TINAMIX REVIEW
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富沢ひとし『プロペラ天国』小論

■「後で」を無効化するシナリオ/演者の関係

単一化の罠から逃れ、「記録」の唯一性を切り崩すためには、まず「後で」という立場をなんとかしなければいけない。『プロペラ天国』で描かれる「記録」は、事後性の罠を見事に回避し、「記録」と記録されることとの時間的関係を混乱に陥れる。

『プロペラ天国』に登場する「記録」、「恋愛探偵組白書」は「後で」の立場に縛られない。「恋愛探偵組白書」は「世界のシナリオを決定している本」である。シナリオ、それは事後的な「記録」とは全く別の類の「記録」である。それは「記録」されつつも、いまだ終わっていないのだから。

いや、シナリオも「記録」の一種である限り、やはりそれは事後的にあるのではないかと考えることもできる。確かに正論だ。だがそれは、シナリオと監督の関係においてのみ妥当するだろう。しかし、『プロペラ天国』に描かれているのは、監督という時間的順序の整合性による超越者の存在しない、純粋にシナリオと演者だけの関係である。桜田子糸、子鐘も合成人間も、みな「恋愛探偵組白書」というシナリオを演じている演者なのだ。

監督不在のシナリオと演者との関係はきわめて複雑だ。シナリオを演じる演者にとって、シナリオは世界そのものであり、演者はその世界=シナリオの内部に閉じこめられている。だが演者はシナリオを「記録」として外部から見渡すことができる。この関係においては、内部と外部は複雑に絡み合いながらなし崩しにされ、超越的な外部、即ち事後性は決して出現しない。

『プロペラ天国』の世界に生きる登場人物たちも、こうした複雑な関係のなかにある。合成人間も子鐘も、「恋愛探偵組白書」がシナリオであることを知っている(正確には知らされるのだが)。だからこそ子鐘はシナリオ通りに演じることで「かっこいい姉」を取り戻せると信じるし、合成人間も自分たちだけの世界が作れると信じることができるのだ。

シナリオと演者の転倒した関係のなかで、「記録」の複数性が、『プロペラ天国』ではそれぞれの「恋愛探偵組白書」が露呈する。『プロペラ天国』に描かれるのは、それぞれの「恋愛探偵組白書」(シナリオ)が出会い、衝突し、そして強者が暴力的に統一化しようとするが決して成功しない、単一化の不可能性である。

ところで、『プロペラ天国』には原本と改訂版という2種類の「恋愛探偵組白書」が登場する。『プロペラ天国』における「記録」の複数性を、原本と改訂版という内容の複数性に求めるのは間違いだ。原本と改訂版は、唯一の本物とその他の偽物という垂直構造では捉えられない。原本と改訂版、いい換えればオリジナルとコピーとは逆説的な関係で結ばれているからだ。それらは互いに補強し合いながら他を脅かす。オリジナルはコピーによってその優位を脅かされながら、コピーの存在によってより優位に立つことになる。この関係においては、オリジナルとコピーを厳密に区別することが不可能であり、最終的な判断は宙づりにされざるを得ない。原本と改訂版は垂直的な構造ではなく、水平的な構造でしかない。そこでは内容の違いは問題にならない。

こうした関係性は作品のなかでも描かれている。前半、泉可奈の持っている「恋愛探偵組白書」は改訂版であるが(それは泉の発言にある)、後半全く同じ「恋愛探偵組白書」が原本であるとされる。原本と改訂版とは、その時々の状況(コンテクスト)によって規定されているにすぎず、根本的な区別ができないことがここでは示されているといえる。

よって「恋愛探偵組白書」の複数性は内容の違いではなく、それぞれの演者そのものに求められなければならない。具体的には演者の演技の差異に求められなければならないのだ。

子鐘はカッコイイ子糸を取り戻すため、合成人間は合成人間だけの世界を作るため、泉は合成人間の秘密を探るため。それぞれの目的はバラバラだが、共通していえるのは、みながこの監督不在の舞台の上で、唯一の監督になろうとしていることだ。自分だけのシナリオを、思い通りの演出で上演したいと望み、自分を含めた全ての演者に演技を強いている。

だが、作品を読めばわかる通り、誰も監督になることに成功していない。失敗の決着は最も力の強い合成人間によって暴力的に「すべてを終わらせる」ことで、つまり強引に幕を引くことで着けられる。そして全てが終わった後に、あらゆる失敗を帳消しにして(記憶を操作して)再び幕は上がる。

みなが同じシナリオを持ちながら、なぜその演技が誰にとっても予定通り行われないのか。いい換えれば、シナリオにない演技、アドリブはなぜ行われるのか。

合成人間のシナリオにとって、P.Nラブラブの登場は予定外、アドリブだ。また、泉可奈の持つシナリオに井端先生は登場しないのでアドリブである。監督にとってアドリブは邪魔なものでしかない。アドリブの排除なしに完全な芝居はあり得ない。だとすれば、誰もが監督たらんとする『プロペラ天国』の世界では、彼らの争いはアドリブの潰し合いだといえるだろう。逆に、他人の監督権を奪うためには、いかにアドリブを行うかにかかっている。P.Nラブラブの「これが最後のアドリブだ/これに見合う結果を頼むよ」や合成人間の「少女子鐘にオリジナルの行動をとらせるな」という発言は、アドリブを行うことによって(アドリブにNGを出すことによって)戦況が決定的に左右することを示している。 >>次頁

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