TINAMIX REVIEW
TINAMIX
東浩紀インタビュー TINAMI(X)との対話 オタク的図像と検索型世界像
東:東浩紀 ま:まさしろ 相:相沢恵

5.リゾーム構造を検索するシステム

東:
さきほどスキゾとパラノの話をしたけれど、同じように、かつてツリー構造にたいして「リゾーム」*7とがいわれたことがありましたね。オタク系文化もその意味では、すごくリゾーム化している。でも「ツリー」に対して「リゾーム」といったら、「混乱」「カオス」にしかならない。けれど僕は、あそこで「リゾーム」と言われていたのは、つまり高次元のベクトル空間を2次元や3次元にベタッと落としたような、そういう状態のことだったんだと考えているんです。きちんとした秩序を持ったデータ空間からベクトル量をはぎ取ると、リゾームのイメージになる。

注7:リゾーム
フランスの哲学者、ドゥルーズ&ガタリの用語。「根茎」を意味し、樹木(ツリー)構造のように一つの出発点を想定し、そこからの分岐でものを考える思考形態にたいするアンチテーゼ。特権的中心を持たず、それぞれが異質でありつつ、絶えず他の異質なものと接合され、「多種多様体」を形づくっていくものとされる。

そういう高次元の結びつきとしては、あとウェブのハイパーリンクもありますね。ただ僕は、それより検索の方が関心がある。というのも、ハイパーリンクのモデルは「繋がり」だけど、検索のモデルは「近さ」でしょう。たとえばinfoseekで80%ヒット、70%ヒットって出ますね。あの数字が距離ですよね。この「距離」の発想はハイパーリンクにはない。二つの場所がたんに繋がるだけで、そこに量は発生しない。だからハイパーリンクには、日記サイトがおたがいにリンクしあって閉じちゃうような、そんな共同体を作る危険性があるんですね。でも検索だと、距離という別の要素が入ってくるせいで、もっと閉じにくいシステムが作れるような気がします

相:
あるネタについて議論している集団があるとして、彼らは同じような議論をしているのは自分たちだけだと思うかもしれない。でも本当は、似たような島宇宙が、いくつもウェブ上にあるというのを、検索は一気に持ってきてくれると。

東:
それで、そのとき、近さの問題として、ある幅がもたせられるのはいいと思うんです。

相:
そのうちのどれが自分たちの議論に近いか、ということも検索の技術によってはできるかもしれませんね。

東:
さすがに内容までは難しいでしょうけれどね。それに日本語は実は、分かち書きをしてないおかげで、検索にすごく弱い言語でしょう。同じ意味で、図像を検索するっていうのもかなりチャレンジングなわけ。日本語と同じように分かち書きされていないから。いろんな要素が混じりあって、でじこがいくつの要素からできているか、なんてわかんないわけじゃない。それを解きほぐしていって、パラメータ化するところに、検索エンジンのよさっていうのが決定的に出るだろうと思う。

図像の検索、登録システムというと、たとえば、閲覧制限をかけるため、女性器が写っている画像を自動的に登録するようなシステムが開発されているわけですね。そういう画像認識ソフトは今後どんどん必要になるんだろうけど、これとTINAMIの図像の捉え方は根本的に違う。TINAMIの試みは、ひとつの絵を一個の図像として見るんじゃなくて、むしろ分節化する感じなんですよ。

写真5

ルネッサンス・ジェネレーションの講演でも言いましたが、これも僕の主張の大事なところで、僕は、でじこをいいと言っている人は、でじこの図像を、見ているんじゃなくて読んでいるんだと思うんです。岡田斗司夫氏の本を読めば分かることだけど、オタク的な作品鑑賞は「見る」よりむしろ「読む」に近い。ただ映像を見るんじゃなくて、どんどん解釈し、読んでいく発想。ただ岡田さんの説明だと、そのときに「読まれるもの」が、裏情報みたいな、作り手の制作過程やコボレ話に偏っている。僕はその点で、少し異論があるわけです。図像そのものを「読む」ということもあるんじゃないか、と。

それでその点から言うと、でじこを見る感覚は、「ねこみみ」「しっぽ」「鈴」「メイド」と要素にバッと分解して、この組み合わせ方はいいんじゃないかと楽しみ、そういう読み方になっている気がする。「絵を見る」のではなく「絵を読む」というオタク的感性は昔から一貫しているのだけど、ここ10年、その「読まれる対象」が変わってきたのではないか、それが僕の考えなんですね。それで、オタク的な図像は読まれるものだ、という前提があると、TINAMIのような試みが出てくるのはとてもよくわかる。それは実は、文章の検索エンジンに近い考え方で作られている。

