…私たちに与えられた神々への導(しる)べは、”覚えている事”と”考える事”と”疑う事”と”自分を信じる事”と”何かを嫌う事”と”病気に価値を見出す事”と”究極感覚”の七つだ
…現実で生き抜く術と言うのは、”柔和”、自分の今までの作話的思考(その典型が、「常識人」哲学・「変態」哲学で批判した「オビタスの大竹」のような思考)の間違いを認めて、柔和になれる、そして、目標(ザ・ゴール)を欲求する事
通常感覚からの欲動
まず、人間は「通常感覚からの欲動(通常の感情や欲望、情動)」によって動いている事
…これを確かめてもらいたい!
「究極感覚からの欲動」は、この「通常感覚からの欲動」がベースとなっている
-断り=この創作は犯罪を助長するものではない-
妊娠と言う大切なものは寛容(トーレ=善)な心でして、寛容(トーレ)的に至るべきである
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妊娠には不寛容(イントーレ=悪)的に至るべきではないのである(…よって「強姦」と言う手段そのものが否定される)
…これが倫理(道徳)と言うものであり、「通常感覚からの欲動」の根底にはその「倫理の山(寛容不寛容(トーレ・イントーレ=善悪)の上にまた以上のような倫理が存在する)」が連なっている・
(トーレ・イントーレ二元論については
「【黒冥土の溟と白姉の夕闇第一章】 第五.五話:トーレ・イントーレ(現実的な善悪)二元論(パート二:第四話~第六話(全四パート:全十二話))」
にて掲載)
倫理の山に否定されるものは「通常感覚からの欲動」の一部、「実在以外による世界支配(「全人類の絶対神」)」・「強姦(レイプ)」・「殺人」・「盗み」・※「不倫」・「奴隷労働」・「女人労働禁止」など、
※注:分かりづらいが、不倫も不寛容(イントーレ=悪)の一つである なぜなら、不倫は「お前はこの女より良い女とセックスしなければならない」と言う自分自身への不寛容(イントーレ)な命令から、”この女”から心は離れて、不倫するからだ!
倫理の山に承認されるものは「通常感覚からの欲動」の本命、「買って食べる(食べて支払う)」・「買って飲む(飲んで支払う)」・「ルールを守って乗り物に乗る」・「マナーを守って遊ぶ」・「自分の家で寝る」・「トイレで用を足す」・「正当に性欲を満たす」など、
倫理の山に肯定・奨励されるものは「究極感覚からの欲動」(サッカーの「ドリブル・パス」・野球の「素振り(ホームランバッターもこれ)・キャッチボール」・空手の「正拳突き」・女性體術の「蹴り上げ」を極めるなど)と言う発想で良い
「法・原則に触れるものは何ら”特別なる事”にはならない」と言う事・
「誇らず伏せよ」と・
…後、ニーチェのようにラディカルな人間ではないな、と思う人は以下の「私益倫理・公益倫理」を学ぶといい
私益倫理
倫理の山が私益するものは「究極感覚からの欲動」の一部、自らの心が欲するなら、自らの私益(たとえば、見た目についてや金銭を出し惜しみする事、心地がいい事(現実の居心地))の為に、我慢しない方がいいと言われている事も我慢した方がいい・生活について、「マスターベーション」・「食べ物」・「飲み物」・「金銭」・「眠気」・「感情」・「意識的な事」についてである
例:ヘブライ人イエスの「誰でも情欲を抱いて女を見る者は心の中で既に姦淫を犯したのである」(「姦淫」はヘブライ人にとって避けるべき罪悪とされる・自然欲情なら良い)
例:セックスしたいと考えるならば、より相応しくない場で、その「感情」は我慢した方がいい
例:犯罪となるならば、少なくとも、その場は「感情」を我慢した方がいい
例:無理を押す範囲でのダイエットをする その時は、「食べ物」を我慢した方がいい
例:カフェインなどを摂って埋め合わせ出来るなら、早めに起きて、「眠気」は我慢した方がいい
例:「意識的な事」の不法要素、犯罪については全て限りなく我慢した方がいい
公益倫理
倫理の山が公益するものは「通常感覚からの欲動」の一部、自らの心が欲するなら、自らの公益(たとえば、金銭や動画再生回数などに繋がるもの)の為に、たとえ、戒律によって禁じられていたとしても我慢しなくていい・上に同じく生活について、「マスターベーション」・「食べ物」・「飲み物」・「金銭」・「眠気」・「感情」・「意識的な事」についてである
