No.710150

スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~<1>【3章-4】

みっくーさん

◆既存投稿ページを再利用したまとめ投稿です。最新投稿分からの続編になります。(2015/06月)

2014-08-20 22:40:21 投稿 / 全24ページ    総閲覧数:453   閲覧ユーザー数:450

 アイバの正常な判断力は、ここで尽きた。

「う……うわあああああああああああああああああああああああああああっ!?」

「――アイバっ!?」

 力任せに目の前のドアを蹴りつけて叩き閉める。同じ動作内で抜剣した剣を、今もだれかが掴んでいるような気のする自分の腰元めがけて振り下ろした。空振る。こちらに駆け寄ろうとしている『スフィールリアの幻影』を両断するつもりでさらに振り抜く。これも空振る。

「無様な剣だ。勇者の祖霊が泣いているぞ――」

「てっめ、ぇ――」

 再び顔を覗かせた教官に向けて支給品の<レベル1・キューブ>を叩き込む。アパートの窓が弾けてガラスの小雨を降らせた。

「なぁ、助けてくれよアイバ」

「ひっ――!?」

 振り返る。剣を振り抜く。

「ねぇ、今日のお夕飯どうしようか――」

 振り向く。空振る。ぐるぐる、ぐるぐると――

「ロイぃ――!」

「ほら待ちなさい、走らないの――」

「王都からいい品、入ったよ――!」「どこ見てやがる、気をつけろっ――」「道をお尋ねしたいのですが――」「アイバく~ん――」「全隊、整列ッ――!」「かくれんぼしようね今すぐ数えるからねいちにぃさんしぃごぉろく――」

「旅人さんかい? よくきたね――」「お野菜値上がりしてない――?」「あら雨――」「スフィー見てよこれ池で釣ったの――!」「ロイ、待ちやがれコラ――!」「工事の音がうるさいのよ最近あまり眠れなくて――」「おはよう――」

 ぐるぐる――ぐるぐると――――

 いつの間にか、あたりは判別も難しく耳煩わしい喧騒のカオスとなっていた。

「なんなんだよ……なんなんだよ、お前らァッ!?」

 道をゆくすべての者が、次に振り返る視界からは消えている。道に。窓に。陰に。背後に。前に横に。知っている顔や声もあれば、知らない若者や老人もいた。手当たり次第に叩きつける剣は、ゾブリ、と湿ったスポンジにも似た軽い感触を残して名も知らぬ主婦を粉々の砕片と変じさせ、または単に空振ってゆく。

 持っている投擲武器も、もはや見当もつけず投げ放っていた。弾けた雷光と爆炎が吹き荒れ、砕けた建材が、あっという間に通りの周囲へ廃墟じみた荒廃感を作り出した。

「アイバっ、落ち着いて!」

「――くるなぁッ!!」

 いつの間にかかなりの近距離まで寄ってきていた人影に危機感を覚え、アイバは剣を振り抜いていた。

「――っ!」

 スフィールリアは見越していたかのような見事なステップで急制動と後退をかけ、アイバの鋭すぎる一閃をやりすごした。顔の前にかかげた右手の裾へはらりと切れ込みが入り、彼女の顔に少なくない痛痒の亀裂が走る。

「く、くるな……」

「落ち着いて……」

 アイバが切っ先を向けても、目の前のスフィールリアは、その場から静かに見返してくるだけだった。降ろした腕の先から、赤い滴が何粒も落ち始めて。その色の鮮烈さで、それまで自分を囲んでいた者たちが色褪せすぎていたことに気づかされる。

 同時に、剣の感触の違いにも。

「お、前……。本物なの、か……?」

 スフィールリアは、ひとつ、うなづいて――

 たしかめるように、一歩ずつ、歩き始めた。

 剣が石畳に落ちる。

「お、俺はっ――なんてことを、それじゃあ――今までの中にも――――!」

「違うよ」

 気がつけば、スフィールリアが、近すぎるところにまできていた。胸元へ潜るように身を寄せ、脇下から回された、防寒着の上からでも細いと分かる腕の感触が――

 再びの恐慌に陥りかけていたアイバの脳裏で、まったくくだらない別種の危険信号が弾けて灯る。

 しかしなす術もなかった。脳と、全身系が、対応を拒否していた。そのまま彼女の柔らかい髪の毛が胸の厚手の生地の中に埋もれ、花のような香りが広がって包んでくる。

 アイバは、スフィールリアに、抱きしめられていた。

「な、なにを――!」

「いいから。静かに。このままにして」

 第三のパニックに追い込まれたアイバの頭へ、有無もなく下された指令。

 今までにない距離での、他人の温もり。やわらかな香り。この異常な環境での、たしかな感触。

「――――」

 アイバは、硬直させていた両腕を、降ろした。

 その心地よさに、身をゆだねるしかなかった。

 気がつけば、いつの間にかは分からないが、喧騒も遠のいていた。

 だが、なくなってもいなかった。遠く近く、日常を呼び交わす声がすれ違い、時に自分を呼ぶ声が混じる。どこかの家から、昼食か夕食かの準備でもするような芳香が漂ってくる。

「っ……」

「落ち着いて。大丈夫だから。あたしだけを見てて」

 身を強張らせたアイバを、さらに強く抱き止めてくる。アイバも、今はただうなづいた。彼女はいなくならない。そのことをたしかめる時間こそが最優先であると。本能がそう告げていた。

 やがて、胸の奥深くにまでその実感が、熱として染み渡ってきて。

 多少以上の落ち着きを取り戻したアイバは、気づいていた。

 ゆき交う声の中には、スフィールリアを呼ぶ声も混じっていたことに。それと、子供たちの声。どこか、ケンカでもしているような。だれかを責めているような。

 スフィールリア自身も、この〝声〟たちを耐えしのいでいるように、か細く震えているようだった。子供たちの声を聞くたび、こちらを抱く腕に力が込められていることにも。やがて、

「オバケ」

「ウソツキ」

 それらの語に、スフィールリアの腕がギュッと食い締められる。

「スフィー……ルリア?」

「ごめんアイバ。なんでもないの。耳、塞いでて。少ししたら収まるから……」

 子供たちの声は続いていた。

 わけが分からないままに見回す。いるのかいないのかもよく分からない。ただ、路地から、植え込みの陰から、小さな人影がこちらを見てきているような気がしていた。

 うそつき。だましてた。おかあさんがいってた。みんなこわがってる。もう、おまえにはちかよっちゃだめだって――

「お願い、やめて――それ以上言わないで――アイバ、お願いだから耳塞いでて――」

「どうした、んだ? なにが起こってるんだ? 大丈夫なのか?」

「おかーさんがいってたんだ。おまえみたいなヤツってニンゲンなんかじゃなくて、バケモ、」

「――やめてっ!」

 スフィールリアがポーチから取り出した<レベル3・キューブ>を掲げる。がり、とこぶしの中で握り締められたそれらが不完全な発動を示し、幾重もの紅い光条がアイバたちを取り囲んだ。

「うぉわっ!?」

「…………」 たまらず閉じていた目を開くと、あたりには、なにもなくなっていた。

 幻影のような人々も。

 声も。

 街も。

 迷い込む前と同じように――地面と、中途半端な建造物と、見渡す限りの〝霧〟の世界があるだけだった。

「……なんだったんだ」

 押し殺して声を絞り出した。まだ、近くに彼らがいるような気がして。

「……なんなんだよ。いったいなんなんだ、アレ…………死んだヤツも、生きてるヤツもいたんだ。知らないヤツも――アイツらひょっとして、おっ死んじまったのかな……ひょっとして、俺らも、知らないうちに…………」

