No.737749

深く眠りし存在の 第2部

健忘真実さん

里帰りした房枝。祠に連れて行かれ、その中に安置されていた像と目を合わせた瞬間……

2014-11-17 12:03:15 投稿 / 全13ページ    総閲覧数:709   閲覧ユーザー数:709

 山間(やまあい)にある集落の道。

 ひび割れてガタガタとなっているセメント道の片側にはせせらぎが走り、それにそって見渡す限り、すっくと立つ青々とした棚田が続いている。その間から、低くこもったカエルの声が短く聞こえてくる。

 麦わら帽の幼子は何度も、繋いでいた手を振りほどいて駆けて行っては、蝶々が舞っていたあたりの道端にしゃがみこんで、可愛らしい花を摘んでいる。母はそのそばを、微笑みを投げかけながらゆっくり通り過ぎるが、しばらくすると駆けて来て再び手を握り、摘んだ花を突き上げて嬉しげに見せてくる。

 赤色や黄色や青色や白色の、強く握りしめられている小さな花々は、すでに頸を垂れてしまっているものが混じっているのだが。

 冷気を含んだ風が時折、そよと体を包み込んでくれるが、それでも日向に出ると汗がじっとりと浮いてくる。片手には大きなボストンバッグを提げて、もう一方の手に持つハンカチを顔に当てがう。

 

 山が大きく引き込んでいる所に時々現れる建屋。納屋とトイレがすぐ脇にあり、母屋との間には切り揃えた薪が積んであった。

 庭に停まっている軽トラックの荷台の脇に立っている女が、動作を止めてじっと見つめてきていたが、視線が合うとニコッとして頭を少し下げた。誰だろうと、記憶を探っている様子である。同じようにして挨拶を返したが、見覚えがない。おそらく嫁いできた者だろう。

 

 集落の最奥となる家の手前で立ち止まって、見上げた。

 いつの時代のことか知らぬが山の斜面を削り、石垣で固めた上に建っているその家は、今まで通り過ぎた家々より立派な造りをしている。納屋とは別にある土蔵は、母屋の奥にあって見えない。母屋の左手には牛小屋があり、牛小屋のすぐそばにトイレがある。土で固められている広い庭には、石垣のすぐ上あたりに数本の木が植わり、その横に花が揺れている。牛はこの時間、ここへ到るまでに遠くに見えていた放牧場で草を食んでいる。

 房枝が恵津子となって家を離れていた間も、さして変わり映えせずに時が過ぎ去っていたようである。いや、人にはそれは当てはまらないということをすぐに知った。

 10年近い時を経て見る母は、それ以上の時の隔たりを感じさせたのである。

 

 畑に行くのだろうか、大きな籠を手に、手拭いで頭を包んだ女性が納屋の方から現れた。髪は染めているが、よく日焼けした顔には深くしわが刻まれている。石垣に付けられている緩い坂を、幼女の手を引いて上がって来る人物を捉えると足を止め、腰を伸ばし腹を突き出して丸い背中を少しそらせた。

 誰じゃろうか、と訝しげに見つめている。

 女性の前で立ち止まり帽子を取ったその顔に・・・彼女は、何人もの名前を思い浮かべているようだが、まだ分からないらしい。

 

「お母ちゃん」

 そう呼びかけられてもまだ訝しげに思案しながらも、思い当たる人物の名を口走った。

「お前? 房枝か」

 笑みを浮かべてうなずき、手を強く握りしめていた千尋を前に押し出した。

「お母ちゃん、千尋です。お母ちゃんの、孫」

 母は目を剥いて素っ頓狂な声を上げた。

「房枝! おまぁ元気じゃったんか。それに、んまぁ、おぼこい孫までこさえとったんかいにぃ。ま、とにかく、うち入れ、停留所から歩いて来たんじゃ、喉渇いたろ」

 

 母屋の玄関に入ると籠を土間の隅に放り出し、ふたりを茶の間に(いざな)った。

 房枝はボストンバッグを上がり框に置くと千尋の靴を脱がせ、土間に続く台所を見渡した。

記憶に残っている(かまど)はもう使っていないらしく、周辺は綺麗に整頓され、ガスレンジが(しつら)えてあった。板の間にあった小さな冷蔵庫は大型になっている。ボストンバッグから土産の品を取り出し、「お花はここに置いておこうね」と、千尋がしっかり握っている草花を板敷の上に寝かせると、座敷に上がった。

 

 母は冷蔵庫から取り出してきたお茶をコップに注ぎながら、座るふたりに交互に視線を投げかけてくる。

「連絡もなしに・・・じゃがお前、変わったなぁ。顔つきが別人のようだ。いろいろあったんだろうが、とにかくゆっくりしろや。どれ、千尋ちゃん、やってか。いくつかなぁ」

 房枝の横でかしこまっている千尋のそばににじり寄って、「こっちこぉ、ばぁちゃんやで」、両手を差し出した。

 千尋は房枝を見上げてから立ち上がり祖母の手の中に入ると、指を3本立てて「ちひろね、みっちゅ」と、物おじすることなく言った。

「そうかそうか」とにこやかに、目にうっすらと涙をにじませながら、千尋を胸に抱きしめ頭を撫でさすった。

 

