No.709510

スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~<1>【3章-3】

みっくーさん

◆既存投稿ページを再利用したまとめ投稿です。最新投稿分からの続編になります。(2015/06月)

2014-08-17 23:06:26 投稿 / 全30ページ    総閲覧数:444   閲覧ユーザー数:443

 

「ようこそお忙しい中においでくださいました。フォマウセン・ロウ・アーデンハイト<アカデミー>学院長先生。タウセン・マックヴェル教師も」

 フォマウセン学院長は、笑顔で差し出された白衣の男の両手を握り返した。

「こちらこそお邪魔してしまって。院長先生もお変わりないご様子で、なによりですわ?」

 お変わりない、の部分に芝刈り頭の彼は表情も苦めにはにかんだ。

「わたしもそこそこには長いですからね。よろしければ、お茶でも?」

 簡素に首を振り、学院長は申し出を辞退した。

「ありがたいのですけど、このあとはまた別の日程があるのよね。さっそくなのだけれど、定期視察の用事を済まさせてもらってもよろしいかしら?」

「ええ、もちろんですよ。本日は新入職員の研修もかねさせていただきたいのですが、もしも差し支えなければ、ご同行させていただいても?」

「えぇ、もちろん」

 彼の後ろに控えていた若い女性職員が、手で示されると同時に、ものすごい勢いで頭を下げてきた。その顔は興奮気味に、赤みを増している。どこの分野においてもフォマウセン・ロウ・アーデンハイトと言えば雲の上よりも高い場所にいる権威だ。

「『どの子』も、元気にしていますよ。それではこちらへどうぞ」

 振り返って案内を始める男のうしろへついてゆきながら、タウセン・マックヴェル教師は、白衣に留められたネームタグの内容を思い浮かべていた。

『ディングレイズ・アカデミー付属 ディングレイズ国立・特別特殊病理研究センター』

 ここは、〝帰還者〟の隔離と治療、そして――研究を専門とする、機関のひとつなのだった。

 

「〝帰還者〟について分かっていることは、そう多いとは言えないわ」

 清掃のゆき届いた白い回廊へ、四つの足音とともに、フォマウセンのよく通る声が染み渡ってゆく。

「〝帰還者〟とは、その名称が示す通り――〝霧〟の中から無事〝帰還〟を果たした者たちのこと。でもそれだけなら普通の人間となんら変わりはないわ? わざわざ〝霧〟の中へと入って素材を求めるわたしたちのような変わり者も〝帰還者〟だし、救助や監視活動に〝霧〟へ入る騎士団やハンターも、みんな〝帰還者〟ということになってしまう」

「はい」

 うなづいたのは女性職員だった。

 立ち止まる。

 回廊の片側に開けた長い腰窓。その向こう側にある白い部屋の中で、無数の幼い子供たちが遊び回っていた。

 全員が、十代未満くらいの男子女子たちだ。部屋の中に転がる色とりどりの図形クッションやボール、おもちゃを使って、楽しそうに駆けている。その内の何人かが彼女らの姿を見つけて窓際まで駆け寄ってきた。

 フォマウセンがにこやかに手を振ると、子供たちも、うれしそうにはにかんで手を振り返してくる。新人の彼女も、楽しそうに手を振り返してあげていた。

「ここにいるのは、まだまだ〝帰還深度〟がごく初期レベルの子供たちだ。みながほとんど正常な認識力を保持していて、問題があるとすれば、みなが両親と故郷を失ってしまっているということくらいだ。いわば、孤児だよ。

 この子たちに必要なことは綴導術の観点から見た存在情報の維持だとか、正しい認識力の矯正だとかいうことではなく、出くわしてしまった悲しいできごとを埋め合わせられる他者の温もりと、地道なカウンセリングだね」

 歩き始めたセンター長の語りかけにうなづき、フォマウセンも屈めた膝を元に戻して、あとに続く。新人がお別れの合図に再度手を振って、少し遅れ気味になるのを横目で確認しながら。

「〝霧〟に飲まれた人里では、子供の帰還率の方が高いと言われているわね? これについては推測が成り立っているのだけれど、まだ幼いころのうちは、世界に対する自己認識力や自己の精神の境界強度があいまいであることが大きいのではないかと言われているわ。

 自己認識と世界認識が確立された大人であった場合は、自分が一度でも『消えて』しまった場合、存在情報の空白部分が無意識のうちに認識されてしまい、そのまま帰ってこられない。自己を強く認識できるからこそ、消えるまでの時間は長く保つけれど、一旦消失してしまえばダメ。でも子供の場合はその境界もあいまいで、欠損度が低いうちは――なんとなく、帰ってこられる」

「――はい」

 振り返らずとも神妙な声音から、彼女がどんな顔をしてうなづいてきているのかがよく分かり、学院長も満足してうなづいていた。

 センター長の言葉も、フォマウセンの講釈も、すべて、彼女のためのものなのだから。

「まさに、それこそが、〝帰還者〟の抱えてしまう問題のひとつだ。――存在情報の欠損。〝霧〟がもたらす影響、結果の本質がそれなのだね。

 ゆえに一度、一部でも、身体のどこかや記憶など自身の情報を消失させられてしまった者は帰還後もその欠損、その空隙に悩ませ続けられることになってしまう。そのことが、いったい、なにをもたらすのか」

 回廊突き当たりのドアを開けば、またなだらかに曲線を描く、同じような回廊が続いていた。

 再び、立ち止まった。

 その、窓越しの病室に――ひとりの少女がいた。

 清潔なベッドに腰を下ろし、今ちょうど、職員が運んできた朝食のプレートを見上げているところだった。これから食事なのだろう。どこかあいまいな視線で、うれしそうに微笑みかけながら、

『今日は、わたしは、ホットケーキとスクランブルエッグを食べたの』

 と、話しかけた。

『……』

 プレートを彼女の脇へ置き、しばし、職員は黙っていたが。

『……違うよ。それは〝わたし〟の今朝の朝食。君がこれから摂る食事は、こちらなんだよ』

 少女は当然のようにうなづいた。

『そうなの。わたしの今日の朝食は、ホットケーキと、スクランブルエッグだったの。イチゴも食べたのよ。紅茶も飲んだの。おいしかった』

「……?」

 窓の照り返しから、新人がいぶかしげに眉を寄せるのが見えた。

『違うよ。それは〝わたし〟。〝君〟じゃない。〝わたし〟と〝君〟は、まったくの別人なのよ』

『違うわ。わたしは、わたし。わたしも、わたしだわ。だって〝覚えている〟もの。今朝に顔を洗った石鹸の香りだって思い出せるわ。タオルの柄も。ほらね。言われた通りきちんと自分のこと覚えているわ。えらいでしょう?』

『それでも、違うんだよ。〝君〟はホットケーキとスクランブルエッグを食べてはいない。見てもいなかったはずだよ。よく思い出して――君がこれから摂る食事はこちら。見てごらん、おいしそうでしょう。お腹だって空いてるはずよ』

『お腹いっぱい食べたのに――』

「あの子はね、当然だが、彼女の朝食のメニューなんか知らされてはいないよ」

 振り返れば、唐突に告げられた新入りの彼女は――ぽかんとした顔のまま、

「…………え?」

 と、まったく分かっていないつぶやきを漏らした。

「それでもね、あの子には『分かる』んだよ――ちょっと食べるくらいなら大丈夫とでも思ったんだろう、彼女にはあとで注意しておかなくてはね。これ以上あの子の体重を減らすわけにはいかないのだが……。わたしも今朝は食べてない。君もだろう? このためだったんだよ?」

「……」

「〝霧〟によって自己情報を失った者に起こる問題のひとつが――これだ。存在強度の喪失。自己境界線のあいまい化。

 このようにして、時に彼らは〝帰還深度〟……つまり失った情報の大きさや度合いに応じて、欠損した自己の情報を補おうとするんですよ。自己の境界を定義づける情報が弱かったり欠けていたりするため、他者と自己の区別がつきづらく、混同しやすい側面があるんです」

 まだよく分かっていない彼女へ向け、タウセンもフレームを持ち上げつつ、結論を教えてやった。

「よく〝帰還者〟のことを認識障害や認知症、精神症患者の一種と勘違いする者もいるが、実際は根本から違うのですよ。そのことは、目の前のこの彼女が示してくれています。

 存在強度と自己境界線が、根本の情報から欠落する――それは、他者へと容易に〝溶け込んでしまう〟ことを意味している。

 彼女は職員の朝食を本来見てもいないし、知識として知ることもできるはずがない。だがそうじゃない。彼女はあの職員に精神を同一化させ、記憶と体験を自己のものと混同させているんです」

 だから、〝帰還者〟に触れた時、人はいぶかしがる。戸惑う。気味悪く思う。

 触れてほしくないと願い、遠ざける。

「そ、んな。ことが……」

 顔を青ざめさせて、ようやく新人の彼女が呆然とした理解の声を押し漏らした。どうやら彼女は〝帰還者〟とはあまり縁の深くない部署から転属されてきたらしい。

「しかし一番重要なのは、それは彼ら自身が自覚してやっていることではない、ということだ。彼らは、彼らの〝空白〟に自動受信して流れ込んでくる他者の表層情報を、自然に生活をする中で自分のものと誤認してしまうんです。

