No.699734

深く眠りし存在の  第1部

健忘真実さん

不可解な出来事が続き、激しい頭痛や記憶喪失のためにメンタルクリニックを受診。解離性同一症、と診断された。

2014-07-10 12:22:27 投稿 / 全22ページ    総閲覧数:300   閲覧ユーザー数:300

 胸から上を掛け布団から出して仰向いてるばぁちゃんの顔に、お白粉を押しつけるよ

うにして塗った後、頬に紅をさしてるかぁちゃんのそばに座って、かぁちゃんの割烹着

の袂を握りしめ、そのかぁちゃんの手の動きをじぃっと見つめていた。口紅筆を取り上

げると顔をばぁちゃんに近づけ、注意深くゆっくりとばぁちゃんの口の縁をなぞった後、

何べんも丁寧に唇の上を塗り重ねていく。

 白い着物を着せられて、おでこに白い三角の布を乗せてるばぁちゃんの皺々の顔は細

く骨ばっていたが、大根のように白い顔の中でリンゴのほっぺたとトマトのように真っ

赤となった唇は艶やかで、その化粧された顔は、まるで生きているかのようにみえた。

ばぁちゃん、と声を掛けたら、目を開けて赤くなった口が動き出すんちゃうやろか、な

どと考えて、「ばぁちゃん」とこわごわ小さく言ってみた。動いたらどないしよう、と

いう怖さと好奇心が入り混じったような心持ちで。

 

『死』というものがどういうものかを、おぼろに知っていた。

 ミケが死んだ時 ――みんなが、「ミケ、死んだけぇな」と言ってたから―― ばぁちゃん

と一緒に、庭に穴を掘って埋めた。

 ばぁちゃんは、「往生せぇよ。生まれ変わったらなぁ、また、うちに来ておくれぇや」

と言って、鼻をならしていた。

「なんでミケをつちのなかにいれてしまうん」

と言ってばぁちゃんの顔を見ると、涙で濡れていた。

「ミケは死んだけぇ」

「なんでないとるん」

「じきにばぁちゃんにも、お迎えがある、思ぉて」

「おむかえ?」

 それからは、ミケを見かけることが無くなった。死んだらそばにはいなくなり、一緒

に遊べなくなってしまってさみしいものだ、ということを理解した。

 そしてばぁちゃんに、お迎えが来たのである。

 

 ばぁちゃんが寝ている布団の周りにはとぅちゃんとかぁちゃんのほかに、げんこを作

って膝に押し当てて座ってるおじちゃんや、ハンカチを目に押し当てお尻を浮かせて覗

き込んでるおばちゃんたち。それと、始めて見る人が何人か混じっていた。

 近所のおばちゃんたちは台所に集まってばぁちゃんの話をにぎやかにしながら、おに

ぎりをこさえ、お煮しめを炊いている。おじちゃんたちは外にいて、聞きとれないがボ

ソボソとした会話らしきものをしているのが分かる。

 

「房枝、こっち座れ」

 かぁちゃんは立ち上がると、ばぁちゃんの顔のすぐそばにある座布団に座らせた。

「房枝、ばっちゃんのほっぺたに、口づけせぇや」

 びっくりして、向かいに座ってるとぅちゃんの顔を見た。誰もそんなことはしていない。

みんなの刺すような視線を感じた。

 うつむいて、頭を横に振った。

 ばぁちゃんがミケを触った後死んだよってに、ばぁちゃんに触ったら今度は自分が死

んで、かぁちゃんと二度と会えなくなってしまう、と思った。おじちゃんたちは黙って

見つめている。おばちゃんたちは押し当てていたハンカチを目から外して、お尻を浮か

せたまま動きを止めてしまった。息をするのも()めたのかすべての音が止み、周りの空

気の動きも止まってしまい、その冷たい空気が体を包み込んできた。

「やだ!」

 すると、かぁちゃんが頭を上から押さえつけてくる。

「やだ! やだやだーやだ~~」

 そう言って、するりとかぁちゃんの手から逃れると、神棚の前まで走った。

 体をひねってばぁちゃんの方を見やったら、さっきまで座ってた所には赤い着物を着

たキツネが舌を出して、ばぁちゃんのほっぺたをひと舐めしていた。

 ベビーカーのハンドルにドラッグストアのバーゲンで買った紙おむつの大きな袋をぶ

ら下げて、団地の駐輪所に入って行った。下部に取り付けているバスケットにも、スー

パーマーケットの買い物袋が大小合わせて三つ入っている。それらを足元に置いてすや

すやと眠っている子どもを抱き上げると、片手でベビーカーをたたんで駐輪所の壁に立

てかけた。

 子供を抱いている方の手先に紙おむつの袋をひっかけ、食材などの入っている袋をひ

とまとめにして提げると、団地の階段をゆっくりと上がって行った。抱いている子ども

の体重は日に日に増し、長い時間片手で抱いていると、上腕部から肩にかけて痺れがきた。

曲げている指も、袋の紐が食いこんで千切れそうなほどだ。体を右前に傾けながら踊り

場に着くたびに、腕がもげそうになっている重い荷物を足元に置いては子どもを抱え直

した。5階建ての団地にはエレベーターはない。

 4階の部屋の前に到着すると、「ふーっ、やれやれ」と荷物を下に置き、足をストッ

パー代わりにしてドアを押し開いて、荷物を取り上げ体をひねるようにして背中から中

に入った。上り口に荷物をどかっ、と置くと、ベビーベッドの所まで急ぎ足で行って千

尋を寝かせる。

 やっと解放された腕を振り腰を叩いた後、両の手を組んで上げ、腰をそらせながら再

び深く息をついた。

 

 すぐに千尋は泣き始めた。とりあえず、買って来たばかりの冷凍食品を冷凍庫に入れる。

解け始めているらしく、袋には水滴がつきやや軟らかくなっていた。

「千尋ちゃん、もうちょっと待っててねぇ」

 慌ただしく食品類を分類して、あるべき位置に入れていった。

 恵津子は疲れていた。毎日の買い物、子どもの世話と家事。しかも今の千尋は夜泣き

がひどくて、毎夜1、2回は起こされる。夜遅くに疲れて帰ってくる雄介は、「うるさ

いなぁ、はよ黙らせや」と言って頭から布団をかぶるだけ。朝は、そそくさと食事を済

ませるとすぐに出かけてしまう。

「行ってきま~ちゅねぇ」

「帰ったよ~ん」

 雄介が家で話す言葉はこれだけだ。出かける時帰った時に、眠っている千尋のベッド

を覗きこんで囁くだけである。

 

 そんな日々の中、恵津子の頭痛は日増しに強くなっていった。

 千尋の泣き声が遠くで聞こえていたり、また耳のすぐそばにけたたましく聞きながら

襲ってきた頭痛に、こめかみを強く推し揉みつつ台所の椅子に腰かけると、テーブルに

突っ伏した。

 

