No.970393

花の声を聞く

麦原穣さん

創作小説

虐待で幼馴染を亡くした少年の話

2018-10-15 11:39:06 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:371   閲覧ユーザー数:371

 

 

 小学生の頃、通学路に咲いていた花を思い出す。

 真っ白なラッパ型の花弁が目線の上方から一斉に垂れ下がるダチュラの花だ。

 細長く尖った花弁の先端や、他の草花より際立った筋を持つこの花が[[rb:秀 > ひいず]]は少々苦手だった。

「見て見て秀、この花いい匂いがする」

 ある日の帰り道、その花の存在に気付いた少女は民家の前で立ち止まって嬉しそうに花に顔を寄せた。

「ダチュラだな。エンジェルトランペットとも言うんだって」

「へぇー可愛い名前だね」

 エへへと笑って少女が、がくの付け根に手を伸ばすと同時にパカーン!と景気の良い音が周りに響き渡り、電線に羽を休めていた鳩が二羽、音に驚き飛び去っていく。

 そのエコーが一通り終わった後、じんじんと痛む頭を抱えていた少女は猛然と立ち上がり、赤いランドセルを頭上に振りかざした。

「なにすんのよバカ秀!」

 秀は次々と迫り来るその攻撃をするするとかわし、

「この花には毒があるんだって、母さんが言ってた。だから触っちゃいけないんだって」

 仏頂面で言ってのけた。

 少女はぴたりと手を止め、

「……そうなの?」

「俺が嘘ついたことあるか?」

「……ない」

 一瞬だけ泣きそうな顔になり、白い花に目を遣った。

「可愛い名前なのにな」

 

 ダチュラが咲き始めた初夏の、一週間もすればあっさりと忘れてしまえる日常の会話だった。

 

 思い出すきっかけさえなかったら。

 

     1

 

 八年の歳月が過ぎて、秀は高校生になっていた。

 高校は一週間後の文化祭に向けての本格的な準備期間に入っており、そわそわと浮足立った雰囲気を見せている。

 秀にとっては高校生活最後の文化祭だが、今日だけは放課後の準備を抜けるつもりでいた。

 クラスでの展示物の制作が予定より遅れていたため、学級委員である女生徒にすこぶる嫌な顔をされたが正直な理由を話す気には到底なれなかった。言いよどんでいると、小学校からの腐れ縁である友人が差し障りのない言い訳をしてくれた。彼は秀をグイグイと廊下に押し出し、肩を組んできてこっそりと、

「秀さぁ、ああいうのは歯医者に行くとかテキトーに言っとけばいいんだよ」

「悪い」

「あと委員長は絶対おまえに気がある」

「そうか?」

「明日の昼飯カツ丼な」

 ニヤリと笑い、続けて、

「行って来いよ、墓参り」

 そう言って秀の背中を押した。

 

 高校生活は楽しかった。

 中学校までとは違ってCDやマンガを持ち込んでも怒られないし(もちろん授業中でなければ)、購買部で売っている例のカツ丼は美味しいし、気の合う友達も増えた。

 ただ。

 今でも事あるごとに思う。

 ――[[rb:鈴舟 > すずぶね]]いさらがここにいたら、と。

 きっと今時の普通の女子高生になっていたはずだ。放課後には友達と買い物をしたり、ひょっとしたら彼氏だっていたかも知れない。思春期を迎えてだんだん言葉を交わすこともなくなり、今頃はお互いが幼なじみだったことさえ忘れて、それぞれの青春を謳歌していただろう。

 八年前にいさらが殺されてさえいなければ。

 死は強烈な印象を人に与える。生きている姿を間近で見ている人間には尚更だ。だから秀は忘れない。

 いさらが近所に住んでいた幼稚園の頃からのケンカ友達だったことも、小学三年生の時に両親が離婚して母親と二人で暮らしていたことも。

 いさらを殺したあの人のことも。

 