「違うよ」

 胸のうちで、顔が左右に動く感触が伝ってきた。

「……。スフィールリア、大丈夫、なのか?」

 今度は、うなづく感触。

「これはね、アイバ。『思い出の街』――――〝霧の桟礁〟」

「霧の、さん、しょう……?」

「〝霧〟は――〝霧の杜〟にはね、それ自体に世界を侵食する強度や、大きさの違いがあるの。そういう、〝霧〟が『成長』して侵食が進んでしまった〝霧の杜〟の中の『深い』場所を、深度に応じて、そういう風に呼ぶの」

「……」

「『ここ』は――〝霧の桟礁〟。〝霧〟に呑まれて侵食された領域が、最初にたどり着くかもしれない場所。有と無の狭間に向かう、その前の。世界がまだ、自分を忘れ去ってしまう途中に迷い込んだ、半分が夢に沈んだ、波打ち際のところ」

「俺たちは、まだ……生きてる、のか……?」

 うなづく。

「今、アイバやあたしが見ていたのは、『思い出』の中にいる人たちなの。かつてこの街で生活してた人たち。あたしたちが会ったことがある人たち。だから生きている人も、死んでいる人もいるの。――よく思い出してみて。今まで聞いた知っている人たちの〝声〟も〝身振り〟も……全部、一度は見たことがあるはずだよ」

 アイバの胸中に、少なくない動揺と確信、その両方が灯る。

「――――本当、だ。たしかに」

「だから、まだ、大丈夫。あたしたちはまだ帰れるよ」

「街が消えたっていうことは、もう『抜けた』のか? ここはもう普通の〝霧の杜〟なのか?」

 今度はスフィールリアは、かぶりを振った。

「ううん――ここはまだ〝霧の桟礁〟。あたしたちは自分たちで歩かなければ、どこへもいけない。

 だから、落ち着いて。まずはあたしたちがしっかり自分を持つことが大事。それができなければ、何百キロ何十日歩いても、帰れないの。だからそれまで、こうしていよう?」

「……。分か……った」

 優しい声は、端的に言って、安寧だった。同じく、自分が情けなくもあった。怯えているのは彼女も同じだというのに。それでも今の自分には、彼女以外にすがれるものが、なにもないのだ。

「……手、回してもいいか。俺も」

 だから今は彼女の言う通り、少しでも早く落ち着きを取り戻せるようにするしかなかった。

 彼女がうなづいてくれたので、アイバはその小さな背にゆっくりと力を込めていったのだった。厚手の服は互いの熱を伝えることはなかったが、それでも、暖かかった。

 だからだろう。

 彼女の次の言葉に、それほど動揺を示さずに済んだのは。

 

「……帰ろう」

 

 彼女がそう言ったのは、十数分、無言でそうしたあとのことだった。自分の腕の力が自然と緩んでくるのを待っていてくれたのだと、アイバには分かった。

「…………」

 半分解いた腕の内側から見上げてくる眼差しは、どこまでも真摯だった。

「もう、試験は無理だよ。この街はもうだめ。崩壊が早すぎる。――たぶん、あたしたちの侵入がきっかけだったの。

 さっきのモニュメント、あれ、綴導術師が作ったものだったの。詳しい構造までは見なかったけど、認識に働きかけて交通事故とか犯罪を減らすための類のものだった。

 だから街の中央から全体にクモの巣状に広がった大通りの全域に働きかけてた。だからそれが〝情報のひも〟の一種として街全体をつなぎとめる楔になっていたの。

 だけどたぶんもう全域が崩れてる。街だけじゃない。一刻でも早く、少しでも遠くに離れないと、帰れなくなる」

「――しかし、」

 と、半端に未練を搾り出すのが精一杯だった。

 状況の異常さも、彼女の言葉の正しさも、すべて分かっているつもりだ。反駁をするつもりでもなかった。

 ただ……もう少しだったかもしれないのに、という口惜しさから漏れ出ただけの。

「まっすぐに歩けるかどうかも、もう分からないの。座標を失いかけてるこの場所自体が、もう、〝霧の杜〟のかなり深い部分まで引き込まれちゃってる可能性が高いから。脱出に全力を注いでも、もしかしたら三日以上はかかっちゃうかもしれない。だから試験はもう関係がないの。ううん、試験のために時間を割けば割くほど、どんどん危なくなっていっちゃう」

「…………」

「試験ならまた受ければいい。教官さんはアイバのことそんなに嫌ってないよ。あたしからも事情はちゃんとお話するから――帰れば、きっとなんとかなるよ。今、帰らなかったら。二度とその可能性も試せなくなっちゃうかもしれないんだよ!」

 アイバは目を閉じていたが、スフィールリアがどんな顔をしてくれているのかがよく分かった。だからこれ以上、彼女を困らせるのは止めにしようと思った。

「お前の言う通りだわ。……悪かった。帰ろう、ぜ」

 肩を持ってそう告げると、スフィールリアは心底ほっとしたように笑ってくれた。

 だから、それだけでいいと思った。試験のことも。ここまで彼女が力を貸してくれたのに、結局なんの成果も出せない――それだけが口惜しかったのだということを伝える必要も。

 なにもかも、それだけでこと足りていたのだから。

 

 それから探索につぎ込むはずだった残りの十時間あまりを丸ごと費やしてようやく、スフィールリアたちは元きた旗印の建物へと帰還を果たせたのだった。それでもかなりの幸運に恵まれた結果なのだという想像は、すぐについたのだが。

「なぁ、コレ」

「うん……やっぱり、そうだったんだね」

 ふたりが見上げているのは、街をぐるりと取り囲んでいるはずの市壁だった。入り口の石材には自分たちがつけていった刀傷がある。旗印を立てた時には、こんな数歩の距離には存在していなかった。

 市壁の門前だけが切り取られて、家屋跡のすぐ傍にそびえ立っていた。

 門の内側には、冗談のように市街の景観が広がっている。外側から見ても、そんな広範に渡る街は存在していない。

 これを再びくぐって試験官を探すなどという気は、もうアイバにも湧いてこなかった。

「お前の言う通り、俺たちが入っていってすぐに、きっとこうなったんだな。……この中に試験官がいたら、もう遭難しちまってるかもしれねぇけど…………」

「うん。今戻ったら二重遭難になるよ。まずはあたしたちが帰って、外にこのことを知らせなくちゃ。一応、信号弾は打ち込んでみよう。もしもあたしたちのことを待ち伏せしたまま動いていないなら、事態に気づいていないって可能性、も――」

 降ろした荷物からてきぱきと筒状な信号弾と専用銃を取り出していたスフィールリアの手が、一時だけぴたりと止まる。

「どうした? なにかに気づいたのか?」

「…………。ううん。それでも一応、信号は送っておこう」

「? あ、あぁ」

 門の境界へ踏み込まないように気をつけながら、門の内側の可能な限り仰角に向けて音響信号弾を射出する。

 ひとつは〝霧の杜〟全体に異常があったことを知らせる最上位警報。次に避難勧告の弾を二回、停留勧告の弾を三回で、こちらが先発して救助を呼ぶので可能なだけ動かずに待てという意味になる。