 白いチュニックに薄緑色のカーディガンを引っ掛けた黒いパンタロン姿の明理(あかり)は、

ハンドバッグを肩から背中に回した姿が写るウィンドーを、しばらく見つめていた。

 駅に入っているテナントである。

 化粧はあまりしないが、二重瞼のぱっちりとした目がチャームポイントであると思っ

ている。髪がやや伸びていることを気にしながら視線を店内に移すと、おしゃれなアク

セサリーや種々の帽子がある。大きめの紺色のリボンがついている、つば広の薄いベー

ジュの帽子に目が止まった。子供の頃から、帽子をかぶるのが好きだった。

――そうゆうたら、最近はかぶらんようになってんなぁ、紫外線が強なってきてることや

し・・・。

 店の入り口に向かったところで、肩を叩かれた。人の近づく気配を感じなかったので

跳び上がるようにして振り向くと、「よぅ明理、久しぶりぃ」と、ニコニコしている男

がいた。

 

「お茶でも、どうや」

 通路の向かいにある喫茶店を指差している。

 いい加減歩き疲れていた明理は「いいよ」と言って、ひとり先に喫茶店に入って行った。

 比呂は、コンビニでバイトしていた時の仲間である。名札に書かれていた名前は忘れ

たが、「俺、○○比呂、比呂でいいや」と言っていた。それで、「じゃあたしは、明理」

と教えたのである。

 明理の勤務は昼前から夕方まで、比呂は夕方から深夜までであった。交替する30分

程度を共にいたのだが、ほとんど言葉を交わすこともなく、明理は2年前に辞めてしま

っていた。

 親しくしていたわけでもなかったが、今はとにかく喉が渇いていたこともあり、その

誘いに乗ったのだ。

 

 

「ここら辺に住んでたんか、な」

「電車の最寄駅はここ。ちょっと離れてる。で、比呂君は?」

「ちょっと用事で。けど今日はラッキーやなぁ、偶然会えたんやもんなぁ」

「ん、そっ」

「明理はさぁ、バイト、辞めさせられたって聞いたけど」

「ううん、こっちから辞めてやったんや。あの店長、ごちゃごちゃうるさかったよって」

「ようミスしてた、って聞いたぞ。俺が知ってる明理はてきぱき、仕事こなしてたのに

なぁ。今何してるんや、結婚でも、したんか」

「ど・く・し・ん」

 そこに置かれていた女性誌に目を落としながら適当に相づちを打っていた明理はジュ

ースを飲み干すと、「ごっそさん」と言って立ち上がり、そのままひとりドアを出て行

った。

「あっ」

 勘定書を手にあわててレジに向かった比呂は、千円札を渡すと釣銭を受け取るのもも

どかしいといった様子で、ウィンドーの外を行く明理の方角を確認した。

 

 恵津子は午前中に買い物を済ませるために、千尋をベビーカーに乗せて団地内の歩道

を歩いているところで、声を掛けられた。

「昨日はまんまと置いてけぼりされたけど、後付けたんや、ヘヘッ。明理ィ、独身やゆ

うてたけどォ・・・ベビーシッターでもしてるんか?」

「あのう、どなたですか? あかり、って?」

 恵津子は子どもを守るようにしながら、訝しげに少し引いた。

「どなたですか、ってひどい言われ方やな。どないしたんや。それに野暮ったいなりして、

疲れ切ってるって感じやぞ」

 恵津子は、上から下までを不躾に見てくる怪体(けったい)な男から早く逃れたい。

「なんの用事ですのん」

「ゆっくり話がしたかったんや、せっかく久し振りに出おうたんやから。ファミレスに

でも、行かへんか」

「すみません、そこのいてください。今、出かけるとこなんです。それに私、あなたの

ことぜんぜん知りませんし」

「コンビニで一緒にバイトしてたやろうが」

「コンビニでバイトしてたことはあります。けど、あなたを見かけたことはありません」

「明理、ええ加減にしとけよ」

「私、あかり、ゆう名前とちゃいます」

 比呂は恵津子の腕をとった。

「まぁせっかくやから、そこにあるファミレス、行こうや。そこでじっくり話そ」

 驚いて腕を振りほどこうとするが、強く掴まれた腕をどうすることも出来ず、引きず

られた格好となってしまった。比呂はベビーカーにも手を掛けて、押して行こうとして

いる。

「やめて!」

 比呂は昨日のこともあって、少し意地になっていた。

 

 突然腕を振りほどいた “恵津子” は比呂の胸を強く推すと同時に、拳を彼の頬に打

ち込んだ。

「テメェ」

と低い声で唸り睨みつける “恵津子” は、まるで人が変わったようであり、目を細めて、

さらに拳を出そうと身構えている。

 頬に手を当て、痛くはあるがまさかの “明理” の行動に、ポカーンと口を開いたま

ま突っ立っていた比呂は我に返ると、「チェッ」と唾を吐き捨て、首を捻りながら立ち

去った。

“恵津子” もそのまま、団地の敷地から出て行った。

 千尋を乗せたベビーカーを、その場に残して。

 

 同じ団地に住んでいる、千尋と同い年の子どもを持つ母親から連絡を受けた雄介は、

恵津子の帰りを待っていた。

 その母親は恵津子から、夫である雄介の勤め先を井戸端会議の折に聞いていたので、

会社名はうろ覚えであったが、電話番号をわざわざ調べて当たってくれたのである。

 クライアントの会社に出かけて打ち合わせ中であったにもかかわらず、自社から連絡

を受けたために途中で打ち切って飛ぶようにして帰宅した雄介は、千尋を受け取りに寄

ったその家で、恵津子と男との諍いの様子を聞いた。

 恵津子は見知らぬ男――「たぶんね」、と彼女は付け加えた――から声を掛けられて少し

言い合っていたようだが、恵津子がその男にゲンコツを振るって難を逃れた後、ふたり

とも、別々にその場を立ち去って行く一部始終を、ベランダから、好奇心をそそられ聞

き耳を立てて見ていたのである。

 

「いえね、ちょうど洗濯もんを干してたんですよ」

 小声で言った後胸を反らせて続けた。

「ほしたら、千尋ちゃんをベビーカーに乗せたままひとり置いて行かはるんやから、び

っくりして下りて行ったんですよ。ひっくり返りでもしたらえらいこっちゃ、思うて。

しばらくそこで、待ってたんですけどねぇ。日差しも強うなってくるし、いつ戻らはる

かも分かれへんし、うちの子家に残したままですし。そやよって、うちに連れ帰ってご

主人に電話さしてもらいました」

 何度も礼を述べて、部屋に連れ戻ったのである。

 

 

 鍵が開けられる音に、雄介は玄関に出た。

 雄介の姿を見た恵津子は両手を口に当てて、目を瞠っている。千尋の泣き声が聞こえ

てくる。すぐに気を取り直し、「お帰りなさい。今日は早いね」というと、そそくさと

台所に入って行った。

「お昼、まだ?」

と、くぐもった声が届いた。

「恵津子は、もう済んだんか?」

「はい、ううん、なんか、食べる気がせえへんから」

「じゃ、いい。千尋、腹すかしてるみたいやで。おむつは俺が、取り換えといた」

「すみません。すぐミルク、あげるから」

 