 そのため自己認識がまだ正常に近い低深度の〝帰還者〟などは、それが本当に自分自身の体験だったのかどうか、行動だったのかどうか、ふとした拍子に分からなくなって自己の認識と記憶の境界に悩まされてしまう。社会活動への復帰が難しいとされる理由のひとつでもある」

 さらに深度が深くなれば、この病室の彼女のように、他者の体験や記憶ばかりに気を取られて、自分の生活そのものが維持できなくなってしまう。生活が、空っぽになってしまう――。

 うん、とうなづき、センター長が引き継いだ。

「その通りです、先生。とは言っても混同する相手の存在強度や認識強度も関わってくるからね。『あのていど』の〝帰還深度〟の患者なら、まだ実害はそうないと言えるね。――さぁ、ゆきましょう、『次』へ」

「ミッシェリカちゃんはお変わりないかしら?」

「えぇ。最近は特に『穏やか』でしたので、よい時期でしたよ――」

「……」

 タウセンはふと立ち止まり、振り返った。

 そこでは新人の彼女が、歩き出す途中で、射すくめられたように立ち尽くしている姿があった。

 その視線の先に、穏やかに微笑んで彼女と視線を絡めた少女の顔があった。このガラスは、向こう側からこちらを見ることができない構造になってはいるのだが。

『ありがとう、わたしのことを心配してくれて。うれしかったわ』

「……」

『今日のわたしのお昼は、お肉と野菜の炒め物なのね。おいしそう。楽しみにしてるわね』

 彼女は心がどこかへいってしまったかのように、弧を描いて頭を揺らし始めていた。ふらふらと。しかし視線だけは釘で打たれてでもいるみたいに、病室で微笑む少女へ固定されていて――だんだんと揺れ幅が大きくなっていって――

「君」

 歩み寄ってタウセンが肩へ手をかけると同時、彼女の手から研修用の書類が滑り落ちた。

「……」

 ものすごく驚いたような顔をして見上げてくる彼女の足元に屈み込んで、書類を拾い集めて、差し出してやる。

「ふたりはいってしまったぞ。わたしたちも追いついた方がいいな。君は研修中だから。その通りだね?」

「は――い」

 うむとうなづき返し、タウセンは歩き出した。彼女がついてくるのを確認しながら。

『また会えるわよね?』

 

「タペストリ偏向曲差、室内、三重誘導路内部、ともに安定しています」

「動脈反響機構も正常。ほかすべての防御機能もチェック済みです」

「うん。それじゃ、開いて」

 四人がたどり着いたとある一室。

 その正面の壁の一部が、シュ、と音を立てて色を変え――透明の窓に変わった。

 そこにあったものを見て、一拍を置き――

 新人の彼女が「ひっ!?」と声を上げた。 

 決して小さくはない、ごまかしようも利かない。

 正真正銘、恐怖の引きつり声だった。

「……」

 そこには、一本の〝木〟があった。

 彼女は、女の子の顔を見ていた。

「ミッシェリカちゃん。わたしよ。分かるかしら。またきたわ――こんなにはっきり目を開いて。とっても気分がよさそうね? 〝蒼導脈〟の流れで、分かるわ?」

 窓に歩み寄り、学院長がふっくらとした手のひらをかけた。

 ――。

 答える声はない。

「な、なんで……どうして、こんな…………!」

 フォマウセンは穏やかな微笑のまま、口に両手を当てて嗚咽を漏らす彼女を振り返った。

「これは、これが――人間なんですかっ!?」

「そう。人間。これではない。彼女は、紛れもない人間」

 そこには、幼い少女がいた。

 一本の木に溶け込んで、同化してしまった、木目調の少女の顔が。

 木は、オレンジの木だった。円形の広々とした室内に生えている。天井からは樹木を生かし続けるために日光に近く調整された照明が爛々と灯され、青く茂った梢が天井の縁近くにまで、目いっぱいと伸ばされている。

 少女の顔が『埋まって』いるのは、大人にして膝の高さくらいの位置だ。彼女の顔の大きさから類推できる年齢からすれば低すぎる位置だが、よくよく見れば、樹木の幹は首から胸に続き、腰にかけてまでなだらかな曲線を描き、少女の身体のあった名残を見せてくれている。

 その根元から伸びている根は、投げ出した両足のように見えなくもない。

 地面に腰かけて、幹へと背中を預けて――そのまま埋まってしまったのだとでも言うように。

 実際、彼女が発見された当時は、そのような姿勢が分かるほどにくっきりとしていた。

 普段は閉じられている目は、今は見開かれていた。ぽかんと放心してしまっているような表情にも見える。

「ミッシェリカ・リーン。十一歳――埋まってしまっているのが発見された当時はね。あれから経過した時間をも加味するなら、実年齢は四十三歳ということになるわ。この子は有名人だから。この子のことを『ミッシェリカ・オランジーナ』なんて呼ぶ者もいるわ」

「うぶっ――」

「あらあら、大丈夫っ?」

「あぁ、あぁ――あ、いや大丈夫ですよ――ほら君、吐くならこの袋にして、ほら」

 膝を折ってくずおれた彼女にセンター長がすかさずポケットから取り出した袋を握らせる。

「彼女の出身は北端地方にある小さな農村でね。とても大きな〝霧〟の区画のほど近くにあったのだけれど――ある晩に突然、拡張を果たした〝霧〟に飲み込まれてしまった。最寄の騎士団が駆けつけて決死の救助作業が行われたわ。

 でも生きて帰ってきたのは彼女を含めて、ほんの数名のみ。ご両親を失った彼女は近隣の村に住む親戚一家のもとへ預けられた。でもあまり幸せな生活ではなかったみたいね。ある朝――家からいなくなっていた彼女が一晩経っても戻ってこないことで異変に気がついた一家が探しに出向いたところ、家へと続く道の途中にあった果樹園の一本の根元で、こうなっている姿が発見されたわ。もう少し発見が早ければ引き離すこともできたかもしれないけれど……預けられた時から彼女には徘徊癖があったようだから」

「どう、して……」

 まだ床にへたり込んだままな、新入職員のあいまいな問いの意味を、タウセンは考えてみた。

 どうして、彼女は家にいたくなかったのだろう?

 どうして、人間が木に〝溶ける〟だなんてことが起こってしまうのだろう?

 両方ではあるだろうが、どちらかと言えば後者なのだろうと検討をつけて、タウセンは口を開いた。

「先ほどの病室の彼女と、問題の根本は同じだ。ただしこのミッシェリカ少女の場合は、彼女よりもはるかに〝帰還深度〟が大きかったのだ。騎士団の呼び声に反応して身体構成を取り戻しはしたが、その段階でかなり大部分の情報欠損をしてしまっていたんだ。――右腕から右上半身にかけてのおよそ二十パーセント。特に存在が『薄れて』しまっていたのだろうと、こうなる前の身体検査の記録が残っている。そういう部位は怪我をしやすく、直りにくい傾向があるからな。

 そのため彼女は自己認識や感情を示すことはなく、一家や周囲の呼びかけにもほとんど無反応だったそうだ。

 彼女くらいに〝帰還深度〟が大きい場合――自己認識の低い動植物や、無機物などとまでも同化を果たしてしまうことがある。彼女のほかには、道端のストーンウォールと同化をしてしまったテムタック少年なども有名だな」

「……ところで院長先生。また〝手〟が一本、増えているようですわね? ひょっとして?」

 ようやく呼吸が落ち着いてきていた新米が、恐れるように顔をいぶからせるのも当然だった。フォマウセンが指差したのは少女の顔よりはずっと上。少女の顔面の衝撃が大きすぎて、そちらへ意識がいっていなかったのだ。

 無数の手のひら、腕などが――生えていた。

「!!」

「えぇ……先日、世話に入ったまだ不慣れな職員が、認識不足からか、事前計測を怠ってこの子に触れてしまいましてね。その者は、その後……。彼女は、その補充の要員なんですよ」

「まぁ……お気の毒に。事前指導は綿密になさってあげてね?」

「えぇ。この子に関する〝事故〟はわたしの代では初めてでしたから。重く受け止めておりますよ。もちろんいきなりこの部屋の世話を任せるなんてことはしておりませんし――あぁ君っ、大丈夫かいっ」

「うぅ……うううううううっ……!」

「あらあら、こちらもお気の毒。入所早々では、ちょっとインパクトが強すぎたようね? 酔い止めのお薬なら持っているんですけどね」

「君。君はもういいから。外で座って休んでいなさい。お昼にいっていてもいいから」

「っ…………」

 えづきが収まった一拍の隙に彼女が激しくかぶりを振って拒否したので、センター長も放っておくことにしたようだった。

 あるいは単に昼食を摂れるような気分ではないという意思表示だったのではと十数秒後に思い至ったタウセンだが、そのことを指摘し彼女の意思を確認し彼女を部屋の外へ誘導するか否かを決める手続きが再び行われる面倒さに思いを馳せ――なにも言わないことに決めた。

