけで、それを待つよりは女性體術を蹴り込んで行った方が良いわけなのだ

 

……と言うわけで、いわゆる「豊尻」は「豊胸」よりも明らかに困難であって、アレらはそもそも”前提”がおかしいわけである 「乳差別」ならぬ、「尻差別」と言うのは、いささか、時代としても早過ぎるのではないだろうか?

 

 女性は知性以前の「馬鹿」と言うか、差別生物、はっきり言うと、人間であって人間でないのである とは言っても、何か、「ジェンダー系」団體が動き始めそうなので、「知性以前の「馬鹿」」と言う事にしておこう

 

 

 

…他にも、女性は妊娠の問題もある まず、自ら去勢してしまう「オナベニューハーフ」と言う人たち、不妊の女性も問題ではあるのだが、それ以前に、結婚もせず、妊娠もせず、と言う女性、子供を育てない女性、子供を育てても、ほとんど家にいない女性、中途半端に知的で、苦しい「教育」を強いる女性、自殺する女性、豊胸して一定した姿を取らない女性、整形して顔のバランスを破壊した女性、本質的に「馬鹿」な女性、あるいは、無性でも女性を名乗りたい「オカマニューハーフ」と言う人たち、などなど

 

……まあ、こう言う人たちは「社会差別からの女性」、差別から生まれて、差別に負けた、出来損ないなのである


 
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