 哺乳瓶を手に千尋のところへ行った恵津子は、雄介の方には顔を向けずに、「おなか

すいたでちゅね」と優しく抱き上げた。

 口に含んで夢中で吸っている満足げな千尋を見ながら、雄介はそばに腰を下ろし、咎

める視線を送った。

「どこ行ってたんや、千尋、ほったらかして。しかも外にやぞ。北村さんが会社に電話

くれたんや・・・お前、たばこ吸うてんのか」

「まさか、たばこの臭いだけでも嫌やのに」

「煙草の臭いが残ってんで。誰かと、おうてたんか」

「それが・・・」

 恵津子は言い淀んだ。雄介は黙って顎を振って、先を促した。

 

「ごめん、自分でもよう分かれへんのん。千尋をベビーカーに乗せたんまでは覚えてる

んやけど・・・外をどうゆう風にぶらついてたんか、さっぱり」

「お前、疲れてんかもな。夜中に千尋が泣いとっても、突っ立ったまま黙って見下ろし

てるだけの時もありゃ、ひどい時にゃ、姿がどこにも見えん時もある。しゃぁないから、

おむつ見たりあやしたりしてたんやけど。ミルクは分からんから、ようやらんかったわ」

「ごめんなさい。最近頭痛が激しいて、何をしてたんかも、覚えてないことが多いんや

わ」

 消え入りそうな声で謝った。

「ま、とりあえず、会社に戻るわ。ほっぽり出してきたんやからな、お得意さんとこに

行ってたところを。謝って、もぅ一遍、やりなおしや」

「すんませんでした」

「今日は泊まりで仕事片づけるよってに、食事はいらんで」

 雄介は上着と鞄を手に取ると、縦抱きにされて背中を軽く叩かれている千尋に、「行

ってきまちゅよ~」と顔を寄せて、ふわふわのほっぺたを軽くつついた。

 千尋は雄介の顔に乳の匂いのするげっぷを吐き付けて、口からミルクを垂らした。

 

 

 買い物に行く時にいつも携えているポシェットを開けた恵津子は、その中にたばこの

箱が入っているのを見つけて、愕然とした。買った覚えも、ましてや吸った覚えもない

のに、封が切られている箱が、確かにある。しかも、安もんのライターまで。

 しばらくそれらを手に取り見つめていたが、ポシェットに戻すと洋服ダンスの所まで

行き扉を開け、かかっている服を荒々しくひとつずつ改めた。服をかき分けて、底板の

奥の方も確認した。

 そこに見つけたのは丁寧に畳まれている衣類と、一緒に置かれているハンドバッグ。

いずれも、始めて見る品だ。広げて見ると、おしゃれな白色のチュニックと薄緑色のカ

ーディガン、そして黒いズボン。

 それらを手にしたまま、その場にへたりこんだ。

 自分の持ち物ではない、それら。無論自分で買ったわけでもない。だが・・・恵津子

には思い当たることがあった。

――この先、千尋に何かあるようなことにでもなったら・・・。

 メモを残していたノートを捜し出すと、意を決して電話をした。

「CT検査及び脳波には異常は認められませんでした。それで、問診票の後で記入して

いただいたテスト結果なんですがね。これはDES、つまり解離性体験スケールテスト、

とゆうんですが・・・点数が非常に高いんです」

「先生、それで、どうゆうことが分かったんでしょうか」

「解離性同一症・・・つまり、よく言われている、多重人格、であることが疑わしいで

すね」

「多重人格・・・私の場合、二重人格かもしれないとゆうことなんでしょうか」

「二重なのか三重なのか、もっと多くの人格があなたの中に存在しているのかは、時間

をかけて診ていかなくては分かりません。初めに伺った話から推定すると、少なくとも

あなたを含めて、3人の人格が存在することになりますね」

「ああ」、恵津子は頭を抱え込んだ。

 まつしたメンタルクリニックに予約を入れ、自身を奮い立たせてようやく受診したのだ。

頭痛と記憶喪失。しかも最近では、幻聴を経験するようになっていたのである。

 記憶喪失は、バイトをしていた頃には毎日のように経験していたが、辞めた後最近まで、

そういうことはなくなっていた。再び症状が現れたのは、千尋を生んでからである。

 

「先生、頭痛と記憶喪失さえ無くなったらそれでいいんですが、時間がかかるのでしょ

うか。いえ、娘はまだ5ヶ月なんです。毎回預けて来るのも・・・あの、経済的に」

 院長である松下良一は、恵津子の目の中を覗き込んで、そこから心の中を探るかのよ

うな視線を送っていた。

 

「今の段階では、治療にどのくらいの時間を要するかは申し上げることはできませんが、

お子さんはお連れになってもかまいませんよ。受付で預かりましょう。お金のことより、

正常な暮らしができるようになることが、お子さんのためにも重要なのです」

「・・・分かりました。よろしくお願いします」

「あなたの状態を正確に把握するために、今あなたの別人格を呼び出しても、かまわな

いでしょうか」

 恵津子は驚いて、松下医師を見た。

「そんな事が出来るんですか!」

 うなずき立ちあがった松下は恵津子の額に軽く手を当てて、「出てきなさい」と呼び

掛けた。

 恵津子は、頭痛をこらえるかのようにこめかみを指で押さえ、目を閉じた。

 そして、ゆっくりと開いた目は、腫れぼったい一重からぱっちりとした二重に変わっ

ていた。

「驚いたなぁ実際・・・こんにちは。名前を教えてくれるかな」

「明理。あんたすごいやんか、出てくんのどうしよう、思ったんやけどさぁ、別の奴が

先に出ようとしたんで、先に出られたら癪やし」

 松下の表情が崩れた。助手の立場で解離性同一症の患者を扱った経験はあるが、多重

人格の患者を直接担当するのは初めてだった。

「ほおぅう、君がメインなのかな。歳はいくつですか」

「ま、そういうことかな、えっとぉ、にじゅう~なな」

「ちょっと教えて欲しいんだけど、いいかい。何人の人格が存在しているんだい」

「さっちゃん、忍、房枝、それと最近現れた奴にあたし。あたしの知る限りでは恵津子

も含めて6人、かな」

 足を掻きながら天井に目をやり指折り数えていたが、突然ストッキングを脱ぎ出した。

「ちょっと失礼するよ。こいつ、いっつもストッキングはくから、痒うてたまらん。こ

れからはパンツにするように、ゆうといて」

「ほう、体質まで変わるんだな」

「そっ、あたしはデリケートなんだ」

「恵津子君は、交代人格たちの存在を知らないようだね」

「この女、鈍いから」

「その方たちと個々にお話がしたいんだけどね、今日は存在を確認するだけ、というこ

とで」

「えーっ、そんなことすんの。けど房枝だけは、起こしたらやばいからねぇ」

「どうして」

「自殺願望。目、覚ましたらすぐに死のう、思うてる。なだめんのん大変なんやから、

しかもあたしが、いっつもその役目」

「皆さんと初対面の挨拶はしておきたいね。どんな人たちなのか・・・後のことはそれ

から、ということで」

 松下は、貴重な経験にワクワクしていた。

「分かった。けど、全員恵津子からでないと出てこれない」

 