「そう……ということは、また数値が伸びていたりするのかしらね。院長先生、さっそく、測定をお願いしても?」

「えぇ、準備は済ませてありますので。――測定、開始して」

「ミッシェリカちゃん、ちょっといつもの検査をさせてもらうわ? 目に邪魔だったらごめんなさいね?」

 こちらの室内で機材調整をしていた人員が指示の通りに一部の操作系へ手を触れ――オレンジの木を囲んで床に描かれた円形のラインに沿って、何枚かの板がせり出してくる。

 そのままくるくるとオレンジの木の周りを何回転かをして……。

 目の前の窓に、膨大な文字情報と数値情報が浮かび上がってきた。

 その内の一番大きく表記されている数値を見て、タウセン。

「65万7千、ですか」

「あら。下がってしまっているわ。やはりほかの生物を取り込んだからといって、そのタペストリ領域が跳ね上がるとは、一概には言えないのね」

「えぇ。ひとつの固体としての整合性という問題もあると思いますから。本当に、事故には気をつけていたのですが、申し訳ございません」

「そうね。気をつけてあげてください――お互いの生命のためでもあるのですから」

「あるいは、彼女自身がこれ以上の他者との融合を拒否しているのかもしれないというのは、考えすぎですかね。取り込まれたものを反映させていないというのだから」

「そうね、ミスター・タウセン。そうであったのならば、希望はまだまだあるのだけれど。もう少しはっきりと彼女の〝声〟を聞き分ける方法も探りたいわ」

「なにを……しているんですか……?」

 振り返り、フォマウセン。

「もう大丈夫なの? ――タペストリ領域というのはご存知? この一番大きな数値はね、わたしたち綴導術師がその秘術を行なうために用いる、タペストリ領域範囲、タペストリ領域深度、タペストリ術儀界密度といったものを総合して割り出した――〝蒼導脈〟への干渉能力のポテンシャルを測定して数値化を試みたものなの。

 まだまだいろいろと不完全な試みなので、あくまで目安ていどまでの役にしか立たないし、この数値によってすべての綴導術師の能力を均一に測れるというものでもないけれど……この数値が大きければ大きいほど、綴導術師として大きな素養のひとつを持っているということになるわ。世界に対してより強く大きな干渉を働きかける秘術を行なうことができる。彼女は、すばらしい素養を持っているわ」

「え……」

「これが〝帰還者〟の持つことになるもうひとつの特性だ。一度はその存在を情報面から解体されかけたということは、一度は<アーキ・スフィア>へその存在を近づけたということにほかならない。

 結果として一度存在情報を欠損しかけた、または欠損をしたまま〝霧〟から帰還した者は、綴導術という秘術に対して――つまり〝蒼導脈〟への干渉力という面で、通常の人間よりもはるかに高い親和性を示すことが多いのだ。

 特にこのミッシェリカ少女の示す素養値はずば抜けている。当<アカデミー>に所属する教師クラスの綴導術師資格保有者のうち、<金>までの階梯術者の平均値はおよそ40万となる。この点だけを見れば、彼女はもはや大綴導術師だな」

 だんだんと唇を震わせ始める彼女の顔色には同情せず、タウセンは冷徹にフレームを持ち上げ、続きを口にした。

「もしも彼女のような素養を持つ者たちに綴導術のメソッドを与えることができたならば、綴導術という概念に対し、彼らは計り知れない発展をもたらしてくれるだろう」

「あなたたちは――利用しようとしているんですか!?」

「……」

 立ち上がって怒声を張り上げる新米職員にも、フォマウセンとタウセンは表情を微塵も動かさなかった。

「こんなになってしまった人間まで……使って! 人体実験じゃないですか! こんな、バケモノみたいになってしまって! あなたたちみたいな人に利用までされて! 死んだ方がマシじゃないですか! あなたたちが人間なんですかっ!?」

「君、落ち着きなさいよ」

彼女に強い視線で射抜かれて、センター長も肩をすくめた。

 室内に、沈黙が降りた。

 ふたりの教師とセンター長。機材管理に動いていた数人も手を止め、みながなにも言わない。

 険悪というよりは、やや疲れたような、そんな空気だった。

 やがて、ずっと微笑を浮かべたままであったフォマウセンが変わらぬ声で答えた。

「人体実験? そう。その通りね。ごまかすつもりはないわ? でもね、彼女のこの数値、まだまだ足りないのよ。わたしたちが求める秘術に応えてもらうためにはね」

「……」

 今度こそありありと嫌悪の色を表わし始めた女性職員からなんということもなく顔を逸らすと、学院長は窓越しに『ミッシェリカ・オランジーナ』を見やった。

「足りないの。――彼女をオレンジの木から〝脱出〟させるためには」

「…………え」

 窓の照り返しごしに、あっけに取られた顔へと変わった彼女に視線を絡め、フォマウセンは訂正した。

「そうね。ひとつ間違いがあるの。――〝実験〟じゃないわ? 失敗は許されないから。前例はない。実験動物で同じ現象を再現することもできていないから、『試す』ということもできない。どちらにしても、チャンスは一度きり」

「戻せる気で、いるんですか……」

 うなづく。

「残念だけれど、彼女の人間としての生命はすでに終わっていると言える。三次元測定を行っても、樹木と完全に融合してしまった彼女の臓器を始めとした生物的構造は、樹木の成長とともにすでにバラバラになってしまっている。当然だけれども機能もしていない。

 だけど数十年が経った今でも、彼女の表面の形相は残っている。非常にゆっくりと時間をかけてだけれど、目や口を開いたりもする。

 彼女に残された希望は、<アーキ・スフィア>。樹木の内部に残された彼女の情報は、まだ樹木と一緒に独立したものとして漂っている。広大無辺な情報の海の循環、その波にさらされ、千々になろうとしながらも、繋ぎ止められている。

 もしも彼女を元に戻す手段があるとすれば……それだけ。でもそのためには施術者の力量だけではない。彼女自身が、彼女自身に秘術を受け入れてその内部に走査させられるだけの領域と技術を獲得しなければならない」

 信じられない、と言った風に、女はかぶりを振った。

「戻せる気で……戻す気で、いるんですか……戻して、この人が幸せになれるとでも思っているんですか! 一度はこんなになってしまって! 家族も身寄りもない。時代まで変わってしまって! 残っているのは実験体としての――」

「それは、彼女が決めるべきことだわ?」

 振り返り、遮ったその声音の穏やかさは、断絶にも近く感じられただろう。

「……」

 もう一度、新米の職員はへたり込んだ。

 しばらく微笑のまま彼女を見つめていたフォマウセン。特殊ガラスの窓へ手のひらを当て、自分の力の波動を流し込んだ。

 計測値が上書きされ、120万という数字が表示される。

「ミスター・タウセンもいかが? ちょっと、腕試し」

「いえ、わたしは。どうせ結果は同じでしょう」

「まぁ、そう言わずに。彼女に免じて」

 と言ってガラスと――その向こう側にあるオレンジの木を手で示す学院長に、タウセンはため息をひとつ、自分の手のひらを窓へ触れさせた。

 現れた数値は、同じく、120万だった。

 フォマウセンに視線を流されて、呆然と成り行きを見守っていた女性職員がビクリと震えた。

「これがあの子を戻すのに必要と思われている、最低限の数値。この測定器も、測定基準も、そのためだけに作られたものなの。だから無理を言って測定器の許容上限値をここまで引き上げてもらったのよ」

「……」

「えぇ、そうなの。……国をひとつふたつ動かすような大秘術に何度か触れているとね、わたしたちもその存在を次第と<アーキ・スフィア>に近づけてゆくことになる。たしかに彼女と比べたら、わたしたちの方がよほどのバケモノだわ? そうよね、ミスター・タウセン?」

「異論はありますが、極論すればそうでしょう。……結局のところ、〝霧〟によって強引に情報を解体されるか、少しずつ自らの存在を純粋情報面へと近づけてゆくか……我々と〝帰還者〟の違いは、そのていどなのかもしれません」

 そう。と、フォマウセンは続ける。

「もうひとつつけ加えなければいけないことがある。たしかにわたしたちは、彼女を貴重な実症例サンプルとしても見ているわ。今はほかに『生きている症例』がいないから。それはごまかすつもりはない。

 それでも――わたしはきっと彼女が自己と自我を取り戻した上で幸せを掴み取れると信じているし、必要ならばそのための助力も惜しまないつもりよ。少なくとも今わたしたちが諦めて彼女を死なせてしまえば、永久にその可能性も試すことができなくなる。

 可能性があるのならばわたしたちは、たとえこの身がヒトと呼べない領域にまで進化してしまったとしても突き進んでゆくわ。そこに求めるべきなにかが得られるというのであればね」

 彼女の語りを聞き終えて。

「……」

 女はうなだれてしまったが、最後にフォマウセンの姿を見上げていたその顔からは、すでに怒りも嫌悪も消えうせていた。

 理解を示したのかもしれないし、単に疲れ果てただけかもしれない。いずれにせよ自分たちがミッシェリカ少女の治療を諦めることはないので、どちらでもよい話ではあったのだが。

「君、今日はもう休んでいなさい」

「……」

 センター長にやんわりと肩を持って押されながら、新米の彼女は扉の向こうへと消えていった。

「院長先生も意地悪よね? 新人が入ったらかならずこの『ツアー』をやるんですよ?」

「最初に一番強いインパクトを与えておけば、後々の仕事慣れをするまでにある困難の数々への緩衝材になります。『ふるい』にもなりますし、有効なのではないですかね。少なくとも彼女が、『片腕を失って』『入院している』前任者と同じミスをする可能性は、これで完全に立ち消えたでしょう。あなたとセンター長殿が、散々おどかしましたからね」

