No.1078352

エノク書4 第三話「キリスト すべての大元」

歴史を下った先のキリストについて。

2021-11-29 13:48:45 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:89   閲覧ユーザー数:89

キリスト。

あの日々にキリストとされた彼の方が右座にちゃんと座っておられる。

これは福音書を知っている者達の視点からの事である。

「これは私の愛する子。私の愛したすべてのものの大元。」

その堂々とされる様、獅子の如(ごと)し、ゆったりと座った様は水辺を歩く鶴(つる)の如し。

実に絶妙(ぜつみょう)な背格好(せかっこう)であられるのである。

その尊厳たるや、犯しがたい淑女の如し、その態度たるや、恥じ入る相手に対する紳士の如し。

実に、これは私が追い求めたすべてのものを兼ね備えており、描写するのも拒(こば)まれる程だ。

私はそれを賛美し、いつまでもほめたたえよう。声に出ていたのか、彼の子は

「私を賛美しようと言うのか?私を愛するか?」

「はい、主よ。あなたをほめたたえながらも、愛しましょうぞ。」

悪びれもせず、キリストはたずねる。

「あなたはなぜ、私を愛するのだ。」

その猜疑心(さいぎしん)はエノクにとって新鮮だった。

ご自身に対しての猜疑心であるからである。

「あなたは神の御子であられますから、その様な事を仰(おっしゃ)らないで下さい。

悪い者は人間と悪魔だけで十分でございます。あなた様まで、その様な猜疑心を持たれないで下さい。」

エノクは御子にとって悪い事を否定的に捉えた。実は、エノクはその容貌(ようぼう)と御心に興味を覚えて、また、ひざまずいた。

それ程までに、本質的に彼の子は美しかった。

彼の幻想の神、クリスティーお嬢様と呼ばれる方でさえ、この彼の子から生まれたのだ。

実際、その実績たるや、天地創造を為し遂げ、神と人とを繋(つな)ぎ合わせ、律法をも下し、福音をもご自身をもって述べ伝えたのである。

「すべてのものの大元」というのは、神の言葉でありながら、嘘(うそ)偽りのない、真実の言葉である。

彼の子は神の言であるから。

「いかにも、私は神の御子であり、神を軽んずる者達の主導者ではなく、つまり、神を拝する者達の主導者である。私はいずれは、世の中を馳(は)せ、人間達を従える。その準備を私は常々しているのだ。」

書を開いてみるとこの様な文が目に留まる。

「神の権威が実在し、天の国は法によって、統べ治められており、良い事、律法・福音は千代に渡るまで続く事を保証している。

天地が滅びるまでは、この教えは廃る事はない。」

「ラドゥエリエルの書」ではこう書かれているのだ。

神は言われる。

「実はこの記述は過去に一度改訂されており、「アッラーフ」と名乗る集団が為させた事なのである。この者達によって、一度、天界はなくなった様になってしまうだろう。しかし、私がいるならば、新たに天界を建て直す事は可能である。私と子と聖霊によりて。」

この様に狂気をもってしてでも、そう簡単には書録(しょろく)天使の書録作業は妨害(ぼうがい)される事がなく、粗(あら)があれば、直していくものなのである。

神は言われる。

「しかし、救いはある。三位一体の神である。彼が神なのは、人間が人間たるからであって、当たり前の事なのである。その者によって、天界は守られる。実際、天界も地界もこの者によって、守られるであろう。この世に信者がいる限り、この者が敗れ去る事はない。」

「我が父よ。私も微力ながら、お助けしましょう。このあなたの子はあなたを裏切る事はありません。」

神にとっての御子と御子にとっての神がいる様に、それぞれがそれぞれにおいて、全くもって、写し鏡となっているのだ。その鏡は、双者がいる為に、絶え間ない現実として、そこに存在しているのである。そうなれば、神にとっての御子と御子にとっての神は現実そのものなのである。

現実は曲げられない。しかしながら、その現実を超えた所に、三位一体の神はあるのだ。

私、著者の幻聴(げんちょう)が神の形をとって、あるいは、それと名乗って何かしでかす事もあるだろうが、しかし、それでも天界、地界は鼓動(こどう)を止めず息づいているのである。狂気の力をもってすら、変えられない事があるのである。


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