 松下は同じようにして毎回恵津子を呼び出すと、それぞれの人格と会い記録していった。

「名前を教えてくれるかな」

「わたしね、さっちゃん、てゆうの、いつつ」

 言葉を探るようにして、ひとつずつ区切って話すさっちゃんは両手を椅子について、

伸ばした膝を左右に動かしキョロキョロと珍しげにあたりを見廻して、首を傾げた。

「おじちゃん、だれ?」

 松下は度肝を抜かされた。いきなり5歳だという。体は大人にも関わらず仕草が幼女

らしい振る舞いに、とまどいと違和感を持った。

「お医者さんだよ。君たちの病気を治そうと思っているんだけどね、これから仲良くし

てくれるかな」

「あそんで、くれるなら、いいよ。なにか、あそぶもん、ないの」

「う~ん、何がいいかな」

「おにんぎょさん。あかい、おべべ、きてね、くろい、かみをした、おにんぎょさん、

が、いい」

「分かった。次会うまでに、用意しとこうね」

 

「名前と歳を教えてくれるかな」

「忍です。15歳です」

 おびえたように両掌を胸の前で組んで、うつむき加減で上目遣いに答えた。

「ありがとう。忍君は、何かを恐れているように見えるね」

「だって、私をいじめようとしてるんですもん」

「ここには、君をいじめようとしている者はいないよ。だから安心してくつろぎなさい」

「でも、明理さんが、ずっと出してくれなかったから。だからずっと、眠っていたの」

「そう、詳しい話は今度会った時に、ゆっくりと聞かせてくれるかな」

「分かりました」

 そして、忍は眼を閉じた。

「やっと俺の番か。あの女、今度痛い目に会わせてやるぜ」

 松本は座っている椅子ごと後ろに引いて、咳払いをした。

「あの女、とは?」

「明理に決まってんだろ。俺を押し退けやがって」

「コホン、名前と歳を教えてくれるかな」

「名前ェ? そんなもんないよ」

 低音の男声を発し、右手で作った拳を左掌にゴリゴリさせて、口辺を綻ばせているが、

斜交い(はすかい)に相手を射すくめるように睨みつけてくる。

「だったら君のこと、なんと呼べばいいのかな」

「そうだな・・・勇者の勇で、いさむ、てことにしとこうか」

「じゃ、勇君、歳は」

「歳かぁ、さあて・・・わかんねぇ。明理にでも聞いてくれや」

「君は、いつ誕生したんだい」

「つい最近じゃねぇか。恵津子がしつこい男に連れて行かれそうになったからさ、一

発ぶち込んでやったぜ。ククッ、奴、アホ面して見てやんの。も一発、やっときゃよか

ったかな」

「君かい、たばこ吸ったのは」

「そうさ、たばこ吸ってもいいのかい、ここ。たぶんダメだろう思って我慢してんだ

けど」

「病院は禁煙だ」

「フン。ここは病院、てな雰囲気じゃないな」

 10畳程度の診察室には机の他ソファが置かれ、気持ちを落ち着かせるような、緑

色のみずみずしい植木が配置されている。明るい陽光を取り入れるための窓からは、

年中何らかの花を目にすることができる。

 

「君たちは、お互いの存在を知っているのか」

「明理が言ってた、房枝、てのは知らなかった。ちびは時々、テレビでマンガ見てや

がる。ま、俺達はお互いのことが分かるが、俺達のことを知らないのは、こいつだけ

だろ」

「それで、恵津子君は苦しんでいるんだ。あとは房枝君なんだけどね。呼んでもらえ

るかな」

「俺は知らねぇが、明理が言ってたんだろ。目を覚ますと大変だって」

「何とか出来る、私は医者だからね」

「治療するって、どういうことなんだよ。俺達を消してしまうってことかよ、や、だ

からね」

「それは違う。それぞれの人格は、ひとつとなっても生きているんだ。今のように出

たい時でも出ることが出来ない状態ではなく、ひとつの人格となって、考え行動する

ことができるんだよ。私がこの症状に直接関わったことはないが、助手としてその治

療を見ていたからね。まずはそうだね、お互いの信頼を、確かなものにしなければな

らない」

 勇は相変わらず不貞腐れたようにして、斜交いに睨みつけている。

 彼の信頼を得ることができるだろうか、と松下は不安を覚えた。

 

「今日のところは、現在どのような状態にあるのかを、把握しておきたいんだよ。

治療を始めるにあたっては、各人格の了承を得て、それぞれに納得してもらわないと、

うまく進められない。代わって、もらえるかな」

 勇は「チェッ」と舌打ちをして、目を閉じた。

 目を開いた恵津子にうなずくと再度額に手を当て、「房枝君、出てきなさい」と命

じた。

 顔を見た瞬間、明理だと分かった。

「明理君、だね。房枝君を起こしてくれないか」

「話は聞いてたよ。恵津子の為になるなら、仕方ないかな。ま、会ってみなよ」

 目を閉じた明理は恵津子と交替し、再び恵津子に対して同じことを繰り返した。

 次には、おっとりとした表情で何度も小さく瞬きをするようにして、まぶたを開いた。

「房枝君だね」

 ゆっくりとうなずき返した。松下の双眸を射竦めるような視線は、勇のように睨み

つけているわけではない。心の中を透かし見るような、ある意味で、自身の忘れてい

た後ろめたさ、を思い出させる恐ろしさを秘めている。

「ここはどこ、あんたは?・・・うちは、どうしたんやろか」

「私は医者なんだよ。君は、長い間眠っていた。君が担っている苦しみから救いだし

たいんだ」

「うちを助けてくれるんかい? うちみたいなおなごは、()らんほうがええんよ。

みんなうちのこと、嘘つき、ゆうとっちゃったで。そんで、のけもんにされとったん」 

「嘘つき、ゆわれていたんだね、辛かったろうね」

「嘘ゆうな、って父ちゃんによう叱られた。それで母ちゃんにも、信じてもらえんか

った。嘘ちごうて、ほんまのことゆうてんのに。盗み、なんかしたことないのに疑わ

れて、ぶたれて・・・そやよって、うちは居らん方がええんよ」

 房枝は、次第に興奮した状態となっていった。あたりを見回して机の上にあるペン

立てに目を止めると、立ち上がろうとした。

 松下はハッとしてペン立てを見ると、ペーパーナイフが差してある。あわてて房枝

の肩を抱くようにして、押さえつけ座らせると同時に額に手を当てて、「恵津子君出

てきなさい」と発した。

 