「お父ちゃんは?」

 嫌な思い出は封印しておくのだ、生まれ変わった自分は新たな気持ちでここの人たちと付き合っていくのだ、という思いを抱いて帰って来たのである。

「農協、行っとる。そこの仕事、手つどうとるんや。今は機械化が進んでな、田んぼも昔ほど人手がかからんようなっとるし、近所のもんらが手つどうてくれよるんや。それよりお前、ここ飛び出してからどこで暮らしとったんや」

 膝の上に千尋を座らせ、前後左右にゆっくりと体を揺らせながら問いかけてきた。

「ん、大阪。今は今村、ゆうねん。旦那は、雄介。会社員。2、3日帰って来る、ゆうて来た」

 

 会話はそれ以上続かなかった。お互いに相手の心中をおもんぱかって警戒心が働いていたのかもしれない。

 ふと思い出したかのようにしてそばに置いていた土産の品を、「これ、昆布の佃煮。おいしいよ」と、卓袱台の上に差し出した。お互いに話すべきことは山ほどあっても、わだかまりもあり、何から話せばよいのかが分からないのだ。

 

 開け放してある縁側から、人がやって来るのが見えた。ひとりではない。玄関から、「おってかぁ」と声がし、それらの人たちが次々に入って来た。

「菊んとこの嫁がな、おめんとこの方に見かけん人が行きよる、子連れの若い女じゃ、ゆうで、ひょっとこさして房枝が帰って来よったかと思ぅたんじゃが」

と言いつつ顔を覗かせた。

 千尋の向きを変えて膝に抱いたまま体をずらせると、にこにこして皆に披露した。

「千尋てゆう、孫じゃ、はぁこんにちは」

 千尋の上体ごと押し曲げるようにして祖母が、皆に向かって頭を下げた。

「っんまぁ、琴江さんの孫じゃてか、どれ・・・おめに似ず可愛らしげな、千尋ちゃんは、いくちゅですか」

 千尋は立てた3本の指をすぐにひっこめて、母である房枝の背中に駆け寄り顔を隠した。

 他の者たちも口々に、「おぼこいのぉ」と笑いながら顔を覗かせては声を上げた。

 琴江さん、と言われた母は、集まった人たちの顔を見渡した。

「菊はどした」

「菊さんは、晋三さんに知らせに走っとる」

 

 皆の意味ありげな視線がチラチラと自分に注がれているのを感じ、房枝は居心地の悪さを感じた。その視線には何かを期待しているような、捕らえた獲物は逃さないとゆう邪悪めいた熱さを覚えるのだが、その正体が分からないから不気味に思えるのである。

 単車のエンジン音が聞こえてきたかと思うと、父の晋三と菊が人々の間を割って入って来た。

「房枝、よう戻って来た。お前がいないとどうにもならんのだ、琴江ではな」

 房枝は言葉を発する余裕もなく不審な表情をして父、母、そして集まって来ている者たちを見渡した。

 どうゆうことだろう、と考えてみても思い当たることはない。玄関内から庭には、いつの間にか人々がひしめいて、何かを囁き合っている。

「あんた、そのことは後だ。ほれ見てみぃな、かわいい孫だで。千尋、ちゅうんだ・・・皆も今日は帰ってくれ。わしら、今日は何年振りかの家族水入らずだ、な。明日、祠に集まってくれや」

 

 煮沸した搾りたての牛乳を、フーッ、フーッと吹き冷ましながら、昨日母が言っていた『明日祠に集まってくれや』とゆう言葉を、ずっと考えている。

 

 昨日の午後は、母と千尋の3人で畑へトマトやキュウリをもぎに行き、その近くの小川で水遊びをした。

 後足、あるいは前足もが伸びてきているおたまじゃくしを見つけた千尋は大喜びで、バシャバシャと水の中を歩き回っては、土手の草むらにじっとしているカエルをしゃがんで見つめていた。近づけていた顔に向かってカエルが跳びはねた瞬間、驚いてのけぞり、水の中で尻もちをついて大声をあげて泣いた。

 房枝は笑いながら、「おうちに戻ろうか」と抱き起こすとすぐに泣きやんで、「やっ! かえるしゃんとあしょぶの」と、再び水の中を歩き回るのだった。

 たくさん歩き、たくさん遊び回った千尋は夕食を終えると、すぐに眠ってしまった。後片付けを手伝った房枝もやはり疲れていたのだろう、早々に床に就いたのだ。

 

 そうして明け方に見た夢の中で、房枝は薄暗い祠の中にいた。正面に向かってぼんやりとしていた焦点が合ってくると、そこには坐した、自分と同じぐらいの大きさのキツネの像があった。松本メンタルクリニックに通っていた時にはどうしても思い出すことのできなかった像が、くっきりと、夢の中に現れたのである。

 人格統合を終え、先生から完治したと宣言されたのだが、時々不思議な感覚に襲われることがあった。具体的にどう、とゆうのではなく、ちょっとした違和感があったのだ。それが、夢の中でその正体をつかめそうなところで目が覚めてしまったのである。

 

――かぁちゃんがゆうてた祠、夢で見たんと同じなんやろか。

 その祠に集まって何しよ、ゆうんやろか。

 