ま:
分かち書きをしていないおかげで分けにくい日本語が素解析をするのと同様に、オタク的図像の形態素解析をしている。

東:
まさに形態素解析ですね。そしておもしろいことに、オタク的な図像というのはそれに向いている。

ま:
僕はTINAMIをやっている一方で、検索エンジンを勉強していて、文章の形態素解析を独学でやると、これってキャラクターでできるんじゃないかと思えるんですよね。そういう意味ではTINAMIXでも今後、「キャラクター素解析」と勝手に命名して、企画化しているんですけれど。

東:
もともとオタク系の消費者たちは、「キャラクター素解析」の手法を漠然と身につけていると思うんですよ。そうでないと、オタク系作品って分からない部分が多いから。でもいままではそれが、影響関係だとか、引用ということで語られてきた。影響、引用という場合にはやはり先行作品へのリスペクトがなければならないし、そういうものをわかっている読者へ向けたメッセージとして機能しないと意味がない。けれど90年代のオタク系文化ではそのあたりむしろ弱くなっていって、先行作品は知らないし、あまり興味もないんだけど、「なんとなくいまねこみみが流行だ」とか、そういうタイプの判断になってきている。その結果、引用元があるかないかではない、たんなる形態素だけがバーッとあって、それを組みあわせるような世界になってきている、そういう感じですかね。

ま:
それはオタクな問題だけではなく、世の中もそうなっていると。

注8:テクノ耳、アニメ目
「テクノ」や「アニメ絵」を受容するには、両者とも一種の訓練を必要とすることから、実はそれら快楽として感じる感性はパラレルなものではないか、という考え。詳しくは、本誌にも記事をよせている伊藤剛氏が『広告』7+8号(博報堂)で発表した評論『「テクノ耳」と「アニメ絵目」』を参照。

東:
どうなんだろう。僕はもしかして、テクノでそういう分析が可能なんじゃないか、と以前から漠然と思っていますけどね。サンプリングやリミックスを統御するような、そういう音楽素があるのではないか。その点では、伊藤剛さんがときどき言っている「テクノ耳、アニメ目」*8というのはいい話だと思うんですが。ただ、僕が思いつくのはそれぐらいで、ほかに、これだけデータベースの理念がこんなにきれいにあらわれているジャンルはないかもしれない。

相:
それはオタクの図像が、もともとマンガのときに、現実のものをディフォルメして絵に落としこんだところに出発があるからではないかと思います。もし写実的に描こうとしたら、筋肉の問題があるわけですよね、指の関節とか。こういうものを全部取りこみはじめると要素は増えるから、非常に抽象化してつくられているんですよね。

注9:おジャ魔女どれみ
現在、テレビ朝日系列で放映中の人気テレビアニメ。好奇心旺盛だけどドジな主人公「春風どれみ」、物静かな眼鏡っ娘「藤原はづき」、大坂弁を喋る「妹尾あいこ」の三人が魔法を使えるようになることでいろいろなお話が展開していく……という形で放映当初はスタート。それぞれ赤、黄色、青のキャラのコンセプトカラー、容姿や喋り言葉などがキャラクターの性格や立場を決定づけている代表的作品。→公式サイト

東:
それはそうでしょうね。そういう観点でいったら、「性格素分析」もできるかもしれない。それこそ、髪の色が赤か青かといった要素でキャラの人格がわかるような、そういう世界になりつつあるでしょう。それもまた起源は戦隊モノだろうけど、ギャルゲーの流行以降に決定的になった流れですよね。とりあえず大阪弁キャラはひとりいるとか。そしてそれが純化されると、『おジャ魔女どれみ』*9になる(笑)。

ま:
物語の世界観とかもそうですよね。ファンタジー20%に学園モノ30%とかで。そういう分析も可能だと思う。

相:
ジャンルの自律性がなくなったとよくいわれますよね。「SFが弱くなった」「ファンタジーがダメになった」と。ただ弱くなったというふうに捉えるよりも、あれはジャンルがデータベースのなかに全部溶かしこまれてしまった、と考える方がよくて、その組み合わせでつくられている。そのレベルで、上遠野浩平氏の小説は、やはりおもしろいのではないかと考えているわけですけど。

(CD-ROM収録のパート2につづく)

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