 にやけた表情で現れたのは、恵津子ではなかった。気が動転してしまった松下は誰

が現れたのか、分からない。

「そやからゆうたのに。勇が、出てこれんよう見張ってる」

「ああ、明理君か。これで、全員なんだな」

「と思うけど」

「まだ居る、ということか」

「あたしが生まれたんは房枝が中学せン時。それ以前に住んでたんは、さっちゃんと忍

だけなんかどうか、はっきりとは知らん。このふたり以外と出会うたことないし、部屋

も他にはないようやしね」

「部屋?」

「心の中にある部屋。みんなそれぞれ、自分の部屋持ってて。普段、そん中で眠ってる

んやけど」

「分かった。それで今日は、これで終わりだ。ああ、君は次回に詳しく話して欲しい。

普段は、恵津子君が出ていないと困るんだろ。代わってくれるかい」

 滴る汗を拭きながら言った。

――腫れぼったい瞼をした気だるそうな様子は、恵津子君に違いない、

と、ようやく落ち着いた気分となった松下である。

「すべての交代人格と対面しました。協力を得られそうで、なんとか治療は出来そうです。

それで、次回の面接ですが」

「あの、かなりかかりそうですか? いえ、時間の方」

「こういう解離性同一症というのは、人格ごとに記憶を遡って、お互いの欠けている時

間をうずめていく作業をしていきます。必要に応じて催眠療法を施すことになるかもし

れません。その場合、交代人格すべての了解を求める必要もあります。6人の人格それ

ぞれの話を聞き、分析していく。少なくともさらに、6回の面接は、必要でしょうね」

 恵津子は虚空を見つめ、思案している。

「お子さんの為にも、人格の統合は必要でしょう」

「子どもを置き去りにしてしまうことを考えると・・・やっぱり、耐えられません。先生、

治してください、お願いします」

 松下は、涙を浮かべて頭を下げる恵津子の気持ちを、しっかりと受け止めた。

 

 

 松下は、治療の進め方を検討するために恵津子の夫、雄介に連絡を入れた。雄介から

も恵津子の過去の状態を教えてもらうと同時に、恵津子の置かれている状況を伝えてお

く必要がある。最も必要とされる支え手となるはずである。

 しかし雄介からは、恵津子が来院した時に述べた内容以上の事は得られなかった。IT

企業の社員で、他社との競合が激しく、会社における自身の存在感を示すために、社員

同士が毎日せめぎ合っているのだという。

「仕事以外のことを考える余裕なんて、ありませんからね。油断していたら蹴落とされ

る世界なんです。恵津子のことは気になりますが、彼女と千尋の為でもあるんですから。

治療はお任せします。金銭面は大丈夫です」

 恵津子の中では、夫不在になっていることが育児の上でも強いストレスとなってのし

かかってきているのかもしれない、と感じたが、雄介の了解を得たことで少しは治療を

進めやすい。

 次の面接までに臨床例に関する文献を読み、治療室には録画用カメラを取り付け治療

の様子をすべて記録することにした。それによって自身は、恵津子の状態をより詳細に、

専念して観察することができる。

 

「気分はいかがですか」

「あのう、以前より頭痛が激しなって、頭の中から声が頻繁に聞こえてくるんです。

なんか、言い争ってるような」

「人格同士が議論しているのかもしれませんね」

「頭痛がなくなるだけでも・・・」

「明理君に協力してもらいましょう。皆、あなたをいじめようとしているのではないは

ずです。むしろ、助けようとして出現してきたはずですから」

 すがりつくように見つめてくる恵津子に続けた。

「まずは、あなたの過去を整理してみましょう」

 

 少しずつ、恵津子の過去を遡っていった。

「高校を卒業してから大阪に来て、コンビニで働き始められた。そこらへんのいきさつ

は・・・つまり、正式に就職されたわけではないということですね。」

「大阪に来てから、バイト募集の張り紙を見て応募しました。友達が契約していたアパ

ートで、一緒に暮らしていたんです」

「友達、というのは」

「高校のクラスメイトでした」

「あなたの故郷のことを聞かせてくれますか。高校を卒業するまでのこと」

「それが・・・よく憶えてなくて。同級生だった好子さんが帰ってきた時にたまたま出

会って、大阪での生活なんかを聞かしてもろて、それで頼って出て来たんです」

「故郷は?」

「・・・京都の・・・山に囲まれた・・・」

 恵津子は宙に目を彷徨わせ、必死に思い出そうとしている様子が見て取れた。

「故郷でのことを、何か思い出せませんか」

 うなだれてしまった恵津子は、黙ったまま首を横に振った。

――この恵津子は、主人格ではないのかもしれない。

 松本は、前回出会った六つの人格をそれぞれに思い描いてみた。

――房枝がもしかして、元々の存在、主人格だろうか。

 

「明理君、出てきなさい」

 現れた明理の人格は、「やっとあたしの番だ」と言いつつ、大きく伸びをした。

「頭痛と幻聴が激しいと訴えているんだがね」

「勇と意見が合わんからね。それに忍とさっちゃんまで出てきて、好きなことゆうてる。

恵津子は鈍うて、つい口出ししとなるし。それで勇が出て行きそうになるから。奴が表

に出ると、ややこしいやろ。それであたしが出ていくことにしてる」

 松本は自分の額に手を当てて、深いため息をついた。

「頭痛と幻聴。なんとかならんだろうか」

「辛いのか」

「そうか、君は経験がないということか」

「ない」

「頭痛は、側頭部から後頭部にかけて、血管が破裂しそうに感じるそうだ」

 頭に手を添えて示した。

「それと、頭の中でする、諍ってるような声に戸惑ってしまうということだ。何かを命

令してくる言葉、とかにもね」

「ふ~ん。なんとかしてみようか。けどさぁ、こいつ見てたらじれっとうてしゃぁない」

「ところで、君の話をじっくり聞きたいんだがね」

「世間話ならいいけど、あたしのことなら話すことはない」

 明理は肩を引いて、目は窓の外にそらせた。松本はその目を覗き込んで質問した。

「コンビニでバイトをしている時、恵津子君に代わって午後の時間はほとんど君が働い

ていた、と言ったね」

「そ、こいつ、とにかくとろい。それで午後はあたしが変わってやった訳。誰も気づい

てなかった」

「コンビニを辞めた後は、どうしたんだ」

「さぁ・・・最近まで出番はなかったようやし。ずっと眠ってたような気がする」

 

