No.971790

『きみで5題』

chuuさん

お題bot【milk】さんの『きみで5題』より
https://twitter.com/milkmilk_odai/status/1051812999659319301

※組織壊滅後から十年後の話です。
※阿笠博士とフサエ・キャンベルは結婚してます。

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2018-10-27 22:38:48 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1162   閲覧ユーザー数:1156

[chapter:1.君が、居るから]

 

新しい一年がはじまり、しばらくした頃、この時期にしてみれば気温がとても穏やかな日だった。日本ではネットニュースに小さな記事として紹介されて、ここアメリカでも地元の新聞に小さく扱われた記事がある。

 

『米イリノイ州・シカゴ市エバンストン在住の日本人女性が昨日殺害された。犯人は同じアパートメントのフラットに住まう男性によって射殺され、死亡。女性が死亡時かばっていたと思われる女児は外傷もなく無事であると思われる』

 

 仲間からのメールを読んでいた赤井秀一はそれを見て固まった。組織が解体壊滅をうけて十年。彼はベテランのSSAとなり、今は指導教官としてワシントンからボルティモアに移り住んでいる。捜査官だった頃と違って階級は上になったが、消費する仕事量は現役だった頃とほぼ同じであるのは、彼が現在在籍している場所が特殊だからというのがあるだろう。仕事が遅くなっても気を遣う相手がいないというのは、ありがたいものだと…赤井は、誰もいないフラットに戻り、玄関を閉めた後、明かりをつけずに自分のベッドに沈み込んで実感した。

「…死んだのか」

 暗闇で呟いたのは誰に向かっていったのか。

 そのささやきには悲しみも安堵にも似て、その真意は誰もしらない。

 

 

 フサエ・キンャンベル。

 日本の女性ファッションの中でも絶大な人気のブランド『フサエ・ブランド』の創設者である。

自分のブランドを立ち上げたあとでも、しばらくは低迷時代が続いていたが、他社ブランドのデザイナー兼コーディネーターなどを勤めており、その知名度を着実にひろげていった実力派である。彼女自身の好きな「イチョウ」の柄は自身のブランドの定番としてモチーフによく使われている。そして、彼女は最近幼少期から想いあっていたという阿笠博士という壮年の日本人と結婚した。新作発表が過ぎた頃、彼女は阿笠のために帰国したのだが…一緒にいた少女に皆騒然となった。手をつないでいるかわいらしい少女。歳はまだティーンにとどかない。その彼女が、すべてのはじまり。終わりのはじまりだった。

 

 彼女…宮野志保はずいぶん前から組織裏切り者であり命を狙われている重要人物であった。彼女は自分の運命から逃げたくない…その為に安易で安全といわれるアメリカ合衆国の特殊法「承認保護プログラム」で保護することを拒否し、日本で住んでいたのだ。

 赤井は宮野志保が幼児化した姿である『灰原哀』を警護することを決意し、過程はいろいろあったものの、彼女の住む家の隣に居を構えることもできた。変装をして似合わない言葉をしゃべり別人になり彼女の隣でいるのは赤井秀一にとって楽だった。彼女をたっぷりと甘やかせて守り、傍にいることだけを日常とするなら、なんとたやすいことだろう。そうおもったときもあった。だからこそ、壊滅作戦が終了してからしばらくの間、沖矢昴は灰原哀をのそばにまだいた。沖矢昴としては「シェリーこと灰原哀」が安全になるまで傍にいると決めたのだ。工藤少年から聞いていたAPTX4869の解毒薬の効果を立証できないでいる為、組織の壊滅作戦が成功したと思われていても油断はならないのを理由の一つにして…。

 そのときは、昔の恋人・宮野明美の負い目もあったのかもしれない。幼くなっても彼女は彼女でありつづけたのだ。食いしばって事実と向き合い、真実に対して踏ん張って歩いていた灰原哀であり宮野志保を美しいと思ったし庇護欲がでていたのはいうまでもないことだった。

「あなたはどうして傍にいるの?組織は壊滅したし、危険なことももうほんどないのよ」

 作戦が終了してから一年を迎える頃、灰原が沖矢にそう聞いた。沖矢は答えない代わりに「ではなぜ君は宮野志保に戻らない?」と訊ねた。すると、自嘲した彼女がこういったのだ。

「…案外、自分と向き合うのが怖いのかもしれないわね」

 哀しそうにそう言った彼女の後ろ姿が、赤井にとってたまらなく愛しく感じる。彼女の一番近くにいることを願ってやまなかった赤井秀一は沖矢昴の変装をといていなかった。灰原哀から宮野志保にもどる過程を見守りたいと切望しこう言ったのだ。

「君のそばにいることを許してほしい。沖矢昴は、君がいるから存在するんです」

 

 

 赤井はその苦い記憶をまじまじと噛みしめ、そしてたばこに火をつける。

 煙草の苦みでその苦しさを紛らわせる。

 「身体に悪いのに…」そういいながら禁煙をすすめてきた彼女はもういない。

 

 

 ほぼ十年ぶりに阿笠邸の扉をくぐると、そこには立派な青年になった工藤新一とあまり外面的に変わりない阿笠博士が出迎えた。

「ひさしぶりじゃの、赤井君」

「ひさしぶりです、赤井さん」

 二人が挨拶すると赤井は少しだけ口角をあげて微笑んだ。

「急にきてすまない」

「いえ、僕も詳細が知りたかったんで…」そういって新一は言葉を濁しながら「まさか、あなたが来てくださるとは思いませんでした」と告げた。

「阿笠さん、ご無沙汰しております」玄関から入ってリビングに座っていた屋敷の主に軽く礼をして赤井は手を差し伸べる。こころなしか元気がないのはみんなお互いさまだろう、と赤井は思った。彼女を知る人間が死を悼んでいる、それだけで筆舌に尽くしがたいものだ。

 二人の向かいに座ってお茶をすすめられる。阿笠が結婚したというのは聞いていたが内装などにはほとんど手を加えられていない。リビングのソファの色や花瓶、スツールや絨毯など、所々女性らしい気遣いが増えているが、微々たるものだ。十年前とほとんど変わらないこの阿笠邸を見渡して、一呼吸おいた。

「それで?」

「昼には学校から帰ってくるんじゃが…今日はフサエさんと買い物でもしてきてくるように頼んだよ」

「…そうですか」

「ねぇ、赤井さん。アイツの事、知っていたんですか?」

「彼女がいた場所も名前も知らなかった、知っているだろう、保護プログラムは秘密情報としては最重要…文字通りのトップシークレットなのだと」

「ですが…」

 新一が言葉を詰まらせる。赤井は苦虫をかみつぶしたような顔をして吐露する。

「子供の事を言っているのなら、知らないさ」

 自分と志保との関係を知っていたのは数人で、彼も阿笠博士もそのうちのひとりだった。

「なにしろ、血縁者も友人も突然ある日を境にリセットされる。彼女がその選択肢を選んだことすら俺は知らなかった」

 

 春川美奈(享年28歳)。シカゴ大学に通う研究生で、九歳の子供がいる。彼女が住んでいたのは、日本人が多く治安がいいとされていたエバンストンで、FBI捜査官が彼女を殺した犯人を現行犯で射殺した。遺体の彼女は、頸部や顔面に打撲痕、着衣はそのままだったが、背部に数か所の切り傷があり、致命傷となるものはなく、失血死だと判断された。彼女の死亡は救急車の中で確認され、同じく同乗していたFBI捜査官と彼女の娘が死を看取ったのだ。

 