 千尋に冷ました牛乳を飲ませ、食事をしている間中もずっと、時々手が止まって同じ疑問が、何度も頭の中をかすめていった。

 

 朝食を終えようかとゆう頃に、「おはようございます」との声で玄関が開けられて、昨日途中で出会った女性が、顔を覗かせた。

「おはようございます。まだ食事中でしたか、ごめんなさい」

 すぐに外に出ようとするのを引きとめた。

「いえ、もう終わったとこです、おはようございます。あなた、康裕さんのお嫁さん?」

「はい、信子、言います、よろしくお願いします」

「こちらこそ、で、私に何か」

「いえ、千尋ちゃんね、うちに来て遊ばないか、と。小さいのがふたりいますんでね」

「でも、甘ちゃんだから、ご迷惑かけますよ。あっそか、私も一緒したらいいんですよね。でもこんな早い時間からお邪魔したら・・・」

 まだ8時前である。

「それは・・・房枝さんはなにかと・・・お忙しいと思いますんで、迎えに来たんですけど」

「いえ」

 これといった用事もありませんし、と続けようとしたところで母が割り込んできた。

 

「房枝、子どもは子どもどおしで遊んだらええ。信子さん、ほたら千尋頼みましたで・・・千尋ちゃんは、昼ごはんまで友達と遊んで来てな、そん後で、またばっちゃんと畑行こかいのぅ」

 千尋は祖母の差し出した手を取って立ち上がったが、不安げな視線を房枝に投げていた。房枝はこれから起こるであろう出来事を推察できるはずもなかったが、自分自身に何かあるのだと感じ取り、

「千尋ちゃん、安心して遊んでおいで・・・信子さん、何かあったらすぐに知らせてくださいね、じゃあよろしくお願いします」

と、送り出した。

 

「母さん、これから一体、何があるの」

 腰に手を当て、母に向き合ったが、黙ったまま食卓の上を片付け、台所に行ってしまった。まだ残っている物を両手に提げて、共に台所に立つ。

「お母さん!」

「そのことは後さ。父ちゃんが戻って来てからのことで」

「お父ちゃんは、牧場?」

 問いかけを無視され、ふたりはむっつりとして後片付けをし、房枝は部屋の掃除をした。

 

「琴江、準備でけた。房枝、バイクの後ろに乗っけてくぞ」

 すでに開け放している玄関口から父が叫んでいる。母は食卓の前に座っている房枝を促してから、風呂敷包みを提げてきた。

 まだ何も聞いていない房枝は、これから始まることに不安を感じながらも、今までの疑問が解けるに違いないと、黙って言われるままに従おうと決めていた。

 

 母の乗るバイクを従えて父の後ろにまたがり、棚田の続く道を上がって行くと、途中の分かれ道で山の奥の方へと向かった。家から2分ほどである。見覚えのあるようなこぢんまりとした祠の前は、木を切り倒して造ったらしく、下草が刈りそろえられた広場となっていた。

 そこには、昨日家に押しかけていた人たちも混じえ、20人ほどの話声でざわついていた。

「おおぅーっ、ついに・・・この日が」

「待ち遠しかったよの」

「やはり琴江では、のう」

とゆうような会話が、房枝たちの姿を認めると聞こえてきた。

 その人たちをかき分けるようにして、堂々と胸を張り先導する母に従う房枝。その後ろを父が風呂敷を提げ、腰を低くしてついて来る。

 房枝は顔を正面に向けたまま、目だけを動かして人々の様子を窺っていた。

 祠の扉の前に続く階段を上がり人々の方に向き直った母は、両手を水平に広げ体を左右にゆっくり振ると、話声は止んだ。房枝は続いて階段を上がろうとしたのだが後ろにいる父に止められ、母の仕草を見上げていた。

 話し声が止むと、セミの鳴く声が大きくなり、時折鳥のさえずりが聞こえてくる。

 

 母は祠の扉をゆっくりと引き開け、左右に大きく開いた。それから房枝に来るようにと仕草で示し、その時に父が、風呂敷を手に押しつけてきた。

 何が入っているのだろうか、と思いつつその柔らかい感触の風呂敷包みを胸に抱えゆっくりと階段を上がると、入り口から内部を覗きこむようにして目を凝らした。暗くてよく見えない。母の無言の動作で促されるままに、薄暗い中へと踏み込んだ。冷気に立ち竦んだまま暗がりに目が慣れてくると視線の先には、坐した姿の、キツネ、の大きな像が、その鋭い視線を投げ下ろしていた。

 

「あっ」

 自然と足が前に進み、その視線と交差する場所で立ち止まった。

 瞬間、心の中であの不可解な感情が湧きあがり、いつものように軽くやり過ごすことができないほどに強くなってきた。

 その、心を支配しようとする、自分自身のものではない不可思議な意識に抗おうとするのだが、こめかみがどくどくと脈打ち、破裂しそうな痛みが襲ってきた。

 

――これは・・・、

 人格が交代する時に耐えられないほどの頭痛が襲って来ていた、と聞かされていた・・・その痛みに違いない。

 

