…私たちに与えられた神々への導(しる)べは、”覚えている事”と”考える事”と”疑う事”の三つだ
まず、人間は「通常感覚からの欲動(通常の感情や欲望)」によって動いている事
…これを確かめて欲しい
「究極感覚からの欲動」は、この「通常感覚からの欲動」がベースとなっている
妊娠と言う大切なものは寛容な心でして、寛容(トーレ=善)的に至るべきである
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
妊娠には不寛容(イントーレ=悪)的に至るべきではないのである
これが倫理(道徳)と言うものであり、「通常感覚からの欲動」の根底にはその「倫理の山(トーレ・イントーレ(善悪)の上にまた以上のような倫理が存在する)」が連なっている・
倫理の山に否定されるものは「通常感覚からの欲動」の一部、「実在以外による世界支配(全人類の主)」・「強姦」など、
倫理の山に肯定・奨励されるものは「究極感覚からの欲動」(野球の「素振り」・空手の「正拳突き」を極めるなど)と言う発想で良い
「法・原則に触れるものは何ら”特別なる事”にはならない」と言う事・
「誇らず伏せよ」と・
究極感覚からの欲動
人間が生まれて、乳房のおっぱいを吸うようになってから、まず、おっぱいの出る乳房に「究極感覚」を覚え、このおっぱいの出る乳房のような、乳離れした後、異性などに対して満たされた「究極感覚」的身体を”持続的に”持つ事を求め出す
(これが性の欲求の芽生えである)
…その後、異性との触れ合いを通して、どうやら、世界と言うものに「究極感覚」的身体を、自他的に手に入れる鍵がある事が分かる 金や鍛錬、学などのそうした「究極感覚への方法」を学び取る
方法はあくまで方法であるが、うまく使う事によって、「究極感覚」的身体を得られる
(「究極感覚への方法」を知る事が「世界」を知ると言う事である)
「究極感覚からの欲動」と、先に話した「通常感覚からの欲動」が違う点は、「究極感覚からの欲動」の「感覚」が至福感で満たされていると言う事だ …しかも、この「感覚」は「究極」である
…それからの欲動が「究極感覚からの欲動」である
人間の「通常感覚からの欲動」よりも深い、「根源的欲求」と言える代物
普通、人間は「究極感覚からの欲動」への希望によって生きている …だから、「究極感覚からの欲動」が「根源的欲求」と言えるのだ! そして、それを持つ人間は、力と希望の神体(神々)なのだ
これをこうして行ったら、こう言う感覚が得られるまでになる
…と言う究極感覚が、イメージとともに見える事がある
その感覚から来る欲動に従って、その意識を無意識レベルまでにして行く
…これが神々の導(しるべ)である!
…この「究極感覚からの欲動」を持っているか、いないかで、人間は二極化されてしまう……
この二極化の陰の極(「通常感覚からの欲動」の輪廻(りんね・生まれ変わる事) )から脱するには、
究極感覚を見て、思い出して、
…陽の極(「究極感覚からの欲動」の輪廻)に回るしかない!
純粋な感覚である究極感覚は、肉体に付属するもの、感覚、すなわち、心、「純粋な心」でもあり、
…「純粋な心」を欲動に繋げる、すなわち、これが
「究極感覚からの欲動」
…これを熟語にすると、
「究極神(究極心の熟語)からの欲動」
なのである
…普段は、あえて熟語にせず、解りやすくしているのである!
・手感覚(しゅかんかく)‐動きにまつわる感覚
・足感覚(そくかんかく)‐現実的な感覚
・脳感覚(のうかんかく)‐いわゆる意識
この三本感覚と言うのが、いわゆる精神である
・芯感覚(しんかんかく)‐本能・理性(こころ)
いわば、精神(魂)が肉体を動かすのではなく、肉体が精神(三本感覚)を動かすと言う事がこの感覚=精神から読み取れる
…たとえば、キリスト神学・イスラム哲学などは、精神(魂)が肉体を動かす事が前提される
現代哲学はその反対、肉体が精神(三本感覚)を動かす事が前提されたい
・甘いものを摂ると、頭が働く
・歩くと、思考が活性化される
・便意を(肉体が)感じると、(精神意欲は)トイレに行く
など・
…さらに芯感覚から肉体に繋げば、本能と理性、適材適所で動く人間が出来上がる
肉体上の事(通常感覚・究極感覚)が精神(それらからの欲動)を動かす事は至極、当然の主張である!
単純に言うと、究極感覚からの欲動に繋がるものが善で、通常感覚からの欲動に繋がるものが悪である
…私で言うと、以上の善か悪かで見分けて、悪を始末する事、つまり、”破潰”もそれである!
…後は日々の蹴り込み、その二つと、土台を作るものである!
|
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
滝口哲学の一つ