 いさらの墓は、家の最寄り駅から電車で二十分とそこから徒歩十分の所にある寺の墓地にあった。

 電車を降りると小さなロータリーがあり、客待ちのタクシーが数台停まっている。駅前の小さな花屋で花を買い、古い商店や住宅が並ぶ道を歩きながら去年の墓参りの時は雨が降っていたことを思い出した。一年前の秋の雨は冷たかったが、今日は落ちる夕日と共にあっという間に冷えてしまうであろうはかない暖かさを孕んだ晴天だ。

 八年前のあの日の記憶が、スクリーンに映し出す映写機のフィルムのようにゆっくり、静かに、動き出す。

 

     2

 

 いさらという少女はとにかくやかましい奴だった。

 給食のおかずを横取りしたとか、ドッジボールでわざと狙ったとか、子供ならではの些細な理由で取っ組み合いのケンカになり、二人して先生や秀の母に叱られることは日常茶飯事であった。

 友達も多く、学校に行くのが大好きで、三十九度の熱があってもふらふらと起き上がりランドセルを背負おうとして母親に必死で諭されたという話も聞いた。要するに、小学生の元気な女の子だったのである。

 そんないさらの両親が離婚した。

 詳しい事情は分からないが父親が借金を抱えており、一戸建ての家と土地を担保に取られたらしい。いさらの母親は智也子と言う名で、彼女は離婚後、同じ学区内にある賃貸アパートへいさらと共に引っ越した。

 専業主婦だった智也子は掛け持ちでパート勤めを始め、朝から晩まで帰らない日が毎日のように続いた。

 母を待ついさらを不憫に思った秀の母マサエがいさらを家に呼んで一緒に夜の食卓を囲むこともあり、その時のいさらは本当に楽しそうに出された手料理を食べていた。

 ただ一度だけ食事の最中に泣き出したことがある。

 マサエも、秀の父も戸惑った。

 マサエがいさらの肩をそっと抱き寄せ理由を尋ねると、いさらは一言、

「お父さんに会いたい……」

 ぽつりと言った。

 いさらの父はどこか他の町に行ったのだという。

 

 四年生になるといさらの様子がだんだん変わり始めた。

 着ている服は常にうっすらと汚れ、給食や秀の家での食事をガツガツと貪り、目に見えて痩せ細ってきたのである。風呂にもほとんど入っていないようだった。

 担任の男性教師が異変に気付いて智也子の勤務先にまで連絡をとったものの、他人の家庭に干渉するのかとまくし立てられて取りつく島もなく、結局幼なじみの秀の母親であるマサエに相談が来た。

 その日秀が帰宅したとき、マサエは智也子に電話をかけていた。

 リビングに差す西日がまぶしかったのを未だに覚えている。電話口の向こうで智也子が怒鳴っているようで、それに応えるマサエの声も緊迫していた。

「いさらちゃんの世話をしてないんじゃないかって、日下部先生からも連絡合ったでしょう?今どこに」

「仕事ですよ!」

「っ……」

「どこへ行ってもすぐクビになって、家賃も光熱費も払えない――あなたみたいな恵まれた人になにがわかるの?」

 通話が途切れ、マサエは深く息を吐いた。

「……秀、いさらちゃんの家に行こう」

 

 鈴舟母娘は木造アパートの二階に住んでいた。人の気配があったが、呼び鈴を鳴らしても玄関は開かなかった。

 秀はドアを叩き、

「いるんだろ?出てこいよ。うちで一緒に飯食おうぜ!」

 気配が動き、ドアにもたれるようにしていさらが顔を出した。

「……いい」

「はぁ?」

 こんなにやつれていながら意地を張る幼馴染に、秀は無性に腹が立ってしまった。

「秀もおばさんも……来てくれてありがとう。でも私お風呂は入れてないから臭いし、今日は……お母さんが作ってくれた……カレーもあるし……」

 下を向いたままそう言ういさらの声は震えていた。

 そんなの嘘だと思った。

「カレーかぁ」

 食ってかかろうとした秀を、横にいたマサエは手で遮り、

「カレーもいいけど今夜はうちで鍋なんてどうかしら?」

 ふわりと笑いかけた。

「……食べたい」

 いさらのまるい瞳から大粒の涙がこぼれた。

 