 頭を抱え込み、うずくまって激痛をこらえた。

 《負けちゃダメ!》

 明理の声が聞こえた気がした。

 《こらえて、気持ちを強くして》

 恵津子だろうか。

――クッ、気を失ってはいけない。意識を保つのだ・・・。

 

 激痛に耐えられず意識が遠のきかけた時、頭痛から突然解放されてスーッと体が軽くなり、ふわふわと空中を漂っている感覚がした。目を開けてみると、先ほどまで、確かに自分自身がいた場所に、赤い着物を着たキツネ顔の女が立っていたのである。正面に坐している像とよく似た、細くつり上がった目。両端がやや持ち上がった薄い唇をし、微笑んでいるとゆうより、ニタついているとゆう表現の方が近い表情をしている。

 キツネ顔の女は自分の着物をはぎ取ると風呂敷包みから取り出した白い着物をまとい、正面に活けられていた榊を取り上げて、ニタリと笑って舞い始めた。

 

 扉の外に目を向けると、母は扉の陰にひき、父は階段の下で、集まっていた人々もその場で(ひざまず)(こうべ)を垂れている。

 キツネ顔の女は扉から外に飛び出すと板廊下の上で、脚を交互に膝高く挙げ、くるりと回り、あるいは空中に跳び上がって回り、しゃがんで前かがみになったかと思うと、勢いよく榊を持った手を上に突きあげ跳び上がるようにして体をそらしたりと、激しく舞い続けた。

「オオーッ、三狐神(みけつのかみ)様じゃ、まさしく三狐神様じゃ」

「ほんまもんのサグジ(三狐神)様が降りられた、ありがたや~」

「やっと、ほんまのオキツネサマが戻って来られた」

 人々は、特に年老いた者たちは額を地面にこすりつけ、両掌を頭の上でこすり合わせて拝み、口々に言葉を発した。

 

 房枝は幽体離脱した意識の中で、その光景を呆然として眺めていた。そこにいるキツネ顔の女は自分自身の身体であることを理解しているのだが、全く信じることのできない出来事である。

――まだ別の人格が存在していたのか・・・だけどあれは、まさしくキツネ、のような。動物の人格が?・・・ まさか・・・祠の神さん?

 

 一方、母ひとりが扉の陰から唇を噛みしめて、その光景を凝視していたのである。

 

 

 やがてキツネ顔の女は、扉口の敷居の壇上に片膝を立てて座った。激しく舞い踊っていたにもかかわらず、息を切らしていない。片方の口角を上げて、前に居すわる人々を睥睨している。

 母が扉の陰から姿を現し、人々が座っている中の一集団に向かって手をあげ、「これへ」と、階段下の位置を指し示した。

 指された者の一団は中年の女を抱えるようにして、指し示された位置にまで来て跪いた。中央に足を投げ出して座らされた中年の女は、後ろで息子に支えられながら悲痛な声で訴えた。

「サグジ様ぁ、ワシの足を治してくだされ、痛くて歩けんのです」

 

 サグジと呼ばれたキツネ顔の女は、跳びはねるようにして立ち上がると、同じようにして舞いながら正面に坐する像の前まで行った。祭壇に供えられている水の入った広口の器を取り上げ、捧げるようにして中年の女の前まで行くと、横たわるようにと動作のみで指示を出し、榊を器に浸して水を滴らせたまま中年の女の足をひと撫で、ふた撫でした。

 そばに器を置くと、榊を持って再び舞い出した。先程と同じように、同じぐらいの時間舞い続けると、敷居の上に片膝立ちで坐した。

 

 蝉の、高く響き渡る鳴き声だけが、辺りを包み込んでいる。

 中年の女はそばにいる息子に上体を起こすようにと囁き、その手を借りて足を曲げて立ち上がると、恐る恐る膝を少し上げた。一歩を踏み出すと、介添え人の手を振りほどいてさらに一歩。周囲の息をのむ様子を意識してまた一歩。ひとりで歩いたのである。介添えなしで。

「まだ痛みはあるけど、歩けるんだ!」

 ゆっくりとその場で足踏みをして確かめた後、息子ら介添えしていた者たちと抱き合い、「ありがたいことで」と何度も言い合い、祠の内に向かって何度も深々と礼を捧げると、元の場所へと足を引きずりながらだがゆっくりと、誰の手も借りずに歩いて戻ったのである。

 

 そこここから感嘆の声が湧き起こり、蝉の声を再び掻き消した。

 その女性をよく知る人々は、「よかったのぅ」と声を掛けそばを通りゆく女性の足を触れさすると、一層熱心に手を合わせて拝み出した。

 扉のそばに立っている母も、信じられない、といった面持ちで息を詰めて見つめている。

 そして誰よりも驚いたのは、幽体離脱したまますべてを眺めていた、房枝自身であったろう。

 キツネ顔の女は、ニタリ、とすると祠の中に入り、白い着物を脱いで元の成りに戻った。

 

 いつの間に、どうゆうふうにして自分自身に戻ったのか記憶が無く、目覚めると布団に寝かされていた。しばらくの間天井をぼんやりと眺め、先ほど見た、キツネ顔の女のことを考えた。

――キツネ、と、幽体離脱したうち、か。

 過去に同じことがあった気がするが、思い出すことができない。

 

――あの不思議な力は、ほんまもんやろか・・・、

 まさか、な。

 あの人、足の悪い振りしてただけかもしれん。そうや、皆で芝居してたんや。

 それとも・・・、

 キツネとなったうちが、ほんまにやったことなんか・・・?