 最後にもう一度だけ警報弾を打ち出し、スフィールリアたちは旗印に向き直った。

「だからって俺たちもここから、まっすぐ進めるとは限らないんだよな……」

「うん。だから……裏技を使う。リスクはあるけど」

「裏技?」

「アイバはちょっと、うしろ向いててくれない? できれば目も瞑っててほしいの」

「うしろ? なんでだ?」

 時間も惜しくスフィールリアは「いいから」とアイバの胴を持って回り右させた。

「もしも見られたら、アイバとお別れしなくちゃいけなくなるかもしれないの」

「――」

 肩越しに彼女の、ひたむきな目を見て――

「分かった。絶対に見ない。テープも巻いておくぞ」

 救護用のテーピングテープをベタベタと目元に貼りつけ始めるアイバに笑って礼を言いつつ、スフィールリアは目の前に突き立った旗に向き直った。

「……」

 手をかざす。

 ぼう、と腕周辺の空間から滲み出すように灯り始めるのは、〝金〟色の光。

 彼女だけの〝黄金〟の〝蒼導脈〟の煌めき。

 その性質のひとつは――どの〝色〟の性質であっても獲得ができること。

 青、赤、緑の三原色どれかを選択して行使できる、という意味ではない。それはどの綴導術師にでもできることだ。

 スフィールリアの〝金〟は、すべての〝色〟の性質を同時に獲得し、現すことができる。なに色、なん色であっても。

 スフィールリアは自分の〝金〟以外にも、三原色以外の『特別な色』が存在し得ることを知っている。

 そんな特別な色にまで、彼女の〝金〟は親和性を示す。以前に師へ触れて覚えた〝銀〟の特性を模倣しようとした時さえも、それはたやすく成功している。

 それはつまり、この世に成立し得るあらゆる性質の綴導術を行使できるということだ。

 それはつまり、この物質世界へ、あらゆる干渉が可能であるということだ。

 使い方を覚えれば――万能どころか、全能の存在にまでなれる。師は彼女に、そう告げた。

 だから、彼女は今、望む。

(お願い……)

 つむぎ出す色は〝青〟――だけではなく。〝青〟から、さらにより深い〝蒼〟へ。そして〝緑〟。

 すなわち〝安定〟と〝拡大〟と〝増幅〟。

 師から賜り、故郷では幾度と生活の礎としてきた。性質上、おそらくこの世では師と自分しか使い手のない技。〝回帰術〟――〝修復〟の秘術。

 今から彼女がするのは、その、さらに応用だった。

(思い出して……)

 三種の〝蒼導脈〟に当てられて、旗に残された情報残滓が呼び寄せられてくる。これを手がけた工場の作業人たち。店内でこれを眺めては通りすぎていった者たち。立ち止まる自分たちの顔。手のひらの温度。訓練生たちの野次。ザックに括りつけられ、辿ってきた軌跡。とある大地へ突き立て、去ってゆくふたりの人物――

 スフィールリアは旗へと手を触れさせて、その記憶を『掴み取』った。

 彼女なりの方法で『それ以外の情報』は一気にシャットアウトする。旗へ強く語りかけるのにも似た感覚で、スフィールリアは旗と、現在、旗に喚起されている〝記憶〟の情報を、自分の三種の〝蒼導脈〟へと溶かし込んだ。

 旗から、莫大な〝蒼導脈〟が噴き上がる。

(お願い――教えて!)

 スフィールリアが喚起した旗の〝情報〟が核となり、増幅・拡大し――〝霧〟を貫き渡すように一本の〝道〟を形作った。

 それは、彼女たちが今まで歩んできた〝道〟だった。旗が見てきた記憶の軌跡だった。

 だがそれだけでは、まだスフィールリアだけにしか読み取れない、呼び出した純粋な情報の余波にすぎない。〝霧〟の中ではすぐに消える。変化を続ける〝霧の杜〟の中にあって、改変されていってしまう。座標も、距離も。

(だから――)

 術の〝性質〟を逆利用して、〝固定〟する。

 スフィールリアは旗が示した〝道〟の全領域を、知覚した〝蒼導脈〟とともに掌握した。

 この地より、出口まで。丸一日分すべての面積を。

 彼女の中にある情報の実領域(リソース)が、その分だけ開放されたのと同義だった。

「……!」

 なにが起きているのかを見ることができないアイバからも、自分のすぐ近くで莫大な力の〝通路〟が開いたことが分かり、ただ息を呑む。

 鞘とともに短剣を取り出し――編み込んでゆく。

 彼女が望む事象。望む結果を引き出すための、壮大精緻な、情報の綴織(タペストリー)を。

 次に鞘から剣を抜き出した時、刀身には、まるでステンドグラスのように折り重なった繊細な煌めきが明滅していた。

 そっと、旗の根元。〝道〟が続く地面へあてがい、引っかくていど――切っ先を跳ね上げる。

 その瞬間、爆発的な振動と勢いで地面がめくれ上がり、〝道〟に沿った全行程に〝刀傷〟が刻み込まれていった。

「よし……!」

 結果を見て、スフィールリアは多少は安堵したように表情を緩めた。

「アイバ、もう目隠し大丈夫だよ。早くいこう」

「お、おぅ。うぁ、まつ毛いてて……て、なんだこりゃ!? おま、なにした!?」

「今まで通ってきた道の〝記憶〟情報を呼び出して、〝道〟だけ強引に修復したの」

「マジかよ……」

「でも、これも長くは保たない。少なくともきた時よりは時間かかっちゃう。生存率が少し上がっただけって考えなくちゃいけない」

 現に、彼女が刻んだ『ひとつながり』になっているべき〝道〟は、ところどころが寸断され、途切れ途切れになって〝霧〟の彼方へと続いていっている。

 そして、これもまた、時間の経過とともに崩壊してゆくさなかにある。

 元きた道が、目印とともにたどりやすくなっただけ。なおかつ、〝出口〟付近の座標が壊されてしまえば、元の木阿弥になる可能性だって、ある。

「……」

「……だから、早くいこう」

 強い表情のスフィールリアに、アイバも同じく、うなづき返して荷を背負った。

 

 スフィールリアたちは、また十時間を歩き詰めた。

 彼女が〝修復〟した道は彼女の言葉の通り、進めば進むほどに断絶の頻度と距離が増えていっていた。崩壊はすでに〝霧の杜〟全域に広がり始めていると考えた方がよさそうだった。

 ついに十分少々探したていどでは『次』の道を見つけられなくなったので、引き返し、〝刀傷〟のほど近くに残された大きめの枯れ木の下で野営を取ることにした。異変を察知してから数えて丸一日近くは歩き通していた。スフィールリアの体力も考慮しないわけにはいかなかったからだ。

 お互いを元気づける雑談と食事もほどほどに。少しでも早く休息を取ろうという向きになってアイバが彼女の寝袋を用意してやると彼女はそれをクッション替わりにアイバの隣へ座り込み、彼の肩に頭を預けかけた。

「ここで寝るね」

「お、おいおいっ……!」

 彼女と抱き合った感触と距離を思い出し、かなりドギマギと動揺を見せるアイバだったが――彼の想像とは裏腹に、彼女の返答は極めて冷静かつ合理的なものでしかなかった。

「さっきくっついてたでしょ。あれと同じ……〝霧の杜〟で迷った時は、こうするのがいいの」

「え。……」

「ほかのちゃんとした訓練受けた人たちがどうしてるのかは知らないけどね。……師匠にね、教えてもらったの。お互いの存在をつなぎ止めるならこうしてお互いの体温とか、感触とか、感じられやすいようにしているのが一番いいんだ、って。だから小さい時からあたしたちは、ずっと、こうしてきたの」

