TINAMIX REVIEW
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富沢ひとし『プロペラ天国』小論

■アドリブの顕在化、それはネットワークにおいて

アドリブを内容の違いから捉えてはならない。確かに原本にのみ記された行動は、改訂版を持つ者にとってはアドリブとなるだろう。だが前述の合成人間の発言にある「オリジナルの行動」とは、原本という意味ではなく(現に子鐘が持っているのは改訂版である)、まさに子鐘そのものの行動を指している。

アドリブは内容の違いによってあらわれるのではない。それはシナリオと所持者の関係、所持者にとってそのシナリオがいかなるものかという関わり方の違いによってあらわれる。ここでは内容の違いは問題にならない。たとえシナリオが同じものであったとしても、それらは決して同一ではないからだ。シナリオの複数性とは、同一ではなく同じものの複数性なのである。

シナリオの差異は演出の差異としてあらわれる。この差異がアドリブと呼ばれるのだが、アドリブは複数の演出の交通する場、複数の監督、シナリオ、演出の間にあるネットワークの場において見出される。

シナリオの複数性こそが、子鐘たちをネットワークの場へと開いている。それは子鐘たちの「記憶を操作して(複数性を抹消して)永遠に閉じこめる」リブート隊とは真逆の働きをしている。

シナリオというメディア(端末・媒体)によってネットワークへと接続されることで、他のメディアとの交通が生じ、その交点にアドリブはあらわれる。だがアドリブは交点において初めて生まれるのではない。シナリオはその内にアドリブをすでに可能性として含んでおり、ネットワーク上に漂わせている。ネットワーク上を漂うアドリブの可能性は、複数のシナリオの交点においてアドリブとして顕在化する。その顕在化の過程、ネットワーク上を漂うアドリブの素が交点に訪れるのは偶然でしかない。ネットワーク上のアドリブはあくまでも可能性であり、それが顕在化するかどうかは純粋に確率の問題なのだ。

ところで、『プロペラ天国』における最大のアドリブとは何だろう。子糸の暴走? P.Nラブラブの裏切り? いやそんな程度のものではないはずだ。最大のアドリブとは、子鐘や泉、P.Nラブラブが唯一でなければいけない「恋愛探偵組白書」を持っていることだ。「恋愛探偵組白書」の存在そのものが最大のアドリブであり、この芝居を脅かし続ける元凶なのである。

アドリブとしての「恋愛探偵組白書」は、シナリオではなく「記録」として考えられる。僕たちが普段接している「記録」と同じ、事後的な「記録」だといえる。僕たちは子鐘たちと違い、複数のシナリオが衝突するアドリブの現場を目の当たりにしたり体験したりすることはない。それは僕たちが接している「記録」が事後的に纏め上げられた、ようするに複数間の差異を抹消した「後」の時間的立場に立っているからだ。

すでに書かれているという点で「記録」でありながら、アドリブの可能性を含んだ未来について書かれているシナリオを思い出そう。そこで僕たちは、シナリオがアドリブを顕在化し、そのアドリブに対応することでまた新たなアドリブを顕在化していくという分裂的増殖を繰り返しながら拡大していく過程をみてきた。「記録」はその過程を逆に辿りながら僕たちに届いている。複数的な経路とアドリブの可能性を抹消し、ネットワークへの解放性を閉鎖性へと転化させ、偶然性を必然性へと転倒させて。

子鐘の元へ届く「恋愛探偵組白書」もこのような経緯を経てやってくる。P.Nラブラブがシナリオとして送った「恋愛探偵組白書」を子鐘は「記録」として(唯一のシナリオとして)受け取っている。P.Nラブラブが送った「恋愛探偵組白書」はアドリブの可能性も、ネットワークへの解放性も持っていたのに、子鐘はそうした性質を全て抹消し、そこに書かれていることがあたかも必然であるかのように考えてしまう。P.Nラブラブと子鐘の間にある「恋愛探偵組白書」の非対称性。「記録」の伝達はこの非対称性が前提となっている。

「恋愛探偵組白書」は「記録」であると同時にシナリオでもあるため、子鐘が「記録」として受け取っても再びアドリブの可能性とネットワークへの解放性は回復し、複数のシナリオが交通する場へと子鐘を導いていく。子鐘はこの「記録」がシナリオであることを知らされるのだが、子鐘がシナリオとして次の子鐘に送ったこの「恋愛探偵組白書」も、やはり「記録」として受け取られるだろう。

「記録」の伝達は非対称的であるにも関わらず、それはいつも見失われてしまう。ネットワークの複雑な網の目は1本の太い綱へと強大な力によって束ねられ「記録」は僕たちに届いている。

『プロペラ天国』が導入したシナリオと「演じる」という問題系は、単一化された伝達経路を再び複数的なネットワークへと開き、伝達の非対称性を容赦なく暴露する。そこで僕たちは、「記録」が単一的な経路によって伝達された唯一の超越的なものなんかではなく、複数的なネットワークのなかを、アドリブ=失敗可能性に曝されながら偶然的に伝達されたものだと知るだろう。僕たちが接する「記録」とは全く異なった「記録」が伝達されたかもしれない可能性と、現実にそうした異なった「記録」を受け取った人たちが存在するかもしれない可能性を。

また、僕たちの「記録」が記録された出来事と同一であることの不可能性と、「記録」から出来事を正確に再現前させること、つまり「記録」から出来事への純粋な遡行不可能性を。 >>次頁

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