 

 人の気配を感じて顔を動かした。

 母が食卓に両肘を立てて、お面を顔に当てたり外したりして溜息をついていた。それは、祠の正面に坐していたキツネの像と同じ顔をしたお面である。そのお面を顔に当てて房枝の方を向くと、「コ~ン」と鳴いてみせた。

「お母ちゃん」

 布団から起き上がって食卓についた。お面を顔に当てたままの母をじっと見つめる。

「ハァーアッ、あたしゃ、やっぱり力及ばずやった。ようやっと、それが分かったよ。ばっちゃんの正統な後継者は、やっぱり房枝、あんたやったんやねぇ。あたしにも力が備わってるはずやと、ずっと思ってたんやけど・・・」

「お母ちゃん」

「ごめんね。ばっちゃんが死ぬ前に、『房枝が後継者やからな』って指名してて、その場にいた全員がその行為を見てたんやけどね」

 お面を取った母は、そっと目頭を押さえた。

 

「やのにねぇ、祈祷師としてのばあちゃんを手助けしてきてて、ばあちゃんと血の繋がった娘であるあたしが後継者にふさわしい、って勝手にずーっと信じてて・・・皆から崇められる存在であることに、ずっと高慢になってた」

 母はしばらく房枝を見つめた後、頭を下げた。

「ほんとにごめんやで。あんたが後継者に指名されとったこと、ずっと嫉妬してたんやろうねぇ。ずっと、ずっと邪険にしてきたこと、許しておくれぇなぁ」

 母が手を握り締めてきた。

「お母ちゃん、そうゆうことより、うちは一体どうなってんのん、どうゆうことやのん」

「そうか、なんも知らんかったんやなぁ」

 

「あんたはまだ小さかったよってに覚えてへんやろけど、ばあちゃんの死に際にな、後継者である祈祷師に、娘であるお母ちゃんちごうて、孫のあんたを指名したんや。うちは代々、農業神であるお稲荷さんをお祀りしてきとって、この村のもんだけやのうて近隣からも御祈祷を頼まれることが多うてな。その神通力ゆうたら半端やなかったよって。

 ばあちゃんには稲荷神のお使いであるオキツネサンが、いつでも憑いてらしたんや。

 ばあちゃんが亡くなって、あんたはまだ子ども。そやよって母ちゃんが引き継いだ。けどな、オキツネサンは憑いてくれはれへん。どうやったら憑いてくれはるんか、分からへん。ぜ~んぶ見よう見まねでやってきた。オキツネサンのお面まで作って、これ被ったら、ちょっとは、らしいなる、思ぅてな。

 それでや・・・皆がゆうてたん、聞こえてたやろ。

 あんたが()んようなって、却って張り切ってやってみたんやけどなぁ、なかなか結果が出せん。

 それでも昔のように皆、よう手つどうてくれてやから、田畑も牛の世話も皆が交替でやってくれて、父ちゃんは農協の手伝いぐらいで。母ちゃんは主に、祭祀だけを受け持ってたんや。

 

 あんたにオキツネサンが降りて来はって、素振りから何までオキツネサンのままになったんは、母ちゃんも思わんことやった。全く信じられへん、初めてのあんたが・・・ばあちゃんでも、そこまでの振る舞いはできんかったよって。

 これからあんたを頼って、仰山の人がやって来ることやろ。噂は勝手に飛んでるはずや」

 

 

 しんみりとして聞き入っていた房枝は、驚いて顔を上げた。

「母ちゃん、そんなことゆうても、うちは大阪に帰るんやし」

「なぁ、ここに()ってくれんか、ここに住んだらええやないの」

「うちにはだんながおるんや。大阪がうちの家や。明日、帰る」

 

 

「おってですかぁ、千尋ちゃん連れてきました」

「まあまあ、ご迷惑かけました。ありがとうございました・・・千尋、お利口さんにしてた?」

「そりゃもう、明日もまた迎えに来ます。それとこれ、食べてもらお思うて、絞めたんです」

「えっ?」

 母が代わって応えた。

「信子さん、ほな明日も頼んますで。まあ、鶏肉(とり)でっか、久し振りで」

「お母ちゃん!」

 頭を下げて出ていく信子を見送り、母を睨みつけた。

 

「これはな、オキツネサンへのお供えとして持って来はるんや。明日も分かってるやろな、皆の期待を裏切ったら、あきませんで」

 

「先生、私は幽体離脱して見てたんですけど、私がオキツネサン、多分祈祷師やと思うんですけど、全く思いもしなかった、今までしたこともなかったことをいきなり始めて、しかも足が痛くて歩けなかった人を治したり、癌だとゆう人の痛みを消したり・・・そんなこと・・・信じてもらえますか」

 

 

 翌日、祠の前に集まった人々の中で指名されたのは、胃癌の痛みを薬でも抑えることが出来ず、苦痛にある初老の男性であった。ひと目見て余命いくばくもないと感じるその男の前で、キツネ顔の女は外方(そっぽ)を向いて座っているだけだった。