例:マスターベーションへの我慢は男としての器も試される 精〇が濃い黄色になったら、我慢するのに十分である その時は我慢しない
例:己のセックス経験値(権力そのもの)を高める為に、年上の人と性交渉を持つなどして、子孫繁栄を、セックス経験値(権力そのもの)を高めた後の事として考える まずは、工程を経てのセックスの「感情」を我慢しない
例:犯罪にならない範囲で、「感情」や「金銭」について我慢しない
例:ダイエット中でも、どうしても食べたい時がある 体が求めているならば、応じなければ、さらに食べ過ぎてしまうだろう その時は、「食べ物」を少しだけ余計に、我慢しなくていい
例:心配事がなく、寝れてしまうなら、「眠気」は我慢しない
…両方が重なる部分は、自分の良心に従えばいい
「権力への意志」はニーチェの強さでもあり、「正しさの暴力」でもある
…ただし、正しさの暴力が、強さだけかと言うと、その逆、弱さもある
それが正しくなくてはならなかった、ニーチェの自身への命令である
…ニーチェは自身を客体化して「お前は強くあらなければならない(いけない)」と強く命令した
……結果、生まれたのが、「権力への意志」と言う強さの権化である
…しかし、権力への意志の底意を流れる命令を、誰もが聞かないといけないのか? と言うと、これはちょっと違うと思うのだ!
倫理の山にあてはめて考えると、おおよそ、権力への意志と同じ結果と、異なる余裕のある結果が出る
…結局の所は、権力への意志が正しいのだが、権力への意志そのものが命令するように、
「今すぐそれをせよ!」
…と言うのでは、食べ物に関して、現代のアイドルの立場はどうなってしまうのだろう?
権力への意志をもって間違っている、と指摘したにしても、間違う道筋と言うものも用意すべきだし、自分に取っての正解が絶対にそれであるとは限らない
…強制される結果が正しいと思えない人も多くいる
だから、今回は権力への意志とは、少し別に、ゆとりのある「私益倫理・公益倫理」を用意させてもらった…
※注:権力への意志の結果は公益倫理単体において見出され、これに私益倫理を加え、余裕を持たせる事によって、権力への意志からの更なる飛翔を可能にしている ただし、感情の限界に気を付ける事!
昔は福音のように私益倫理単体の一方的な禁欲が好まれた 知識の水源郷はここにあり!
(ちなみに、インド人と仏教学者の「輪廻転生」は、水源郷の作話(自身の記憶改竄によるもの)である)
究極感覚からの欲動
人間が生まれて、乳房のおっぱいを吸うようになってから、まず、おっぱいの出る乳房に「究極感覚」を覚え、このおっぱいの出る乳房のような、乳離れした後、異性などに対して満たされた「究極感覚」的身体を”持続的に”持つ事を求め出す
(これが性の欲求の芽生えである)
…その後、異性との触れ合いを通して、どうやら、世界と言うものに「究極感覚」的身体を、自他的に手に入れる鍵がある事が分かる 金や鍛錬、学などのそうした「究極感覚への方法」を学び取る
方法はあくまで方法であるが、うまく使う事によって、「究極感覚」的身体を得られる
(「究極感覚への方法」を知る事が「世界」を知ると言う事である)
「究極感覚からの欲動」と、先に話した「通常感覚からの欲動」が違う点は、「究極感覚からの欲動」の「感覚」が至福感で満たされていると言う事だ …しかも、この「感覚」は「究極」である
…それからの欲動が「究極感覚からの欲動」である
人間の「通常感覚からの欲動」よりも深い、「根源的欲求」と言える代物
普通、人間は「究極感覚からの欲動」への希望によって生きている …だから、「究極感覚からの欲動」が「根源的欲求」と言えるのだ! そして、それを持つ人間は、力と希望の神体(神々)なのだ
これをこうして行ったら、こう言う感覚が得られるまでになる
…と言う究極感覚が、イメージとともに見える事がある
その感覚から来る欲動に従って、その意識を無意識レベルまでにして行く
…これが神々の導(しるべ)である!
…この「究極感覚からの欲動」を持っているか、いないかで、人間は二極化されてしまう……
この二極化の陰の極(「通常感覚からの欲動」の輪廻(りんね・生まれ変わる事) )から脱するには、
究極感覚を見て、思い出して、
…陽の極(「究極感覚からの欲動」の輪廻)に回るしかない!