 赤井が手にした書類では、彼女の詳細が分厚いファイルとして印字されている。なかには写真も添付されていて、自分が知らなかった過去十年間の春川美奈が映っていた。

 ファイルに目を通す新一と博士の前で赤井はファイルの中から一枚の写真を取り出す。

 彼女にそっくりの髪の色。眼つき。人見知りしている少しおびえた表情。ああ、なにもかも昔に戻ったようではないか。

 赤井はふいに二人にたずねた。

「子供の名前はなんといったかな」

 

 

 君がいるから、ここにいる。

 この傍に。

 こんどは、沖矢昴ではなく、赤井秀一として傍にいたい。

 

 

 

 昔、自分が愛した彼女と同じ響きをもつ少女のそばに。

 

[chapter:2.君が、言うのなら]

 

 証人保護プログラムというものがある。

 それは、法廷や諮問委員会での証言者を被告発者による制裁から保護するために設けられた制度だ。該当者はパスポートや運転免許証、果ては社会保障番号まで全く新しいものが交付され完全な別人になり、状況により生涯にわたって保護される。彼女…宮野志保が死亡した報告が元上司であるJBから流れてきたのはつい先日のことだ。

 彼女が亡くなるまで住んでいたアパートメント、彼女が勤めていた大学。彼女の仕事仲間…そして彼女の娘。そして、その情報は、政府極秘の国家最高機密の扱いとされており…それは彼女の死亡確認によって解除された。

 赤井秀一はその詳細をできうるかぎり集めた。

 十年前、組織を壊滅し、彼女が幼児の身体の灰原哀ではなく成年の宮野志保にもどったすぐ後、彼女は自分の前からこつぜんと姿を消した。灰原哀がシェリーとして提案されていた承認保護プログラムを拒んでいたのは知っていた。断った理由も赤井秀一は知っていた。だが、一度取りやめになった承認保護の話がいつだれから出ていたのか赤井は知る由もよかった。

 受けた理由も、受けた日も、それを決めた日すらも、全く知らなかった。

 そして、この十年、理由を知ろうとはしなかった。

 「赤井秀一は宮野志保を愛する事を許されなかった」そんな事実に自分自身が逃げていたのかもしれない。

 書類に目を配らせて、写真で止まる。記憶から十年後の彼女は女としての魅力に溢れ美しさの中に強さを備えた姿を小さな紙に留めている。記憶の中の頃と同様に、それ以上に生きる力をもって彼女の「今」が「春川美奈」として写真に存在した。そして次の写真に改めて愕然とした。

 彼女は連続殺人犯に殺されたのだ。娘をかばい、息絶えた。自分から離れ、宮野志保という存在をすべて消してまで、生きる選択をした彼女が全く関係のない人間に殺されてしまったのだ。まるで、後味の悪いサスペンスのように思えて、赤井は胸を痛めた。

 

 

 

 

「怪奇小説がお好きなんですか?」

 いつだったか、鈴木財閥大図書館で沖矢昴は彼女の読む本について尋ねたことがある。図書館の倉庫に収められた膨大な量の蔵書を調べる為、自分たちは部屋の中央にあるテーブルにそれぞれの本を手に取って調べ始めたときだった。

「あら、子供らしくないというのかしら?」

「そういうわけではありませんが…あなたの趣味なのかなと思いまして…」

 彼女が手にしたのは、古典からはじまって現代ものの怪奇小説ばかり。こういうシチュエーションの時、各々が得意な本を手に取ってしまうのが世の常らしく、沖矢もまた自分の好みな推理小説を両手に抱えてテーブルに置いたところだ。自分のもってきた推理小説を一瞥すると彼女はしたり顔で「あなたも人の事はいえないんじゃないの?」といいながらさっそく本を開き始める。その表情はご満悦といったところだろう。子供らしい彼女の一面にくすりと笑うと、「確かに、選んだ本は知らない名前のものばかりで…興味がないわけではありません」そういって、彼もまた本を手に取って調べ始める。

 彼女と自分だけが存在する空間で、本をめくる音だけがする。不思議なことにそんな静寂が心地よくて、沖矢はなんどか本を読む彼女を見ていた。

「…推理小説はあまり好きではないの」ふと、彼女はつぶやいた。「正解が用意された物語を読むと、どんな悲劇も喜劇にみえるのよ」

「怪奇小説は現実離れしすぎて、後味が悪くなるというのに?」沖矢がそういうと「でも、ぐちゃぐちゃしたところは人間ぽいじゃない。どろどろとはかり知れないものをもつのが人というものよ」と彼女はそう言ってこちらを見る。「人間は闇の部分だけで生きると心を崩してしまう。でも、小説の中でそんな狂ったものをみると、安心するのは事実ね」

皮肉めいた感想に、沖矢は眉をしかめた。まるで物語の中に入って囚われてかけている主人公になりそうで、手を止めて彼女を見る。

「…なに?」

 視線が重なる。彼女がこちらに向かって眉を顰めて首を傾げた。

「いや。君は、いったいどちらだろう、と思っただけさ」

 彼女が手にしているのは、ブラム・ストーカーの初版本だ。世界的にも大ロングセラーであり、聖書に並ぶベストセラーの作品だ。そして、その本のヒロインといえば、主に二人。

「どちらかって…あなた、まさか私をミナ・マリーにしたいの?」

「君は僕がハーカーであってほしいと願うのなら」

「うぬぼれないで。あなたは、アーサー・ホルムウッドでしょう」彼女はじろりと自分をにらむ。「ウェンスラーを殺されて、伯爵に復讐を誓うゴダルミング卿」

「…持ち上げてくれますが、僕はそんなに大したことはありませんよ。せいぜいジョン・セワードかキンシー・P・モリスがいいところです」

 何せふられてばかりですから。そう言って肩をすくめた。

「それに…ウェンスラーのような美女は庇護欲にかられるでしょうが、どちらかというと、僕は運命に抗うミナ女史のほうがすきなんです」沖矢がしごく真面目に答えると彼女は鼻で笑って口元をゆがめた。そう、彼女はルーシー・ウェステンラーではありえない。伯爵が傀儡につかったジプシーの女たちでは彼女では役不足にきまっている。

「君は、ウェンスラーになりたいと思わない?」

 美しいウェンスラー。彼女の美しすぎるその容姿。容姿だけではない、そのはかなさも朗らかな人柄も、どんな男でも囚われてしまう。そのため彼女は伯爵の毒牙にかかってしまった。

「…私にはその役は無理よ」と彼女は言った。「自分が愛した男や自分を愛した男によって殺されるなんて…あこがれるけれどね」自虐的に小さくつぶやく。

 世界で一番有名な怪奇小説。ゴシック的な重厚な雰囲気。未知なる闇の脅威。現代のスピード感がある小説ではなく、このブラム・ストーカーは日記形式手記のような形で事実を淡々とつづっている。心理的描写もさながら伯爵への畏怖体験は読んだものしかわからないであろう。そして、小説が評価されているのは、怪奇小説にありがちな複雑怪奇な威圧と恐怖だけではない。未来を信じる若者を中心に、前向きな未来へとつながる希望と人間という無力な存在が地道に足を地につけて運命に抗っていくその様を描いていた。人の底力が発揮されるとき、神は決して人間を見放さないのだ、と。そう信じて祈れるほどに、物語は潔い週末を迎えるのだ。

「あなたはヘルシング教授になりなさい」

 突然、彼女はこの小説の最大の人気キャラクターである教授の名前を告げた。

医者にして、哲学者。物語の中での教授は、精神病学の世界的大家であった。そして、物語は世界に広がり、今では怪奇小説好きではなくても、その名前を知らない者などいないという、ヴァンパイア・ハンターの代名詞だ。

