ラッセルの流れだが、筋学・スポーツ学を代表して言おう
”働くのは三日(一週間中)でいい”
筋肉は五日も連続してフルで働けるようにはなっていない
せいぜい、二日連続で、残り一日は時間を断裂しなければならない
…働けているって?
……効率はまず、比較によって得られるデータにより、スポーツ学は筋肉を稼働するのに、ハイパフォーマンスの結果が得られたのは一日おきだそうだ
それによれば、筋肉は効率的に三日しか働けないのだよ
…お前たち、「常識人」の言うような、病的な働き方をしても、病気になるだけで、それだけの意味もない
”三日だけ働いて後は休め”
と言う律法でも作るべきだろう…
…本当に病児教の「常識」と言う教えを信じている事は許される事なのだろうか?
多分に許されない事は、病児教によって、人間がうつ、多重人格、統合失調症、一時的な失語症、カプグラ症候群、デカダンス症候群、嘘つき(自発的な病気)を患う事から、自然そうなるのである
……そして、彼らは本当に人間なのだろうか? むしろ、妖怪だろうと思われる
この世界は形式界である
形式界と重なる形で、錯覚界が存在し、世間の人はこれを厳とした現実だと思っている
形式界がそのまま現れている所、錯覚界を除いた所の形式界、これを真の現実、真実と言う
錯覚界は神々の世界、幻覚の世界、文字の世界、病気の世界、この四つを合わせて錯覚界と呼んでいる
…神の奇跡が現れないのは、錯覚界があるからで、錯覚界は頑迷な性質のもので出来ている
錯覚界について、知識がある人は”神はいない”事を知っている
…現象にならない神で、現象に影響力を持たない神は”いない”のと同じである
しかし、私は自分への信仰を教えた
…信仰の存在である自分は「一個価値」において自分に、信仰されるべきであるとアンチ・クリストに教えた
自分の中にあるゴー・グ、これは自分である
だから、自分と言える全てを肯定し、承認し、信仰すべきであると言ったのである
(私の母は世間の人には珍しく、神を信じる人である……)
「常識」と言うのはあまりにも揺らぎが大きくて、結果として、その人のエゴが反映されている事が、前提条件になっている
「常識的でない」と言うのも同じ事、”それが自分に取って当然(それが好都合)”、”それは自分に取って困る(それは不都合)”と言う、なかばむき出しのエゴでしかない
この形式界は形容(詩的な宗教)ではなく、形質(科学・疑似科学)で埋まりつつある
…それを見て、ニーチェは「神は死んだ」と言った
実は、※神とは信用するものであって、そもそも「神への信用」は形によって証明されるものではなく、ただ(七作話世界(世界とは、七つの作話と言う”幻想”である)の)形式(創造へのこだわり)の意識に存在するのである
※神…忠不忠派の神=幻想の神クリスティー・スカーレットの事
形式(こだわりのある創造物・たとえば、「私」と言う存在)の意識の中に、
「有限生の意識」と言うものがある
…キリスト教の「不死の信仰」の反対は「有限生の意識」であって、現実的な感覚を取り戻すには、「有限生の意識」が連なって、人生がある事を知らなければならない
……つまり、「意識」と言っても、「意識」や「無意識」、「知識」、「認識」、「反識」=病児教の「常識」やキリスト教の「無・常識的」な「知識」を除いた、全ての「意識」を「意識」と呼んでいるのである
結局の所、「有限生の、意識、無意識、有・常識の知識、認識」が人生を創造しているのだよ?
好破壊主義者
好(よ)いの善いへの言い換え、これがキリスト教・病児教である
マルクス哲学の「労働価値説」への反論
安欲商品=買う 消費者=安いを妥当と言う、安いを高いと言う、高いも高いと言う
商品を購入する事を決めるには、その商品を欲しいと言う事と、自分にしては安いと言う事を知る必要がある
購入すると決める場合には、知性熱の中の、購買意欲が熱を持ち、買う事を決める
条件として、その商品が欲しい、安いと言う事が挙げられ、購買意欲が熱を持つ事によって買うのである
(時として間違いや勢い、強制もある)
形式(こだわりのある創造物=物性)が適用されない因子が存在する→「世界は病気である」
→一種の幽霊
→現実の人間が”それ”に対応してしまっている(「ピンポンダッシュ」と思われる事象など)
→あるいは、もの(者・物)に逆らう因子が存在する(「ニヒリズム」=者に逆らう因子として、体を抜け出てしまう因子)
→世界幻覚(錯覚界の存在)などもそう それが常習化しているので、神に従わない”それ”を指して「神は死んだ」とニーチェは言った 実際、神の奇跡はこの錯覚界では目立たない つまり、我々が形式界(真実の世界)ではなく、錯覚界(真実をかなりの割合で除いた現実の世界)に生きている事を指して「神は死んだ」とされたのである
→この形式が適用されない因子を「非形式的因子」(物でない因子)と言う
資料〇一
核兵器のプログラム理論
核兵器と言うものは原子と言うものの証明として開発されたが、そもそも爆発して威力が大きいならば、わざわざ原子と言うものを意識して仮定する必要もないのだ
原子と言うものが存在しないとしても(少なくとも、ニーチェや私はそう主張する)、各国は別に困らないのである
…なぜなら、プログラミングにおいて同じ表示がされるならば、わざわざ本格的で難しいプログラムを書かなくとも、より簡単でシンプルなコードで良いのである つまり、爆発に複数パターン用意する必要はなく、核開発には、技術的にシンプルな知識で挑める
……どう言う事であるか? 仮に核兵器を開発するにしても、こう言うものと核が示されている以上(日本への原爆投下)、
・プルトニウムを使う
・威力が町数個並(これも怪しい アフガニスタンにアメリカが使ったものはそんなに威力のあるものではなかった …一応、アレも威力を抑えた核である)
と言う条件であって、後は体裁を整えれば良い
…必ずしも核兵器を名付いている事が示している、核分裂による爆弾である必要はない
それはざっくばらんに、以上の条件を満たした爆発への一パターンさえ作ればいい 技術的には、プログラミングで言う、条件式などは覚える必要はなく、ただ、文字を表示する、適当に何かを打ったら、別の文字を表示する、と言う簡単な事なのである
これをプログラム理論と言い、核兵器の爆発はプログラミングで言うとこれぐらい単純なのだ
…だから、核兵器と言っても「核分裂」っちゅう極めて難しくて精密で専門的な事をしているかと言うと、むしろ、その逆、核兵器とは名ばかりの物もあれば、アメリカの核兵器より威力が大きい、アメリカより単純に作れている、ただそれだけの核もあるのである
三界「世界」
世界はこう出来ている
…奥底から、形式界、(真実界)
その上に、錯覚界、(現実界)
人間に直接関わるものが、脳鍵(ブレーンロック)界(制限界(=自然ですら、陰陽術の結界によって制限されている))と、
三界(さんがい)によって、それらを区別する事なく、無神経に世間の人は「世界」と呼んでいる
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形式界、この世界について