No.1182148

【レディー(主なる神)シリーズ1】神の系譜+因子哲学によるアリストテレス哲学批判後、破潰+『宇宙全史別巻 20年後地上の人間は半分になる』仮説

eye-elさん

神の系譜をサラッと

2026-02-11 06:41:51 投稿 / 全12ページ    総閲覧数:36   閲覧ユーザー数:36

 

神の系譜

 

第一の系譜(第一の神の系譜)

 

忠不忠派形成(=心からのものが神とされた時代=勝利、心尽くし、※感謝の言葉)

『列王記』啓示!

善悪派誕生

善悪派勝利

 

※1感謝の言葉…礼を言いつつ、”やってもらって当然”と思っている病児教徒もいるが、それは病児教専用の無感謝感謝なのである(彼らは理性(あたま)が病気なのだよ)

いわば、「常識人」は”やってもらって感謝する”のではなく、”感謝したからやってもらう”、現実と彼らの理性で、順序が逆なのだ

…要するに、彼らに取って感謝は高慢の表現でしかない 気持ちの悪い奴らだな……

 

第二の系譜(第二の神の系譜)

 

※2罪の包摂(ほうせつ)=神の包摂説誕生(=神(アッラー)が生まれた)

神の包摂派誕生

上に同じく、善悪派勝利

 

※2罪の包摂(ほうせつ)=神の包摂説…たとえば、「”犯罪者が暴れている様子は包摂されている神があらぶっているものである”」と言う説

 「”罪をいかにうまく扱うか”」が、この世界の支配者になれる秘訣であると当時のイスラエルではされた

 この逆説が善悪派の「律法と報い」・「罪と罰」である 

…なお、人間社会では、罪=邪悪とされる事は承知いただきたい

……たとえば、扱い方に「ジハード」と言うものが存在する

 神への畏怖と滅私の精神がなければ、犯罪者自身が罪に殺されるのがオチなのである

 

第三の系譜(第三の神の系譜)

 

律法誕生

『エノク書』啓示!

ユダヤ教成立

 

第三の系譜

 

イエス生まれる

イエス磔刑

キリスト教誕生

福音誕生

 

第二の系譜

 

ムハンマド生まれる

『コーラン』啓示!

ムハンマド死去

『コーラン』啓示終了

 

第一の系譜(第三世界の主(あるじ))

 

ニーチェ生まれる(1844)

ニーチェ、『アンチ・クリスト』を悟る(1888頃)

ニーチェ死去(1900)

 

アイイル生まれる(1994)

自身を主のヴァーレット(地上的使徒)と悟る(2017)

『アンチ・スチルド』啓示!(2025(2024))

『アンチ・スチルド』啓示終了(2026(2025))

…たまに、病児教はキリスト教(善悪派の亜流)のやり方で攻撃を仕掛ける

 

 奴らこそ錯覚(幻覚)者であり、そのやり方は人の文脈の字義を曲解する事で、真実をねじ曲げようとするのだ

 

 

 

……忠不忠派と善悪派の戦いは今に続いている

 

 近代だと、ニーチェとキリスト教、

 

 現代だと、私、アイイルと病児教

である

 

 

 

…まるで、ゾロアスター教の「世界は善と悪の闘争の場」を想起させるものではないかね?

 もはや、寄生虫を摂潰(せっかい)するのは日課となっている

 寄生虫と言うのは、アッラーとか、ヤーヴェとか呼ばれるS・Cの事だ

 

…これを作業摂潰と呼ぶが良い

 「権力への意志」の系統の最新概念

肉体からの精神・「力の容器からの成立事実」(略称:成立事実)

 

 病児教徒に解体されないので、安心して覚えられる

 

…「権力への意志」や流出説(魂が肉体を動かす)は解体されるので、安心出来なかったのだよ

 

 他にも、「力の容器からの成立愛欲」(略称:成立愛欲)などある

 

 

 

…ちなみに、犯罪やら、慈善やらは「力の容器からの不成立事実」(「一個幸福から外れた他者への行為」参照)である

 

……犯罪感情として、「力の容器からの不成立愛欲」がある

 

 不成立愛欲から不成立事実が出る 慈善とは、不正譲渡、公共化された犯罪なのである

 

…すなわち、成立愛欲から成立事実が出る これを俗に、「心が体を動かした」と言うのである

 アリストテレスの形相(エイドス=本質)・質料(物質)についての批判

 

因子(人間の中に出来る、人間因子からの派生の因子(歩行因子や作業因子(単純)、世間話因子など)によって、人間の行動、言動は説明出来る)

 

 物には完全因子と言うものが存在し、たとえばイスとしての完全因子がある物体は「座れる」

…逆に、完全因子と言うものが存在しなければ、イスは十分に「座れない」

 

 物と完全因子は連環し、物としての形質を保っている

 