 この日の夕食はたっぷりの野菜と豚肉を煮込んだごま豆乳鍋だった。

 その準備の間にいさらは風呂を使い、だいぶさっぱりとしたみたいだった。

 この晩いさらは秀の家に泊まり、翌日にはマサエと一緒に児童相談所へ行くことになった。

 秀が慣れない鼻歌を口ずさみながら風呂に浸かった後、軽やかな足取りで居間に向かうと来客を知らせるチャイムが鳴った。

 こんな時間に誰が、と思いながら玄関の引き戸を開けると、そこに立っていたのは薄っぺらいグレーのTシャツに、紺色のキュロットスカートをはいた長身痩躯の女性——智也子だった。彼女はいさらと似た瞳の端を強張らせ、伸び切った前髪の隙間から秀を見下ろした。

「…いさらは…?」

 ほてっていたはずの背中にざわざわと鳥肌が立っていくのを感じた。

 中秋の夜気を背負い智也子は微動だにしない。青白い顔の上を後れ毛がなびく。

 秀はぎゅっと目をつぶり、すぐさま戸を閉めて居間へと走り出した。その音を聞きつけてマサエといさらが現れる。

 背後から勢い良く戸が開く音と、

「いさらを返して!」

 と言う智也子の叫びが響いた。

 廊下の奥にいさらの姿を認めると智也子はよろよろと両腕を伸ばし、消え入りそうに震える声で娘の名を呼んだ。

 間に立ちはだかろうとする秀をマサエがそっと押し止める。

「いさらは私の娘です…私が育てます…だから」

 智也子はがくりと膝を折り両手で顔を覆った。

「いさらを返して…」

 マサエの後ろに隠れていたいさらが、その声に呼応するように自分の母へと歩み寄っていく。

 いさらが一歩を踏み出すたびに、床板がきしりと鳴った。智也子の前で音が止む。

 自分の許に戻って来た小さな我が子を、智也子は静かに抱き締めた。

「鈴舟さん、信じてもいいですか?」

 マサエが言う。

「…はい」

 智也子は確かに頷いた。

「もうこの子を、一人にはしません——」

 いさらは母の胸に抱きつき、顔をうずめて泣いていた。

 

     3

 

 幼なじみの死を秀に告げたのはマサエだった。

 智也子はいさらを連れ帰った後、母子心中を図ったのだという。先にいさらを手にかけたものの智也子だけは死に切れず、娘の遺体を前に座り込んでいるところを発見された。第一発見者は、いさらの無断欠席を不審に思い昼休みに訪ねて来た担任教諭だったそうだ。

 そういえば午後の授業はずっと自習だった。だがその理由も、いさらが今日なぜ学校に来なかったのかも、秀はこの時まで考えてなどいなかった。

 智也子がいさらの許に戻って来たから。

 私が育てると智也子が言ったから。

 いさらが以前の生活を、ようやく取り戻したと思っていたから。

 なのに。

 いさらは死んだ。

 その言葉だけが頭の中を支配する。

 死体を見てもいないのに。

 いさらは昨日まで、動いて喋って笑っていたのに。

 死ぬって一体どういうことだ?

 いさらはきっと泣いていた。

 生きる最後の——最期まで。

 マサエは立ちすくむ秀を抱き寄せ、声を押し殺して泣いた。頭の中が綿でも詰まっているかのようにふわふわと軽くなり、何も考えることが出来なくなった。

 それから数日間、秀は熱を出して寝込んだ。吐き気がして何も口に出来ず、二日で四キロも痩せた。マサエも体調を崩していたが、警察の事情聴取を何度か受けたようだった。

 

 三日振りに行く小学校は何となくいつもと違って見えた。

 まだ秋だというのに昇降口の白い壁や床はあまりに冷たく、教室の前を通れば児童達のさざめくような気配だけがして、日の当たらない廊下の向こうからいるはずのない誰かが歩いて来そうな寒々しさが秀を襲った。