 だが男性の、「この、痛みだけでも、なんとかして、いただけんでしょうかい、のぅ」とゆう願いに、キツネ顔の女は榊を神水に浸け水気を切った後、残った滴でその男の口を湿らした。

 キツネ顔の女が舞い踊っている間、腹部を押さえて不可解な顔をしていた初老の男は、舞が終わる頃に腹を撫でさすった。

「なんだか、痛みが、引いていくような。なんか少し、軽くなって、ああ~っ、ありがたいことでぇ、サグジ様ァーッ」

と声を振り絞って喜んだ。

 

 昨日同様、男性の苦痛を軽減させた後に房枝は気を失ったらしく、家で寝かされているのに気づいた。家人がいないことを確認して家を抜け出し、誰とも出会わないようにと気遣いながら信子の家で千尋を迎えると、そのまま大阪に帰って来たのである。

 そうして数日後に、松下メンタルクリニックを訪れた。

 

 

「う~ん、病は気から、ともいわれますからね。昨今、疾患の7~8割は精神的なものが起因していると報告されています。特に、痛みなんかはそうでしょうね。強い信仰心を持つ者ほど、そういった祈祷によって治癒することも珍しくないんですよ・・・それから多重人格は、動物である場合もあるそうです。文献によると、物、である場合もあるらしいんですがね。動物の場合、憑依現象、あるいはよく聞くキツネ憑き、などですが、あなたの場合、単なるキツネ憑きでもなさそうだ。ひとつ、呼び出してみましょうか」

「はい」

 房枝は眼を閉じた。

 いつものように松下は房枝の額に手を当て、「出てきなさい」と言いそのまま待ったが、なんの変化も見られない。

 松下は、治療経過を詳しく書き留めたノートをめくった。

「さっちゃんの人格は、5歳の時に現れています。それ以前にキツネが憑いたものと考えられますね。5歳の頃から徐々に記憶を戻してみましょう。何かが分かるかも知れない」

「催眠術、ですか」

 松下はうなずき、「身体の力を抜いて・・・よろしいですか?」と念を押すと催眠術を掛け、質問を繰り返しながら、徐々に過去を遡っていった。

 

「5歳の頃のあなたです。今、祠の中にいます。何か見えますか?」

「いいえ・・・父が外で待っています。でも時々・・・」

「それ以上言わなくて結構です。正面には、何が見えますか?」

「分かりません。薄暗くて祭壇だけを見つめて他には何も見ずに、お水の入った容器を交換すると、すぐに外に出ました。怖くて」

 松下は少し考えて、さらに過去へと遡った。

「あなたのお祖母さんが亡くなられた時の光景を思い浮かべてください・・・何か見えますか?」

「はい、母が祖母に化粧をしています。母の横に座って、その仕草を眺めています」

「それから?」

「母と、場所を入れ換わりました」

「何のためにでしょうね」

――ふつうは、幼子がそのような場面に立ち会うだろうか?

 疑問に感じて尋ねたのである。

「分かりません」

「その時、あなたは何かをしたのですか?」

「・・・分かりません、全く覚えていません」

 松下は、その時に何かがあったのだと、確信した。そして、房枝の術を解いた。

 

 催眠術から覚めた房枝は、難しい顔をして黙ったままでいる松下を見た。

「先生、何か分かりましたか?」

「ゥムッ、君のお祖母さんが亡くなって、死化粧を施している時に何かあったように思うんだがねぇ、そこのところが抜けていて、君は思い出すことができない。なぜだろうか」

 

 うつむいていた房枝は、思い出したかのように言った。

「そうゆうたら、初めての祈祷を終えた後に母が言ってました。『ばあちゃんが死ぬ間際に、後継者として私を指名した』と。それから、『後継者となるための行為を皆が見てた』と。後継者になるための行為、って、なんやろ」

「君の心の中にいるキツネは、かなり手ごわい。神の使い、とゆうのであれば、なおさらだ」

 

 房枝の顔を見つめながら思考を深めていた松下が、口を開いた。

「これから、あなたはどうするのですか? 村の人たちの期待は大きいのでしょ、黙ってあなたを諦めるはずはないでしょうね。村に戻られるつもりですか」

「このまま、私に変化がないようでしたら、このままでいたい、思います」

「何か困ったことにでもなれば、いつでも言ってください。力になります」

 

 

 1週間後、房枝は松下メンタルクリニックに電話を入れた。

「先生、母と近所に住む康裕さんとが、今日うちに来たんです」

『それで、なんと』

「仕方がないので、あした必ず戻るから、と約束して帰ってもらいました。千尋を預けて、ひとりで行ってこよう思うてます。主人はまだ知らないので、父の具合が悪いから、とでもゆうて」

『分かった。では私も一緒に行くよ、私の車で行こう』

「でも先生、病院は」

『臨時休業だ』

 松下は憑依現象に大いに興味をそそられ、この機会を絶対逃してはならない、と思ったのである。

 

 約束の時間に少し遅れて到着した。

 それほど広くない広場では、前回の倍近い人たちが地面に座りこんでいた。立っている者は、藪蚊を気にすることもなく草むらの中に入り込み、立ち木にもたれている者もいた。広場に入りきれない人たちは、下の道路にもたむろしている。