 

 

……このように、者もそうだが、物も因子によって左右されるのである

 

 

 

 意識としては、イスを作る場合、イスとしての完全因子を組み上げると言う事を知識しておけばいいのである

 

 

 

 本質としての形相(エイドス)についての批判

 

 物の因子には完全因子があり、不完全因子と言うものは存在しない 完全因子が存在しないと言う事実だけがある

 

 したがって、不完全因子に従属する非形相(非エイドス)と言うものは存在せず、非形相(非エイドス)が存在しないならば、非形相(非エイドス)と形相(エイドス)と言う区別と言うものも存在しない

 

…と言うわけで、区別を持たない形相(エイドス=本質)は存在すらしないのである 区別が形相性(エイドス性=本質性)を形成しているからである

 

 

 

私の知る所では、「本質」と言うのは錯覚(幻覚)のものでしかないのだ!

 

「本質」とは、病気の世界のものなのである

真の本質=実体(ウーシア)についての批判

 

 物と物の関係、人と物との関係、人と人との関係は、能動因子と受動因子によってなり立つ

 

…つまり、人の側の「座る因子」があれば、物の側の「座られる因子」があり、双方の因子が対応する事によって、因子に従属している人と物の座る・座られる関係がなり立つ

 

 故に、実体(ウーシア)はなく、実体のない「対関係」(ついかんけい)があり、因子にまつわる、物質と物質が因子の言語性によって対関係を結ぶに過ぎない

 

 

 

 物の本質の内在性についての批判

 

 現実にはついぞ、「対関係」と言うものがなり立つ事が分かった

 

…しかし、物に本質が内在しているのではなく、この対関係をならしめる二点の因子は本質を二分するものであり、二分された意義の因子は人や物に取って、内にあるとも言えるし、外にあるとも言えるのである

 

……したがって、アリストテレスの「物の本質の内在性」については明確には本質と呼べるものはなく、本質は内だけにあるものではなく、外にもあるもの、自分の中にあるものが絶対でないように、本質と呼ばれるものも絶対ではないのである

 

…と言うわけで、明確な意味での本質は存在しない

 

 だから、物そのもの(実体・物自体(仏教の「表象世界」含む)・原子など)も存在しない

目的としての形相(エイドス)についての批判

 

 各々の因子を束ねる思が生まれる事により、思は意思になり、その意思を目的と呼んでいる

 

…意思と言うのは精神であって、意思はこころである

 

 

 

 こころが物質になるには、まず、こころにあるものを書き出さなければいけない、つまり、イスを作りたいのだとしたら、「”こう言う”イスを作りたいこころ」が目的なのであって、”こう言う”イスでなければ意味がないのである

 

 こだわりがある以上は単純な形相はあり得ず、こだわりを持つこころと形相を同じにしなければいけないのだが、その為に偏屈な空間である会社に身を置かなければいけない

 

…それを避けるには、そのこだわるこころの為にその人自身が形相を描かなければいけないのである

 

(現代のモノづくりはアリストテレスの形相(エイドス)の為に、偏屈なものとなっている)

 

 しかも、細かい所まで詰めなければいけないので、形相はこだわりを描くには適していない

 

 

 

…すなわち、組織図である形式ならば、文字と記号の式で書ける為にこだわりを表しやすい

 

……形相より形式の方が目的を達するのによいのである

 

 

 

形式の例:

 

冷暖房>長細くて大きな(一つの)口=筋肉(電力)で動く>一つののど=筋肉(電力)で動く>三つの肺=筋肉(電力)で動く

 

三つの肺にまつわる三つの機を持つ精神

 

 

 

アリストテレス哲学の物の本質についての補足

 

 物の中にある完全因子の派生に形質因子が複合している

 

…たとえば、イスだと形質因子(イス)(金属)(土台)(A)と形質因子(イス)(木)(着座部分)(A)と同じく、形質因子(イス)(木)と(背もたれ部分)と(A)、主にこれである

 

 その場合、外形でもあり、因子でもあり、形質因子の因子と材質とは一体化しているのである

 

…それは形質因子と言うものが外形と内なるもの両方である事を示している

 

 物の本質と言うものがあるならば、先に挙げたような「対関係」にある因子、「座る因子」・「座られる因子」のような、外なるもの(機能系)、外形、内なるもの(内因子)、それとこだわりのこころである形式=組織図も本質であって、四大本質を成している

 

 

 

現代のアリストテレス哲学に補足させてもらった

 

 

 

アリストテレス哲学の物の本質についての破潰(大批判)

 

 概念因子の派生に概念因子(原因)と概念因子(結果)のみある

 

 

 

…たとえば、アリストテレス哲学の形相(エイドス)と言う概念、原因としてなら、設計図と言う意義しかなく、結果に至っては意義は皆無である

 