「…………。そ、そうだったのか。なるほど。は、はは、は……!」

「? どうしたの?」

「な――なんでもねぇよなんでもっ。実は俺も気づいてた、うん! プロだから!」

「そっか」

 しかし実際のところ、彼女の〝方法〟は絶大だと認めるしかなかった。肩肘にかかる彼女の体重と、耳に届くかすかな息遣いにさえ、どうしようもない安息感を覚える。

「ふがい、ねぇ……」

 だから、生じた余裕の分だけ、再び己の情けなさを見つめることにもなった。彼女が寝息を立て始めるのを待って、アイバは……こみ上げてくる悔しさを握り潰すように顔面へ片手をあてがっていた。

 なにもできずじまいだった。彼女がここまでやってくれたのに。あと一歩で届いていたのかもしれないのに。せっかく、力づけてくれたのに。

〝霧の杜〟を舐めていた。力押しでなんとかなるようなものなんかじゃなかった。こんなにも広大で、取り留めがなくて、理不尽なものだっただなんて。

 もっと授業を真面目に聞いていれば。もっと最初から、訓練も任務もくそったれサド教官のいびりにも立ち向かっていれば。

 この試験で『終わる』こともなかったのだ。

 せっかく――会えたのに。再び心の底から尊敬できるかもしれない友人に。

 成果を、彼女に見せてやりたかった。胸を張って報告をして。そこから先は、彼女の前進も聞きながら自分も日々の糧を得て――彼女の仕事を手伝ってやるのも悪くないだろう――そして休日にはまた<猫とドラゴン亭>で落ち合って、旨い料理と、仕事を終えた馬鹿野郎たちの清々しい騒音を肴に互いの苦労と目標を教え合って、また明日へ――

 だけど今は、こんな悔しさしか、自分は持てていない――

「ここで……しまいなのかよ…………!」

 たとえ駄目でも、たとえ死んでも、今すぐ自分だけでも取って返して最後まであがいてやりたいという衝動に胸が焼ききれそうになる。

「大丈夫、だよ」

 だがそんな荒れ狂うちっぽけな業火の嵐も、まるで大海の水のようにかき消す静かな声がかかる。

 寝言かと思って見やれば、スフィールリアのまぶたは、薄っすらと開かれていた。

「起きてた、のか」

 うなづく替わりに、彼女の表情にはかすかな微笑が灯っていた。

「大丈夫だよ……帰ればなんとかなる。なんとかすることが、できるよ。だれもいなくなってない。――アイバさえ戻れば。みんな変わらずに、そこにいるよ……」

「……だけど俺はもう、アイツらに合わす顔が、分からない」

 スフィールリアはかぶりを振った。

「そんなの、考えなくていいよ。変わることがあるとしても、それはアイバだけだよ。どうにだってできる……ここは、綴導術師の総本山でしょ。アイバ強いし。腕っぷしがあれば、王都で暮らし続けることだってできる。王都で無理しなくたっていい。どこにだっていけるよ。帰りさえすれば。がんばる気持ちを見放さないでいてあげれば。

 呆れられたって、怒られたって、挽回できる。できなかったら、がんばってるところを見せて、それでもだれかが離れていっちゃったら、しかたがないねって笑ってあげればいい。あたしも、それくらいならつき合うよ。あたしも、ミスしたからね」

「……」

「だから、帰ろう……」

 うとうと、つらつらと。語るその内容が、単なる表面的で定型的な励ましの類ではないということは、アイバにももう、〝霧の杜〟の厳しさとともに身に沁みて分かっていた。

『これが』〝霧の杜〟に挑むということなのだ。

 帰ろうという言葉の重み。『ここ』で帰れなくなるということの、その意味。

 この場所で『失ってしまう』ことと、外の世界で失ってしまうものは、決してイコールではない。

 外の世界の厳しさの、なんと温もりに満ちていることか。変わってしまっても、失ってしまったと思っても、それはそこに在り続ける。望む結果も、望まない結果も、どうでもいい結果まで――なんだってある。望んだものに近いものへ、再び挑むことだってできる。

 彼女は幼いころからずっと、こんなことと隣り合わせな生き方をしてきていたのだろう。

 何度も挑み、何度でも帰り、ここと外の空気に通い続けて――その本質に触れていったんだろう。本当の孤独と寒さを知っているから、こんな風にふるまえる。

 彼女は優しいのではない。単に理解ができる人間なのだと。

 アイバは彼女から感じていた強さの一端を、垣間見た気がした。

「そう……だよな」

 だから悔しさは自然と、笑みへと昇華できた。

「まだ、やれるよな」

「うん」

「いくらでもあるよな。なんぼだってマシだぜ」

「うん」

「……じゃあ、ひいきにもしてくれよな?」

「ん。値段しだい」

「言ったな。うっし。腕磨くわ。帰ったら筋トレだな!」

「その前に、教官さんと、お話しようねちゃんと……」

「あ」

 と気づき、アイバは苦笑いを返した。可能性を捨てないと決めたばかりの、この指摘だ。処世術に関しては、まだまだ彼女の方に上手をゆかれているらしかった。

「だよな。はは……」

「ほんとだよ……じゃ、お休み……」

 

 お休みと返した次には、パチンという音で目を覚ました。

 背にしていた枯れ木の枝を折って作った焚き火が、最後の焦熱を弾けさせて崩れたところだった。見張りをしているつもりが、船を漕いでいたらしい。

 つくづく自分のうかつさに腹が立つ心地だったが、それ以上に、どうしようもないレベルで疲労が溜まっているのだと認めるしかなかった。

「アイバ……」

 同じく浅い眠りから覚めたスフィールリアが後ろを見ているので、振り返り……呆然とする。

「ここに、あったよな……。木が、たしかに」

 なくなっていた。地面が抉れた様子もなく。

「……今すぐ出発しよう。荷物は食料以外は全部、ここに置いていく。…………『追いかけてきてる』気がする」

 なにが、とは聞かなかった。

「……分かった」

 

「ロイー! スフィールリアー!」

「師匠ぉォ~~…………!」

 さらに十時間近くの時間を踏破した時、その声は聞こえてきた。

「アイバ・ロイヤードーー! スフィールリア・アーテルロウンーー! いるなら返事してくれぇー!」

「なんだっ。まさかまたさっきの幻影か……!?」

 彼女たちの前方の〝霧〟から呼びかけてくる声に、アイバは身構えた。

「ちょっと……違う気がする。……! アイバ、いこう! ――おーーい!」

 はっとしてスフィールリアはアイバとともに駆け出した。

 だが返事はこない。変わらず、遠いのか近いのかよく分からない距離感から、こちらの名前を呼んでいるだけ。

「聞こえていないのかもしれない――アイバ、信号弾! 前方ななめ上になんでもいいから手当たりしだいに撃って! おーい!」

 残りのあらゆる弾種に煙の尾を曳かせながら、ふたりは声を張り上げて走った。

 やがて〝霧〟の向こうから薄っすらと、ふたつの人影が滲み出してきた。

「ロイっ、スフィールリアかっ!?」

「――そこで一旦止まれ! お前ら、本物……か!?」

 剣を向けられた<国立総合戦技練兵課>のふたりは、両手を挙げつつとことんうろたえたようだった。

「なっ、なんだよ……こっちゃ必死で探してやってたっていうのに!」

「はっ、まさかお前……師匠を独り占めするつもりで…………シショオォオオォ~~ゥオッ!! 早くコッチへ! ソイツは危険だァ!」

「…………」

 しばし、睨み合って……。

 アイバが剣を収めて、両者は再び駆け寄った。

「そのセリフは聞いたことがねーな。うし、本物だな」

「俺もンなこと初めて言われたよ……それよりよかった。無事だったんだな。いや、とにかく今はここを出よう。こっちだ」

 ふたりが残していたコップやら保存食やらの目印の〝道〟を辿って、スフィールリアたちは〝霧の杜〟を脱出した。

 さらにすぐ外につないであった二頭の騎馬に便乗して、〝霧の杜〟を囲う三重の柵の二番目の区域にたどり着くと……そこは、展開した部隊の物々しい気配に満たされていた。

「無事だったかね」

 言葉ほどには心配した様子もない態度で声をかけてきた教官の姿に、スフィールリアは想像がつきつつ尋ねていた。試験官が彼だと思っていたらしいアイバは驚いていたようだったが。