 前回房枝が祈祷した時から2週間以上空いているが、昔から1日に1回のみ、ひとりだけが祈祷を受けられたらしい。そのためなのか、今日は自分が指名されるようにと、早くから場所取りがなされていたようなのである。

 仕事を休んでまでやってくる多くの人々を見て、房枝は心動かされるものを感じた。しかしやはり、自分の平穏な暮らし、大阪での家族との暮らしを守らねばならない、と思った。

 

 雄介にはまだ話していない。自分は祈祷師だ、なんてゆうことを、どのように伝えることが出来ようか。自身がまだ信じられないでおり、平凡でも普通の生活を願っていたからである。

 

 

 房枝は人々をかき分けて、祠の前に向かった。人々は、そばを通りゆく房枝に向かって手を合わせている。松本は、すぐ後に従うようにして歩いていたが、広場にさしかかる前に行き手を遮られて、房枝に続くことが出来なかった。あたりを見渡し、正面が良く見える広場の端の方へ移動して、そこに聳えている木のそばに立った。

 房枝は、母によって引き開けられた扉の内に入って行った。松本からは中の様子は窺えない。

 しばらくすると房枝が・・・榊を振りかざした白い装束の女が、舞い踊りながら出てきた。

 顔の造作は、今までに会った人格の誰とも違っている。房枝が言っていた通り、キツネに似てもいる。そしてそこにはまさに、想像していた通りの祈祷師がいたのである。幽体離脱しているとゆう房枝を感じることができるだろうか、とその周辺をも凝視し続けた。それは虚しい所業であると、分かっていたのだが。

 

 手を引かれた白髪の女性が祠の前に進み出て、突っ立った。両手を前に泳がせている所作からみて、視力が悪いものと思われる。

 誰もどこが悪いとも言わず、すべてが無言のままで進行していく。祈祷師となった房枝は、悪い箇所を確認するでもなく当然のごとく、水を滴らせた榊をその女性の顔の前で、顔に触れんばかりに左下から右上、右下から左上にと、数回振った後、舞い踊ること数分。やがて、祠の入口に腰かけた。

 松本はその間にそっと、祠の横手に回っていた。集まっている人々は、目を閉じ両手をこすり合わせて拝んでいる者、額を地面にこすりつけている者などで、自己陶酔しているのか、そこで繰り広げられている様子を誰も、詳しく見ていないようである。扉の近くにいる女性、おそらく房枝の母親だけが、祈祷師の動きを追っていた。

 松本は、それらの人々の表情、祈祷師の所作などを記録するために、手に持っている小型ビデオカメラを作動し続けた。

 

 

 耳をつんざく蝉の声。

 白髪の女性はおもむろに瞼を上げ、何度もまばたきを繰り返して周囲の明るさに目が慣れてくると、息を大きく呑み込んだ。両手で口をふさぎ、周囲の光景を確かめるかのごとく、ゆっくりと頭を巡らせた。涙を流しているのが見て取れる。視力がどの程度回復したのかは分からないが、今まで見えなかった世界が目に飛び込んできて、感動しているに違いない。祠の入口に座ってニタついている祈祷師に向き合うと、いきなり体を投げ出すように跪き、「もったいない、ありがたいことで」と何度も口ずさみ、手を合わせて拝んだ。

 

 松本はその光景を、呼吸するのも忘れたかのように凝視していた。ビデオカメラを持つ手は無意識に下がり、呆然として突っ立ったままである。頭の中ではいろいろな可能性を巡らせていた。だがすぐに気付いて、ビデオカメラをそこにいる人たちに向けた。

 人々が散って行くその様子を、松本は祠の後ろに隠れて見ていた。

 気を失っている房枝は、最後に若い男に抱きかかえられるようにして祠から連れ出された。母親とおぼしき女性が風呂敷包みを抱えて、続いて去って行った。

 

 松本は、祠の周辺を歩いた後扉を開けて中に入り、キツネの像を見上げるようにして胡坐をかいて待った。

 頭上に回った太陽から陽が差し込んで、祠の中を薄明るくしている。

 人々が散会してから1時間ほど経った頃、房枝が現れた。

「先生、うち・・・」

 松本は、房枝の顔を凝視しながらうなずき、壁際に寄った。房枝は腕時計を見てからキツネの像と視線を交叉させる位置に立つと、その細く笑っている目を見た。

 その時、人格が交替することに抵抗しなければ、頭痛はほとんど生じないのだと知った。

 キツネが心を支配し始めたのと同時に、房枝の意識は身体を離れた。

 

 キツネ顔となった女は振り向くと、壁際に座っている松本を見据えた。松本の胸は早鐘を打っている。自らを鼓舞するように勢いをつけて立ち上がると、拳に力を込めて近付いた。

「あなたは神なのか、それとも単なる、キツネか」

 キツネ顔の女はさらに目を細めニタリとし、供えられている榊を手に取ると一振りした。その意外な風圧に押されたのか松本はよろけ、もう一振りした時には壁際まで飛ばされ、壁板に頭を打ち付けた。

 