「それはまた…過ぎた役どころではないですか?」

「あら、ぴったりじゃない」にやりと笑い「怪奇小説のスーパーヒーローは彼以外にありえないわ。クラーク・ケントやジェームス・ボンドみたいな表舞台での立ち回りよりも、あなた、そっちのほうが好みなんじゃなくて?」そういった彼女に沖矢はつられて苦笑する。「君が言うなら仕方ないな」とまんざらでもない顔をした。

初版本を調べ終えた彼女が、大事そうに本を置くと不思議そうにこちらを見る視線を感じて、振り返る。

「どうしました?」

「…あ、いいえ。大したことじゃないのよ。この本の結末は割とすっきりしているけれど、私があまり好きでないこともあるなって思い出しただけ」

「ほー」

「もし、あなたが言うように、私がミナ・ハーカーになったとしても、私は自分の子供に死んだ人の名前はつけないと思ったの」

「何故です?」

「だって、死んだ人の名前は…重いじゃない。周りがそう思わなくても、その人の人生をひっくるめて背負う事になりそうだもの。そんなの、子供がかわいそうだわ」

 死んだ英雄を湛えるのに、昔から名前というのは受け継がれていくものだと赤井はそう思っている。悲劇を迎えた英雄も、友人も愛する人の名前を次の世代に受け継がせて、幸せを願うのだ。沖矢は彼女にそういうと、難しい顔をしてこちらを見た。

「だったら、同じ名前なんかつけたら…愛する人を思い出してしまったときは…つらいときはどうしたらいいのか…私にはわからないわ」

 言葉の中に示唆された問いかけに、沖矢は困ったように微笑んでこう答えた。

「簡単なことだよ。その時は子供を抱きしめてあげるといいんだ。その人にむけるように、その人が味わうべきだった幸福を願って、子供をちからいっぱい愛してあげれば…それでいいのさ」

 

 

 

 瞼を閉じていれば、彼女との思い出が走馬灯のように自分の脳裏で浮かび上がる。

 ああ、たしかにそんなこともあったのだと考えて、胸が痛んだ。彼女がどのような気持ちでその名前でいたのか…その意味に気づいて、口の中が苦い。飛行機が羽田空港に到着するまであと少し。赤井は薄暗がりに広がる闇に向かって、もう少しだけ彼女との思い出に浸れるように、心の中で祈りながら腕を組んで目を閉じた。

 

 

 

 春川美奈は友人が少なかったという。端正な顔立ちと日本人特有の奥二重で表情は乏しい。言葉数は少なく頭脳は一般人よりもはるかに高い。そんな彼女がシングルマザーとしてアメリカで働いて数年、一人の友人ができた。偶然とは恐ろしいもので、自分が友人のブランドを好きだったこと、そして数年たち友人が恩人のワイフになろうとしていることを知り、美奈は涙して喜んだ。そして、そんなふたりは年の離れた親友になっていた。

 フサエ・キャンベルが彼女の娘の唯一の後見人とわかったのは、美奈がなくなったときだ。

 彼女が天涯孤独だったのは知っていた。この国ではよくある話だ。後見人の事は美奈がフサエと友人として付き合ってから数年後に相談され、そのときに快諾したのは覚えている。フサエは美奈の弁護士が遺言書をもってくるまで、そんなことは忘れていた。彼女が亡くなり、少女が施設に連れていかれることになるとしり、フサエは自らの弁護士を通して早急に養子手続きをとることにした。おりしも、彼女は結婚してたてのほやほやであり阿笠との子供はいない。家庭レベルはハイクラス。そして、なにより遺言があった。子供父親は日本人だということであったが、一切は不明。したがって養子縁組の手続きはスムーズに行われたのだ。

 阿笠博士はフサエの相談を聞いていたのだが、少し思うところがあったようだった。だが、メールの美奈の娘の写真を見た途端、少女が養女になることをフサエ以上に喜んだという。それは、美奈の娘があまりに十年前とある事情で阿笠邸に住むことになった天涯孤独の彼女に似ていた為であるのは明らかだった。

 

 

 薬の副作用で身体が幼児期に退化し工藤新一とともに偽名を使いながら帝丹小学校に通っていた『灰原哀』。工藤新一はアメリカでの事件を知り、帰国したフサエの手を握りしめている少女を見て驚いた。彼の隣で微笑んでいた妻である蘭も同じく驚いている。

(似ている…ってもんじゃねーな)

 赤みかかった茶色の髪も生意気そうなつりあがった目も、きゅと引き締まった唇も…十年前にともに組織に抗っていた小学一年生の彼女が舞い戻ってきたかのように、少女は存在していた。

「ごめんなさいね、この子、まだ人が怖いみたいなの」

 フサエは自分の脚の後ろに隠れてしまう少女の身体をさすりながら挨拶をしている。新一は阿笠夫妻から事情を少し聞いていたらしく、口をつぐんだ。新一は阿笠夫妻から聞いた事情は新聞に載った程度には話をしていたし、自分もまだ詳しくしらなかったのだ。一度、向こうの警察に頼んで調書をみせてもらいたいな…新一は組織壊滅のときに世話になった人物を数名思い出して、胸の中でメモをとった。

 蘭は物言わぬ少女の容貌をみて、「かわいそうに」と呟いた。そして、少女の目線に自分の姿を合わせるようにしゃがみ込む。フサエのちょうど後ろに隠れた少女は蘭の顔にびくついて、今度は阿笠の影に隠れてしまった。

「おおお、すまんの蘭くん」

「いいんです。つらい経験をしたのに、日本に来ることになって、慣れない家で暮らし始める準備ができないまま、いきなり私たちが現れたんですから、怖がるのも無理はないわ」

そういうと、阿笠の後ろの少女に向かってまず英語で自己紹介をはじめ、続いて今度は日本語で「私はこの家のお隣に住む、蘭っていうの。よろしくね!」満面の笑顔でそう言った。

 蘭の天真爛漫な笑顔は昔から変わっていない。すべての人に向けられるやさしさも厳しさも、彼女の魅力の一つだと夫である新一は常々実感しているし、彼女がいたからこそ今の自分があると感謝している。だからこそ、悲惨な体験をした後すぐに日本にやってきて、慣れない環境で怯えてしまっている少女に蘭は寄り添ってやりたいと無意識に願っているのだろう。思えば、灰原哀に対しても蘭は物怖じすることもひるむこともなく、ずっと彼女に接していた。まるで十年前をみているようだと新一は心の中で思い出へ呼びかけた。

 少女は蘭をじっと見ていた。阿笠博士とフサエの衣服の裾を握りしめながら息をひそめて、蘭をじっと見ている。まるで傷を負った野良猫のようだと、少女の母親と彼女ま面影をまた重ねた。

 

 それから一週間、少女が無愛想だと思っていたのは、最初だけだったようだ。阿笠博士もフサエも新婚生活さながらに仲睦まじい夫婦で、そんな夫婦の子供になった少女はとまどいながらも共に暮らす日々を現実の物として理解しているようであった。新しい生活になじむと同時に、隣で暮らす工藤夫婦にもあっという間になついてしまったのはいうまでもない。

 

 工藤新一や阿笠博士の記憶の中にある灰原哀とは違って、少女は朗らかでよく笑う娘であった。

 フサエは言った。はじめてあった時は、自分も少女の笑顔に癒されていたのだと。少女が笑うと皆、笑顔になる。少女は歌もうまいのだ。よく亡くなった母親に歌を歌ってあげていたと聞いた。母親の死についてのPTSDはまだ残っているようだが、阿笠邸や工藤邸を行き来する分には気遣いなく日常生活を送れている。時々フサエの主治医である東都総合病院にいきカウンセリングをうけているが、問題はないとの診断を受けていた。