「恵津子君は高校生の頃を、少ししか覚えていないんだけどね」

「高校時代かぁ、懐かしい・・・くもないか。房枝がリストカット繰り返すもんやよって、

もう大変。死ぬのだけは勘弁願いたくて。剃刀を手首に当てるたんびに血が吹き出てくる。

そしたらすぐにあたしが出て行ってね、手当てする。薬を大量に飲んだ時にゃ、あたし

が代わって吐いたりもしたけど、まだ胃の中に残ってるだろ。フラフラしながらチャリ

を転がしたね。病院に行くために、延々と続くジャリの田舎道をさぁ。転んだりもした

よなぁ」

「なぜそんなに、死にたがったのかねぇ」

「さぁ・・・あたしも疲れてきてさ。そうしたら、恵津子が誕生してきたってわけ」

「君はいつ頃に」

「さぁ、房枝が初めてリストカットしたんは・・・そう、小学6年生やったかな、その

時やったと思う、忍も同じ頃。高校生になって恵津子が現れてくると、その間に房枝を

部屋に押し込んでやった。あたしは、ずっと房枝の監視。けどさぁ、恵津子を見てるう

ちにじれったくなってきたね」

「まるで、小説のようだ、そんな事がありうるのか・・・いや、どうもありがとう。君は、

心の中にいる人格たちすべてとコンタクトが取れるのかい」

「一応、知ってるつもりやけど」

「そして現在は、恵津子君が体に出ているという図式だな。そして君たちのことを知ら

ない。交代した人格が出ている間に、君は恵津子君と接触は出来ないのかい」

「よく分かんないけど、出来ないと思う。住んでる部屋の場所が違うんだから」

 松本は腕組みをして、考え込んだ。いつの間にか窓のそばに立って、外を眺めている

明理を振り返って言った。

「こういうのはどうだろう。恵津子君が眠っている間は誰かが出てこれる、ということだ。

考えていることでも行動したことでも、ノートに書いて残しておく、というのは」

「ふーん、面白そう、やってみようか、恵津子にも伝えてくれる? そうそう、今度ス

トッキングはいたらぶん殴ってやる、てのも伝えておいてよ。もう痒くって」

「それこそ、ノートに書いとけばいいんだよ」

「そっか」

 

「頭痛、幻聴はいかがですか」

 1週間後、面接室に現れた恵津子の顔色をうかがいながら、問いかけた。幾分晴れや

かである。

「おかげさまで、頭痛も幻聴もほとんどなくなりました。久し振りに落ち着いた気分で

過ごせました。ありがとうございます」

「まだまだ。あなた達は統合できたわけではありません。忍君とさっちゃん、それに房

枝君の記憶をみんなで共有していかなければ、人格統合は出来ませんから」

「先生、この前の治療の最後に見せてもらったビデオですけど」

 恵津子は恐る恐る切り出して、言い淀んだ。

「どうしたんですか。ここでは、思ったことは何でも言ってください」

「私は・・・私は、いずれ消えなければならないのですか?」

「主人格である房枝君のことを考えているのですね」

 松本は、コクリとうなずく恵津子に、低音でゆっくりと続けた。

「人格の統合は、主人格である房枝君の成長にかかっています。主人格の自我が成長し

現実の認識能力を身につけさせる。そうすることで主人格の中に交代人格が吸収され、

人格の統合がなされる・・・主人格がひとりで生きていける力をつけると、あなた方が

主人格の中に入っても消えることはありません。主人格を通して、あなたも、存在して

いるのです」

「でも、千尋のことが」

「お子さんの成長にとっても、ひとつとなった人格のお母さんと接触した方が、良い結

果となります。でなければ、お子さんも解離性同一症を患う確率が大きいことが、デー

タの上でも示されているんですよ」

「分かりました。治療を続けてください」

「治療の様子はビデオに残しておきます。よろしいですね」

 恵津子はうなずくと、顔を上げて目蓋を閉じた。

 

「う~ん、さっちゃん、かな」

 その表情の変化に従って、さっちゃんが現れたものと推察した。交代人格は松本を前

にして現れることに、抵抗がなくなってきているのであろう。

「うん。おにんぎょさん、ありがとう。うちでね、あそんでるん」

「今日は持って来ていないようだね」

「ううん、ちひろちゃんの、かばんのなかに、いれておいたよ」

 さっちゃんは、ドアの方を振り向いた。松本はドアから出ていくと、市松人形を手に

し戻って来て、「はい」と手渡した。

「ありがとう。きせかえのきものね、おねぇちゃんが、つくってくれたんだよ」

「おねぇちゃん?」

「あかりねぇちゃん」

「そうか、明理君がしてくれたのか」

「それでね、ときどきこうして、あそぶの」

 さっちゃんは、人形を座らせたり立たせたりしている。

「さっちゃんは5歳だと言っていたね。その頃のことをお話しできるかな。何か覚えて

る?」

「う~んとねぇ、くらいおへやの、ゆかのうえでね、おようふく、ぬがされたの。ぱんつ、

もだよ。それでね、からだを、ぺろぺろしてくるんだよ」

「知らない人かな」

「ううん、とうちゃん、とか、おじちゃん、とか」

 松本は、言葉を継ぐことが出来なかった。これは性的虐待である。房枝は、心理的ト

ラウマによって、自己防衛のために別人格を作り出してしまったのだ。一般に、解離性

同一症の原因として最も多いパターンである。長い沈黙の間、無心に遊ぶ、体は大人で

も仕草は幼児となっている姿を眺めていた。

 そのさっちゃんが、人形の着物を脱がせ始めた。ぼんやりと眺めて、好きなようにさ

せていたのだが、裸にした人形を舐め始めたので、あわててやめさせた。

 

「してはいけないことだよ」

「どうして、おとぅちゃんは、してたよ」

「どのような感じがした?」

「こそばかった。あのね、ほんとゆうとね、いたいときもあった。とっても、やだった。

さっちゃんね、がまんしてたんだよ。そんで、だれにもゆうな、て、いわれたの。いま

ゆうたの、だれにも、ないしょにしててね」

「がまんして、嫌な思いをしたんだね」

「わかんない」

 さっちゃんからは、それ以上のことは分からなかった。房枝から聞きだす必要がある。

再び着物を纏った人形で遊ぶ無心な姿を、黙って見つめていた。

 

 恵津子に戻した時に、明理が現れた。目が濡れている。

「房枝、辛い経験、してたのか」

「房枝君の辛い経験が、君と恵津子君、そしておそらく忍君を生まれさせたんだろう」

「恵津子から勇が生まれた。勇が言ってたよ、俺の出番はねぇのかよ、って」

「勇はごく最近生まれ、その理由も分かっているからね。勇君の役割は、彼女たちに勇

気を持ってもらえるように励ましてほしい、とゆうこと。特に、房枝君に対してだね」

 

 瞳を落ち着きなく動かしている、おびえた表情の忍を目の前にして、優しく語りかけた。

「忍君の好きなことって、何かな。好きな科目でも、好きなスポーツでも、好きな食べ

物でも」

「そんなものありません。いつも友達からいじめられてましたから、いつでも逃げられ

るようにしてました。まともに授業なんか聞いてられなかったように、思います。体育

の時間も隠れていたような気がします。よく憶えてないんです。ただ、体育用具室の中

に連れ込まれて、石灰を口に押し込まれて。狭いところに押し込まれたことも。理由な

んて、知りません。いつも標的にされていたような気がします。中学の時が、最もひど

かった」

「誰かに助けを求めたことは?」

「・・・なかったように思います。打ち明けることができる人なんて、いませんでした

から」

「君は、房枝君のことを知っているのかい」

「知りませんでした。起こされて、明理さんから聞くまでは」

 忍は見かけによらず、ハキハキと答えた。

「房枝君は、嘘つき、と言われていたそうだ。ご両親からね」

「うそつき・・・そう言ってた奴がいた。私を蹴った奴。私には、その理由が分からな

かった」

「ありがとう。よく打ち明けてくれました。いよいよ房枝君に直接あたる時が来たようだ」

 涙目で見上げている忍の目を優しく見つめて、「安心していなさい」と力強く言い、

ゆっくりとうなずいた。

 