「ふふ、そうね? ミスター・タウセン?」

 含みありげに、感謝の念も込めて笑い返し、フォマウセンはミッシェリカへと視線を移した。――ことこの子に関してばかりは、道徳的同情観念や博愛などを抱かれて、精神的・物理的距離を近く持たれても困る。それだったら『恐るべき者たちに目をつけられている、恐ろしい危険性を秘めた実験体なのだ』とでも怖がってもらう方がよほどよかったのだ。

 肩をすくめて応えるタウセンの顔は「まぁ、大した違いはないしな」と物語っていた。

 フォマウセンが窓にやった手を滑らせると、その動きに連動して文字情報がスライドし、元のミッシェリカを測定した羅列が現れる。

「あのように、〝帰還者〟は容易に人々から恐れられる。一般人からも、綴導術師からも」

「それはそうでしょう。自らの研鑽と時間を、軽々しく飛び越えられてしまうようにも思えるのは当然のことです」

「そうね。でもこの子たちがいったいどれだけのものを望まずに犠牲として、あまりにも割に合わないその対価としてのそれを持っているのか。だれも理解していないわ」

「大半の者に理解ができるのであれば、〝帰還者〟への差別や迫害は、今よりもずっと小さいものであったでしょうよ」

「『あの子』のそれは、このミッシェリカのそれよりも、はるかに莫大で広大でしょうね」

「……」

 タウセンは数秒だけ言葉を探し、次には考えついたどれでもないことを口にした。

「実際彼女のタペストリ領域は、潜在している分まで含めれば、このミッシェリカよりははるかに莫大でしょう。こんな数値など、足元にも及ばないほどに。あるいはわたしか……あなたよりもね」

「そう。きっとあの子も、自分自身の立場は、ある意味自身で一番よく心得ているでしょうね。あの子、どうもまだまだ、学院活動の中で思い切った術の行使には戸惑っているみたいじゃない? 入学式のアレも児戯のつもりでやったことが、周囲の反応が大きすぎて、なおさらおっかなびっくりになっているみたい」

「わたしとしては助けられる限りです」

「でもそれでは、あの子もいつまで経っても、自分の殻から抜け出せないままだわ? ……たとえ綴導術師としての素養のひとつが、すでに天にまで届いるのだとしても。それだけではあの学院では到底やっていけないわ。自分の力を封じ込めることばかりに疲れ果てて、あの子も不幸になるだけでしょう」

「……」

「しっかり見てあげていて、くださいね?」

「まぁ、褒賞の分の仕事はいたしますよ。致命的なことでもしでかしてくれない限りはね」

 無愛想に肩をすくめるタウセンに笑いつつ学院長は、さっそくその仕事ぶりをたしかめてみることにした。

「で、彼女は今、なにを?」

「今はたしか、<国立総合戦技練兵課>の試験項目への随行ですね。日程が順調なら、今ごろは<国立ロゥグバルド監視公園>……〝霧の杜〟かと」

「あらあら。とは言ってもやんちゃなのは相変わらずなのねぇ。きっとトラウマの根源になっているであろう場所にも乗り込んでしまうだなんて、さすが、それだけのたくましさがなくてはね? ――ねぇ、ミッシェリカちゃん?」

 

 

 しかしアイバはといえば、そんな今のスフィールリアの様子を『やんちゃ』という語には、とても結びつけられないでいた。

 日程は、二日目に入っている。

 いかに探索に時間をかけられるかが重要だ。初日は急げるだけ急いで目測距離を踏破し、かつて存在した街の痕跡を見つけた。家屋の一部であった遺跡物に目印の旗を置いて、仮眠を取り――最初の探索を開始しているのだった。

 スフィールリアの様子は、相変わらずなままである。

「残り、丸二日と二時間、か……」

 出発時に手渡された棒状の期間測定器は、精巧な歯車の音とともに、正確と自分に残された時間を刻み進めている。

 隣を歩くスフィールリアが、厚手の上着のポケットから真新しい紙片を取り出して広げた。

 それは彼女が学院の大図書館から書き写してきた、この土地に〝霧〟が現れるよりも前の……六十年前の地図だった。

「……さっき拠点にした場所の正確な座標はまだ分からないけど、入り口の方角から考えて、この<ロゥグバルド>っていう街の、最南端沿いのどこかだと思う」

 一時間ぶりの会話に心持ち気が上向くのを感じながら、アイバは打ち合わせていたことを思い浮かべた。

「この街のどっかに、目標物が『隠されてる』かもしれないんだよな」

「うん。なんの手がかりも脈絡もない地面に、ぽい、て放置しておくっていうのもどうかと思うし……絶対にないとは言えないけど……でも将来に救助活動とかをするのも想定してるんだったら、やっぱりどこかに『隠す』と思う。人を試すためにものを隠す人の心理とかを考えたら、やっぱり障害物が多いところを選ぶと思うし、それに〝救助〟っていうんだったら、」

「なんと言っても、〝街〟だよな。合ってると思うぜ」

 最初に、アイバに試験会場を知らされるよりも前にそのことを思いついて口にしたのは、スフィールリアだった。

〝霧〟に飲まれた土地のことを語りたがる者は、少ない。結果として過去のその地のことを知る者にも自然とゆき当たらないようになる。

 しかしかつての歴史資料を紐解けば、かくしてそこに――〝街〟は、あった。

 記録によればそれなりに大きな衛星都市で、市政も整っていたので、〝霧〟が現れた当初の対応も早かった。人的被害は、ほとんどなかったという。

 だが住むこともできない。街は丸ごと放棄され……現在の通り。封印指定区として何重もの囲いの奥へ、厳重と閉ざされた。

「〝霧の杜〟探索の重要項目その二。その土地の来歴と歴史、地形は可能な限り把握してから望むべし。そしてその一。〝霧の杜〟攻略は事前準備の段階で九割が決まる――か。さすがだぜ。

 これなら逆算して、こっから足の届く範囲の区域に絶対、目標物あるもんな。もらったも同然だなっ」

 顔を上げたスフィールリアが、少し咎める口調になった。

「だからって油断しないでよ。あたしたちが入ったゲートからはギリギリ急ぎ足でたどり着ける位置に街はあったけど、そうじゃないゲートからの出発組だっていたでしょ。ってことは、かならずしもその目標物とかいうのが街の中に隠されてるとは限らないってことで、だとすればその条件はあたしたちにも平等かもしれないってことじゃない。それに、」

 立ち止まりすらして強く一拍を置き、スフィールリア。

「〝霧の杜〟に滞在する時間は?」

「……短ければ短いほど、よい」

 そう。と短く評点し、再び歩き出してしまった。

「どちらにしても急がなくちゃ。最初に市街区に当たって、早めに見つからないようなら、引き返して更地の場所も見直した方がいいかもしれないし」

「お、おぅ。そう……だよな」

 てきぱきと正しく判断しているようで、実はスフィールリア自身が焦っているようにも見える。〝霧の杜〟に留まりたがる者の話など聞いたことはないというのはもちろんだが、そうではなく、彼女自身が個別の理由として、なにかを恐れている風でもあるのだった。

 とは言え、今、彼女が行なっている判断のすべてはアイバの試験合格のためのものである。普段の調子でないことばかりが気がかりになってしまっていたが、思えば相談を持ちかけた時から乗り気でなかったところを圧して力を貸してくれているのだ。どんな心配をしようと、ここで自分が結果を出せないことが、彼女に対しての一番の仇返しとなってしまうだろう。

(だな。これは救助も想定した試験。俺が考えて、俺がしっかりしなくちゃな)

 思い直して、アイバも彼女へ追いつきつつ、周辺への警戒を再開したのだった。

 そうして歩くこと一時間ほどで、本格的な『市街跡地』と思われる区画を見つけることになった。

 さらにその市街区の建物ひとつひとつを丁寧に立ち寄って探索して回り……三時間ほどの時間が経過しようとしていた。

「……寒いな」

 民家の劣化しきったベッドを崩しながら横倒しにして、アイバが防寒着の襟を寄せると、二階を見て降りてきた彼女が口を開いた。

「……『寒い』って思えているうちは、まだ大丈夫な証拠なんだよ。〝霧〟の侵食がもっと進むと、温度の感覚もあいまいになってくるから。そうなったら、もう、危ないの」

「温度が『なくなる』っていうのも、よく分かんねーけどな。想像できねー」

「〝霧〟が世界を消すプロセスっていうのはあいまいなように思われてるけど、実はすごくシンプルなんだよ。――『なんでも』なの。

 今、ここがすごく寒いのもそのせい。熱っていうのは大気の保温効果や、元素の運動――もっと言えばエネルギーだから。〝霧〟はエネルギーも消すし、分子や原子の運動も消すし、原子核の結びつきだって消す。……原子そのものだって。視点を切り取ればキリがないし、その順番も状況や環境によって前後したりもするけど、〝霧〟にとってはなんであってもかまわないの。

 それらのいくつか、ひとつひとつが少しずつ消されていく途中にあるから、今この領域は、少しずつ『温度が在るための条件』が『なくなっていってる』。寒いって感じるのは、見かけだけの問題。でも、世界が、まだ消えてはいないっていう証拠なんだよ」

