No.1184893

【哲学シリーズ16】福沢諭吉は破潰されました、皆様

eye-elさん

福沢批判

2026-03-31 18:07:33 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:26   閲覧ユーザー数:26

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云(い)えり」と福沢は言った

 

 では、「地」は?

 

「地は人の上に人を造れり、人の下に人を造れりと云えり」、少なくとも、現代では、「天」は「天空」と呼ばれる 「天こそは実体のないもの」と言う意味だ

 

 少なくとも、「地空」と言われた事はない、つまり、権力に実体があるのは、地と地上の事ではないか?

 

「我は、地上と、希望と、力の神の一柱である」、どこまで行っても、私たち、ゴー・グも地上的であり、天津神的ではないのである

 

 権力は太豊神ロヴェイン・スカーレットの下にあるが、「我らの権力は、民主主義と違って不滅である」と言う宣言に他ならない

 

…福沢が西洋学問の代表として見る、民主主義は可滅なのである

 言わば、福沢諭吉とは、奴隷主(どれいしゅ)である 現代の言葉に直すと、奴隷斡旋者(どれいあっせんしゃ)である つまり、「常識」と言うものの支配下に奴隷を斡旋する 福沢自身において、犯罪者に他ならない …しかも、その斡旋された奴隷たちとは、現代人の中の、「常識人」と呼ばれる人たちである 知的で、自由的で、信頼出来るとされる人たちなのだ

 

……むしろ、この現代の解釈は事実と逆である 繰り返し言うが、「常識人」とは「常識」の奴隷に他ならない

 

 今まで私は、その奴隷足らしめている「常識」を作っているものを破潰(大批判)して来た 福沢もそれらと同じなのである

「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立」

 

 本当にそれがなし遂げられたのならばすごいものだが、しかし、事実は反対である

 

 栄養士と呼ばれる人たちがいる 栄養学の事を医者や学者並に知っている人たちと理解されている

 

…しかしながら、この栄養学のトップエリートと言っていい、栄養士と呼ばれる人たちですら、「常識」の奴隷、ある種の「常識人」に過ぎないのだ

 

 例を挙げよう

 

 現代では卵は何個でも食べて良いものとされている …ある時、「私は卵を二個目を食べようとした」 しかし、当時は、「卵は一日一個」と栄養学で定められていたので、栄養士である私の母に「卵は一日一個」と止められた

 

 現代において、私のその「食べようとした」行動は正しいものと証明されている(「卵は何個食べてもいい」) 彼女はなぜ、その正しい行動を止めてしまったのか? 簡単である、栄養学における「常識」の奴隷であったから、そして、今もそうであるからだ

 

 自由的、科学的である栄養士ですら、これならば、福沢の作って来た世界と言うものは、「学校」と言う奴隷斡旋所のある世界、自由や平等を説きながら、その反対のものに従い、屈服していると言う事なのだ しかも、それ(福沢)は現実の世界に影響してしまっているのだ 普通に考えたら、福沢と言うモノは、その思想からして、汚らわしく、卑しく、白人屈服的、著しく売国的(西洋思想に対して、あまりにも無批判的)なのである

 …着目したいのは、”天下国家”と言う所、「地上国家」と言う事実概念を用いず、チャイナの古い宗教を持ち出している これが「神道国家・日本」=大日本帝国と言う所に繋がっており、平等と言いながら、皇帝(天皇)支配をあおり立てている 思想家としては少し、矛盾が過ぎる

 

 所詮、福沢の言う事は、自己矛盾に満ちたウソに過ぎないのであり、実際、福沢の言う事を聞いて、一体誰がそれをなし遂げられただろうか? いや、誰だって、福沢の言う事を聞いていたら、奴隷である「常識人」になってしまう事だろう 所詮、福沢は自己欺瞞の思想家に過ぎず、矮小であるからこそ、自分を大きく見せる為に、誇大な事をベラベラ喋っているに過ぎないのである

「国家ではなく、「常識」に依存する事への重要性」を福沢は説いた 要するに、「愛国者は文化人ではない」と説いたのである

 

 控え目に言って、国家と言うものには愛国者は必要だし、そう言うものの見方が出来る人がいなければ、近代国家であってもなり立ちはしない

…ましてや現代など、亡国論の平和主義者が横行する中で、愛国論の愛国者はさらに必要なものとされる

 

 ここまで読んだ読者は、この流れになる事はお分かりだろうが、「常識」に”依存する”事が奴隷となるならば、国家に”依存し”、国家の為に動く事が、明らかに、私たちを私たち足らしめる唯一の、国家に対する考え方ではないか? そう言う結論が為されるのである

「独立自尊」、他人の考えを借りて来て、自分の考えのように語る事のどこが、「自分の判断」なのか?(たとえば、「民主主義」)

 

 他人の教えを借りて来て、自分の教えのように語る事のどこが、「自分の責任」としているのか?(「独立自尊」自体が、「天上天下唯我独尊」の「天下の独尊」を借りて来て、自分の言葉で言い表したものに過ぎない)

 

 

 

 「一身独立して一国独立す」、先に述べたように、教えを借りる事の教えが「独立」しているわけがない

 

 福沢が独立していない考えの持ち主なのに、何が「慶應義塾(けいおうぎじゅく)」か?

 

 福沢自身が批判精神を持たず、持つべき責務を果たしていないのである


 
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