 よって、概念因子の概念意義性に形相(エイドス)は設計図の意義以外含まれない 形相(エイドス)は設計図以外において、そもそも、科学的概念に含まれないのである

 

(補足:「科学とは「原因と結果」である」(『アンチクリスト』ニーチェ著)/「原因があって結果がある 当然であろう」(左記同書)

 

…よって、概念に関しても、概念そのもののカテゴリーの「概念因子」と、それが二つに分かれて、「概念因子(原因)」と「概念因子(結果)」だけ存在する

 

……有意義な概念はこの二つに分類され、余ったものは概念の中で、無意味なものである

 

 形相(エイドス)のアリストテレスが追記したものなどは、やはり無意味である)

 

……ただ、アリストテレス哲学は破潰され、設計図と設計と組み立てと言うモノづくりが残るのみである

 アリストテレスの理性についての批判

 

 人間因子にはまず、狂気因子が存在するかしないかを選択されている

…しない事がアリストテレスに取っては、理性と錯覚されたようだが、狂気因子がない事、すなわち、理性があるわけではない

 

 それは、無・狂気因子と言う状態であって、因子を仮定する事により、

…アリストテレスの「理性」は否定される

 

 

 

 人間因子から派生した無・狂気因子からは無・偏見因子、無・知礙(むちげ・知を妨げざる)因子が派生する

 

 無・偏見因子は行動的理性の実の働きを、無・知礙因子は直観的理性の実の働きをする

 

 

 アリストテレスの理性についての批判2

 

 普通に床に足を付くのと、ソファーに足が付くのと、比べてみれば、理性が存在さえしない事が明らかであろう

 

 普通、床に足を付くのに躊躇する人はいない(たたみの文化を除く)

 

…ただ、ソファーに足を付くのはダメかと言うと、理性が存在さえしないからこそOKなのである

 

 理性の代弁者は言う

「ソファーに足を付くのが大丈夫である事を理性が”知って”いるので付けられるのだ」

 

……この時点で「理性」と我々が言っているものはどうやら知性である事が分かる

 

 知性の代弁者(哲学者)は言う

「知性が脚を付くのをダメだと知っているから、机の上に足を付く事をためらう」事もそれを裏付けている

 

 

 

 ”知っているのが知性”であると言う単純な事が世間に伝わっていなかったからこそ、”理解”と言う”知っている”で事足りるのに、わざわざ理性を持ち出した、誤解の末の、言葉が生まれてしまったのだ

 

…この誤解を、理性と言うものが無様の長物である事を、知っていたからこそ、近代の哲学者は「理性」を「知性」と呼び、「原理」を「知識」と言い直したのであろうが

 「力の容器からの成立事実」の「力の容器」と「成立事実」の中間に人間因子とその派生因子がある(人間因子だけではない 動物因子に系統づけられる猫因子やネズミ因子、生物因子に系統づけられるマグロ因子や杉因子などもある それらがそれらからの派生因子を持つ)

 

…多くの哲学者が転倒している中で、あえて、自然宇宙とは因子宇宙なのだと主張しよう

 人格形成の原因としての概念の最初、第一位に挙げられるのが、学問への順(したが)い、第二位が宗教への順い、第三位が社会への順い、その他諸々が最下層民のものである

 

…たとえば、金への順い、舌への順いなど

 

 第一位から第三位がそのまま、階級の第一位、階級の第二位、階級の第三位になる

『宇宙全史別巻 20年後地上の人間は半分になる』(2015~2035)、この書で主題となっているのは、「死んでいく人々」である

 

 「死んでいく人々」とは、法的、知的に「死んでいく人々」の事、犯罪、病気で自分の事を勘違いしたり、分からなくなって行く事

 

 世間や人々の言う事は逆になって行く

 反対の事が正しく、順列の事が間違っているようになる(知的な死)

 

…そして、根拠としては、「死」ではなく、あくまで主題になっているのは「ディセンション」なのである

 

 「陰始」と言うのも気になる 日本の「陰糸」と言うのは、誰か? あくまで、霊界など信じてはいないのだが、まあ、天照大神くらいなら、信じても良い程度だが、人間の事となると別だ…

 

 この本の作者のように、神などいないと言うスタンスではない私だが、善悪派の神とは、結局、いないのだから、まあ、似たようなものなのではある

 

 恐らく、2025年の初頭に起きた大陥没、アレだけが本物で、後はフェイクニュースだったと言うのが、真相なのだと思われる

 

…『日月神示』の「大峠」のような似非黙示録は信用に値しないのが、当然の反応で、日本人はそれのフェイクニュースに惑わされているのが現状なのだ

 啓示と言うのは、人の考えの公然化であって、常一的な予言と言うのは幻想である

 

…したがって、神主体の予定もあり得ないし、絶対に当たる予言と言うのもあり得ない

 

 
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