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No.1190158
新人さん
仁徳天皇の頃の即位を祝って詠まれた歌に、「難波津(なにわづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」とある大阪の港は、当時から中国大陸や朝鮮半島との国際港として栄えたそうだ。その難波津(なにわづ)や住吉津(すみのえのつ)といった港は、日本に仏教が伝わった6世紀頃に 淀川が運ぶ土砂の堆積で衰退してしまったそうだ。そこで、安治川(あじがわ)上流の川口波止場に運上所をつくり、1868(慶応4年)7月15日に大阪港として開港したという。水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる神戸の港と違い、大阪の港は浅かったので、大きな船が入れるように延べ10万人もの「人手」で港を深く掘り下げ、その土砂を積み上げ出来たのが「天保山」だという。 大阪港は、日本の主要な国際貿易港である主要五港(東京港(1947年)、横浜港(1859年)、名古屋港(1907年)、大阪港(1868年)、神戸港(1868年))の一つで、神戸港と共にスーパー中枢港湾の指定を受けている。明治以降に 国営の国際貿易港として建設された神戸港とは対照的な歴史の古い大阪港は、大阪市が自ら建設・運営に関わった市営港湾であり、日本の中心にある伝統と誇りが有るという。 豊臣秀吉が大坂城を築り 城下町の繁栄を支えたのは水路だった。その後の江戸幕府のもとでも水路開発は進み「天下の台所」が生み出されたという。そしてそれは「食い倒れの街」へと繋がっているようだ。 大阪港は水害対策で大変な事業をしている。古くは西暦784年以降の和気清麻呂が行った多くの土木事業がある。一つは淀川の水を三国川に分ける工事で、淀川の河口が浅く船の出入りに不都合であったのと、当時の三国川の河口の方が淀川より水深が深かったので、摂津市江口から三国川までに幅30メートルの人工運河を開削している。開削後の江口の町は、大阪京都の交通の要路として大いに賑わったという。また江戸時代の西暦788年に完成した大和川の付け替え工事もあったが、20万人も動員をした大事業は失敗に終わったとの記録もあるようだ。いろいろと試行錯誤もしたらしい。 秀吉が天下統一をした後は 京都の伏見と大阪の28キロの間で氾濫常習箇所の堤防工事をしている。淀川左岸に点在する洲を連絡させる形で大がかりな堤防を作っている。1596(文禄5)年のことから「文禄提」と呼ばれ京都から大阪までの最短距離として栄え、京街道と呼ばれたそうだ。水の路(淀川)と陸の路(京街道)がつながったのだ。 大阪港としての開港は横浜港よりも後だが、ただの漁港だった横浜とは歴史の重さがぜんぜん違っている。大阪の方々が大阪港に誇りを持つのが良くわかる。
2026-07-15 16:06:17 投稿 / 978×734ピクセル
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仁徳天皇の頃の即位を祝って詠まれた歌に、「難波津(なにわづ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」とある大阪の港は、当時から中国大陸や朝鮮半島との国際港として栄えたそうだ。その難波津(なにわづ)や住吉津(すみのえのつ)といった港は、日本に仏教が伝わった6世紀頃に 淀川が運ぶ土砂の堆積で衰退してしまったそうだ。そこで、安治川(あじがわ)上流の川口波止場に運上所をつくり、1868(慶応4年)7月15日に大阪港として開港したという。水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる神戸の港と違い、大阪の港は浅かったので、大きな船が入れるように延べ10万人もの「人手」で港を深く掘り下げ、その土砂を積み上げ出来たのが「天保山」だという。 大阪港は、日本の主要な国際貿易港である主要五港(東京港(1947年)、横浜港(1859年)、名古屋港(1907年)、大阪港(1868年)、神戸港(1868年))の一つで、神戸港と共にスーパー中枢港湾の指定を受けている。明治以降に 国営の国際貿易港として建設された神戸港とは対照的な歴史の古い大阪港は、大阪市が自ら建設・運営に関わった市営港湾であり、日本の中心にある伝統と誇りが有るという。 豊臣秀吉が大坂城を築り 城下町の繁栄を支えたのは水路だった。その後の江戸幕府のもとでも水路開発は進み「天下の台所」が生み出されたという。そしてそれは「食い倒れの街」へと繋がっているようだ。 大阪港は水害対策で大変な事業をしている。古くは西暦784年以降の和気清麻呂が行った多くの土木事業がある。一つは淀川の水を三国川に分ける工事で、淀川の河口が浅く船の出入りに不都合であったのと、当時の三国川の河口の方が淀川より水深が深かったので、摂津市江口から三国川までに幅30メートルの人工運河を開削している。開削後の江口の町は、大阪京都の交通の要路として大いに賑わったという。また江戸時代の西暦788年に完成した大和川の付け替え工事もあったが、20万人も動員をした大事業は失敗に終わったとの記録もあるようだ。いろいろと試行錯誤もしたらしい。 秀吉が天下統一をした後は 京都の伏見と大阪の28キロの間で氾濫常習箇所の堤防工事をしている。淀川左岸に点在する洲を連絡させる形で大がかりな堤防を作っている。1596(文禄5)年のことから「文禄提」と呼ばれ京都から大阪までの最短距離として栄え、京街道と呼ばれたそうだ。水の路(淀川)と陸の路(京街道)がつながったのだ。 大阪港としての開港は横浜港よりも後だが、ただの漁港だった横浜とは歴史の重さがぜんぜん違っている。大阪の方々が大阪港に誇りを持つのが良くわかる。