《人間の分際で、出過ぎたことはするな》

 心に沁み入る穏やかな声音である。だがそれは、頭蓋を震わせて聞こえてきたのである。同時に体の力が抜けていくようである。

「私は、房枝君の解離性同一症とゆう心の病を治すのが、仕事だ。あなたは、房枝君の体を占拠している。本来の、あるべき姿に戻さねばならない」

 頭を撫でさすり、よろけながら立ち上がった。

 それには答えずに、キツネ顔の女は宙を見上げた。

《己は苦しみにある者を救うのを厭うのか・・・持てる力の限り、我を信じる者を救うのが務め、とは思わぬか・・・こ奴には、邪心がある。二度と、我に近づけるな》

 

 背中を向けて宙を見据えている女の前に回り込み、指を突き付けた。

「あ、あなたは房枝君と統合しなければならない。でなければ、房枝君自身が苦しみ続けることになる」

 

 キツネ顔の女は房枝の意識だけに告げると、眼前でなにかをぼやいている松本に向かって、蠅を払うかの如く再度榊を軽く振った。それに煽られたかのように、松本はよろけて尻もちをついた。

 それには一瞥もくれず、正面にあるキツネの像の前の祭壇に片膝立ちで座り、ニタリとしたのである。

 その途端、房枝の意識は穴に落ちていくような感覚で一瞬に引き付けられ、目を開いた時には、房枝自身の身体に戻っていた。あわてて祭壇から降り像に無礼を詫びると、松本に駆け寄り助け起こした。時計を見ると、幽体離脱していたのはほんの一瞬にすぎなかったのを知った。

 

 尻をさすりながら松本は言った。

「信じられないが、神が存在するのだと、思わずにはいられない出来事だね。おそらく人々の強力な信仰心から、オキツネサンとなった君から授けられた御祈祷で、彼らの苦痛を和らげているんだろうな、まさしく、病は気から、だ・・・それにしても、いやぁ、まいったよ」

「先生、ひどい目にあわせてしもうて、申し訳ありません。後は、自分で考えねばならないことやと思います。ほんとに、ありがとうございました」

「そうか、無論治療は続けるんだろうね。私も憑依現象を研究するいい機会だしね。なんとかも一度……」

 房枝は松本の言葉を打ち消した。

「先生、感謝をしておりますが、これ以上は関わらないでいただきたいのです。内にいるもひとりの存在は、不思議な力を持っているのでしょう。再び会えばどのような仕打ちを受けるか・・・先生、本心まだ迷ってますけど、私がしなければならないことがあるのだと、分かりかけてきました。心のあるがまま、心が導くままに従っていこ、思います」

 

 松本は腕組みをして、何らかの方策を探っていた。学会に発表すれば注目されること間違いなしである。録画も撮っている。

 ビデオカメラの画面を確認するために、同じ操作を、次第に表情をこわばらせ指に力を込めて繰り返していたが、やがて肩を落とした。

 何も映っていなかったのである。

 

 気落ちしている松本を見送った後実家に戻り、両親と親族でもある菊、康裕を前にして、毅然とした態度で、考えるところを話した。毅然とした態度が功を奏したのであろう。4人とも口を差し挟めず、うなずくしかなかったようである。

「房枝おまえ、変わったなぁ。昔の房枝は、いつもオドオドしてたもんやったが・・・これもオキツネサマの力やろか」

 父がつぶやいている。4人を交互に見つめて、言葉を区切るようにしてはっきりと告げたのである。

「祈祷師としての務めは果たします。ただし条件があります。毎週日曜日に来ますから、その日の午前と午後にひとりずつ、あらかじめ希望者の中から優先すべき人を、選別しておいて欲しい。そうしたら、無闇に多くの人が集まる必要はないでしょう」

 

「だって、有難みが……」

 不服そうに口挟もうとする母を睨みつけ、神棚のある部屋を覗くと、さらに続けた。

「金品は受け取らないこと」

 これは了承されなかった。

「供物を捧げることによって御利益を得られると考えている者たち・・・あるいは御利益への感謝のしるしとして供物を捧げること、それを禁じることは、信じるな、と言ってることと同じ。決して、欲得からだけで受け取ってるんじゃないよ。自己満足からかもしれんが、その信者の気持ちを優先しとるんやから」

と強く反論されたので、これについては任せておくこととした。

 房枝には、そういった考えは、キツネ、が言った『邪心』に当てはまるのではないか、とゆう疑問が残ったのだが。

 

 

 帰るとすぐに、雄介に打ち明けた。この頃では雄介の仕事にも時間的余裕が生まれていた。千尋の相手をしてくれるとゆう。

「俺も立ち会ってもいいんだろう、一度ぐらいは」

「ダメ、二度とそんなこと言わんといて、お願いやから」

 雄介や千尋には見て欲しくない姿だった、少なくとも現在は。

 

 

 こうして、思いもしなかったことに、苦しみにある者の、その苦痛を和らげる手助けをしていく人生を受け入れたのである。それは、自分の生きがいともなっていくはずである。

 自分の行為によって喜んでいる人の姿を見ることが、自身も喜びの世界に浸れるのだ、とゆうことに気付きつつあった。

 自分の中でずっと眠り続けていた “本当の心” と、今向き合っているのだと感じていた。


 
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