TINAMIX REVIEW
TINAMIX

富沢ひとし『プロペラ天国』小論

■出来事・経路・記録、その唯一性・超越性・単一性

僕たちが出来事と呼んでいるあるまとまりは、その出来事が終わった後に生まれている。この出来事は、この先様々な人の手に渡っていくが、永遠にこの出来事であり続ける。一度生まれた出来事は、その出来事のまま唯一のものとしてあり続ける。

ある出来事がずっとその出来事であり続けるためには、つまり出来事が単一であるためには、出来事と僕たちとが全く無関係に存在していると想定しなければならない。僕たちのどんな振る舞いにも左右されない出来事とは、僕たちに対し超越的であるということだ。どの時点、どの地点にあっても同一である出来事の超越性・単一性は、それらの点を結ぶ伝達経路の超越性・単一性によって与えられる。超越的な経路に乗ることではじめて出来事は超越性を手に入れることができる。つまり、出来事の単一性の問題とは、経路の単一性の問題なのだ。

だが、本来問題とされるべき経路は、その超越性ゆえに抹消される。どこにあっても同一であるならば、それらの間の経路を想定する必要は無くなってしまうからだ。必要なのは、その都度出来事を再編成する(再現前させる)媒体だけである。僕たちはその媒体、「記録」によって出来事と再び出会うことができると信じている。

ここまで「出来事」と呼んできたことは、実質的には「記録」のことだといってよい。僕たちが実際に接するのは、出来事そのものではあり得ず、いつだって「記録」でしかないのだから。僕たちは「記録」を通してのみ、出来事と出会うことができる。 アルバムや日記といった個人的な「記録」や、過去の発見や業績を記した歴史的な「記録」の存在が、僕たちと出来事の出会いを可能にする。

ここまでを一度整理すると、出来事が単一であるということは、経路が単一であることであり、その経路を抹消しつつ再編成する「記録」が単一であるということだ。単一な「記録」とは、何度「記録」し直されようと、何人もの人の手を経ようと、そこで接する「記録」はいつだって同一であるということだ。

だが本当に「記録」は単一なのか。この認識に疑いを持つことはできないのか。

僕たちが持っている単一性神話は、直接的には「記録」に依っていることがわかる。この神話に疑いの眼差しを向けるということは、「記録」について問いを立てるということだ。「記録」の単一性を疑い、その複数性を主張することで、抹消されていた経路を復元し、神話の絶対性を脅かすことができる。

「記録」の単一性がこれほどまでに強固なのは、その事後性に依る部分が大きい。始めに述べたとおり、「記録」は記録されることの「後」にしかあり得ない。それは「記録」の性質上避けようのないことであるが、この「後で」という時間的立場が問題なのだ。「後で」という視点は物事を一気に把握してしまう。つまり全体を見渡せてしまう。「記録」がそのような視点から生まれる限り、「記録」が単一的なのは当然といえるかもしれない。

こうして事後的に纏め上げられた「記録」の蓄積は、「歴史」と呼ばれることになる。「歴史」は蓄積された「記録」をさらに事後的に纏め上げることで正統的に成立する。その意味で、「歴史」もまた「記録」だといえる。「記録」である以上それは事後的にしか発生しない。事後的に纏め上げられることで、「歴史」を構成する諸「記録」が、いつ、誰によって、何のために、いかなる意図の元記され、どれだけの、どんな人たちの手に渡ってきたか、また、これまでどのようにそれらは纏め上げられてきたかという、「記録」に含まれるあらゆる複数性を抹消し、全体として新たに単一化する。 >>次頁

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