「〝霧〟が……成長したんですね」

「そうだ。帰還したメンバーの一部から変化の報告を受け、試験組の半数が予定していた期間内に帰還しなかったことから、連れてきていた救援班と残存メンバーを合わせて出動させた」

 彼が手で示したのは、部隊に同道していた輸送装甲馬車だった。今は扉も開いており、訓練兵たちよりは場慣れしていそうな雰囲気の者たちがそこかしこで報告や活動方針のやり取りをしている。

 試験内容に関わるためか搭載物資は秘匿されていたが、乗っていたのは彼らのようだった。あらかじめ、〝霧〟の変調は常に想定のうちに入れていたようだ。

「予定していた期間? なに言ってるんです教官。まだ三日には少し届かないでしょう。俺たちは全体から見れば先発組の方だったし」

「……なに言ってるんだよ、ロイ。お前らが〝霧の杜〟に入ってから、もう一週間目だぞ。もうダメだって思ってたんだからな……マジで……くっ」

 隣の同期生の言葉に、アイバは「え……」と言葉を詰まらせた。

 スフィールリアも少し後ろでこのやり取りを見て、呆然とつぶやいていた。

「〝時間〟も……飛び越えちゃってたんだ……」

「んなっ…………」

 わけの分かっていない同期生たちは置いて、ふたり。重苦しく沈黙していると、教官が前に出てスフィールリアの前に歩み寄ってきた。

「今の話は本当かね? 君たちへ最初に渡した時計があったはずだが、それを見せてくれ。それとアーテルロウン君。君の見た異変の詳細と、事態についての見解を聞かせてほしい」

 アイバが横合いから手渡した筒状の時計を目配せもせず受け取り、視線はただ彼女へ。

 スフィールリアは暗い面持ちで、取り出した紙片を教官に見せてやった。

「街に……入ったんです。最初の一日は異常もありませんでした」

「街に? なるほど」

「そこで……街の座標がバラバラになってることに気づきました。この、中央の〝碑石〟のところまで引き寄せられてしまって。

 たぶん、街から人がいなくなったあとも稼動し続けていたこの〝碑石〟の影響力が、街と、街周辺の表面的形相をつなぎとめていたところに、街の日常とはまったく異なる認識系を持ったあたしたち異物が進入したことで、一気に崩壊が進んだんだと思います。

 それからは、もう街も崩壊してしまって。あちこちに散らばっちゃったり、入れ替わっちゃったり、してました。

 〝霧の杜〟の中心寄りにあって、情報クラスターとして一番大きな領域を持っていた街が崩壊したことで、〝霧の杜〟全体に侵食が進んだんじゃないかって……思います。――今、街は〝霧の桟礁〟になってしまっています」

「〝霧の桟礁〟に? 事実か」

 時計の内部表示を確認した教官に目をやられてアイバも慌てて同意した。

「マジですよ――見たんだ。幽霊みたいな街に迷い込んじまって! 生きてるヤツとか死んでるヤツとかもいて、アンタもいたから俺はてっきり……そうだ、試験官!

 ――教官っ。今すぐ市街区に救援部隊を送ってやってくださいよ! 街があんなムチャクチャな状態になっちまって、素材かなんかと一緒に俺らを待ち伏せしてたソイツも遭難しちまってるかもしれねーんだ!」

 はっとしたアイバから一気にまくし立てられた教官が、言葉の途中で眉をひそめるのをスフィールリアは見逃さなかった。

 次に彼女を見て、面白そうに笑うと、その顔のままでふたりに、

「心配はいらない」

 と、確信に満ちた声でうなづきかけた。

「え……な、なんだよ。もう帰ってきてるのか……? なんだ……」

「……」

「しかし、アーテルロウン君。存在の主体たる市街区の物質としての形相がまだ保たれているにも関わらず、先に世界法則の基盤たる〝座標〟や〝距離〟〝時間〟が優先して消失するなどということは、そう簡単に起こり得ることなのかね? わたしは聞いたことがないが」

「……六十年っていう年月だけを考えれば、〝霧〟が〝霧の桟礁〟まで成長することは充分にあり得ると思います。でも世界法則が乱れ始める順番としては、あまりあることじゃない。はっきり言って、この〝霧の杜〟は異常です。

 でも、もしかしたら……中央大陸の〝霧の鐘楼〟クラスの〝霧〟が、『飛び地』してきたのかも…………って」

 最後の言葉に、話が聞こえる範囲にいた救援メンバーが、少なくないどよめきを発し始めた。

「……そのようなことが、あり得るのかね?」

「〝霧〟は、すべて『ひとつながり』なんじゃないか、ていう説があります。

 存在が劣化して無意味系クラスターになって、それが意味消失を起こして意味消失クラスターになると……情報面として見た時、〝霧〟はある一定の段階ですべて『同一のもの』として振舞うようになるっていう説です。あくまで情報の集積である<アーキ・スフィア>から見た〝視点〟の話です。

<アーキ・スフィア>に在るすべての情報が〝有〟だとすると、それらの〝有〟の情報に対して〝無〟である〝霧〟は、それら〝有〟の情報が持つあらゆる〝個性〟や〝差〟〝値〟を持っていません。すべて『同じもの』だと見るしかないんです。

 だからこの実領域上での見かけ上の距離や座標、発生由来が異なっていたとしても、ある一定以上の成長を遂げた〝霧〟にとっては関係がない……〝霧の杜〟が深すぎる場所では、すべての〝霧の杜〟がつながっているんじゃないかって、一部では言われてるんです」

 ある日〝霧〟に迷い込んだ若者が〝霧〟を抜けると、そこは別の大陸だったなどという逸話がある。本人の聴取もなにもない、単なるフォークロアの類だ。しかし、こういった現象は、このような基盤から起こり得るのではないかともささやかれる。

 当然だが、そのことを実験的に証明した者は存在しない。それほどの領域に踏み込んで事実をたしかめるだけの期間、存在を保てないからだ。

「……」

「それで、昔……師匠と一緒に、見たんです。師匠が〝養殖〟してた素材のひとつが〝霧の杜〟の中で消失しちゃって。でもその隣にあった別の骨董品の壷が、ただの粘土になっちゃってたんです。壷になる前の。

 師匠が言うには、消えた素材品のひとつが、かつてとっくの昔に消えてしまった文明群のどれかに関連した要素を、持っていたんだと。

 影響元になった文明が消失してしまったことで、ある一定の段階で文化の変遷を辿れなくなるポイントを〝存在のミッシングリンク〟って言います。でもそれが本当に〝存在のミッシングリンク〟であったのかどうかを見極めるのは、すごく難しくて。実はまだこの世に残されてるかもしれない――ていうか残されてる〝情報のひも(外部記憶)〟のことを〝ミスリード〟って言うんだそうです。