 教室のドアを開けると、クラスメートの視線が一斉に秀に集まった。

「[[rb:建部 > たけべ]]くん!」

 そう言って駆け寄って来たのは、いさらと一番仲の良かった[[rb:澪 > みお]]という女の子だ。

 秀の前まで来た澪の表情が、一瞬凍った。急激に痩せた秀の様子に戸惑ったらしい。

 澪が面を下に向けると長いストレートヘアがさらりと流れ落ちた。小さな声を振り絞るように彼女は言った。

「いさらちゃん、ホントに死んじゃったの…?」

 ——もう、校内の誰もが知っている。夢でも幻でもない事実。

 返事をしようにも、声が出ない。

「校長先生は事故だったって言うけど」

 ——事故だって?

「ホントは…」

 澪の言葉は、担任教師日下部の到着によって遮られた。

 日下部は大きな手のひらで秀の頭をポンと叩き、

「大丈夫か?無理しなくていいぞ」

 すたすたと教壇に上がっていった。

 この、いさらの死の第一発見者はいつも通り張りのある声ではあるが、やはり幾らかやつれているようだ。

 朝の会も授業中も、教室の空気は澱のように沈み切っていた。

 一時間目の休み時間に秀は職員室に呼び出され、一角の応接スペースで日下部と向かい合った。

「今回の件は君もショックだっただろう」

 秀は背中を丸め、テーブルクロスのレース模様をぼんやりと眺める。

「体調はどうだい?」

「食欲が…まだありません」

「そうか…」

 日下部はすっと深く息を吸い、

「一昨日緊急で全校集会と保護者会を開いてね、鈴舟さんのことを報告したんだが…君はあの子がなぜ死んだのか、知ってるかい?」

「…母子心中で…」

 秀は顔も上げずにぼそりと言った。

 日下部は今度は大きく息を吐き、

「そうか、知ってたか…辛いだろうね。僕も現場を見つけた時は正直…いや、君に話すべきことじゃないな」

 そう言って顔をしかめ手で口元を押さえた。

「実は児童には鈴舟さんは事故で亡くなったと説明してあるんだ。だから建部くんには、本当のことは黙っていて欲しい」

 思いもよらぬ担任の提案に、秀はゆっくりと顔を上げた。

「なんでですか」

「子供が親に殺されたなんて聞いたら、大人不信になる子がいるかも知れないだろう?君達はまだ小学生だからね、大人に頼らないと生きていけない。真実を知っている君は辛いだろうが…保護者の方々にもそれは説明してあるよ」

 日下部はそこまで言うと、壁時計を見て立ち上がった。

「じゃあよろしくね。体調が優れない時はすぐに言うんだよ」

 

 今さらだ。

 もう、とっくに気付いている。

 少なくともいさらのクラスメート達は。

 澪はこう言いかけたのだ。

「ホントは…お母さんに殺されたんでしょう?」

 

     4

 

 目的地はもう目の前に会った。

  宝照寺。いさらが眠る寺だ。

 ブロック塀で囲まれた境内はさして広くもなく、ただ所々で樹木が鬱蒼とその枝を張り巡らしている。

 勝手知ったる秀は寺務所で線香を買い、水道の横に置かれた桶に花束と水を入れ、本堂の裏へと回った。薄暗い木々の下に墓石がひしめくように並んでおり、いさらの墓は墓地の入口から三番目にあった。

 秀は枯れ果てた花と交換に、新しい花を活け、線香に火を点した。

 一周忌に来た時は供花らしく菊の花を供えたが、いさらには似合わない気がして、以降はその時に気が向いた花を適当に合わせて買うことにしている。今年はカスミ草と姫ヒマワリにした。

 灰色の墓標に煙が揺らめいて、鮮やかな黄色が映える。

 太陽が傾き始め、かりそめの小春日を追い出そうとする。

 秀は墓誌に刻まれたいさらの名前と戒名を見遣り、十年間だけ生きた命にそっと手を合わせた。

 