 2週間の間があいた面接日。

「先生、私ばかりが長い時間存在してきた理由が、だんだん分かってきたように思います。

私が一番、房枝の代わりを務めることができるからですね」

「存在理由、か」

「他の五つの人格の存在を知ってから、ずっと考えていました。なぜ私が、結婚して子

供まで生んで、この体を、交代人格にすぎない私が使ってきたのか。いつも自殺を考え

ている房枝では危なっかしい。さっちゃんや忍は、ある時点から成長出来ずにいる。明

理は、性格的に房枝とはほど遠い。しかも房枝を監視していなければならない。勇は私

の行動から出現した」

「さっちゃんも忍君も、現実を知ることで成長し、現に今、成長しつつある。房枝君も、

現実を直視し受け入れた時点で自殺願望は消えるはずだ。その時、君たち交代人格は統

合される。それは房枝君が、すべての交代人格を受け入れた、ということになる」

 松下はそう言って恵津子を安心させ、額に手を当てて続けた。

「房枝君を呼び出すよ・・・出てきなさい」

 もしかしたら明理が出てくるかもしれない、と思ったが、現れたのは房枝自身だった。

明理も現実を受け入れつつあるのだろう。

 

「交代人格たちとの議論に、加わったことはありますか」

「いいえ、ずっと部屋に押し込まれとったから。何がどうなっとるんか、なんも分かり

ません」

 まず、さっちゃんの録画を見せた。幼い仕草で人形をいじくりまわしている。

「この話に、何か心当たりはありますか」

 房枝の目から涙があふれだそうとしている。長袖カッターシャツの袖口を目に押し当

てた。

「少し、思い出したことが・・・まだ幼稚園に通う前のことやった、思う。うっとこか

ら10分ほど歩いたとこにお堂が建ってて、お父ちゃんに連れられてよう行きました。

そこに祀ってある像に朝晩お供えするんが、うちの役割やったんです・・・あれは、な

んの像やったんやろか」

 房枝は、一生懸命その像のことを思い出そうとしていた。しかし松下は、その先を促

した。

「お堂の中でお父ちゃんが、うちの服を脱がそうとするんです。うちはそんなん嫌やっ

たから逃げ出しました。お堂の外に出てからお父ちゃんのことが気になって中覗いたら、

お父ちゃん、知らん女の子の体を舐めまわしてた。帰った時にお母ちゃんにゆうたら、

そんなでたらめゆうたらあかん、嘘ゆう子はバチ当たる、て、お尻叩かれた」

「その、知らない女の子、というのは、あなた自身だったのです。あなたは体外離脱し

たようですね。自身を守るために」

「たいがいりだつ?」

「意識が一時的に体から分離して、体の外からあなた自身を見ている、という現象です。

文献によると、解離性同一症の方たちには、たまに見られる現象だということですが」

「違うっ、うちとちゃう! うちははっきり見とったっ。そんで皆がうちのこと嘘つき、

ちゅうて、嘘ゆうな、ゆうて、押し入れに閉じ込められて、無視されて、うちの……」

 房枝は次第に体を震わせて、立ち上がった。

 松下は興奮を鎮めるために、房枝の体を抱きしめた。

「君は嘘つきじゃない。そのことを私は十分知っている。君の辛い体験が、その体験か

ら逃れようとして自身を守るために、精神が体外離脱をして、君と交代した人格がその

体験を受け入れてくれたんだ」

 抱きしめた房枝の背中を優しく、何度もさすり続けた。

 その日の面接は、次回を2週間後、として終えた。

 

 明理は房枝の監視を緩め、心の中にある部屋から自由に出入りできるようにした。し

かし房枝は、他の交代人格と触れ合おうとはしなかった。また、眠っている恵津子と交

代しようともしなかった。

「それは、房枝君の自殺願望が減退した、ということかもしれないね」

 松下は明理から、この2週間の様子を語ってもらったのである。

 

 交代した房枝は、やはり心の中を見透かすような研ぎ澄ました視線を向けてくる。興

奮している時の状態とのギャップが大きすぎる感じがした。それでも、現在の房枝をあ

りのままに受け入れていかなければならない。辛い体験を再認識し、その現実を乗り越

えていかなければならないのは、房枝自身なのだ。

「今日は、忍君の録画を見てもらおうと思っていますが、房枝君、気持ちは落ち着いて

いますか?」

「大丈夫、と思う」

 

 表情を変えることなく画面を見つめていた房枝は、「嘘つき、か」と言って、目を閉

じた。松下は、録画を見ている房枝を黙って見つめていた。少しの変化も見逃さないよ

うに。そして、房枝が何かを言葉にするまで待ち続けていた。

「いじめられてた・・・そんなこと、あったっけ」

 瞼を閉じ、涙をにじませている。

「クラスで、物が無くなったことが、度々あった。うちが盗ったんちゃう。けど、みな

から嘘つき呼ばわりされとったけぇ・・・小学生ン時、母ちゃんが先生にゆうとった。

この子、時々嘘ゆう時がありますんや、て。クラスの子が教室の外で聞いとったから、

次の日にはみなから、嘘つき、言われた」

「辛かったね」

「その頃からや、いじめられるようになったんは。ひどい言葉投げかけられたり、無視

されたり・・・けどクラスの子から、暴力受けたことはなかった・・・暴力受けてる子

が別にいたんは、そばにいて何べんも見てる。知らん子やった・・・あの子、体外離脱

した、うちの姿やったんカァ~あああ~~」

 房枝は声を上げて泣き出した。滂沱と流れる涙をそのままにして顔を上げ、消えてい

る録画面にぼんやりと視線を当てている。涙は顎から膝の上に滴った。

 松本は、いつ泣き止むとも分からない房枝の肩を抱きかかえるようにして、静かに横

に座っていた。

 前回の面接から数カ月過ぎた。その間、恵津子からは連絡が来なくなっていたのである。

来院や連絡を強制してはいけない。あくまで本人の気持ちを尊重したかった。

 

 恵津子の心は葛藤していた。

 面接の最後に恵津子も録画を見ていた。肩を抱かれて涙を流していた房枝の様子も見

ていた。

 その数日後である。

 性的虐待を受けていたさっちゃん、クラスの皆から無視されたり暴力などのいじめを

受けていた忍。その姿は自分自身だったのだと、房枝が認識しその事実を受け入れた時、

さっちゃんと忍の人格が消滅したのである。

 

 小さな弱々しい忍の文字は、こう綴っていた。

「私の体験を房枝が受け入れたことにより、私の存在する意味はなくなりました」

 さっちゃんがノートに残していたのは、市松人形に似せた、絵、である。黒い長めの

髪と赤い着物姿の絵であった。それは以前にも何度か書いていたものだが、その時には

顔の輪郭だけであったのが、今残された絵には、ぱっちりとした目や赤くした口、そし

て鼻も耳も眉も描かれていた。さっちゃん自身も成長していたのだと分かる。

 恵津子自身も、このまま病院に通い続ければ、いずれは消えてしまわなければならない。

医者の面談を受けずにこのままほっておけば、ずっと千尋と共にいることができる。

――千尋を生んだのは、私なのだ。房枝じゃない。

 