 次の探索目標を探し、人の気配の消えきった、打ち棄てられた路上をゆく。

 見果てるまでもない先で荒れ果てた石畳が〝霧〟に途切れ、石造りの家々や傾いた街灯の影が白い揺らめきの中にかすむ景観は、否応なくここが死者たちの住まう場所なのではないかという予感を、アイバに抱かせた。

 キィ、と。風が吹いた気配もなく、吊り看板の錆びた音を聞いた気がした。

「……でもよ、〝街〟はまだこうして、しっかり残ってるじゃないか。……かなりボロだけどよ。でも〝霧〟さえなけりゃ、また暮らせそうじゃないか?」

聖堂だったららしい建物で、朽ちかけた長椅子の影を手分けしながらアイバは率直なことを言った。

「それは、また『別の理由』があるからよ。わたしたちがこうして大荷物を背負ってきてるのと同じ」

「あー、なんだっけたしか……情報の、保全? だったっけ?」

 そう。とスフィールリアは小さくうなづく。

「〝霧〟に飲まれた人里は、やがて消えちゃう。でもこの〝街〟のことを『覚えて』いる人たちがいれば、この〝街〟のことをいつでも思い出せる〝記録〟があって、そのことを人々が覚えていれば、〝霧〟の中にあっても街は、しばらくは消えずに形を留めていられる。……それでもいつかは消し去られちゃうけどね…………大事なのは、〝情報〟なの」

「……だから、<アカデミー>にはこの街の記録も残ってたってわけか」

『情報の保全』――綴導術師たちが行なう〝霧〟への対抗措置のひとつだった。

「存在の情報っていうのは、その中核となる存在そのものの外側にも〝外部記憶〟として残されてるの。もちろん、あくまでも存在の主体と言うべきものはこの街自体だから、この街が〝霧〟に飲み込まれてしまった以上は消失は避けられない。それでも外部からつながっている、この街に関するあらゆる情報が残っていれば、<アーキ・スフィア>から、この街が『あった』という事実までは消えない。〝情報のひも〟って言うの。

 この街がいつか消えてしまって――この街の記録をだれも取らないで、覚えてもいなければ、やがてこの街が『あった』という〝歴史〟までがなくなってしまうの」

「歴史が……?」

「そう。どこかにしまい込まれたまま忘れられたこの街に関連した古い文献とか、この街で人気だった女優を描いたポスターも、たとえ外部にあったとしても、消えちゃう。なかったことになる。人間の意識からも。<アーキ・スフィア>の一部としての『この街』そのものが、消えるから。

 だから情報を残すの。『完全な消失』をしてしまうってことは、<アーキ・スフィア>が小さくなるってことだから。でもたとえ外部情報でもしっかり認識して残しておくことができれば、一時的に見かけ上だけ<アーキ・スフィア>が縮んでしまうことがあっても、そのポテンシャルは、あるていど維持することができる。

 いつか新しい情報の循環が生じた時――ううん、生じるための余地が<アーキ・スフィア>には残されるの」

「…………。あー……よく分かんねっけど。掘った土をどっかにやっちゃったら家の質量自体が減っちまうけど、土を倉庫にでも取っておけば、見栄えは悪いけど『持ってる財産の量』は変わらない……みたいなカンジか?」

「そうそう。そんな感じ。でもこの街はほとんどの人がちゃんと無事に脱出できたみたいだから、まだまだ生身の記憶として覚えてる人もいるんじゃないかな。だからこれだけ残っていられるんだよ、きっと」

「ふぅん……」

 登った時計台の上から見渡して、目標物を『隠しに』きた人物の真新しい痕跡でも見られないかどうかを探しながら、

「さっきの話なら、じゃあさ。みんなでがんばって自分たちの記録を残しとけば、かなりの間は大丈夫ってことだろ? ここだってもう六十年は保ってるわけだし。〝霧の杜〟に呑まれたら人間とか家畜とかが真っ先に消えちまうって言うけど俺たちは今のところ全然平気だし。そんなにおっかないトコなのかね、〝霧の杜〟って?」

「……暢気ねぇ。あたしたちは特別な糸で編まれた、存在強度の強い防寒着を着てるでしょ。それに最初から〝霧〟に関する知識を持ってて、『そのつもり』の心構えで入ってきてるからまだマシなの。無意識のうちに自分を強く持とうとしてるから。まだ一日しか経ってないしね」

「じゃあよ、ほら。みんなでコレと同じ防寒着着ればっ」

 振り返った先、反対の方角を監視していたスフィールリアの半眼にアイバがあとずさった。

 普段と違って表情の希薄な状態でされると、かなり、怖かった。むしろゴミでも見るような目つきにも見えるので、悲しかった。

「コレがいくらしたか覚えてんの。街全部の人がこんなのほいほい買えるわけないでしょ。擦りきれたり破いたりしたら買い換えなくちゃだし。

 ……それに、言ったでしょ。今こうして『寒く』なってるのは、間違いなく〝霧〟による消失が起こっている証拠なの。ほかにも生命にとって重要な、目に見えないどんな要素が消されてるか分からない。だから本当なら今あたしたちがこうしてここにいるだけでも致命的なことかもしれない。だから本当に注意するなら〝霧の杜〟に入る前には家畜とか実験用の生き物をまず置き去りにして、滞在するのと同じだけの期間、様子を見てから入るのが正解なの。今回は<国立総合戦技練兵課>の先生さんたちががその事前確認をしてくれてあるから、その点だけはいいの」

「えっ、そうなの――はい、おっしゃる通りかと。なるほど」

「――で、そんな『存在強度が下がっている状態の世界』に常に滞在し続けることが、もうダメなんだよ。生活なんて論外。水を出してる蛇口の下にずっと石鹸を置いておくようなものなの。石鹸は生物ね、分かるよね」

「すんませんでした」

 アイバは、粛々と頭を下げた。

 

 結局、目標物は発見できないままに半日の時間が経過してしまった。

 最初のうちは家屋や民家の隙間の路地もしらみつぶしにして探していたが、まるで手応えが感じられなかった。途中からは玄関口や道の入り口の地面に目をこらして人が通った痕跡、または痕跡を消したと思しき痕跡を探して探索の効率と範囲を予定以上に広げたのだが、結果は同じだった。

 さすがに焦りを覚え始めていたアイバだが、スフィールリアの断固とした提案により、交代の仮眠……とは名ばかりの、短い休憩をすることになった。

 それまでほとんど休憩の時間を取っていなかったし、なにより、今の自分たちのようにそうやって作業への認識が機械的単調に陥ってしまうことが〝霧の杜〟では危険なことであるのだという理屈に、押しきられた形だった。

 というわけでとある大通りの真ん中に火を起こして、ふたり。暖めた茶と保存食で簡易な食事を囲んでいるのだった。

「幽霊でも出そうじゃないか?」

 とアイバが茶化すも、スフィールリアは変わらず平坦に答えてくるだけだった。

「そんなのがいたとしたら、あたしたちなんかよりも真っ先に消えちゃうよ。そういうのって要するに情報投射体の一種でしょう? そう解釈するとしたら、肉体っていう物理的媒体を持たない純粋情報なんか、きっと一日も存在を保てないよ。精霊だってそうだし。〝霧〟の〝深度〟にもよるんだろうけどさ」

「……」

「それにこの街の人たちはほとんど無事に脱出してるっていうしね。幽霊なんていないよ」

「だよな、はは」

 ちびちびとカップに口をつけているスフィールリアに笑いかけて、アイバもグイッと自分の茶をかたむけた。

「……ごめん」

 アイバが息をつくと、焚き火に顔を陰鬱と翳らせたままのスフィールリアが、普段からは考えられないほど落ち込んだ声の謝罪を投げてくる。

 飲み干した勢いでため息をごまかしたつもりだったのだが……アイバ自身も失敗したと思うほど、重苦しく吐き出してしまった。自分で思っていた以上に、精神的疲労が溜まっていたみたいだった。

 彼女は物怖じや遠慮をしない性格だが、鈍感でも無神経なわけでもない。〝霧の杜〟に入ってからこちらの自分の態度こそがアイバの精神的負担になっていると、自覚していたのだろう。

「い、いいって。俺も悪いな。焦っちまって、さ。そっちのがデカいんだ、はは」

「……」

「……」

 黙々と続けたおかげで、食事は五分もかからなかった。

「……見つからねー、な」

 差し出された追加の茶を受け取りながら、スフィールリア。簡素に「うん」とうなづいた。

「ちょっと、見積もりと想定が甘すぎたのかもしれないね……コレ、あたしたちが思っていたのよりもずっと重要視されてる項目なのかも。アイバは向こうの二年生なんだよね? 上級生になってからも〝霧の杜〟に実際に入るような訓練や試験って、あるの? 内容は分かる?」

 場は、自然と、反省点と対策修正点を洗い出すブリーフィングの様相へと転じていった。

 アイバにも彼女の言わんとするところは分かった。<国立総合戦技練兵課>が養成機関であることには変わりがない。彼らが望むべき人材の育成をするというのは、成長の誘導に等しい。

 ならばかならず、学び取らせるべき項目ごとに、段階というべきものが設置されているはずだった。それがカリキュラムだ。先行している内容から逆算して、今臨むこの試験に求められている条件を、絞込みできないかどうか。