純粋な感覚である究極感覚は、肉体に付属するもの、感覚、すなわち、心、「純粋な心」でもあり、
…その、「ひたむきで純粋な心」を欲動に繋げる、すなわち、これが、
「究極感覚からの欲動」
…これを熟語にすると、
「究極神(究極心の熟語)からの欲動」
なのである
…普段は、あえて熟語にせず、解りやすくしているのである!
・手感覚(しゅかんかく)‐動きにまつわる感覚(”動かさなければ”と肉体が感覚する事により筋肉を連動させて精神が動く)
・足感覚(そくかんかく)‐現実的な感覚(重さ・大きさ・遠近(大雑把さ・精密さ)などのリアリティー)
・脳感覚(のうかんかく)‐いわゆる意識(現実の光が理的な光として、知的な光、考える・言語思考する・起床する・知る・ある事を意識して努力する)
この三本感覚と言うのが、いわゆる精神である
・芯感覚(しんかんかく)‐本能・理性(こころ)
いわば、精神(魂)が肉体を動かすのではなく、肉体が精神を動かすと言う事が、本能からの「肉体=感覚=(流出説で言う)精神」、「肉体」からの精神(欲動)から読み取れる
(本能が肉体を顕し、肉体が精神を動かす、五本感覚説)
本能=芯感覚、肉体=当該感覚、精神=三本感覚(手感覚・足感覚・脳感覚)
…たとえば、イスラム哲学などは、流出説と言って、精神(魂)が肉体を動かす事が前提される
現代哲学はその反対、肉体が精神(三本感覚)を動かす事に前提されたい
類例として…
・甘いものを摂ると、頭(知性)が働く
・歩くと、(精神)思考が活性化される
・便意を(肉体が)感じると、(精神意欲は)トイレに行く
など・
…これらのようなパターンで、現実の人間は物事を為していく
(……より詳しく言うならば、感覚(肉体=精神の精神)が欲動(三本感覚=単純精神)を動かし、さらに、その欲動(単純精神)が肉体(単純肉体)を直接動かすのである …つまり、肉体から動く、肉体がまず資本なのだ!)
…さらに芯感覚から肉体に繋げば、本能と理性、適材適所で動く人間が出来上がる
……質はともかく、キリスト教の本能とキリスト教の理性で動くキリスト教国のアメリカが世界的な資本だから、その人間の現実への通じやすさが分かるであろう
『道徳の系譜』の要約1
……芯感覚として、「”本能は意識性の限られた機能(思考・言語など)によって広大な本能にとって意識性では表現し切れない部分が出て来る為、意識性で本能は伝達しがたい”」
…と言うような事をニーチェは言っている
……これだけでは意味不明だが、”本来、本能で全てまかなえる事もある中で、人間の意識性があっては、本能は全てを伝え切れないのである”ならばどうだろう?
…これなら、上の文も少しは分かるのではないだろうか?
『道徳の系譜』の要約2
キリスト教では神や「神の~」と付くようなものなどと断絶する事を”死ぬ”と言う
…ニーチェはすぐ神と断絶するキリスト教徒を見て、キリスト教徒は「(すぐ”死ぬ”)弱者」と言った
「”キリスト教徒、すぐ死ぬ”」
…強者はその反対の意味・
…詳細は不明だが、「世界は病気である」
ニーチェは世界の病気と言っているが、実は、
”光の病気”(暗示現象としては、世界幻覚)
……具体的には”物の確立の光”が病気である
また、何らかの感情を、ある人に起こさせる物の、確立の光がチラつく事もある
…物の確立の光があると言う事は、その逆側の生物、
モンスター(西洋妖怪)、ジャパニーズ・モンスター(妖怪)、アクマ(鬼)、フェアリー(妖精)、エンジェル(天使)、ジン(妖霊)、
そして、ゴー・グ(神の神々)
…これらは「非確立の生物」である
これらがある すなわち、それはゴッド(神)も、『コーラン』などに現れている通り、あると言う事(S・C)
(光の病気と言っても、別におかしな所はないじゃないか? と思われるかも知れない
…確かに、間違い探し形式でもなければ中々分からないので、「私が「おかしい」と言っている」で納得いただくしかない)
肉体上の事(通常感覚・究極感覚)が精神(それらからの欲動)を動かす事は至極、現実的な主張である!
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滝口哲学の一つ