     5

 

 事件から一ヶ月を経て、校内はようやく落ち着きを取り戻していった。

 しかし秀のクラスだけはやはり、各々の心の片隅に晴れぬものを抱えているのもまた事実で、いさらが使っていた机にはいつしか花や手紙や折り鶴が手向けられるようになった。

 そして、噂が校内に流れ始めたのもこの頃からである。

 曰く。

「鈴舟いさらが世に未練を残し校内を彷徨っている」

 目撃例があった。

 肩までの髪を左右に結んだ女の子が四年生の教室の窓から体育の授業を眺めていたとか、誰もいない放課後の廊下で少女の泣き声がした、とか。

 秀からしてみれば鬱陶しいことこの上ない現象だった。

 表向きはいさらは事故死したことになっているから、彼女と関係のなかった大半の児童にとって、その衝撃は秀が受けた半分にだって満たない。学級新聞の取材等と言ってやって来た無神経な連中と口論になり、打ち負かして退散させることも度々あった。

 目撃されたという幽霊少女の背格好は確かにいさらと似ているようだが、その程度の噂なら作り話の可能性は高いと思う。秀は昔から幽霊なんか信じていなかったし、なによりもう、いさらに関する記憶には触れたくなかった。

 秀やマサエの努力も虚しく、またそれ以上に辛い悲しい思いをして報われなかったいさらが、死して尚この学校の中で生かされているようで遣り切れなくなるのだ。

 秀のクラスでは一ヶ月以上に亘りまるで禁忌のように、いさらの話が語られることはなかった。

 ところが。

 国語の授業中での出来事だった。

 日下部が挙手した児童を指名して、物語の段落ごとに一人ずつ音読させていた。そうして最後の一人が読み終えた時、女の子の泣き声が聞こえ始めたのである。

 教室内がざわめき出し、授業は中断された。

 声の主は澪だった。

 日下部が一生懸命宥めすかし、その理由を尋ねると、

「い…いさらちゃんが…」

 澪は供物がたくさん置かれたいさらの机を指差してしゃくり上げ、

「手ェ上げてたの…先生には見えなかったんですか…?」

 全員がいさらの机の方を見て、誰一人言葉を発する者はいなかった。

「いい加減にしろよ!」

 秀は机を思い切り叩いて立ち上がり、

「どいつもこいつも…いる訳ないだろ?あいつはもう死んだんだ、ユーレーなんかいる訳ない!」

 言い終わると同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 休み時間になっても澪は泣き止まなかった。

 

 その翌日から秀の周りで奇妙なことが起こり始めた。ロッカーに入れておいた縦笛が移動教室から帰って来ると机の上に置いてあったり、最後列の席なのに授業中に背中を小突かれるような感覚があったり。

 気のせいにしてはおかしなことが多過ぎる。

 いさらの仕業なのだろうか。

 澪は本当に、いさらを見たのだろうか…

 澪に謝ろうと思った。友達を亡くして傷付いたのは彼女も同じなのだ。

「気にしないでいいよ。イライラしちゃうのは良く分かるから」

 昼休みの昇降口で澪は言った。

 十一月、日当たりの良い昇降口は暖かだ。二人は校庭へ降りる低い階段に腰掛けた。

「あれ以来見てないけどね。いさらちゃんあの時すっごく寂しそうだったの。ほら、あの子、真っ先に手挙げる方だったでしょ?なのに最後まで気付いてもらえなくて…可哀想だよ」

 澪がぎゅっと膝を抱えると、流れた髪の毛で顔が隠れた。

「ねえ建部くん」

 そっと髪をかき上げて秀を見る。

「いさらちゃんはどうして——殺されなきゃいけなかったの?」

 枯れ落ちた桜の葉が風に押されてかさりと動いた。澪は再び俯く。

「あんなにガリガリに痩せて、ご飯もろくに食べさせてもらえなくて。いさらちゃんは生きてちゃいけなかったの?」

 膝で顔を隠した澪の声は微かに震えていたが、言葉が進むにつれて語調が強くなる。

「それに先生もなんで嘘つくの?事故って…私達が知ってて都合の悪いことでもあるの?お母さん達は皆知ってるのに。もう分かんない、何にも信じられないよ!」

 通り過ぎる児童達が、こちらを見ては足早に去っていく。

 秀はぽつりと言った。

「大人って勝手だよな」

 小春日の下ではしゃぐ子供達の中に一瞬だけ、いさらを見かけたような気がした。

 