 具体的には『目標物』とやらに与えられている、想定された状況と状態、性質と大きさ、そして正体だ。そこから自然と導き出される、隠匿されるべき場所と条件――。

 しかしアイバは首を横に振った。

「ああ、あるぜ。――〝霧の杜〟の中での大規模救助活動を想定した合同訓練。〝霧の獣〟の討伐を想定した、地方騎士軍と連携した総合軍事展開訓練。でも想定される状況も、規模や向かう場所も、全部その時で違うんだ。中には実際の討伐遠征もかねたりするから、守秘義務が課せられることも珍しくないんだ。

 ……ついでに言うと、先輩連中に夜襲とかまでして今回の試験のこと聞いて回ったりしたんだけど、だれにも教えてもらえなかった。完全に主義義務が敷かれてるみたいでよ」

「そっか、それじゃ、不透明性と多様性が多すぎるよね……。それに合同っていうことは、今のあたしたちとは与えられてる条件が根本的に違うんだね。参考にはできそうにないか。ていうかそんなことしてたの」

 焚き火の燃料を混ぜ返しながらアイバは「くそ、なんなんだ」と毒づいた。

 さすがに、当初の気楽さを維持するのも難しくなってきていた。帰還に一日を費やさなければならないことを考えれば、探索に割ける時間は半日をきっているのだ。探索範囲を広げるほど帰還にかかる距離も伸びてゆく。

「かなりの範囲を、探したんだぜ。人が通った痕跡だって絶対に見逃さねぇくらいじっくり調べたんだ。――上からだって調べたよな? 地上と手分けして屋根づたいに移動までしたんだ。俺たち間違いなく、フツーに探せる範囲の倍近くの区画は網羅したぜ? ……ってことは、その〝視点〟から見つけられるようなもんじゃねーって可能性もあって、そいつはつまり……」

 スフィールリアも、ある種の確信を抱いた瞳を返して、うなづいた。

「まだ、あたしたちが気づいてない〝条件〟が隠されてる可能性が高いっていうこと。『それ』は一般的観念から真っ先に向かいやすい視点からは外れたところにあって、『それ』に気づかない限り、目を向けることもできない物か、場所である可能性が高い。だとしたらまず、この陥ってしまった錯覚と状況を引っくり返さないと、いくら歩いてもダメっていうことになる。試験内容に守秘義務があるんだったら、つじつまは合ってると思う……」

 だが、『それ』は、なんだ――?

 しばしの沈黙が降りる。

「……地下、とか?」

「可能性がないわけじゃないけど、それだと、視点そのものを変えることにはならないと思う。〝地上〟か〝地下〟かの違いっていうだけで、必要になる行動と範囲はほとんど一緒。もっと本質的に視点や考え方を別にするものって考えた方が、あたしはいいと思う。そうじゃないと今までと同じだけの時間を使うことになっちゃう」

「そう、かもな……。だけど地下水道とかの地下設備って、どこの街でも網羅して完備されてるってものでもない。地上に比べりゃ明らかに範囲が狭くなるっていうのは、『痛い』な」

 再探索の検討対象として無視できないという意味だ。明確に地下の可能性を否定する、別の新要素を見つけられない限りは。

「そうだね……ほかに可能性がなければ探してみる価値はあるかもしれない。でもそれだけじゃない。それだったら、市街区以外の場所も一緒。一旦戻って、窪地とか崖下とか川を探す必要性も、出てきちゃうと思う……」

 アイバも苦々しくうなづく。彼女の示唆した〝本質的〟というのが、その点だ。

「むしろフェイクをかけるんなら、そっちの方が見つけられる可能性は、高いんだよな。範囲と、位置関係を考えても」

「うん……実際、〝霧〟に飲まれて消失しかかってる時は、認識力もあいまいになってることが多いから。町や家中にいたはずの人が、気がつかないうちに到底歩いてたどり着ける距離じゃないところで倒れて発見されたっていう事例もあるの。自分の存在か、距離や空間があいまいになってて、離れた場所に現れちゃったり」

「そうだよな。でもそれじゃ、キリがなさすぎるぞ……くそっ」

 想定するべき前例、状況。その範囲が、膨大すぎた。

「〝人〟じゃない、可能性は?」

「うん?」

「試験を言い渡された時や、内容を伝えられた時のことを、もう一度よく思い出してみてほしいの。――これは、本当に、〝救助〟活動なの?」

 アイバは一時、目を瞠ったが、

「……あぁ、そうだ。『これは町村が〝霧〟に飲まれた際の救助活動も想定した』総合的な実地訓練もかねてる。……そう、言ってたな、たしかに。逆を言うと、それ以上のことは言われてねーんだ。あとはお前にも伝えた通りのことしか」

「そう……」

 もしも探索対象が要救助者でなく――物品であったなら。取り残しておくわけにはいかない政治的に重要な調印書や宝物などの回収に部隊が動かされることもあるだろう。そういった品の性質に応じて、探し出すべき建造物の傾向も分かってくる。一時でもアイバがすがりたくなるのも、無理はないことだった。

 しかし、これで物品であるという確定も得られなくなってしまった。むしろ、検討すべき対象の範囲が『すべて』であることが、裏づけられてしまったようなものだ。

「それでも、なにかあるはずなんだ……俺たちが『それ』に気づけるなにかが。この試験のどこかに」

 そう言うアイバの口調は、だが確信や絶対に見つけてやるという意地よりは、口惜しさに満ちたものだった。

 スフィールリアも思い当たっているかもしれないし、アイバ自身がすでに気がついていることだった。

 ――そのヒントは、今まで、彼がサボタージュしてきた訓練や任務項目の中に散りばめられていたことかもしれないのだ。それもまた試験というものの目的の一環なのだから。

 だとすれば、ただ試験に臨んだだけでは解消が利かないのも当たり前のことだった。

「……ひとつだけ、違和感ならあるの」

 スフィールリアもその点の指摘はしてこず、別のことを口にした。

「これが〝霧の杜〟での『総合的な』活動を目的にしているのに、この試験はほとんど個人単位で行われている……て、いう点。――おかしいよね。救助や探索、回収を前提にしてるなら、ううん、そうじゃなくって〝霧の杜〟に入るんだったらほとんどの活動は、せめてチーム単位じゃないといけない。

 なのにあたしたちはほとんど個人。よく考えてみれば、そこからして与えられた前提と条件がかみ合ってないようにも思えるかなって」

「……たしかに」

 スフィールリアの目を見ていたアイバは、やがてあごに手をやり、彼女と同じく火に視線を落として思案した。

 だとすると、求められているのは個人の技能ということになる。

 そこで彼女が暗い面持ちなままの理由が分かった。

 捜索の条件自体は、変わらないのだ。ならばそれは統率された団体で行なわれなければならないし、捜索範囲も変わらない。かみ合わないという意味に――

「……」

「……」

 実質、思考は手詰まりだった。

 落ちた沈黙の重苦しさへ〝霧〟の世界の寒々しさが加わり、焚き火の爆ぜる音だけが空虚に響く。

「でも、もし求められてるのがアイバ個人の技能だっていうんなら、思い当たらない可能性がないでもない」

 顔を上げたアイバへ、確信がないままに意を決した風なスフィールリアの視線が重なる。

「――。戦闘、か……?」

 うなづく。

「個人単位であること。お互いの行動がかぶらないようにわざわざ別々のゲートから試験を開始させていること。この条件から、実はそれぞれ個々人の能力や状況に合わせて用意される試験の達成条件も決められてるって――今のあたしたちが自分を置いている状況を変更するためには、もうそう考えるしかない。

 アイバの場合は、あらかじめあたしの居場所を教官さんに聞いてきたんだよね。あたしは綴導術師。綴導術師が〝霧の杜〟に入る理由はそんなに多いわけじゃない。つまり――」

 不意の気づきに、アイバも目を見開いた。

「素材の調達――その護衛、か! 護衛職はお前らの代わりに戦ってなんぼだ……目標物が特殊な素材に見立てられたもので、それを守ってる、ていうか障害としてのモンスターに見立てられた『敵役』の試験官が、どこかにいるかもしれない。そういうことか!」

 この街のどこかに――

 今も、息を潜めて――

「〝霧の獣〟を倒して手に入る素材もあるから、〝霧の獣〟自体が目標になることもある。でもそんなものを用意できるわけないし。そうすると敵役の人に出会うこと、その人をアイバが撃破すること自体がクリア条件とイコールってことになる」

「そうか――それなら探す場所も、探し方まで変わってくるはずだ――そうか――」

「……でもごめん。それも全部単なる想像にすぎないし、状況もあんまり変わってないってことになる。

 それに……少なくともその場合、目標物になるアイテムだけをポンって置いておくことだけはないはずだよ。『敵役の人』は絶対にいる。じゃなきゃ、そんなアイテムがあれば、あたしが簡単に気づいてるから。あたしが探し方にさえ気づいちゃえば簡単に拾って帰れちゃうし、アイバの試験にならない。

 ――でも今までそんなものはなかった。『敵役の人』にも出くわしてない。つまり今まで探した範囲にはいなかったってことになる。この時点で、ちょっと不自然だし……帰還できない範囲で待ち伏せするっていうのも、土台から成り立ってないから。