「それで、今日書類が届くんだって?」

 少女が学校に行っている間、阿笠邸に訪れた新一は連絡があって隣の家にお邪魔していた。はじめて少女に会った新一はとあることを知人に問い合わせをしていた。知人というのは、組織の瓦解作戦で世話になっていた一人で、今ではFBI長官であるJBに問い合わせをしよう。そして、彼曰く、事件の書類が特殊だから持ち出しは不可能。通信手段もNG。よって問い合わせした新一があたらに向かうか、それ相応の人間がここにくることになるわけで…どうやら、少女の母親である春川美奈の事を調べた捜査官が阿笠邸にくるということだった。

「じゃあ、やっぱりあのひとが来るんだな」

 新一は阿笠と共に唸った。

「ワシはな、新一。あの子がフサエさんとワシの娘になったのは運命じゃと思うておるよ。思えば、志保くんが命からがら逃げてきたときに、ワシが出会ったことも、その後の数カ月をこの家で暮らしたこともな…」

 阿笠は悲しそうに嬉しそうに笑った。その顔をみて、つられて新一まで笑ったが…少しだけ何かがこみ上げてくるまで時間がかからない。くぐもった声で相槌をうとうとした時、玄関のチャイムが鳴り響いた。

 インターホンを除くと、そこには見知ったなつかしい顔が映っている。阿笠は扉を開けて訪問客を出迎えた。

 

[chapter:3.君が、忘れなければ]

 

 記憶の彼女と同じ声で、少女はたからかに作文を朗読していた。工藤邸に遊びに来た少女と阿笠夫妻がもってきたのは、先日学校で書いたという少女の授業参観の作文で、担任の先生にほめてらったのだといって工藤新一の妻・蘭に読み聞かせている。昔世話になったというよしみと、少女の傍に暫く居たいという強い希望をして赤井はこの工藤邸に身を寄せていた。

 少女は蘭と少女はあっという間に仲良しになったようで、毎日のようにこの屋敷に遊びに来ているのだが…その度、赤井に会うたび怯えたような視線でこちらを見ていた。「まるで、昔を思い出しますね」と新一が苦笑して言うのは、沖矢昴として灰原哀に思いっきり警戒されていたときのことだろう。子供がいる為その場で煙草を吸わないようにしていた赤井は、新一が出した苦味の強いコーヒーを飲みながら「まぁな」と答えた。

 

「いっそのこと名乗ったらどうですか?」

 新一が心配そうに声をかける。赤井は自分の事を阿笠博士の知り合いだということしか少女には伝えていなかった。必要以上の詳しい説明はまだ9歳の子供には必要ないだろう。育ち方をみれば、春川美奈は愛情たっぷりに少女を育てている。普通であってほしいとそう願わずにはいられないほど、彼女の波乱万丈な人生において、少女は驚くほど「普通」だった。愛情を受け入れる心の余裕をもっている。愛情を返すだけの表現力も持っている。それは、彼女がそうありたいと願った理想の形なのだろうか。赤井ただ少女を見ながら目を細めるばかりだった。

「なにを言えと?」

 赤井は新一にむかって訊ねた。

「君のお母さんを知っていると?あの子の母親は、今は阿笠夫人じゃないか」

「親戚だってことですよ」

 天涯孤独と思っていた宮野志保は、実は赤井秀一の母のメアリーの姪っ子であり、二人はいとこ同士というのは、工藤新一がコナンだった時代から知っていたことだった。

「それとも…もっと別の意味のほうがいいんですか?」

 赤井の手がぴくりと動く。

「…どこまで知っている」

 赤井はくぐもった声で新一に訊ねる。

 

 自分たちは、誰も知らない秘密があった。

 秘密が多すぎた自分たちの、その中でも一際しまっておかなければいけない秘密。

 誰にも知られてはいけない。

 たぶん、自分が願うよりも彼女がそうあるべきと願い、自分の前から消えた最大の理由。

 推し図れば知りえるはずの簡単な真実は…今、目の前にあるのだ。

 

 

 

「遠いところに行きませんか?」

 そう提案したのは、夏休みもこれからはじまったという頃。阿笠博士は発明品の薬品購入の件で役所にでかけており、この阿笠邸にいるのは灰原哀ただひとり。沖矢は彼女に会いに来ていた。

 探偵団の子供達は今日いない。たまにはお休みも必要でしょ、と灰原哀は楽しそうに笑った。彼女と子供達の関係はとても興味深い。殺されかけ、裏切り、傷ついて逃げおおせた阿笠博士という東屋に身体を震わせて怯えていたような彼女に、彼等は少しずつ彼女の恐怖を自分たちで包み込んでしまった。それを成し遂げた最大の功績者は、もう解毒薬で大人になってしまった江戸川コナンこと工藤新一であるのだが、それでも、彼等は彼女の心を少しずつ癒してくれていたのだ。無垢な心で、純真な言葉で。組織では明晰な科学者であるように育てられた彼女の、「子供」としてすごせなかった本来の時間を彼らは取り戻してくれていた。彼女が解毒薬を服用せずに「灰原哀のままでいる」理由は…いろいろあるだろうが、その一つが彼等と共にいることなのかもしれない。沖矢昴はそう思った。

「…あなた、ねぼけているの?」

 彼女はその提案に目を開いて凝視すると

「ばかね。この狭い日本でそんなこと…できるわけがないじゃない」

 と哀しそうに微笑む。

「ここだからこそ、できるんです。ね、行きませんか?」

 誰もいない、くることも、連絡すらもよこすことはない、文字通りの「遠い」場所。跪いて彼女の手の甲に唇を落としながら、にやりと笑ってそう言うと「仕方ないわね」と彼女はひとつ溜息をついた。

「…まるで、自分が行きたがっているようだわ」

 苦笑する姿は、少女の身体にはふさわしくない憂いを帯びている。

「今は夏休み。君を子供達に独占されでもしたら…それこそこうやって二人きりでいられませんから」

 彼女は片手でもっていた雑誌をソファに置いて自分の手を掴み立ち上がると「せっかちね」とごちってみせる。

「何事も勢いが肝心だよ。特に君に関することなら、早いうちにきめておいて損はない」

「あら、信用されていないのね…」そういった彼女の額に沖矢は軽くキスをした。

「まさか。信用していますよ。それこそ命を託せるほどに。君こそ、どうなんですか?少なからず信用されていますかね、僕」

「重苦しいことを聞いてくるけれど…でもまぁ、そうね。信じているわよ。あなたと同じくらいに」

「じゃあ両想いだ」

 にっこり微笑むと彼女は少しだけ頬を染めながらもう一度「ばかね」といった。

 

 

 隠れ家にやってきたのは、陽も少しくれはじめた頃だった。

 電話も携帯も通じない文字通り「なにもない場所」に行くには相応の準備が必要だとそう言って、食料と水の買い出しをして車に詰め込みながらスバル360で走り、農免道路に入る手前で一度ガソリンを給油していると、彼女が物珍しそうにそう言った。

「この車、わりとスピードがでるのね」

 高速では時速100キロはでていたはずだと、彼女がスピードメーターを熱心にみているのを思い出して昴は笑った。

「ええ、走りますよ。エンジンは強い物に変えていますしね。山道にもわりと強いので心配はいりません」

「ああ、やっぱり山なの」

「海だとおもいましたか?」

「さぁ?」曖昧に答えた彼女に「では、今度誘うときは海にでもいきましょうか」と声をかけながら、近くにあった自動販売機でコーヒーを二本買い彼女に渡すと車に乗り込む。そのまま向かう先は目的地であるその場所だ。地図にはのっていないような山の小道をしばらく車ですすんでいくと、小屋らしきものが一軒みえてくる。