 朱い西日が教室の窓から差し込んでいる。

 下校時刻はとうに過ぎ、校舎内に人の気配はない。秀は一人その教室の中にいた。

 いさらの机には供物に混じって給食のパンのかけらや飲み残しの牛乳も置かれており、異臭を放ちかけていたそれらをゴミ箱に捨てた。そうしてできたスペースに、秀はそっと持って来たものを置いた。

 ふと思い出したのだ。

 下校途中の何気ない会話と、通学路に咲いていた、真っ白なダチュラの花のことを。

 二リットルのペットボトルに、家の庭で一輪だけ咲き残っていたダチュラを挿した。花の甘やかな芳香が夕間暮の教室にふわりと広がった。

 いさらは喜ぶだろうか。

 …体がないならこの香りを嗅ぎ取ることはできないかもしれない。

 秀はペットボトルを取り上げ机に背を向けた。同時に、背後でがたりと音が響いた。

 振り返り見ると、きちんと収まっていたいさらの席の椅子の位置が明らかにずれている。

「…いさら?」

 返事はない。

 秀はそのまま廊下にある流しへと向かった。ペットボトルの水をシンクに流し、やけくそのように振って水を切ると秀は早足で歩き出した。

 教室は次第に遠ざかる。

 ただ、意識だけがあの教室のなにかに捕われていた。

 いさらがあそこに、いたとしたら。

 いさらがあそこで、泣いていたら。

 あいつをまた独りぼっちにするのか?

 花も供えてやれない自分が、今さらあいつに何をしてやれるというのだ…

 秀の足が、ぴたりと止まった。

 背後に、人がいるのを感じた。

 深く息を吸う。

 ゆっくり静かに振り返るとそこには——薄暗い廊下で、ぼんやりと淡い光をまとい、痩せ細った少女がいた。

 

 いさらだ。

 