 でも街のもっと内側か、まだ探してない市街の外しかないってことになる。残り時間から考えても、どっちかにしかいけない。賭けになる」

 なおかつ、この発想自体が『外れ』である可能性も無視はできなかった。

 スフィールリアの言葉の通り、すでに彼女たちは想定していた帰還可能範囲を逸脱した場所にまで進出してきている。

 だがアイバは力強く笑みを浮かべてかぶりを振った。

「でも、だからこそ選ばなくちゃ、だろ。だったら俺はお前に乗るぜ」

「……いいの? 可能性の大きさは今のところ、どれも一緒なんだよ……?」

 いいさ。とアイバは迷わずに投げ返す。

「勝手に、周りからも諦められてるって決めつけてた俺に、そうじゃないかもしれないって気づかせてくれたのはお前だぜ。だから俺はお前に乗る。――教えてくれ。お前が言う特別な素材品っていうのは街の内側と外側、どっちの方が発生しやすいんだ?」

「……」

 帰還する時間も考えるなら街の外部に戻る選択肢の方がまだ現実的だ――

 ここより先の中心部へまで進むのは、不自然な配置であるとしか言えない――

 アイバは「信じる」ではなく「乗る」と言った。それは判断を放棄するのでも、ことの成否を押しつけるのでもない。アイバ自身の判断と責任を持って、スフィールリアへ自分の行動の価値を預けるという意味にほかならなかった。

 それらを、考え……。

 スフィールリアは一拍の間ののち、やや意志の光の戻った相貌で――セオリーを告げた。

「街のどこかだと思う。〝霧〟による物質や物品の変性は、その品に込められた存在強度や情報に左右されることが大きいの。その中には『思い出』も含まれる。その品をこの世に強く留める情報が抵抗力になって、普通では起こりえない変性が起こる。〝街〟は、いろんな人の残した記憶――『思い出』の宝庫だから」

 アイバは間を置かず、彼女にうなづきかけた。

「いこうぜ」

「……分かった。それじゃ、いこう」

 ぱっとスフィールリアが立ち上がるのを見て、アイバは多少以上にびっくりしてしまった。

「お、おいおい。仮眠取るって言っただろ。全然休んでないんだし、せめてお前だけでも、少しは眠ってから――」

 彼女がやんわり微笑んだので、思わず言葉を止めてしまう。

「残り時間を考えたら、そんなことも言ってられないでしょ。街の中だってあたしが判断したんだからあたしも協力するよ。その分帰りの馬車でいっぱい寝させてもらうから、邪魔されないようにガードお願いね」

「……分かった。おっし! 任せろ!」

 アイバも立ち上がり、スフィールリアと手を取った。

「こーなったら絶対に合格してあのサド教官にひと言文句つけてやるぞ。待ち構えてんのが教官でもぜってぇ~に速攻でブッ飛ばして帰る! お前にこれ以上、みっともねぇザマは見せねーぜ」

「ほんとに、頼むよ~? ていうかあの人ムチャクチャ強いからね……そうじゃないよう祈ってよね、ちゃんと……!」

「ははっ。任せろよ」

 数十時間ぶりに見ることのできた相棒のひょうきんな笑顔に、アイバも初めて自然と笑い返したような気がしていた。

 やってやろうじゃないかという以外の気なんか、起こらなかった。

 

 だが、そんな彼女たちをあざ笑うかのようにして――〝異変〟は、現れたのだった。

 

「アイバ……ちょっと待って。あれを見て…………」

 そう言ってスフィールリアが立ち止まったのは、彼女たちが焚き火の処理をして大通りを歩き始めてから、本当に間もないころだった。

「どうした?」

 その声音の平坦さが事態の深刻さを物語っているようで、アイバも腰の剣へ意識をやりつつ足早に彼女の隣へと寄っていった。

 スフィールリアが立ち止まっていたのは、通りの交差した中央だった。彼女はその、合流した道の向こう側を、ただ呆然と見据えている……。

 目を凝らすが、敵の姿は見えない。あるのは道の向こうで開けた場所と、中央にそびえた記念碑でも思わせるモニュメントの、〝霧〟にかすんだ影だけだ。

「……? なぁ、よく分かんねー。いったい、なにが――」

 そこでアイバもギョッとした。状況の説明でもしてくれるつもりだったのか、こちらを振り返ってきたスフィールリアの表情が一気に真っ青になって、見る見る驚愕の表情へと打ち崩れていったからだ。

 明らかな恐怖の表情。アイバは剣を抜いて同じ方向を振り返り――

 そこには、ただ石造りの街並みしかなかった。

 だが、

「ねぇ、アイバ…………『この道』……この風景だったか、覚えてる?」

 え? という声しか出てこなかった。

「どうしたんだよ。今歩き出したばっかじゃねぇか。ほらそこに、消した焚き火の……あとが…………」

 なかった。

「――――」

 しばらく状況が理解できず、今度は声すら出てこなかったのだが――

「『変わって』る……ヤバい!!」

 こちらまでゾッとさせる悲壮なまでの声を出して、スフィールリアは弾かれたように駆け出していってしまった。

「おっ――おいおい!」

 彼女が向かったのは、最初に立ち止まって眺めていたモニュメントだった。

 かじりつくか、すがりつくように到着したそれを見上げて。

「やっぱりだ――『こんなもの』が、こんなところにあるはずがないのに!!」

「離れすぎるなって。落ち着け――どうしたってんだよっ!」

 慌てて追いつき肩に手をかけると、スフィールリアは怒ったように振り向いて、言ってきた。

「落ち着いてる……アイバが分かってないんだよっ。『こんなもの』が、こんなところにあるはずがないの――あり得ないんだよ。見て!」

 突きつけてきたのは、ロゥグバルド市街区地図の紙片。

 振り上げたもう片方の手が示したのは、目の前のモニュメント。

『〝ヘクセンドリカの碑石〟――新市街区完成を祝し、市のさらなる発展を願って。第十一代領主ワッヘリウス・フォウン・ロゥグバルドより』

 それだけのものにしか、見えなかった。

「あたし、この街のこと調べたの。それで一応、この街の、あたしたちが立ち寄りそうもない場所の名所とか、要所の記録や特徴も、一通り目を通してきたの」

 スフィールリアはかぶりを振り、自らを落ち着けるように深呼吸を繰り返しながら言葉を綴って、

「いい、アイバ? 突拍子もないことだって思うかもしれないけど、よく聞いてね。この石碑が本来なくっちゃいけない場所はね――ここなの」

 自分の持っていた地図の、ある一点を指差した。

 そこは、街の『中央部』だった。

 地図にはスフィールリアが今まで記した、探索済みのエリアが色鉛筆でマスキングされている。つまり、彼女たちが本来いるべき場所の範囲が。

 石碑の位置する場所は、彼女たちが今まで踏破してきた市内距離の、ゆうに十倍近くは離れた場所にあった。

「……え?」

 ようやく、空っぽだった脳裏に、ある種の危険信号が滲み出してくる。まだなにが起きているかの全容までには至らないまでも。

 スフィールリアは、結論を口にした。

「〝距離〟が『なくなった』の――あたしたち、距離を飛び越えて街の最奥部まで引き込まれちゃったのかもしれないの!」

 それは、いくつかの〝危機〟を明確に示唆していた。

「そんな――こと、が」

「ううん――『ここ』がもう街の最奥かどうかも分からない。今、この街のどれだけかの範囲の〝距離〟か〝位置〟か、ほかの要素かが消えかかって――今この街は『バラバラ』に『なり続けている』かもしれないってことなの。もうここが〝霧の杜〟の『どこ』なのかっていう保障もないの。

 ――アイバ。今すぐ街を出よう。うまく出られるかどうかも分からないけど、とにかく出口を目指さなくちゃ、帰れなくなる。永久に………………閉じ込められる」

 裾を掴んで言ってくるスフィールリアに、アイバもうなづいていた。

 真っ先に思い浮かべたのは試験のことだった。こんなところに試験官がいるわけがなかったし、なによりも帰還のための時間が危ない。

 きた道を戻ろうと、モニュメントのある広場を抜けた時――ふたりはまた、あっけにとられることになった。

「そんな……」

 広間を抜けたところから、街が、すっぱりと途切れてしまっていた。

 さっきまでには歩いてきていたはずの街がない。

 ただただ続く土の地面と、〝霧〟と、木立と……。

 市の外に、出てしまっていた。

「なんなんだよ…………!?」

 アイバにも、ようやく事態の異常性が浸透してきていた。だがスフィールリアの言葉は、彼が思いついていなかった可能性にまで言及する。

「……もう、あのあたりの区画はかなり『ガタがきてた』んだ。ばらばらに千切れてモザイク状に散らばっちゃってる。……ここが街の外っていうことは、どっちの方角かは分からないけど、少なくとも街の終端の範囲まで崩壊が進んじゃってる。ここが、あたしたちが入ってきた方面かどうかも分からない。――まったく反対側の方角かもしれない」

「……!」

「でも、だからって街に戻るのはもっと危ない。きっと二度と同じ場所は歩けない。……このままいこう」

「……試験は、どうする? どうすりゃ、いいんだ…………?」

 スフィールリアの判断に反論はないまでも、アイバは自身の状況への未練が捨てきれず、思わず聞いてしまっていた。答えてくるスフィールリアも、やや同情的ではあった。

「気持ちは分かるけど、少なくとも今の状態で試験の遂行は絶対に無理だよ。街の中央にいたとしたってまっすぐ元の区画に戻るまでにもかなりかかるもの。……どっちにしろ、帰るなら元の位置に戻らなくちゃ始まらない。それから考えよう? まずは、あたしたちが置いてきた目印を探さなくちゃ」