さらに進むと、普通の山小屋というよりは、山小屋風の平屋住宅の風情をもった一軒家がみえてきた。

 北欧風の格子状ガラス窓にカーテン。裏口には発電機とガスボンベが設置されている。近くには井戸と薪が積み上げられている物置きもあった。煙突があるのは、この家には電気もガスも水道もない場所だからで、冬は暖炉に使うのだと簡単に説明する。

 見渡していた彼女から「本当に、隠れ家ね」という感嘆ともとれる感想がかえってきたので、沖矢は少なからず苦笑した。

 玄関の鍵を開けて中に彼女を案内する。

 がらんとした食器棚つきのキッチンダイニング。奥にはふたつの部屋と簡単な家具が設置されている。華美なところはなく、いたってシンプルなつくりであった。ダイニングにはテーブル一台、椅子は二脚。二人掛けのソファが二脚L字型に置いていた。掃除は行き届いている。

 沖矢は車にあったいくつかの水や食料品とテーブルに運びおわると、リビングの中央で手荷物をソファに置いて困惑している彼女をみつけた。

「どうかしましたか?不満なところはありますか?」

「…まるで、ホテルのコテージ並みにいろんなものがそろっているのね。感心するわ」

「まあ、文字通りの場所なので、人が生活できるぶんくらいは確保しているんです」

「そんなところ、本当に私達が使ってもいいの?」

「許可はとっていますから」

「…それって、前から段取りしていなきゃ用意できないものではなくて?」

「君をいつでも匿えるようにしていたんですよ」

 じろりとにらんでくる彼女をうまくかわして、沖矢は彼女をうしろから抱きしめる。

「もしも君が危険なことになったら…守る自身はありますが、けれど、どうにもならない事もあったら…そう考えると、準備は何重にほどこしてもしすぎることはない」

 かがめた身体に小さな彼女はすっぽりと覆ってしまうと、彼女もまた自分の腕にぎゅと手を添えて黙った。

「ばかね、心配しすぎよ」

 そう言って彼女は自分の腕の中でくるりと身体の向きを変えた。

 自分たちは仮初の姿である。

 はじめてあった灰原哀も、はじめてあった沖矢昴も自分の正体はお互いに言えぬまま、それでも彼女が宮野志保であるのだと確信はあったし、彼女もまた自分を諸星大だと気づいていた。お互いの大切な人であった宮野明美を失った悲しみと傷はいえることはなく、自分たちの正体について確信をもったあとでも、古傷をさすりながら言葉をかわし、お互いの思い出を埋めるようにかさぶたも作ってみては、はがして苦しむ。時折、彼女の姉に似ている動作や言葉を口にしたときなどは特に…。そしてそんな自分たちには、傷をなめ合っている自覚はあったし自分自身の境遇に親近感をもっていた。それだけだった。恋愛感情はなかった…はずだった。彼女に向ける感情が別の色をもつようになったのは、組織が壊滅する少し前だと思う。FBIきっての切れ者で、最高のスナイパーの一人であり、截拳道の使い手と…まわりで評されていても、彼女は自分の腕をいつもすり抜けていった。だから、慎重になった。彼女が慕う小さな少年でも彼女を慕う子供でもなく、彼女を守る保護者でも、彼女の姉の恋人としてではなく、純粋に傍にいたいのだと自覚して…赤井は彼女を絡めとるようにゆっくり沖矢昴の腕の中にとりこんでしまったのだ。

 ずるいのかもしれない。けれど、ずるくなければ、彼女は手に入らないのだ。

 背中に小さな腕が回される。胸の中に彼女の小さな吐息が混じるのを感じて、沖矢はさらに腕の力を強めた。

「…ばかなのは、わたしのほうなのかもしれないわね」

 そう言って、どちらかともなく唇を合わせる。

 深め合う吐息とまじりあう言葉に目を瞑ったまま絡めるキスは、罪悪の味がした。

 

 

 母の姉妹が組織で働いていたのは知っていた。その母の姉妹が宮野エレーナであることを母親の口からきいたのは、沖矢昴としての生活がなじみ、灰原哀としての彼女は自分のことを受け入れ始めた頃…組織を壊滅させる準備がまだ整っていないのある日のことだ。

 話を聞いた後で、赤井は頭を揺さぶられている気分になった。まるで悪い夢でもみているのではないのかと思った。短い間ではあったが、恋人として過ごした明美を想い、その自分の胸中を思い…罪悪感にとらわれる。明美はしっていたのだろうか?…いや、知るはずもないだろう。諸星大という人間は明美の前に現れた戦争経験がある傭兵上がりの無職の男だったのだ。では、彼女は?…姉である明美の身辺をうろつき懐の中に入り込み、自分という男に不信感を抱き、組織の中でいち早く自分をノックだと見破った彼女は…知らないだろう。灰原哀には肉親や親せきは一人もいない…これは自分以上に彼女をよく知る江戸川コナンから得た確かな情報だった。

 

 

 隠れ家の生活はおもったより楽しくて、あっという間に日にちがすぎてしまった。

 山を散策したり、川で涼んだり、夜空を見上げたり、ときおり持ち込んだ長編小説などを読んだりして…二人の時間はゆっくりとまったりと過ぎていた。食料は一度買い出しにでかけただけだった。どうやら以前から精進していた料理の腕は沖矢はさらに上達しているらしい。哀も彼のアレンジ料理に慣れているせいか、隠れ家の生活は、なんら問題が生まれずにいた。持ち込んでいたミニのカレンダーに次々に印をつけていき…最後の二日を終える頃には、彼女は悲しそうに笑った。

「あと一日ですか」

 寂しそうな背中をそっと抱きしめると、彼女は少しだまりこむ。こういう時の彼女は割と悲観的になりやすいと沖矢は気づいて、彼女の髪にキスをして「どうしました」ときいてみた。

「この生活がもう終わると思うと、少しさみしいわね」

「ええ、そうですね。君が忘れなければ今度は海に行きましょう」

「…海にも隠れ家があるのかしら?」

「ありますよ。通称「ボート小屋」といいます。あ、トップシークレットですから、内緒にしておいてくださいね」

 沖矢はお決まりの内緒のポーズをすると彼女は困ったように微笑む目には少しだけ涙が浮かんでいる。彼女の目もとに軽いキスをしてどうしたのかたずねると

「ねぇ、お願いがあるの」

 震えるような声で彼女は言った。

 それは、赤井秀一ではなく沖矢昴に告げた彼女の最後願いだった。

 

[chapter:4.君が、笑ってくれるなら]

 

 

 それは、彼女が望んだことだった。

 姉の恋人諸星大でもなく、いきなり現れた親戚の赤井秀一でもない、灰原哀をずっとまもってきた沖矢昴として、志保は彼に抱かれたいと言ったのだ。

「灰原哀はね、沖矢昴が好きだったの」

 だから、お願い。灰原哀がいない今、あなたもいなくなってしまう。だから、今日だけでいいの。そう懇願する彼女に…彼女の願いの中に含まれた真実に気づいて、赤井はたじろいだ。罪悪感と血縁の事実を彼女は知っていたのだ。いつ知ったのか、誰から訊いたのか…どう思っていたのか感じていたのか…沖矢の脳裏で思考がめまぐるしく回転する。だがそれ以上に、赤井秀一として宮野志保を愛してはいけないということを改めて思い知らされて、頭を殴られたかのように愕然とした。

 

 忘れもしない、あの日の夜。

 