 房枝自身は、明理や勇の存在と松本医師の支えによって、自信を取り戻しつつあるよ

うに感じていた。もう自殺など考えずに、前向きに生きようとしている。それは、房枝

の代理として在り続けた恵津子にも伝わってくる感情だ。

 どうしたらよいか迷い続けた恵津子は意を決して、松本メンタルクリニックを再度訪

れた。

 

「久しぶりだね、どうしているのかと案じていました。君の表情は前回来られた時よりも、

生き生きしてきていますね」

「えっ、生き生き、してますか」

 思わぬ言葉に驚いた。

「そう、目に力が入っています、気付きませんでしたか。さて、この数カ月の間に何が

あったのか、聞かせてもらえますか」

 恵津子はノートを取り出して、忍とさっちゃんが最後に残したところを開いた。松本

はそれを見て、深くうなずいた。

「あなたが来づらかったのは、やはり自身の存在のことを考えていたのですね」

「房枝は、自分の受けた現実を知って、その辛さを乗り越えて自信を取り戻しつつあり

ます。それで、私がいずれ消滅するとしても、私が生きてきた期間の記憶を、どうゆう

ふうにしたらよいのかと・・・その間ずっと、房枝は眠ってたんですよ。私が消えてし

もうても、房枝が私の代わりをしていけるのか」

「私にも経験のないことで、軽々しくは言えません。主人格が引っ込んでしまっている

ような臨床例を調べてみたんですが、見つかりませんでした。だが、本来のあるべき姿

に落ち着かせることが肝要。それは、やはり・・・房枝君が主人格であるということで

す・・・しかも房枝君の心の変容が、あなた自身の表情の変化として表れてきているの

ではないでしょうか」

 

 恵津子の驚きは、さらに大きくなった。ふたりとも考え込んでしまった。

「私という人格が房枝に吸収されてしまう、私の経験と共に。それが、自然なのかもし

れません」

「その通りだと思います。房枝君が苦難を乗り越えていけるだけの自信を得た時、明理

君も君も、記憶もろとも吸収されてしまうのでしょうね。あなたという人格の存在がな

くなれば、いやそれよりも先に勇君の存在は消滅すると思います。そもそも勇君は、あ

なたを守るために現れたのだから」

 恵津子自身も成長していた。今ある現実を受け入れる心の準備を整えるために、松本

と話をしたかったのだ。

「ご主人の協力があれば・・・」

 恵津子の苦悩する表情を見て、付け加えた。

「電話で状況を説明して、理解していただけるように説得してみましょう・・・いや、

ご主人にも、直接録画を見てもらったほうがいいかもしれません、いかがですか」

「いくつもの人格が存在していたという実態を、主人は理解できるでしょうか」

「知らないうちにあなたが房枝君と統合してしまっては、ご主人、とまどわれるのでは

ないですか。それに房枝君となったあなたは、何と呼んでもらえばいいのですか」

 

「なんてこった」

 時々唸り声を発しながら、恵津子と共に今までの治療の様子を録画で見終えた雄介が、

最後に突拍子もない声を上げた。

「俺が結婚したのは、恵津子です。知りあった頃、恵津子の記憶はあいまいでした。医

者にも掛かり、弁護士に相談もし、そうして正式に戸籍を作ることが出来たんです。千

尋の母親は、いや、俺の妻は恵津子であって、房枝、という女ではありません」

 雄介は、ちら、と恵津子を見やって、続けた。

「房枝に、母親としての務めは果たせるのでしょうか」

 松本は体を乗り出して、答えた。

「恵津子君には欠けている部分があり、房枝君にも欠けている部分がある。人格を統合

することによって、その欠けている部分を捕捉し合うことになるのです。お嬢ちゃんの

為を考えれば、母親の、統合された人格であることは必須でしょうね」

 雄介は、いつになく見返してくる恵津子に気付いた。大きく見開かれた目が、外の明

るさを反射してきらきらと輝いていた。今の瞬間までちっとも目立たないでいた唇は、

苺のように鮮やかに光っている。

「お気づきになられたようですね。房枝君の交代人格がふたり、恵津子君の交代人格が

ひとり、すでに統合したことにより、恵津子君自身にも内面の強さが備わってきている

のです」

「おどろいたぁ、恵津子、だよな」

 ふたりの視線は絡み合い、恵津子は微笑んでうなずいた。

 雄介は、恵津子の微笑の中に、今までの恵津子からは得ることのなかった、隠れてい

たのであろう魅力を感じ、心がざわついた。

「分かりました。房枝を受け入れましょう。妻として。それでいいんだよな」

 

 恵津子と房枝は、どちらかが体を使っている時にも、明理が体を使って心の中にふた

りいる時にも、お互いの存在を見ることも接触することも出来なかった。明理は房枝と

は心の中で接触は出来たが、恵津子とは出来なかった。しかし、恵津子の行動を見るこ

とは出来た。

 徐々に、房枝が行動することが増えていった。明理の、心の中でのアドバイスと、恵

津子との間の記録ノートを介して、自分のすべきことを理解していった。

 自分は結婚した事実はない、ましてや子どもを産んだはずもない、と言い張っていた

房枝も、自分の置かれていた状況を理解するにつれて、現実を受け入れていったのだ。

 

 

「あなたの交代人格たちは、主人格であるあなたがひとりでも、十分生きていくことが

できるという認識を深めています。いかがですか」

 恵津子と交替して現れた房枝は、心の中を見透かそうとする視線は変わらないが、表

情には生気が現れている。

「一度、故郷(くに)に帰って両親に会いたい、思います。何が起こっても、大丈夫。千尋ちゃん、

千尋も連れて行って、両親に見せたい。私が産んだ実感はないけど、私の子どもですもん」

「何かあれば必ず、ここに連絡してください。私は、いつまでもあなたの味方ですから」

 途端、明理が現れた。

「先生、あたし、房枝にはもう必要ありません。恵津子も納得しています。ありがとう」

 松本は房枝なのか明理なのかの額に手を当てて、「出てきなさい」と呼び掛けたが、

なんの手ごたえも感じられなかった。

 前に座っている人物に、「あなたは、誰ですか」と、しげしげと顔を見つめて問いか

けた。先ほどの明理のようであり、恵津子のようでもある。

「房枝です」

 力強い声が答えた。

「どうやら、人格の統合がなったようですね」

 明理という単独の人格に二度と出会えないかと思うと、寂しさが一瞬よぎった。

「治療は終わりました。もう大丈夫でしょう」

「ありがとうございました」

 

 だが、面接室から退出していく房枝の表情が一瞬変わったことには、松本は気付かな

かった。

 それは、細くつり上がった目尻と横に長く引かれた薄い唇で、舌をチロと突き出すよ

うにして、ニタリ、と嗤ったのである。


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