 泣き腫らした大きな瞳が秀を睨み付ける。

 時と、息と、胸の鼓動が、長い刹那停止した。

「バカ秀!なんで気付かないんだよっ」

 いさらは怒鳴ってぶうっと頬を膨らませた。

 氷のような緊張感は一瞬にして解凍した。

 棒のように立ち尽くし全く動きを見せない秀に、目の前の幽霊は「プッ」と噴き出し、腹を抱えて笑い転げた。

「ザマァ見ろ、この前秀、ユーレーなんかいないとか言ってたでしょ。いるんだから、こうして…」

 言葉の最後が湿り気を帯びていく。

「寂しくて…」

「いさら——」

 秀は一歩、いさらに近付いた。

「ごめんな、俺…」

 何一ついさらの力になれなかった——

 いさらは首を振った。

「秀ん家でご飯食べてる時、すごく楽しかったよ。おばさんが真剣に私のこと考えてくれてたのも嬉しかったし」

 でも結局おまえは死んじゃったじゃないか——

「だからホントは生きていたかったけど」

 当然だ。十歳の女の子が、死にたいなんて思う訳が——

「秀?」

 秀の目には、いつの間にか涙が溢れていた。

 秀が慌てて目の水分を袖でこするといさらの表情がふと翳り、

「ごめんね…私が死んだせいで、秀達にはいっぱい辛い思いさせたみたい…」

「違う!」

 秀の怒鳴り声が廊下中に木霊し、いさらの肩を掴もうとした秀の手が透けた虚像の中を泳いだ。

 秀はその手を引き戻して強く握り締め、

「…おまえは何にも悪くないだろ。悪いのは、勝手におまえを道連れにしようとした——」

 言い終わる前に、いさらがぱっと耳を塞いだ。輪郭だけの白い体が小刻みに震える。

「怖かった…」

「いさら?」

「怖かった…すごく。あの時、お母さん…」

「いさら!」

 秀は言ってしまったことを後悔した。

 実の母親に殺される瞬間——それはいさらにとって、最も恐ろしい記憶のはずなのに。

「お願い秀、聞いて…?」

 いさらは震えながら秀に、痛々しい視線を送る。

「あたし一人じゃ耐えられない」

 俺だってそんな話、聞きたくない。

 こんなに怯えるいさらを見ていたくない。

 今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。

 一歩足を引いた時、供えられなかったダチュラが打ち捨てられたように横たわっているのに気が付いた。いさらが口を開く。

 もう逃げる訳にはいかなかった。

「あの日、秀ん家から帰った後、お母さん言ったの。“パート、クビになっちゃった”って。あの人、いつも臆病で何にも自信なくて、“もう働きたくない生きていたくない”って言って。“あんたを育てるためになんでこんな思いしなきゃならないの?”って言いながら、あたしの首絞めたの。心も体も、すごく痛かった——」

 吐き気が込み上げて来た。

 あまりに理不尽で一方的な死の宣告を、少女は受けたのだ。その人の子供であり、その人に育てられていたが故に。

「でもお母さんは死ねなかったの。やっぱり死ぬのも怖いんだって。じゃああたし、どうして死ななきゃいけなかったの…?」

 大人は勝手だ。

 大人は子供のすべてを掌握し、守り切れるものだと思っている。智也子や日下部がそうだ。

 彼等は子供を守り切れてなんか、ない。

 秀は胃液をぎゅっと飲み込み、まっすぐにいさらを見た。

「いさら、もうジョーブツしろよ。いつまでもバカな母親のことで悩んでたって、苦しいだけだろ?」

「でも…」

「こんなところにいたってどうにもなんねぇじゃん」

「いつか皆、あたしのこと忘れちゃう…」

「大丈夫だ、俺は一生忘れない。お袋だって澪だって、きっと忘れたりしねえよ」

「…本当に?」

 いさらがぐすりと鼻を鳴らした。

 秀は一際大きく息を吸い、腕を組んで言った。

「俺が嘘ついたことあるか?」

 いさらが嬉しそうに、

「ない、ね」

 懐かしい顔で笑った。

 

 いさらの幽霊の噂が囁かれることは、もうなかった。

 

     6

 

 手を合わせ終わると、日光は西の空にわずかな夕焼けを残すのみとなり、墓地は既に夕闇に覆われていた。

 急激な冷え込みに肩を竦め早く帰ろうと踵を返すと、その行く先に、人がいた。

 細長い人影が無音のままに、いさらの墓の前——つまり今、秀がいる場所——までやって来た。

 黒衣に身を包んだ、長身の女性だった。

 彼女は秀の顔を見て一瞬目を見開き、すぐに視線をそらした。

 申し訳のような外灯に照らされた白い顔を秀は知っている。

 智也子だ。

 彼女はこの八年の間で殺人犯の刑期を終え、よその土地で社会復帰を果たしたらしいとマサエに聞いた。

 過ぎてしまえば、八年なんて短かった。

 こんな短期間で人一人の命など[[rb:贖 > あがな]]えてしまえるものなのだろうか。ましてや洋々たる未来を生きることの出来た、罪無き命に対して。

 

 智也子の横を通り抜けざま、秀は低く囁いた。

 

「よくあんた、生きていられるよな」

 

 智也子の肩が、びくりと揺れた。

 

 無力な子供が持っている唯一の武器。

 ただ一言、言ってやりたかっただけだ。

 

 

 翌年の命日、大学生になった秀が九回目の墓参りに訪れると、墓誌に刻まれた名前が一つ増えていた。

 いさらの隣。

 一年前の今日の日付。

 智也子の名前だった。

 

               —完—

 


 
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