 その〝ミスリード〟はあたしたちが気がついていないだけで、今も〝霧〟による消失の一途にあります。

 もしもあの街のどこかに、すごく古い文明の〝ミスリード〟を持った品か、文化があったら、それが消失してしまった段階で、その文明が巻き込まれたのと同じクラスの〝霧〟が現出したっていう可能性が、あります」

「君は、その現象を、たしかに見たんだね?」

 うなづく。

「あの街の記録は、かなり詳細に残されてました。……逆を言うとそれだけ〝外堀〟がたしかな街があんな風になっちゃうのもおかしいし……だから、世界中で、あの街と同時期に〝霧〟が発生した場所か人里の記録も合わせて調べて、もしもその中に同じ珍しい輸入品とか、文化財とかが運び込まれた記録があったりして……それが消失した文明のものだったり、関連する要素を持っていたとしたら、それが……怪しいのかも……」

 教官は話が始まった時点から、静かに、ものすごい勢いでクリップボード上に筆を走らせている。だからスフィールリアも、〝裏綴導術師〟である師の関わった仕事の話でも、できるだけ詳細を話そうとした。この情報が、今後、多くの人命の消失を防ぐかもしれないのだ。

 そして、結論を口にした。

「だから、この〝霧の杜〟は……今後とんでもない深度まで成長する可能性があると思います」

「分かった。ありがとう。大変に貴重な情報を得た」

 ボードの防水シートをパタンと閉じて、教官はひとつの決断を下すようにうなづいた。

 次に適当な方向を振り返って、どこからでも聞こえるような声量で指示を張り上げた。

「次の合流点から捜索体制を変更する! 二人組(ツーマンセル)から中隊規模に切り替えるぞ! 現在捜索に当てている試験帰還組は外して王都へ帰還させる。今いる者は速やかに集合ッ!」

 青い制服姿がわらわらと集まってきて、また別種の物々しさがあたりを伝播し始めた。

「試験どころじゃねーな、もう……」

 と言うアイバに笑いかけていると、耳ざとく聞いていた教官が、アイバから回収した試験用の時計を開いて見せながら当然のように言ってきた。

「試験期間内に帰還したメンバーについての採点はもちろん通常通りに行なう。お前も例外ではない。おとなしく結果の通達を待て」

 時計はたしかに、まだ試験期間が残されている状態だった。どこかの段階で座標とともに時間を飛び越したからといって、彼女たちの時間までが律儀に進むわけがなかった。

「うぇっ? だ、だからってよぉ。失敗したってのが明らかに分かってる結果を待てってそりゃねーんじゃ」

「話は以上だ。……疲れただろう。救助者用の救護テントがある。君たちは、王都帰還の手はずが整うまで休んでいたまえ。――救援班リーダー、集まれッ!」

 その後、教官の下へ忙しさに目を回しているような真剣な面持ちの人員が集まって、あっという間に割り込みがたい雰囲気が形成されてしまった。

 まだなにか言いたげにしているアイバの裾を引いて、スフィールリアたちは教官の示した救護マークつきの黄色いテントへと向かうことにした。

「ちっ、なんだよ規則規則ってこんだけの異常事態でもよぉ……あれじゃ話しても無駄そうだな」

「今はしかたないよ……王都に帰って、面と向かえるようになったらお話すればいいよ」

 そうなだめつつ、スフィールリアは気がついていたことがあった。

 時計の進行が正常であったのをたしかめたあとも、教官は、『目標物』の提出を求めてこなかったのだということに。

 こうして、思わぬ事態に見舞われた<国立総合戦技練兵課>試験項目への随行依頼は、完遂され――

 スフィールリアは王都への帰還を果たした。

 

「だっは!」

 スフィールリアは工房のイスへ豪快に腰を落とした。

「ほんとにもー疲れた。死ぬかと思った」

「またそれか。ほとんど一日眠ってすごして、もう三日はそんなこと言ってるじゃないか」

 だった。

 王都に帰還して三日。出発時からはすでに二十日は経過しているのだった。

 王都の街並みにある桜はもう散り果て、これから訪れる熱気に備えて力強い新緑を芽吹かせ始めている。

 それは、工房周りの森も同じだった。風が吹いて、鬱蒼とする前の目も冴えるような緑のさざめきが、昼すぎの工房へと届いてくる。

 ひんやりとしたレンガ造りの景観の中、頭を机に預けたところから窓越しにそんな風景を眺めるのは、とても心地がよかった。

「……ウチの桜はまだ散らないんだね~…………」

「アイツしぶといからな。初夏のあたりまではこんなんなんだぞ。前にこの小屋にだれも住んでない時期に、<秘技・俺様黄金大旋風>の練習がてらに全部散らしてやったことがあったんだけど、次の日になったら全部元に戻ってた」 

 なにやってんのと笑うが、フォルシイラは、次には現実的なことを言ってきた。

「そろそろイガラッセの依頼も始めないとマズいんじゃないか? 学校もほら、講義がどうのとうるさい小娘がいるって言ってたじゃないか」

「そうなんだけどねぇ……どうもねぇ……」

 同意しつつもスフィールリアの調子は上がらなかった。頭が持ち上がる気配もない。

 フォルシイラは知らないだろうが、小さい時から〝霧の杜〟に入ったあとは総じてこんな感じなのだ。こづいてもおどかしてもおだてようがエンジンがかからないポンコツと化すので、数日のインターバルに関してはもはや師すら諦めているほどなのだ。

「ぽんこつだからしかたないよ……」

「かなしいこと言うなよ……」

 そんな折。

 コン、コン――

 と、玄関からノッカーの音。

 スフィールリアは立ち上がりがら、そういえばノッカーの修理まだだわと思い出した。臨時のフックにノッカーのリング部を引っかけて『御用の方はこれを持って叩きつけてください』という応急処置を施したまんまなのである。

「は~い、どなたさまですかっと――お?」

「よっ。元気そうだな」

 そこにいたのはアイバだった。まだ、青い制服を着ている。

「それマジで言ってんの?」

「おう。元気比率1000倍だわ。やっと調子戻ってきたみたいだな」

 非常に反論がしたくてたまらなかったのだが、それよりもスフィールリアには、いくつか気になる点があった。

 アイバは、いくつかの荷物を抱えていた。ひとつは白くて上品な紙箱。もうひとつは、味気なく薄っぺらい茶封筒だ。ついでに、元気比で言うならアイバもなかなかのものだった。

 しかしアイバの方もこちらに気がかりな点があったようだった。包帯の巻かれた右腕へ、暗く視線を落として……。

「……傷、大丈夫か。跡とか、残んねーか……?」

「ああ、うん。へーきへーき。最初の出血だけ派手だったけどほんとに浅いし、鋭かったから。見てみる?」

「ああ! いいから外すなって! 治るまでちゃんとそのままにしとけって! なっ?」

「そう? ほんとに平気なんだけど。……で、どうしたの?」

 しばらく暗い面持ちのままだったアイバ。

 本当に気にしていない彼女の顔を見て、やがて気を取り直した風に笑うと、

「あぁ、それはな、ほかでもねぇ――これを見ろ! ジャン!」

「おおっ!」

 茶封筒から取り出した用紙は、アイバの試験合格通知だった。スフィールリアは顔を輝かせてアイバに詰め寄った。

「やったじゃん! これで首もつながってお仕事もなくならないし、街のみんなにも報告できるね。よかったねっ!」

「お、おぅ。…………おう! お前のおかげだぜ!」

「やっぱり――『なかった』んだね。目標物って」

 スフィールリアが言うとアイバは笑顔のままでとことん渋面になり、ため息よりは軽い息をついた。

「あぁ、そうだ。目標物なんてものは最初からなかった――試験官の待ち伏せなんてものもな。試験の本当の合格条件は、『指令に見切りをつけて、与えられた期間内に無事に帰還すること』だったんだ」