「……分かった。お前の言う通りだ」

 歩き出した。

「……なぁ。アレ」

「うん」

 十分ほど歩いていると、何軒かの家屋が見えてきた。

 だが、少し様子がおかしい。

 建物の背が、妙に大きい。その代わりに一軒ごとの土地面積が狭い。庭もないし、家同志の隙間も、ほとんどない。都市郊外に立てられた一軒家というよりは、まるで、密集した都市部に建てられた民家やアパートメントのような――

 あたりに目を凝らせば同じような〝区画〟が、公園に散りばめられた、理解ができない芸術品のように散在しているのが分かった。

「……ねぇアイバ。街に入る前、あたしたちが旗を立てた家の跡地、あったじゃない」

「……ああ」

 アイバも、彼女の言おうとしていることが理解できた。

「あの家も、本当は、あの街のどこかにあったものだったのかもしれないね」

 あの時は、気がつかなかった。建っていたのが一軒のみだったこと、ほとんど崩れかけて家の本来の外観を想像ができなかったこと……などのために、自然とあれが郊外の民家だと思い込んでいた。

 だけどもし推測の通りなのだとすると、旗を立てた時点で、すでに自分たちがいた区画すらも〝崩壊〟というのが始まっていたことになる。

 そのことがさまざまな焦りをアイバの胸に渦巻かせたが、今は目の前の光景が示唆する状況の方が深刻に思えた。

「だけどよ、スフィールリア。今、街の一部がこんな風に散らかってるってことは」

「うん。今あたしたちが歩いてるここも、まだ崩壊の範囲ってこと。急ごう」

「……」

 またしばらく、歩く。

 無言だった。スフィールリアの調子が出ていないというのは変わらないにしても、アイバももう、こんな状況でできる会話を思いつけなかった。

 疲労が溜まっていた。刻々とすぎてゆく時間。試験への焦燥。まったく理解も対応のしようもない人知を超えた状況への不安。スフィールリアばかりに判断を預けている自分のふがいなさ。常に体力を削り取ってゆく寒さ。

 気がつけば無意識のうちに、まばらな林のように現れてはすぎてゆく切り取られた軒並みを、力なく、当てもなく眺めていた。

 その拍子だった。アイバは目を見開く。

 なんの気なしと目を逸らそうとしたアパートの一室の窓に――揺らめく人影を見た気がしたのだ。

 いや、間違いなく見た。アイバは自分の動体視力には自信があった。あのシルエット。かすかに見えた芝刈りの頭は――!

「!」

 はっとして、アイバは駆け出していた。 

「アイバっ!? どこにいくの!」

「人だ! 窓のとこに見えた――試験官かもしれねぇ!」

「……!? ダメ――それは『違う』! 止まってアイバいっちゃだめ!!」

「えっ……、……!?」

 追いすがってくるスフィールリアの叫びを理解するよりも前に、アイバは驚いて立ち止まっていた。

『石畳を踏みしめる音』が、あたりに響く。

 アイバは――街の中にいた。

 石畳のストリート。続く軒並み。主を失い、荒涼とした〝霧〟の街。

「え――」

 右を見ても、同じ。

 左を見ても。そちらの先には呆然とした表情で立ち止まっている、スフィールリアの姿。

「どうなって、るんだよ……これ……」

 スフィールリアの方でも、変化は認識できていた。いや、アイバを見ていた彼女だからこそ、彼よりははっきりと変化を認識できていた。ブツ、と切るように意識へと生じた『ずれ』。次の瞬間には、もう、〝街〟の景色に飲み込まれていた。

 アイバが『見た』ソレというのは、違うのだ。『違うもの』なのだ。彼の〝霧〟へ対する理解の深度を読み間違えた。彼の焦りを理解してやれなかった。スフィールリアは悔恨とともに、押し殺した声を絞り出していた。

 アイバが見たソレは――アイバが自ら近寄り、積極的な観測を行なってしまったことによって――

「『引き込まれた』……!」

 一方のアイバも、落ちこぼれかけているとは言え、それでも一流な戦士への成長を期待されて訓練を受けた男のひとりである。まったくわけが分からないなりに、ほとんど反射に近い速度で状況把握のための優先順位的項目が脳裏を踊り始める。

 まず、真っ先に思い浮かべたのはスフィールリアの安否。これの確認は果たされた。

 次に、目の前のアパート。二階の窓に見た人影。

 あれは、教官だった。このような事態になってもまだ自分たちを待ち受けていたとでもいうのか。彼の胆力ならあり得ないこととは言えないにしても、やはり考えてみればそれは不自然なことでしかなかった。

 しかしたしかに見たのだ。あるいは自分たちと同じように〝遭難〟しかかっているのかもしれない。試験が続行されるのか否かは別として、どちらにしても合流を果たさなければならない。

 そこまでが思い浮かべられた折に――

「馬鹿者が。油断しおって」

 顔を上げると、その窓から冷淡に見下ろしてきている影があった。

「教、官……」

 だった。やはり、もはや見間違えようもない。見慣れた厳めしい表情。

 その屈強な体躯が、誘うように翻ってカーテンの陰向こうへと消えていった。

「…………」

「アイバっ! いっちゃダメ、戻って! とにかく、戻って!!」

 厳しい眼差しで窓の薄闇を見据え、入り口へ足をかけようとしたアイバの足が止まる。

 ここに教官がいるのだ。戦闘になるかもしれないがそれは望むところだったし、その後に状況を教えて合流しなければならない。引き返す足で教官にぶつかれるというのなら、それは二度とないチャンスということになる。しかしスフィールリアの様子も尋常ではなかった。

 彼女になら分かっているこの状況の正体と言うべきものがあるのかもしれなかった。まずは彼女の話を聞いて、それから教官のことを伝えようと――

 して、向きを直したアイバの足をさらに止めるできごとが、起こった。

「ロイ」

「ウェスティ、ン……!?」

 アパートとは反対方向にある、民家と民家の間の路地。そこから半身を覗かせてこちらを見つめてきていた人物に……アイバは弾かれたように駆け寄っていた。

「ウェスティン! お前――なんでこんなところに――だってお前はっ」

「なに焦ってるんだよ。馬鹿だな」

 まだ暗がりの中に表情を半分隠れさせて微笑している友人に、アイバは驚きほとんど、呆れと怒り少々に語りかけていた。

「そりゃ焦るだろ! なんでお前がこんなところにいるんだよ。だってお前は。なんだよ、ひょっとして教官に言われて、今までわざと……ははっ! そうだよな。妙に輸送車の数が多いと思ってたんだ。そういうことだったんだな。だったら事情を全部――」

「アイバ!」

 懇願にも近いほどのスフィールリアの声音に、もう一度顔を向ける。

「友達だ。同じ練兵課の。心配いらない。今からきっちり事情を――」

 だが、

「アイバ、落ち着いて! ダメだよ! 思い出して――その人は、本当にそこにいるべき人なの!?」

「……」

 その、必死な様子の瞳に。

 冷水を浴びせかけられたように平坦になった思考でアイバは、目の前の友人へ向き直った。 ずっと、笑っている彼に。語りかけた。

「なぁ、お前――『生きてた』んだよな……?」

「……」

「教官に言われて、黙ってただけなんだよな? 助かってたんだよな? 今日の試験で、俺にぶつからせるために……驚かせて、正常な判断力を……とか……そんな感じで、よ」

「……」

「一年前に――崩落現場の救助支援出動で――そうだろ――命令無視して前線側にお前がいっちまって、お前の縄が切れて――俺は。……お前の葬儀にだって、参加したんだ………………」

「……」

「なぁ」

 友人は変わらない姿で、ただ笑っている。聞いているのかいないのかも分からない。

 やがて、ふっと息を抜き、

 その暗がりから、いつものようにこちらへ手を伸ばしてきて――

「ほんと、馬鹿だな。大丈夫だって。ほら、いこうぜ――」

「止めろおォッ!!」

 アイバは声さえ裏返して、彼の手を殴りつけるのよりも強く打ち払っていた。痛痒を覚えた様子もなく友人はそのまま暗がりの奥へと。

 尊敬すらしていた彼への仕打ちに罪悪感を覚える余裕すらなく後ろへとたたらを踏んだアイバ。はし、とだれかが、その剣帯を掴む感触があって――

「アイバ、落ち着いて!」

 すぐ傍からスフィールリアの声。だが彼女は、近寄ってきてはいなかった。

 元のままの位置から、唖然とした顔でこちらを見つめてきているだけ。だけど『あっち』の彼女の姿を捉えるのと同時に、たしかに剣帯を掴む見覚えのある白い手首が視野の端に映っていた。

 見下ろせば、手首はなくなっていたが。

「…………。え、――」

「だれですか……?」

 その横目。友人が消え去った路地を作る民家の玄関が、開いていた。怯えるような声音と、小さな女の子の人影。明かりも灯していない暗闇から、かすかに光を照り返した双眸が、ギョロリと上向いて見上げてきて――。


 
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