 彼女が宮野志保にもどったのは、月が冷めた星が輝く夜だった。

 青白い顔と白い肌。息をのむほどに美しい肢体をあらわにして、彼女は灰原哀から宮野志保にもどったのだ。

 山の空気は夏にしてみれば少し肌寒くて、彼女は自分の身体を自分で抱きしめて立っていた。沖矢は自分の上着をかけると彼女は首を振って「いらないわ」と言った。近寄った自分むかって手を伸ばし胸の中に顔を埋める。沖矢は我を忘れて彼女を抱きしめた。

 力をこめて抱きしめた為、彼女が痛いと顔をあげる。沖矢は腕の力を緩めると、彼女の顎にやさしく両手を添えて自分と向かい合わせた。

 深く長いキスを与える。灰原哀としてなんども交わした口づけではなく、身体の全てを使って彼女がほしいと伝えるために、何度も角度を変えながら貪るように奪い舐め味わう。少女の身体にはできなかった荒々しいキスを沖矢は宮野志保に与え彼女は必死になって応えている。背中に手をまわすと彼女もまた沖矢の首に腕をかけ、身体を預けた。頬や耳たぶに唇がふれる頃には彼女の息は絶え絶えになり熱を帯び、それを包み込むようにまた唇を奪う。少し冷たくなった肌も、沖矢の熱を吸い込んでいくように、てのひらから瞼の上に唇を落としたときには彼女の目から涙がうっすらと滲んでいた。

 灰原哀から生まれ変わった彼女を祝福するかのように、彼女の全てを愛した。彼女がいなくなった今、沖矢昴はもう存在しない。けれど、今日だけは…赤井秀一ではなく、沖矢昴として。彼女が許す自分のすべてをささげたのだ。

「あなたがすきよ」

 彼女は言った。

 自分に抱かれながら、何度でも。

 愛していると告げた。

 大切にしたいと言った。

 彼女は涙を浮かべながら、微笑んだ。

 志保、と何度も読んだ記憶。

 彼女の愛していると言った言葉。

 熱に浮かされるように、何度だって答えていた。

 自分だって愛している。ずっと前から愛していた。

 笑ってほしいと、君が笑ってくれるならなんだってすると言いながら、いつわりの姿でしか彼女の愛を受けいれないし、与えられない。

 苦痛ではない。哀しかった。何かに許されたくて、自分たちは祈るように肌を重ねたのだ。

 

 それは、隠れ家にいた最後の夜のこと。

 

 

 そのあとは…

 

 記憶を撒き戻していた赤井は一度思考を一時停止させて煙草をくゆらせた。大人になってから赤井が一番最初に覚えたのは、煙草を吸うことだった。苦味を味わい吐き出すことで、自分の中の苦い苦しい感情を吐露することができるのだ。

 彼女はあのあと、自分一人を置いてこつぜんと消えてしまった。

 いつから準備していたのだろうか。彼女は灰原哀がいた痕跡をのこしていたが、写真など記録できるものは一切残していなかった。少年探偵団のところには、彼女からのメールで灰原哀の写真を処分したのだという。そのメールはウィルスになっていたのだろうか、パソコンやスマホ、携帯のすべてが感染してデータをクラッシュしたのだと、あとから工藤少年は言っていた。

 十年たった今でも彼女が消えた苦しみは赤井の心を鷲掴みにする。

 シーツの冷たさと反響するもの寂しい部屋。彼女痕跡というものは一切なく、数日残っていた彼女を抱いたときの自分の肌の感触すらも、記憶から少しずつ離れていく。記憶の中の彼女は、あの夜のまま鮮やかにいて、時折彼の夢に入り込んでは赤井を苦しめていた。何人も夜を一緒に過ごす女はいたが、彼女ほど自分が欲する女は存在しなかった。そして、いつのまにか十年がすぎたのだ。

 彼女の死亡した報告を見た時、美奈に子供がいたという事実に赤井はがつんと腹部を強打された気持ちになった。彼女を失ったあの日よりも、もっと強い衝撃が赤井の身体を駆け抜けていく。彼女を抱いた見知らぬ男へ荒ぶる感情をぶつける。これは嫉妬だと必死で自分自身を抑えた。それ以上に、彼女が一人で子供を産んで、この自分がいる国の…しかも、目と鼻の場所にいたという事実に叱責の念を自分に向け、そして、事実を知ったのだ。

 

 

「どこまで知っている?」

 赤井秀一は工藤新一をにらみつけてそう言った。新一は微動だにできなかった。殺気を孕んだ視線に射貫かれるのは心地のいいものではない。だが、赤井にとっては触れてほしくない話題だったのだ。昔も今も、新一は真実にたどりつくシナプシスは驚くほど短い。

「そりゃあ気づきます。博士だってわかりましたよ。だって…」新一は自分の視線に応えるように思い口調で告げた。「瞳の色があなたと一緒じゃないですか、あの子」

 きらめく宝石のようなきらめき。それは橄欖石のような高貴さと、海の底で研磨された化石のような深みがつよい妖精の瞳。

「…ああ、知っていたよ」

 赤井はそれだけ言うと、遠くではしゃいでいる少女を見た。彼女が…春川美奈が亡くなった知らせを聞いてから、赤井秀一は足が現実についていない。少女の容貌があまりに彼女と酷似していたせいではない。彼女の娘を見てから、赤井はどうしようもなく自分を責めている。

 

 何故、彼女を失ったのか。

 

 何故、彼女を探さなかったのか。

 

 何故、彼女の意図をくみ取れなかったのか。

 

 禁忌の果実を口にしたイヴは楽園を追われてしまった。アダムとともに。けれど、彼女はひとりきりだ。 

 

 寂しかっただろう。…彼女を探さなかった自分を恨んでいたに違いない。

 心細かっただろう。…不安が彼女の身体と心を蝕んでいなかっだろうか。

 海を渡った広大な国でたった一人だったのだ。…自分は同じ国にいたはずなのに。

 怖かったのではないだろうか。…誰も頼ることができなかったはずだ。

 

 つらかっただろう。

 

 苦しかったろう。

 

 赤井は瞳を一度ぎゅ、と閉じ、噛みしめるようにこういった。

「俺は…あの子に名乗れんよ。その資格がない」

 向かうところ敵なしの伝説の銀の弾丸も、皮をはがせば愛した女に逃げられてばかりの哀れな男だよ、と赤井秀一はつぶやいた。勝手口の扉越しに家の中で天真爛漫に笑う少女から背を向け、そして、新一に向かってまっすぐに。

「俺は志保に…美奈に何もできなかった。赤井秀一は彼女を愛することを許されてはいないのさ」

そして、新一にも背を向けると赤井は出かけてくると言い残して外に出た。

 

 赤井の背中を目で追いかけながら、新一は叫びそうになった。

(それは違いますよ、赤井さん)

 事実をいったところで今の赤井には届かないような気がして、新一はうなだれる。

 宮野志保の死がもたらすであろう真実は、関係者全てを幸せにはできないと新一は思っていた。

同じ境遇を味わった同志であり、良き相棒であり、親友ともいえる灰原哀…もとい宮野志保の死は、彼女を知る関係者全てに深い傷跡を残している。とりわけ、赤井秀一には踏み込んではいけない領域があり、それは、彼女でなかったら踏み込めないものだと悟っている。

 だからこそ、彼女が存命していた頃の情報を欲していた。慎重なはずの彼女が痕跡を消した自分の足跡をふたたびつけるとは思えなかったが、人間どこかにほころびはある。完璧な人間なんていないのだ。とりわけ、人間というのは愛がからむとやっかいな現象を生み出してくれる。