 今度は正真正銘のため息を吐き出して、

「意地が悪いぜ、ったくよぉ。あれだけ念入りに準備までさせといて、気づくか、普通? ――でもスフィールリアは絶対に気がついてるだろうって、教官がよ。気づける要素がどこにあったのか、宿題まで出されちまった。今回はカンニングしてもいいから、お前に礼を言ってこいってさ」

「そっか」

 優しい人だなと笑いながら、スフィールリアは、気づいていたことを話した。

 まず最初に、教官が目標物提出の要求を、最初から頭になかったかのようにしてこなかったことを伝えた。アイバは「マジだ。アンニャロウ」とやさぐれきった横目で幻想の教官を睨んだようだった。<国立総合戦技練兵課>はそちらの方角ではなかったが。

「……あの街が崩壊を始めたきっかけは、あたしたちだったって話したでしょう?」

「あぁ」

「その理由も覚えてるよね。あの街は中央のモニュメントの力を〝核〟に、あの街自身の『思い出』――外部資料、暮らしていた人やその家族の記憶、運び出された品――とかによって、かろうじて六十年間生き残ってたの。

 そこにあの街での記憶を持たない、まったく全然別な生活の認識しか持っていないあたしたちなんかが紛れ込んだから、一気にバランスが崩れちゃったの。でも、それだったら、おかしいよね?」

「……」

「あたしたちより先に街に入って『待ち伏せ』なんてしてる人がいたら、あたしたちが街を見つけるよりもずっと早く、街はああなっちゃってたもん。あたしたちが街に入っただけでも、あんなにあっという間にバラバラになっちゃったでしょ?

 待ち伏せじゃなくっても同じ。あらかじめ目標物を隠しになんてきていたら、その時に異変が起きて、試験も中止か延期になってたと思う」

 それが、真相だった。

〝霧の杜〟に関わる活動で、なににおいても優先とされること。それは――無事に『帰ってくる』こと。

 なにもかもが消えうせてしまうあの世界では、それこそが個人の生命、そして組織の利益・目標に対しての最重要にして最大の貢献となる。救助や回収任務においても無理を圧した任務断行はそれだけで取り返しのつかない大規模の二重事故になる。また、待機している後続のために持ち帰られなければならない情報までもが丸ごと消されてしまって回収が利かないのであれば、活動続行の是非すら問えない。

 のみならず、〝霧の杜〟内部の現状を持ち帰ることは、それ自体が多くの人命と生活に関わってくることなのだ。

 だから、〝霧の杜〟に挑む者は、帰ってこなければならない。帰ってこられる者でなければならない。

 まだ時間はある。滞在する余裕はある。もう少しでこの手を届けられるかもしれない。――かどうかなんてことはだれにも分からないのだ。だからそんなことを独断して予定を繰り下げるような者を、関わらせるわけにはいかない。あるいは、そのような甘えは早々に捨てさせなければならない。だから帰ってこなければ問答無用で不合格となる。

 アイバたちがほとんど個人で試験に挑まされた理由だ。部隊指揮者の脱出判断に従順に従う人員になるのではなく、各人ごとが根本からそのことを理解していなければならない。ひとりでも多くの帰還を望まれている――それだけの期待がかけられているというゆえのことだった。

「試験内容が完全な守秘義務だったっていうのも、このせいだったんだね。そりゃそうだ」

「……」

 たとえ内容が分かった上でも目標物の獲得が途方もなく難解であったり至難であったりするというのなら、まだいいだろう。

 ……しかし『最初からないことが分かっているのだから適当に時間を潰して帰ればいい』などとなるのであれば、そのようなカンニングは練兵課としても、同じ試験を味わった上級生たちの心情からしても、成立不可能なことだったろう。

 幼いころから何度も〝霧の杜〟に触れてそれらを当たり前のこととしてきたスフィールリアには、だからこそ、考えても真っ先には思いつけない〝条件〟だったのである。

「……」

 そこまでを、アイバは真面目な面持ちで聞き入っていた。

 そして、

「まいった。やっぱお前はすげーわ」

 と、抱えた紙箱ともどもお手上げのポーズを作った。

 次に気がついたように目をやって、白い紙箱をスフィールリアに差し出してきた。

「そうそう。こいつも渡してこいって言われたんだ。ほいよ」

「なぁに、これ?」

「中身は知らね。でも箱に手紙が貼っつけてあるだろ。ソレ、招待状な」

「招待状?」

 ますます首をかしげると、アイバは簡単にその正体を明かしてきた。

「教官も一緒に帰ってきてただろ。事態の報告と救援部隊の増援申請で。

 で、お前が教官にした報告が、なんかすっげー発見につながったんだそうだ。なんか、完全に失われたと思ってた古代文明究明のデッカい足がかりが発見されたとかなんとか。

 あと、〝霧〟が『ひとつながり』になってるかもしんねーっていう実証につながるような具体的な実験話も、学会? ていうのか? なんかそんなんでは初耳だったんだってよ。

 だから、その両方の功績が学会と王室から正式に認められることんなったんだ。それはその表彰状と報奨金の、授与通達書と案内だ」

「え~……」

「実際、あの〝霧の杜〟の監視レベルは今までの5級から、一気に2級まで跳ね上げられたんだ。コイツはまずないことなんだよ。お前はすげーよ。尊敬するし、誇らしいって思う」

 真面目にそんなことを言ってくるアイバに、スフィールリアはむずがゆくて、意地悪なことを言った。

「まずないことなんだよ、とか言っちゃって〝霧の杜〟のことなんて全然知らなかったでしょ」

「べっ、勉強したんだよっ、だ、か、らっ! 悪いか!」

 顔を紅くするアイバにしばらくにやにや笑いを向けていたが、すぐに困った顔でほほをかいた。

「でもそっかぁ~表彰ねぇ、う~ん。ニガテなんだよなぁ~。それに師匠の仕事のことだからあんまし大っぴらにはしてほしくないんだよねぇ」

「あぁ。なんかな。『そうなんだろう』って分かってくれてる人がいたらしくってよ。その、どっかのどエラい綴導術師の人が、お前の代理で授与は受けて、そんで表彰状と代金は預かってくれてるんだとよ。その招待状は、だからその人ん家への案内状だ。好きな時に受け取りにきてくれりゃいいってさ」

「へ?」

 抱きかかえていた紙箱から書面の差出人を見てみる。

『エレン・アグレウス・フォン・ブランフォードナー』

「いや……どっかで聞いたことがあるような、ないような…………でも会ったことはない、風味、みたいな」

「おいおい。すげー人らしいんだぞ。すげーなお前。いろんな意味で」

「いや、本当に会ったことないんだってばっ。だいいちあたし王都にきてまだ一月だよ?」

「あー、そういやそうだよな。……箱、開けてみれば? なんか分かるかもだぜ」

 なるほどと箱を開けてみて……さらに、驚いた。

「なにこれ!」

 スフィールリアの腕から、ふわり。純白のドレスが広がったではないか。

 ただのドレスじゃない。手触りからして手を洗っておくんだったと後悔するほど滑らか、かつ羽のように軽い。ふとしたそよ風にも上品なドレープがたおやかに揺れて、広がる。裾や胸元に施された、涼風を思わせる少しばかりの金の縁取りが、これを着るべき者の高貴さと清廉さを、同時に主張している。

