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No.1188583
新人さん
僕の知っているフィリピン女性達は、子を産まなくなった日本女性の代わりに、日本人の子をたくさん産んでくれた。それが結果として日本の人口減少に少しだけ歯止めをかけてくれていると思う。厚生労働省のデータでは、平成7年~平成20年まで国内のハーフはフィリピン人と日本人のミックスが一番多かった。だからもっと日本人はフィリピン人に感謝すべきだと思うのだ。 マゼランに目を付けられたフィリピンは、1565年からスペインに支配され植民地となっていたが1898年6月12日に独立を宣言した。しかし、実情は1898年にスペインとアメリカの戦争が終わり、フィリピンから "スペインが撤退していった" というだけの話であり、まだ本当の独立をしたわけではなかった。フィリピンはアメリカの統治下にあったからだ。1901年に英語が教育言語として利用され、その後は公用語として使われ続けるようになる。やがて米議会の承認を受けたフィリピンは1946(昭和21)年の7月に国民念願の独立をする『予定』になっていた。ところが、ようやく本当の独立が叶いそうだったところに、日本軍が来て米軍を追い出し、勝手にフィリピンの統治を始めてしまった。第二次大戦中の1941年12月に日本軍がルソン島のバギオを空襲し、1942年1月にはマニラを占領したのだ。 日本軍はフィリピンに3年8ヶ月居すわった。 フィリピン戦は太平洋戦争で最も多い50万人以上の戦死者を出している。 フィリピン人は突如勝手に攻めてきた日本軍に搾取され、その後また上陸してきた米軍と日本軍との戦いで戦火に包まれ、多くの人が巻き添えとなり犠牲となった。日本軍は始めフィリピン人から食料などを「徴発」していたが、敗色が濃くなると「略奪」へと変わり、日本への激しい憎悪を植え付けることとなった。戦後に日本の植民地から独立した国の中で 対日戦犯裁判を行ったのはフィリピンだけだったらしい。そのくらい 対日憎悪は根深いものがあったのだ。けれども戦後の日本とフィリピンの関係をみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと転換している。その契機となったのは1953(昭和28)年7月にエルピディオ・キリノ大統領が日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことだという。105名は全員日本へ帰還させてもらえている。恩赦によって戦犯全員が日本に帰されたことは、日本国民に大きな感動を与えることになったという。また、キリノ大統領の英断は、プライドの高いフィリピン人の憎悪一辺倒だった対日感情を「赦し」という方向へむけてくれたようだ。キリノ大統領に端を発するフィリピン人の持つ「許し」の精神を、僕たちは忘れるべきではないと思う。 だから日本の犯罪者たちは赦しがほしくてフィリピンへ向かうのかも知れない。タイは微笑みの国だけど、フィリピンは赦しの国なのだ。きっと懺悔をしたい男たちは自然とフィリピンの方を向いてしまうのだね。
2026-06-12 18:15:14 投稿 / 978×734ピクセル
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僕の知っているフィリピン女性達は、子を産まなくなった日本女性の代わりに、日本人の子をたくさん産んでくれた。それが結果として日本の人口減少に少しだけ歯止めをかけてくれていると思う。厚生労働省のデータでは、平成7年~平成20年まで国内のハーフはフィリピン人と日本人のミックスが一番多かった。だからもっと日本人はフィリピン人に感謝すべきだと思うのだ。 マゼランに目を付けられたフィリピンは、1565年からスペインに支配され植民地となっていたが1898年6月12日に独立を宣言した。しかし、実情は1898年にスペインとアメリカの戦争が終わり、フィリピンから "スペインが撤退していった" というだけの話であり、まだ本当の独立をしたわけではなかった。フィリピンはアメリカの統治下にあったからだ。1901年に英語が教育言語として利用され、その後は公用語として使われ続けるようになる。やがて米議会の承認を受けたフィリピンは1946(昭和21)年の7月に国民念願の独立をする『予定』になっていた。ところが、ようやく本当の独立が叶いそうだったところに、日本軍が来て米軍を追い出し、勝手にフィリピンの統治を始めてしまった。第二次大戦中の1941年12月に日本軍がルソン島のバギオを空襲し、1942年1月にはマニラを占領したのだ。 日本軍はフィリピンに3年8ヶ月居すわった。 フィリピン戦は太平洋戦争で最も多い50万人以上の戦死者を出している。 フィリピン人は突如勝手に攻めてきた日本軍に搾取され、その後また上陸してきた米軍と日本軍との戦いで戦火に包まれ、多くの人が巻き添えとなり犠牲となった。日本軍は始めフィリピン人から食料などを「徴発」していたが、敗色が濃くなると「略奪」へと変わり、日本への激しい憎悪を植え付けることとなった。戦後に日本の植民地から独立した国の中で 対日戦犯裁判を行ったのはフィリピンだけだったらしい。そのくらい 対日憎悪は根深いものがあったのだ。けれども戦後の日本とフィリピンの関係をみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと転換している。その契機となったのは1953(昭和28)年7月にエルピディオ・キリノ大統領が日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことだという。105名は全員日本へ帰還させてもらえている。恩赦によって戦犯全員が日本に帰されたことは、日本国民に大きな感動を与えることになったという。また、キリノ大統領の英断は、プライドの高いフィリピン人の憎悪一辺倒だった対日感情を「赦し」という方向へむけてくれたようだ。キリノ大統領に端を発するフィリピン人の持つ「許し」の精神を、僕たちは忘れるべきではないと思う。 だから日本の犯罪者たちは赦しがほしくてフィリピンへ向かうのかも知れない。タイは微笑みの国だけど、フィリピンは赦しの国なのだ。きっと懺悔をしたい男たちは自然とフィリピンの方を向いてしまうのだね。