 彼女にとって、何が突然のハプニングだったのか。それは、彼女の子供だ。少女が生まれた事は彼女にとって大きな誤算だったのだろう。だが、マイナスの感情はかなったのは確信できる。灰原哀も宮野志保も意地っ張りな天邪鬼な人物であったのに、少女の親としての春川美奈は…少女から察するにとても素直な感じがみてとれる。

 素直じゃない彼女は、遠回しの方法で彼に伝えたかった言葉はたった一つだろう。求めている答えもたった一つだ。

「オメーが大事に思っていたやつらが、オメーが思っている以上に苦しんでるなんて知ったら、どんな顔するんだろうなぁ…」

 新一は高く澄み渡る空に向かって、ひとりごちた。

[chapter:5.君が、全て]

 

 

 赤井がアメリカに戻るときがきた。ちょうど阿笠夫人も仕事に行くタイミングだったとかで…それなら同じ飛行機を、と夫人の声がかかり、同じ羽田発ダレス行の航空券を手配してくれることになった。当然、夫人はファーストクラスで赤井はビジネスクラスを頼むはずだったのだが…意外な提案で阿笠博士が押しとどめた。

「フサエさんは有名人じゃからのぉ、赤井君が傍にいてくれたほうがワシも嬉しい」

サービスが特級の飛行機で優雅に渡米することも考えたが、経由空港がある国の外交情勢が思わしくないらしく、できれば直行便を選びたいとフサエの希望があった。そしてFBIの銀の弾丸と言われた敏腕SSCがいることもあり、話は赤井の外でまとまって…結局、帰国する飛行機代は夫人を護衛するための経費だと言って阿笠夫妻が負担してくれたのである。

 成田空港に向かう車の中で、阿笠フサエは晴れやかに赤井秀一にむかってこう言った。

「あなたとふたりきりで話すのは、今日が初めてになりますわね」

 上品に微笑んだ彼女に、赤井もまた笑顔で応えてみせる。隣家に滞在している謎めいた男であった自分を、繊細で多感な少女…つまり夫妻の養女…と会わせてもいいとフサエが許したのは、夫・阿笠博士からの信頼と工藤新一からの傾倒にも似た信用であったと思われる。でもそれだけではない。彼女と話すのははじめてなのに、会ったときからフサエは自分に対して好意的だったと赤井は感じていた。

 フサエは、ふたりの共通点である阿笠博士について話はじめた。幼少の頃、数カ月だったがフサエに芽生えた初恋が阿笠だったこと。急な引っ越しをしたこと。十年たってもその初恋が忘れられず、あきらめようとしたが、無理だったこと。そして、四十年の歳月を経てやっと再会したときのこと…フサエは、はにかみながら赤井にのろけていた。自分たちは、運が良かったとフサエは言った。それができたのは、周りの人間のおかげだったと思っている。背中を押してくれた自分の義理の弟、博士の小さな友人たち…。フサエは皆に感謝してやまないことを語っていた。そして、そんなフサエのおしゃべりは、空港までの渋滞を縫って走る車の退屈な時間を忘れさせてくれるほどもので…年甲斐もなく喋りすぎてしまったと恥じた彼女を、赤井はそれまでのフサエに対する「上品で美人」という評価に加え、人が良い阿笠博士によくお似合いの「可憐な女性」を付け加えた。

 

 搭乗手続きを終えて、ラウンジで時間待ちをしているときの事。赤井は口にするドリンクをコーヒー一択に絞った。休暇をとりプライベートで日本に来ているのだが、フサエの護衛を頼まれたのも事実であったから、ここでは上等なドリンクを選ぶことはできなかった。少し残念にも思えたが、現実なんてそんなものだろう。赤井は少し濃い目のコーヒーを口にしながらフサエを見た。電話で取引先とビジネスを進めているのだろう。おっとりとした普段からは考えられないような厳しい単語が飛び交っている。しばらくすると自分の座っているソファの前に座り、ルイボスティを飲みながらこう言った。

「ミスター赤井。あなたは先日亡くなった私の友人、春川美奈とお知り合いだったと主人から聞きましたが、どうして葬儀にはいらっしゃらなかったの?」

 ごく自然に発せられた質問に息を呑む。身体中が何かの糸で縛られるように、手も足も呼吸ですら赤井の動きを止めた言葉だった。

「彼女の葬儀はあまりにも寂しくて、美奈を知る人間は私と子供と大学の関係者だけ。埋葬は神父様を含め五人だった。あなたは…」

「すまないが、ミセス阿笠。俺は彼女の昔を知っているだけの男で、家族でも恋人でもない。彼女が亡くなったのを知ったのは、ずっと後の事でしたよ。彼女が日本からアメリカにわたっていたことも知らなかったんです」

そういうと、赤井はフサエの顔を見ずに一気にコーヒーを飲み干した。

 ふたりの間に沈黙だけが流れている。その中で、フサエは姿勢を正しながら赤井をみつめていた。死地を幾度も経験した男の静かな怒りに触れてもなお、赤井秀一をまっすぐ見つめている夫人は、使命に満ちた天使のように目が輝き、息をひそめ、身体に力を入れ、唇を引き結んでいる。やがて、飛行機に乗り込む時間がきて、ふたりは立ち上がってラウンジからゲートに向かうまでの比較的長い距離を歩き始めた。

赤井は先ほど言った自分の言葉を反芻していた。

家族でもなければ、恋人でもない…それはこの十年赤井自身がずっと言い聞かせていた言葉だった。彼女の娘は灰原哀に生き写しで、赤井の中で凍結された悲しみが溶けて自分の心を蝕んでいく。口の中に残る濃い目のブラックコーヒーがひときわ苦く感じていた。

 フサエは赤井の前を姿勢よく歩いている。その後ろ姿を見ながら、赤井は夫人が言った言葉も反芻した。ただ純粋に友人の為に自分へあの言葉を告げたであろうに…大人気ないことをしてしまったと後悔する。それと同時に、何故あの言葉が自分の感情に触れたのかを考えた。フサエの良識は赤井に向かって正義をふるわれているように感じたのだ。真実も正義も必ずしも人の道徳を目覚めさせるとは限らない。春川美奈の死に対しての葬儀の暗い「怒り」の気持ちがフサエに蘇ってきたであろうし、残された少女の痛々しい姿も…いまでは考えられないが…あったのだろう。そういう自分だって、彼女の死に対してあらゆる可能性を考えて「否認」している。彼女を知る自分たちは、いまだに彼女の死に対して「容認」していないのかもしれない。

赤井はゲートに並んでいたフサエに向かって、立ち止まって頭を下げた。

 

 二人はまもなく機内に入り、前方にある座席に向かった。そして二人がそれぞれにコンパートメントシートの前に立った時、フサエは赤井を呼び止めて謝罪をした。

「あの、先ほどはごめんなさい。離陸するまで少し時間があるでしょう。暇つぶしに、これでも読んでくれないかしら」

 夫人がバッグの中からとりだしたのは厚みが感じられた手紙だった。赤井がそれを受け取るとフサエは何か自分にいいたげに口を開いたが、閉じて微笑む。「それでは、あとで」そう言って優雅にシートに入ってしまった。赤井は宛名も宛先も書いていない手紙をしばらくみていたが、それをジャケットの内ポケットにしまうと自分の個室に入った。そして身の回りの必要なものだけを出してエグゼクテブなシートに身体を預けて力を抜くと、ウェルカムドリンクに口を付けようとして苦笑した。さきほどラウンジで酒を飲まなかった為フサエに注意されてしまったのを思い出す。赤井はこのシートを手配してくれた夫人に感謝しつつ、うぇるかむどりんく上等のシャンパンを口に含んだ。