 箱の中仕切りには一緒に、この服に対となることを望まれたのであろう白い靴、金の髪留め、頭飾りに、香水に……と、至れり尽くせりなご様子だった。

「怖いんだけど」

「いや……」

「なに?」

 自由になった両手で腕組みあごへ手をやり、極めて深刻な表情をしていたアイバを見やると。

「い、いや…………似合うんじゃ、ないのか? ……ってよ…………」

「なんで目逸らしながら言う」

「えっ、あっ、いや、違うって……!」

 スフィールリアはドレスをてきぱきとたたみ始めた。

「えぇまぁそりゃガラじゃないでしょうよでもい、ち、お、う、あたしだって女の子の端くれのつもりなもんでちったぁーこーいうもんだって着てみたいかなーなんてことを思わないでもない風味くらいはあるんですけどえぇまガラじゃないっスよね。真の〝漢〟ですもんねえぇほんと調子乗っちゃってねお見苦しいモンは今すぐしまいますからカンベンしてくださいよ」

「~~~~~っっ、……!」

 痛恨の表情で顔面を覆っていたアイバ。しかし恐る恐る、ちらり見ると、彼女。

 玄関脇の棚に置いたドレスケースへ手をかけ、快活に笑いかけてきていた。もう片方は今着ている動きやすそうな青のスカートの裾に。青と白。綴導術師のフォーマルカラーである活動的な衣装を見せ、なにかを問うてきている。

 やっぱりこっちの方が似合ってるなと思い、アイバもきっぱりとうなづきかけた。

「ああ。やっぱお前はこっちだな」

「でしょ~?」

 笑ってアイバの前に立ち直すと、アイバも、背筋を伸ばして彼女へ向き直った。

「……ありがとう、な」

「どういたしまして」

「なんていうか……思い知ったよ。〝霧の杜〟のことも。俺自身の未熟さも。強いだの弱いだの。腕っぷしとか、理想のデカさだとか、そんなことにこだわってたのが馬鹿みたいだったって、心底、思った。

 そんなことよりなにより、具体的なモンがなんにも身についてねぇ。漠然としたイメージのことばっか頭に詰め込んで、本当になんにもない、本当にどこにも届かねぇ自分に気づいてなかった。教官に言われた通りだ。俺は半端未満の、ひよっこ未満だった」

「……」

「こんなんじゃ、<国立総合戦技練兵課>にいてもいなくても、同じだったな……今まで俺になにか言ってきた連中もそういうところを言いたかったんじゃないかって考えたら、単なるやっかみやお節介だなんて思えなくなった。なにも言わずに見ていてくれた連中も、さ。

 そうだ。話してみたんだ。今までそういうコッチのこと、あんま話さなかったんだけどさ、そしたら――お前の言う通りだった。本当に明るい顔してくれるヤツら、いたよ。祝杯だなんだって、飲みてーだけなのかもしんねーけどさ、はは……」

 しばし、黙って話を聞き……。

「……」

「お前の、おかげだ」

 アイバは照れくさそうに首筋をなでつつ、そう言った。

「そっか。よかったね」

 にんまり笑って言うと、今度は本当にうれしそうに「あぁ!」とうなづいてきた。

「じゃあさ、あんた……もう少し<国立総合戦技練兵課>でがんばってみなさいよ。待遇はおいしいんだしさ。いろんなことを身に着けてからでも、遅くないと思う。それに、見てたり待ってくれてる人がいるって……ありがたいことだと思うよ?」

 これにアイバは、あらかじめ答えを用意していたらしく、力強くうなづいて、

「ああ。そのつもりだ。お前の言う通りだぜ」

 と、誓うように自分の胸を叩いて見せた。

「うん、うん。でもそうすると未来は聖騎士さんコースかぁ……あたしも知らなかったけどさ、聖騎士ってスゴい人たちなんでしょ? ふんぞり返ったりするような人にはならないでよね」

「あぁ、いや、それはな。別に絶対のことってわけでもないしよ……」

「うん?」

「い、いやそれは今はいい。なんでもねぇ。そ、それで……なんだけど、よ……〝霧の杜〟で、抱き合ったりしたってのは、よ……アレってのは」

「?」

 急に歯切れの悪くなった様子にとことん首をかしげていると、アイバ。

「別に特別なこととかじゃなくって、必要だからそうしたってことで……いいんだよ……な…………?」

 ますます分からず、あいまいなくせにこちらの目も見ようともしない態度にちょっとムッとして、スフィールリアは腰に手をやり答えた。

「? そう言ったでしょ。なに、真の〝漢〟がそーいうなよなよしいことするなよとか、そんなことが言いたいわけ」

「ち、違う! そういうんじゃなくて、悪い! そうだよな――はは、いいんだ今後の参考にしようかなって思ってな忘れてくれそれだけだから! そいじゃ今回はマジでありがとうな、はは……!」

 とか身振り手振りしながらジリジリと後退して、最後は森の道方面までダッシュしていった。

 一度そこで振り返り「またな!」と手を上げるアイバの姿が木立の向こうに消えて。

「さて……っとぉ!」

 スフィールリアは新緑の空気を目いっぱいに吸い込んだ。

「あたしも、やるか! いろいろ!」

 えいえいおーなんて言いながら玄関をくぐっていった。

 なんだか、自分もがんばりたくなってしまった。今ならアリーゼルの基礎地獄にもつき合い切ってやろうじゃないかという気分だった。

 そういうわけでスフィールリアは工房の掃除に取りかかり、イガラッセの依頼を少しだけ進行させ、学校へゆく準備を整えたのだった。

 

 

 そして、翌朝。

 久しぶりに学院内を歩くのも新鮮だったが、スフィールリアはひとつの違和感を覚えていた。

「……」

 なんだか、講義棟の様子がおかしい。歩いていると、やけに自分を見る視線や、通りすぎたあとのひそめき声が多いような気がしたのだ。

「アリーゼル」

 受けてみようと思っていた講義が開かれる教室扉の前でアリーゼルに鉢合わせて、スフィールリアは怪訝にしていた表情を輝かせて寄っていった。

「お仕事というのはひと段落したんですの」

「うんっ。ちょっぴり休憩もらっちゃったけどね――アリーゼルもここの講義受けるの?」

「えぇ……まぁ一応。そういうことでいいですわよ」

「そっかぁー。ちょっと緊張してたからうれしいなぁ。隣の席座ってもいい? フィリアルディはきて……て、さすがにそこまで都合よくないよね。えへ」

「その前に。ちょっと」

 扉に手をかけようとする彼女に先んじてアリーゼルは引き戸に手を触れ、邪魔するような手つきで、少しだけ開いていた扉を閉めてしまった。

「アリーゼル?」

「やっぱりとは思っていたんですけど。まだご事情を把握されてませんのね」

 最初から違和感を感じていたアリーゼルの無表情と言葉に、スフィールリアは思い浮かべられたひとつの予感を表に出すまいと押さえ込んでいた。

 自分が〝帰還者〟であるという事実が、どこかから知れてしまったのではないか。そんな――いつもある、不安が。

 しかしアリーゼルが言ってきたのは、それとはまったく無関係のことだった。

「と言っても場合によってはあなたにも大した問題ではないかもしれませんけど。一応お知らせしておきますわ――そのお友達のフィリアルディさん。今、ちょっと大変なことになっていますわよ」

 スフィールリアは、この日に予定していた全授業をボイコットした。

 

 

 

(3章 了)


 
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