権力への意志批判
権力への意志というものが仮にあるとする、権力とは現実的な社会力であり、意志は精神である
因子というものがあるとすれば、「権力への意志」因子であり、因子によって、より高い所に行くという事になる
…高い所、高い場所とは、因子も同時に移動するという事であり、因子は内部にあり、外部にはないという事になる
やはり、「権力への意志」は精神であり、因子とともにあり、それ自體、高く、強くなって行くという事である
「権力」因子というものは、社会の即現実の力にあり、人間の内部のものではない
「意志」因子というものは、人間の中に断固存在するものであり、存在する事、ゆえに、因子というものは存在する必要がない
…よって、「権力への意志」因子は存在しない 権力への意志自體が、人間の中で断固として存在するからである 人間が人間の中に「権力への意志」因子を作る必要がないのだ
……したがって、権力への意志は批判不可能なものである
権力への意志批判2
人間は愛する機械である しかし、権力への意志と言う色目を使う事で、人間は愛する事をやめてしまう
…たとえば、妻がいたとして、妻が恋い慕って来てかわいいならば、それに答えるべきである
……確かに、権力への意志によって、人間は進歩したと言える …しかし、人間は進歩する為に、愛する機械である事、人間的である事を捨てて来た
権力への意志によって、狂気の一歩手前まで来る事もある …しかし、その後に、人間は愛する機械である事を思い出して、人間的である事を取り戻して来るものである
人間はその愛ゆえに、その人間そのものを肯定するもの、憎しみ、哀しみ、蔑みなどに変えてまで人間を愛そうとする つまり、人間を愛する機械である事から否定してしまうと、本能としてダメになる 一人の妻がいたら、一人の妻を精一杯愛するしかないが、権力への意志と言う概念はそれを破壊してしまう 愛せないと言うのは、努力しない事への言い訳(ニヒリズム)に過ぎない そもそもまともな判断力を持ち合わせていたら、子供がいたら離婚も出来ない 人間が愛する機械である事を破壊してしまう程の意志は時に幸福を破壊する はっきり言うと人間が人間を破壊しているのである(「権力への意志」と言う概念は自己破壊主義に当たる その”自己”が「人間は愛する機械」と言う概念である)
…無論、ニーチェの「運命愛」のようにその次に来るものが来てくれるならば、…と言ってもやはり、愛する機械をやめると言う事は本能から考えると出来ないのだよ? ……よって、権力への意志は「人間は愛する機械」と言う本能をダメにするのである
運命愛批判
・・・・・・・
権力への意志よりむずかしい概念に当たるのが、運命愛である
…と言うのも、運命愛を否定する事は、「物事を肯定する事」そのものを否定する事になり、いわゆるニーチェの言う「因果の解釈」、つまり、「物事を肯定的にとらえ、知的にそれを片付けようとする」、その国家からの「追放」が、運命非愛の肯定、運命愛の否定とイコールなのである
……よって、運命愛の否定、および、批判は不可能、立場上出来ないのである 読者にもそれは当てはまる事かも知れない
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