 飛行機が離陸準備に入ってから、赤井はフサエに渡された手紙を取り出してテーブルに置いた。中身を取り出すと、それは数枚につづられた原稿用紙で、春川美奈の娘が書いた作文だった。数日前、工藤家で蘭に呼んでいたあの作文である。原稿用紙に一文字一文字を丁寧に書き込んでいるのは少女の性格であろう。そういえば少女はアメリカ生まれであったのに英語も日本語も巧みだったのだと工藤新一が言っていたのを思い出す。母親であった彼女は日本語をどのように教えていたのだろうか…赤井は脳裏に遥か昔に見た宮野明美と志保が語り合っている風景を思い出して眼を閉じると、再び開いてその作文に目を走らせはじめた。

 

 

 飛行機が安定した状態に入るとしばらくしてコンパートメントの壁からノックがした。作文を読み終わってからどれくらい時間がたっていたのだろうか。どうやらもうすぐディナーの時間になるとフサエが言っていた。原稿用紙を丁寧に折りたたんで封筒に入れると、礼を言いながら手渡して立ち上がる。それを静かに押しとどめながら静かにフサエは言った。

「何故あの子に自分が実の父親だと言わなかったのですか?」

はっとしてフサエを見る。続く赤井の脳裏に浮かぶ数々の疑問に答えるように、阿笠フサエは美しく微笑んだ。「すぐにわかりました」そう言うと手にしたバッグを開いて小さな赤いサシェを取り出した。

「美奈はあなたの事を時々言っていましたから」

 サシェの中からラップにくるんだ小さな紙を取り出し広げる。紙は一目で古い新聞の切り抜きだとわかった。数枚の現場写真が写っている記事を見て、赤井は退役軍人が連続殺人犯となり世間を恐怖に震わせた一昔前の事件を思い出した。犯人は重度のPTSDを発症しており周囲に及ぶ危険度がとても高く捕獲逮捕ができずに射殺の結末を迎えたセンセーショナルな事件であった。しばらくメディアを騒がせていたものだったと昨日のことのように思い浮かべる。フサエは記事をぼんやりとみていた赤井の目の前で美しい指を動かし視線を誘導すると「ここ、これは、あなたでしょう?」とそう言った。フサエが指さした一点のそこには、九年前に帰国し現場復帰して間もない赤井秀一の姿が映っていた。

「このサシェは、美奈のおまもりでした」

 赤井に微笑みながらフサエは記事を小さくたたんでいく。掌よりも小さくなった紙を再びラップに包んでサシェに入れると、フサエはそれを赤井の掌に載せた。よく見るとサシェの開き口のところはほつれているし、古びた生地で毛羽立っているところもあり、何度も縫い直ししているところがあった。ぎゅと掌に閉じ込める。

 自分だけだったのだ、と赤井は悟った。

 彼女の死を容認することができなかったのは自分だけだったのだ。今、彼女の祈りに触れて、やっとわかる。

(君が全ての罪を背負ってしまったんだな)

 赤井は宮野志保をずっと守っていくつもりだった。過去も罪悪も後悔も愛情も。すべての罪を分かち合うことをしたかった。けれど、彼女はそれをさせなかったのだ。その事実に、赤井の中で悲しみと絶望と悦びの愛しさが混じり合って溶けていく。

 フサエは赤井がサシェを握る手をそっと自分の手を重ねて言った。

「これはあなたがもっていてください。美奈がずっと抱いていた思いを全て、どうかあなたに感じてほしい。そして、こんど日本に戻ってきたときには、我が家を訪ねてきてください。わたしたちはあなたを心から歓迎しますわ」

 肩に暖かいぬくもりを残して、フサエは赤井の傍をはなれた。

 言葉にならないものが喉の奥から胸に何度も流れてはあふれてくる。

 赤井はそれを止めるすべを持たなかった。だが、眼の端に時折差し込む太陽の光につられて窓の外を眺めると、小さな窓の中にみえた天上の世界に魅入られた。

 

 果てしない空と広がる雲。

 幾度となく見慣れた光景であったはずなのに、今日のこのときほど、ひときわ美しく思える風景は赤井が見たことがなかった。

 

 

 

 

「かぞくのこと。

 

 お父さんの名前は、あがさひろし。お母さんの名前は、あがさふさえ。お父さんは、はつめい家。お母さんはデザイナー。お父さんとお母さんは、じゅくねんのしんこんふうふだってとなりの家のおじさんはいいます。ハツコイがみのったマリッジカップルだといいました。わたしは、ハツコイはよくわからないけれど、二人はなかがよくていつもたのしそうです。

 お父さんは、おヒゲが白くて頭のてっぺんのかみの毛はないです。おなかも大きくて、メタボです。とっても心ぱいです。お母さんの手作りりょうりをおいしそうにたべていますが、おやつはわたしといっしょにたべてはいけないらしいです。ちょっとかわいそうですが、けんこうのためだとお母さんがいっていました。わたしもお母さんといっしょに、すこしでもお父さんのメタボをなおしてあげたいとおもいます。

 お母さんは、せが高くてとてもきれいです。アメリカ人と日本人のハーフで、私よりも明るい金色のかみの毛です。おしごとは、カバンとかアクセサリーとかそのほかいっぱい物をつくるおしごとをしています。とてもいそがしくて、ときどきにしか家にいませんが、家にかえってくると、わたしを一ばん先にぎゅーっとしてくれます。そしていっしょに歌をうたってくれたり、たくさんあそんでくれます。

 いいわすれましたが、わたしは二人のようし子です。

 わたしはことしの夏、二人の子どもになりました。

 わたしのほんとうのママは、はるかわみな。天国にいます。わたしはママの小さいころにそっくりだと、みんないいます。ほんとうのパパは日本人で、わたしがうまれたときからいません。わたしの目の色はパパとおなじだとママがいっていました。パパはママをまもるおしごとをしていて、パパはとても強かったそうです。ママはそんなパパがハツコイだったとおしえてくれました。パパはママよりずっと年上といっていたから、お父さんとおなじ年だとおもいます。天国にいるママはパパにあえるといいな。ママは夜になるとときどきお星さまをよくながめていました。パパはお星さまの名まえだったそうです。日本では天国にいる人はお星さまになるとききました。ママはお星さまになってパパにあえたら、とてもすてきだと思います。

 わたしはかわいそうな子だといわれますが、かわいそうじゃありません。

 かわいそうとさびしいはいっしょのいみだとママがいいました。ママはわたしがうまれたから、さびしくなかったんだっていいました。わたしはママがいてしあわせでした。ママがいなくなってからさびしかったけれど、今はさびしくありません。お父さんもお母さんも大好きだし、やさしい人です。となりのおばさんもおじさんも好き。わたしはみんなが大好きです!

 もし、天国にいるママへでんわがかけられるのなら、言いたいことがふたつあります。

 ひとつは、ママはもういないけれど、わたしには大好きな人たちがたくさんいて、さびしくないってこと。

 もうひとつは、ママはむかしからときどきなき虫になるから、わたしはこれからもお空にむかって歌ってあげるってことです。

 

 わたしはお母さんとよく歌を歌います。となりの家のおばさんもうたってくれます。ママはオキノヨーコの歌がすきでした。ダンデライオンって歌がとくに好きでした。

 だからわたしは、これからもママのために、たくさんの歌をうたってあげようとおもいます。ママの耳にとどくように、どうかパパがなき虫なママを迎えにいってくれますように。

 そして、ママはいつかお星さまになって、パパとふたりでわたしを見ていてね。

 

 あがさ あい」

 


 
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